当たり前のこと

人間は次第に当たり前であることに気づかなくなっていく生き物です。

あって当たり前、これで当たり前というように、今あるものよりもないものへと意識が向いてしまうものです。しかし本来は、強く願ったことで手に入ったものでも実際は手に入るとそれまでのように感じてしまいます。

なくてはならないものがあって当たり前になるのは、感謝が足りないからとよく言われますがこの感謝とは何かということです。

今の自分を存在さしめているのは周囲の存在があってはじめて成り立つものです。

今の自分でいられるのも、今までの周囲があってこれからの周囲が存在しているからです。

これが滅多にない、つまりは有難いことだと実感することをいうのだと思います。

このように、自分の周囲がありふれていること、いかにもふつうであること、ありきたりで珍しくもないことを私たちは当たり前というのですがこの当たり前を感じる時、実は人は平和であることを感じ、幸せであることに気づいたりするもののように思います。

自分の周囲が当たり前にいることは、周囲も当たり前の幸せを享受しているということです。
だからこそ自分がどう生きるのか、その生き方そのものが周囲の当たり前に貢献するのです。

特別なことをしなくても、自分が感謝とともに歩んでいくことは周囲を幸せにしていくことだと思います。自他というのは、とてもシンクロしていて自分が運が善い時は当然、周りも運が善く、自分が幸せなときは当然、周りも幸せ、そのように自他同然であるのです。

当たり前やふつうということ、ありふれた日々というのは周囲もあっての自分なのです。

そしてこれもご縁というものを感じる時に味わえるものです。

滅多にない出会い、有難い出会い、この有難さに気づき続けることがご縁なのです。

こういう当たり前に気づける感性を気づくにも日々の内省とともに、どんな時にも常に自他を活かすことを考え抜かなければ鈍っていくものです。

子ども達の幸せを願うのだから、常に自分を活かし周囲を活かし、それを当たり前にしていくような自らの徳性と尊び天命を畏れるような生き方を実践していきたいと思います。

自分らしさの純度

純度を上げていくというものがある。

もともとの品質をさらに磨き上げていくという意味でもあります。

不純物が混ざってくると本来の純度は下がっていくという感じのものです。

これは何を言うかといえば、自分自身の生き方にもよるものです。

人は他人の評価を気にして、本来の自分らしさよりも周囲への仮初の自分を演じます。
そうすることによって、本来の自分がどのように成長しているかも分からなくなるのです。

そもそも本来の自分が他者の目線を意識しすぎて歪んでいたら、自分らしさの純度は観えません。自分の純度とは自然体であるとき、また自分らしくいてもいいと安心しているときに高まっているからです。

そしてこれは自分の意識を自分にあわせて他人からの評価ではなく自分で評価ができるようになるときに高まります。もともとの自分がどうであるのか、それは自分に矢印を向けて周りや相手を意識しないときに感知できるものです。

また自分自身が一心に実践を続けていく中で自らの未熟さを覚り、自分自身と正対し、学び変化し続けることでその純度もさらに上がります。

つまり自分の品質は、自分で管理して自らの実践で上げていくしかないということです。

人は成長するとき、生きがいを感じますし、成長していると実感するときモチベーションも上がります。これは純度が上がったと感じているからです、そしてその純度は自分らしさの純度であり、本来の自分というものに出逢っていくプロセスを楽しむことができているからです。

自分というものを向き合うとき、周りが気になるのはまだ本来の自分に出逢おうとする意識が低いからのように思います。無難に生きる事よりも、自分の純度を上げていくことで本来の自分のポテンシャルに気づいていくことこそが自分を成長させていくことのように思います。

成長とは、自然であり、自然はそのものらしさを存分に発揮していくことのように思います。

子どもたちがらしさを発揮できるよう、自分らしさの純度にこだわっていきたいと思います。

 

人類の大切なお役目

人は感情の生きものであるという言葉があります。

誰が言ったかのかは知りませんが、それは人は感情を交わすことで共感し互いを信頼していくことを学ぶからであろうと私は思います。そしてなぜ学ぶ必要があるかといえば、それが生きるということにおいて何よりも大切なものであるからです。

よく素直な感情をという人もいますが、私はそうではなく感情が素直なのです。

自分というものをさらけ出すということも、何でも言い合える関係というのもそれは何を言っているのかといえば感情を出すことをいうと私は思います。

子どもの頃は、感情を出せるのは素直であるからです。

ちょっと喧嘩しても泣いて笑ってすぐに仲直り、子どもは感情をむき出しにして人ととしての力をより引き出していきます。もともと信じているから感情も素直のままなのですが、これが大人になるにつれその感情を抑制しようとしていくのです。

