思いやりの根~自分自身の在り処~

人は自分を大切にできる人が周りの人をも大切にすることができます。

もっとも身近な自分自身との付き合い方のことなどは、あまり考えないのでしょうが実際は自分への接し方が他の人への接し方にもなっています。自分に厳しすぎる人は他人にも厳しくなっていきますし、自分を認めない人は周りの人も認めません。自他というものは鏡のように互いに映り込みますから自分の心がどうなっているかを観てはじめて相手の姿が現れます。

自分自身がどうなっているのかを自覚することは、相手をあるがままに受け容れるためにも必要なことのように思います。

しかし人は相手のことを自分勝手な見方で推測しては間違えているものです。相手を思いやるよりも自我自尊心を無理に守ろうとしては自分からみてどう見えるかや自分がどう見られるかばかりを気にしていて相手の気持ちになって相手の立場で物事を感じるという手間を省いてしまうものです。

思いやりというのは、相手がもしも自分だったらと考えて理解していくことに似ています。だからこそ、自分が思う相手がどうこうではなくもしも相手が自分自身ならと立場を置き換えて考えて慮れば次第に思いやりが通じ合っていくように思います。

その際、自分の心が鏡のように澄んでいるのなら相手の心に通じ合えますがもしも自分の心が感情や先入観で濁っていたら自他が見えなくなるのかもしれません。

自分自身が相手の立場になるのは、相手に共感することができるからです。この共感する力があるというのは、思いやることができるとも言えます。すぐに共感して泣いてしまったり、すぐに共感して感動するのは、その心に「思いやりの根」があるからです。

その根をどう伸ばしていくかは、自分の心を澄まし相手の立場に立って行動し、思いやりの実践を高めていくことのように思います。自分自身との正対の仕方を、その真心の実践と、誠の姿勢を精進していきたいと思います。

世界を変える一人~三つ子の魂~

世界はいまや情報化社会の中で一つになろうとしています。遠くの国で起きている出来事も、瞬時に情報がニュースなどで入って来るだけではなく、遠く離れた出来事でもすぐに自分たちに大きな影響を与えます。

グローバル経済というものは、経済が世界を巻き込んで発展していくということです。そして今では世界は一つの社会として、どのような世界にするかというビジョンを持つことはこれからのリーダーの役割であり使命のように思います。

だからといって世界を変えるのは、何か大きな力を持つ組織や国家が変えるのではありません。実際に世界を変えるのは、「最初の一人」です。この最初の一人とは、自分を変える人のことです。

一人ひとりが自分の中で世界の中で何をするかを決心し、一人から変わっていくことで周りが変わっていき世界も変わります。これは歴史を観たら自明の理で、世界は一人の発見と発明によってがらりと時代も変わります。

だからこそ、誰かが何とかしてもらおうではなく希望を持ちこんな世界にしたいと行動した一人こそがこれからの人財になっていくように思います。そういう一人をどう育くんでいくかが社會を創る保育者の責任になっていくのでしょう。

またグローバルのことを考えるとき、如何にそれが最小の地域から発せられるものであるかを感じます。グローカルという言葉もありますが、各々の持ち場で如何に自分たちの信念を貫いてやり遂げていくか、そこに世界の一員であるということと多様性を感じます。そして世界を変えるはじまりは人々が思い込んでいる強弱の誤解の刷り込みを如何に捨てるかからはじまります。それは強い権力と思っているものが弱く、弱いと思っているものが真の強さを持つという自然の法理に気づくことだと思います。

バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるのように、小さな一人のか弱い力と思い込んでいるものが実際に全世界を変えているからです。

最後に老子の言葉です。

「其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す」

老子は、もっとも史上最強であるものを「赤ちゃん」であると言いました。私がこの仕事をすると決めた心もまたここにあります。世界を変える秘訣は三つ子の魂にあると私は信じています。子ども心のままに赤ちゃんの周りの人々との縁起を味わい、小さな一人として自分らしく道を切り開いていきたいと思います。

矛盾

矛盾というものはとても大切なもののように思います。

分からないままに理解する力というのは、そのものを自分の価値観や偏見、知識で分かるということではなく、そのままあるがままに理解するとき矛盾を内包することができます。

本来、知識というものは分類分けられたものです。自然界を観ればすぐに分かりますが、空は空とし海は海とす、川や池や湖、それらの境界線を定義しては無理やりに分けて物事を理解しているのが知識とも言えます。その定義などは、単につけた人の物の視方の問題で何かあればコロコロと変わりますから理解の仕方もまた沢山あります。

