楽問~性格スキル~

昨日、保育環境セミナーにて藤森平司先生の講演を拝聴しました。

将来、大人になるにおいてもっとも幼児期に伸ばしたい力とは性格であるというお話がありました。確かに人生を振り返ってみても、いくら能力が高いからと幸せになるのではなくその人の性格が善いから皆に好かれ周りを仕合せにできます。

人は一人で何でもできるよりも、沢山の人たちとの御縁を活かして一緒にできる方が楽しいのですからどちらがより仕合せかはすぐにわかります。そのためには社會の中で助け合い笑い合う仲間づくりをするにも性格が大切な要素になります。

以前、成績よりも性格というアドバイスをいただきましたが改めて人間として周りを思いやれる力を伸ばしてあげることが何よりも幼児期に必要な力だと再認識することができました。

つい昨今の大人たちは、目先の能力ばかりを子どもに求めて身に着けさせようとしますが人を大切にしたり配慮したりやさしくできたりする方はあまり大事にされていません。しかし人間生きていたら、誰かを思いやれる人や真心の人、誠実な人、人の気持ちが分かる人の方が自らの生死の局面において何よりも大切な人であったと気付けます。

性格を磨き高めることは一生の学問ですから、孔子をはじめ古今東西の聖人たちすべてが目指したところです。

昨日の話の中で幼児期に身に着けるといい5つの性格スキル(ヘッグマン)について話がありました。それを紹介して今日のブログは終わります。

①粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
②好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
③明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的の力。
④思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性の力。
⑤感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定の力。

これらの力が高いならそこに人が「自立」していることはすぐに自明します。
人間として、助け合い共に生き残る力を育むことが保育の本質なのかもしれません。

引き続き日々、道の中にある新鮮な楽問を実践し続けていたいと思います。

悠久の樹禮

昨日、高尾山にて樹木研修を行いました。前回は座学で樹木の知識を事前に学びましたが今回は実地で山に入り樹木を見ながらの研修になりました。

高尾山はお店や人がとても多く、登山路も人だかりでまるで大都会のようでしたが人が少なく樹木を観察できるルートを選んでくださった御蔭でゆったりと樹木を観て学ぶことができました。

昨日はブナについての学びがありました。ブナは関東では標高800メートル以上の冷涼な場所にしか生育しません、しかしなぜ標高600メートルの高尾山に存在するかというテーマです。

実際に歩いてまわると樹齢300年以上のブナの木たちが高尾山には遺っていました。しかし最近のものはなくすべて300年くらいの大きなものばかりです。これは江戸時代が小氷河期であったことを証明するからということでした。今よりもずっと寒かったのでブナの樹が繁殖できたのです。今では温暖な気候の中で樹勢も弱り、このままでは高尾山からブナは消えてしまうそうです。

こうやって樹木は気候の変動に合わせて、自分たちの住処を拡大していきます。樹木からかつてこの場所はどんな気候だったのか、そしてその中でどのような順応してきたのかを知ることができます。

自然界というものは、変化に順応するものだけが生き残るようにできています。小さな環境の変化を察知し、変異を繰り返しつつ時代に合ったものが生き残るのです。気候が変われば気候に合わせて自分たちを変化しつつ多様化し、どの気候になったとしても誰かの種は残せるようにと変異を繰り返します。

つまり自然の樹木というものは「来たものを選ばずに受け容れて自分の方を変えるという戦略」に生きているということを学び直しました。より強いものを遺そうとするのは、自然の中で生き残る必要があるからです。

老子に、「柔弱の徳」があります。

これは(人間が生まれたときは柔わらかく弱々しい。 その人間が死ぬときは硬くなる。 すべて草や木も生まれたときは柔わらかで脆い。 それが死ぬときは枯れて堅くなる。 このように堅く強いものは死の仲間であり、 柔らかく弱いものは生の仲間である。)という意味で解釈されます。

