他力

人は思い通りになったことを良しとし思い通りにならないことを悪いと思うと感謝の気持ちが薄れていくものです。本来、思い通りになるということは自分の思っている世界の中で自分の思うとおりになっただけの話で目を見開いて大きく視野を広げれば思った以上のことが起きていることに気づくものです。

この思った以上のことが起きていると感じるチカラというのは、他力のチカラを観ることに似ています。他力本願という言葉も、思った通りになることを良しとすれば他人がなにかをしてくれるのを期待するように誤解されるのでしょうが思った以上のことが起きていると自覚するのなら本来の意味で理解できるようになると私は思います。

自分の周りでは、自然界が循環して已まないようにあらゆるものが御縁で循環しています。自分の一挙一動が与える影響は大きいもので、それが全体に大きな影響を与えています。自分の思った通りというのは、たまたま目に見えた状況がそうであって実際は目には観えないところではまったく別の真実が発生しているのです。

だからこそ全体を観る人は常に他力を観ることを忘れないようにするのです。そこから思っている以上のことがどのように起きてくるのかを注意深く観察するのです。よく泰然自若している人をみると、別に度胸が据わっているだけではなく自然に最終的にはどうなるのかを直感するのです。

それはただ全力を盡せばいいのではなく、もちろん人事を盡すことは大事なことですが自分が何を実践していれば最終的にはどのように他力が働くのかを知っているのです。

例えば自然農でいえば、相乗効果を発揮して見守り育てた作物が実をつけます。これは直接的に何かをするだけではなく、間接的に自分が行っている実践をも加味して全体で関わります。自分だけの力で育てられるはずがなく、そこには自分以外のチカラが働いてその作用で育つのです。

こういう見守りを感じるチカラというのは、他力を感じるチカラと同じです。信じるということも同じく、他力を引き出す大切な要諦になっているように思います。そうやって間接的なチカラを信じることを「運」とも言います。

この運を伸ばすことをどのようにするのかは、日々のその人の過ごし方や信じ方に懸っています。思った以上の日々を生きることは幸福に満ちています、引き続き子ども達の未来を信じて実践を大切に積み重ねていきたいと思います。

暮らしの再生

昨年より「暮らし」について考える機会が増えています。この暮らしとは何かといえば、私の定義では生き方のことで道のことです。どのような道を歩むのかが暮らしの本質であり、道があるから暮らしがあります。道なきところに暮らしはなく、どのような道を歩むかが暮らしの再生とも言うように思います。

昔は人々が歩いていくところに道ができました。山野にいけば、獣道というものがあります。自然農の畑にも、雑草の合間に小さな道ができています。そこを通っている動物たちが何度も何度も行き来するうちに次第に道ができてくるのです。今は道をアスファルトで固めてしまっていますから、通ろうが通るまいが道ができたままで存在していますがかつては通らない道はなくなっていったのです。

つまり何度も往来するからこそ道ができ、その道が絶えないのはそこに歩んだ暮らしがあったということです。

例えば今はあまり神社に参拝する機会が少なくなったように思います。古来から私たちの先祖は受けた恩徳を忘れずに感謝の心で謙虚に暮らしていました。そのことから神社への参道はその往来の中で真心が洗い清められ清々しく澄んだ空気が道に宿ります。

それをある時期から宗教だと分別され、本来の暮らしの中にあった神道も今では暮らしから引き離されたところで理解されていることも増えているように思います。古来のかんながらの道には、常に御縁を信じて御縁に活かされその天恩や徳恵、御蔭様を忘れずに暮らしてきた様子が随所に遺っています。

遺っているものを省みると、その時代時代に生きた人たちの生き様が道として顕れます。その道とは「暮らし」のことで、その暮らしが受け継がれてきたことで道は存続してきたとも言えます。

その道が変わってしまうということは、暮らしが変わってしまうということです。暮らしは生き方でもありますから、生き方が変われば生き様もまた変わります。日本人としての生き方、日本人としての生き様、世界は多様性を発揮する時代に入っていますから私たちの個性の大元である日本の真心がなくなれば世界で活躍できることが少なくなるかもしれません。

