道と家と暮らし

家のことを深めていると、家には暮らしがあってはじめて家であることが分かります。以前、ホームレスとハウスレスということをブログで書いたことがあったと思います。現在は都会で野宿していても愉しそうに集まって賑やかに生活している人もいれば、高級マンションに住んでいても孤独に一人ぼっちで仲間がいない人もいます。家がないはホームレスの人ではなくハウスレスであるということ、ホームというのは単なる建築物ではなくそこには温もりのある家族や仲間があって家があるのです。

そしてこの家というものは、自分が暮らしてはじめて家になります。一家の一員としてどのように生活をするのか、家族や仲間を大切に思いやり温かい関係を築いていく中で家は次第に住み心地がよくなり居心地が善い安心基地になっていきます。それをホームだと思っている人は多いと思います。

スイス生まれの建築家ル・コルビュジェの言葉に「家は生活の宝箱でなくてはならない」という言葉があります。言い換えるのなら、生活が宝だから家が輝くとも言えます。つまりそこでの美しい楽しい味わい深い一家の家族や仲間との暮らしが宝と感じられることこそが家の定義であるのです。その宝を日々に発見していく場が家ですから、その家の雰囲気や風格、家風といってもいいかもしれませんがそれが暮らしを彩っていくのです。

一家があれば野宿であってもそれは単なるハウスレスなだけで其処にホームはあります。いくら家が豪華絢爛で豪邸であったとしてもそこに家族がなければ単なるそれは建築物です。家は家族や仲間があってこそ家になりますから、家を与えられたことが嬉しいのではなく家に一緒に暮らす仲間があることが何よりも嬉しく有り難いのです。

古民家の再生というものは、建物の再生と暮らしの再生があります。私がやりたいのは建物の再生ではなく、暮らしの再生なのです。暮らしこそが仕合わせで、暮らしの中の美しさも豊かさもまた歓びもある。そういうものを子ども達に伝承していくために家が必要なのです。一家の伝承をするにおいて当主として何をなすべきか、それを辿っていると自ずから自分の役割と環境に感謝の気持ちが湧いてきます。古民家再生をするという意味を正しく伝承していきたいと切に思うばかりです。

最後に、もう一人、日本を代表する建築家、安藤忠雄さんの言葉です。

「環境とは、与え、与えられるものではない、育ち、育てるものである。」

これは家人としての心得だと私は思います。家を建てる人だからこそ家の本質を語っている言葉です。つまり環境は自ら創造するものであって、与えられたからそれでいいわけではない。それは自ずから育つことと自らが感化して育てていくことなのです。自らが主体的に暮らしてこそ家ができ、その家を大切に守るからこそ暮らしは継承されていくのです。そしてこれが家なのです。

世阿弥が、「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす。」と言いました。つまり「道の家とは、血筋で繋がるものではない、その道を伝えてこそ家といえるものである。その家に生まれただけでは、道を継ぐ者とはいえない。道を知ってこそ、その道を継ぐ資格がある人ということである。」という意味です。

神家本家のカグヤ道は、道を実践することで「暮らす家」にすることなのです。今の時代に、先人たちの生き方や先祖たちが大切に譲っていただいたことを遺し譲ることこそが子ども達のためにその真心を勿体なくしていくことです。引き続き、種徳を立て、眼花の花にならないように子ども第一義の理念を優先していきたいと思います。

 

 

 

 

当主と家と暮らし

昔の古民家との対話について書きましたが、当主ということの意味やなぜ一家があるのかについても同時に深まってきています。そもそもその代の当主、特に初代当主ということが何を意味するか、それは家との対話を通してはじめて感じるものです。

家にはその家の持つ家風というものがあります。それは当主が何を大切にしてきたか、当主がどんな初心を持ったか、古民家の一つ一つをとって対話し深めていてもその家の主(あるじ)がどのような生き方をして何を大切にしてきたか、その生き様があちこちに遺っています。家との対話はその家の主との対話でもあります。その主がどのような人物であったか、その主が何を実践してきたか、それが家でもあります。それを代々守ることが当主の役割であり、代を重ねれば重ねるほどにその家の歴史が積み重ねられていきます。

