心のやわらかさ~一生青春~

人間は色々なことを悩みすぎると心が硬くなっていくように思います。一つのことに思い煩いそこに感情が呑まれればどうしてもその執らわれから抜け出すことができなくなります。そうやって自分自身への思い込みが強くなってくると、次第に心が硬くなっていくように思います。

魂を如何に消耗させないでいるかは、常に青春を続けていくことのように思います。

しかし年々、様々な柵が纏わりついてきますし人間はどうしても様々な人たちとのかかわりの中で利害なども発生していますから悩みはつきません。相田みつおさんが「一生勉強一生青春」の中で「年をとって困ることは、身体が固くなるばかりでなくて、頭が固くなること、心が固くなることです。心が固くなると、感動、感激がなくなります。一生青春を保つためには、心のやわらかさを保つこと。そのためには、具体的に何かに打ち込んでいくことだと思います。」と仰っています。

心のやわらかさというものをどう持ち続けるか、そこに魂を消耗させないヒントがあるように思います。

河合隼雄さんが「冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。」とも言います。

心のやわらかさを思う時、この”笑う”ということを思い出します。笑っていられる心のしなやかさ、そして果報は寝て待てではないですがその時が来るまで面白いことや好きなことにでも没頭して待つこともまた心のやわらかさかもしれません。視野が狭くなり心も硬くなってしまったら、見守りや御蔭様、周囲からの応援にも気づけなくなってしまうかもしれません。

そう考えてみると、「一生青春」というものはあらゆる出来事を楽しむ境地にあるように思います。どんなことがあっても笑っている、何があっても笑って歩んで往く、そういう「笑う門にはいつも福が来る」ように思います。

時折、大切な人のことが理解してあげられず、そして自分がどうしてあげていいのか分からず、ただただ悲しみ、無事を祈りつつも実際は何もできない自分に苛立ち、独り悔しい思いをすることが幾度もあります。しかし本来は丸ごと信じているのだから先に自分の心が硬くなってしまえば、かえってもっとも身近で応援しようとしている自分がその人の邪魔をしてしまうかもしれません。

だからこそそういう時こそ常に明朗快活に心をやわらかく、子どものようなしなやかな姿のままに笑って福を待つことで正直に生きていきたいと感じます。正直さというものは、まっすぐで潔白というイメージもありますが同時にとても柔和な側面もあるように思います。

心に正直に、人生の醍醐味を和らいながらその時が来るまで日々粛々と実践を怠らず天命を待ちたいと思います。

本心本来の自分自身

人は自分の心のことがなかなか分からないものです。頭では分かっていても、自分の心となるとどこにあるのかそしてどうしたいのかが観えなくなってしまうものです。なぜなら人には感情があり理性もあり、そういうものが自分のやりたいことと、本当に本心からやりたいことを入替えてしまったりするからです。

そもそも自分の本心とは何かということを知るというのは人生の一大事であろうと思います。自分の本心が分かり覚悟が決まるなら、迷いも消えて目の前のことに没頭し打ち込んでいくこともできるのでしょう。いや、目の前のことに没頭し打ち込んでいるからこそ自分の本心に出会えるとも言えます。『無になりたいなら頭で考えるな。 目の前のことに没頭さえすれば、 おのずと無になることができる。』と禅の世界では語られます。本心本来の自分自身に出会うというのは無になっていくということなのでしょう。

そして以前、その無の顕現でもある「天命」ということについて神渡良平さんが書いた文章に出会いました。そこにはこうあります。

「天命とは」

現在の仕事を離れて

天から降ってくるものではない

現在の仕事に没頭していれば

自ずから導かれていくのだ

天はそれぞれに

最高の人生を約束している

誰もが持ち味を発揮

できるようになっている

腐ることなく

めげることなく

倦むことなく

努力していこうではないか

自分の仕事に打ち込んでいる人は輝いている(神渡良平)

今の目の前のことに無我夢中に没頭できるというのは”信じている”からに他なりません。この信じているという気持ちは、謙虚で素直な心の在り様です。そして真心を籠めて与えてくださったものを選ばずに全身全霊を懸けて取り組んでいくことで自ずからご縁は導かれて”なるようになっていく”ということのように思います。

