仕事の質

人は人と一緒に仕事をしますが、その際に自分が遣りたい仕事をやるためのその本来の動機というものが一緒に働く人たちにとても大きな影響を与えているように思います。

その仕事のプロセスにおいて、雑でスピードが速いからいいのではなく、遅くても緻密で丁寧であればいいのではなく、その動機が一体どうなっているのかということを確かめるということはあまり議論されていないように思います。

そもそも仕事は本来、誰かのためにやることですから思いやりで行われるものです。誰もが何らかの役に立ちたいという動機があって、仕事に意味を持ち取り組む人にはどんな仕事にも誰かが関わっていることを知っています。しかし仕事が慣れてきたり没頭しすぎると周りが見えなくなってしまっていたりします。そうなると思いやりに欠けて周りとの軋轢をおこしてしまいます。そんな時はそもそも何のために仕事をするのかということを忘れないでいることのように思います。

初心を忘れず、どの仕事をやっている最中であっても決して何のためかを忘れない、つまり常に何のためかを心や腹の丹田に据え置き、その志や真心を維持しながら実践するとき、はじめて自他を倖せにするような速くて丁寧といった両輪が具有するような一流の仕事になるように思います。

そう考えてみると仕事の質というものは、その心構えに由るということなのでしょう。そして仕事の質を左右する責任とは、自分が何のためにそれをやるのかを知り、その意味を決して忘れていないで進めているときに周りにも伝わるものです。

片時も忘れずにどんなときにも自己内省を怠らず、無責任な仕事とは何か、私心でやっている仕事とは何か、我儘になっている仕事とは何か、と省みる実践。つまり克己復礼、そしてこの礼は禮ですから、仕事の真の豊かさもまたそこにあるということです。

周りの評価を気にしたり他人を変えようとばかりせず、常日頃自分自身が果たして自分に打ち克っているかを省みて自己中心的な自己満足に陥らないように私心と向き合い、みんなを慮って思いやりを忘れない実践を積み重ねていきたいと思います。

執らわれない

人が一人前に仕事ができるようになるというのは、様々が定義があるように思います。例えばそれは技術力が極まりミスがなくなることという人もいれば、結果が出せるようになるという人もいます。しかし私が思う一人前は思いやりで仕事ができるようになることであり、なるべく周りに迷惑をかけないようにしていくことのように思っています。

実際、人として当たり前のことができればそういうことは少なくなってきます。しかし実際にそれは大変に難しく、日常の挨拶から片付け、情報共有や労い、御礼など言い出せばきりがありませんが心構えができてその一つ一つのことを実践できつつも同時に一つのことに執らわれない心を如何に持てるかということが大切ではないかと齢と体験を経るたびに思えるからです。

どれだけ自分に打ち克ち我儘をしないで周りを思いやれるかは人間人格修養の一生の課題かとは思いますが、仕事というのはその人格を磨くための大切な機会になっているように私は思います。仕事が面白いのは、そういう自分の心を高め磨くリハビリにもなっているからです。

私がよく讀み直す大好きな本の一つに、千日回峰行を満行された塩沼亮潤さんがいます。この方の著書「執らわれない」(PHP研究所)の中にはその人生体験の中で得られたことを自分の言葉にして紹介している箇所がたくさんあります。

ここで仕事の思いやりについていくつかご紹介します。

『自分が正しいからと言って、強さが先行して優しさに欠けたり、心配りが足りなかったりすると、陰で涙を流す人がいたりします。ちょっとした加減で微妙に変化する人生は、方程式のように毎回同じようにはいきません。』

人は得てしてうまくいったパターンにとらわれてしまうと自分が正しいと思い込みます、そしてそれをやることが一番なのだと周囲を省みずに強引に進めていると周りを知らず知らずに傷つけてしまうものです。独りよがりの正義は思いやりを内包しませんから、正しいよりも楽しい方を選んだり、正しいからいいではなく真心を籠めるという力をつけなければなかなかみんなが倖せになるような行動ができないものです。私もいつも気を付けていますが、どうしても理想と現実の中にある中で頭で思い込み刷り込みに負けて真心や感謝が欠けると人間関係に失敗をしてしまうことばかりです。