そういうものを頭で理解しても、分類が分かっただけであってそのものの本質やそのものの真実に覚めたわけではありませんからそれは分かった気になっているだけで本来の真実を理解したわけではありません。

例えば「循環」という言葉があります。自然は循環しているよといくらいっても、循環そのもののことをどれだけ知っているかということが分かっても循環の切り取った一部を表現しても循環が理解できるわけではありません。なぜならあまりにも壮大無辺、あまりにも微細緻密であるため言葉にできないからです。言葉による分類分けというものは、どこまでいっても狭い範囲内での御互いに共通認識を持つための一つのモノサシですからそれを知っていることは真実を理解したこととは異なるのです。

そこで矛盾が必要です。

この矛盾というものは「分からない」ということです。分からないという答えがあるということを学校では教えてはくれません。分からないという答えは教科書にはありません。問題があれば答えがある、答えがあるから問題ができるのです。しかし実際の自然の中に入ったり人生を見つめれば分からないことばかりです。

分からないからできないという発想を持つならば、できたらわかったのだと錯覚してはできないことを卑下したり、できることに傲慢になったりと、結局はその人は分かっていないということが分からない人になってしまうのです。分かった気になるというのは、矛盾を捨ててしまうことです。

矛盾とは、空は空として見ない、海は海として見ない、川も池も湖もそのままの姿で観ることができるということです。それは虫を虫と見ず、草も草と見ず、そのままの自然なままで理解するということです。

それは言い換えれば「刷り込みがない状態」で見えるということです。直感するという言い方でもいいし、感覚が掴むといってもいいかもしれません。

人間は知識が邪魔をし、いちいち太陽をみれば太陽とし雲を見れば雲といいますがじゃあ今朝の雨模様の空をみてこの不思議をどれだけ理解しているでしょうか。「水蒸気が集まって冷えて雨になって降っている梅雨時期の空」などということが分かったからと、この霊妙不思議な宇宙や自然の法則や真理などとは関係がないことは自明の理です。

矛盾を内包し分からないままでいるということは、それだけ本質を追求し本当は何かとわかった気にならない物の視方をして自分の刷り込みを取り払う努力をしていることなのでしょう。

教え込まれたことは何だったか、分かった気になっているものは一体何か、まずは自分自身にそれを問い、本来自分が知りたいことが何か、本当の真実は何か、そういうことを自覚していくことで矛盾の有難さに気づけるように思います。

矛盾のままで観えるというのは単に知識で補えるのではなく、魂のままであることができるようになったと言えるのかもしれません。そのものが観えるというのは、自分自身がそのままの姿であるということですから魂が観ようとしたものが魂のままに観得たということなのでしょう。どれくらい研ぎ澄ませていけばそうなるのか、その人の道の実践と修行次第です。

引き続き、子どもと一緒に真善美を学び続けて好奇心のままに矛盾を楽しんでいきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。

小僧の心~未熟者の真価~

人に限らず、全てのいのちは発達していくものです。例えば、植物の実が未熟から成熟していくように時間を経過することで実もまた完成していくものです。実が熟すときは種が落ちるときとも言えます。

そして人を未熟で例える言葉に「小僧」という言葉がります。

これは仏教語で坊主に対して未熟な修行中の姿のことを言います。小僧といえば、「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺もありますが、人は自分の置かれている環境によって、無意識に影響を受けているという意味でつかわれます。ひょっとすると環境で自分がいくら経が読めても小僧は小僧、未熟者であるという自覚がないと自分が坊主と錯覚してしまうこともあるのかもしれません。

社會は結局は、未熟者たちが集まって運営していますが自分が小僧の自覚がなければそれぞれがなぜこんなに大変なのかということにも気づけなくなります。知識偏重の評価ばかりを気にして何かをやってはできたできないと一喜一憂していたら、未熟であることすらも忘れてしまうのかもしれません。

小僧というのは、別の言い方では青臭いや世間知らず、くちばしの黄色いなどの言い方をされますがつまりはそもそもが未熟であるということです。

人はできるできないの二者択一の考え方しかもっていないと自分が強く出るときは人を責め、自分が弱ると自分を責めても、そのものが未熟であることはなんら変わりがあるわけではありません。結局は未熟である自分を認めることがいつまでもできないから、成熟の意味が分からなくなるのでしょう。

