いのちを磨く

人は頭で考えるときと心で感じるときとはその自覚しているものが異なるものです。頭で考えるときは、知識といって識を学ぶことができます。しかし心で感じるときは意味を学ぶことができるのです。この両方がバランスよく学べるとき、はじめて人間は自分というものの存在を自覚できるように思います。

頭は、色々なことを計算し組み立て具体的なものをイメージする力を持っています。今のコンピューターでできることを観察すると、それは脳が行っていることが科学によって実現させたものです。つまり脳は、目に見える形で様々なものを仮想空間の中でイメージしてそれを実現させようとするのです。

それに対して心は、生きる智慧のようなものでいのちを味わう力を持っています。歴史や伝統、文化のように時代を超えてその意味を伝え続けているものです。時間をかけて意味を紡いでいくのが心であり、心は常に意味づけをし続けて体験したことを味わおうとするのです。

一般的には頭は身体の脳の部分であり、心はなんとなく胸のところにあるように私たちは思い込んでいるものです。しかし実際には、万物を直観し味わう本体があってそれに具体的な機能として脳やその他の機能が存在しているのです。

人間だけでなくすべての生き物を観察すれば、その生きものが脳がなくてもそのいのちを充分に味わっていることがわかります。お腹も空けば眠くもなり、そして様々な感情を持っているのです。その純粋な姿はまさに自然そのものであり、心の本体を現しています。

心を知るというのは、自分自身の本体を知るということ。いわばそれは自分の意味を知るということです。その意味はではどのようにしてわかっていくのか、それは知識を使って知る方法もありますがそれでもすべて知ることはできません。私たちが知ることができるのは、意味を味わい意味を感じ切ったときにその意味が現れ知ることができるのです。これは知識ではなく、まさに智慧や知恵と呼ばれるもの。天の恵みを知り、歳月にとってその意味を創造していくものだと私は思います。

だからこそ知ることよりも感じること、目で分析することよりも耳で聴くこと、さらには心で味わうことを優先すると智慧や知恵を学ぶことができるように思います。

現代は、目に見えるものばかりを信じ、脳が考えたことばかりをみんなで過剰に付け合わしていく時代になっています。自分というものを見失わないように、自分という本体、自分の本心を大切に見守り子どもたちが安心して意味を紡いでいけるようにいのちを磨いていきたいと思います。

子どもの智慧~子縁伝承~

すべての生き物には、元来備わっている伝承の智慧というものがあります。これは今の生き物が種になり、次の時代にそれまでの文化が伝承されていくということです。私たちが生まれながらに、先祖の様々な体験を内在して継承し誕生していくように植物や昆虫、バクテリアに至るまでいのちは伝承を続けています。現在は遺伝子のことが解明され、明らかに遺伝子の記憶の中に過去の体験がインプットされることがわかってきています。

これらの記憶というものは、私たちは現在は文字や映像を使って遺していきますが過去には口伝という形で文字ではないもので伝承してきました。口伝は、その人の体内や生き方に記憶を宿し、それを口伝えにまたその生き方を継ぐ人物たちに伝承していく知恵です。

実際に、何千年前の神話のような歴史を口伝で伝承している民族もまだ残っているといいます。そして「場」での儀式を通して伝承し続ける信仰などもあります。

私たちは記憶の中で大切なこと、忘れてはならないことはすべて次世代の種に伝承する仕組みを持っているからここまで生き残ってきたとも言えます。先人の伝承の智慧はまさに現代科学の知識をすべて凌駕するほどの宝庫です。

しかし現代では、この宝庫の価値よりも目先の可視化された物理的な科学ばかりに頼り本来の目には見えない智慧のことを信用しなくなってきました。先人の智慧や伝承よりも、教科書に書かれているもの、科学で証明できるもの以外を信じなくなってきました。