そしてその当主と同じくする家人は、その当主の思想や生き様、生き方を通して自分たちも一家の一員としてそれぞれに大切に守るものを持ったり、それぞれに理念を優先してその家の歴史を清め、家格を盛り上げてきたとも言えます。その家の持つ風格や品格というものはその家に住む人たちが大切にしてきた思いの集積でもあるのです。そしてよく言われる「一家の恥」というのは、その当主や家人が代々大切にしてきた生き方や生き様、その連綿と続いてきた家人に対して恥ずかしいことをしたということです。それは道義に反した、言い換えれば「暮らしを壊した」ということです。老舗がなぜ老舗として何百年も続くのか、そこには暮らしが密接に関わっているのです。

当然その家に住ませていただけるというのは、感謝のままにその家の生き方を実践するということです。それをもって家の人になり、その家に住まうというのはその家を通して自分の人生を彩る場を得たとも言えます。そこで暮らす人々のことを家族といい、その家族の道が続いてきたことを家系とも言います。

一家の一員であるというのは、常にその家の主としてどう暮らすのかを示すことです。暮らし方が家の生き方ですから、日々の生活においてどのように暮らしたかを実践することが家人としての最大の務めでもあります。

カグヤではもっとも日本人らしい生き方、大和魂を実践しながら子ども達のために温故知新した新しい生き方と働き方を一致させようと試行錯誤しています。そのために一家にし、一家の主として当主となりました。しかしこの当主の重みは、ここで古民家を再生する中ではじめて深く感じ入っています。

「暮らし亡くして家はなく、家を亡くして暮らしもない。」そしてこの暮らしと家がないのに主があるわけがありません。当主というものはいかなる暮らしをする家を立てるか、その一点に全てが集中しその思想を宿していくのが最大の使命です。

家との対話は、暮らし方との対話、新宿でやっているこのカグヤの暮らしが何を意味しているか、改めて今回の機縁を通して見直していきたいと思います。

 

歴史を学ぶとは何か

昨日、福岡県八女市で有名な町家再生の設計士の方とお会いしてお話をお伺いするご縁を頂きました。その方は、もうすでに八十以上の古民家の再生を手がけており町並み保存や文化財の調査、人財育成等々にいたるまでありとあらゆる活動を志で取り組まれている方です。

古民家の修景ではなく修理をすることを本筋とし、如何に後世に「本物を遺すか」ということを重んじられていました。現在は、ほとんどが予算の関係から町の景観だけをよくするために外見の見た目はそれ風にしますが本質的に古いものを修理修繕するわけではありません。そうではなく、丸ごと直すという観点で人、場、ものにいたるまでに全てに総合的に修理を手掛けておられました。

昨日は福岡の聴福庵を見ていただき、傾きをどのように修理すればいいかだけではなくまたこの古民家がかつてどのように使われていたか、そしてどのような修理を今まで行ってきたか、その歴史について色々と教えていただきました。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、阪神淡路震災の御話でした。実際に文化財や古民家など震災後に壊れてしまい実際に調査をしたそうです。すると9割が壊されいたそうです。その実態を調べると、古いものには価値がないと業者が新築を勧めて壊していったものがほとんどだったそうです。古いものの修理修繕は無理だからと、文化財や古民家への理解がない人たちがそれまで大切にされてきた歴史を考えずに安易に取り壊してなくなってしまったそうです。

その方の『これは古いものを単に捨てて新しいものにしたのではなく、それは歴史を捨てたのだということに気づいていない』という言葉がとても深く心に印象に残りました。

よくよく考えてみると、家が何百年も続くというのはそれまでの先祖たちの暮らしや生き方、生き様、そういうもの遺っているということです。家では柱の傷などもそうですが、かつて子ども達がせいくらべした傷や落書きの傷、その他大切されてきたさまざまなものが「思い出」として間に宿っています。そういう観点で見れば文化財とは何か、それは歴史の宝そのものなのです。

