経済の本質

道徳と経済の一致という言葉があります。渋沢栄一は、論語と算盤という言い方をしました。これはそもそも二つは一つであるという意味であろうと思います。二宮尊徳は、道徳なき経済は犯罪 経済なき道徳は寝言であるといいました。犯罪と寝言、厳しい言い方のようですが実際には今の資本主義の中ではなかなか理解し難いものかもしれません。

よく経済を血液の流れのように例えられることがあります。血液が綺麗でサラサラであれば、健康でその逆は不健康だといわれます。血液が循環し続けることで身体も維持されますからその血液を澱まないようにしていくためには工夫が必要です。

どうしても人間は、二者択一、対立構造で物事を分類していきます。本来は分けられないものを分けることでわからなくなります。その分かれているものを一致させていくことで本来の一つにしていくというのは魂の力です。魂という言葉もまた、心身一如、主人公としての自己一致の境地での言葉です。

本来、はじまりの言葉が何であったのかを考え抜くことで原点や初心を思い出すことになろうとも思います。

道徳も経済もそもそもは人の生きる道です。その道をどう歩んでいくかは、どのような実践をするかにかかっているともいえます。まず道があり、その道をどのような志で歩んでいくか。そこには徳があります。その徳をどのように磨いていくかで、社会を豊かにしていきます。

何のためにそれをやるのかを忘れずに、それぞれが道を歩んでいけばそれぞれが仕合せな社会を築いていくことができます。そのために、まず足元の実践を見つめ直す必要があります。

石田梅岩という人物がいます。この方もまた経済と道徳の一致を述べていた方です。その方が商人の道としてこんな言葉を残しています。

「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない。」

天下の宝という認識は、今の世の中には少ないように思います。本来、私たちは何のために経済を豊かにしていくのか。

子どもたちや未来のためにも原点を忘れずに実践していきたいと思います。

仙人の知恵

生活の中で様々な知恵を持っている人がいます。この知恵は暮らしの中で活かされるものばかりです。むかしは知識はあまり多くはありませんでしたが、知恵の宝庫でした。

田舎では、知恵をたくさん持っているお年寄りがいてその話を聞くのはとてもワクワクしました。今思えば、時代がどんなに変化してもずっと変わらずに役に立つ知識というのは伝統文化のようであると思います。

本来は、知恵をたくさん持っていることで豊かさは増えていきます。豊かな暮らしにはこの知恵が欠かせないのです。今では便利になってあまり知恵を必要とはしなくなりました。流通を含めほとんどがシステム化され、知恵を使わなくてで誰でもそれ相応の効果が得られるからです。

そしてそこにはお金がついてきますから、お金をかける方が知恵であるとさえなっている世の中でもあります。知恵そのものの定義が変わってきたということでしょう。

しかし本来の知恵は、自然の知恵に近いものです。あるものをうまく活かす、そしてないものは求めないという具合に物事のある方を観て知恵を発揮していくのです。

これは一つの仙人の知恵かもしれません。

私はそれを暮らしフルネスといって、足るを知る暮らし、そして暮らすだけで十分こそが知恵とも思っています。仙人の生き方は、これからの人類に大きな影響を与える気がしています。

これから仙人倶楽部を発足しますが、知恵をたくさんもった人たちが歴史を繋いでいけるように場をととのえていきたいと思います。

安心できる場をつくる理由

人間には「我」があります。その我は、相手か自分かという相対するときにより出てきます。例えば、敵か味方かということも同じです。今の時代、競争や対立ばかりが目立ちそのことでどちらかが一方的に我慢させられたり、尊重し合えない関係の中で傷ついている人もたくさんいます。

社会そのものが一つの権力や権威によって尊重し合えない環境が発生すれば、この人間の我は際限なく大きく成長していくものです。戦争もまた、その一人一人の我が発展してさらに激しくなっていったものだともいえます。

この我というものは、周囲の中で感じる自分の立場や自分という認識のことでもあります。比較されたり競争させられていけば、次第に自分がどういう立ち位置にいるかということを人は気にしていくようになります。本来、主人公としての自分を素直に自覚し、天命を全うするような生き方をしている人はあまり我に影響を受けません。しかし、競争や比較で周りからどう評価されているか、または何をやられたか、いわれたかで自分を気にして自分のことを認識したとき我に飲み込まれます。