短期的に見れば確かにすぐに解決することはそれらの知識で補えます。しかし長期的な問題はすべて智慧がなければ根本的な対応や解決をしていくことができません。先人たちは人類の子孫のことを案じ、智慧を譲るためにたくさんの犠牲を払ってきてくださいました。あらゆる災害に生き残る方法、あらゆる人災を未然に防ぐ方法、あらゆるいのちの生き残る術を記憶の中に留めおくように、それぞれに役割を与え、持ち場を守らせ、私たちの肉体や精神にその初心のようなものを宿していきました。

それを生まれながらに伝承されている私たちの智慧は、幼児期の子どもたちの感覚や感性、天与の徳性の中に見出していくことができます。

私たちが子どもから学び直す必要があるのは、その智慧を学び直す必要があるからです。子どもの智慧はまさに人類を救う鍵ですし、未来の希望そのものです。子どもたちがどんな時代でも次代の種の芽をもって生まれてきますから私たちはそれを手伝い見守っていくことでその智慧が育つのを助けていくことができます。

智慧の学問は、この幼い子どもたちから学び直すことです。

引き続き、子縁が結ばれ人類が新しい社會を創造していけるように見守る仕組みを伝道していきたいと思います。

子縁と故郷

子縁というものは、私たち人間社会においては何よりも重要なものです。子どもたちが未来を創造していくのだから私たちは子どもたちに今の知識を詰め込みそれをやらせることは未来を過去にしていくことになってしまいます。

そうではなく今の子どもたちを尊重しどう見守るかに大人たちの子縁における姿勢が問われます。過去から未来へ向かうのは、時間だけではありません。私たちの世代も自分たちが死に次の代が生まれてくるように、過去から未来へといのちは引き継がれていきます。

その「引き継ぎ」をどうするかは、とても大切なことでいつまでも自分たちのやり方ばかりを押し付けるのではなく次の代が挑戦し冒険できるように見守っていくことが引き継ぎをしていくうえでとても大切ではないかと私は思います。

どうしても人間は、自分のことを中心に考えて自分の視野に囚われてしまいます。それを少し離れて、人類は喜ぶか、地球は喜ぶか、先祖が喜ぶか、子孫が喜ぶかと視野を広げていくことで物事の捉え方を変えていけるように思います。

そうやって離れてものを見てみたら、子どもたちは生まれながらに次の時代の準備をしてきているのがわかります。私たちの世代が、今の時代に適応していくように子どもたちもまた次の時代に適応していくのです。植物であっても次の時代に適応する種になっていきます。

私たちの世代は一つの種ですから、種ができること、種としてやるべきことは一つです。子どもたちはその種を引き継がれ芽を出し花となり実をつけまた種になります。子縁というのは、子種でもあるのです。

子どもが生まれながらにもっている可能性、誰が教え込まなくても生まれつきにもっている伝承、そういうものを見守るところに保育の醍醐味と深さがあります。そしてこの時の保育とは、人類の引継ぎを示すものです。

子どもは希望であり可能性そのものです。子どもたちがどのように未来を創造していくかを子どもの姿を学び直していくとワクワクしてきます。その子どもたちが創ろうとする社會の手助けをしていくのが私たち大人の本当の役割だったはずです。

人類の故郷は子どもです。

子どもから学び、未来を創造するための仕組みを社業を通して発明したいと思います。

ナポレオンのエール

以前、スーパー公務員をモデルにしたドラマ「ナポレオンの村」というものを見たことがあります。これは限界集落をある公務員と村人たちで甦らせて活気を取り戻していくというドラマです。

もともと私たちは都市に住み、地方のこととは切り離して盲目に仕事に専念していますが実際は日本はいたるところで少子高齢化が進み、過疎が進み、空き家が増え、地域は手入れされずに荒廃を続けています。これは決して都市か地方かの問題ではなく、日本の近い未来を予想していくものです。

日本の政府も少子高齢化に対して様々な手を打ちますがそれで効果はほとんど出ておらず、このままでは限界集落で起きている問題がじわじわと真綿に浸み込むように国家全体に影響を与えるように思います。

この影響は国家理念に由るものであるのは間違いありません。これはまちづくりも村おこしも同じです。そこにいる一人一人が理念を策定し、その理念に対してできることをそれぞれが本気で取り組むことではじめてその理想は実現していきます。これは決して青臭いことではなく、本当のことです。これは会社経営であっても学校経営であっても、もしくは小さなサークルのような集まりであっても同様にみんなが主体的に目的に対して協働していかなければ決して理想を実現していくことができないからです。

