人間同士の自然とは

古民家の再生を行いながら今の時代が便利な道具によって価値観が変容していることに気づくものです。昔は手間暇かかることを良しとしたのは、その方が豊かで仕合わせであることに気づいていたからです。

例えば古民家は夏は涼しいのですが冬はかなり寒いものです。今のように気密性が高く、断熱材を入れているような部屋ではなく、隙間風も多くまた壁もとても薄いものです。これでは冬は風がしのげるくらいで寒さは外と変わらないほどです。しかし、ひとたび誰かが来ると火鉢に火をいれ、豆炭で行火を用意し、半纏をそっと肩からかけてあげることができます。また温かい御茶と、やわらかいぬくもりの表情と言葉をかけてあげれば次第に心はあたたまってきます。

もちろん今の時代のように、暖房をつけ部屋全体を温かくする方法があります。しかしこの方法だと先ほどのようなおもてなしをする手間暇はスイッチ一つで完結してしまいます。もちろんおもてなしは暖房だけではありませんが、昔は心のぬくもりを感じられる人たちと、心のぬくもりを味わう人たちが多かったとも言えます。敢えて自然から離れず、自然に寄り添っていきていくことは決して便利なことではありません。しかしその分、謙虚に自然と共生しながら人間同士の中にある「自然」とも心で触れ合うことができたのでしょう。

人間にとっての自然とは私は「つながり」にあるとおもいます。そしてその人間のつながりにどのような心の触れ合いを見出していくか、そこに真の豊かさがあるように思うのです。

人間関係も同じく簡単便利にスイッチ一つで完結させていいものかと思います。今ではすぐに御縁に対しても切ったとか切るとか簡単にいいますが、本来の御縁は切っても切れないものです。その一つ一つに手間暇をかけるのは、心の触れ合いを味わうことです。

古民家再生をしながら、これは決して家や道具だけの話ではなく「もったいなく」生きていく生き方の再生だと感じます。

心を触れ合せていくことは、自然の姿です。どんなものとでも、どんな人とでも心を触れ合せながら大切にしていけるよう、暮らし方を学び直し改善していきたいと思います。

恩顧地心

昨日、久しぶりに故郷で旧友に会いました。もう18年前に、故郷で創業し不可能と言われてきたことをやり続けている方です。私たちの郷里は炭鉱で有名な場所で、一時期は日本国内のエネルギーの半分以上を担っていたこともありましたが今では石炭の需要の減退とともに衰退したところです。

栄枯盛衰というものは、時代によるものでいつの時代もこれは繰り返されているとも言えます。しかしそこに住んでいる人たちが希望をもって温故知新していくのならその場所はまた発展を続けていくのです。

しかし実際はバブル経済の時と同じように、「あの頃はよかった」と昔の思い出に浸るばかりで今をみようとはしなくなるものです。昔を思い出して懐古することは悪いことではありませんが、それにいつまでもしがみつくのは温故ではないと私は思います。

よくよく考えると衰退していくというのは何が衰退するのか、それは希望が衰退しているとも言えます。それは心の持ち方次第で、何をやってもうまくいった右肩上がりのサイクルから何をやってもうまくいかない下がるサイクルの時もあるのです。それは山登りのように上がるときもあれば下がるときもある。本来は、山を味わい上がっても下がっても愉しめばいいのですが、実際に人は下がることを嫌うものです。

下がり始めれば何をやってもうまくいきませんから、そのうち「どうせ無理」と諦めてしまいます。特に上がっていく人たちを羨み、下がっていく人を同情し、比較をしては嘆き節では決して主体的に自ら前進することもありません。

温故知新は、新たに価値を再定義することでもあります。

本来、何もないと思っていたものがもう一度見渡してもう一度見直してみれば魅力はいくらでも発見できるものです。昨日、友人が郷里の善いところを見つめその郷里に育ててもらった話をしてくれました。改めて自分がこの郷里をもう一度見つめ直すことからやり直し、ここから恩顧していくことを決めました。