この時の我は、本当の自己ではない外から見えている我というものに執着するということでしょう。外から認識した仮想の自分に本当の自分が脅かされるということでしょうか。つまり本来の自分ではない何かに飲み込まれているということです。

本来の自分というものが何か、それは初心の中にあります。

何のために生きるのか、本当の自分はどうしたいのかと自分と向き合う中で真の自己の存在に人は気づきます。その真の自己には我はなく、真の自己があるだけです。では我とは何か、それは周りがどう認識しているかという自分の思い込みということでもあります。もっとシンプルにいえば、自分の思い込みこそが我の本体だということです。

だからこそ、思い込まないことが我に飲み込まれないということになります。そこで私は一円対話を通して「聴く」ということを実践することをみんなとしています。きっと何か自分にわからないことがあっているのだろうと思い込みを取り払ったり、自分の心にみんなで聴くという内省を共有することによって我の影響を小さくしていきます。

人は不信になると疑心暗鬼になると我に呑まれていきます。それは外から攻撃されるのではないか、裏切られるのではないかと不安になるからです。不安がさらに思い込みを強くしていきます。安心すると不安は減り思い込みも薄くなります。

本来の自分、自己の主体性を発揮するためにはこの「安心」という状態が重要です。一人一人が健やかに発達していくためにも、この安心できる場をどう醸成するかが鍵なのです。これは保育に関わる中で気づいたことです。

子どもたちが未来に、我に飲まれずに本当の自己、真の自我のようなもので天命を全うしみんなで働きを喜びあう社会が実現していけるように保育に関わる私だからこそ文句も言い訳もせずに場をととのえていきたいと思います。

思案する

宿坊の掃除を続けていますが、なかなか片づけがうまくいきません。もともと収納が少ないこともあり、長い年月で大切にされたものをどう片づけいいのかが定まりません。この片づけるというのは、語源を調べると決着をつけることや仕舞う、直すにもつながります。

色々と残った道具をどうしていくのか、収納できないから片付けるのですがどう活かすか、どこで使うかなど思案のしどころがいっぱいです。新しい役割があり配置できればいいのですが全部は難しく、どうしても悩んでしまいます。

一つ一つを掃除しながらも、一時的に置いておくようなものも必要です。しかしその置いておくものもまたお手入れを続けていく必要があります。将来のために、これはここまでにしておく、いただいたものだからそれをどう直しておくのか。これは先人たちもみんな思案のしどころだったのでしょう。

物が多い時代、それはすぐに捨てるものになります。しかしかつての時代は、ものにはいのちがあり、物語や意味があるからもったいないものでした。もったいないものだからこそ思案するのです。

思案するのはかつての過去を辿り、未来を省み、今どうするかを決心していくことです。大切なものだからこそ、そこに意味が入ります。

宿坊の歴史は今も続いていますが、その続いてきたものをこの先どうしていくのか。片づけるというのは、直すことでもあり、その本質を磨き甦生することです。

子どもたちのためにも充分に思案を続けていきたいと思います。

徳積帳のリリースに向けて

ブロックチェーンによる徳積帳の開発が終盤を迎えています。長い期間をかけて開発してきたものですが、とてもシンプルで素晴らしいものになっています。私はもともと複雑なシステムが好きではありません。それは聴福庵と同じように、とても素朴で落ち着き、そして静かな佇まいであることに仕合せを感じるからです。

同時にシステムもまた、シンプルであればあるほどに美しく穏やかな佇まいを持っています。もともとシステムもものではなく、いのちがあると信じています。これは故高橋剛さんのコードをかく指先からもいのちが宿るという遺言に照らしたものでもあります。

私は故あってブロックチェーンに深く関わることになったのも故高橋剛さんとのご縁からです。目には見えませんが、人のつながりの中にはご縁が結ばれていてそれを辿り一つ一つを丁寧にカタチにしていくだけです。何かの目論見や企画があるのではなく、ご縁で産まれたことを丁寧に紡いでいく。

