時の香り

萩の松陰神社に行くと様々なことに出逢える。私は松陰先生を尊敬しているけれど、その弟子高杉晋作との邂逅は毎回感じるたびにとても深い学びを得られる。

自分の生まれてきた意味を素直に感じ尽くすとき、人は仁や義に出逢うのだと思う。そして、その仁義とは、如何に生き、如何に死を全うするかを天地人に問う普遍の道なのだとも私は思う。

生まれながらに自分のあるがままのその性を知ろうとし学問を深め生活をし、その自らに備わる徳を明らかにし、他人をゆるし思いやり、天地宇宙の万物造化の法則に沿って生きていると、次第にその心が清く澄みまるで幼児のような自然な心持になる。

しかし、その姿が姿かたちが大人なのにあまりにも童心そのままであると人はそれをとても恐れる、なぜなら社会の中では在る程度、大きくなるまでに擦れて形作られ、刷り込まれており大人びていないと人間社会の縦横集団の暗黙のルールの範疇では成り立たないとし、その日頃、無理をして覆い隠してきている自分の本心からの率直な感情がその人を自由にはさせない。

たとえば、現在では何かしらの障碍を持っているとレッテルを貼られてしまう人も、あまりにもその心が童心であるがゆえに大人に受け容れられず排除されようとされてしまうのもそういう理由があるのだとも私は思う。

大きいままであまりにも童心であると奇人や変人と言われる。

それを人間の社会で維持していくには、とても実力だけではなく学問もいるし、一般常識を弁えることなどもいるが、皆はそれをとても嫌がる。せっかく楽しく幸せに生きていることを手放すほどの勇気がいるし、我慢がいる。

子どもたちは、偏見もなく自然にそういうものを受容しているけれど周囲の大人はそれを酷く怖がる、自分が馴染んだこの社会の規律を乱すことは自分の信じてしまった個性を偽るものになるからだ。だからこそ、幼いときに社会に適応できるようにと仕込んでいく。

しかし、もしその童心を学問により修身し、自立するとその卓越した知識と実行力から理論を持ち行動や実践で社会に自由に自己表現できる人が現れる。

私の周囲にもそういう人たちがいるが、人はそういう人間を観ると心底感動するものだと思う。

こういう人を私は「偉人」と定義している。

思ったことを思ったように、素直な心を素直な言葉で、自分を偽らず誤魔化さず、他人を欺かず、真心と清く澄んだあるがままの眼差しで語りかけるとその人間に神を見出すことができるのもまた人間の妙なのだとも思う。

子どもの中には、とても不思議な真心がある。

自然に、自分の性を知り、その性をどう今の社会で活かそうかと素直に周囲を受け容れようとする。

それが自然=真心の社会であればあるほど、子どもは安心して自分の命の赴くままに自らで道を定めて歩もうとする。

童心とは、もっとも自分の命を立てるのに必要な要素だと私は信じている。

吉田松陰は確かにそういう人だったのではないかと、特に似ているところがあり私の中の心を奮わせられる芯の部分に確かにその真心は存在してる。ただただ、好奇心旺盛で、感激し、感動し、感謝する、そして時に義憤し、時に穏やかで、時に静かに、自分の命に必死になる。

子どものように毎日、無心で真剣に生きることはとても生きている実感が味わえる、それが幸せであるというふうに感じてしまう。

私が吉田松蔭先生とその弟子高杉晋作の交わした言葉で好きなことがある。

それは、以前、晋作が死生観について松蔭先生に尋ねたとき「人はいつ死ぬ時がもっとも良いのですか」と言うことに対しての答えを松蔭先生が獄中で死の直前に晋作に返信した答えが手紙に書かれたものだ。

『貴問に曰く、「丈夫死すべき所如何に」。僕去る冬已来、死の一字大に発明あり。李氏焚書の功多し。その説甚だ永く候へ共、約して云はば「死は好むべきに非ず、亦にく悪むべきに非ず、道尽き心安き、すなわち是死所」。「世に身は生きて、心は死す者有り、身は亡びて、魂は存する者有り、心死すれば生きるも益なきなり、魂存すれば損なきなり」。又一種大才略ある人、恥を忍びて事をなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むもさまた妨げず。死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措いて唯言うべきを言うなり。』

