実践と徹底~智慧の会得~

素直な人は善いと思ったことはすぐにやりますが、同時に徹底してやるというのがあります。それは善いと思えるようになるまで徹底してやりきるということです。こういうコツを掴んでいる人は、あらゆる体験や智慧が自分のものになっていくものです。知識ではなく智慧になるのは、それは体験を徹底して深めることに由るものです。

今は知識として単にいいと思うものばかりを取り入れる時代だとも言えます。ちょっとテレビや本で善いと思ったものを簡単便利に取り入れますが、それでは表面の知識をなぞっただけで智慧になることはありません。

よく古来から「カラダに沁みこませる」や、「そのものと一体になるまで」という言葉がありますが、頭で考えてわかる程度では分かった気になったとしても「ものになる」わけではなくそんな知識では他の人に伝えることもできませんし、大切な気づきを同じ高さで理解できるわけでもありません。

まさに「徹底する」ということは何よりも大切なことであろうと思います。

炭一つであってもどんな実践をはじめるにせよ、他人から「そこまでするか」と思われていても「そこまでするから」気づくこともまたあるのです。徹底という意味は、辞書をひくと、中途半端ではないこと、底まで貫くまで遣りきることという意味です。他には、すみずみまで行き届いていること、そして最後まで遣りきることと記されます。

まさに「底まで貫く」と書いて徹底ですが、もっともやってはならないのはやったりやらなかったりすることや、途中で分かった気になって深めることをやめること、実践にならなくなってしまうことのように思います。

善いと思ったことをすぐにやり、善いと思ったことを徹底してやる、まさにそれが素直であり謙虚である姿勢であるように思います。御縁は常に一期一会、善いと思う御縁をいただいたのならそれは唯一無二の人生にとっての祖神からの「大切な教え」であり篩にかけられた有難い自然の智慧です。

凡事を徹底できるように、一つ一つの実践を丁寧に貫いていきたいと思います。

習慣のメンテナンス~セルフイメージ~

人は自分のセルフイメージを確かめることで、自分の生き方を確かめることが出来ます。どのような自分を持っているか、それを知ることは今までどう生きてきたかを知る鍵でもあります。

セルフイメージを確かめるのに、自分の「癖」の確認というものがあります。これは言い換えれば自分の今までで沁み付いた習慣のことですが、どのような習慣を持って生きているかがその人の生き方でありセルフイメージでもあります。新しい自分を創っていくのも自分ですから、過去の生き方と決別し新しい自分になっていくためには生き方の転換が必要です。そのためにも自分の癖を明確に見抜き、それを捨て、新しい習慣を身に付けていくことで自分の人生イメージも変わっていくように思います。

コーチングをしていく上で、何よりも私が大切にしているのは「口癖」です。その人がどのような口癖を持っているかは、その人がどのような考え方をしているか、そしてどのような生き方をしているのかを確認することができます。

例えば、ある人は愚痴ばかりをこぼし不平不満ばかりを言う人ならセルフイメージの中になにかあると自分と他と比較して文句ばかりを言う癖があることが分かります。ないものねだりを断捨離し、あるもの探しに切り替え、新しい口癖を繰り返し言い続けることでセルフイメージを変えていきます。「これだけしかない」という口癖から、「こんなにもある」と変えて、その後は「存在が有難い」というように不足から感謝に変わっていくとき、その人のセルフイメージが変わっていくことを確認することができます。

どんな口癖を持っているかがその人の生き方ですから自分の口癖を常にチェックし、口癖を気にして口癖から自分を変えていくことがセルフイメージを変えるためにもっとも効果があるように私は思います。テニスの松岡修造さんの日めくりカレンダーがとても売れたと聞きましたが、前向きでチャレンジし、現状打破していく彼のポジティブで諦めない生き方に刺激される人が多いから共感されているように思います。

朝練で子どもたちのコーチをしていても、できることは一緒に実践することと、大事な自分の生き方を自らの口癖で示すことです。子どもたちに必要なのは「憧れ」であり、憧れる人がいることです。これを「ロールモデル」とも言います。そのロールモデルになる人は、当然口癖もまた憧れるような人であるはずです。自分自身の口癖を常にチェックし、その生き方が周りを刺激し変えていくことを忘れずに子どもたちのロールモデルになっていくようなセルフイメージを日々にメンテナンスしていきたいと思います。