子ども達は今のような答えのない時代、さらに発展すれば近い将来にはそれぞれの持ち味を活かして世界に貢献していくことになるのでしょう。その時に如何に多様性を持つかは国家の存続と大いに関わっています。日本人が世界で活躍できるように私たちは暮らしを持つ必要があります。暮らしの再生とは、日本人らしくあることの再生でもあります。

引き続き子ども達のためにも暮らしを見つめ直し、道を歩んでいきたいと思います。

愛着

町家の修理を行っていく中で愛着ということを考える機会がありました。現在、一つ一つの古いものをリメイクし修理して価値を再定義し今の時代の暮らしに甦らせています。

業者に頼んでリフォームというものもありますが、自分自身の手で一つ一つリメイクするとその道具に愛着が湧いてくるのです。愛着を辞書で調べると『[名](スル)なれ親しんだものに深く心が引かれること。あいじゃく。「愛着がわく」「愛着を深める」「古いしきたりに愛着する」 』とあります。

慣れ親しむもの、これは馴染むとも似ていて次第に自分のカラダの一部になってくる感覚のことだろうと私は思います。何度も何度も使っているうちにその場数によってそれが自分と一体になった感覚を持つということです。

人は何度も何度も活用しそのものを大切にすることによって愛着が湧いてきます。この「愛着が湧く」というのは、泉から滾々と湧き出てくる水のように湧き上がってくる状態になるということです。

人の心というものや人の情というものは、慣れ親しみ馴染むたびにどこからか心情が豊かになっていくものです。豊かな心情を持つ人はみな、この愛情を注がれ愛情を感じ、愛情と接していくなかで育ってきたものです。

子ども達は愛情いっぱいの中で育てば自ずから愛着を持つようになります。しかしその愛着は、大切にすることや愛情を注ぐこと、そして丁寧に丹精を籠めてそのものと対話し接する中で生じてくるものです。

現在のように使い捨てが優先されていく世の中においては愛着はなかなか生じにくいかもしれません。永く使ったもの、ずっと一緒に活かし合ってきたもの、そして暮らしの中で伴に生きてきたものには魂が宿っています。滾々と湧き出る愛情は滾々と注ぎ込まれ滾々とまた愛情の輪を循環し湧きだすのです。

その魂を慈しむように味わい、その魂と触れるように接することが愛着を生じさせていくのでしょう。愛を注がれて愛を纏っている魂は、仕合わせそうな雰囲気を醸し出します。そしてその醸し出す雰囲気が人から可愛がられさらに愛が深まっていきます。愛着を持つ人はいつも愛の中に在って愛の循環を通してさらに仕合わせに生きていけるのです。

自分自身がどれだけ慣れ親しみ馴染み愛着を持つのか、それは暮らしの再生と深く関わっているように私は思います。引き続き、将来の子ども達が深くあたたかい愛着をもって仕合わせに育っていけるように私自身の実践を深めていきたいと思います。

お祭りの真価

昨日、地元の神社の宮司からお話をお聴きする機会がありました。現在、過疎化や高齢化が進み神社での活動を維持することが難しくなってきています。かつては氏子という神社のある地域で暮らしていた人々が地域の発展に貢献し、祭祀を神職の人々ともに執り行ってきました。

例えばお祭りなども祭祀の一つで、日本では古来よりお祭りを通して地域の人々の心の穢れを祓い清め、仲睦まじく暮らしていくことを実践していたとも言えます。これは海外でいうイベントではなく、日本伝統的に古来より伝承した神事です。

このイベントというものは、主催者がいて新しく始めるものであり、それに対し祭りは昔からの風習であったり何かを祀るものがある際に使われる言葉であるといいます。なぜ今はイベントになってしまうのか、それは経済効果を狙って企画者がイベントサービスを通して提供者と受給者が分かれてしまうところに由ります。しかしお祭りは本来地域の人々と一緒一体になって行われるものであり、そこに提供者と受給者が分かれません。