そういう歴史を安易に捨てるということは、思い出を安易に捨てるということです。本来人は何のためにこの世に生まれてきたか、それは思い出を残すためではないかと私は思います。生き様を遺すと言い換えてもいかもしれません。一生一度、一期一会にこの地上の楽園に生まれ出てきたいのちに神様が平等に与えてくださっているものは「思い出」をつくれるということです。

このことから洞察すると今の時代は決して新しいものばかりが価値があると人々が信じている時代というわけではなく、歴史を大切にしなくなった人々が増えている時代に入っているということです。歴史というのは、先祖との対話です。先祖の生き方との対話を歴史を通して学ぶのです。古民家を通してその方がじっくりと先祖と対話しているのをみて、私は魂が揺さぶられました。

私自身、もっと先祖たちを尊敬し先祖たちの偉業と真摯に対話ができるよう歴史と正対していこうと改めて決心する有り難い機会になりました。新しい御縁はすべて学び直し、生き直しの大切な時機、このまま古民家から色々と教えていただけることに感謝して自他一体の自己修理を進めていきたいと思います。

自然の学問~大局観~

現在、知識という便利なものを使ってから体験をすることよりも知識を持つことが価値があるかのような世の中になっています。大学をはじめ研究というものも本来は実践があっての研究であるのに、研究のために実践になっているのなら何の意味もありません。

本来は研究すること目的ではなく、現場が困っているから具体的な解決方法を研究する必要があるのです。そして本来の研究とは、実践ののちの研究のことであり体験したことが何だったか、そこから何に気づき直していけばいいかの改善の集積なのです。

そしてこの改善には、知識ではなく「感覚」を用います。感覚というものを身に着けるには失敗が要ります、失敗を通して様々なものを学び感覚を研ぎ澄ませていくのです。知識が多い人は失敗を過度に怖がります、それは知識は失敗では研ぎ澄ませず修正するだけだからです。習得するのなら、本来の学び方である失敗を通して感覚を身に着ける、古来の言い方では「コツを掴む」ことで学習は成立していきます。

民藝という言葉を起こした思想家に、柳宗悦がいます。その遺した有名な言葉に『見て知りそ 知りてな見そ』があります。これは「なんでも見てから知れ、知ってから見るんじゃない。」ということです。

言い換えれば知識から入ってものを知ってはならぬ、分かった気になってはならぬ、まずは見てから、やってみてからのちに知ればいいし分かればいいと言うことでしょう。

知識を持ったからといってその本質が理解できるわけではありません、具体的な実践を通して本質を知り本物になります。つまり体験の質量こそが、その人の感覚を研ぎ澄まし本来のその人の持つ全身全霊の力を引き出していくということなのです。

現在はすぐに何かをやろうとすると知識から入るものです。私の場合は知識がないけれど好奇心があるからすぐにそのものに触れます。自然農をすればすぐに虫刺されや怪我をします、古民家を再生しようとすればすぐに弱いものを毀してしまいます。痛い思いをして失敗ばかりをしては、なぜこうなったのだろうと反省内省してそこからもう一度すぐにやり直してみます。

その繰り返しを何度も何度もしているうちに、自分のカラダの中にある「感覚」が呼応してきます。そうしているうちに身に着けたのは「大局観」です。つまり事物の大局を理解するチカラ、そのものに触れるチカラ、邂逅の力のことです。

人は触れていくことで次第にそのものが”自分に馴染んで”きます。この馴染んでくるというのは場数とフィードバックが欠かせません。そうやって何度も失敗して経験して学び直していくことが成長することであり、成功よりも大切な学問の醍醐味、そして連綿と続いてから太古からの道と大義が感じられるものです。

どんなことも「見て知りそ、知りてな見そ」で、接していく姿勢こそが自然の学問ということでしょう。引き続き、挑戦を愉しみ与えていただいている失敗に感謝して歩んでいきたいと思います。

 

