一円対和~認め合う社會~

人は物事を対立で考えるときに、様々な問題が出てくるものです。そもそも一つであったものを二つに分け、それを対立させるのはお互いを認め合わないからです。本来、ニワトリが先かタマゴが先かというだけで、同質のものの先をどちらにしようかという話であることがほとんどです。

なぜそうなってしまうのかといえば、そこに対立思想があるからのように思います。自分とあなた、これとあれ、善か悪か、正しいか間違いかなど違いを分けてお互いに要求していけばその先には紛争や戦争が待っているかもしれません。

だからこそお互いに対話によって近づいていこうとするアプローチを世界中の様々な教育現場では試行錯誤されているのです。私たちの会社には一円対和というものがあり、二つ以上の分かれたものを一つに融合するというマネージメントを持っています。

本来、違うと思っているものも皆で持ち味を活かしあえば大和になるという思想と実践です。これは、お互いが違うからこそお互いを活かしあえば偉大な力になるということです。そのためには対立から対和へと舵を切ることと、その中でお互いが認め合うことで和合するという一円観を磨くことです。認めてもらおうとばかり思うのは自分を特別視するからですし、相手に自分を認めさせたいからです。

それぞれが違うというのは、それぞれに与えられてる才能や使命があるということです。言い換えれば「協力できる」「助け合える」「一緒にできる」ということです。お互いに一つの目的のためにその力を活かしあえばどの組織でも、衆智を集め、一家団欒の平和な社會が顕れてくるように思います。そしてこれが和合です。

この和合という考え方は、私たち日本を代表する文化の一つです。

対立し比較されまたは個性が認めてもらえずに心が傷ついている人たちはたくさんいます。その人たちが少しでも自分の持ち味に気づき、その個性を共に活かしあい認め合う世の中にしていくために、日々の実践を強く厚くしていきたいと思います。

人生の物語~個性~

人は物事を考えるときに、無理やりに二つに分けて理解しようとするものです。これは善か悪か、正しいか間違いか、できるかできないかなども極端に考えてしまうものもあります。

私が好きな心理学者に河合隼雄さんがいます。発達障がいの勉強をする際に、その著書や対談テープを随分参考にしましたが実際は人生というものとどう向き合っていけばいいかという指南書のようなものがほとんどでした。

その中で分けるということについて書かれている文章があるので紹介します。これは、小川洋子さんとの対談の中からの抜粋です。

「河合:分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川:数学を使うと非常によくわかりますね。
河合:お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂と言うと。善と悪とかもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にしてみることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消してみる。」『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)

人間は、分類の中でしか人間は認識しないものです。私たちの会社も分類分けの中には入っておらず、無理やり分類分けされていますがわからない人には変な会社と呼ばれています。

結局は分類の中で人は物事を自分の都合で分けては認識していますが、実際の世の中は分類分けできない複雑で矛盾なものであるのです。中庸や中心などというものもそうですが、そのままに観得る状態であってはじめてその意味を感得できるように思います。

物事にはわからない部分があるからこそそこに物語があるように思います。わかりきった人生を生きるのではなく、分からない部分を愉しむ心の余裕やゆとりがあるからこそ目には見えない部分が実感できるようにも思います。

頭ばかりよくなり現実を自分の思い通りにしようと我を強くしていけば、次第に思い通りではない愉しいことも感じる力がなくなってくるように思います。分けないというのは、頭でわからないところを直感するということです。

物事を直感するとき、そこに偉大な物語があることに気づきます。二分法ではなく、直感法で理解するには体験による気づきと内省、振り返りを優先する生き方に換えていくことかもしれません。

最後に、河合隼雄さんの言葉です。

『物語の「主人公」は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。』
・・・

『「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。』
・・・

『僕の言い方だとそれが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。』

たった一つのたった一人の自分の物語が人生です。その人生の物語を面白く愉快にしていくのも自分自身です。マジメに考えることも大事ですが、マジメの中に遊びがなければ物語に気づけなくなります。

今のような時代だからこそ、敢えてふざけて生きてみたいと思います。子ども達にも遊びの中でその人らしい物語を生きれるように、自分自身がチャレンジしていきたいと思います。

 

 

 

 