そしていつの日か、自分の持ち味が存分に発揮できる日が来るかもしれません。そうやって信じて念じて、信仰のような心持で真摯に没頭している人は周りからみても輝いて観えるのでしょう。独りが輝けば周りもまた輝いてきます、それは天の星々のように満天の宇宙でそれぞれの光を放つ星空のようにです。持ち味のすごさというのは、八百万の神々のようにそれぞれが唯一無二の役割を果たしあういのちになれることです。

つまり天命を知るには、どれだけ真摯に目の前の志事に没頭するかに懸っています。

頭で考えることも大切ですが同時に頭で考えることなどは全体の一部も分かりません、こころのままに、本心のままあるがままに御蔭様御蔭様でと与えてくださったことをさせていただける仕合せと感謝でどんな仕事も取り組むことができるなら人は天を敬いつつ命を天に預けていけるのかもしれません。気づきというものもまた、天に預けているからこそより研ぎ澄まされていくのでしょう。

素直や正直さというのは本心でいることであり天の真心と同じ姿であるということです。

子ども達に天を敬う生き方が譲れるようにあの植物たちや動物たち、虫たちなどの自然な姿から自分の心を静かに見つめ、天と一体になれるように日々を真摯に精進していきたいと思います。

 

地球人財4~本質的であるか~

時代は過渡期に入り、国境を超えて人種を超えて多様化はますます進んでいきます。そしてグローバル化していく経済や社會の中では一つの正解を頼りにしてはいけず、あらゆる無数の正解を受け容れていく柔軟性が必要になってきます。

そもそもグローバル人材に求められる力として、コミュニケーション力や相手を理解する力、プレゼンテーション力とか色々と言われていますがそれは手段であろうと私は思います。

ではグローバル人財にもっとも必要な力とは何かということです。

私はそれは「本質的であること」であろうと思います。

なぜなら多くの正解の中で物事を進めていくというのは、本質的かどうかということに由ると私は思うのです。人間にはそれぞれに価値観もありますし、その人の視野の広さが事物を決めてしまっているものです。実際に目の前に見える世界だけを世界だと信じている人と、地球規模で物事を観ている人ではその目に観えているものは異なっているからです。

特にグローバルリーダーともなれば、どれだけの視野で物事を捉えているかは何よりも目的を完遂する上で重要です。そうなると、常に本質的かどうかを確かめなければならなくなるのです。

本質的であるというのは、中庸であり続けるということに似ています。全ての情報の中から右に偏らず左に偏らずそのものの中心を見抜く力、本来のあるべき姿から物事を洞察する力のことです。

本質というのは、世の中の常識に囚われず型破りであるともいえるのです。本当のことが合っているのなら、それ以外のことは別にどうでもいいという柔軟性があるということです。私の言葉で言い換えれば初心や理念がはっきりしているのならば、後は流れに任せて応じて合わせる柔軟性を持っているという感じです。

これらの本質を維持する力というのは、常に自分自身が本質的かどうかを振り返り、常にそこから心を離さずに心を入れて物事に打ち込んでいかなければなりません。信念ともいってもいいかもしれませんが、本質を維持するには常に「何のために」という自問自答を続けて根気強く本質的であることを意識していなければならないからです。

これは心の力とも呼んでもよく、心が育っていなければ本質の維持は難しいのです。それだけ人は世の中の都合の悪くなった現実の帳尻合わせのためのルールや法則に惑い翻弄されているともいえるのです。自然から学ぶ力もまた本質の性質を伸ばすためにあります。教育の在り方を思う時、まず何が自然かがわからないような人物が果たしてグローバル人財と呼べるのだろうかと私には疑問に思います。

グローバルリーダーは、混沌の中でも常に本質を見抜き、本物を確かめ、自然であることに精通している中心人物です。人間の浅はかな多数派の意見や、何かしらの偏った正論などには目もくれず粛々と自分の”生き方と働き方”を変えて世の中に貢献していくのでしょう。

これからは無数の正解があっていいと言われる世の中になると言われます。それは言い換えれば、本質的な世の中に入ってくるという意味でしょう。だからこそいよいよ対話が求められる世の中になっていくでしょう。