人は、もっとも死ぬ価値のあるときに死ぬのが良い、もし生きて何か大きなことができるのならば生きながらえることだ。ただ、私はそういうことは生死のことなどを考えないで命を尽くすのが良いというようなことだと思う。

義を立て一期一会で生き切ることに童心のあるがままの性も融和していくこと。

その松陰が共感して学んだ李氏焚書に「童心とは真心のこと。童子は人の初め、童心は心の初めである。長じて道理や見聞が心に入り、童心が失われる」とも書かれてある。

幼児期の子どもたちに与える様々な大人の刷り込みを取り除き、見守り、その子が幸せに自分の人生を歩めるようにより環境づくりのためにその命を尽くしていきたい。

社業を通じて、私が歩む道を弘げていけるように念じていきたい。しかしこの師弟から何を学ぶかと言えば、カグヤのトレードマークの竹を忘れず、常に硬すぎず柔らかすぎず、しなやかなで節のある穏やかな竹のような存在でありたい。

時を待ち、その時が来るまで、自らを修め、その根と節を持ち風に揺られながら仁義をいつも優先してこの道を深めていきたい。

心力

日常的に人は肉眼に頼って判断する。
当然、目の前に入るものはすべて変わらないものと定義されそれを認識することで物事を決めている。

しかし本当のことはほとんど肉眼だけでは分かるはずがない。そこに確かな心の力が育っていないと真実を見ようとせずにすぐに決めつけたくなるものだ。

早く決めつけたいというのは、脳が心を遠ざけ現実から逃げて楽になりたいやもう考えたくないという習慣がそうさせるのかもしれない。

特に不安、あせり、葛藤、不信などあればもうその人の心は曇っている。

天気もそうだが、曇ったり、晴れたり、日々は変わって見える。

しかし、その本質は変わることはない。

循環の理もそうだし、地球というものの存在自体であることに変わりはない。
満ち欠けする月も月としては変わらないし太陽も変わらない。

そこを変わるという人間があるだけなのだとも思う。

そして人間はあまりそういうものは普段から観ようとはしない。
当たり前というものだからだ。

そしてそれが当たり前と決めた他人の仮初や評価を考えたくないから信じたいからだとも思う。そして主体がなければ、そういう止観することもやろうともしない。

またそうなると長期的出来事や短期的出来事を洞察する力が濁り、学びや命というようなそこに意味があることをも感じなくなるものだ。

そして幸運も不運もその時の気分次第となってくる。
仕舞には、刹那的に欲望のままに己を使おうとさえしてくるのだと思う。

道徳や倫理というものは、主体的に自立して考えて周囲との人間関係や環境との相互作用で学ぶからそういうものが自然に体現されていくのだろうとも思う。

話が戻るがそういう心に正しい思想や深い哲学、実践学問からの心力が備わると、そういう刷り込みが次第に取り除かれ、上善は水の如くなってきて透きとおった穏やかで調和する自然になっていくのだと思う。

日々、曇ったり汚れたり、積もったりする刷り込みや穢れをどう取り除き人間力を育むかはその人のあるべきよう、あるがままを助けるためには必要不可欠な生きる要素だと思う。

そしてこんな時代だからこそ、そういうものにさらわれない様に大事にしていかないといけないと私は思う。

人間力と心力はきっと、これからのこの世と自分の本質を知り、自然に使命や天命を全うするための生きる力となるのではないかと私は思う。

子どもたちには、自分自身の誠を貫く脚下の実践と背中の感化を通してそういう目に見えないものを譲っていけるように常に心の力を磨いていきたいと思う。

ものごとの着眼

カグヤでは見守るほいくソフトというものがある。

それは子どもたち中心の目線に先生方がなり、教師や大人が持つ刷り込みを取り除くための動線を工夫されて創られているものだ。

子ども目線というは、大人になるとつい忘れてしまうものだ。子どもの可能性を引き出そうとするのに、上から押し付けて教え込もうとするのは子どもという存在を子どもだと思っているからだと思う。