『みんなのためにと思って行動しているときに、何か一つのことにとらわれすぎると、周囲との隔たりができたり、ものごとが裏目に出て、逆にみんなに迷惑をかけてしまうことがあります。』

よく法理法則では「部分最適ではなく全体最適を」という言い方をします。人は自分の考えに固執するのではなく、よく周りの意見を聴き相手を慮り譲歩しながら歩むならあまり行動が裏目に出ることもないように思います。きっとこれでいいはずだという思い込みは、不確定な状態では頼りになるのもしれませんがいつも心を周囲に開いていたり、真心や思いやりを忘れないように小まめに自己内省していき聴く姿勢を正していくことが本質的に迷惑をあまりかけない方法かもしれません。

どちらにしても「執らわれない」という塩沼亮潤さんが目指す理想が、私が目標にする姿と一致してその生き方に共感することばかりです。離れていても共に歩んでいる道があること、真っ直ぐに歩まれているその有難い存在に深い感謝を覚えます。

『強くなんかない。清くなんかない。唯そうありたいと、願い続けているだけ。人の一生はみじかい。いかなる道を歩もうか。思いなやむことなく、唯この道をひたすらに。』

執らわれない実践を積み重ねて歩んでいきたいと思います。

自他の尊重~聴く真価~

ブログで何回か聴くということについて書いていますが、改めて聴くことの大切な意味を感じます。人は人の話が聴けなくなるとき、その身が亡ぶと言われます。それはなぜかということです。

諺に「聞くは一時の恥、聴かぬは一生の恥」があります。

「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とは、知らないことは積極的に質問するべきだという教えです。つまり知らないことを人に聞くのは、そのときは恥ずかしいと思っても、聞かなければ一生知らぬまま過ごすことになるので、そのほうが恥ずかしい。知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせずに、素直に聞いて学ぶべきだという教えということです。」(故事ことわざ辞典より)

人は自分というものがありますから、自分の中でだけで物事を整理していたらそのうち現実からズレてしまうものです。それは人間には自我感情がありますから次第に感情の影響を受けては現実が捻じ曲げられてしまうのです。いくら物事をあるがままにありのままにみていると本人が思っていても、実際は自分の感情が入り込んでいる現実ですから様々な執着がこびりついてしまうのです。

そういう時、優れたリーダーというものは必ず自分に意見するものを近くに置くものです。松下幸之助さんはこういう言葉を遺しています。

「よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。私は学問のある他人が全部、私より良く見え、どんな話でも素直に耳を傾け、自分自身に吸収しようと努めました。」

人が話を聞けなくなるというのは、聴きたくないからです。周りの人たちの話を聴くというのは、自分の間違いに気づかなくてはなりません。それは単に間違いに気づけばいいのではなく、真の間違いに気づくということです。

人は分からないことを分かっていたら改善することはできません。自分が分からないことがあると気付いているからこそはじめて分からないことを知るのです。分からない部分が自分の改善点ですが、分からないことを知ろうとしないから改善することがなくなるのです。

人は大なり小なり必ず小さなズレが現実の間で発生します。いくら正論を語り正しい法則を知り尽くしていたにせよ、自然に必ず矛盾は発生します。その矛盾は沢山の人たちの意見に耳を傾けることで矛盾を内包できるようになり絶妙な判断をしていくことができるのです。

自分だけの判断が絶対だと我儘になれば、無理やりに真実を捻じ曲げて上手くいったように錯覚するようになります。その時、その身が亡ぶように思います。周りの人からの意見に耳を傾けることを「衆知を集める」といいます。これは言い換えれば「叡智を結集する」という意味と同義です。

自分一人だけで正解探しをするよりも、もっと信頼できる人たちと一緒に矛盾の中にある真心探しをしていく方が人生はより豊かで楽しいように思います。手段と目的を見失うことがないように、自ら省みて自他を尊重して聴く訓練を積み重ねていきたいと思います。