子どもたちの道しるべになるように、日々に本質を磨き、自然一円観を伸ばして世界のお役にたっていきたいと思います。

地球人財3~一円融合、結和の人~

今回のシンガポール視察で改めて実感するのは、人々の往来のスピードが加速し国と国の国境がいよいよボーダレス化し、多様な人種の接点が急増するとき、世界の一人ひとりが今後どう和して地球全体のために貢献していくかということが問われている気がすることです。

それはアジアのリーダーとしての人財をアジアからどう排出するか、あるいは世界のリーダーをどう自国で育てていくか、そこには人類の未来がかかっているということです。混沌とした夜明け前の人類は今、一つの地球の中で人類の理想の地球人財という徳才を兼ね備えた本物のリーダーたちの出現を待ち望んでいるようにも思います。

先日のIB(国際バカロレア)の教育理念は「多文化に対する理解と尊敬を通じて、平和でより良い世界の実現のために貢献する、探究心、知識、そして思いやりのある若者の育成を目的としています。」 「世界中の児童・生徒に対し、他の人たちをその違いと共に理解し、自分と異なる人々にもそれぞれ理があり得ることが分かる、行動的で、共感する心を持つ生涯学習者となるよう働きかけています。」と書かれます。

その上でグローバルに活躍するリーダー像、つまり世界人財として必要な徳才は「探究する人」「心を開く人」「知識のある人」「思いやりのある人」「考える人」「挑戦する人」「コミュニケーションができる人」「バランスのとれた人」「信念のある人」「振り返りができる人」の10項目を挙げています。

世界に出てみれば多様性や柔軟性はすぐに求められます。しかしこれは世界に出ていなくても常に自己を変化させ順応する力というのはリーダーには必須の徳目だと私は思います。つまりリーダーは、道を切り開き徳を広げていく人物であるということが自明してきます。

正解のない問題に如何に立ち向かっていくか。

21世紀はそれぞれに正解が存在していく時代であるように私は思います。だからこそリーダーは人々をファシリテートできる人物であり、全てのことを善いことへと転じ一円融合することができる”結和”の人であることが大切ではないかと私は思います。

つまり地球に棲むすべてのいのちの心の声に深く耳を傾け、あらゆるものを尊重し共感しつつ思いやり、その存在の価値を認め、その全てを福にしていけるようなリーダーが結和の人ではないかと私は思います。

今、世界が必要としているのは正義を対決させていく力よりも対話により一つの正義に結和できる力ではないかと私は思います。畢竟、グローバル人材というものは人として一人一人が如何に地球人としてのモデルを示すかということに他なりません。

対話を日々に行うことも、実践を常に怠らず高めることもすべてはこの地球人財である自分を自覚するところからはじまります。子ども達はこの先、正解がない世界で白紙から自分で未来を創造していかなければなりません。その手本としての私たち大人の生き方や働き方は必ず子どもに大きな影響を与えていると思います。

自分自身がグローバル人財ではなしに、グローバル人財を育てることなどできません。自分自身が地球人財であるからこそ、はじめて周りを地球人財にしていくことができるのです。

常に自身が世界人財のリーダーの責任者であることを自覚し、そのお手本になれるよう様々な実践に真摯にチャレンジし続け自己変革(イノベーション)を続けていきたいと思います。

 

地球人財1~グローバルとは何か~

昨日は、シンガポールにあるIB教育(International Baccalaureate)「国際バカロレア」を導入している学校を中心に視察を行いました。シンガポールはグローバル人材を育成することを念頭に、「Teach Less ,Lean More」という基本指針で世界で活躍するために様々な教育を導入しています。

インターナショナルスクールから大学まで、新しい学校を中心に視察しましたが多種多様な人種の中で共通の言語を話すだけでなく、如何に御互いの違いを認めつつ、技能や才能を開花させるかということおいては、今までの暗記詰め込みのような形だけではなくファシリテーターといって教師自らが生徒たちに寄り添い生徒たちが自ら主体的に問題を解決していく手伝いをするという方式が取られていました。