昨日の樹木の観察から、私は自然の変化に最も強いものは自然の法理に敏感で鋭敏であるということではないかと直感しました。樹霊や霊力というものもそこに近づいていくことで実感できるのかもしれません。

つまり樹木は特に長生であればある種ほど、自然に精通しているのではないかと私には観えます。ここから如何に樹木の智慧を学ぶかが重要に思うのです。

かつての祖先たちは樹木が悠久に生きる樹禮に何を観ていたか、私たちよりも地球で長く変化を乗り越えてきた尊敬する大先輩である樹木の傍で、このまま学びを続けていきたいと思います。

昨日も貴重な学びがありました、有難うございました。

質を高める~成長の原点~

人は自分の価値観の中で正しいか正しくないかを分別します。しかしその分別に質はどのように関係しているのかまで考えることはなかなかありません。如何に質を高めるかという発想はプロフェッショナルの証拠でもあります。

本質的かどうかという議論があります。

これは物事を行うのに自分流や自分勝手に仕事をする人と、如何に質を高めようかと仕事をする人がいます。前者は、自分だけにしかわかりませんから世間からの評価を気にしていればある程度は済んできます。しかし後者は、品質はどうかと常に確認するために本質に近づくまで諦めません。つまり前者は誰かとの比較で平均から上とか下かとを基準に妥協ができても後者は一切の妥協ができません。

人は常にどの高みで物事に取り組むのかで成長が決まります。自分の品質が果たして本質本物であったか、本当に根本の問題を解決するものであったか、繰り返し内省し自分を成長させるのです。

成長が止まっている人というのは「質を高めよう」という気持ちがありません。やることをやっているかどうか、一般的にやれたかどうかが大事になります。これは今までの教育の刷り込みで評価されるレベルを知っているだけで、それでは質を高めることはできません。

質を高めるには、本質に徹底的にこだわる必要があります。そこには理念が必要です。理念に対してどこまで本気で取り組めたのか、一切の妥協なく真摯に向き合ってやり遂げたのか、そして改善をしたのかということです。

人は自分勝手にしているときが最も磨かれないのかもしれません。世間の評価に晒されたり真実を客観的にみて照会されたとき、はじめて自分の取り組んだことがどの程度の価値があったのかに気づくからです。

その基準を理念や本質にするのなら、自分の実力がはっきりと観えてくるのです。
だから本物は甘えがなく、真摯にもっとできるようになろうと絶えず努力します。

理念を行う仕事というのは、理念の高みに合わせてこそ理念の取り組みになります。自分への甘さから自分の高さに合わせてしまうと本末転倒することもあります。本当に理念に沿った一日であったか、初心を忘れていないか、本質的であったか、常に自問自答をし素直に正直に実践第一で取り組んでいきたいと思います。

関心という絆を結ぶ

自然界には絆というものが存在します。

それはつながりとも言い、何かと何かが常につながっているという関係のことです。物理的に一緒にいるだけではなく、意識的に一緒にいるというのもつながりです。集団でいることや家族でいることもそうですが、つながりを大事にしていくことで種を守っています。

そしてそのつながりとは関心とも言えます。如何に関心を維持しているかということです。関心とは日々に気にかけ日々に心配し、日々に思いやり、日々に祈るということです。

人は自分の関心にのみ関心がある人と、他人への関心を持つ自分に関心がある人がいます。前者は自己中心的で雑であり、後者は自他中心でありきめ細かいものです。自分中心であるということが雑なのは、つながりを感じる気持ちが欠けてしまっているからです。自他中心の人は常につながりを感じながら事物の関心を忘れないので真心が入り丁寧なのです。

関心の持ちようを絆に換えていく人たちが日々に結び合う人たちです。相手への思いやりは常に関心を持つ心を育て、絆を結ぶ実践を積み重ねることになります。

かつてマザーテレサが「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言いましたが、これは自分中心になることで愛が消失するということを言っています。他人の気持ちが分からなくなるのはそれだけ自分の関心にしか興味がないからです。自我を優先し続けていると孤独になるのは、絆や関心の中にある愛に気づけなくなっていくからです。

