場数とは

色々と挑戦する人は「場数」というものの質量が高まってくるものです。この場数を踏むというのは、経験を積んだ量のことであり、それだけ体験をして馴染んできたということです。

現在は知識や知った気になるばかりでこの場数というものをあまり重んじていないようにも思います。子どもの頃から様々な体験を積んできた人は挑戦することが学ぶことになっていますが、体験がない人は学ぶことが挑戦することとつながっていないようにも思います。

改めてこの「場数」ということについて少し整理してみたいと思います。

この場数の「場」は、単なる場所のことを言っているのではなくこの時の場は「道場」としての場であると私は定義しています。自分の道を定めて初心を決めたら日々は常に道場になります。道場になるということは、実践が必要になります。その実践をするときに場が産まれ、その場を繰り返し向上し続けることで場数が増えて経験値が高まり道が拓けていくのです。

場数を踏んでいる人の言葉というのは説得力があります。なぜならその人は単に知識で覚えたことを伝えているのではなく、自ら体験して経験したことを伝えているからです。裏付けられた経験値からくる真実は嘘偽りがなく、その言葉にはチカラがあります。

言葉というものも、単に文字遊びで使う道具ではなく文字通り道具として真実を伝えるために使われてはじめて効果があるのです。自分の体験したこと、そして実践したことを自分の言葉で伝えることほど思いやりや真心が入ります。

論語の三省に「習わざるを伝えしか」がありますが、知った気になったことを人に教えていないかということです。これもまた場数を踏んで体験し経験して掴んだものだけを伝えなさいと言うことでしょう。

場数を踏むことの大切さは、自分のやったことを内省しそれが何だったのかを意味づけしていく中で気づけます。単にやることに意味があるのではなく、何のためにやるのかと実践を続けていくことが場数を高めて道場としての精進を続けていくことになるのでしょう。

私は場数を大切にするタイプなので、色々なことをあらゆるジャンルであらゆる角度から学びたいといつも思っています。このブログが多岐にわたるのも、欲張りだからか全ての体験を場数にしたいと思っているからかもしれません。

実践こそ何よりの真実であることを伝え、子ども達にも素敵な場数を弘げていきたいと思います。

本質を磨く

先日、聴福庵の柱や天井をクルーと一緒にライスオイルを使って磨きました。磨けば磨くほどに木の木目が出てきて、すでに数百年経っている木の歴史や風格が顕れてきました。磨くことの面白さというものは、磨くと本質が顕れてくるということです。その本質は日頃は隠れていますが、磨くという行為を通して本質に近づいていくのです。これは私たちの人生体験にも言えるように思います。

例えば、古いものでもなんでも掃除をしなければくすんできます。そのものの色が分からなくなってきます。それを拭き掃除や掃き掃除を日々に行うことでそのものの色が浮き出てきます。これは個性も同じで、日々に掃除をしていくことで次第にそのものの個性が浮き出てきます。この浮き出たものは別になかったものが出てくるのではなく、あったものが改めて確認できるという具合です。これは温故知新とも言えます。つまりは、常に本質を顕し続けて怠らず磨き続けるということです。

本質が隠れてしまうからこそ、その本質のままに維持しようとする。これを初心を忘れないとも言います。人は別に何か心変わりしたから変わるわけではなく、本質を忘れてしまうから変わったと感じているだけなのです。

現に先ほどの数百年の木を磨けば、そのものの木目や年輪が出てくるのはその木がもともと持っていた本質が磨くことで思い出すのです。磨くということは言い換えるのなら「本質を磨く」ということです。磨くの陰には常に本質が隠れていて、本質的に生きている人は常に日々が磨かれているということです。

何のためにそれをやるのか、何のために生きるのか、そういうことを思い続けながら日々に生きているからこそその人は磨かれ温故知新して常に本質を維持していくことが出来ます。

磨くという実践は人生においては、自分らしく生きること、個性を活かすこと、そして目的を忘れずに本懐を遂げるためには何よりも大切な徳目なのでしょう。

引き続き、日々を磨くことを通して時代が変わっても世界が広がっても共通しているものを守り続けていきたいと思います。

子どもと場

現在、「こども食堂」という場が世の中に広がっているといいます。これはもともとは東京都大田区にある「気まぐれ八百屋だんだん店主」近藤博子さんが名付けはじめた実践が世の中に共感されているからだそうです。

このこども食堂という名前を聞けば、なんとなく子ども達が集まる食堂というイメージですがこれは子ども達だけが集まるのではなく高齢者をはじめ様々な人たちが集まる場だそうです。以前、新潟で拝見した「実家の茶の間」もそうでしたが如何に自分たちが居場所を感じられる茶の間を用意できるか、ここに今急速に失われている地域再生の根っこがあることを実感しました。

このこども食堂の定義は「こども食堂とは、こどもが一人でも安心して来られる無料または低額の食堂」となっていて子どもが一人ぼっちで食事しなければならない孤食を防ぎ、さまざまな人たちの多様な価値観に触れながら「だんらん」を提供することを目的にしているといいます。