そもそも何のために学ぶのかと考えるとき、子ども達が如何に自ら学ぶ力を発揮するかと考えれば自ずからどんな教育方法がいいのかは古今から変わらない在り方があります。身近な大人たちの生き方や働き方が教え方になりますから、何よりもまず先に時代の変化に対して柔軟に自分自身を変化させ続けていくことがよい実践のモデルになるように思います。

シンガポールは、もともとが海港都市であり世界のHUBになることで国家の持ち味を活かそうと努力しているように感じます。資源がないこの国の資源は人財であるとし教育予算は国防の次にかけて投資しています。実際に現地に降りたってみると、その環境と地の利があることを感じ、アジアの発展と共に如何にアジアでシンガポールの人たちが活躍できるかで国家の未来を決めるというは分かる気がしました。それだけ「グローバル」というものはこの地では大切なキーワードなのです。

シンガポールに新しく開校した「イェール・NUSカレッジ」を訪問して国際会議のシュミレーションを行うサークル活動「模擬国連」のリーダーとして活躍するある学生から話を聴く機会がありました。その際に、彼が私たちに「私たちが日本人に求めているのはアジアのリーダーを排出してほしい」とありました。それだけアジアの発展ということに対して責任を持っているのを実感し、日本という国の人財が若い人たちからも期待されていることを改めて感じました。

本来時代というものは、常にその時分に社會貢献し発展に役に立つ人たちを求めてきました。時代の変化の中で境界線がなくなり益々多様化していくグローバル社會の中で、どんな環境下であっても役に立つ人財をどう育成するかは世界の共通課題になっているということです。

今回の視察では教育の見直しをしていましたがそれと同時にそもそもグローバル人材とは何かについて考え直すよい機会になりました。明日から何回かにわけてこのグローバル人材について整理しますがすでに日本でもある一定の定義は定まっているようでここにはこう書かれています。

「未知の世界、時に非常に厳しい環境に、『面白そうだ』『やってみたい』という気持ちで、積極的に飛び込んでいく前向きな気持ち、姿勢・行動力を持っていること。そして、入社後に一皮、二皮剥けるため、『最後までやり抜く』『タフネスさ』があること。しっかりと自分の頭で考え、課題を解決しようとすること。」(厚生労働省)

世界というのはどこか別の世界の話ではありません。現実の中で生き方や働き方の中に世界はあります。なぜなら世界とは自分自身のことだからです。どんな自分になっていくか、どのように世界に役立てていくか、そのために必要な人財の要素とは何か、そこを紐解くと一つの明確な人物像が観えてきます。

子ども達のためにどのような大人の生き方と働き方を伝えていくか、地球人財の本質を学び直していこうと思います。

 

尊重~世界共通の法理~

昨日はプノンペン郊外にあるNGOが支援する保育園と草木染の作業場を視察することができました。保育園では寄付やボランティアの力をかりて、様々な遊具や本、または資金を集め共働きの村の子ども達を集めて保育を行っていました。また草木染では、藍染めを中心に現地の伝統工芸に新しい技術を加味して高品質で高級な反物をつくり都会で外国の人たちに直接販売をしていました。

NGOの役目も、段階段階で変わっていくように思いますしまた現地の人たちの生き方もまた自分たちで選んでいくように思います。権力やお金が生み出すあらゆる差別と画一というものは、グローバリゼーションと共に世界に拡散しています。その中で人は人間本来の自由を急速に失っていきますから、世界の在り様を直視していかなければなりません。今回はそういう意味でも国を問わず場所も問わず、改めて人間教育の本質とその意義を考え直す善い機会になりました。

どちらにしても激動の経済変化の波の中で、少し都会から外れただけでかつての懐かしい田舎の暮らしがそこにあります。面白いことに激動の変化のスピード感溢れる都市部に比べ、まるで穏かで平和な農村部のスローな暮らしがありました。

都会では道路が拡張し建物も増え、車やバイク、あらゆる店が新装開店中です。同時に田舎ではハンモックに揺られ、木蔭で孫たちの世話をするお年寄りが楽しそうに家事を勤しんでいます。周りには鶏やアヒル、犬や猫、牛やヤギなど家畜も放し飼いです。