何でも人は、やりたいことや目的から入れば主体性は発揮されていきます。それをやりたくないことをやっていたり、やらされていたりするのは本気になることを忘れてしまっているからです。

本気にさえなっていれば主体性は出ています、つまり熱中して努力できているのならそれは本気の証拠です。しかし本気になろうとばかりしようとしたり、本気かどうかばかりを迷っているのは受け身の証拠です。自分で決心し覚悟すれば、自ずから不可能に挑戦しようとするし、面白いことをやろうと思い始めるものです。それを抜けるかどうかはまさに自分自身によります。そのドラマの中で希望を与えるナポレオンの名言がいくつか紹介されています。まさに一つの現状打破の格言に満ちているナポレオンを参考にしたのは面白いと感じました。

「あなたの能力に限界を加えるものは、他ならぬあなた自身の思い込みなのです」

「あなた自身が信じていないことは、口で言っても、書いても、また、どのような行動をしてみても、他人を動かすことはできない」

「逆境には必ずそれよりも大きな報酬の種が隠されているものだ」

「人生の歩みは、自分自身の心から始まり、自分自身の心で終るのです」

「弱き人こそ薄情である。本当の優しさは強き人にしか期待できない」

そして心に響くナポレオンのエールです。

「勝利は、もっとも我慢強い人のものである。環境など何でもない。環境とは、自分でつくり出すものだ。お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにした時間の報いだ。」

 

長期的な視点

物事はなんでも時間をかけて現出してくるものです。今の社会は、何十年も前に積み重ねてきたことが現れたもので今突然出たのではありません。それは教育でもそうですし、生き方も同じです。

人間は死んだときにその人の生前のことが現出してきます。その人物が偉大であればあるほどに時間を経てその真価が現出します。歴史の偉人も、素晴らしい文化も、それは時間をかけて醸成されてきたものです。

現在は、すぐに評価を求めるあまり長い時間をかけて取り組むことは価値がないと思われていることもあります。経営が上手いという言葉一つであっても、目の前のことに対処して短期的に効果があることにばかりに費用対効果が上手な人をいうようになり、本当の意味で長期的に効果があることのために徳を積んでいくことを経営が下手だと言われたりします。

もちろん短期も長期も両方大事ですが、本来は長期的なものがあって短期的なものを処理していくのであって短期的なもののために長期的なものを捨てているようでは時間の経過とともに現出してくる問題に追われ続けていくように思います。

自分の代では叶わないことであっても、それを子孫のために取り組んでいくという長期的な取り組みや実践は必ず未来において徳が現出してきます。私たちの今の世の中を見渡してみたら、あまりにも目先の損得を優先するあまり環境問題や道徳荒廃、生活習慣病や精神疾患などかつて先人を含め自分たちがやってきたことが今に現出しています。

それに気づいたなら、将来のことを省みて今、長期的な視点でこれらの社會問題や人類の課題に対してそれぞれが取り組んでいくしかありません。そして何十年後の子孫たちが、その恩恵を受けて今の世の中がよくなってきたのを実感し、先人たちの実践を尊び継承して安心して平和を永続させていくことができます。

今の世代の責任は、長い目で考えたときにこそはじめて議論ができるように私は思います。今はすぐに自分自分と自分のことばかりを心配して、自分のことばかりを注目し目の前のことに対処していくことが最良かのようにニュースでも巷でも見聞きしますが本来、人類の思想は長期的に醸成され私たちに受け継がれているものですから正しく向き合い、場を育て、場をつくり、場を譲るということを場の思想を磨いて取り組んでいくことが私たち今を与えてくださった先人たちへのご恩返しと責任です。