魂の傷~社會問題~

人は幼少期をはじめ、無意識のうちに心に傷をおっていることがあります。社會の中で自分がどのような環境の中でどのようなことを感じたかは、その人の心の中にあります。その心の傷は、見た目にはわかりませんがいつまでも痛む人ともう治っている人がいます。

例えば、怪我もそうですが古傷が痛むというように昔怪我したところが何かしらのことで傷んだりします。同じように、心の傷も古傷のように痛むことがあります。人は何かしらの怪我をしてはそれを乗り越えて強くなっていくのです。

傷ついて痛みが分かるということは、同じように傷ついた人の痛みが分かります。苦しみも喜びも楽しみも、人間には共感という与えられた天性がありますからその力によって互いに癒しあうところに人間の社會の根がはっていくようにも思います。

ただ、今の世の中を見渡して観ると心を傷つけるよりも魂が傷つけられているような気がしてなりません。自信を失い、自分の役割を実感できず、自分の居場所をなくしたり、昔でいうところの日本人の大切にしてきた美徳、正直、素直、謙虚、誠実、思いやり、真心、勇気といったことが社會の中で否定されることで魂が傷ついてきているようにも思うのです。

魂が傷つくという言い方は曖昧かもしれませんが私なりの言い方をすれば、それは子ども心が傷ついていくということです。

子どもの権利条約の根幹を提起したヤヌシュコルチャックは、大人は大きくなった子どもであると定義しました。身体が大きくなったから大人になったのではなく、みんな子どものままに大きくなっただけです。

それは産まれてから死ぬまでずっと同じく、子どもは子どもであるのです。

その子どもを、無理やりに大人(今の自分たちの境遇に同じに合わせさせよう)にしようとするところに魂の傷つきがあるように思うのです。その大人とは、社會の乱暴な側面ばかりを強めてそれに慣れさせていくかのようにです。

子どもの心を失うことは、心が傷つくだけではなく魂も傷つきます。どんな時でも子どものままでいいと見守ってくれる周囲があればその人は自信を持ち、魂を育てて健やかに逞しく生長していくように思います。

社會の中で傷つく人たちが増えているからこそ、その社會の一員として自分が何ができるかを考えないといけません。子どもの素直さをいつまでも失わないためにももっと大きな目で社會を見渡し、もっと深い心で社會を癒し、もっと篤い耳で社會の声を拾っていきたいと思います。

決して自分の問題ではなく、その人個人の問題ではない、人間における全ての問題は社會問題です。社業の中でさらなる徳の発明に精進し、社會をより善く直すためにも実践で弘めていきたいと思います。

魂磨き~人類の夢~

昨年に貝磨きの体験をしてから、貝をとても身近に感じるようになりました。貝というのは、古代人の夢であったように今では感じています。古代の人たちが貝を首飾りにし、土器の模様にしたのは、きっと貝が人間社會そのものを顕していたのではないかと私には思えます。

人生はまるで貝磨きのようなもので、人間は一つの社會を集団になって形成し、その社会の中で自らの本性をお互いに磨き合いつつ豊かで平和幸福に暮らしていきます。まるで一人一人がそれぞれにいのちの塊、その魂の原石であり、その魂を出会いによって互いに輝かせては大切な思い出という物語を宇宙の記憶の中に保存していくかのようです。

一人ひとりが自らで魂を磨いてきたからこそ、私たちは発展と繁栄を繰り返してきたように思います。その中で私たちは何度も何度も繰り返し繰り返し、まるで海の押しては引く波と同じように魂を磨き続けてきました。

貝の中に観る神性とは、「めぐりとひかり、いのち」の3つではないかと感じます。

磨き方は人ぞれぞれですが、みんなで一緒に磨こうとしたことは時を超越して今でも変わらず受け継がれています。

機会をいただけること、ご縁をいただけることが何よりも有難く、人生で一緒に出会えることに感謝の心に包まれました。

最期に、「人類の夢」という詩を紹介します。

「人は誰しもが何かしらの魂の原石です。
  だからこそ磨けばだれでもその人らしく光っていく。
 一人で磨くのではなくみんなで磨いていけば
必ずの世の中は澄んできて美しい世界になる。
 だからこそ一緒に磨こう、魂を磨いていくことは、
    子どもから私たちが学び直していくこと。
 子どもを人類の先生にして、私たちが学んでいくことこそ魂磨き。
     一緒に磨く仕合せ
を感じていこう。」(藍杜静海)