そういえば、昔は貝を拾いその貝を装飾し御守りにして大切な人に贈り合い、それを大事に身に着けていた時代があるといいます。

時代が変わって捨てるものもあれば、拾うものもある。

人々が捨てていくものを敢えて拾っていく人がいるからこそこの世の中は面白いように思うのです。多様性や柔軟性というものは、自然が平等に生き物たちに自由を与えてくださっていることを証明しているように思います。

人間のように一つの基準だけで他を差別し評価し裁くのではなく、あらゆる生き物たちの生き方を尊重して自由に選択することが許されています。

何が自然で何が不自然かは一目瞭然なはずですが、新しい都市化する生き方もまた排除されるものではないと私は思います。だからこそ自分自身がどのような教育を行うか、そしてどのような生き方のモデルを示すのか、子ども達の未来のことを憂慮すれば自ずから本来の在り方に回帰します。

まだ視察ははじまったばかりですが、とても印象に残った風景で締めたいと思います。

カンボジアの農村部では雨期に甕に一年中の雨水を貯めてそれを上手に活用します。甕の中には身体を洗う水や、飲用に使うもの、様々ありますがその中に一匹の蟹が入っていました。

この蟹は何のための蟹なのかと質問すると甕の中に発生するボウフラ(蚊の幼虫)を食べてくれるからだとありました。なるほどと手を打つとともに自然に精通しているその人たちの智慧を感じて何を共通して尊重したのかを気づくに至りました。

今日はアンコールワットとアンコールトムを視察します。

この地の感性に触れてみたいと思います。

発酵途上

昨日からタイを経由してカンボジアのプノンペンに来ています。空港に到着し外に出ればすぐに高湿度の蒸し暑さと、外には東南アジアの人々の暮らしの熱気に包まれます。言葉で表現できませんが、会話の雰囲気やバイクのクラクション、路上で集まり交流する姿、ゴミが散乱しその上を高級車が走りと、混沌とした都市部の風土そのものが舞い降りたようなこの雑多に蒸している東南アジアの雰囲気を味わっています。

昔、20年前中国に留学し仕事をしていた頃に似た急発展途上の国家の様相に似ていて懐かしくもあり、この先この国がどのようになるのかも想像し楽しむことができます。今のここの人たちは未来がどうなるか予想できるのでしょうか、もしもこちら側だったらどう見えるのだろうかとまた空想を広げて観るとワクワクするものです。人は常にその心境によって常に自らの新鮮さを保てるのかもしれません。

まだまだ一部を感じるだけですが、国の姿にはその発達と発展が今、どのくらいのところにいるのかを観察することができます。これはライフサイクルとも言いますが、起業期から導入期、成長期、そして成熟期、衰退期、そしてまた起業期というようにまるで種から花が咲き実をつけて枯れるように生物はそのサイクルを免れません。

その生物のサイクルは国家も同じく、そしてそこに暮らす人たちにもまた同じようにその道理に従い自然の一部として生きているのです。そう考えてみると、私たちは生物ですから人間の一生というものや国家、世界の一生というものは如何に発酵するかということにかかっているように思うのです。

この発酵とは何か、辞書には「微生物が自己の酵素で種々の有機物を分解あるいは変化させ,それぞれ特有の最終産物をつくりだす現象をいう。」とあります。

つまり私たちは微生物と何ら変わりがないのですから、如何に発酵していくかで周りの発酵を促す存在になっているのです。そして発酵途上だと今の状態を定義してみればどのような最終産物を発酵サイクルで作り出すかが洞察できるようにも思います。

微生物ならその中でどのような発酵をしているか、乳酸発酵なのか、アルコール発酵なのか、もしくは腐敗なのか、その発酵をどのように司るかで人間もまた国家も変化を已みません。

発展途上の雰囲気は発酵途上に似ています。

発展も発酵も同じく、その風土の中で生きる生物たちの生き方や初心が決めますからどんな風に人々が常に微生物のように栄養を分解しイノベーションしているのか、改めて風土と一緒に観察してみたいと思います。