つまりは皆が主体的に自発的に参加するからこそお祭りになるのであり、そのお祭りを通して人間関係を円満に保ち、先祖たちや祖霊への感謝の心を取り戻し己に負けないようにみんなで精進してきた実践でもあります。

今では神社でのお祭りも宗教だとされることもあり、宗教の自由を名目にお祭りを廃止させたり参加を禁じたりする人もいるとのことです。

昨日、宮司の言葉でとても印象的だったのが、「地域の神社の荒廃こそが、その地域の荒廃そのものになる。祭りがなくなれば地域がなくなる」と仰っていたことです。地域の祭りがあればコミュニティが発生し犯罪率も下がっていくという統計があります。祭りが地域を繋ぎ、祭りが助け合いの文化を醸成するのです。

今年は祭りを深めていますが、祭りの持つ本来の意味を考え直してみたいと思います。古来から私たちの先祖は祭祀を通して謙虚であること、素直であることを優先していこうと皆で助け合って暮らしを実現してきました。

暮らしが消失してきている今では、次第に地域での祭りも失われてきています。イベントは長続きせずその場限りで終わってしまいますが、人々の心の中にある感謝の心が祭りを継承し伝承させていきます。

もちろん地球温暖化とか、世界経済の悪化とか世界に目を向けることも大切ですがその足元にある地域のことを考えずに世界を語ってもそれは本質的に改善改革をしているわけではありません。

地域の文化、町並み風景などから切り離され繋がりや絆がなくなると人々は生き甲斐を失い急速に衰えていくといいます。今の日本がどこか元気がなくなり、挑戦する気風が衰退するのは地域が弱っているからではないかと私は感じました。

暮らしの再生は地域の再生でもあります。

目に見えない価値が分からなくなってきている今の時代、損得勘定では測ることができない徳の価値を再定義し、目に見えない価値を可視化していくことは私たちが古来から安心し勇気づけられた付加価値に気づき直すことです。

引き続き、子ども達のためにも何を伝承していくのか真摯に向き合い見つめていこうと思います。

 

 

省みること歩むこと

人は振り返ることで歩みを進めていく生き物とも言えます。この時の振り返るとは、単に再び思い出すという意味ではなく「省みる」ということです。日々というのは大きな変化の中で過ぎ去っていきます。その情報量は自分が思っている以上に膨大なものが入ってきており、その情報量を処理することも難しい時代になっているとも言えます。

しかしそのまま情報を処理しないままでいると心が忙しくなり、目の前のことしか見えなくなってしまいます。そうなってしまえば自分が何のためにそれを行うのかや、何の意味があって今こうしているのかなどの価値も感じなくなってしまうものです。また周りの人たちとの御縁や、自分の影響力なども気にならなくなってしまいます。

そういう時こそ、自分のやったことを一度省みることが何よりも重要だと思うのです。そうやって省みることではじめて、本当はどうしたかったのか、本来はどうありたかったか、また自分自身の改善と修養につとめようと思い直すのです。

江戸時代の儒者、伊藤東涯に「君子はおのれを省みる。人を毀(そし)る暇あらんや。」があります。(立派な人間になろうとする人はまず己自身を省みるものです。他人の文句や批評などをしている暇などはあるはずもない)といいます。

また論語にも「曾子曰わく、吾(われ)日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(とも)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」があります。

これは味わい深い言葉で、いつも内省をするときに自分自身はどうであったかと思うと未熟な自分が恥ずかしくなり改善しようと思い直すのです。これらの省みるということは、停滞していた自分自身を前に進めることであり、現実の今をあるがままに受け止め自分自身がどう変わっていこうかと感じることでもあります。

人は自分が変わることで、流れに身をゆだねていくことができます。それはまるで清流の中のたまりにつかまってしまっている落ち葉を水が押し流すように、朝靄の真っ白な景色が風によって吹き流されていくように、ふたたび歩みがはじまり時が進んでいきます。