自然感覚を磨く

古民家の掃除をする中で、現代建築のものとかつての古いものの手入れの仕方に大きな違いがあることに色々と気づきます。今まで使ったことのない掃除の技術ですが、実際は私の方が馴染んでいないだけでかつての日本人たちは掃除の技術も今とは異なっていることに気づきます。

例えば、古いものを扱う時、力の加減というものがあります。プラスチックやステンレスのように均一ではなく、昔のものは強いか弱いかは直接触れて扱ってみないとわかりません。それが一体何でできたものか、土でできたものか、鐵か銅か、もしくは木でできているものか、その作り手のプロセスを感じ取らなければならないのです。それは現代の画一された物とは異なりとても個性があり弱くそして強く造られています。この弱くて強いものという感覚は、触ってみてはじめてわかるものでありそれは現代の大量生産されている物とは完全に異なります。

また凹凸というものがあります。現代のフローリングには凹凸がありません。しかしかつての古い家には、壁から床、ありとあらゆるところに凹凸があります。それは掃除してみればわかるもので、平らなものとは異なり凹凸に触れることで掃除の感覚もまた変わってくるのです。

後は水の使い方というものがあります。掃除機やクイックルワイパーなどではできないところは拭き掃除ですが、ぞうきんをよくよく絞っておかなければかえって逆効果なところもあり、掃除する場所によっては様々な工夫が要ります。同じ木のものでも時には乾拭きしたり、時にははたいたり、時には陰干しなど、そのものによっては全く接し方が異なるのです。

こういう一つ一つの中に、暮らしの中の技術があります。それが「もったいない」生活とつながり、古い自然のものに触れるとき私たちの本能は磨かれていくのです。平らなものや新しいもの、均一の強度のものにばかり触れていると日々の感覚も失われていきます。今は感覚を使わなくても済むものばかり、多少の知識があればだれでも便利に安易に使えるものばかりが溢れています。しかしそれではますます自然に触れる機会が少なくなります。

自然に触れるというのは、たとえば私たちの会社ではお昼ご飯の際に電気を落として自然光で過ごしてみることや、室内に季節を室礼して四季のめぐりを味わうこと、そういう暮らし方、生き方を通して自然感覚を日々に磨き上げ、本来の自然の一部として謙虚に生きていることを忘れていないように自戒しているのです。

実践は大げさでもなく特殊でもない、日々の暮らしの中にある一つ一つの丁寧な所作と関わり方によって実践は積み上がっていきます。本来の日本人の生き方とは何か、引き続き深め子どもに伝承していきたいと思います。

循環型の暮らしとは何か~自然一体~

古民家の修理をしながら様々なものが修理可能につくられていることに気づきます。今の時代はすぐに何でも捨てて買換えですが、昔は貴重な材料と貴重な資源だからこそそのものをどこまでももったいなく大切に活かしていました。そこには確かな「暮らし」がありました。

そもそも日本人の暮らし方とは何か、古民家や先人たちの教えに耳を傾けているとそれは循環型の生活であることが自明します。自然が循環するように、自分たちもまた循環していこうと暮らし方を創意工夫して、革新し続けているとも言えます。

循環するからこそ温故知新が必要であり、循環するからこそイノベーションが求められるのです。そして循環すれば自ずから多様性、ダイバーシティもまた発揮されていきます。この循環とは暮らしの本質であり、その循環を取り容れることが自然を生活の中に取り込むことなのです。

現在、自然農や自然養鶏をはじめお米や様々な生き物たちと一緒に育っていますがこれもまた暮らしそのものです。自然のものと一緒一体に共に生きてゆくとき、私たちは循環型の暮らしになっていることに気づきます。

循環型の暮らしは、野生の本能を呼び覚ましいのちの本質が甦っていきます。よく世間では循環をエコのようにいいますが、私からすれば循環こそが野生です。野生のものをどう取り容れるかが循環に順応することであり、それができてはじめて人は暮らしを実現していくのです。