 

奇跡の今

人類は何万年も前からこの地球で暮らしていたことが遺跡からわかっています。宇宙はどこまで広がっているのか、またどこからはじまったのかも興味があるかもしれませんが同時に人類はどこから来たのかというルーツについても同じく興味があるものです。

そうして時間というものを考えてみると、いつはじまりいつおわるのかは誰にもわからないことに気づきます。ある生き物は7日間で生死をめぐり、ある生き物は数千年で生死をめぐります。生死の長さはそれぞれにとって異なり、人間が定めた時間を物差しにしてみると短命、長命と分別しています。

しかし実際の生物たちは、過ぎた過去のことを憂い、まだ見ぬ未来のこと憂いているか、時間という概念がもしもないのならそういうことを思い煩うこともないように思うのです。

例えば人類があと5万年生きようとします、すると5万年をどう生きるのかを悩めば悩むほどにありとあらゆる準備をしなければなりません。文明を発展させては、もしも地球が滅んだ時のためにと宇宙にも脱出していかなければなりません。そのためにありとあらゆるテクノロジーを開発していくのでしょう。

しかし実際はどうかといえば、宇宙の大きさからみても私たちが準備してもどうにもならないものもあります。太陽が爆発したらおしまいですし、ブラックホールが急に出現してもおしまいです。地球の中にいても急に大噴火が発生し氷河期がきても大変ですし、大地震で大津波がくるかもしれません。何が起きるかはだれでもわかりません。これは決して対処しなくていいというわけではなく、あまりそういうことばかりを考えていたら本当の今という現実から離れてしまわないかということです。

生物たちは今の一瞬一瞬を面白く楽しく過ごしています。どんなことがあっても今から離れずに今を生き切っていきます。そこには自分が7日の生命かどうかなど煩わず、もしくは1000年であろうが関係がありません。今日一日、この今の一瞬一瞬を大事にしていきます。心を今から離さないといった方がいいかもしれません。そうして今から離れないからこそ沢山の奇跡に出会っていくように思います。

よく考えれば、この先のことを憂うよりも今があることがどれだけ有難いことか、昔のことをくよくよするよりも今があることがどれだけ御蔭様であるか、物事の善い方を感じることができることは仕合せなことです。

畢竟、今を大切に生きるということが心でいつも奇跡を感じる方法かもしれません。

奇跡の星に生まれて奇跡の星に今あることが愉しいのでしょう。

ありのままに正しく物事をみるためにも今を愉しみたいと思います。

心の実践

人は共感することで相手のことを深く理解していくことができます。この共感とは単に相手を知ればいいということではないことはすぐにわかります。しかし実際、共感をするということが何かということを理解している人は少ないように思います。

例えば、相手の話を聴くということがあります。これも単に話を聞けばいいのではなく、聴くというのは相手のことを自分のことのように関心をもっているか、もしくはどれだけ自分が心をありのままに開いているかということが関係します。

しかし実際は関心も心も開くこともなく、心を遣わないままに頭が先に出て心が入らないことがあったりするように思うのです。それを自分で気づける人は修正できますが人間が幼いころから大人の社会を身に着けるために世渡りが上手くなって刷り込まれてくる過程でその心の実践を忘れてしまうことがあるように思うのです。

それでは心の実践とは何かということです。

極端な例かもしれませんが、1990年、フランス人の野生動物専門カメラマンを両親にアフリカのナミビアで生まれたティッピという少女がいます。10歳になるまで、原住民たちと共にアフリカの野生動物に囲まれて育ち、生まれつきどんな野生動物とでも仲良くなれたと言います。

この子の動物と戯れている写真を見たら、まるで兄弟か家族のように動物たちと仲良くなっています。動物たちもその子に警戒せず、その子も警戒しません。本来の野生動物は食べ食べられる本能がありますが、生命の進化を観ていたらその相手ではないと思えば自然に近づくことができるのかもしれません。