 

人間の発酵~発酵人~

先日から振動数について少し深めていますが、自然界には脈動があるように人間にも同じように振動数というものがあります。これは心の周波数という言い方もすれば、魂の波長や精神の波動ともいってもいいかもしれません。

生きていると周りを仕合せに明るく元気にしていく人と、周りを不幸せにして暗くしていく人がいます。この人はなぜそうなるのかといえば、周りに振る舞っている振動数に問題があるとも言えます。

善い人、明るい人、元気な人の傍にはそういう人たちが集まっていきますがそうではない人には逆に暗くジメジメしている人たちが集まってくるものです。これは生き方が関係しているのですが、どんな生き方をしているかでその人の振動数も変わっていくのです。

齋藤一人さんは、振動数をもっとも下げてしまうものは何か、それは他人を変えようとすることと、愚痴や文句を言うことだと言います。私はそれに言い訳をすることと、マジメに正しいことばかりを口にすること、あとはオープンでない態度、すぐにやろうとしない湿っている人が振動数を下げるのではないかと思います。

逆に振動数が上がるのは、発酵しているような人たちです。何があっても福に転じて、ピンチは常にチャンスにし、自分を褒めまくり、自分を変えることを愉しみ、周りに笑顔と思いやり、ポジティブな言葉がけ、これら徳を実践する人格者はみんな発酵人でもあります。

この発酵というのは深めていけば自明しますが、振動数が大変高いものです。与えていくのを愉しみ、自分が与えられていることに感謝しつつその御恩をお返ししたいと願って生きている人たちはみんな振動数が高いものです。

そうやって自分一人の生き方が変われば、周りの人たちもブクブクシュワシュワと変わっていきます。自分の居心地がいいところもまた振動数が関係しますが、如何に清浄で風通しがよく明るく心地よい場があるかは、自分の振動数を高めるのに効果があります。

結局、人間は生き方次第ですから文句を言う前に自分の生き方をさらっと変えてしまえばすぐに振動数の周波数が変わりその周波数で安心した環境が出来上がるのです。一番気を付けたいのは、自分のいつもの振動するの手入れをこまめに行うことです。自分が腐ってしまう人や、自分がネガティブになりやすい人は、自分自身の使う言葉を変えて意識を変えていくしかありません。

意識が変わるには言葉や行動が変われば次第に変わりますから、朝練をはじめて大声で元気よく挨拶をし、爽やかな朝日を浴びて毎朝の祈り、カラダを伸ばし元気がよくなるような格言を素読し、朝食を食べ、暮らしを愉しみ、仲間と働ける仕合せを噛み締めて生きる。

こういう人には自然に運もついてくるように思います。振動数の話を聴いてから余計に、自分自身が高まる面白さを味わっています。周りに左右されず、自らの前向きで深まる学問によって人間の発酵を味わっていきたいと思います。

愉しい仕事

子どもに重きをおいて物事を突き詰めていくと、何が最も大切なことで何を譲ることが自分たちが紡いでいくことかは自明してくるものです。現在は経済成長だけが優先され、目先の損得ばかりで様々なことを決めていく時代とも言えます。

ニュースをみていても、中国との貿易をはじめ海外で発生している様々な法案や交渉もすべて経済を優先するためにその場しのぎの決定で後にツケを回すようにしているものです。

先日、オリンピックのエンブレム問題がありましたが子どもに遺したいいい仕事かという物差しなどはなく、それぞれの利権を優先するばかりで果たしてこれが仕事なのかと感じることばかりです。

本来の仕事は、後に追いかけてくる子どもたちのためにあるとも言えます。自分がどんな仕事を遺しているか、そこには先人としてどんな仕事をしてきたかがあります。実際に日本の建築物をはじめ、意匠を観ると、誇らしい先人たちの真心と誠実な心の籠った仕事を発見することができます。

決して粗末にせず、手を抜かずに、後のものたちのためにと必死に全身全霊を籠めたものであることに気づきます。それは信仰の場にいっても、そこにある仏像や刻まれた文字には祈りや心が籠っています。