何が人類の初心であるか、それを出会い御縁をいただけた方々の道しるべになれるよう精進していきたいと思います。

 

出会いの哲学~物語~

今の時代、ありとあらゆるモノで溢れかえっています。一見、モノが溢れて豊かなようになっている気がしますが実際はモノが溢れて貧しくなっているようにも感じているものです。

全てのモノにはいのちがあると言います。

昔の日本人は、それを八百万の神々と呼び、この世の全てのモノには神性が宿っているという見方をすることができました。それを別の言霊にしてモッタイナイという言い方もしたのです。

ではその神性とは何かということです。

これはモノにはカタリがあるということです。漢字で書けば「物語」のことです。物が生きているからこそ語ってくるということです。これはモノが単なるいのちのないモノという定義ではなく、いのちが宿るモノだからこそモノが語るのです。

そのカタリとは、今までどのように辿ってきて出会ったかという奇跡の話です。そのモノが出来上がって自分の身の廻りにまでたどり着くまでどれだけの物事が発生してきたか、そしてどのような経過を経て今の目の前にまでやってきたのか、そういう一つ一つのご縁を感じるとき、そこには単なるモノではない神性が宿っていることに気づくのです。

足元に転がる石ころ一つでさえ、その石ころが目の前に現れるまで長い長い偉大な旅をして私たちの前にやってくるのです。あるいは、その辺に生えている草花でさえ悠久の年月のいのちの繰り返しを耐え抜いて進化し自分の目の前で咲くのです。

その辿りついた奇跡はまさに出会いのしあわせです。

出会いのしあわせを感じるとき、人はモノにいのちを観ます。

そのいのちの物語をどれだけしっかりと味わえるか、モノが溢れているから気づけないではなくモノが溢れていようがモノノアワレに気付いているということが大切なのです。

これだけ忙しい時代、そしてお金で物を簡単に売り買いし、大量生産大量消費で急速に工場生産をする昨今であってさえ、そのものがどのようにしてあなたの前にたどり着いたか、そこに確かないのちの物語が存在するように思います。

出会いというものは、廻り合いであり、その辿りついた奇跡を味わうチカラが不思議さの妙を味わう子ども心、「センスオブワンダー」でしょう。

常に物語を感じられるような一期一会のかんながらの道の生き方を、その出会いの哲学を日々に磨いていきたいと思います。

 

一緒に磨く

人間はいつの時代もあらゆる方法を用いてその人間の本性を磨いていくものです。あらゆる環境の中で、それぞれが懸命に生きてはお互いに切磋琢磨し、その精神や魂、心を磨いて往くものです。

磨くということは、人間そのものの本質に近づいていくことのようにも思うのです。

この磨くということにおいて、松下幸之助さんが54歳の時にPHPで語った話が遺っています。私はこの語りがとても気に入っていて、「一緒に磨く」ことの本質が入っているように思っています。

「人間には、自然からかぎりない繁栄、平和、幸福が与えられている。
それをたとえていうならばダイヤモンドみたいなものである。
ただの石をただ磨いてもダイヤモンドにはならない。
しかしそのダイヤモンドの原石でも磨かなければその美しい本質は現れてこない。
それと同じことで人間の優れた本質も磨くことなしには発揮されないわけである。
・・・
人間にはその本質として、繁栄、平和、幸福というものが原則的に与えられている。
その本質がだんだん出てくるだろう。
そうすると、みだりな闘争とか破壊とかそういうことが少なくなってくるだろう。
少なくなってくるだけ、一方で繁栄とか平和とか幸福とかが反比例して生まれてくると思う。

だから磨き上げてしまったら楽土ができる。
もっと磨き上げるまでに数千年、数万年、あるいはそれ以上かかるであろう。
しかしそういうことを信じてやることが大切だと思う。

それではだれが磨くのかというと、それはみんなで磨こう。
これは一人や二人で磨いてもなかなかうまくいかない。
みんなで寄って磨いていこうじゃないかというわけである。
そうすれば磨き方も、ある人はその磨き方よりこの磨き方のほうが早く磨けるという人もでてくるだろう。
つまり万人の智慧というか、いわゆる衆知を集めて磨こうではないかというのが行き方考え方なのである。」(松下幸之助発想の軌跡著者: PHP総合研究所より)