一人の人間として捉えて相手の立場で考えることはとても大切だ。

そのソフトは毎年バージョンアップを続けている。

その中で人の出会いの面白さというか有難さを感じるのは、良いものを創るときは必ず良い出会いがあるということだ。

このソフトは開発までのご縁や出会い、そしてユーザーの方も素晴らしい方が多いのだけれども開発をともにしてくださるシステムエンジニアの方もとても素晴らしい。

いつもバージョンアップの開発の打ち合わせの際には、いろいろな大切なことを私に教えていただける。

今回の打ち合わせでは、システムを開発するにおいての洞察についてたとえ話をしていただいた。

ある会社からあるシステムの開発の依頼がありそれを受注した。それは以前、別のシステム開発の会社が開発したものだったらしい。それを見るととても粗末なもので複雑なものだったそうだ。それは酷いものだったらしい。

それを作り直すことになったのだけれども、こちらがきちんと整理してつくりシンプルなものにした後であることが起きた。

いざ稼働しようとしたとき使う会社からそのシステムが使えない理由が次々と連絡が入った。取引先が大手だからシステムを相手にあわせないといけないや、役員に年齢の高い人がいるのでITに無知なので操作を簡略化してくれなど、いろいろと聴いて改修していると以前どこかのシステム会社が作っていたあの粗末で複雑な酷いものと同じものになってしまっていたという笑い話だ。

そしてそのあとに、その体験からこのようなことをおっしゃっていた。

『物事がそうなるのは、そうなったからだ。』

だからこそ、常にシステムエンジニアは物事へ正対するときにはそういう視点・着眼点で物事を深く洞察しないといけないのということを語っていた。

私たちもソフトの開発をするとき、ある意味でお客さんの要望を聞かない様にしているところがある。一部からは融通がきかないと言われることもある。しかしそれは、別に技術的にできないのでもなく、自分たちの都合でやらないわけでもない、それは物事への正対を見通し見立て、それがどうなるのかをよく洞察しているからできないという判断をすることがあるからだ。

そしてそれを伝える側も、相手にそれを気付かせるような深い哲学と思想、そしてその開発へのこだわりが分かるものでなければ認めあうことはできない。

私たち開発者側も、そういうこだわりを持って創るからこそ本当のモノづくりの醍醐味をみんなで味わって本質に近づくことができるのだろうと私は思う。

現在、保育業界では行政指導で様々なルールが増え続けている。
表面上求められる一斉画一なルールは本質的に取り組んでいる園の邪魔をすることが多い。

一般的な大人目線のソフトもそれにあわせようと開発を躍起になっているが、私たちの見守るほいくは子ども主体と子ども第一を貫くように、細心の注意と、遠くを見据えて不動の改善を続けるように意識をしている。

不易と流行ではないけれど、今にあわせて後でずれさせ、粗末で複雑にするものよりも、園が求める本来のあるべきようとビジョンを見据えて、必要な改善を続けるようにしている。

それは何のためにこのソフトを作ったのかを忘れないでいることでもある。
信念とは、何かの物事の際に揺れ動かないから信念なのだというのだと思う。

今年は私たちのテーマでもある環境についてバージョンアップをする。

大人が便利で都合が良いような安易なものではなく、子どもにとってそしてその子どもを見守る「大人(たいじん)」にとって意味のある良いソフトをこれからも育てていこうと決意を深める。

商売や豊かさとは

日本の大多数の企業では職業的豊かさの質が利益一辺倒、売上主義になってしまっていることが多い。

会社が存続するためには利益が必要なのは当然、そんなことは誰でもわかる。しかし、そのために会社があるかというとそんなわけではないことも誰でもわかる。

しかし、なぜその誰でもわかる当り前のことがなぜ人間には当り前にできないのだろうか?