今では仏像一つ機械で簡単に作れて、大量に生産して、それをたくさん販売しますがそんなものが子々孫々へと残っていくことはないように思います。

仕事がなぜ愉しいのか、それは後の人たちに見てもらえるからです。自分の遺してきた仕事が、のちのちまでお客様によって語り継がれることほど有難いことはありません。

あの時、真摯に助けてくださったとか、あの時、本当に大事な分かれ道だったとか、また何よりもその人の大切にする理想を諦めずに信じてくださったとか、見守られたことはいつの日までもずっと語り継がれていくものです。人は、丹精と丹念で手間暇かけた分、そして苦労を懸けた分だけが真心が籠る豊かで一期一会の愉しい仕事になります。

仕事は決して単なる作業や業務でもなく、その本質は「誇りと生き方」であるとも言えます。仕事に誇りを持てる人は、理念や大義を実践する働き方ができる人です。

子ども達に譲っていく未来を願い、本来あるべき姿を忘れずに愉しい仕事、愉しい会社にしていきたいと思います。

振動数~天地自然の脈動~

先日、沖縄で「振動数」についての話を伺う機会がありました。振動数とは何か、それは波長や波動といった「波」に関する話です。言い換えるなら、これはその人が発する周波数のことです。

いつも運が善い人という人がいます。この人の周りにいるといつも運に恵まれ善いことが起きます。よく素直な人や謙虚な人と言われますし、物事をいつもポジティブに考えていい方へと転じているからその人が発する振動数は運の善い波長や波動をいつも発しているとも言えます。

音波においてはこれを共振や共鳴とも言い、いつも前向きに愉しく明るく元気に生きている人の周りにはそういう人たちが集まってくるのです。

これは理屈ではなく御縁の世界なども同じです。どのような生き方をしているかで、似た人たちや以心伝心する人たちが集まってきます。自分の発する振動数次第で運が左右されていくのです。

この振動というのは、水面のゆらぎに似ています。深い底で落ち着き、水面でゆらゆらと揺れている状態と、いつも波風立てては落ち着かない水面ではその振動数は異なります。

これは心も同じで如何に自分の心を穏かにし、心を澄ませて心を高めて平常心を磨いていくかが振動数を決定付けていくようにも思います。

そして自然界には天地自然が発している脈動があります。これは心臓の鼓動のように、天地自然もそして宇宙全体もまた脈動を発します。その脈動でいる人は無為自然ですからいつも幸運に恵まれ、そこから外れると運から見放されてしまいます。否、見放されたのではなく自分が放れていくだけです。

この運というものは、道であるとも言えます。道に沿って道を歩むその歩み方は生き方ですから、日頃から善い振動数で道を歩んでいけるように精進していくことかもしれません。禍転じて福にする、何でも愉しく変わっていく、そういう前向きな心を育んでいくことが振動数を上げるということではないかと私は思います。

沖縄で学んだことを実践に換えていきたいと思います。

背中で伝承する~本当の学び方~

子どもに限らず人は成長するとき、モデルになる人物を一つの指標にしていくものです。例えば、見た目であったとしても生き方であったとしても、自分が参考になるものをもとに見よう見まねで似せていくものです。

これらは対象物に「近づく」という言い方をしてもいいのかもしれません。

師弟関係などもそうですが、師の考え方や生き方を参考にして自分自身の何が似ていないのかに気づきます。そうやって自分が憧れた人との差異を確認しながら、薫風や薫陶を受けてそのものも変わっていくのです。

これは昔の日本では職人文化といいますが、実際には教えない教育を行うには教えないためのモデルが必要だからです。私にも同じようにメンターがいて、メンターの存在やその生き方、そういうものが自分の血肉の中に溶け込んでいます。共に憧れる生き方がある人や、同じ理念を持つ人、最終的にありたい自分を優先できる人は、自ずからベンチマーキングする人物に出会えるように思います。

人生はどこにいくかも大切ですが、誰と往くかというのはもっと大切です。

それは誰と往くかによって生き方が変わってしまうからです。

大人の背中を見せるということや、自分の生き方を遺していくこと、そして実践で示していくというのは、教科書には書かれていませんがどの子どもも、どの人間にも、大きな影響を与えるように思います。

一人ひとりの生きた背中を通して学ぶのは、本来の学び方です。先祖たちが遺してくださったものを紐解き、そこから学ぶのが本当の学び方。そして子どもたちに恥ずかしくない仕事を譲っていくのもまた今を生きる世代の役目であろうとも思います。