大人の社会になるにつれ、信じる事が出来なくなってきて自分の感情は表に出さずに大衆にあわせたり権力に従ったりして周りとうまくやっていく方法を学んでいきますがそんなことを続けていても信じ合うといった生きる力は伸びていきません。逆に生きる力というものは減退し、疑心暗鬼になり、衝突を避けるようになったりしていくものです。そうなると感情を出すよりも隠すようになり、次第に信じあうことが難しくなり人間が最も大切にしてきた絆の力を弱めていくのです。

感情というものは、人が共生し絆を深め自立していくために何よりも大切なものです。

例えば、人が人を愛することはとても尊いことです。生きている歓びを感じますし、何よりも幸せを実感できます。しかしこの愛を学ぶにはそこには嫉妬、寂しさ、嬉しさ、悲しみ、苦しみ、喜び、切なさ、楽しみ、などキリがないほどに複雑な感情があることも同時に知るのです。つまりは様々な感情を通して私たちは本当の自分、元々この生命の世界がどのようになっているのかを自覚するのです。

自分というものも、魂や心、体が組み合わさって混ざり合って出てくるのが感情です。
その感情がもっとも素直であるというのはそこからも感じるのです。

素直さというのは、生きていくことには欠かせません。

そしてこの素直は、本当の自分の姿、この宇宙や大自然の姿そのものでいることなのです。

感情と上手に付き合って冷静になるというのではなく、感情そのままを受け容れることであったり、その感情を分かち合ったり共感したりすることが人が一人ではないということを確かめあうことのように思います。

ありのままをさらけ出すのは恥ずかしいことかもしれません、しかし子どもたちが信じているのは大人になっても感情をさらけ出しても偉大な目的のために一緒に生きていくことができる、困難を乗り越えても人は繋がっていることができると信じる世界にしていくことだと思います。

世界は戦争を何度も繰り返しながらも、その先に人々がその困難を乗り越えて信じる世界を切り開いていくことを目指しているように思います。それが人類の大切なお役目なのかもしれません。だからこそ、子ども達に恥じないような信の実践、つまりは感情もその人格であると丸ごと受け容れて認め合い共に自立して生きていける世界を自らが創っていると自覚することだと思います。

人は必ずどんな感情を持ったとしても、それをわかり合える時が必ず来ると思います。
そこから逃げるのではなく、その感情は尊いのだ、それがお役目なのだと思うことです。

未来の子ども達のために、感情のままの素直な自分を出せる世界にしていこうと思います。

尊いご縁を有難うございました。

虫も草も家族の一員

自然の中で農を学びつつ、自らの道に照らして一年が経ちました。

自然農のコンセプトの虫と草を敵にしないとありましたが、これもやってみて分かることがあったのですが今の時代の農法では農薬や除草剤により常に虫や草が敵だとみなしそれをどう排斥するかということに取り組んできたもののように思います。

あの手この手を用いて、様々な方法で虫も草も増えないようにとしてきたのです。

実際に作物を自然の中で野生的に育つのを見守ると、大量の虫たち大量の草たちが発生してくるのが分かります。その中で一緒に育っていくのが野菜なのでしょうが、それでは虫に喰われ、草に負けてしまうと思い込んでいるようにも思えるのです。

もともと最初から自然界は、持ちつ持たれつ、食べ食べられることで成り立ちます。

葉っぱを食べる毛虫を蜂が食べ、また別の葉を食べるバッタをカマキリが食べ、それをまた鶏が食べ、その卵を人間が食べと、常に食べ合う関係で成り立っているとも言えるのです。もしもその食べる関係が壊れれば、当然食べるものがなくなってしまいます。

虫がたくさんいるということは、食べ物がたくさんあるということですし、雑草が生い茂っていることもそこには食べるものに溢れているということです。自然界では、それは共に生かしあっていく楽園であるのです。

農園を楽園にするのか、農園が苦園にするのかは、人間都合でやっているともいえるのです。

今は私のやり方が注目され色々と非難されるのは、今まで自分たちがやってきたことへの否定や自分たちが正しいと信じてきたことへの挑戦であるように目に映るのかもしれません。