動物界や自然界では、自分の分度を越えずに取りすぎることもなく、自分の役割をしっかりと理解していて勤勉に働く。そして先祖からいただいたように自分たちの子孫を遺すことに勤め、天地自然のルールの中で自分の命を精いっぱいに使って逝く。

人間は、いつから自然界からの流れを忘れ人間至上主義的な視点だけを持つようになってしまったのだろうか?都会的というか、欲望を羨ましがり、人間にとって大事なものを教えずに、唯物人間感覚主義の狭い了見で、頑なに競争に偏れば、倫理がない変な人も増えるのは当然であろうと思う。

会社もそういった視点から見ると、あまり偏った自分の定義がすべて正しいとは決めつけずに、自然界にあるように「あるがまま」に豊かさの一隅を担う役割を果たしていることの方がよほど本質的だと思う。

私はどこまでいっても商売の本質は、総合的に相互扶助に基づいた社会に、それぞれが自立した仁の精神で、古道の示す正しい見通しを持った共存共栄なのではないかと思う。

その中で個々が、また全体の社会が、如何に共に関わりあいを創り上げることによって幸せになり、より豊かになっていくのかを考えるのが経営者や創業者のミッションなのだとも思う。

渋沢栄一にある。

「一個人がいかに富んでも、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけではなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。」

これもそういうことを指しているのではないかと私は解釈する。

最近では、人間の持つ娯楽さや快楽にばかりで儲けようとする商売人が増えているように思う。それにもっともらしい正義をいくら掲げても本質からズレればただのエコノミックアニマルのように刹那的にそれだけに執着してしまう。

どこまでいっても唯物論というのは、人間感覚や感官にだけが正しいと定義し、人間社会のみですべての社会を構成してしまおうとするズレている世界での右往左往なのだから、どこまでいってもモノ的豊かさでは最終的には欲の渦に巻き込まれて消滅してしまうと思う。

人間はやはり、もともとそうであったように如何に人間以外の存在をしっかりと受容し認め、その存在をも活かす万物の霊長たる自分たちに誇りを持てるかで本質を得ていくのだろうと思う。

私たちカグヤはいちいち身の回りの現象に左右されずに、世界の地球のそして宇宙の本質の一本道の上を自分が生まれおちたこの場所で、粛々と実践していくことこそを大事にしていくミッションで挑んでいきたい。

子どもたちには、大自然の中で如何に人間だけが生きているわけではなく、そして人間のためだけに世界があるのではないということに、早くに気づけるような体験をたくさんしていってほしいと願う。

多様化した生物たちがいつまでも大切に持つ豊かさと幸せを感じれる霊妙な偉大な魂の力をそのままに、きちんとこの生に於いてそのままに譲っていけるように変化を受け容れ改善しながら、豊かな環境の創造を意識して大事にしていこうと誓う。

大和

昨日は、午前中にEarthgames社(http://www.earthgames.nl)のAnne Mijkeさんを訪ね、午後から国から補助金を一切受けずに独自で開校し運営する学校Aventurijnを視察した。

まずアースゲーム社は、世界から80種類以上もの協同的な学びを体験できるゲームを輸入開発したり学校現場でワークショップなどを行っている。

日本でもそういう遊びを通して、体験するようなゲームやワークショップはあるけれど日本の会社や講師が行うものとは今回のオランダのものとは成熟度が異なるように感じた。

特に感動したのは、軽度発達障がいの子どもたちがそのゲームを通して学んだり居場所を得て安心して落ち着いたりできるものが多いということだった。

競争するゲームならいつも同じ人が勝ってしまっていろいろとできない子どもはいつも嫌な思いをしたりついていけなかったりする。しかし助け合いを元に造られたゲームだとそういう日頃できない子どもたちが活躍してくれてみんなを気づかせてくれるとのことだった。

つい学校も家庭でも、身の周りにあるものは競争させたりすることで如何に抜きん出るかばかりを楽しませるようなものが多い。しかし、平和な社会を世界で実現しようと思ったら如何にみんなで助けあって豊かな気持ちでお互いを支えあえることを喜べるようなものを増やしていくことも大事なことだと思う。