人間はダイヤモンドの原石であるといい、その原石も磨かなければ光らないといいます。その通りで、常に原石を磨き続けなければ悠久の歴史の中での地球上での自分たちの真の役割に気づけなくなるように私は思います。

人間はダイヤモンドの原石だからこそ、磨き続ける必要があるのです。そしてそれを誰かがやればいいのではなく、一緒に磨こうとするのが本来の人間に備わっている徳なのであろうと思うのです。

その徳が備わっているのが人間であるからこそ、その徳を磨いていくことで徳が光ってくるのです。

私たち日本人をはじめ、全ての人間の心の中には和があります。そしてその和の精神は、一緒に何かをする中で衆知を集めて顕現していくものです。左右東西前後の異なりを超越し、円満に一円観にありとあらゆるものを融合してさらに善いものへと転じていくのです。

それをどう耕し織りなし掘り起こすのかは、その人の「磨き」にかかっています。

自分が原石であることを忘れないように、常に磨き続けていきたいと思います。与えられているものに感謝して、素直に謙虚にありたいと思います。

 

死生観~執着と向き合う~

人は自分と向き合うということは何よりも大切なことです。誰といても他人は自分とは向き合ってはくれず、自分と向き合えるのは自分自身だけです。この向き合うというのは、簡単に言うと自分の本質から逃げないということですが向き合えないことでいつまでも現実から逃避してしまうことがあります。

自分と向き合うというのが、言い換えれば自分の道を歩むということですからよくよく内省し自分と対話をしていく中ではじめて一歩一歩前進していくように思います。

人は無意識に自分の願望や理想を持ち、憧れのようなものを抱くものです。ああなりたいやこうなりたいといった、自分の中に理想像を持ちます。しかし現実は甘くはなく、そのギャップを感じては今の自分から目を逸らそうとしてしまうものです。そうやって一度目を逸らしてしまうと、何度もループしいつまでもそこから離れることができなくなります。言い換えれば執らわれてしまうのです。

自分に執らわれるということは、自分と向き合わなくなるということです。そこを抜け出すためには、自分の心と真剣に向き合っていく必要があります。そして自分の中にある心と自問自答し、本質を見極めその都度決心をして本物になっていくしかありません。

人間はこんな自分ではないや、こんな自分はいやだや、こんな自分、自分と自分のことを思ってはその自分に執らわれています。自分が一体どうしたいのかを突き詰めるのではなく、なぜできないのかやどうしてできないのかばかりに執着するのです。

かつて自分と真剣に向き合うとき、死生観について考えたことがありました。かのアップルの創業者スティーブジョブズも、毎朝鏡を観ては、もし今日が人生の最期ならと向き合うことを怠りませんでした。

この死生観とは自分がどのように生きて、どのように死にたいかということです。自分の生き方、死に方と向き合ったとき、今、どうあるべきかも気づくのです。

人生は一度きりですから、本質と向き合わないでいたらあっという間に流されて終わってしまいます。だからこそ、初心を忘れずに自分の本質と向き合い磨き続けていかなければならないように私は思います。

同志というものや仲間というもの、道を共にし一緒に歩む戦友たちはみな自分と正対し自分と向き合っている人たちです。その人たちに恥じないように自分自身が常に向き合っているかは、何よりも志を貫徹するためには必要な実践です。

向き合わない向き合えない自分の執着そのものを直視することは、人生を正直に生き切る実践です。あらゆる自分の執着に気づき、受け容れて乗り越えることで得られる新たな境地は、他の人のお役に立つのですから引き続き自分自身と正対する精進を続けていきたいと思います。

 

人生の役割~導きに従う~

人は「役割」というものがあり、使命というものがあるといいます。自分の思った通りの人生ではなくても、人生は思った以上のことに出会っているときその役割について考えるのです。

役割とは、自分が求めていなくても今の自分がどうなっているのかを内省してよく見つめれば自分が何をするために産まれてきたのかの意味も実感できるように思います。生きているときは、自分の我欲もありますからどうしてもその役割に気づくよりも自分の思い通りにしたいと思うのかもしれません。