そんな時には、感謝の心や素直な心に立ち返ることで他人への大きな関心という愛に目覚め直すことが善いように思います。つながりがあるから人は救われ、つながりが消えるから人は救われないのです。一人ではないという実感の中にある豊かさは決してお金では補えないのです。

そして日々に人の心配をするのは関心を高めていくことです。

畢竟、関心とは自他一体の関心であり法則では鏡の法則とも言いますが自分のことを知ることがもっとも大切であり、その上で自分を高めて活かすことが何よりだからです。自他への関心、全体への関心を育めば自ずから自分のことを知り、自分の意志を強くしていけるからです。

これは老子の「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」につながります。つまり他人を知ることで自分の鏡にし、自分を知ることではじめて自分を他人の役に立てていけるということです。

常に自分の心を見つめて絆を結び、いつも謙虚さに気づいていきたいと思います。

自他地球一体~自他免疫~

私たちの体は自然の一部として存在しているものです。つい人間は考える頭がありますから自分がもっとも特別な存在だと認識してしまいます。これは体についてもいえることですが、体に変調があっても脳がそれを受け容れずに自分勝手な解釈をするように全体と一部が逆転してしまいます。理性と本能も同じです、本能の一部に理性があるとは思わないのです。

しかし本来、地球の一部として存在しているのが自分ですからありとあらゆる調和の中でバランスを維持しようとする全体の一端として存在しているのです。

天候や気候の影響を受けますし、周りの生き物たちとの循環の影響も受けています。それをいくら無視して脳の中の自分の世界だけに自分が存在していると思い込んでも現実はそんなことはできるはずがありません。

そして人間が自然治癒する仕組みもまた地球が調和を維持する仕組みと同じです。

それを身体の免疫で例えれば日頃守っているNK細胞がある程度は自力免疫で自分を守りますが、それでも守れない場合はT細胞といった他力免疫が現れて外部からその病原菌を取り除きます。

これは自然農を実践する中で気づいた智慧ですが、自然界の植物たちも同じく自らで守る自力免疫をそれを超えてやってくる虫たちなどの外敵には天敵が現れて助けてくださるのです。

つまり人間の体も自然と同じく、自分の免疫とそれを超えてバランスを崩すと天敵が訪れて調和を保つのです。ここからも自然界で起きている病気を調和する法と人間の体を調和する法が同じであることが分かります。

そもそも人間中心に考えていれば、自力免疫とか他力免疫とかではなく全部薬などの人間の創りだしたものしか信じなくなりますが自然の一部であるというように認識しているのならば自然の治癒を信じることができるはずです。

如何に自分が人間を優先しているか自然を優先しているかが、対処法に出てくるのです。根源的に治癒するというのは、人間の対処療法ではなく自然の根源治癒にしていく必要があるのです。

根源になるというのは、自他免疫を使うこと、人事を盡して天命を待つこと、自然治癒を信じて治癒を邪魔しないように健康健全を実践するということです。それは身体だけに限らず、心身を健康に保つということです。心を清らかに澄まし、明るく前向きに周囲を慮り、御蔭様や感謝を実感し、今此処に自分のいのちを役立てて働く喜びを味わって活かしていくように元気な生き方をしていくことのように思います。

ちょっと抽象的ですが、自然をお手本に自分の生き方を見直していくということです。地球の一部なのだから地球と一体になれるよう、自然体に近づいていきたいと思います。

体調~自然治癒力~

人間には免疫機能というものがあります。それは自然治癒力のことで、病気になれば自ずから本に直そうという力があるということです。産まれた時から、どこが健康であるかを本能が悟っています。その本能に従って様々な調和を促し常に混沌とした体調の中から日々の健康を維持しているということです。