改めて自分が育ててもらったことへの御恩にどれだけ感謝しているか、環境にお世話になってその環境が良くなっていくことがどれだけ有り難いことか。教育に携わりながら育ち育てられる環境が大切かはいつも感じているところです。

町づくりというものや、町興しというのは其処に住む人たちの生き方が決めていきます。自分が成長し成功し発展すればするほどに、環境に育ててもらったことへの御恩を感じます。そして人はその環境への御恩に対して御恩返しがしたいと思うようになるのかもしれません。それは言い換えるのなら温故知新ではなく、恩顧地心があるから郷里は継承されていくのかもしれません。

場というものの中にある深い慈愛、場の中にある有り難い関わり、それらを大切にいただいている御縁に感謝しながら少しずつでも明るく謙虚に素直に進めていきたいと思います。

似て非なるもの

昨日、自然農の田んぼの草刈りを行いました。この時期は初期の見守りの大切な時機で、1週間田から離れただけであっという間に稲だけではなく周りの雑草も勢いよく伸びてきます。肥料も農薬も使わない農法というものは、見守ることによって育つのを支えていく農法です。だからこそ、田んぼの中に入り自分の手と眼で触りながら稲の様子を一つ一つ確認していくことが自然農をするうえで何よりも大切なことです。

草刈りにおいていつも気づくことがあります。それは稲の周りにとても稲によく似た草が沢山集まってくることです。例えばイネ科のノビエ(イヌビエ)などは酷似しており、慣れていないと間違って稲の方を刈ってしまうこともあります。この稗(ビエ)は田植え前後に芽生えたらほとんど稲と同じサイクルで育ちます。さらに稲が刈り取られる前にすべて種を散らしますから毎年かなりの量の稗がまた翌年出てくるのです。初年度の取り組みのときはこれにかなり苦戦したものです。今では、苗の時にしっかりと関係性を築いてから本田に入れますから自ずから稲の気配のようなものも感じ間違えることが少なくなってきました。

しかしこの「似て非なるもの」が如何にこの自然界の摂理であるのかをこの時期はいつも痛感するのです。ほとんど見分けがつかないこの稲と稗ですが、実際は収穫においてとても大きな差が出て来ます。

この「似て非なり」という諺は孟子の言葉です。孟子は「似て非なる者を悪む。ゆうを悪むは其の苗を乱るを恐るればなり」といい、これを徳の賊であり道の人ではないと言います。似非(えせ)ものという言い方もここから来ています。

この孟子を引用し、佐藤一斎の「言志四緑」ではこう言います。

「匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛腹は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む」

つまり感情を表に出さない匿情は、慎み深い親密な様子に似ている。物腰柔らかく媚びる柔媚は、うやうやしく従う恭順の様子に似ている。剛情でいじっぱりの剛腹は、自分の力を信じて疑わない自信のある人の様子に似ている。それで孟子に、「孔子曰わく、似て非なる者を悪む」とあるのは、このことを言っているのであるといいます。

見た目がいくら君子に似せていても、当然その本質や中身は本物の修養と人格によって異なります。見た目君子や見た目良い人は今の時代、見分けがつきません。それだけスピード社会で情報化が進んで、時間をかけずに世間の評価や見た目で誤魔化しさも本物のように振るまいそれが本物に取って代わったような時代になっているとも言えます。先日からブログで書いている「家」のことでは、ハウスとホームの異なり、リフォームとリメイクも異なりと同じくそれが混同されて間違って使われているのと同じです。本や知識が横行し、頭でっかちになればなるほどに本能が減退してくるのでしょう。

だからこそ常に本質は何か、本物とは何か、そういうものを見極める目は自然の中に入ってこの「似て非なるもの」に気づく感性を磨くしかないと私は思っています。

 
また森信三先生はこう言います。「すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。」

古民家再生を深めていく中で、如何に近代建築が永くもたないことに気づきます。見た目の強度ばかりを誇り、実際に天災がくれば天災が大きかったからという。しかし何百年も今でも顕在する古民家のことは議論にもしようとしない。こういう浅はかな考え方が偽物をこの世にたくさん生み出していきます。偽物とは、歴史や自然の篩にかけられればすぐにバレます。こういうものを付け焼刃の刀とも言い、必ずメッキは剥がれるように思います。