その中でその子がこういう言葉を語っています。

「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」

ここに共感するということの真意が潜んでいるように私にも感じます。相手が心を開かないのは自分が先に心を開かないからです。そうして開かないからこそ相手は自分に対して心を開いている分しか開いてくださらないのです。

まず自分が心を開くのは相手が先に心を開いてくれてからという人もいますが、人が自ら共感するというのは自分の心をまず開いてから行うことをいうのでしょう。もちろん、心を開けば傷つく時は大きな痛みを伴うかもしれません。しかしそれ以上に相手を思いやり、もしくはそれ以上に冒険したいという気持ちがあれば心はいつも先に出てきてくれるようにも思います。

勿論幼いころの心の傷や痛みは古傷となって今でもズキズキするかもしれません。しかしその傷や痛みは相手を分かろうとした痛みであり、相手を近づこうと冒険した証の傷なのですから自分の誇りであり、また勲章なのです。

仲良くなり助け合いわかり合う共感とは、心のかかわりつながりを持つことです。

小さな勇気を振り絞り小さな一歩を踏み出すことで心は開いていきます。
自然はいつも私たちに心をまるごと開いてくださっています。

仲間に出会える倖せのためにも、敢えて自分から裸になる心の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

苦労の意味

人間は苦労することではじめて修身することができるように思います。

昔から「若いころの苦労は買ってでもせよ」という格言があります。よく今の時代で勘違いがあるのが、嫌なことをさせることを苦労だと思っている人がいます。しかし本来、嫌なことをすることと苦労することは同じではありません。

例えば、ある人が自分が若いころに嫌な思いをしたからと同じことをさせようとしたとします。それは苦労をしたのではなく、同じ嫌な体験をさせたということです。実際の苦労とは何か、それは自分と向き合って自分を変える、そしてそれが如何に苦しくても自分から逃げずに辛抱することを学ぶことです。

人間にそれがなぜ必要かといえば、その苦労によってはじめて耐え忍ぶことを体験できるからです。忍耐というのは、耐え忍びて克つというように自分に打ち克つ力を学ぶことであり、それができてはじめて信じるということの本質に近づけるように私には思います。

思い返してみても、自分の信は苦労をすることで育ってきたように思います。いくら頭でわかった気になったとしても、実際はわからないことだらけです。その都度、反省と内省を繰り返し、自分の分からないところを周囲の先生に指摘してもらう。そして自らを改善するという具合に分からない自分を自分で直していくのです。

人間はこのわからない自分がいるから苦労するわけであり、苦労はわかるようになるための大切なプロセスとも言えます。何が分かっていないのかが分かるというのは、素直になっているからです。素直という基本姿勢ができるまではいつまでも同じことを繰り返すばかりで改善もしようとはしないのかもしれません。「時間は有限、改善は無限」というのもそれだけ一生涯の中で素直になることは難しいということなのかもしれません。

人間は信じているから辛抱でき、忍耐力があるから希望を諦めないように思います。先に自分が諦めたり、先に自分が自分から逃げればそこにはそれ相応の未来が待っています。しかし自分が先に諦めなければ、石の上にも三年としっかりと辛抱していれば自分の想像しなかったような未来が待ち受けていたりするものです。

この忍耐力というのは自然の力です。

自然界の生き物たちが辛抱強く待つように、四季のめぐりの中で忍耐力を発揮するように、いのちは信の力によって執らわれず抗わずに自然そのものです。

自然の中で強く逞しく育つというのは、苦労し続けるということかもしれません。
逞しく育ってほしいという自然の祈りや思いやりが苦労の中に在る気がします。

時代が変わっても、子ども達には変わらない力をもってこの世の中を逞しく健やかに生き抜いてほしいと親なら皆願うものです。常に自分が分からないことを天が教えてくだいますからその教えを聴けるように真心の一日を過ごしていきたいと思います。