しかし私はただ虫も好きで草も好き、そして自然が好きで仕方がないからやりたいと思うのです。これは子どもが好きということも同じで、純粋に素直に好きだと思うから垣根が低くなり、障害がなくなっていくようにも思うのです。

もちろん虫には刺されるし、草にも負けるし、作物だって3分の1以上は食べられてしまうこともあります。思い通りにはいかないことがほとんどです、しかしこれは慈善でいうのではないですがその御蔭で生きものたちがいることを実感でき人間だけではないことを知り、食べるということが何かを覚り、自分の取り分がいただけることに感謝の念が湧いてくるのです。

虫も動物も草も、独占しようとはしていない、必ず食べる分しか食べないということも分かってくるのです。急激に害虫が増えるのは人間が自分の都合で減らしたりするから一部のものがたくさん食べれば同じくその食べる対象がいなくなるのだから一部の生きものだけが増えてしまうのです。

虫も草も敵にしないという言い方よりも、私には虫も草も家族の一員と思った方がいいかもしれません。それが私が虫を育て雑草を育てていると笑われている由縁かもしれませんが、地球の中でみんなで棲み共に暮らしていく豊かさを味わい尽くすことが繋がりという安心へと導くのです。

これからもこの永続してきたいのちの共生の体験と気づきを一つでの多くの子ども達の現場に引き継いでいきたいと思います。

教育保育の本質

昨日はGTサミットが、東京で開催された。

全国各地から保育理念を同じくする仲間たちが集まり、それぞれの実践の取り組みを拝聴するのは刺激をたくさんいただけます。

それぞれの園が試行錯誤しながらも、何をすることが子どものためかということを本質から省みて、最終的には見守っているかどうかと自分に矢印を向ける。私には、保育を志す真心に感じて子どものために実践を真摯に取り組むそのものの姿勢が何よりも尊いと感じるのです。

見守ったか見守らなかったか、信じたか信じなかった、できたかできなかったというのはあまりここでは問題ではありません。自分が決めた道、自分が信じた子どもを信じる道を歩もうと決心し、そこに直向に精進していくことこそが尊いことでそれが教育保育の本質だと私は思います。

人はつい頭で自分の都合よく物事を解釈し、自分の思った通りにいかせようと考えます。

しかし頭で考えたことは浅はかであり、本当に自分がやりたいかと自問すればそうではないことがほとんどなのです。自問は心が澄んでいるとき、もしくは魂がうずくとき、自分自身が自分で納得して実践する決めたまさにこの世の中の信した念のビジョンの世界です。

一度それをやろうと決めたなら信念を磨き、試練を糧にし歩んでいくしかないように思います。

共生の中にある親や子どもを思う心というのは、親子の道、天地の道、かんながらの道です。

そこに、確かな天の真心、人の愛が満ちていてそれを自ら糸を紡ぎ伝道したいからこそ魂は歩みを止めないのだろうとも私は思います。人は、本気で生きていれば必ず人と人との間にある確かな真実を確かめたくなるものです。

幾多の困難もあるかもしれませんが、天の試練は確実に自らの使命に気づくチャンスです。
数は急には増えませんが、着実に保育が広がっていることに歓びを感じ遣り甲斐を感じます。

何が本当に子どものためなのか、子どものためとは何をすることか、分別智を超えたところで真摯に学問をしていきたいと思います。自らが丸ごと信じる生き方そのものを、教育保育で彷徨うことがないように子どもの周りに自然を顕現させ、これからも広げていきたいと思います。

素敵な一日を有難うございました。

自然の叡智

自然農法で有名な方に、奇跡のりんごの木村秋則さんがいる。

10年間無収穫無収入でも絶対不可能と言われたりんご栽培に農薬を使わずに成功させた方です。今では、全国の農業指導で行脚してその思想や実践を世の中に広めている挑戦者でもあります。

もともと自然農というものは、自分の不自然に気づき、自分の都合でものを動かそうとする自分の内面の部分に光を当てていくものです。

相手や周りのせいにしようとしたら、すぐに楽な方を選択してしまいますし、観えないものを観ようとしたり、心で気付こうとしなければ結局は脳を通して目で見える仮想の世界に負けてしまうのです。この奇跡というのは私の定義では、心で信じた世界がこの世の中に顕われるという意味でもあるのです。

一般的な農家と、この本物の農家の差は何処にあるのか。

一般的な農家は、最初から思い通りにしようと思っているから農薬や肥料、自分にとって都合の良い場所や環境など全部人間側の欲求に合わせて取り組もうとするのです。そうしているから少しでも都合が悪くなると、便利な文明の利器に頼り自分の元々内在する信じる力や自然の智慧を活用しようなどとは思いもしないのです。