本来、未熟という言葉は悪いように使われていることが多いのですが言い換えればこれからの伸びしろがあるということです。まだ伸びる可能性があるという風にも理解できます。成熟していく過程が未熟ですから、自分を責めるのではなく、まだまだ成長の余地があるのだと何が課題かを見つめてその改善を怠らなく努めていけば必ず成熟した人物に近づいていくのです。

人は理想が高く、自分が理想に近づきたいと思うものです。

しかし実際はその理想に対して現実は厳しく、必ず成熟するにはそれ相応の時間を要します。一足飛びにいこうとしても、小僧が経は読めても何も実になっていないではその経の有難さを感じることもないように思います。

本来、小僧の心で学ばせていただけることに感謝することが何ものも責めず自他を許しつつ互いに学び合っていく仕合せな関係のように思います。できない自分を責めたり、できる自分を錯覚するのではなく小僧の心で真摯に学び続けていくことが何よりも責めない実践になるようにも思います。

急いで速く熟したいと焦っては、自他を責め罰し、焦燥感と自己嫌悪感をまき散らしても結局は前に進んでいるわけではありません。目標が高い分、当然苦しみも増えますがそうしているうちにまた責めては今の心から離れてしまえばそれは単なる被害妄想に変わっていくだけかもしれません。

悟れることなど一生ないのだから、今できることで自分の体験したことを周りの人たちのために役立てていくことが責めない実践、福に転じていく生き方なのかもしれません。

自分の体験が必ず誰かのお役に立っている、そう信じて歩むことこそが小僧の心なのでしょう。人生には一切の無駄もないと認めることができるなら、人は一生小僧のままで学び続けられるのかもしれません。私も小僧の心を忘れないように、日々の体験を学びに換えて誰かのためにと役立てていきたいと思います。

 

感謝の性根

人は歩むを進めていく中で、遠くを視たり近くを視たりしながら前へと進んでいくものです。しかし実際は、遠くを視ることもなく足元も視ないで歩みちゃんと歩こうとはしていないように思います。

なぜ理念や初心が必要なのか、そこはちゃんと遠くを視てはブレずに歩んでいかなければ方向を見失ってしまうからです。そしてなぜ内省と実践が必要なのか、そこは足元にあるものを視て全て自分にとって大切な意味があると着実に歩んでいかなければ体験を喪失してしまうからです。

まるで遠くの星を見つめながら足元の花を愛でることや、夢のような景観を楽しみながら手の中にあるコップの水を溢さないようなことは、「歩む」という本質において何よりも欠かせないことのように思います。

目先か将来かではなく、「今、此処」をどれだけ真摯に受け止めているかで目先も将来も大切にできるように思います。それは単に視方だけではなく、組織の在り方にとっても同じことがいえるように思うのです。理念か協力かではなく、理念も協力も大切だと実践するときにだけ、今、此処が生きているからです。

結局は、どれだけ全ての物事を「自分に必要なことだ」と感じるかどうか。一つ一つのことを自分の価値観や偏見で裁いてはあれもこれもと目で追ってばかりで、目ばかりを疲労させるのではなく、目の前の足元にあるものをどれだけ大切なことだと味わっていけるか、そこに将来に対する姿勢や今に対する覚悟、過去に対する感謝が育ってくるように思うのです。

今、起きている全てのことは自分に必要なことであり必然だった。

そう感じるからこそ、全ての出来事を慈しむように味わっていく。その心が内省であり、その有難いご縁や機会を大切に遣わせていただきますというのがいのちの在り方であり、感謝の根がはっているいることのようにも思います。

如何に感謝の根を性根に入れるかは、その人の物の視方の鍛錬に由るもののように思います。全てのことに手を抜かないとは何でも真面目に頑張ればいいのではなく、どのことも全て感謝で有難くさせていただけることにもったいないことだと尽力していくことに似ています。つまり手を抜かないとは手伝うということです。

それを忘れ自分のやりたいことができないからと、目ばかりを疲れて目頭を押さえて眉をしかめていても笑顔もなくなり健康を損ない、楽しくもなくなってきます。手伝える仕合せを自覚することや、今、目の前にきた全てのことに感謝して選ばずに全身全霊でそのことを味わっていける方がよほどの将来のことや周りの人々のことを大切にしているようにも思います。