私は、見守るほいくプラスを開発したときなぜ人は多数を優先して健常児と定義し障害を抱える子どもを隔離するのか、それは本当に子どもの立場へ立った優しさなのかと深く考えて開発をすることにした。

いつの時代も社会にとって弱い立場の人たちを蔑にして見ないように蓋をして「平和な社会だ」なんて言うのはおかしいことだと私は思う。

もともと人間は目に見える外見だけではなくて、その個性や心情などの内面もみんなそれぞれにまったく違うのだから特にその差が激しい子どもがいるからこそ、大事にしてあげて受け止めてあげる必要がある。そしてそのような差が激しい集団の中でどのように保育をマネージメントしていく必要があるのかを考えたり出会ったりするキッカケになればと願い作られたものだ。

ここからが本当に子どもたちのために学んでいくところになっているのに、日本ではすぐに解決する方ばかりに気を奪われその大切なプロセスや意味をつい素通ししてしまう傾向があるから気をつけないといけない。

今回、ゲームという考え方で様々なマネージメントやワークショップ、また自発的キッカケ出しをやっているのを拝見して私たちカグヤでもたくさんの要素を取り入れてこれからやっていきたいと思う。

また、午後から視察した学校は、行政と裁判までして自らの信条を貫き理想の学校を実現させているシュタイナー教育のようなものをやっている学校だ。こういう学校はオランダに7500校ある中でも6校ほどしかないそうだ。

ここでは、4歳から18歳までの子どもを育てていて全員でも20人弱しか生徒のいない学校だった。授業料も他の学校に比べて10倍近くこちらの方が高い。

教育や保育の中身は、本物重視で自然をもとに体験を通じて学ばせていくということを大事にしている。とても家庭的で細かい配慮をしていて、その子どもの持つ特性を伸ばすことに絞り込みそこを育てていくとのことだった。

日本では偏った子どもたちや不登校の子どもを預かるような学校はあるけれど、ここではそうではなくてむしろ独自性を存分に発揮する特殊なエリートのような子どもを育てようとするような感じがした。

これから日本では、国の補助金が削減されていく中で格差が広がり様々な教育が世間で正しいと乱立していくことが容易に予想される。競争原理の中で、どれだけの人たちが「不易側の変化」と「流行側の変化」の本質を見抜き対応していけるのかと思うと今からとても心配になる。

何でもそうだが、カタチだけを見て時代が変わっているのを忘れてしまったり、死んだ人たちに確認もできないのにきっと正しいと盲目に信じきったするのはどうなのだろうかと私は思う。

ないものをないとして、あるものをどう生きている人たちで一緒に考えてそのものの本質を守るために補っていけばいいのかというのは日本的な「モッタイナイ」でもあり、そしてそれはできないからやってあげればいいのではなくて、できることを「ミマモル」ことでもあるのだと思う。

これからも時代の流れの中でカグヤはいつも不易側の真理を追究しながら、理念を軸に国を支え世界を支え、子どもたちがみんなと助け合え学び合える豊かな社会を目指して貢献していきたいと改めて誓う。

それぞれがそれぞれで調和するかんながらの文明、大和の魂を大事にしていきたい。

オープンモデル

今日は、JASのイングリットさんがコンサルティングする学校へ同行してその実践現場を拝見させてもらった。

オランダでは、学校だけではなく企業や地元の研修施設も自由化されさまざまなカタチでの産学連携ができるようになっている。

この学校はあのアンネフランクが幼い時に通ったモンテッソーリスクールになる。(http://www.annefrank-montessori.nl/)オランダではかつてマリアモンテッソーリが住んでいたこともありモンテッソーリ教育は深く学校方針の中に浸透している。

ここでのイングリットさんの役割は、コーチングしている先生の個別の観察とミーティング、そして管理職の指導と全体会議などでの方向性のチェックなどになっている。日頃の判断や子どもへの対応が大人主導で大人主体の安直なマニュアル的な決議決定などにならないようにJASのコンサルタントがアドバイスをしたりマネージメントのモデルを示していくようなこともやっている。