そうすることで自分の今が充実し、今が未来を充実させます。予定調和という言い方もありますが、私たちは今できることを今やっているだけということでしょう。

徳積帳は、私が古民家甦生で取り組んでいる「結」の仕組みが根本になっています。この結とは、むかしからある日本の伝統的な相互扶助の仕組みです。それを私が英彦山の宿坊の甦生でも取り組んできました。結を実践してきたからこそ、DAOの本質も理解し、今回の徳積帳が開発できました。

現在は、唯脳論ばかりが先行して脳ですべてを完結させようとしています。実際には脳で思ったようにはならず、現実にはあらゆる問題が発生し、さらにテクノロジーの発展の方向性の行く末も気になります。

だからこそ、先人の生き方に倣い、この時代でも何が大切なのかをこの時代に生きる私たちが実践して子孫たちにやって見せる必要があると思うのです。もしも聖徳太子がこの時代でやるとしたら、菅原道真がやるとしたら、二宮尊徳がやるとしたらと考えてみるのです。

日本人は自然への畏敬を忘れずに、暮らしの中でテクノロジーを磨いてきました。この比率は変えてはいけません。私はこれから世の中に徳積帳をリリースしますが全国展開やFC展開など事業は考えていません。本来のあるべき姿、そしてどう生きることが真の豊かさや仕合せなのかをテクノロジーとの真の調和を伝承していきたいと思っています。

地味にはじまりますが、1000年先に残るような今を紡いでいきたいと思います。

甦生の道を精進していく

物事は小さくはじめて大きく育てていく方が自然に近いように思います。最初から大きくしようとすると、確かに注目されて目立ちはしますがじっくり味わい取り組んでいくことができません。

現代はすぐに結果重視で、なんでも派手に目新しいことを探します。そして一度、見てしまえばわかってしまったと安心して飽きてしまいます。わかることが目的になっているからです。しかしわかるというのは、そう簡単なことではありません。なぜなら知ったことと、真にわかることは別のことだからです。

わかるというのは、本当はとても奥深く時間が必要です。しかし今の時代は、時間をかけることを嫌がります。時間をかけずにすぐに結果が欲しいと思うのです。だから、わかりにくいものを毛嫌いします。わかりづらいと文句をいったりします。

しかし本当はそれは真にわかろうとしない人の意見であることがほとんどです。ちゃんと理解しようとする人たちは、何度も通い、体験をし、その深い意味や味わいを感じ取ります。一度ではわからないから何度も通うのです。

私も今までわからないことを真にわかろうとして、何度も通い続けているものがあります。ひょっとすると死ぬまで通いながら学ぶのではないかとさえ思います。他には、法螺貝などもそうですが練習してもしてもわかりません。わからないから、もっと練習しますがそれでもわかりません。先日、先輩たちの会合で練習風景を見学しましたが何十年とやっていてもまだわからないとみんな目をキラキラさせています。

人が何かをわかるというのは、道を究めるということです。

道を究める志があるからわからないのであり、それがわかるというのは道がわかるということです。知識ばかりが増えて、なんとなくわかったらそれでもう終わりというのは冷めた感情だなと思う時があります。ワクワクドキドキし、好奇心を発揮させ、面白い世界を学び、まだ見ぬ世界の広さや深さを学ぶことは人生を真に豊かにしていきます。

わかってもらおうと思う自分への焦りも捨てて、滋味にじっくりと地道に甦生の道を精進していきたいと思います。

場と記憶

古代文明というものがあります。巨石文明もですが世界各地でむかしの文明の跡が発見されています。それぞれに高度な文明を持っていたことはわかっていますが、今はその痕跡はほとんどありません。一体、どんな技術を持っていたのかは想像でしかありません。

いくつかオーパーツのようなものも見つかっていますが、その使い方もわかりません。ほとんど石化したりしているのは、石は自然物の中でも特に長く風化しないからでもあります。

そう考えてみると、私たちが今、身の周りにあるあらゆる文明の道具もまたもしものことがあればあっという間に風化していくのでしょう。そう思うと不思議な感覚があります。

私は伝統文化や暮らしを甦生させていますが、文明や文化が滅びていかないように温故知新して甦生させ続けています。これは先人たちが今まで育ててきた知恵を守ろうとしていることでもあります。しかしその知恵も真の知恵というものがあるように思うのです。