後世の人たちにわらわれないように常に「似て非なるもの」を自戒し、本来の姿に立ち返り実践により本物になることを目指したいものです。子ども達は本物を直感的に察知しますから、その子どもたちに恥じないように着実に成長していきたいと思います。

 

教養とは何か

「教養」というものがあります。

これは、イギリスでは「Culture」と呼び、ドイツでは「Bildung」と言います。辞書によればこれは単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などを持つ人のことを言います。その他、社会人として必要な広い文化的な知識であってそれによって養われた品位であるとも書かれます。社會をつくる人間を教育する理由、その教育の本質は「教養」を身に着けることにあります。

これは単なる知識を持っている人を教養とは訳さないことが分かります。教養があるかどうかはグローバル社會において何よりも大切です。単に学校などで知識を得た人が世界に出てもそれは今の時代ではパソコンをもってインターネットがあれば膨大な知識は瞬時に使えますからそれでいいとも言えます。では世界で活躍するためには何が必要か、そこには必ず「教養」が要るのです。

有名なジャーナリストに池上彰さんがいます。この方が教養のことをこう言います。

『たくさん本を読んで、知識が豊富になれば、それで「教養がついた」ことになるかというと、ちょっと違うような気がします。自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができて初めて「教養」が身についた、と言えるのだと思うのです。』

自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができるか、それが教養が身に着いてきたという一つのモノサシです。ではなぜ伝えられないかということです。知識をものにするにはやってみなければ本当の意味で分かったことにはなりません。さらにその知識を深めて追及し、自分の中で咀嚼し自分のものになってはじめて伝えることができます。そしてちゃんと伝えるためには、その知識を語るための膨大な経験や暗黙知、そして理論や形式知が必要です。そのためには徹底して取り組んで深めていかなければ伝えることが出来ないのです。

また最近、古民家再生で知ったアメリカ出身の東洋文化研究者のアレックス・カー氏が教養について同じように話しています。

『知識が豊富なだけでは、教養とは言えません。いろいろ知っていたとしても、「その知識のどの部分をどう伝えれば人の心を動かせるか」が分からなければ意味がない。』

そしてこうも言います。

『残念ながら今の日本からは、世界中の人の心をつかむような商品やサービスが登場していない。これはビジネスパーソンの多くが、すぐに通用する仕事のスキルを身につけることばかりに熱心で、真の教養を身につける努力を怠ってきたからではないでしょうか。』

真の教養とは何か、本当の教養とは何か、それを身に着けない限り世界に出たとしてもその人は世界で通用する人物にはなりません。世界で活躍しようと大志を抱くのなら、まずは自分の根元を深掘ることが大切です。その上で、世界共通の物差しを自分の中に確固として持つ必要があります。それは単なる自分の価値観ではなく、普遍的なものを自分に持つということです。言い換えるのなら、真理に精通するといってもいいかもしれませんし、文化そのものになるといってもいいかもしれません。そういう本物の自然体の人物こそが世界でははじめて価値観を超えて話し合いができる人に成り、世界の中で自分を活かし世界について語り合えるリーダーになるのです。

そしてアレックス・カー氏はこう言います。

『教科書に書いてあったり、一般的に言われたりしていることをそのまま鵜呑みにし、お行儀よく「枠」に収まっている限りは、自分の血肉にはなりません。疑問を持って調べ、「枠」から出る。筋力トレーニングと同じで、その繰り返しが教養を高めてくれるはずです。』

自分の手で触り、自分の眼で見て、自分の耳で聴き、自分の声で伝える、そういう全身全霊の感覚をもって直感しコツを身に着けていきつつ、それを言語化して伝達できてこそはじめて本当の教養の入口に入るのでしょう。