つまりは一家団欒というものが地域から消えてしまったものを補うものでもあります。私が聴福庵の囲炉裏で用意しようとしているものにもここに共通するものがあります。囲炉裏を囲み、あらゆる多種多様な価値観が触れ合う中で一緒になって火(いのち)を囲む中に団欒があります。今はこういうものが失われたことから子どもは自分の持ち味や、自分らしさを実感できることが少なくなったように思います。

人は誰しも自分の居場所が見つけられることで自分の存在を確認できます。それは人格の根とも言え、自分の根がどこにあるのかを自覚することで植物のようにそこから養分を吸い上げ立派に成長していくことができるからです。

根元が不安定なものは、根なし草のようにふわふわと浮いていますし、根がないものはどうしてもその人生に不信や不安が付き纏います。自分が居てもいい、自分の居場所を認めてくれる仲間や家族の存在が合ってはじめて人は自分を肯定して自信を持て、世の中の社會に受け止められているという実感と自立が生まれるように私は思います。

自立も共生も、子どもの頃の多種多様な価値観、多世代交流、多体験によって育まれます。それは全てにおいて地域の見守りがあったことで成り立っていましたし、人類はずっと子どもを地域で見守り育て合うことによってここまでいのちをつないできたとも言えます。

昔は自然環境が厳しく両親が早死にすることもあり、もしくは自然災害で全員の身内を失ってしまうようなこともありました。しかしそういう時に、地域の人たちが見守り育ててくださった御蔭で立派にその後の子どもが生長し、またその御恩返しを地域にして発展し続けてきたともいえます。

そういう人の循環する「場」が失われているとしたら、これは共生社會の危機であり自立社會の危機でもあります。自分の個性が尊重されながらもみんなで一緒に生きていく仕合わせと心地よさを子ども達に体験してもらいたいと思います。

地域への伝承と合わせつつ、子ども第一義の理念を自分なりに発展させて貢献していきたいと思います。

豊かさを譲る

今、時代はかつて人類が大切にしてきたものを手放してきているとも言えます。特に最近の世界情勢をみていたら、自分の国の利害ばかりを優先し他国を省みない言動や行動が増えてきています。

本来、思いやりや優しさは利他から生まれ自分のことだけではなく一緒に生きている周りのことを思いやるやさしさこそが本来の国の強さのはずですがそれをもここにきてまた手放そうとしています。歴史を鑑みれば、こういう自利ばかりを追いかけるようになると紛争が生まれやがて必ず戦争に発展していきます。身近な人間関係とも同じで自分さえよければいいという考え方が孤独を広げていくのです。

如何にそれぞれが周りを思いやるチカラを育てるか、それは幼い頃から思いやりや真心、友情や愛情の居場所を持てるかどうかではいかと思います。多様な価値観を持つ人たちの中で、様々なことを学ぶと言うのはもっとも効果があるのが協働や協力、そして思いやりなのです。

かつては、おじいさん、おばあさん、近所のおばちゃんやおにいちゃんおねえちゃん、その他、近隣のお店の人々にいたるまで地域が存在していました。悪いことをすると叱ってくれるおじさんがいたり、あらゆることは地域の中で学びましまた。そうして気づいたことは、自分一人で生きているわけではない、自分勝手ばかりをしてはならないということでした。

人は多くの人たちの中ではじめて自分の存在に気づきます。自分の行動が周りに大きな影響を与えることを学びます。その影響を知ることが自分さえよければいい、自分のことだけやっていればいいという我儘が如何に周りに迷惑をかけるのかを自覚するのです。

周りの御蔭様で私たちは生きられる、そういう御蔭様の真心を幼い頃から体験することで子どもは思いやりややさしさの本質を学びます。今は、地域が消失し、壁に仕切られ一人ぼっちになってもお金さえあればやっていける時代だともいえます。しかしその事から孤独になり、次第に居場所がなくなり寂しい思いをしているお年寄りや子どもたちが増えています。

福祉というものの本質は決してそういう人たちにやってあげるのではなく、御互いが見守り合えるように如何に居場所を用意するかということです。利害ばかりを追求しているうちに大切なコミュニティを失い、利害の影響を受けて孤立してしまう人たちがいるということこそが貧しいということです。

豊かな国になったはずが、かつての心の豊かさはそれと反比例しどんどん貧しくなっていく・・・そういうことに気づいた人たちが自ら立ち上がり、行動を起こしその貧しさに立ち向かっていくことも増えてきています。そういう希望や兆しも増えていますから、私たちも子ども達のために何ができるか真摯に考えていきたいと思います。

大切なのはもう一度、豊かさの定義を皆で見つめ直すことかもしれません。結果さえよければいい、能力主義や成果主義、または競争社会、比較の刷り込みばかりをもっていたら貧しさがより一層深くなるばかりです。道徳と経済とは本来分かれているものではなく道徳経済でした。道徳が経済に切り離されたことにより様々な問題が深刻なものへと変貌しています。経済にどのように新たな風を吹き込むか、それぞれの自覚が再生を担います。