故郷~初心の拠所~

人には故郷があるように、人の心にも故郷があるように思います。

先日、ある学校方々と面談をする中で「子どもたちがまたいつか帰ってこれるような学校にしたい」という言葉を何度も聴きました。そこには、我が子のように思い子どもを見つめる暖かい眼差しも同時に実感しました。

子どもにとっては未来への一つの通過点であったにせよ、そこを起点にして人生が強くなったり人生が豊かになること、生きていく上での大切な節目になることを祈り学校は存在するのかもしれません。

そもそも故郷というのはその人の風土や心の初心であり原点です。

その原点に帰ろうと思えるのは、そこで暮らした善き思い出を頼りに世の中へ羽ばたいていこうとする心境でもあろうと思います。田舎から都会に出て、社會の中で自分らしく自分の役割を全うする。その中においては様々な困難や試練、あるいは倖せや奇跡にめぐり会うのでしょう。

そんな時、ふと今の自分があるのは何があったからだろうと立ち止まるとき原風景が顕れるのです。それを心の原風景といってもいいかもしれません。愉しかった思い出、幸せだった仲間や先生たちとの邂逅、その人を支えるのはその人が信じ合っている家族や仲間と暮らした物語です。

心の強さというのは肉体とは異なり、単に厳しくすれば強くなるものではありません。人からの思いやりや真心、朋との信頼、志を歩む方々の姿、そういうものを一緒に歩んだ経験が心を強くしていきます。

その機会をどれだけ沢山の用意できるか、此処に居ていい、此処が居場所であるという体験をその子どもがどれだけ実感できるかに由るように思うのです。

人生は旅路です。

旅は元々居た場所に戻って来るからこそ楽しいものです。その元々の場所こそが故郷ということでしょう。その人が人間として如何なる初心を持つか、それは周りの大人たちの生き方に習って学ぶように私は思います。

卒業は一つの旅路に出るその人を初心の拠所として見送るということです。

素晴らしい学び合いを通して心の原風景を育てていく志事に改めて感動しました。

最後に子どもたちに希望を与える志事に魯迅の故郷の一節で締めくくります。

「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

その希望、その初心が忘れられないように真心でお手伝いさせていただきたいと思います。

優しさと強さ~心の在り様~

人は「優しい」というのは、人の気持ちが自分のことのように分かるということでもあります。相手のことを思いやるから優しくなれますし、優しいのはその人の倖せを深く願う真心から来ています。

しかし優しいというのは強さが要ります。ある格言に「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる価値がない」というものもあります。

一見矛盾しているようですが、優しさと強さがあってこそ真心を発揮することができるからです。優しいだけでも強いだけでもそれは本質的な優しさではないように思います。

思い返してみると、学校の思い出にいじめがあります。大なり小なりいじめはありますが、いじめられる子、いじめる子に分かれてはお互いを傷つけあっていきます。しかし、その中でも優しい子どもは自分がいじめる側につくくらいならと学校に行かなくなっていきます。

不登校になる子どもには優しい子どもが多いというのは、優しさゆえに自分を責めてしまうからです。子どもは最初からみんな優しい心を持っているように思います。いのちを慈しむ”かわいそう”と感じる慈心の事です。

学校では、強くなれ、やさしさだけでは社会では通用しないぞと色々な圧力を各方面からかけられましたが、実社會に出てみたら確かにそんな社会もありました。しかし現実に社會を創る側にまわってみると、実は真逆で真心でなければ本質的には通用しないことを自覚するのです。

表面上周りに合わせて社会に慣れるのと、社會を本気で変えていこうと生きるのではその生き方がまったく異なっていきます。子どもたちのためにと社會を善い方へと変えていこうと思ったら優しさというものは必要不可欠です。そして表面上ではなく本質的な優しさを発揮していくために真の強さを持たなければ子どもを守ることはできません。

つまりは、優しく強いというのは子どもの周りの大人たちに必要なモデルであり、優しいままでいいから強くあるようにと見守り育てていくことが大事なのではないかと思うのです。