忙しい時だからこそ敢えて省みることや、大変な時だからこそ内省を怠らないことこそが己に負けず己を活かす克己の工夫になっているように私は思います。

引き続き内省することの価値や大切さを、実践を通して周りを感化できるように日々に怠らず取り組んでいきたいと思います。

 

 

永遠の物語~魂の綴り~

加速度的にスピードが増していく時代、それは何でも捨てていく時代だとも言えます。一体何を捨てているのか、それは物語を捨てていくということです。日々の暮らしも永い目で観てどのように暮らしていくかを省みるのではなく、刹那的な目でその場しのぎでこの一瞬さえ乗り切ろうとすることを繰り返しているようにも思います。

本来、今立っている場所をよく観直すと今まで久しく紡いでくださった時間の重みを感じるものですがそれをも感じることがないくらい目の前のことに追われていく日々を人々は送ります。

この目の前に追われていく忙しい日々になったのはなぜか、今の心の問題や社会問題もここに集約されている気がします。

昨日、クルーのみんなと一緒に福岡県八女市の福島地区を見学する機会がありました。その中でかつてのものをかつてのままに修復し修繕しながら町屋を再生していく姿を観ました。

簡単に新しいものに換えてしまうのは歴史がなくなってしまうからと、本物のままに遺そうと工夫を凝らしてパッチワークのように古材を活かしながら修理をしていきます。これは単に古いものを守ろうとしているのではなく、物語を守ろうとしているのだと感じます。全ての”もの”には記憶があります。それは一緒に暮らしていく中で、関係性や御縁の中で同じ時を共にした大切な思い出の存在だとも言えます。

だからこそその物は単なるモノではなく、その物には掛け替えのない一期一会の物語があります。物語があるということは無機質の存在であってもいのちが宿っているとも言えます。例えば何百年も前からある柱に子ども達がせいくらべをした痕跡があったり、屋根裏に隠した落書きがあったり、道具一つにはその時代を共に生きた人たちの魂の痕跡があります。その痕跡と共にあるものは、その痕跡の御縁に今も結ばれているとも言えます。

そうやって愛し愛されたものの思い出は時代を超えて今に伝承されていきます。そのものの物語を新しくその物語の続きを綴るのが私たちの存在そのものでもあります。

昨日の振り返りで特に印象深かったのが、今の時代ではもう素材が手に入らず修理できないまま壊れているものがあるという話です。それをどうするのですかとお聴きしたら、「材料がないからこのままにする、後は来世の楽しみにとっておく」と仰っていたことです。

今世でそのものを修理できなくても、来世生まれ変わったら修理してあげたいと願う心。思い出を大切にして何度もその思い出と触れていきたいと、いつまでも感じる心の中に魂の邂逅と勿体なく生きている人間と先祖たちの生き様が観えてきます。

来世もあるからこそいい加減な関わりは持つまい、そして捨てるのではなく大切に物語を紡いで綴りたいと感じるのです。この魂の綴りこそ時を超越して悠久の中でご縁に活かされる豊かで仕合わせな暮らし方の証明だと私は思います。

勿体ないという言葉、おもてなしという言葉、真心という言葉、それは全ての中心に「物語」があるということです。物語がないものがないからこそ、どんな物語を温故知新していくかは自分の生き方次第です。

悠久の時の流れの中にある今の御恩に報いられるよう、また来世の子ども達のためにも全ての機縁から学び直して紡ぎ直して永遠の物語を語り続けていきたいと思います。

人間の仕合せ~仲間の存在~

人生には、何をするかという考え方と誰とやるかという考え方があります。これは旅も同じでどこへ行くかではなく誰と行くかというものがあります。面白い旅には、もちろん目指したい旅路の方向性というものがあります。みんながどこに行きたいかは理想としている世界があり、自分がもっとも味わいたい場所へ向かって歩みを進めていきます。