つまり循環型の暮らしとは自然一体、地球の全体の中の大切な役割を持つ一員として主体的に生きていくことです。

ここでの暮らしを考えた時に、如何に日本人の精神性を優先する生き方をしながら時代の最先端を取り容れ工夫していくかを思います。可能性が広がっていきますが本来の子ども第一義の理念に沿って子どもに譲れるものを遺していきたいと思います。

素直は聴くこと

昨日、ある高校で一円対話を行いましたが高校生たちの話す言葉に改めて素直であることの素晴らしさを感じました。素直さというのは、物事の実相が観える心のことです。本来人は自分の思い込みといった価値観のフィルターを通さずに澄んだ眼で観通すことができるのなら心の美しさを知り有り難い感謝の心に満たされるものです。

しかし実際は、感謝の心を忘れ自分の思いばかりに固執するとそのうち感情の呑まれ価値観の色眼鏡で相手や周りのことをみて自分の心配に終始していくものです。日頃からそうならないように常に「聴く」という訓練を行うことで修養していくことも自分との付き合いの中では大切なことだと思います。

思い込みの強さというのはこだわりの強さとも言えます。それは確かに何かを信じて思い込み行動するという創造性という意味では長所になりますが、逆に短所だと自分勝手に思い込み相手のことを考えずに猪突猛進してしまうといった欠点にもなります。

長所と短所は表裏一体ですから、長所を伸ばし短所はカバーすることで人は素直さを取り戻すことができるように思います。一つは周りの人を信頼して自分の弱みをカバーして強みに特化して貢献していくことです。それは共生と貢献といった互生関係を持つ植物たちのように御互いの持ち味を仲間の中で活かせば何も悪いことは起きません。自分の持ち味を知り、そして仲間の持ち味を知り、その御互いの持ち味を知る人たちは長所を活かし強みを伸ばします。

そして個々人としてはやはり素直の修養が必要だと思います。言い換えるのならば、感謝の心を忘れずに謙虚になること。まずは感謝をし自分が思い込んでいないか、自分が何か間違っているのではないかと周囲の声に素直に耳を傾けているか、そうやって自分が頑固に固執しないよう、柔軟に素直になるようにと日々に訓練を怠らないようにするのです。

人は思い込みが入れば、話を聴くのが嫌になります。そうやって感情的になって好悪感情が入り込んでくればくるほどに思い込みはより激しく荒ぶってきます。感情は思い込みという火に薪をくべていくようなものですから落ち着くまでは火が消えることはありません。

しかし一円対話のように改めて周りの人たちが本心から何を思っているのかをみんなで傾聴し共感し受容するのなら自ずから感謝が発生してきます。そして感謝までたどり着けば、それぞれに自らの自分のことを反省し謙虚に素直に改善していこうという気持ちになり御互いの心と感情が洗い清められ素直になっていくのです。

もっとも人間関係において気を付けるべきは「思い込みで見ない」ということでしょう。

コミュニケーションの本質は、自分が思い込まないために行うものでもあります。思い込みは御互いの不幸を呼び込みます。思い込まないためにも本心本音が語り合える距離感、錆びない関係、御互いに手入れをし続ける努力を怠らないことのように思います。それは常に素直になるために「聴く」ことが先であると私は思います。そういう意味では私はまだまだ本当に反省することばかりで改めて自戒をして精進したいと思います。

社會に入るというのは決して一人では生きてはいけないことを自覚することですから、常に社會の尊い一員であることを忘れず感謝の基盤に素直で謙虚な日々を一円対話の実践を通じて私も磨いていきたいと思います。子ども達には仕合わせに生きる素直な感性、謙虚な真心に触れて人々が安心して生きていける社會を譲っていきたいと思います。

考古知新

物事には本筋というものがあります。それは良いか悪いかではなく、何のためにやるのかということです。その本筋と本質を議論することなく、いつも良し悪しばかりに時間を費やされていきますが本来何のためかは何よりも優先しなければ根本から考えることができません。