そして教養は真に日本人になったとき、はじめて身に着いたといっていいのかもしれません。時代は変化していきますが、子ども達のために本来の姿、本来の生き方、死生観、歴史観、大局観、等々、それに和魂洋才、和魂円満、学び直すのにキリがないですが自然と子どもをお手本にして理念を明るく取り組んで味わっていこうと思います。

誠の成長~いにしえのいま~

現在、古民家を復古創新に取り組んでいく中で日本文化について観直しています。今の時代は、どこか西洋が新しく日本が古いという考え方があるように思います。古いか新しいかという二者択一の分別されたものは所詮は新古です。温故知新というものの語るのはその新古の違いではなく、その中心にある繋がりやむすびのところです。

明治維新以降、日本はそれまでの日本文化の中に西洋の文化を取り容れるという時間をかけた進化を手放し、一気に西洋化するというように日本文化から西洋文化への入れ替えをしました。その際、今まで大切に紡がれ大事に守られてきた精神性やその生き方なども排除し、まったくもって西洋の考え方や精神性が優れているとし、無理やり総入れ替えを行いました。

それは今まで時間をかけてじっくりと日本の文化の中に取り込んでいくということで行われる温故知新の発達と発展を否定したものでした。そして今ではもっと早くもっと便利にと手っ取り早く手に入るスキル的なものばかりが価値があると思い込み、より一層、かつての日本の文化を否定するようになっているともいえます。日本文化は今、まさに消失の危機に瀕しています。

これは私たちの生き方や暮らしが変わってきたともいえ、それは学び方も変わったということです。例えば武士道といっても、今ではほとんどがそれが日常で語られることもなく、日本人が古来から大切にしてきた美意識や美学というものも今ではほとんど身近に感じません。

しかし古民家再生をしていく中で、いにしえの先祖たちと対話を続けているとそこに暮らしてきた人々の持つ高い精神性に触れる機会が多く出てくるのです。そこには何でも時間をかけてじっくりと取り入れて成長させていくこと、真の意味での成長と発展があり、まるで木々が年輪を経て大樹になるように確実に進化しているのを感じます。

本来の進化というものは、とってつけたような付け焼刃でするものではなく永い時間をかけて何度も振り返り自らを修養していきながら行われるものです。すぐにスキルに頼り、すぐに便利なものや楽なものばかりを探そうとするのはとても温故知新しているとは言えません。

温故知新の古さと新しさは、単なる古い新しいではなく古来の真心を持った人物が今の時代の成長に合致して自然に理に適ったものを創造するということでしょう。普遍的なものや本質的なものは、自然美が観えなければ知り得ることはありません。

自然の持つ変化と成長は、便利に楽にその場しのぎで行われるものではなく永い歴史と循環、そして順応と発達、発展により地道に行われるものです。それは私たちの行う理念の実践に酷似しています。

ちょっとずつ成長していくことは決して遅くてダサい古いことではありません。むしろその中で着実に成長するのならそれは温故知新しているということです。そういう観点は自然の中に入ることで気づいていきます。古民家や町家の中にある自然を感じる暮らしは、私たちに変化の大切さを教えてくれます。何でもスピードを出せばいいのではなく、自然循環の速度と合致することが「はじまりを知る」、いにしえのいまに触れることなのです。そういう日本古来の生き方や暮らしを繋ぐ存在によって子ども達にいにしえの初心は伝承されていきます。

もう一度、日本人の暮らしとは何か、与えられた機会に感謝して学び直していきたいと思います。

何のため

何かに関わるときや、大切なことを決めるときにそれが何のためかという自問自答は何よりも大切なことです。方法論ではなく目的の確認というのは、御互いに必要なことで方法論に終始してしまうと目的から離れていくものです。

そもそも目的というのは、その初心や動機でもあります。そういうものを知ることをやめてしまい、それぞれの専門分野で好き勝手話していたとしても本来何のためにそれをやるのかを議論していなければ単なるそれは方法論ということになります。

例えば、やり方や方法というものはこの世には無数にあります。それは宗教から科学、または研究などありとあらゆる分野でそのものの真理に辿りつこうとするものです。しかし真理を知ったからといってだからどうなることではなく、その真理を知るのは何のためかというのが何よりも大切なことのように思います。