何か事があれば、すぐに思い通りにいかなかった理由を簡単便利なメソッドや道具で解決しようとするのです。先日もある園長がアユ釣りに行ったときの長野での話で、雹が降ったあと村内放送で「今雹が降って作物が傷むので皆さんはすぐに農薬を使って対応してください」とあって農家が全部畑にでて農薬をまいていたと聴きました。これなども、最初から道具やメソッドありきで、そもそもそれが何を意味するのか、そういうことを考えようとしません。

前回の大震災でも、震災後に仮設住宅と避難場所を確保したから大丈夫とありましたが何が大丈夫なのか、そこから何の意味があったのかまでは深めずに安易な対策を講じます。

これとは別に本物の農家は、最初から思い通りにはなると思っていないから自然に従い応じて自然に任せつつも、自然を学び、自然に智慧を得て、自然の一部であること、自然とのつながりのなかでそこからまた挑戦を続けていくのです。自分の思い通りにならないことも楽しみ、人ができないと思っていることを信じて取り組みそれを転じて自然と共に生きていくのです。

そしてそこから確かな意味を感じとり、そこからまた自分たちそのものを改善していくのです。

自然の叡智というのは、自然を征服使用や自然に勝とうといったものからは得られません。

自然はそれを受け容れるとき、そこから畏れ敬い感じるときに天啓が得られるのだろうと思います。そしてそれはどちらにしても、心で観ないと観えないのです。天というものや自然には、魂や心があります。

そしてそれは日々に自分の心が澄んでいたり、魂が磨かれていなければそれを実感することはできないように思います。それは自然には人間のような脳みそで簡単に裁くようなことをしていないから、もともと叡智や智慧の中で生きている存在であるからです。

何が賢いのか、何をもって頭が良いのか、天地が逆転しなければ自然農はできません。

そして何よりも人間に信念がなければこの農法はできないと私は思います。
子どもを見守ることも同じで、大切なのは心を澄まし心の眼を持つことだと思います。

大事なことや大切なことを見落とさないように、実践を心を籠めて取り組んでいこうと思います。

アウトプットの定理

アウトプットの定理というものがある。

カタチになるものを出していくこともその一つですが、その他には人間関係でもちゃんとアウトプットしていかなければ繫がりの中で循環していくことはありません。

このアウトプットというものは、自分から排出していくことで如何に自分自身が澱まないでいるかということを意識するところからはじまります。組織も同じく、澱む組織というのはきまって乾いておらずジメジメとしていて陰気が漂っているからです。

お部屋などもそうですが風通しが悪いところは澱みます、他にも光が入らないところ、水気が溜まるところ、つまりは乾かないところはカビなどきまって陰気のものが増えていきます。これと同じく何でも澱むというのは、乾いていないということを言うのです。

例えば、誰かが無理をしているとか、誰かが我慢をする、御互いに遠慮しているなどとがある組織は決まってアウトプットができておらず人間関係がうまくいっていません。逆に、オープンでさらけ出してフラット、いつもアウトプットをそれぞれが意識している組織はあのサッカーのなでしこジャパンのようにチームワークも円滑でお互いが信頼し合い安心した明るい人間関係を構築しているのです。

これは個人のタイプにもよるのですが、もともと内向的であれば無理をし我慢し遠慮するというもっとも人間関係が築かないまずいやり方を選択してしまいます。そうすると以上のように澱む状況に陥るため次第に病気が蔓延しやすい状態になり周囲に迷惑をかけてしまうものです。

自分がそのようにならないように、いつも周囲に心を開いてオープンでいることを心がければいいのですがなかなかそれを自分でできるかといえば難しいのです。だからこそ、部屋の中の明るく乾いた環境を用意していくことでそういうことが起きにくくしていくこともできるのです。

自分からアウトプットしていくというのは、信頼できる人に話をするということです。特に経験のある人や解決方法を気づかせてくれる人、自分のすべてで阿ねても助けてくれる人などに心を開くことでそこから自らの力を正しく流していくことができるようにもなるのです。

経営者などは自分で考え過ぎて思い込みすぎて、うまくアウトプットができずに悩むことが多いのです。だからこそ、何でも話ができる相手がいることや相談できる人、そういう距離感の人がいるだけで安心して事に挑むことができるのだろうと思います。