印象的だったのは総合的学習をどう進めていくかについて、考え方が画一化しないように様々なイエナプランのツールなどを駆使してアドバイスをしていたところなどだった。

まだ日本では、コーチングなどというのは職人的なもので外見的な浅い分野でしかないのにオランダではより深いところのコーチングをできるようにシステムがとても理論的に構築されている。

それにこちらでは、多様性のある教育方針の中でも質を維持するというポリシーが国家に存在していて、モンテッソーリであろうが、ダルトンやフレネであろうが、それぞれの持っている良さを生かしながらそれぞれの専門家がチームを組んでより協働して質を高めていこうとするような文化がある。

寛容と自由の中に、本来人間が人間らしくみんなで助け合って生きていくという姿勢がその風土文化となって民主主義の利点を活かしさまざまなところへ反映されている。

オランダ人の人柄は一言でいえば国土と同じように大変「フラット」で、縦社会にはない横の文化がとても成熟しているように感じる。人間関係なども、お互いのことを「ストレート」に言葉にしてぶつかりながらもお互いを尊重し協働しながら進めていこうという粘り強い意志が個々人の性質にあるように感じた。

これは今の日本には体験できないことでそれを今回、自らの目と耳と肌で実際に感じたものが私にとっては大変参考になった。

これがこの先の日本や世界、人間の進む方向を見立てていくのに大事な邂逅になる。

お互いの国が抱えている問題とは、時差があったり場所が違うなどがあるけれど人間社会で抱える問題とはどれもほとんど同じものだ。

人間が生きるというのは、お互いのことをどれだけ必要として共に認めあう自立した関係を創っていくかというテーマからは逃げることはできないからだ。

今回の訪問ではそれぞれの国が本当に豊かに、世界の平和のために貢献していくために力を出し合い助け合うというのは21世紀には当然の課題になると確信することができた。

最後に、私がイエナプランにとても興味を抱いた中に「オープンモデル」という言葉がある。イエナプランはそのオープンモデルの理念を特に大事にしながら、実践と研修という繰り返す中庸の真理を通して本質を学ぶという方法を第一に取る。

そしてそのオープンモデルとは、グローバルな視野でより大きいものを含有しながらも自分という狭い範囲の自己満足だけにあまり執着せず世界の子どもたちの未来にともに手を携え自分勝手な執着を乗り越えて偉大に貢献していくということが大事なのだということを私は感じる。

これからカグヤもそして日本にいるパートナーも、それぞれの唯一無二のミッションをあわせて、お互いの目指す最良の人間が創るより素晴らしい社会の実現へ向けて偉大な理念設計をリーダシップを存分に発揮しながら組み立てていきたいと誓う。

視ること

今日は、長野県で2ヶ園合同でソフトの研修を行った。
昼間は園内を見学し、状況や経過を見せていただいた。

仕事柄、刻々と一点に絞り込まれた問題意識を持ちながら集中して全国各地の園内を視てまわっていると他の人にはない色々なものが観得て来る。
やはり力があるとは、永続して持続する強烈な一点への命の懸け方なんだと思う。
ただ単に闇雲に眺めているのとは違うのでここで一度触れてみようと思う。

基本的に私は、「視る」という行為は以下の観点を特に重要視している。

まずは溶け込み一体になるように五感を研ぎ澄ます、経験を起こす。
そして360度の視点から刷り込みをとって観る。
危機感と問題意識の密度を一気に一点に集中する。
視野を深堀しそこから離れ世界から観た視野、経過を見つめる歴史的な視野、など様々な視野を同時にテーブルの上に乗せていく。
そして相手の姿勢や観点、生き様や内面から自分とその人にしかできないことを観ようとする。
最後は、謙虚に在るがままの真実や矛盾を受け容れていく。

子どもを視るときは、子どもたちが子どものように在るその在るがままの姿からも自然と照らし環境との不自然がないかを観る。
人工的になっていないか、人工的なところはどこなのかなどから環境を師匠の「見守る保育」に照らして真摯に洞察していく。