この産まれつき持っているというものが健康であり自然であると思うのです。その健康は生まれつきの体質ということですが他人と比べて強い弱いはありますがそれがその人本来の健康の姿ともいえます。

そして後天的に健康を維持するというのは、周りの環境に対して自らが努力精進して調和をとっていくもののように思います。それは例えば、今の時代のように人工物や薬品ばかりが横行するようになれば自ずからが体には自然ではないものを摂取しますからそれによって免疫が順応しようとしますから本来の健康が惑い迷い基本が狂ってしまうかもしれません。そうならないように自分の本来の健康を維持するための努力精進を怠らないのが自然治癒を維持するということになるからです。

本来、自然治癒というのは調和のハタラキです。それは自然界の天敵の仕組みと全く同じです。増えすぎたものを如何に調和して、一定の量に保つかというのが全生命のバランス維持の方法です。

私たちの体は自然の一部ですから自然と同じメカニズムを持ちます。その天敵による駆除のハタラキこそが病気を撃退する仕組みなのです。科学でいえば自然免疫と獲得免疫という言い方をしますが、これは自然界では本来の自分の体を強くする抵抗力と他の生物の力を借りて抵抗する抵抗力です。自力と他力とも言ってもいいかもしれません。自力の治癒を出し切った後に他力の治癒が出てくるという具合です。

これも自然の法理の一つですから病気というものは全てこの仕組みで健康に直すということでしょう。自然に沿って自然に従い体もありますから、その体を助けてあげるのは自然に合わせていくということでしょう。

免疫を如何に高めていくのか、それは日々の健康の実践によるものです。健康的な生き方とは何か、それは自然に合わせる生き方です。体調のことを改めて学び直していきたいと思います。

真の志士

先日、千葉の館山でクラムアートをする福田康孝さんの指導のもと貝磨きを体験することができました。貝に文字を刻み、その貝を紙やすりで磨きピカピカにするのです。どれもはじめての経験で、とても新鮮で磨くことの仕合せを実感することができました。

この方は、17年間貝磨きのお仕事をされ1万人以上の子どもたちと一緒に貝磨きをされたそうです。貝と出会う素晴らしさを人々に伝えたいという願いと実践が実を結び、私も御蔭様で貝と出会うことができました。

人のご縁というものは、観えている人には観えていて心ひとつの感じ方によってその縁を活かすことができるように思えます。ご縁を活かすというのは、ご縁の感じ方ですからどれくらい自分の生き方が一期一会になっているかということが大切だということなのでしょう。

今回の体験から貝ということと磨くということを一円融合し、「磨くことで貝が光る、そして一緒に輝き続ける」という哲学のようなものを感じました。道中、朋友と歩む中でともに磨き合い光り続ける仲間が世界には沢山いるという実感、それだけで如何に仕合せなことかを感じるのです。

「真の志士とは自分の代のみの夢に生きるのではなく千年の夢に生きる」(藍杜静海)

自代では伝わらないほどの偉大な夢は、その代の人たちには簡単に分からなくっても、必ず何百年か後にその志を継承しそれを高めて遺していく人がいるものです。

歴史はもっとも私たちを磨く砥石です。その歴史が証明する磨き方をするのが真の志士だと実感しました。色々な方々との出会いに恵まれ、私自身も沢山の勇気をいただけます。

最後にこの方の出会いのキッカケになった貝の声をご紹介したいと思います。

『貝の声物語

ワタシはヒトリ、ポツンと海に産まれました。

命(あるじ)を守り通すことに一生のすべてを捧げてきました。

ある日、あるじはソラの海へ還っていきました。

ワタシは長い長い間、ヒトリ海の底を旅したあと

幸運にも浜辺にたどり着くことができました。

もし、アナタが新しいいのちになってくださるのなら、

ワタシのすべてをアナタに一途に。』

ご縁は海の広がりと深さの中で広がり沈みまた循環をはじめるようです。

ありがとうございました。

 