電話の発明や教育者として有名なグラハムベルと、社會貢献や教育者として有名なヘレンケラーの関係の中で二人の持った「役割」についての思想を垣間見ることができます。6歳の時、自分の障がいへの不満から癇癪ばかりを起こして暴れていたヘレンケラーに両親が心を痛め、これは医者ではなく教育者が必要だと聾唖教育家を父に持つグラハムベルに教育を依頼しました。

元々幼少期から思いやりの深かったグラハムベルはヘレンケラーに真心で接して、その障がいにより傷ついた心を癒しました。その時にヘレンケラーがどんな気持ちであったかを後年の自伝で語っています。そこにはこうあります。

「わたしたちの周りに取り囲む静けさは、神経を休める静けさではない。他人と自分を引き離し閉じ込める、残酷で厚い壁のような静けさです。その壁を破ってくれたのがベルさんだった」ヘレン=ケラー自伝(講談社)

私の認識では、グラハムベルが行ったことはヘレンケラーの刷り込みを取り除いたのです。母親が聾だったグラハムベルは母親のために新しい視話法などを発明した人です。その母親の気持ちがよく分かる人物だったからこそヘレンケラーの思い込みと刷り込みを取り除き素直の原点に正し、方向性を発明し導くことができたように思います。

その後、グラハムベルは自らの家族の境遇が急変し仕方なくアメリカへと旅立ちます。その時、間接的に紹介した人こそサリバン先生でありその後のヘレンケラーの進むべき実践の「道」を片時も離れずに見守ります。

そしてヘレンケラーが大学を卒業する際に、再びグラハムベルに自らの進路を相談しヘレンケラーに生き方を導きます。ヘレンケラーはこう言いました、「サリバン先生と山奥の中でひっそりと暮らし、作家活動をしたいと思います。」と。するとグラハムベルはそれに対し、「できるだけ多くの事をした方がいい。一つでも多くのお仕事に携われば、それが目の見えない方や耳の聞こえない方の為になる」と諭します。

そしてその言葉に従って、ヘレンケラーは世界中の障がい者のための活動を行い、その教育と自立、福祉、事業を一生涯かけて展開するのです。

グラハムベルは、その後、私が今でも大変好きな「ナショナルジオグラフィック協会」の創設に強く関わりその会長も務めています。科学する心、教育をする心、つまりは人間そのものの育成を最期までやり遂げるのです。電話の発明ばかりが注目されますが、実際はそれ以上の偉業を遺している方なのです。

役割というのは、決して思い通りではなくてもその人の志す道に対して正しく導くことによってそれが明らかになるように思います。自分の与えられた天命は果たしてどのようなものかは自分自身には簡単には分りません。いくら周りをみて羨ましがってみても、人は他人になれるわけではありません。

しかしそういうものを諦めて、今の自分であることをあるがままに受け容れてみたら自分にしか与えられていない使命に次第に気づき、自分の人生の方向性をより志の高い方へと導いて膨らませていくことができるように思うのです。

善い教育というものは、その人をより善い社會貢献者に導くことのようにも思います。教育の本義は、人間社會の一員である以上、自分の役割を自分の体験をもっと多くの人たちのために活かしていこうとする真心であるように私は思います。そしてそれは見守る中にある尊さの一つ、「導き(みちびき)」ということなのかもしれません。教育者には導きがあります、先生というのはその体験を活かして導くことができるから先生なのです。

そのためにどうあるべきかもグラハムベルはその遺訓の中で述べています。

「目の前の仕事に専念せよ。太陽光も一点に集めなければ発火しない。」(グラハム・ベル)

人々を導くためには、自分がその人生を丸ごと受け容れる覚悟と発明の両輪があることを教えてくれます。 日々に初心を忘れずに引き続き、今に見据えて精進していきたいと思います。

自然の境地~他己実現~

人間は自分か相手かという相対の世界の中でお互いの我をぶつけあう生き物です。比較対象というものも、相対の世界を強めるものです。自分か相手かという言葉も、自分というものを強めることで我を強くし、そのことから我の方ばかりが大きくなってしまいお互いが自分の我に呑まれて相対の世界に刷り込まれます。