今がどのような未来につながるのかを考え、園長と経営や保育、全てが繋がっているイメージと絶対価値と相対価値の共通理解を持ちながら原因と結果や課題と本質を園長とともに観付け可視化を促す。

これが私がいつも気にしている「視る」ということになっている。

今回も色々な相談を夜遅くまで一緒に話し合った。

現在使っている園での保育の年案や期案、週案、日案の矛盾について話しをした。子ども主体の保育をする時、必ずぶつかる壁にこの書類が在る。書類は、何のために必要なのか、子ども達のために一体何を記録するのか、、、結局、ほとんどの書類を全面見直しすることになった。

昔は、意味があったものも時とともに変わっていくもの。
変わらない普遍的な部分は決して書類の方ではないのだ。
変えていいものは変えていい、圧力や権力にはうまくコナセバ良いと思う。
子どもを守るために「工夫するのも、常に上書きするのも」時代と国の未来を担う新しい『先生』像の定義の一つだ。

それにご本人が気づいてくれたこともとても嬉しかった。

そもそも、指導とか、計画、とか言葉や単語を使う場所が違っている気がする。
スキルを育てているのか、子どもを育てているのか勘違いやズレが起きる。
また、年で区切る理由や期で区切る理由も、どこを向いて書いているのか・・連続しているという当たり前のことも忘れるくらい意識をアチラ側に持っていかれているのだと思う。
子どもはただ自分の生の未来にしか向かっていないのに。

常に与えて側のニーズが矛盾の階段を仕込んでいくという現実に目をそらさずに正対して気づかないといけない。

また他にも大事なことを話した。

書類も家具もツールも意識もそういう理念がそうだがすべてにおいて保育を議論するには、その価値観が定量定性的に指標として共有できないといけない。

同じような価値観を共有する人たちでないと本気で突き詰めた議論をすることができないからだ。

そのためには、常に「視る」ことからはじめないといけない。
そしてそれぞれ「自分にしかできないこと」を視ることを一緒にやっていくことだと私は思う。

子ども達が、この目に映る人為的な混沌とした社会の現実から目をそらさず受け容れていけ、常に優しく共に寄り添い生きていけるようにもっと私にしかできないことで子ども達を見守っていきたい。

このカグヤという会社はもうすぐ大きく変わる。

アナログとデジタルについて

アナログとデジタル、違いは経過や量と瞬間と面を表すということだ。

アナログは、そこまでの過程を見ることができる。
また今を起点に今後どうなっていくのかも知ることができる。
これを上手に使えば、すべての本質を考察することができる。
生きるとは経過であるからだ。

デジタルは、その瞬間を全体の一部としてみることができる。
全体の断面をとらえ正確に今に対しての状況を明確にすることができる。
これを上手に使えば、すべての結果を考察することができる。

なんらかの出来事や物事を見聞きするときにはこれらの2つをバランスよく持ちあわせることが重要だと思う。

これをどんなときでも使ってみるといい。
すると、より物事が正しく見えるようになると思う。

さて今の時代を考えてみると、どうだろう?
事件もニュースも今の結果だけを伝えるし、人間関係も繋がりもデジタル的に処理していくヒトが増えてきた。つまり今の時代はかなりのデジタル社会だといえるだろう。

何をやったかではなく、どのようにやったかを伝える。
何が起きたかではなく、どのような経過でそうなったかを伝える。

子どもについては今の時代背景を考えるとこれからは物事の過程について話を深く見聞きさせ、議論していくアナログ教育的なことが大事だと思う。
そしてそれはきっと将来、世界すらも動かす個のアイデンティティ育成の鍵にもなっていくだろう。

毎回、相手がデジタルで来たらアナログで返す。
アナログで来たら、デジタルで返す。

そのバランスこそが、道を正しく歩むために必要な羅針盤になるのだろう。

世界や未来は、個の意志で創り上げていくその人の叙事詩だ。
羅針盤をちゃんともって進む方向は見誤らないようにしたいものだ。