そう考えてみると、如何に自分が澱まないか、そのために排出するか、そして排出できるような環境にするかで循環するとしてこのアウトプットするという意識は何よりも大切な実践であろうとも思うのです。アウトプットさせてあげるだけでも、人は澱まないことを意識するようになります。そしてそれが私のよく言うファシリテーションの重要性の第一義であるのです。

困ったら一緒に悩む、辛かったら一緒に慰め合う、悲しい時は励まし合い、嬉しい時も歓びあい、孤独のときは分かち合う、そういう仲間がいるというだけで人はいくらでもまた澱まずに歩んでいくことができるのではないかと思うのです。

祈りの実践はまさにこのアウトプットであろうとも思います。明るく乾いた関係が持てる社会を増やしていけるように、まずはこちらからアウトプットしていこうと思います。

自然との共生

先日、NHKスペシャルの「ヒューマン なぜ人間になれたのか?」を見ることができた。
かねてより色々な方から善い内容だったとお聞きしていたので楽しみにしていました。

話の流れは、人類の歩んできた軌跡を通じてどのように今に至るのかという一つの歴史の旅がテーマになっているようでした。様々な研究者や、作者の思想も織り込みながら私たちが信頼することや共生するということの気づきからその大切さを説いていました。

もともと人間は、覚えていないだけで数々の危機を乗り越えて今を生きているともいえます。

過去に学んだことから、私たちはどのようにしていくことが生き残る道であるのかを自覚したものなのでしょう。自然現象の中で、絶妙なバランスを維持しながら紡いできたいのちであるようにも思います。

気候が厳しい時には、厳しい中で一番大切なものが何かを考えてきました。
そして気候が緩やかな時は、緩やかな中で一番大切なものを考えているのです。

人間が人間であるのは、どんな状況下でも大切なものは何かを忘れないことだろうと私は思います。何万年も前のことをいまだに忘れないでいようとする心、これから数千年の未来のためにも今を生きていこうとする心、そういった心こそが偉大なのではないかと私は思うのです。

地球というものや自然というものを理解しようとしたということは、私には尊く感じます。

今、会社でも自然から学ぶ取り組みを増やしていますが今まで知らなかった大切な叡智に出会い、さらに自分がどうしていくことがもっとも自然体であるのかなどを自明するに至ります。

そう考えれば、私たちの素晴らしさは自然との共生にあるのではないかと思えるのです。

その自然との共生とは、別に自然を大切に自然を残すだけのことを言うのではありません。自然との共生とは、何が自然かに気づきその自然と渾然一体になっていくことを言うのです。

別に経済や今の文明社会、都市化したものを否定するのではなくすべてのものにはいのちがあると心の淵源にて気づき日々に自らが変わっていくことだと私は思うのです。

私の求めるかんながらの道でもそうですが、この世のあらゆる全てのものにいのちがあると気づき覚れれば自ずから自然との共生ということの本質を悟る事と思うからです。様々なものたちの中で、私たちは繋がり合って存在していることの尊さ、偉大さはあまりに自然な姿すぎて透明なセンスがなければ気づけないからなのでしょう。

もっと身近にある見えていない大切なものに気づく魂の感性を磨いていきたいと思います。
子どもの頃に感じたあの世界を思い出して自然との共生を楽しんでいきたいと思います。

遊び心

真面目(まじめ)というものと傾く(かぶく)というものがあります。

真面目というものをgoo辞書で調べれば、( うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。 真心のあること。誠実であること。)と書かれています。また、傾くということを調べてみれば(かたむく。頭をかしげる。勝手な振る舞いをする。奇抜な身なりをする。)と書かれています。

人はもともと誠実であるから、何の疑いもせず今のこの世の中の仕組みの中で生きているともいいます。もともと生まれてきた世界が、今の目に映るものであったのならば最初からその中にいればそれを疑うということはしないものです。

しかしそのような常識を敢えて疑ってみてみると、実際は本当にそうだろうかという頭を傾けるようなことに数々出会います。

例えば、一度広い世界に出てみれば自分の国との違いから今までの自分の人生の価値観では常識だと思っていたことが一変して覆されるようなことに出会うこともあるのです。今までは当たり前と思って気づきもしなかったものは、実はそれは当たり前ではなかったと気づくようなものです。