技術を守っていくことが知恵なのか、それとも知恵は生き方なのか。どの時代もすべてのいのちには営みがあり、それを記憶しています。歴史というものは今も生き続けていて、私たちは失われた文明や文化の歴史のあとを生きていますがそれもまた私たちと一緒に生き続けているともいえます。

そういう今の私たちがどのような歴史を創るのか。

私が守りたいものというのは、文明や文化の知恵ではなく歴史を守りたいのかもしれません。存在するものとしての歴史であり、そしていのちの続けている証です。これは記憶のことです。

場の研究をしていると、場にはそのすべてがあることを感じます。

子どもたちのためにも、自分の役割を果たしていきたいと思います。

有事に備える暮らし

現在、ウクライナとロシアの紛争から食料危機の問題が浮上してきています。もともと日本は食料のほとんどを輸入に頼っており、その大半はアメリカのものです。食料自給率は37%と先進国中最低です。そのアメリカの食料自給率は128%を超えています。詳しくは、農林水産省のHPからもご覧になれます。

食料を自給できていないということはどういうことか。自分で暮らしていける分を持っていない場合、有事の場合はどんな悲惨なことになるのかはすぐに想像できます。食料自体が海を越えてくるのですから、もしも戦争が発生したり、経済危機になったり、地球規模の災害が起きれば、すぐに食料はなくなります。

現に、インドは今回の紛争からすぐに小麦もお米も輸出を停止しました。それは国内の食料が不足することを予測してのことです。当たり前のことですが、すべての国は自分の国の食料をすぐに確保します。

日本は円安で海外からの輸入品がすべて高額になっていきます。すると、今まで国内で安く買えていたものも次第に値上がりしていきます。小麦やお米、大豆をはじめ、あらゆるものを輸入に頼る日本は今はまだ資金があるからなんとかなりますがいよいよ世界の国々が輸出をストップすれば経済危機と食料危機がやってきます。

そもそも世界大戦とは何か、それは世界を巻き込んだ争いに発展していくことをいいます。最初は食料危機からかもしれません、そして経済危機、最後は国家存続の危機に陥り、そういう国々が連帯して資源のある国や食料を求めて戦争をはじめていくのです。

だからこそその争いに巻き込まれないように食料自給率があるということは重要なことになります。

日本人の食生活はこの輸入にあわせて変化してきました。ほとんどが小麦をはじめフルーツ、肉なども海外のものになっています。本来の和食はとても質素でした。日本人はもともとお米を中心に味噌や漬物、そして小魚、貝などを主食をしていました。今のように贅沢な食卓になっていったのもまた、この輸入政策が影響してきました。

いよいよ食糧危機となったとき、私たちの世代ははじめて国に食料がないという体験をすることになるでしょう。その時、どのように暮らしをしていくか。今から準備している必要があると思っています。それは材料を確保するということだけではありません。本来の伝統的な暮らしに回帰して何があっても対応できるようにする準備がいるのです。

だからこそ私は暮らしフルネスを通して、子どもたちはじめ自らがその実践を通して危機に備えていく必要性を発信しています。長い目で観て、まさかということはたくさん起きるのが人類の歴史です。今回のコロナ感染症も世界を巻き込みました。そしてウクライナのことも世界を巻き込んでいます。他人事ではなく、今は有事なのです。

もっと危機感をもって、みんなで知恵を出し合い、これからの難局にどうみんなで助け合い乗り越えていくかを考えていきたいと思います。子どもたちのことが一番心配です、だからこそ大人である私達こそその第一線で真摯に向き合うことを大事にしていきたいと思います。

知恵を学び直す

むかしの格言には様々な知恵があるものです。それは生きていく中で先人たちが実体験して、得た法則のようなものが取り入れられているからです。それを長い年月をかけて何回も検証し、自然や時代の篩にかけられても残っているものだからです。

実体験を如何に観察していくか、それは反省と改善の繰り返しです。人生経験の豊富な人や長老たちは知恵の宝庫です。それは人生の中で何度も試行錯誤して学んできたからです。