引き続き、子ども第一義を実践し、何十年、何百年後の子孫たちに善いものを譲れるように、長期的な視点を大切にして徳の日々を積み重ねていきたいと思います。

暮らしの甦生

古民家甦生に取り組んでいると、建物の生命力というものをよく感じます。長い時間をかけて様々な災害を乗り越え今でも建っている建物には威厳と誇りも感じます。

現在では、建物は生命力よりも見た目のカッコよさや派手さまた流行りの美しさなどが人気があります。しかし古民家にはそういうものはなくても、自然本来の持つ美しさや生命力、そして文化があります。

長い年月の空き家などで傷んでしまっている家を見ることもありますが、たとえ今、誰かが住んでおらずに哀れな状態になっていたとしてもしっかりと手入れをし補強、改修、修繕をすれば、親世代、子世代、孫世代、さらにその先々までずっと住み継ぐことができます。

この住み継ぐということがいのちの循環を支え、持続可能な風土を実現させていくのです。

例えば、古民家には傾きというものがあります。現在のプレカット工法では、コンクリートの基礎の上にプラモデルを組み立てるように先に機械で設計をしてそのまま組み立てます。しかしむかしの工法は、固めの地盤に石を置くだけのものでした。そのため、何百年もたてば次第に沈んでいき傾きも出てくるのです。

現代工法は、数十年で壊して建て替えるように作られていますから傾きの心配はありません。しかしかつての古民家のように住み継ぐものは、何百年も建っている必要がありますから傾くことが前提で大工棟梁が木組みを考えて建てています。

昨年も、300年以上の古民家をいくつか見ましたが傾きがあっても安定し、かえって傾きがあることで地震や災害に強くなっていることも知りました。人間の体のように歳をとれば、次第に体も傾いてきます。しかし、その傾きもまた年齢の傾きでありそれでもしっかりと体は自分を支えています。

人間の体も建物と同じです。手入れや補強をしながら、生命力を伸ばし、自然の智慧や恩恵が働くようにその住まいを整えていくのです。

家も体も元は同じ、その中で私たちは住まう=暮らすのです。

暮らしの甦生というのは、住まいの甦生でもあります。それは単なる見た目だけの変化をするのではなく、生き方が変化していくことなのです。暮らしが変わるということは、生き方が変わるということです。自然と共生し新たな時代を共創することが、暮らしを甦生していくことです。

引き続き、古民家甦生を通して子どもたちが安心して暮らしていける世の中に貢献していけるように学び続けていきたいと思います。

かんながらの与贈

先日、贈与という言葉は聞いたことがありましたが「与贈」という言葉に出会いました。贈与はある人が誰かに無償で財産を贈ることを言います。しかし与贈になると少し意味が異なってきます。

その「与贈」について、場の研究所のフェイスブックにこう紹介されていました。

「私たちの「与贈」は、正確に言えば「〈いのち〉の与贈」です。いまマザー・テレサの愛のことばの本を読んでいたら、次のようなすてきな言葉に出会いました。『愛は分かち合わなければ、何の意味もありません。愛は行動に移されるべきものです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではありません。見返りを期待するなら、それはもう愛ではないのです。本当の愛とは、無条件で、何も期待せずに愛するということだからです。』(清水紀子訳)これほど「与贈」という行為の意味を正確に伝えている言葉に出会ったことはありません。場の研究所で、私たちが「〈いのち〉の与贈」と、〈いのち〉をつけているわけは、人間以外の生きものにも〈いのち〉の与贈循環を広めて、持続可能な地球をつくりたいと思っているからです。」

これは私の思う「徳」と同じです。愛を徳に換えればそのまま与贈ということなります。

私たちのいのちの中で永遠永久に存在しているものがこの循環している愛や徳、与贈です。それは生死を問わず、なくなっているようで存在し、宇宙の中にずっと積み上げられていくものです。

むかしの人は、それを「徳を積む」という言い方をしました。これは愛を与えることと、真心を盡すこと、そして自然が循環することがいのちそのものの本体だと気づいていたからではないかと私は思います。

そして私たちが今あるのは、かつてのいのちたちの屍の上で存在しています。時空を超えてめぐりめぐっているいのちの中で自然宇宙の中の恩恵そのものの偉大な場を舞台にして私たちのいのちそのものは何かによって活かされているということです。