海の王~海人一体~

昨日、久しぶりにある方からフリーダイバーのジャックマイヨールのお話をお聴きしました。以前、映画グランブルーやガイアシンフォニーで拝見したことがありましたがご縁あった方からの直接のお話ははじめてでした。

私がジャックマイヨールの好きな言葉に下記があります。

「自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる」

これは人為的な知識よりも、自然界の智慧にゆだねた方がより偉大な力をお借りすることができるという意味ではないかと私は思います。西洋からの人為的な知恵は、原子力を創ったり、大量破壊兵器を創ったりします、しかし自然の持つ地震や噴火、雷や台風などの力に敵うことはありません。

水一つですら創れませんし、小さないのち一つも創れない人間が、自然と離れれば可能が次第に狭まっていくばかりなのです。大いなる自然に心身を預けていく中で得られる智慧こそ本物の智慧のように思います。いつしか自然への尊敬や畏敬、崇拝を怠り始めたところから人間は謙虚さを忘れ傲慢になってしまったのでしょう。

また具体的に、ジャックマイヨールは未来の人類は水陸両棲人間になれるという信念を持っていました。「イルカになりたい」それが彼の夢であり、彼の哲学であったといいます。そしてこんな言葉を遺しています。

「イルカは高度な“知性”を持ちながら、自然と完全に調和して生きている。その生き方から学ぶことに依って私達も、自然と調和する道を知ることができる。」

イルカと心が通じ合ったジャックマイヨールのイルカから学んだ生き方の要諦が言葉に詰まっているように思います。私に言わせれば、人間の方が自然に近づくのならば必ずあらゆる自然と調和し対話していくことができるということです。

自分たちの方が万物の霊長であるという傲慢な意識や、自分たちの知識が優れているという勘違いをそろそろ見直し、46億年もパートナーであった地球との和合する生き方に転換していく必要を感じています。

最後にこの言葉で締めくくります。

「ただサイズが大きいだけではない。存在として、知性として、大きい。生物の器官には無駄はない。ある器官が発達しているにはそれなりの理由がある。そして、クジラはとても大きな脳をしている。」

「では、クジラはあの大きな脳で何を考えているのか?物質的なことは何ひとつ考えなくていい。とすれば、あとは哲学的な瞑想しかないじゃないか」(クジラが見る夢 池田夏樹著 新潮社)

私たちが及びもしないクジラなどの海の王、そして巨樹などの木の王、あらゆるものを畏敬してこそ宇宙の心を感じられるのかもしれません。今一度、温故知新の真実をこの人生で成し遂げてみたいと決意しました。

ありがとうございます。

循環している実感

私たちは体験をすることで様々なことが細分化されていくものです。それはパソコンに溜まってくるメールのように次々に増えていくものです。そうやって増えて細分化したものが「分かれて」しまうともともとはじめに一つだったものが分からなくなっていくものです。

本来、二つ以上のものを合わせるというのは原点に回帰するということです。それは右か左か、善か悪か、あるかないかといった物質的な観点と観念で物事を判断するのではなく、思想のように「丸ごと」合わせて分けないところで理解するのに似ています。

そしてこの二つ以上のものを一円融合させようという意識があってはじめて平和が続くことのように思います。循環というものも、偏らないということであり、それは流れ続けていく中で一つのものにしていくから循ることができるのです。まるで川が大河になり海になり雲になり雨になりそしてまた川になるように、本来あったものは流されていく中で原点回帰していくのです。

しかしその流れを止めてしまうようなことをしてしまえばどうなるか、それは分かれたものを無理に処理しなければなりません。自然から離れれば離れるほどに分かれてしまいますからその分かれたものをまた分けて分解するとさらに悪循環を創出してしまいます。

例えば水の処理場のように、土や生き物たちの浄化力を活用せずコンクリートで固めた水道を用い、今のように洗剤や油を多用するものを流せば当然浄化が追い付きません。それを何重のフィルターや薬品で乗り切ってもその無理をした分のゴミが出てしまいます。そのゴミをまた分解するために別の処理場へと運ばれ・・・などと際限なく無理が続きます。