現在、知識社会ともいえる知識によって優劣をつけている時代ともいえます。大学をはじめ知識の長ともいえるそういう学術機関には知識が溢れるばかりに満ちています。そしてその方法論についても満ちています。人は知ることで方法論を使い便利になったとしてもそれを活かすとなると目的が何よりも重要になるのです。

以前、ある方が「知識を必死に蓄えていたのは楽をしたかったから」という話を聴いたことがあります。体験をせずに済み、体験をしたことを知れるから学んでいたと言います。これこそ何のために学ぶのかということがなくなっていることに気づきます。

知識を詰め込まれて知識があるから分かると錯覚してしまうと、体験よりも知識ばかりを持とうとするものです。そして知識は方法論ばかりを求めては膨大な量のノウハウや事例を体験もしていないのに知っています。食べたことがないことを食べる前に知っているから食べないといい、やってみたことがないのにやったらどうなるかについて議論します。おかしな話で、知識をもっていない幼児の子ども達の方がどんどん楽しそうに取り組んでいきます。楽をしたいから知識で済ませようとはしないものです。

何のためにというのは、物事の根幹です。

学ぶ理由も今では反転して学ぶことが本来の学ぶとは異なっていることが常識になっています。人がやったことがないことでも果敢に挑めるのは、そこに目的がはっきりするからです。何のためには生き方と通じているし、道と繋がっています。

引き続き、本来の目的意識を忘れずに日々に本質を自問自答し子どもたちのために活かしていきたいと思います。

ゼロベース

人は話を素直に聴くことができれば物事の実相が観えるものです。しかし素直に聴けないのはそこに自分の先入観や価値観、知識が邪魔をして聴く前に決めつけてしまったり、もしくは自分が知っているところまでで聴くのをやめてしまうことで素直さが出てこなくなるように思います。

この素直さというのは、物事をゼロベースで感じることができるということです。ゼロベースになるというのは、例えば自然を観るとき自然のままで観る人と知識で自然を分別する人がいます。前者はゼロベースですが、後者はもうゼロではありません。このゼロで観るというのは、素直になるうえで私は何よりも大切だと思うのです。

人は自分の生きてきた経験で、きっとこうだろうと判別します。そうやって決めつけて思い込んだ方が相手を知らずに相手を知った気になれるので楽なのです。多くの人たちと人間関係をつくるうえでいちいち一人ひとりに共感して心を通じ合わせていくよりも、安易に知った気になって分別していく方が楽だということもあるのでしょう。

しかし実際は、人間という複雑なものをそんな簡単に判別し分別できるようなものはなく御互いに関わり合い心を通じ合わせて対話をしていくことでようやくその人のことが直観できるのです。これらの対人関係というのは、知識や頭でできるものではなく本来はゼロベースで御互いに素直に聴き合うことで御互いのことを深く理解していくことがあってはじめて人間関係が築かれていくように思います。

きっとこうだろうといった先入観がある故に、思い込まれて苦しんでいる人、思い込まされる人、思い違いをしている人、世の中にはそんなことばかりです。本心や本音が話せる社會というのは、そういう思い込みや知識で分別される社會ではなく御互いにゼロベースで関わり合える温かい社會です。

そのためには、自分が思い込まないという工夫が必要です。それが素直に聴いてみることであり、ゼロベースで観ることのように思います。分別知で物事を分かることはゼロベースで観ることと関係がありません。まずゼロベースで感覚を使い、その上で知識を活かすのはいいのですが感覚を使わずに決めつけてしまったら本質が遠ざかってしまうばかりです。

まず御互いに素直になるには、素直になる風土や素直になる環境が必要です。それは言い換えれば、御互いに分からないことを何でも訊き合える関係を築くことのように思います。常に御互いがゼロベースでいる工夫をしていくことで、刷り込みが入りにくくなっていきます。私たちの仕事はその先入観を取り除くことがとても大切な要素になっています。