そう考えてみると自然界も同じです。

すべての生き物は知恵を持っています。それが進化に現れていきます。時代が変わっても環境が変わっても適応していきます。そして知恵に生きている生き物はずっと生き延びています。長いもので数億年も同じように生き続けられています。それは自然の法則に沿っていることであり知恵そのものを生きているからでもあります。

知恵は自然の摂理です。自然の摂理というものは、私たちは自然の一部ですから自然が存在している以上、自然に寄り添って自然の知恵を持てば自然と共生していくことができます。

逆に自然から離れて、自然から反するとそれは知恵ではありません。私たち人類は、知恵を捨て知識ばかりを得てきました。知識を得たから自然の摂理を忘れていきました。すると、ある時、自然の摂理を思い出すようなことに遭遇します。そして謙虚にまた知恵を学び直すのです。

私たちは知らず知らずに自然の摂理の中に存在します。この身体も、そして心も精神も、これは空気があるように水があるように、朝晩があるようにあらゆるところに絶対的な影響を受けていきます。そんなものを疑ったり、分かれたりすることは意味もなく、自然であることに安心し、知恵を学ぶことで仕合せの意味を感じ直すこともできるのです。

最近、ウェルビーイングが世界的に流行っています。生き甲斐や働き甲斐、また暮らし甲斐など心身健康である生き方のことです。逆を言えば、心身不健康になっているから求めているということでもあります。

自然に寄り添うということの豊かさ、そして自分自身であることの仕合せ、真の喜びは自然体の中にあり、それは知恵を学び直すことで得られます。私の取り組む「場」にはそれがあります。

子どもたちに子どもらしく子どもが憧れる未来と共に今を歩んでいきたいと思います。

仮想と陰徳

現在、新しい通貨がどうとかこうとか色々と騒がれています。仮想通貨が新しい経済をつくるというのもわかります。もともと仮想というものの定義が何か、IT用語辞典で引くと「実際には無いが、仮にあるものと考えてみること。 仮に想定すること。 ITの分野では慣用的に “virtual” の訳語として「名目上は違うが、実質的には~であるとみなせる」という(本来とは少しずれた)意味で用いられる。」とあります。

仮想は英語では「virtual」と書きます。これははラテン語の「男らしさ」を意味する言葉で「目には見えないがあるもの=事実上の」という意味になったそうです。英単語としては、virile(男性的な)virility(男らしさ)virtually(事実上)virtue(美徳)とあります。

私にとっての仮想は、この「virtue・美徳」に近いものがあります。それで徳積帳を開発したのです。これは「物理的な効力 [virtue] によって本質的に存在することという意味です。つまり、実践することで顕現する効果ということでもあります。これは日本語の仮想の意味とは異なります。本質的な言葉の意味は、「陰徳」なのです。

変なことを言っていると思われるかもしれませんが、私にとっての仮想は陰徳という定義です。そもそも仮想通貨も、通貨の側面を意味しています。価値を道具で交換し合うところから生まれたものですが現代の世の中はお金でなんでも交換できるように仕上げてきました。その結果、ある意味でとても便利な世の中になりました。しかしまたある意味でとても冷めた物質的で機械的なものにもなってきました。

現代、真の豊かさという言葉が出てきているのもまた貧富の差が開く一方であまりにもお金に支配されたこの社会システムにつかれてきた人が増えてきているからかもしれません。

私がこれから取り組む仮想空間は、「場」です。この場には、いのちが宿りその顕現する姿として「道」が現れます。それを「場道」と呼び、現代の人たちが忘れてしまっている初心を思い出すため、暮らしフルネスという体験を通していのちを甦生させていくのです。

現代の社会では、なかなか意味が分からないことをやっていると思われますがそのうち時代が追いついてくるはずです。その時、この仮想が陰徳であったことの事実を人々は悟るように思います。これは宗教ではなく、自然科学の現象の一つを改めて気づき直すということでもあります。

研究者も増え、そして実践者が増えていくとき、私たちはその価値観を学び直し、先人たちの生き方を尊敬し、子孫たちへ徳を譲る世の中にしていけると思います。

私は粛々と深く静かに私の提案するブロックチェーンが実践して具現化したものを表現していこうと思います。ここで根をはり花を咲かせ、実をつけ、そして種になっていきたいと思います。