そういう意味では、歴史は本筋の学問であり何のために歴史があるのかを考えなければ人は学習しているとは言わないのです。過去の歴史の成功事例と失敗事例だけを集めて知識を勉強してもそれは歴史から学んでいるわけではありません。歴史から学ぶというのは、それまで伝承されてきた先祖たちの生き方を学ぶことです。その上で、不易と流行のように変えていくものは何か、変えてはならないものは何かを学び直して実際の暮らしの中に取り容れていくことです。

先日も復古創新を深めていく中で、考古知新という言葉にも廻り会いました。論語には温故知新とも言いますが、この古いものとは歴史のことです。何のために人間は生きるのか、人間は今までどのように暮らして生きたのか、その暮らしをみるとき私たちは生き方を見つめます。

その生き方を考える学問こそが考古であり、それを今の時代に置換してどうそれを反映させるかが知新なのです。それは別に古いものを使えばいいや古い家に住めばいいということではありません。時代が変われば道具も変化してきますから、別に今の道具を排除することが温故ではありませんし復古でもありません。

私たちの民族の精神性、大和魂とでも言った方がいいかもしれませんがそういう日本人の古来の生き方を現代でも貫こうということでもあるのです。果たしてそれは古臭いのかということです。今の時代、日本人とは何か、かつての先祖のような生き方が何かが語られることが少なくなってきました。歴史を紐解けば、そこには今の私たちまでつないでくださっている「義」があります。そういう義を結び、今の時代にどう復古創新するかはそのものの本筋や本流、本質からやり直す必要があります。

それはまさに全ての物事を何のために行うのかと原点回帰することであり、時代時代に不易と流行の中で本質を取り戻すための智慧でもあります。

歴史から学ぶのに歴史を捨ててしまえば歴史は紡ぐことができません。だからこそ古き暮らしを守ろうとする人たちが、顕れては古き伝統を伝承するためにいのちを懸けているのです。

一見、ただ古臭く見えるものの中に何のためにそれをやっているのかという意味が必ず隠されているものです。その意味を感じ取り、それを今の時代でも再現する。再現すべきはその意味の方であり、形の方ではありません。しかしその感性を磨くためには、古きものに触れる機会が必要なのです。

歴史の重みというものは、紡いで重ねてきた時間の重みのことです。代々大切に紡いできた心こそ温故であり、それをどう継承して生き方を正すかが知新ではないかと私は思います。

子ども達に遺せるもの、子ども達に譲れるものはほとんどカタチあるものではなく大切なのは先祖たちが命を懸けて守ってきたその生き方の方だと私は思います。引き続き、一期一会の学びを通して子ども第一義を貫いていきたいと思います。

福とは何か?

幸田露伴に幸福の三説というものがあります。運が善いと言われる人にはなぜか運が善くなる生き方があり、それらが運を高め運を好転させ続けているということです。この運が善いというのは、実際には何よりも大事なことで物事は自分以外の周りが動くことで自分の布置が決まっていきますから運を敵にしない人はみんな運が善い人だとも言えます。

では運を敵にする人とはどういう人でしょうか、運を敵にまわす人は幸福を私物化する人のことかもしれません。言い換えるのなら、業を重ね業に沈む人といってもいいかもしれません。自分の徳性に気づかず、無駄使いをし疲弊していく感じです。せっかく天から与えられたものがあったとしても、それを何に使うのかということです。

自然は自分の徳性を活かすとき、そこに運を与えるように思います。それは何のため自分が産まれてきたのか、そして何のために人生があるのかと真摯に向き合うとき自分の中に具わっている徳の存在に気づきます。その徳を磨き、その徳を育て、その徳を高めるとき運が好転していくように思います。

しかしその徳に気づかず、もしくはその徳を私物化し自分の欲望や自分ばかりのために使ってしまえば福はすり減っていきます。福がすり減れば次第に運が悪くなっていきます。運が悪くなってしまえば、どこかで徳に気づくまでなんども同じ生き方をしてしまうものです。

この世の中は気が付けば自分中心、自分勝手に私物化してしまうような機会ばかりが多くあります。そういう機会や知識に打ち克って、自分の初心や理念、理念を貫くために徳業を重ねるとき人は運がさらに開けて好くなっていくように私は思います。