引き続き子どもが安心して様々なことを体験して学びを活かしていけるよう、子どものゼロベースの姿から学び直し、子どもの素直に聴く力、そのゼロベースの引き出しをより環境を育て見守っていきたいと思います。

偏りは持ち味

私たちの会社で取り扱っている商品にミマモリングプラスというものがあります。これは気になる子と呼ばれる一般的には軽度発達障害という偏った子どもをどのように見守るかということで開発されたものです。

そもそも軽度発達障害というのは、アスペルガー症候群や高機能自閉症、ADHDなどアメリカで名づけられた障碍の一つです。アメリカではラーニング・ディスアビリティ(learning disability通称LD)と呼び、日本ではそれを学習障害(LD)といいます。このディスアビリティという言葉は海をわたって日本に来ると障害になります。海外では個性というのは当たりに尊重していますが、どこか私たち多くの日本人の一般常識の中には個性が受け容れてられておらず何か悪いことのような響きでイメージする人も多く、障害というとよくないから隠そうとさえします。

本来、私としてはディスアビリティとは単なる「偏り」のことでそれは一つの個性という認識です。障害は個性ですと言い直してみてもピンと来ていない人が多い様に思います。みんなと違うことは駄目で間違っているという刷り込みや思い込みが邪魔しているのかもしれません。それに障害は「害」の字が入っているからと今では障「碍」にしていますが言葉の響きが「ショウガイ」ではなく、個性の偏りとしそれは一つのその人の大切な「持ち味」と思っている人は少ないように思います。

皆と違うことがダメだという刷り込みで、みんな誰しもが自分が普通であるということを気にします。言い換えれば自分はフツウの人であるとし周りと同じであることをアピールします。先日もある人から「自分はもっともフツウであって周りが変だ」と言われましたが人間は何も偏りがない方がよっぽど変ですからそもそもおかしなことを言っていることに気づきます。この偏りというのは個性です。個性を排除するような一斉画一の金太郎飴のような育て方をされてきたから偏りもまた良くないことだと思い込んでいるのかもしれません。

昨日の遠山啓氏の言葉で、

「偏るのがなぜ悪いのでしょう。過去において「何か」をやった人はたいてい何かひとつの事で優れて偏った人です」

があります。そもそも偏るというのは、その力でお役に立ちたいと自分が選んで来たチカラのことです。人は赤ちゃんのときから、無限の力を持っています。それを周囲を見ながら何を削ろうか、何を残しておこうかと選択していきます。そして残してきた力を将来社會に出た時に役に立てようとします。それは社會の中で必要とされるために役割を持とうとするのが人の幸せだからです。

偏りがあるというのは、それだけ社会で御役に立ちたいと信じてその力を遺した人です。そういう力を発揮してもらってこそ人類の発展があり、そういうチカラによって私たちは進化成長してきたとも言えます。皆が個性を認めて持ち味だと認識すれば誰も偏ることは怖いことや悪いことではないと思えるようになります。

今のようにみんな同じものにしようというのはどこか大量生産大量消費の思想に似ている気がしてなりません。序列主義に置いても同じく、便利な機械のように同じロボットを増やしておいて誰かの利益のために役に立たせようとする便利主義も見え隠れします。

しかし実際に私たちの先祖や人類はどのように生きてきたかの歴史をみればすぐに持ち味を組み合わせ協力・協働してきたのが分かります。それぞれが異なる個性があるからこそ、それぞれにその時々にお役に立つことが出来る。ある人はそれを「皆働社會」とも呼びました、一つのムダもない社會のことです。ある特定の人間の基準でこれは役に立つや立たないという分別や差別で人を裁く社会ではなく、誰一人役に立たない人はいないという社會が本来は存在しているのです。後者の社会は、産まれてきているだけで幸福な自然の世界です。

偏りを悪いと思っている刷り込みは、保育の書類や様々な仕組みの中に随所に入り込んでいます。その刷り込みを一つ一つ取り払い、本来の姿に戻すことが出来るならその組織や社會も肯定に満ち、その場においてみんなが持ち味を活かす最幸の現場が出てきます。