これは別に目に見える世界だけに限ることではなく、心で観える世界にも通じる事です。

今までは当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではなかったということにです。それに出会ったら人はどうなるのでしょうか。そうして出会い、気づいてしまったら、いくら元に戻ろうにも戻れない感覚になるのです。観えてしまうということでしょうが、目から鱗が取れるのです。

人は生きていて、何かに気づく人と気づかない人がいます。

それは本質を生きようとするのか、それとも長い物には巻かれた方がいいとあるのか、それはその人の自由の選択の中にあるのです。しかしもしもその当たり前がおかしなことになっていて苦しんでいる人がいたらどうするのでしょうか。

あまりにも真面目になっていようと囚われると、そういう当たり前に気づきにくいともいえます。

例えば、アメリカの人達が、痩せたいからとダイエットコーラを飲んで、健康だからとベジタブルバーガーを食べ、栄養素を確保したいからとサプリメントを大量に摂取し、疲れた体を癒すためにエステやジムに通う。

そういう話を聴いてとても不思議に感じる人はすぐに感じるものです。

もともと痩せたいのにダイエットコーラという発想自体が、バカなほど真面目に取り組んでいるときっとそうのようになるのだろうと思ったのです。本来、もともとどうであったか、本質とは何かがわかれば以上のような発想にはいきません。そこには既得権益として様々な業界の仕組みや政治制度が複雑に絡み合い、何がどうなっているのか分からなくなっているのです。

しかし真実というものは、気づける人には気づけて気づかない人は一生気づかないのです。

如何に自分たちの常識が非常識で、自分の常識がもっとも真実になるのか。
それは自らの刷り込みの脱却にこそあると私は思います。
そしてそれを東洋では中庸であるということだとも思えます。

今の時代は主軸をしっかりと持って多少は傾いていかないと世の中には伝わらないものです。
その主軸とは、思い込まないで決めつけないで素直にいることだと思えるのです。

今は青春のように楽しみに満ちていて、ワクワクドキドキがいっぱいです。

あまりバカ真面目にならないように、遊び心を大切に子どもと共に傾いていきたいと思います。

 

平均化の嘘

何でも均一化し、画一化し、平均化していくというものがある。

作物でも同じく、違う形のものを市場では販売せずに同じ大きさ同じ味、同じ見た目を重要視し、そうでなければ販売を認めないといったものもある。

スーパーマーケットにいけば、同じ形の野菜や果物ばかりであるのもそういったものでなければならいといった設定されているルールがあるから成り立っているのです。

学校の勉強でもスポーツでもそうですが、皆と同じことができるようになるまでとことん居残りや宿題をだしつつも勉強をしないといけませんでした。何か得意なことがあるだけでは認めてはもらえず、それ以外の教科が平均的な状態になるまでは先生と言われる人たちや周囲も必死です。

卒業するまでには、平均化したものになっていなければちゃんと育ててあげられなかったと悔いたりもすると聞いています。田畑の作物も同じく、同じ形にならなければ不作であり不毛でありお金にもならないというように農家も嘆くのです。

自然農をすると、それぞれが同じになるということはないということにすぐに気づきます。

ある大豆は虫に喰われ、ある大豆は風になぎ倒され、ある大豆は他の雑草に埋もれ、またある大豆は小さく、またある大豆は葉の色の薄く元気なものだったりもします。それはその大豆の与えられた生育環境と生来の生きる力に差があるのだから同じにならないのです。

そして出来上がった実は、それぞれの生きざまやその生き方、その経過がぎっしりと詰まったものを味わうことができるのです。言い換えれば、いのちを感じることができるとも言います。

しかしもしも、同じ形でないものは排除されるとしたら鶏のブロイラーのようにまったく平均化されるような環境で同じ卵を同じ内容で産ませるというようになるのです。同じでなければならないという生き方は、違いを認め合っている関係ではなくそれは苦しいものです。

御互いを認め合うというのは、平均の力が備わっているかどうかとは本来無縁なのです。

平均かどうかであるよりも、そのものであるかどうか、そのものを尊いと思う考え方です。
そのものがそのままで皆が尊いと認めたらどれだけ自分を肯定し信じていけるでしょうか。

こんな自分なんてといって精神がやんだり、さらには自分の身を殺めたりする人がいます。
これをその人のせいにする前に、自分たちの社会を一度見つめ直していく必要があるのです。

どんな社会が子どもたちにとって相応しいか、権力や経済を優先せずにです。

まだまだ自分の中にも平均化の刷り込みは色濃く残ってもいます。
まずは自らの刷り込みを取り除いていきたいと思います。