しかし時として人間は何か成功を手に入れて結果を出そうとするあまり、行き先ばかりを求めるあまり周りを省みず一人になり孤独になることもあります。誰といくかを思えば自ずから旅の優先順位がプロセスに変わり仲間の存在が何よりも大切であることに気づけるようになるのです。

一生懸命に頑張って手に入れることだけが人生の歓びではなく、現在、いただいている御縁を噛み締めて仲間の存在に気づくこと、その仲間と一緒に生きて暮らしていく歓びに気づくことが人生の醍醐味のように思います。

小林正観さんに「もうひとつの幸せ論」があります。ここには『「人生の目的」とはと書かれ「思い」を持たず、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)こと。「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」を生活の中で実践し、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる(=天国度100パーセント)」ことになり、「喜ばれる存在」になる。……これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです。』と紹介されます。

とても印象深く共感するのは、人生の目的の中に「よき仲間に囲まれることが最も大切である」と書かれていることです。そして人生の目的を具体的に仏陀と弟子との話でその意味が紹介されています。

『お釈迦さまの第一の尊者と言われた、アーナンダはあるときお釈迦さまにこう言ったそうです。

「お師匠さま、今日、私はあることで突然、頭の中に閃(ひらめ)きが生じました。私たちは《聖なる道》というのを追い求めているわけですが、もしかしたら、よき友を得るということは《聖なる道》の半ばを手に入れたと言っていいのではないでしょうか」

《聖なる道》というのは、自分の中に悩み、苦しみ、煩悩がなくて、いつも幸せで楽しくて執着がない状態ですね。

すると釈迦は「アーナンダよ、“良き友”を得られたら、その《聖なる道》の半ばを手に入れたということではない」と言ったんです。

釈迦は言葉を続けて「アーナンダよ、良き友を得ることは《聖なる道》の半ばではなく《聖なる道》のすべてを手に入れることである」。

同じ価値観をもち、同じ方向に向っている人たちを自分の友人にすることが、実は人生のすべてなんです。』(弘園社)

善き仲間に巡り会いその仲間と一緒に人生を歩んで往くということ。そのこと自体が聖なる道そのものであり、それが人生の幸せを手に入れたことなんだということ。

私も色々と半生を振り返ってみて、どこから歩みが変わったか、そしてなぜ歩みが変わってきたのか、今の自分の選択があったのかを鑑みればこの「仲間に巡り会う」ことが全てであったと思えます。決して人々が願っているような成功や最初に思ったような成功は手に入らず、その通りの結果も手に入りませんでしたが、御蔭様で今が豊かであること、そしてよき友を得ることができたことの仕合わせに何よりも有難い思いがします。

仲が良いというのは、仲間が良いということです。この仲間が良いから仲が良くなるのであり、この人と人の中にあってその人たちが一緒に和気藹々と日々に暮らしていくことが何よりも居心地がよくそこには必ず人生の幸せがあります。つまり人間の仕合せとはこの「仲間に巡り会うかどうかが全て」であると感じるのです。

どこへ行くかではなく、誰といくか、もしも人生を2分割して折り返し地点を過ぎたならば頑張るのをやめて降りていく生き方をしてみるといいかもしれません。今の時代は競争や比較の刷り込みで、頑張り過ぎて苦しんでいる人たちがたくさんいます。頑張るのをやめて周りを大切に仲間と暮らしていくのならそこには今までに観えなかった幸せがあります。きっとないものねだりではなく、あるものの尊さに気づいてその刷り込みが取り払われ仲間が次第に集まってくると私は思います。

人間の道を示した仏陀の生き様に安心感を覚えます。そしてそのように生きた小林正観さんのメッセージが有難いと感じます。引き続き、子ども達に遺せる生き方を自らの道の実践で精進していきたいと思います。

内的生産性

先日の理念研修の中で「内的生産性」という話をお聴きすることがありました。生産性という言葉は、産み出す力のことで如何に生産性を高めるかということが組織の課題だとも言えます。一人ひとりの生産性が高まれば高まるほどに組織は生長し、生産性を上げていくことができるからです。