感謝の性根を伸ばし、今、此処の養分を素直に吸収して生長のご縁を味わっていきたいと思います。

心の持ち方~いま、ここ~

人は心の持ち方を学ぶために人生があるとも言えます。

嫌なことがあったときや辛いことがあったとき、そこからどう転じて学ぶかということができるかどうかでその人の成長が確認できるからです。そして心は自我や執着、また不安や恐怖によって出て来難くなってきます。どんなに足掻いてみてもそうなってしまうものは諦めるしかありませんから、その都度心の持ち方を変えて歩みを止めずに進んでいくしかないのも人生であろうと思います。

上手くいかないと思ったり、考えていた通りにいかないときは、どうしてもネガティブになります。そのネガティブさをどう転じてポジティブにしていくかが心の強さでもあり、心を持ち方次第ということです。

例えば、「いま、ここ」という心の持ち方があります。これは心が離れているとき、その心を取り戻すときに「今」に集中し、「此処」に在ることを確認します。すると、彷徨っていた意識が心の在り処を思い出し、心を取り戻すことができるようになる心の持ち方です。

世界では、「リジリエンス力」といって船が波に揺られてもまた元に戻るように、様々な荒波を受けてもそこから立ち直る力、立ち上がる力として注目されています。失敗を恐れず、果敢に挑戦し、失敗から学び失敗から成功へと転じていく力の根底に必須の心の持ち方であると定義しているのです。

これらはすべて「信じる力」の一部分ですが、如何に心が丸ごと信じているかを人は常に問われているともいえるのです。自分の考えの小さなに気付いたり、相手の考えを受け容れたり、人は自分の心の持ち方次第でその器を大きくもでき、また小さくもなります。

自分の成長というものは、如何に心の器を大きくしていけるかにあるようにも思います。そこには、心が現実の世界に負けない強さ、心の世界の方が現実よりも優先される信じる力が人生そのものの醍醐味を決めてしまうからかもしれません。

過去のことを悔いてみても仕方がありあせんし、未来のことを憂いてもどうしようもありません。そんな時は、過去は意味があったとしみじみと味わい、未来は面白くなりそうだとわくわくと感じる、そういう有難いご縁や御蔭様に感謝する心を今に取り戻して今のままでいいと開き直るなら人はみんな素直になっていけるのではないかとも思います。

この素直さというものは「いま、ここ」と密接につながっているように感じます。

子どものことを思えば、どう過ごしていたって時間が過ぎればそのうち子どもたちの時代になってしまいます。どうにかできるのは常に今だけですから、過去や未来を思い煩うよりも今できることに集中して禍福一円に今を味わい盡力していきたいと思います。

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

グローバル意識~資質と実力の本質~

私たち日本人は島国の中にいて国内事情ばかりを優先するあまり、アジア圏をはじめ世界のことを意識することが少なくなっているとも言えます。先日のニュースでも社会課題は国内志向が強く、「紛争鉱物」や「貧困」「人権」など含めたグローバルな課題への関心は低くなっているそうです。

アジア圏に出て各地で活躍している人たちをみていたら如何に国際人として常に全体を観て自分たちがどうあるべきかを考えて行動しているのが分かります。私も高校を卒業してから中国に留学し、その後、英国に留学し、いくつかの国の方々と仕事をし、また今でも関わりがありますが常に世界では共通する問題にそれぞれの人々が様々な異なりを理解し、違いを超えて挑戦しています。

特に今は情報化社会が進み、経済的に密接に繋がり合い、ますます国境がなくなってきていますから世界のある場所で起きた出来事はすぐさま世界全体に影響を与える時代になっています。つまりは私たちは常に地球運命共同体として、私たちは世界の中に生きているということです。

昔のように関わりが薄かった時代はまだ対岸の火事で済んだ出来事も、今ではとても他人事ではなくすぐさま自分たちに多大な影響を与えてきます。世界の未来の問題をどう今解決していくかは、それぞれの人々の意識に懸っているともいえるのです。

そういう意味では日本という国は、世界の中でもとても大切な役割と使命があるように思います。それは老舗に見られるように私たちの伝統は何百年も前から大切に維持され、世界の称賛を受けていることにも見られます。また、瑞々しい国土のほとんどは森林に囲まれ清らかで澄んだ水と、恵まれた気候風土の中で満たされています。もちろん地震や火山も多くありますが、それはまだ産まれたての風土だからこそこのように若い感性に満ちているのでしょう。