引き続き、みんなが倖せになる職場や現場、子ども達が安心して愉しく豊かに過ごせる場をつくるため一つでも多くの園にミマモリングプラスの仕組みを広げていきたいと思います。

 

まちがった教育~刷り込みからの脱却~

熊本県下益城郡出身の日本の数学者に遠山啓氏がいます。この遠山啓氏の競争原理を超えるという理念を支柱にできたのが埼玉にある自由の森学園です。ここの子ども達の活動を見ていると随所にその理念が浸透し反映されている部分を知り、その根底には私にも同じ気持ちがあるのを実感します。

そもそも日本の教育は、だいぶ昔から変わっておらず時代の変化があっていてもまるでどこふく風のように「学校」という形にこだわっています。外から学校に入り不思議に思うのは学び方が知識偏重型の詰め込み教育スタイルをいつまでも維持していることです。

世界をはじめ、IT化が進み情報などはもう学校以外でほとんど入手する時代です。何のために学校にいくのかを再定義しなければそもそも子ども達も学校にいく意味を感じなくなるのは自明の理です。特に本質的であればあるほどに子どもたちは直感で学校学ぶことの価値に「?」を持つことだと思います。

この遠山啓氏は、だいぶ前にこのことを言及している言葉があります。

「学校教育そのものが、いま、絶対視されていて、唯一の教育機関みたいになっているけれども、客観的にみても、情報社会になってきて、学校以外からえられる情報がかくだんに多くなっている。だから学校の相対的な価値はもっとさがるべきではないでしょうか。」

私も同感で、学校だけが教育する場所ではなく人は学校以外のところで学ぶために学校があると私は思います。あくまで学校は、「場」を超えないのであってその場をどう活かすかは子どもたち自身だからです。世界では様々な新しい学校が産まれています、以前見学したシンガポールの学校やインドネシアのグリーンスクールなどもそうです。何のために学ぶのかという原点をはっきりしている学校が、新しい場を創造していくのです。

遠山氏はこう言います。

「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(子どもの側にたつ)より

ここでの自由というものは、今の時代では多様性と言い換えてもいいかもしれません。つまり多様性を持つものだけが自由を手にしますから、自由を手にするためにも自分自身が主体的に世界を知り、歴史を知り、自然を学び、原点を掴み、いのちを生き切ることを遣り切る必要があるのです。自由というのは自然あるがまま(由)の合体した言葉です。如何に自然であるか、自然の中には無があり無の中には無限の創造性があります。そういうものを引き出すためにも自然一体の境地を学問によって学んでいく、その場を提供するのが学校本来の役割ではないかと私は思います。

それを壊すのにもっとも大きな影響を与えるのは「刷り込み」です。私たちは競争原理や序列主義の中で、差別され様々な自由を奪われてきたとも言えます。本来、いのちに序列や差別はありませんがそれをされることで深く心が傷ついてきたのです。すぐに他人のことを馬鹿にしたり出し抜いたり、それを見ているととても心が痛みます。かつての教育によって傷んだ気持ちをどう開放するか、私たちの取り組んでいる本業もその辺が深く関わっています。

そして遠山氏はこう言います。

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

能力主義というのは、序列主義から発生してくるものです。人を分別し、知識の有無と正確さで優劣をつける。しかしこれでは上下の縦の関係が強くなるばかりでいよいよ横同士の関係のない堅苦しい集団になります。今の時代はかつての上からの一方的な価値観では乗り越えられない時代です。多様な価値観が存在する社會があるのですから、そこは御互いに協力し合って衆知を集めて乗り越える時代です。しかしそれを超える方法も遠山氏は示しています。

「いまの教育というのは、テストの点数で子どもを優劣の順に序列化して一列縦隊になってしまっている。その序列の向きを90度変えれば、一列横隊になる」

如何に発想を転換するか、そこに自由の森の子ども達の活動の妙味があるように思います。子ども達の姿をみていたら、私が今、取り組んでいる子ども第一義の理念と同一であることに気づきます。如何に協働し、如何に自由であるか、その中には個々の尊重と持ち味を活かす仲間づくりをしていく場、衆智の活かし合いを重んじている感じがします。個々の自立は、仲間があってはじめて成り立つものですからその仲間づくりをどう体験するか、そこに自由を学ぶ意味があるように私は思います。