この内的生産性というものは、一般的には「意識」ともいいますが動機やモチベーションのようにも使われます。それに対し外的生産性というものは「行動」であるとし、如何に実践により成果を出していくかというものです。

この意識と行動というものは、一人の中で完結する場合もありますが組織においては役割分担をすることでそれが相補作用を行うこともあるのです。

例えば、ある組織のリーダーがポジティブ思考を持っている人であったとします。するとそのリーダーの意識が全体の組織に与える影響は大きく、失敗を怖がらず成長を愉しみ、また悪いことも善いことへと転換しますからどんな出来事もチャンスに換えて挑戦していくことができるものです。この反対にネガティブ思考を持っている人だとすると、その影響は先ほどのことと逆に事が起こってきます。

先日、ある映像の中で拝見したのはある御店の店長をした方が重度のハンディキャップを持った方でしたがその方の笑顔で周りのみんなが元気になるという御話でした。その方は具体的に身体を動かし外的生産性を産み出せないように見えましたがその人の存在自体が産み出す内的生産性によって周りが動機づけられ相乗効果を産み出しているのです。

この「笑顔」一つが与える影響を観るとき、笑顔が持っている内的生産性の価値に気づきます。自分の意識が与える影響を知る人は、周りを活かし自分を活かすことができる人です。

このことからもわかる様に一人ひとりの意識というものは何よりも重要であり、自分くらいという意識が全体に与える影響は大きいのです。自分勝手に我儘に自分の保身ばかりに視野狭窄になっているとその意識が周りを辛く苦しいものにしてしまいます。貢献というのは、自己内省による克己の実践をすることではじめて共生の価値に気づくものです。だからこそそれぞれ一人ひとりが自分の意識に責任を持つことで生産性というものは確実に高まるのです。

自分が何もできないからやらないのではなく、自分のできることで何でも貢献しようとするその意識、たとえできなくても少しでも力になりたいと発奮し協力して御互いに必要とし助け合い見守り合うからこそそこに確かな行動が生まれ本当の生産性が発揮されていくのでしょう。

だからこそ組織のリーダーは、そう思えるような組織にしていく必要があります。愛し愛し合う組織というものは、御互いを大事に思いやり御互いに大事にしたいと思える居心地の善い場を創っています。

引き続き、内的生産性の価値を深めていきたいと思います。

 

火の用心~心のぬくもり~

現在、炭を使って暮らしの実践に取り組んで一年になりますが毎朝と毎晩の火入れは心安らぐ温かな時間になっています。火鉢に炭を入れ、鉄瓶で御湯を沸かしむかしからの手法で育てられたむかし茶をのむ。心と言うのは、考える以上に感覚が先になりますから毎日のこのほっとする時間にとても暮らしが充実していくのを感じています。

現在はガスを中心に火は用いられますが、ガスの火と炭の火はまったく異なるものです。人はみんな火をひとくくりにして「火」といいますが、火は扱う人や道具によってまったく異なるカタチをしているのです。

例えば、ガスの火はボウボウと一方的に強い火で人工的につくり上げています。火力もいきなり大きな強い力で素材に火をつけていきます。しかし炭の火はじっくりとゆっくりと周りから弱い火で自然につくりあげていきます。呼吸をするように少しずつ火は強くなり全体に浸透するように火をつけていきます。

これは滝つぼに落ちる巨大な水と、せせらぎに流れる水との異なりと同じようなものです。人はそれをただ水と呼びますが、それは水でも似て非なる存在なのです。台風と微風も同じものではありません。

そしてこの炭を使って行う火は、常に心を遣います。最近は聞かなくなりましたが、昔は夜回りといって拍子木の音と一緒に「火の用心」といいながら地域で歩いてまわったことがあります。

「火の用心」は「火は心を用いる」と書きます。火を危険視して危ない存在として遠ざけるのではなく、火を用いるときは常に心も一緒に用いるものだという意味であったと私は思います。