当たり前ではないこの「場」の存在に如何に気づいて、自分をその「場」ではたらかせていくかがいのちそのものに同化していくことであり自然になることです。人類が永続する道もまたこの「場」に対する生き方次第です。

徳を色々な形で学び、その徳を如何に循環させていくかを私のかんながら(自然)の与贈から伝承していきたいと思います。

場が主役

昨日、「場の研究所」の清水博先生にはじめてお会いすることができました。著書で文章は拝読していたのですが直接お話をお聴きするとはじめて聴く言葉にたくさん出会いました。またホームページで自然の美しい写真を撮っておられ、いのちのはたらきを観察されている様子にも感銘を受けていましたから言葉と意味が少しつながって理解が深まることができたようにも思います。

人生には意味というものがあり、その意味は一期一会の出会いによって導き示されていくように思います。そしてそのつながりというものは、「場」に生じ、その場から学び人は感化共鳴されていくようにも思います。

昨日は、「生きている」ことと「生きていく」ことについての語り合いが場で行われていました。私たちは場の中で「見当」というものを与えられているといいます。しかしその見当は決して見える世界だけではなく暗在的な見えない世界があるといいます。人間が生きていくというのは、その見えないものを解明していくことでありそれが科学というものではないかと私は感じました。

現在の科学は、目に見えるものだけを科学であると信じるように教え込まれてきました。しかし本来の科学とは、目に見えないものを信じることではなかったかとも思うのです。それを宗教といって抵抗する人も増えてきましたが、本来の科学と宗教の意味が別のものに挿げ替えられて定義されていたとしたら私たちは本来の科学とは何か、本来の宗教とは何かをもう一度、突き詰めていく必要があるように感じます。

清水先生からは「宗教以外でお互いの主観的宇宙を共有する、それが試されているのが今の時代である」という言い方をされておられました。確かに、意味を失い、場が消えてしまうような客観的な宇宙だけでは本来の科学は解明することができません。

主観的な宇宙を如何に人々が共有し合えるか、すでに与えられている目的に対して私たちは如何に逆対応によって本物の科学に近づいていくか、まさに時代の転換期にあることを実感しました。

清水先生からは「科学の本質とは何か、そして場の科学の正体とは一体何か」その「新たな問い」を私はいただいた気がします。そしてここからまさにこれからの新しい世紀は、「場が主役」になる時代であると確信を持ちました。

まさに与贈しあういのちの「場づくり」こそが、人類に与えられた希望であり智慧であり未来です。

本当に多くの示唆をいただきご縁に深く感謝しています。また研究するお仲間たちの真摯な姿やあたたかな雰囲気にも刺激をいただきました。

引き続き、日々の環境を見つめながら場をさらに研究して場の持つチカラをはたらかせられるように自己円満かんながらの道を精進していきたいと思います。

多様な働き方と理念の伝承

昨日、都内にあるコワーキングスペースを経営するWEWORKを見学する機会がありました。ここは、最近急速に日本でも展開が増えているコワーキングでデザインも統一感があり確かに場に理念を感じました。

具体的には自社サイトの理念にはこう記されています。

「​2010​ 年に WeWork を始めた時、私たちはただの美しいシェアオフィス以上のものを創りたいと考えました。それはコミュニティです。「Me」という個人として参加しながらも、より大きな「We」の仲間になれる場所。利益だけでなく、個人の充足感を尺度として成功を定義し直す場所。コミュニティの存在が、私たちに無限のインスピレーションを与えてくれるのです。」

個人の充足感を尺度とした働き方、そこには確かなつながりというコミュニティが必要不可欠であると定義されています。

元々創業者のアダム・ニューマンはイスラエルの人物ですが、キブツというイスラエル独特の集団農業共同体で小さな規模で100人大きな規模では1000人が共に暮らし、働いてきたといいます。

その思想がWeWorkやWeLiveの原型となるアイデアになったそうです。そのアイデアは暮らしのコミュニティの重要性を説き「暮らしのコンセプト(Concept Living)」と名付けられたそうです。