最後に、この遠山氏のこの言葉に私はとても共感します。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

私はこの「まちがった教育」のことを「刷り込み」からの脱却であると定義しています。今まで教えられてきたことを一度疑ってみる、今まで常識だと思っていたことをいちど見直してみる、そういう中に刷り込みの脱却があります。

教育がまちがうというのは、本来の学びの価値が失われていくことです。自分で考えて自分で学ぶ、ゼロベースで考えることが出来る人こそが本物の教育者であると私は思います。

引き続き、御縁をいただける学びをすべて子どもたちのために活かし切っていけるよう精進して全てものから学びきっていきたいと思います。

自然美と恩顧知新

民藝という言葉を育て民藝運動の父と呼ばれた人物に柳宗悦がいます。先祖たちの暮らしの中に美を発見しそれを民藝という表現を通して人々に暮らしの美しさや豊かさを再認識させたとも言えます。

「工芸の美は健康の美である」、「用と美が結ばれるものが工芸である」、「器に見られる美は無心の美である」、「工芸の美は伝統の美である」という理論も立て、暮らしの美というものが何かを多方面から表現されていました。

柳宗悦は「正常の美」という言葉を使います。そこでは「この世にどんな美があろうとも、結局「正常の美」が最後の美であることを知らねばなりません」といいます。この正常の美とは何か、私の解釈では自然美のことです。自然美とは、真善美の美のことで本質本物そのものということです。

柳宗悦はこう言います。

「『正常』というと何か平凡なことのように取られるかもしれませんが、実はこれより深く高い境地はないのであります。ありがたいことには、健康な性質の品物は、自ずから単純な形を取ることであります」

そして「単純を離れて正しき美はない」とも言います。これは横文字にすると、シンプルイズベストであるということです。単純というものは、余計なものがない美のことです。今の時代のデザインはどこか余計なものをわざわざ装飾してさも新しく見せようとします。しかし私はそういうものはどこか暮らしから外れている感覚があり、できる限り余計なことをしない中に本物の美があるように思います。そしてそういう美を表現できる人はみんな謙虚であり素直な人がほとんどです。

柳宗悦はこうも言います。

「自然さとか謙虚とか質素とか単純とかいうことが、美を育てる根本的な要件であるということです。」

真善美どれにいたるのも真理に入る道の入口ですが、その大前提として以上の根本的な要素や要件を満たしていなければたどり着けることはない様に思います。実際は、徳を如何に高め修めるかで用の美もまた顕現するということでしょう。

自然美というものは、何もしない美のことです。自然が自然のままに美しい様に、その美しいものを美しいままに用いる感性のことです。自然美を離れ、人工的な美しさの中に暮らしはありません。その暮らしをどのように取り戻していくかは、如何に自然と一緒一体になって謙虚に生き方を観直していくかということによります。今の都会では気づきにくいことでしょうが、敢えて都会でも生き方は継続できることを私たちは子ども達のためにも証明していきたいと思います。

最後に、柳宗悦にこうあります。

「近代風な大都市から遠く離れた地方に、日本独特なものが多く残っているのを見出します。ある人はそういうものは時代に後れたもので、単に昔の名残に過ぎなく、未来の日本を切り開いてゆくには役に立たないと考えるかも知れません。しかしそれらのものは皆それぞれに伝統を有つものでありますから、もしそれらのものを失ったら、日本は日本の特色を持たなくなるでありましょう。」

日本の特色がなくなるというのは、日本人がいなくなるということです。この言葉は今の時代を生きる私たちにとって何よりも大切な訓戒です。未来の日本の子ども達のためにも以上のことを肝に命じ、先祖たちの真心を忘れないように恩顧知新を続けていきたいと思います。