一人ひとりの真心の志事が、以心伝心して多くの人たちの真心になること。理念を優先して、実践を怠らないのはそれが「背中」で語ることになるからです。背中で語るのは背中で未来に向かって伝承を続けている真っ最中ということです。

正面ばかりで口八丁手八丁で理論的に説明したりするのも大切ですが、歩んだ背中には決して敵いません。

常に背中を見られているという意識を忘れず、背中で与えられる安心感を伝承できるように自分自身の学びの姿を通して子どもたちを見守っていきたいと思います。

家での住み方

すべての生き物は住み家があり、それぞれが御互いを思いやり住み分けをしています。先日ブログでいきものの鳴き声が時間帯で異なることを書きましたが、共生とは互いを思いやり尊重しあっていく和の心が解け合ういのちの道理です。

今まで地球上で私たちは御互いを尊重し合っていままで暮らしてきましたが住み分けが狂い、何度も世界を巻き込む戦争がおきて人間の争いはまだまだ続いています。

そもそも自分の住み家を大切に守り、住み家がいつまでも持続可能になるように丹念に手入れをしていたから私たちはその住み家を中心に生活が成り立ちました。特に農耕民族である先祖たちは同じ場所を何百年も動かず、先祖代々その土地で暮らしを成り立たせてきました。今では住み家が崩れみんな田舎を捨てて都市に出て、過疎地ではお年寄りだけで生活をする始末です。

本来の住み分けが機能せず住み家が衰退しているというのは住まいを持つ人たちの生き方が変化してきているからです。住まいを大切にするというのは、自分の心を大切にするということでもあります。住まいが殺伐としたり、暮らしから遠ざかっているというのは物が氾濫しなんでも粗末にして生きている生き方の現れとも言えます。そこには貧困があります。本来の豊かさは貧乏かどうかではなく、一つの暮らしの中に様々な心のゆとりや余裕があるということです。住み家があるのはモノとココロの両面が満たされる安住があるということです。

昔の古民具や、骨とう品などをみていたら物が大切にされてきたことを感じます。それは何世代も使われ、手入れされたものには何か大事な心が宿っているように思います。コンビニで簡単に買っては捨てている便利なものとは異なり、そこには暮らしの残り香が薫ります。

私たちは住まいの中に暮らし、住まいには生活があります。

その生活が物に顕れ、その生活が空間の中に表現されていきます。どんなものが集まって来るか、それは御縁です。これは人も同じく自分の成長と共に集まって来るものや大切にしてきたものが磨かれ輝きはじめます。その住居はまるでその人そのもののように人相が出て来ます。これを家相ともいうのかもしれません。そしてどんな御縁でそこまでたどり着いたのか、そこには天相、地相、人相といったタイミングや機縁に結ばれています。

住歴を大切にする真心は、自分自身の御縁を大切にする誠実さと比例するように思います。

そして「終いの住み家」という言葉があります。これの意味するのは最後に安住する場所が家ということです。心が安寿し澄む処、住み方そのものが家族家庭そのものです。

常にどんな一家でどんな家で暮らしていくか、それを創るのは自分自身の生き方です。家での住み方を忘れず、一家の暮らし、一家の初心を子どもたちに譲っていきたいと思います。

和の家

先日、和の部屋について相談があり色々と深める機会になりました。和の部屋といえば、通常では畳があり押入れや襖があるものを和室だと思っていることがあります。

しかし畳も昔はなかったもので、押し入れや襖もわりと歴史的には古いものではありません。実際の日本はじまりの住まいは何か、それは古事記に書かれています。

「伊弉諾命、伊弉冉命の二柱の神はおの馭盧島に天降りして其處に先ず天の御柱を御作り、倶に御住ひになった。八尋とは一尋、二尋と數える八尋にあらずして八は彌と同じく數多きをたたえ唱うる言の葉なれば即ち幾十尋の御殿の意なり。彌栄なる館なるにして我が國初めての御殿なりせば家屋建築の始めなり。我が國の神々達は穴に宿る神に非ず、木の枝に巣造るに非ず、程高き営みの神なり。」

イザナギとイザナミが、はじめて高天原に降りてきて造営した住まいが私たちの祖親のはじめての住居「八尋殿」です。一尋とは、人が手を拡げたときの寸法を言います。これを八尋とするとちょうど畳二畳分くらいのサイズになります。この八は、末広がりの八を意味しますからここの住居から無限に広がりはじめたということです。