本来、一つに合わせるということはとても楽しいことです。朝晩が一日であるように、天と地が和合するように、音が歌を奏でるように一つになることをすべての生き物たちは喜び、いのちは仕合せを感じるのです。そしてそれが循環している実感なのです。

私たちは祖神から八百万の神々が平和を築いてきた民族の歴史を持っています。たくさんの神々が和して大和を体現してきました。それは分かれていても一つであるという考え方、英語ではワンネス、漢字では渾然一体というのかもしれません。

そういうものを如何に産出して発展発達を促していくか、そこに私たちの使命があるようにも思います。悠久の平和を祈り願う先祖たちが遺してくれた意志を受け継ぎ、正しいことよりも楽しいことを広めていきたいと思います。

いのちのヒビキ~生態系の共振共鳴~

生態系を深めていると、確かにそこに自然の理を感じます。見えるものから見えないものまですべての生態系はある一定のリズムによって生き死にしますが、そこには自然の響き合い(共振共鳴)の音を感じ取っているように思うのです。

虫が鳴くのも鳥が鳴くのも、また木々や稲、野菜らが風に舞い揺れ動くのもそこには確かに「ヒビキ」があります。ヒビキとは共振共鳴であると定義していますが、それは自然の中にある音に合わせていのちや心を響かせています。そして万物は象容した音のつながりの中のご縁にゆられ響き合います。

自然に沿っていのちを育むということが音にゆられ愉しむということです、人生を謳歌するということです。どうしても抽象的な言葉になってしまいますが、理屈ではなく生態系というものがそのまま共生の響き合いだからです。

生き物たちはすべてそのいのちの音ともいうべきものを聴いています。私たちは耳を言葉を聞きわけるように発達させてきましたが、言葉がなく言霊であった原始の時代は私たちはいのちの音を聴き分けていたのです。

それは心の音色とも言います。

人が共感したり受容したりすれば認め合う世界が産まれます。その世界の音というのは心の通わせ合いにより産まれる仕合せの世界です。人は心が満たされることで平和になります。自然界というのはその平和の音を聴いているのです。お互いが認め合い育ちあう、それが共振共鳴共生ですがそれを私は「ヒビキ」であると確信します。

人は人工的に人間都合で塗り固められた世界に居すぎると心が疲れていくものです。それを癒し、本来の地球の一部、宇宙と一体になった人間であることを自覚することでバランスを取るように思うのです。

温故知新の比率は常に3対2、地球の海と陸の比率も3対2です。その3対2というのは、いのちや心の世界に生きながら、この時代の現実の中に生きるというバランス(調和)です。バランスこそが永続発展する自然の理であるのはいのちを深めれば必ず出会う智慧であり法理です。

バランスが崩れるとは何か、それをちゃんと自覚している人は少ないように思います。それは例えば、太陽が微妙なバランスで燃え続けるように、地球が微妙なバランスで呼吸するように、常に前向きに傾くのです。前向きとは先ほどの3対2なのです、七転び八起きがバランス感覚ということです。生生発展、永続繁栄、つまり七回転じれば八(無限)ということです。これは少し楽観的あることの方がいいということに似ています。楽観と悲観も3対2で少し楽観が優っている方が仕合せで愉しいのです。

豊かさもまた、心が3で物質が2の方が愉しくなるのです。私たちが如何に楽観的に生きていくのが仕合せかは、生態系そのもののいのちを眺めれば観えてきます。

子ども第一主義の学びは、突然にいつも自然に私の心にシンクロニシティを呼び覚まします。お仕事と使命とはいえ、有難いご縁に深く感謝します。

いのちの「ヒビキ」の中にある真理法理を一円観に照らして自然の摂理を現代の技術の最先端に温故知新し救命救済の道具を発掘して人々へ還元していきたいと思います。