幸田露伴の幸福三説は、一つ目は惜福。自分に与えられた福を大切に惜しむこと。二つ目は分福。自分に与えられた福をみんなと分け合う事。そして三つ目が植福。長い目でみて福を育てて続けていくこと。これらが幸福の人たちが実践している福の徳目であると言います。

これらを鑑みるとやはり福を私物化していません。福とは天地自然の恩恵ですからないものねだりをしてないものばかりを求める心に福を感じるチカラはありません。むしろ足るを知り、あるものを活かそうとするときにこそ福は感じられるように私は思います。

そういった前向きな考え、物事の善い方をみる肯定的な捉え方、ポジティブ思考、自然と一体になった信じる心が幸福に気付く感性を磨いていくのでしょう。

福とは、自然に具わった徳のことです。

自分も自然の一部ですから徳を持っていますし、この世の中に徳がない人は誰一人として存在しません。だからこそその徳を見出すことが教育の醍醐味であり、その徳を伸ばしていけるように見守ることが保育の本質のようにも私は思います。

引き続き、幸福の三説の実践を味わいながら子ども第一義の理想に近づけるために精進していきたいと思います。

 

自然への畏敬~弱弱しさ~

昔の日本の家屋のつくりは今の時代の家屋と違って弱弱しくできています。障子やふすま、土壁にいたるまでありとあらゆるものが寄りかかっただけで壊れたり破れたりするものばかりです。

しかしそういう弱さの中で、ものを大切にする生き方が自然に身に着いてきたように思います。これは私も思い出せば虫で遊んでいるときに虫を不意に傷つけてしまったときの感覚に似ています。弱弱しさというのは、いのちに触れることであり自然はすべて大切に扱うということがどういうことかを学んだように思います。

日本のかつての家屋は、自然と一体になってつくられていました。何かの非日常の大きな災害があればすぐに被害を受けていたともいえます。しかし自然を畏れ、災害に備えるからこそいのちを存えてきたとも言えます。

自然を敵対し、自然に一時的に勝ったと思ってもそれはあくまで一時的であり大きな災害が緩やかな浸食には誰も勝つことができないのです。世界にあるものが必ず年月を経て風化していくことをみれば必ず壊れていくのは自明の理です。そうやって世界は循環を已みませんからこれは自然の姿だとも言えます。

その自然に逆らうのではなく、自然と一体になって生きようとするのが先人達の智慧でありそれが昔の家屋にはふんだんに取り入れられています。例えば、弱いといったさきほどの家具類は敢えて弱くつくることで手入れをするようにつくります。障子なども破れれば張替、傷めば取り換え、その都度手入れをすれば数十年、いや数百年でも持つのです。

今の時代の家屋は、手入れをしないでどこまで持つのかという基準でものづくりがされています。そして壊れれば捨てるのです。「捨てる」ことが前提でものづくりをしますから、壊れないもの強いものに固執するのです。

しかし本来、永く使えて丈夫なものと考えれば本質は弱いもののほうが強いし長持ちするのです。ただ前提が「捨てない」ということが基準になっています。そしてそれが「もったいない」という精神と密接につながっているとも言えます。

この前提をひっくり返さなければ強いものが弱いことに気づかず、弱いものが強いということにも気づかないのです。先人たちは、ものを粗末にはしませんでした。それだけものの価値に気づいていたとも言えます。また長い目でものを探していたからこそ、永い時間耐えることができる弱いものの扱いに慣れていたとも言えます。今の時代は短い目でしかものを探しませんから見た目ばかりにこだわり強度を強くしていますからものの扱いなど気にしなくなっています。

昔の家屋や道具、骨董と呼ばれるものは扱い方を間違えばすぐに壊れます。自分たちが扱い安いものを増やして道具を変えるのではなく、道具にあわせて自分たちが変わる方がいいと謙虚な生き方をしていたのが観えます。

自然を畏れる生き方とは、自分の方をサラリと変えてしまう生き方です。引き続き、復古創新を味わって学び直していきたいと思います。