そして教育はその栄養分、酵母そのものです。

学びというのはご縁であり、どんな化学反応を起こすかはその人の一瞬一瞬の味わう発酵度合いに由るのかもしれません。今回の不思議なご縁もまた、どんな組み合わせで何が起きるのか、偉大な見守りと御蔭様の中です。意味を繋ぎ意味を綴れることに、改めて人のご縁の有難さと不思議さに感謝が湧きます。

今回の視察でもまた、自分の価値観を揺さぶり刷り込みを取り払い、新たな視点でこれからの教育の在り方そのものから見直してみたいと思います。

 

 

生きる力~多様性と柔軟性~

生き物がこの地球で生きるには多様性と柔軟性は欠かせない要素です。自然界を見て観ると、それぞれが異なる特性を活かしながら共に生きています。その上で、環境の変化に応じて自分の方を変化させながら周りの生き物たちと一緒に助け合っています。この当たり前の自然であることをできなくするのが、画一性と真面目ではないかと私は思います。

この2つの要素について今回は少し深めてみたいと思います。

画一性については、そもそも自分は周りと同じであるという勘違いをしてしまうことから発生してくるように思います。例えば、鳥であったとしても地上を走りまわる鳥と、遠くから渡ってくる渡り鳥は同じではありません。そんなことは誰でも知っています。地上を走りまわる鳥に、渡り鳥と同じことをさせても同じことはできません。逆もまた然りです。しかし実際に人間は、画一性で同じものを目指し同じだと信じ込まされているとタイプが異なるにも関わらず同じことをできなければいけないと思い込んでしまいます。これはとても不幸なことで、そもそも飛べない鳥が、遠くまで飛べる鳥だと勘違いしたら自分自身に絶望してしまうかもしれません。

これは鳥で例えていますが、魚に地上をチーターのように走り回れということがおかしいとも思わなくなっているのが画一性の落とし穴です。自分というものを必死に画一にしてきたことで、自分自身の特性が迷走すれば本来の多様性に気づけないかもしれません。チームで何かを取り組むには、自分の得意や持ち味を活かし合わなければなりません。そのためにはまず自分の中にある画一性の刷り込みを取り払うことが第一になるように私は思います。もっとも多様性を知るものこそが、もっとも多様な能力を互いに発見し合い、見出し、それを活かしあうことができるからです。自分らしく生きていてそれが最大限みんなの役に立つことほど仕合せなことはありません。これが自然体です。

もう一つ、真面目についてです。これは本来の真面目の意味である真剣さという意味とは違います。教育や刷り込みによって、頑固に強硬になり、視野が狭くなり融通がきかなくなっているということです。例えば、生き物たちは遊び心があります。こうでなければならないという姿よりも、あるものを活かそうとします。例えば、鳥でいえば托卵といって自分の卵を他の鳥に温めてもらって育てたりします。本来、自分で子育てするものを他の鳥に託して育ててもらうのです。自分の特性が子育てに向いていないと気付いて、それでは得意な鳥に任せようとする発想です。これを人間ならズルいとして間違っていると否定する人もいるでしょうが、これはもともとその種が生き残るために選んだ本能と智慧から来ているものです。

そもそも柔軟性というものは、自分のこうでなければならないといった融通のきかない姿から発生することはありません。自然界では、意固地に自分を持ち続けて変化をしなければ滅びてしまいます。実際の自然界では生き残るために必死で真剣ですから、頑固なプライドなど持っていても仕方ありませんから周りの変化に対して自分をしなやかに変化させていく力があるのです。つまり「自分が自分我」というものをあまり先にしない、それが柔軟性です。

自分が真面目にやっていれば正しいと思い込み、自分さえ真面目であれば問題ないと勘違いして結局は滅んでしまったでは意味がありません。生き残るために真剣であればふざけてもいい、生き残るために真剣であれば遊んでもいいくらいであることが本来の柔軟性を呼び込んでいくように思います。そこは大切なものを守るためなら手段を選ばずに”柳に風”のように”しなやか”でいようとするのが自然の中で生きる智慧のように私は思います。

つまり柔軟性というものは、真剣さの中にある自然のしなやかさといったものです。大切なものが守れるのなら、自分の方法には固執しないということです。結果は天にお任せして最善を盡せとも言ってもいいかもしれません。