私たちの祖親の家屋建築の原点はここです。私たちの親は穴に住んだのでもなく、木の上に巣をつくったのでもない、天に向かって真っすぐに伸びた柱を地に立て、床を建て住んだということです。

今の時代は、高層ビルや広大な豪邸が価値があるかのように売り買いされていますが本来の住居はとてもシンプルなものです。

例えば生き物によっては、泥を固めて巣にしたり、草を丸めて家にしたり、石を積んで塒にしたりと、それぞれに住まいのカタチは異なります。私たちの先祖が、何をもって住まいしたかを知ることはとても大切なことだと思います。住まいの出発点を和合生活にしたこともまた私たちの先祖たちの真心だと思います。

そして和とは何かと考えるに、如何に本来の先祖たちが伝承してきた暮らしに親しみとけ合うかということではないかと思います。それは例えば、共に暮らすものたちと如何に親しみを持っているか、そして心安らぎ仕合わせを感じるか、そこには余裕と真の豊かさがあるように思います。

豪華絢爛で贅を究めた芸術作品のようなところを住まいというのではなく、人々の暮らしや生活が息づく場所、そこがまさに家庭であり、たとえ独り身であったとしても共に暮らしているいのちの暖かさに触れ、深く味わいながら日々を豊かに過ごしていることが本来の住居であり家であるように思います。

そういう住居を持つ人は、和の心を持つ人とも言えます。秋になれば秋をしつらえ、冬には冬をしつらえる。まさに、小さな四季の変化をも愉しみ、部屋の中の花一輪にいたるまで愛でる澄んだ心があります。心の手入れというものは、日々の暮らしを愉しむ真心にあるように思います。

和室というものの本来の姿の本質は、「暮らし」の中にこそあるということが私が考える和の家です。和をもって尊しとなすとといったのは、聖徳太子ですがその聖徳太子は家屋を大切に手入れするように寺院を建築したといいます。法隆寺をふくめて、奈良のあちこちにはその暮らしが遺っているようにも感じました。

子ども達に本当に譲っていきたい伝承したいものを、自分たちが忘れないように生きていきたいと感じます。改めて日々の暮らしから、生き方を見つめ直していきたいと思います。

美徳日本~美しい心の人々~

先日、落し物をわざわざ自宅に届けてくださった方がいて有難い体験をすることができました。今の時代は連日テレビで詐欺や欺瞞、また犯罪などのことのニュースが善く流れていますからついネガティブなイメージを持ってしまいますが実際の日本人はまだまだ豊かな心を持っているように思います。

今回のことで改めて本来の日本人とはどういうものかということを考える機会になりました。

以前、アメリカの動物学者のエドワード・S・モースは、標本採集に来日して日本で生活する中で日本のことを「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。」といいました。これを聴いて最近では、ブータン王国が同じようにテレビで特集されていたのを思い出します。お金がなくても、みんなが愉しく豊かに生活をしている様子をブータン王国での映像では伝えていました。

他にもモースは、「日本その日その日」(平凡社)で日本の印象が紹介されています。

「明治初期のことである。大森貝塚の発見で知られるアメリカ人の動物学者エドワード・モースが、瀬戸内海地方を旅したある日、広島の旅館に財布と懐中時計を預け、そこからしばらくの間、遠出をしようとした。そのとき旅館の女中が「お預かりします」と言ってしたことは、時計と財布をお盆に載せてモースの泊まった部屋の畳の上に置いただけであった。もちろん部屋はふすまで仕切られているにすぎず、鍵や閂などが掛けられてはいない。モースはとんでもないことだと思って宿の主人を呼んだが、主人は平然と「ここに置いておけば安全です」と答えた。自分の旅行中にこの部屋を使う客は何人もいるわけだし、女中たちも終始出入りする。モースが不安をぬぐえるわけもなかった。しかしモースは、ここで思い切って「日本社会の実験」をしてみようとのつもりになったようで、そのまま遠出したのである。一週間後、旅館に戻ったモースは部屋のふすまを開けて心から驚き感じ入ったのである。そのときのことをモースは次のように記。「帰ってみると、時計はいうにおよばず、小銭の1セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上に載っていた」モースによれば、当時の欧米のホテルでは盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だったそうである。モースはこの日記の文章に続けて「日本人は生得正直である」と書き留めている。」