本来、自然界には自分という認識はなく草花、木々、昆虫、動物にいたるまで丸ごとで一つというお互いが分かれていない絶対の世界に存在しています。自分の認識は自分たちであり、人間のように人間だけが住んでいる世界にいるのではなく地球の一部としての認識の中に存在しています。

地球の一部としての認識から謙虚であるため、絶妙な調和の中で取りすぎず、奪いすぎず、分相応にほどほどにしつつ暮らしていくのです。自然界の生き物は、この世の全てを自分のものにはできないことを自覚しているように思います。それに別にそんなことをする必要を感じていないのです。終始いのちの道に沿ってあるからです。

人間だけの世界では、相対的に物事は分別されます。男と女、大人と子ども、あなたと自分、水と火、並べれば無限に存在します。どちらか片方に偏れば、その比較の中心は自分の我になります。この我というものは大変な曲者で、自分の理想が高ければ高いほどに同時に我も強く大きくなってきます。

そんな時は、絶対の世界の御蔭様や有難い、勿体ないや見守るなどといった分別することができない自然の世界、言い換えれば謙虚の実践の中に回帰することで我を中和でき中庸に近づけるように思います。

自分を修めるというのは、己に克つことですが、自分を活かすというものもまた修養であろうと思います。日々は、どれだけ自分が周りと一体になって仕合せにいるかの修業です。自分自身の思いを高めると同時に、周りへの思いやりの実践を篤くするというように他己実現を目指していくことで自他一体の境地に入れるようにも思います。

自分が自然の中で活かされていること、その徳によって存在させていただけることに気づき、その徳に対してどう生きるのか、如何に自然とともに天を敬い、自他と正対し人を愛するかは、絶学を継ごうとする志、またそれがいのちの道であり人生の醍醐味です。

絶対と相対ではないのが自然の境地ですから遊び心で愉しみながら、今日もかんながらの道と出会っていきたいと思います。

おかげさま~我執を手放す~

自我欲といった欲望とは何かと内観してみるとある一つのところにたどり着きます。それは御蔭様の心を見失うということです。人の謙虚さとは何か、それは際限のない欲望に己が打ち克つことのように思います。

協和発酵の創業者加藤辮三郎の言葉に「欲望に限りがなく、些細なことにも腹を立て、おかげさまを忘れて自分の行為には高い値をつけようとする。 」があります。

如何に自分が能力が高いか、如何に自分が優れているか、如何に自分が価値があるかと、人はその自分というものがよほど特別であると思いたくなった時こそ、欲望に呑まれるように私は思います。

本来は自分の力ではないものを、本来は御蔭様で今があるのを忘れては、俺が俺がと自分の優秀さを周囲にひらけかしさも自分が特別な力を持っているかのような錯覚に陥るとき、人は絶対観から相対観に移行し、本来の原点や初心を忘れては我欲のままに周りに我執をまき散らすのです。

今の時代、毎日は大変からも知れませんし自分ばっかり苦労していると思いたくなるのも仕方がないことのようにも思います。だからといって頑張った頑張ったからと真面目過ぎては周りに矢印を向けて、御蔭様であったことが観えなくなり、不平不満と愚痴ばかりを言っていて大切な生き方や働き方を見失ったなら、一体何のためにやっているのかと自分自身が一番悲しい思いになるのです。

大変な時こそ笑うのは、自分ばっかりという我執を捨て去るためです。本来は自分は周りの皆様の御蔭様で存在できていることを忘れず、自他実現のためにと自分の役割を全うしその仕合せに感謝できることが我執に打ち克つことのようにも思います。

自分への執着よりも如何に自分に向き合うか、人生の課題はいつも自分の生き方の中です。相田みつをさんの詩に「いいことはおかげさま、わるいことは身からでたさび」があります。

まさに他人のせいにしないときが、御蔭様の心を忘れていない時だということです。

まだまだ相対的なものの見方に囚われ我執に呑まれてしまうことばかりです。絶対的な境地にはまだまだ到達できませんが、子どもの憧れるような生き方を志した以上、その道から外れるわけにはいきません。

日々の一期一会に感謝して、御蔭様を片時も忘れない自然の姿、かんながらの道を実践していきたいと思います。

ありがとうございます。