先日のシンガポール訪問でも、アジア圏の中でどう私たちがリーダーシップを発揮していかばいいのかを自覚する機会になりました。そして同時に私たちの資質と実力とは一体なんであろうかともう一度、向き合う機会をいただけました。

日本人としての資質とは何か、日本人としての実力とは何か。私はかつての日本古来の心こそ、私はその問題を解決する鍵になると信じています。

最後にシンガポールを考えながら、同じアジア4龍と呼ばれる国家、客家出身の台湾の李登輝首相のことを思い出していました。それぞれにリーダーシップを発揮して、今後の世界でどう国家を運営していけばいいか、歴史はとても未来への参考になります。その李登輝首相が、「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」ごま書房新社の中で日本についてこのように語っている一文があります。

「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うです。『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積みあげられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、60億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです」

古来の心は伝統文化の中に籠っています。温故知新、今こそ日本文化と伝統というものをもう一度学び直しつつ、今後のグローバル人財、地球人財の一人として準備を怠らず実践を高めていきたいと思います。

類は友を呼ぶ~循環に在る縁者~

昨日、田んぼの草刈りをしていて不思議なことを考える機会がありました。現在の田んぼは、稲が分けつをはじめ青々と葉を広げていく時機に入っています。不耕起で自然農で取り組んでいますから、周りの草を刈りつつ、見守りそのものの持つ力を信じて共に育ちあっていくのを援助していきます。

その際、草刈りをしていると稲に似た近縁の雑草があることに気づきます。言い換えればかなり稲にそっくりな似た草草が周りに生えてくるのです。一見するとほとんど見分けがつかないほどのものが、すぐ周囲に生えますから間違って刈ってしまいそうなくらいです。

これは稲だけに限らず、野菜など栽培するものの周りにはよく似た雑草が次第に集まってきます。これは生態系の不思議で、「類は友を呼ぶ」ということが実際にいつも起きているように思うのです。これは全ての生き物に共通する真理であり、御互いに共通するものは互いに引き合っていく性質があるように思うのです。

改めて気づいたのですが生き物たちは、生きていくために一人では生きようとはせずに仲間を求めるように思うのです。この仲間=類というものは、長い間で探し当てた同じ心を持つもの同士とも言えます。互いに助け合っていけば生き残れると感じて、一緒に生きるものを長い時間をかけて得た関係です。それは循環の中に在るご縁で結ばれているかのようにです。

先ほどの稲と雑草稲は、互いに共にあることで他の虫から食べられるのを互いに補完しあうことで全部食べられるのを防ぎ、同時に他の草に空間を占有されないように互いに周囲を抑えて助け合っているとも言えます。

片方の稲は人間の都合で栽培され食べられる実をつけますが、もう片方の雑草稲はあまり食べるものに適しません。しかし人間都合で栽培されてきた稲の方にも本来の野生の中で生きる智慧を自ずから見出し、類を呼び周りと共生しようとしています。

つまり仲間=類とは、共に協力し支え合うために集まってきた縁者なのです。この仲間というものは人間でいう家族や親戚、友人、同志などの縁者であり、似た者同士、同類相求めるのように同じ性質を持つから近寄るのです。蓑の傍に傘が寄るのことわざのように、気が合う者は互いに親しみ集まる、同類のものは自然に集まるのです。

これらの「引き合う惹かれ合う関係」において、自然界はとても絶妙に仕上がっているように思います。周りがどうなっているかを知るとき、自分がどうなっているのかが分かるものです。自分で自分のことはわかりませんが、自分の周りを見て観たら自分のことをはじめて知ることができます。縁者は常に互いに補完しあったり、互いに妨げあったりしますが悠久の長い目でよくよく洞察してみたら、この縁者の関係がお互いにこの地球の厳しい循環の中で末永く生き残るために慈しみ助け合っている縁者なのです。

自然界の絶妙な類友を集める仕組みに、改めて自然の法理を学び直すことができました。縁者はすべて善であるという智慧の気づきも、また田んぼの中から得ることができました。

実際は、収穫をあげ栽培していますから刈り取るのですがその中で他の雑草たちとの共生がはじまり実をつける栽培に適した環境に仕上がってきます。植物たちの集まってくる変化を楽しみながら、如何に共生関係を創っていくか、観察しつつご縁を味わっていきたいと思います。