真贋の工夫

園を廻って、研修などを行っていると多くの課題に出会う。
最初やろうと決定したことでも、時間が経過するとその実践者が持つ決意の大小が次第に分かってくる。

モノゴトの判断は経過を視ていけばその量や密度などからどれだけの心意と覚悟があったのかと分かってくる。

何でもスタートするときがモチベーションの最高で、そのままにしていたら下がり続けるのが人間の機微だし特徴なのであろうと思う。

しかし、何でも取り組むに於いてすぐに時間が経過したぐらいで簡単に心が向く方向が変わってしまうものであればそのものの素材が持つ本来の良さも味わいも感じる間もないまますぐに目が他の目新しい方法に向かってしまうのだろう。

特に目に見えにくい保育や、情報などはよほど自分の中で咀嚼して噛み締めて味わっていく気がなければすぐにその本質や真理などを忘れて軽く考えてしまい世間の流行などに囚われて心意を分かりやすい方へと持っていかれてしまう。

人間はカタチがあるものを信じたがる。それはある意味で当然だと思う。人間はカタチがないものを信じるというときには、その人の心の中の信じ続けるということが問われるから無形のものであるが故にシンドイのだろう。しかしそのうちにカタチがあるものが本物でそうでないものが贋物だというとそれは大きな問題になると私は思う。

佐藤一斎の「言志四録」にある

「視るに目を以てすれば則ち暗く、視るに心を以てすれば明なり。聴くに耳を以てすれば則ち惑い、聴くに心を以てすれば則ち聡なり、言動も亦同一理なり。」

事象を目で視ているだけでは真相はわからない。心で視ると実相が明らかになる。また耳で聞くだけでは真相ははっきりしない。心で聴くとはっきりしてくる。言動も同じような天地自然の理がある。という意味である。

また「大学」にある。

「心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず」

心が穏やかで静かに落ち着いていなければ、視ても見えないし、聴いても聞こえてはいない、そして食べてもその本当の味も分からないという意味だ。

同じものを視たって一流や本物は、必ずその中にある本質を観察し見抜きそこからモノゴトのあるべきようを捉えて語る。

古典にあるそれぞれの自らの「道」を真摯に歩んだ先達の遺訓は私達のような子孫に対し「常に真っ直ぐに本質を歩みなさい」と問いかけ語りかけてくる。

世間や巷では、そんなキレイごとは今の時代にあわないと仰る方もいるがモノの道理や天の理に畏怖の念なき歩みは必ず大いなる意志によって砕かれると私は思う。

歴史を学べば、常に万物は変化流転を繰り返し、変化の中にあって変化に気づかないのが人の常のように思う。だからこそ、常にその中にある普遍に気づき自らの軸を保つことは人生に於いては最も尊いことだと思う。

そして、道理そのものが商売にならないとは私は思わないし言動がキレイごとだからと教育にならないとは思わない。そこに確固たる信念と天地自然の理に照らした「創意工夫」がそのものの本質と思えるからだ。

今起きているほとんどの欲からくる経済の考え方は、大人の持っている目先の生活を満たしても、子どもの今を満たすものではない。

そして、子どものためにとやっていても子どもたちが本当にそれをどう受け取るのかを議論されていないし、受け取るような仕組みにもなっていない。

子孫への推譲の精神とは、今のことにだけ囚われて齷齪することではなく将来の子孫の発展と繁栄のために自分を犠牲にしても譲り遺していくことが螺旋的成長の真理ではないのかと私は思う。

大人として、本当に子どものことを思って何を遺していくことができるのかを日々考え一歩一歩を踏みしめながら次世代のための荒地開墾を目指していきたい。