今では金庫に保管してくださいや、盗まれると危険ですからといわれますがかつては御互いの信頼や信用で成り立っていた社會が旅館の中に根づいていたことが分かります。鍵などもなく襖と障子だけの部屋ですから、それだけ旅館という場所は信頼関係が基本であったのかもしれません。しかし次第に、西洋文化が入ってきて西洋の価値観を優先しすぎて今では日本のかつての姿が隠れてしまっているように思います。

ハリスの通訳として来日していたヒュースケンはこう言います。

「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。

あの頃と今ではどのように変わってしまったか、きっとヒュースケンは未来を予見していたのでしょう。そして同じようにラフカディオ・ハーンは「日本には美しい心がある。なぜ、西洋の真似をするのか」いいました。

気が付けば自分の国を西洋先進国の一国のように捉えて先進国の仲間入りをしたと勘違いしているのは自分たちの方かもしれません。本来、何をもって先進国であるか、もう一度子どもたちに譲りたい先祖代々からの文化を見つめ直す必要があるように思います。

フランシスコ・ザビエルは、「日本人はヨーロッパの最先進国の人々ですら足元にも及ばぬほどの、高い文化とモラルを持っている」と言います。ここでは高い文化とモラルのことを最先進国と定義しています。

お金が技術が高く経済的に裕福な国を先進国というのではなく、礼儀や道徳、民度こそが先進国の証であるということを言っているのでしょう。真の豊かな国とは一体何か、そして本来の先進国の本質とは何か、西洋の価値観ばかりを追い求め、自国の本来の目指した理想の姿を間違わないようにしたいと思います。今こそ、私たちは先祖代々受け継がれてきた美徳日本を思い出す時代です。

この国に産まれて善かったと思えるような、生き方を子どもたちに遺していきたいと思います。ありがとうございます。

 

 

祖霊の真心

私たちの先祖は自然崇拝といって、自然の中に神様を見出していた民族です。古神道においても、巨石、巨木をはじめ自然の中にある畏怖を感じ、畏み奉り祈りを捧げてきました。そこには精霊というような、無生物の中にあるいのちを感じており、例えば日、月、星、水、火、土、風、光、闇、金、石といった物の中にそれぞれのいのちが宿りその和合によってこの世が成り立つことを自覚していたのではないかと私は思います。

収斂結実という言葉があります。

収斂とは散布的に位置していた複数の物を一箇所に集めるという意味です。結実は、その結果として実ったものという意味です。自然界には多様性といってすべてに分かれていく作用と、同時に収斂性といってすべてのものが一体になっていくものという作用があるということです。言い換えれば、宇宙が多様に膨張しつつも星々やブラックホールが重力と引力で結集していく作用があることに似ています。

私たちのカラダも、一つ一つの臓器はバラバラですが一体としてカラダは成り立ちます。部分だけを切り取っても身体は機能せず、実際には収斂して結実しているのが今の姿だとも言えます。

そしてこれは御縁の世界も同じものです。

数々の御縁が織りなして今があり、その御縁が結実するから今の自分のいのちがみのります。自然崇拝というものは、同じように巨石が神という意味ではなくそこの精霊から全体を観通すチカラがあったことを言うのではないかと私には感じます。

かの弘法大師空海が、山々を歩き、山々の中に神仏を彫り込みそこに祈るようにと里の人たちに伝道して歩きました。自然の中にあって、自然が顕した精霊を人々に伝えるという原始の信仰の姿を感じます。私自身も、土に触れ、風に吹かれ、火を仰ぎ、水に洗い、木と暮らすことで自分自身が自然と一体になり収斂結実していることを実感します。

太古の昔、私たちが言葉も持たないほどの時代はきっと五感を使い事物に接し、論理ではなく直感をもってすべてのものに触れていたように思います。西洋でも東洋でも世界では、どこにいっても太古の信仰のカタチはすべて同質のものです。それは自然物の中に見出しています。それを否定することで、人間はより自分の都合のよい方へと信仰のカタチを変えてしまったのでしょう。

万国共通し、悠久の歴史にも錆びつかず、自然に反することがない教えこそ真実の学問を伝道しています。遺跡の中に残存する、祖霊たちの思いや真心を受け取れる自分を磨いていきたいと思います。無字の経文を受け取り、子どもたちに祖霊の真心を受け渡していきたいと思います。