弱いから強くしよう、優しいから厳しくしようとするのは真心からではないような気がします。弱く優しいからこそ守ってあげよう、そしてそういう人たちを守る社會を育てていこうとするのが思いやりだと私には思います。

社會はどこでできてくるか、それは子どもたちの創りあげたい社會が今の社會です。私たち今の大人が作った社會を無理やりに子どもに押し付けるのではなく、子どもが望んでいる社會をよく見つめ、どうやったらその社會が実現するかを考え直して見守り育てていくのが私たち大人の使命だと感じます。

人を傷つけるくらいなら自分が傷つけばいいなどという自責の念で潰れそうな子どもたちをひとり孤独にしていては世の中から希望が失われていきます。希望を与えるには、強く優しい真心の実践が必要です。

自分が自分に打ち克つからこそ人を深く思いやれ、そして自分が希望を捨てずに最期まで諦めなかったからこそ目の前の人の心を強くしていくことができるように思います。常に優しさと強さは心の持ち方、心の在り様からはじまりますから、同志の学校教育に一緒に向き合っていく以上さらに奥深い心の本質に入っていきたいと思います。

 

切磋琢磨

昔から仲間から学ぶ尊さを大事にする諺に「切磋琢磨」がある。

御互いに石が擦れ合うことによって、お互いが自然に磨かれていくということことから来ている言葉です。ここからどんな素晴らしい宝石でもただそれだけでは、磨かれて光を発することはないという意味にもなります。

磨れ擦れ合うこと、つまりは摩擦です。よく考えてみると全てのものは摩擦によって磨かれていきます。

小さなものでは水の流れでも、砂砂も擦れ合うし、風が通り抜けても磨れ合います。自然界のものは摩擦によってカタチができているとも言えます。

この摩擦は決して一人では行われず、相手がいて初めてできるものです。それに相手がツルツルであってもこちらは磨かれず、相手がザラザラであるからこそこちらもそれに磨かれるのです。

しかしもしもそれを摩耗や摩擦したくないとすべて避けようとするならば、一向に磨かれることはありません。これは人間関係にも言えることで、相手によって自分を磨こうとする人と磨きたくないから関わらないという人がいます。人が磨かれるというのは、自分を磨ける砥石に出会うということかもしれません。

ちょうどよいお相手こそご縁によってめぐりあいます。

そう考えてみると、人は皆我が師とあるのも人は皆我が砥石ともいえるように思います。磨いてくださる方々がいて今の自分があるのですから、その時々に磨き合える仲間とめぐり会えることは本当に仕合せなことだと思います。

禅語に「石中に火有り、打たざれば発せず」があります。

どんな石も何もしなければそのままの石ですが、ひとたびその石が打ち合えば火が出てくるということです。ここから、人は打たれることで発して光り出すということに例えられます。

これは私の自然観ですが、地球の子どもが石だとして考えると石は地球の中で歩んでいく中で悠久の時間を耐えつつ様々なところでありとあらゆる摩擦に出会い、自らの石を形成していきます。

石を観ていると、その石にその石の生き方があった、生き様があるように感じるのです。

私が石を大切にするのは、その石がどのような行程でその石になったのかを味わいたいからです。その石はあるときは、熔けるような温度の中で揉まれてきたものであったり、ある時は地中深く巨大な圧力を受け続けてきたり、もしくは強風の中で風に吹かれ削り取られてきたり、あるいは宇宙を旅してここまでたどり着いたものもあります。

その一つ一つに物語を含有し、その一つ一つに磨き方を与えてくれます。それがどのように光るのか、あるいはまだ光り出す前の状態なのか、もしくは光る前に形がなくなってしまうのか、想うところがあるのです。

仲間に出会えるというのは、お互いの生き方を学び合うことです。

一生涯の中で、それぞれに自らの道を歩んでいきますが仲間が自分自身をどのように磨いていくのかをずっとみてみたいものです。子ども達にも楽しく磨く仲間が増えるように、石の一つになって切磋琢磨していきたいと思います。

からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。