これらの2つ、多様性と柔軟性はなぜ必要かといえば厳しい自然社會の中で「生き残る」ためです。生き残る力というのが、私の思う生きる力です。人間自身も国際社会やこれからの未来に向かって生き残り生き延びる「生きる力」をどう育てるか、教育の本義はそこに尽きるように思います。

本来の学力をどう育てていくか、明日から1週間かけてカンボジアとシンガポールへ訪問しますが今一度、未来型教育の原型と見守る保育の本質を自分で整理してみたいと思います。

禍福の道理

人間万事塞翁が馬の故事「福いは禍いの門なり。是は非の尊なり。治は乱の先なり。」にあるように、一見、禍だと思ったことが実は福であったということが人生では沢山あるものです。

まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。

自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきます。

例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。そもそも禍も福も同一のものであり、それを如何に過ぎないようにするかが禍福合一の境地のようにも思います。

二宮尊徳は夜話の中で禍福一円をこう語ります。

「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」と。

その上で例えとして、包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるとしました。

これが禍福の道理であると言います。

結局は、禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第でどちらにも観得ということです。禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているのが運であるように思います。どんな運もその運を伸ばしていくかいかないかはその人の覚悟した生き方や実践が決めるようにも思います。

禍転じで福にする、禍福一円観の心境というものは如何にめぐってきた運を選ばずに受け入れて前進するかということに似ています。

この禍福の道理に従って、あるがままにありのままに運と一緒に歩んでいきたいと思います。

対話の意味

これからの時代は人の心と心を如何に結び人間らしさを磨いていくかが求められるように思います。ロボットや機械の発明も進み、ますます人間とは何かとうことがはっきりと浮き出てくると思います。人間力を高めていくことで、将来、人間にしかできないことが分かり、人間はその時、本来の人間としての生活や暮らしの本質にもう一度原点回帰する日が来るように思います。

その日が来るまでに如何に自分の心を高めていくかは、人々との対話やつながりをどう結び一緒に暮らしていくかにかかっているように思います。対話というものを人々がやめるとき、そこには孤立が待っています。孤立とは不幸な姿です。如何に孤立せずに仲間をつくっていくか、古代から今に至るまで私たちは仕合せな暮らしを地球上で行ってきました。そこには常に対話があったように思います。対話の重要性とは、人と人との間で生きる私たちの智慧そのものです。

対話といえば、先日社内のクルーから「聴き合うこと」という言葉がありました。傾聴共感受容が感謝の高みまで昇華されると、聴き合いたいと心が感じるように思います。結論を急ぎ結果を焦るよりも、仲間がどのように考えているのかを聴きたくなるからです。聴きたいと思う人は、自分を変えたいと思っている人です。自分で変えたいと思わない人は、対話をしたくはありません。むしろ自分の考えや自分の能力を頼りにして、対話を避けたいと思うようになるからです。対話は心を開かなければできませんし、対話は心を伝えないとできません。対話しようとする心構えというものは、いつも心から信じているという証になるのです。

そして対話について江戸時代の肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦清が戦国時代の武将のやり方を「ホトトギス」を使って比喩している言葉が遺っています。有名なのは織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康ですが私がもっとも好きなのは加藤清正の在り方です。

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)

これらは有名でホトトギスが鳴かなかったならこの3人ならどうするかということを比喩します。それぞれのやり方があって天下統一しましたが、自分ならどうするかと考えるものです。

そして加藤清正の方にはこうあります。

「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正

これは意訳ですが「仲間たちの声を聴いて各々が自分の力の及ぶ範囲で尽力していこう」という意味です。加藤清正という人物が如何に衆知を集めてそれを発展と繁栄に活かしたかが分かります。

自分の姿勢が後々にどのようになるか、歴史はそのままに教訓でもあります。清正の姿勢で学ぶ中に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」があります。自分の心構えや姿勢が周りに与える影響は大きいからこそ、どんなときも油断大敵と備えることに抜かりがない透徹ぶりが、忠義の誠を育んだのかもしれません。

対話の意味について、これからもう少しまとめてみたいと思います。