またその後、ビジネスパートナーでもあり映画監督でもあるレベッカ・パルトロウと結婚します。このレベッカとの出会いがユダヤの教え「カバラ」の影響を受け生き方に大きな影響を与えたそうです。

この「カバラ」とは、ヘブライ語で「受け継がれてきた伝承」という意味の言葉です。具体的には「思考は言語から生まれるのであって、言語から思考が生まれるのではない」と定義します。聖書にも「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」と記されていますが思想というものの本体に気づいたのかもしれません。

「働く=個人の充足感」という理念が今のコワーキングスペースの理念に通じているのでしょう。ここのタグラインには「やっと月曜日がはじまる!(Thanks God It’s Monday!)」と記されます。世間では、やっと週末だという人が多い中で発想を転換して仕事を働く仕合せに換えていこうという取り組みです。そのために月曜日が楽しくなるようなイベントやコミュニティをコミュニティマネージャーが展開しているともいいます。

これから多様な働き方改革で様々なコワーキングが誕生します。子どもたちにどのような理念を伝承していくことが大切なのか。ユダヤのカビラに学び、イスラエルのギブツに学びつつ、子ども第一義の働き方を深めてみたいと思います。

 

本物の美味しさ

昨日は、千葉県神崎にあるむかしの田んぼの草取りを行いました。現在の一般の田んぼは除草剤を使っていますから田んぼに直接足を入れて除草することはほとんどありません。しかしむかしからの田んぼには、必ず稲とは別の草草が生えてきますから除草をしなければ収量が大幅に変化してしまいます。

この除草も田んぼが大きくなればなるほどに大変ですが、みんなで作業すると苦労も分かち合え、また食事も美味しく、家族のような親近感が湧いてくるものです。懐かしい家にいるかのような感覚になるのも、田んぼの場がそうさせるのかもしれません。

お昼は、この田んぼの理念でもある「美味しいお米づくり」を私たちカグヤの子ども第一義と組み合わせて「美味しいごはん」を用意することにしています。今の子どもたちに本物の「美味しい」とは何かを伝承するために様々な取り組みを工夫しています。

昨日は、ひつまぶしのようにして鯛茶漬けを食べましたが直前に鉋で鰹節を削り、鉄鍋を用意し炭火で沸かした水をつかって出汁をとったものは美味で薫りも見た目もすべてに感動しました。

お米も昨年、みんなで収穫したお米を食べましたが甘くお米だけで充分なほどでした。さらにみんなで協働して働いたあとだったのでお腹もすいていたことから夢中でみんなで「美味しい美味しい」とだけいいながら食べていました。

この「美味しい」というのは、単に舌先三寸だけを喜ばせて美味しいわけではないことはこうやって食べてみるとわかります。農家さんをはじめ、私たちも一緒に苦労することで味わいが倍増していくのです。

今の時代はなんでも便利になって、苦労せずに楽をしておいしい思いをしようとする傾向が増えています。そのことからかえって美味しいということが失われてきているように思います。

ルーティンのようにご飯を食べ、面倒くさいという言葉が巷にははびこり、すぐに何かをしようとすとすぐに「面倒くさい」と口癖のようにつぶやいているのをよく聞きます。甘やかされた環境の中でいて甘えに浸かっていると、本当に人生の味わいを知ることがないのではないかとも感じます。厳しい環境や苦しい環境は、野生の生き物たちと同様にいのちが充たされその分、味わい深い人生を歩めるように思います。

だからこそ今の時代こそ、面倒くさいからやらないのではなく、敢えて面倒なことをみんなで取り組んでみるとそこには意外な深い味わいのある仕事や思い出があったりするものです。

また「美味しい」ものができるということは、みんなが丹精込めたからですがそれを味わう人もまた努力や苦労の味を心で感じ取っているように思います。

心が充たされる味わいというものと、五感が一緒に喜ぶ味わいとが重なったときにこそ「本物の美味しさ」を人は味わえるように思います。

子どもたちに本物の味わいを遺し譲っていけるようにこのむかしの田んぼを守っていきたいと思います。