炭火の暮らしをはじめてみると、炭と火のもつあたたかさを感じます。このあたたかさは「心のぬくもり」のことです。炭と火を使い、人をもてなすというのは心を用いて行う実践の一つです。

聴福庵が囲炉裏にこだわるのは、囲炉裏という場に人が集まるためであり炭にこだわるのは循環していく日本人の生き方を顕すためであり、火にこだわるのは心を用いて謙虚であり続けるためなのです。

火は自然物そのものであり、私たち人類の最大のパートナーです。

引き続き、火の用心の実践を深めていきたいと思います。

実践の意味

昨日、永い間お会いしていなかった方とお会いすることができました。もう16年ほど前にご一緒してから、何度かご連絡したのですがすれ違いようやくお会いすることが出来ました。

ずっと永い間、お会いしていなかったものの会ってみるとすぐに懐かしく心が温まる有り難いお時間をいただくことができました。あの頃には分からなかったと、あの頃にはこんなに近くて同じ方向に向かって御互いに一生懸命であったことなど気づきませんでした。

お会いしてみると、子どものためにどれだけ深めてきたのか、また社会のためにとどれだけ盡してきたのか、どれだけ実践を積み重ねたのかが全身全霊の感覚で伝わってきて有り難く嬉しい気持ちに包まれました。

ご縁はとても不思議で、立場がどうであっても志が同じくしている人との出会いは本当に仕合せです。論語に、「遠方より朋来る・・」がありますが御互いに実践していることを学び合い語り合えれば瞬時に仲間であることを思います。改めて、学問の醍醐味に感謝します。

昨日印象深かった話に、レッジョエミリアの保育の話です。これを現在は、レッジョ・アプローチというが、実際はレッジョ・インスパイアであるということ。つまり、イタリアを真似ても意味がなく自分で実践してものにしていかなければならないということです。

自然農を実践していく中で、私も試行錯誤して取り組んでいますが真似しようとすればするほどに真似できず、何回やっても同じようにはなりません。その時、自然農の川口由一先生にどうしたらいいのかと尋ねると「田に独りで立ちなさい」と言われたことがあります。

その時から私は「田に独りで立つ」と覚悟し、自分で実践して咀嚼し自分で味わい自分でものにすると決心して今でも取り組んでいます。教科書があるのではなく、誰かが教えてくれるのではない。自分で学び自分で感じ取るものが本来の姿なのです。そのために教えてくれる先生は自然、自然から学び直し自分の中にある知識を削除していく作業をしていくのです。

昨日のお会いした方が「やるからこそ課題が観える、やるからこそ本では得られないことができる。そういう世界で生きている、臨床とも言う。子どもと向き合うのが仕事であれば、子どもに向き合ってみないとわからない。実践の意味はそこではないか。」と仰っていました。

人はやりもしないのに分かるはずがありません、それは知識や頭で分かったものは所詮分別された単なる切り取られた部分であって全体を掴んだわけではありません。コツを掴むこともなく、頭で知っただけでは焦りばかりつのって実際には現実がカタチになりません。

だからこそ分かった気にならないでいるには「実践する」しかないのです。実践というものは知識とは違って「積み重なる」ものです。つまりは集積していきます。ある程度、実践が集積すればその時からはそれが現実の世界で活用できる智慧に変化します。

知識を智慧に昇華するには、場数しかなくトライアンドエラー、そしてまたフィードバックという回数を徹底するしかありません。量がある一定の量を超えるまでやるということですが、質はそのあと自ずから転換されていくように私は思います。

どんなに大変であっても実践を怠らない理由はそこに在るのです。本来の力とは継続のこと、継続とは自分に打ち克つこと。そういう実践をするもののみが、現実の世界で真実を継承し次世代へ伝承していけると私は信じています。

改めて始まった御縁から、色々とまた御役に立てるように関わっていきたいと思います。御縁は本当に何度も何度も容を変えて、機会を得ては顕れますから感謝の心で引き続き精進していきたいと思います。