その時、先ほどのような「場」という教育の在り方が、この失われてきたものを原点回帰し再生するための大切な鍵になるでしょう。

引き続き、未来に真の豊かさが譲っていけるよう子ども第一義の理念に沿ってカグヤは「見守る」ということの実践を広めていきたいと思います。

進化を捨てるというツケ

現在、古民家を再生していますが現在の建物を建てた当初の時代に一度戻して直しています。日本人の暮らしを再生していく上で、最初はどのようであったのか家と対話してくために必要だと私は感じています。

これは自然農の時も同じで、最初はどうなっていたのか自然はどのようにしていたのかを知ることでそれまでの歴史を洞察していけるからです。何でも突然今こうなったのではなく、永い時間をかけてじっくりと変化してきたものがあります。変化といえば急変することばかりを変化と呼ぶ人もいますが、本来の変化とはじっくりとゆっくりと微細に行われていくものです。

古民家再生の中で明治から昭和にかけての小説家、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」(いんえいらいさん)はとても参考になります。日本家屋の持つ「陰翳」はありとあらゆる空間を恢復するのに必要になります。私の勝手な洞察ですが、本来日本人は縄文時代をはじめ森の中、土の中に家屋がありました。

原始の家は、木を組んで蔓で縛り三角形にしてその中心に炭と火を焚いて藁で囲っていただけのものでした。薄暗い中で火を囲み、一家団欒したところをはじまりとしたらこの陰翳というものはその頃から続いてきた懐かしい暮らしの一端なのかもしれません。また山の中に入ると木々の木漏れ日や朝夕の杜の闇に陰翳を感じます。神社や家屋にこの陰翳が用いられるのは、太古から続く私たちの生き方に触れ安心するのかもしれません。

今の時代は、急速な西洋化が進み家屋をはじめあらゆる環境が急変してきました。例えば、気候も風土も事なる北半球の家屋を真似てビルやマンションを建てていますが今まではそのようなものはありませんでした。私もヨーロッパに留学経験がありますが、光がいつも斜めから差し込み暗かった記憶があります。建物を大理石やレンガでつくるのは寒さをしのぎ町を明るくするためだったようにも思います。ステンドガラスなども光を効果的に屋内に入れるための工夫だったのでしょう。また街灯をどこでも明々と照らすのは長い冬の夜の鬱々とする気分を吹き飛ばすためだったようにも思います。ヨーロッパの人が暖かく明るい場所にバカンスにいくのもその冬の陰気を少しでも和らげるためだと聞いたこともあります。

日本はそれとは対照に、いつも太陽が真上から差し込んできます。夏の暑さも上から下から暑さに挟まれ日陰がなければずっと外にいるのは本当に大変です。日本家屋はその熱や湿気が篭らないようにあらゆる工夫を凝らしています。土が下にあり木が上にあり水と火を上手に取り入れるのもこの湿気の多い風土では効果的です。また行灯のように小さな明かりを用いるのも昼の強い光と対照的な暗闇を味わいたいということもあるように思います。西洋は光が乏しくピカピカに光る光が好きなのに対し、私たちはこのピカピカに光るものが苦手であるとも言えます。それよりも穏やかに差し込んでくる杜の中のような和やかに重なって連なる光を見ると安心するようにも思います。

これはもともと異なる民族、風土が変わっているから異なるのであってそれを全て西洋が進んでいると右に倣えで換えていたら次第に風土の自然から離れてしまうのかもしれません。

谷崎潤一郎の著書、「陰翳礼讃」の中で「年寄りの愚痴」という項目があります。そこには次第に年寄りはいらなくなってくような時代の変遷に愚痴をこぼしている一節があります。

「要するにこれも愚痴の一種で、私にしても今の時勢の有難いことは方々承知しているし、今更何と云ったところで、既に日本が西洋文化の線に沿うて歩み出した以上、老人などは置き去りにして勇往邁進するより外に仕方がないが、でもわれわれの皮膚の色が変らない限り、われわれにだけ課せられた損は永久に背負って行くものと覚悟しなければならぬ。尤も私がこう云うことを書いた趣意は、何等かの方面、たとえば文学藝術等にその損を補う道が残されていはしまいかと思うからである。」

谷崎潤一郎の「損」というのは、それまでの暮らしを全部捨てて西洋化することは損なのだと言います。言い換えるのなら、合うものを捨てて合わないものにわざわざ合わせようとする損のことです。

本来、私たちに「合う」ものがあったのにも関わらずそれをまるっきり捨てて西洋の新しいものだけが価値があると信じてしまうことにより私たちはそれまで進化させてきた発明や発見をゴミ屑のように捨て去ってしまったことによる損が発生しています。ここで捨ててしまったかつての「進化」は、今の世代がそれを子孫に譲らないでいれば大変な損害を子孫へ渡してしまうということを忘れてはならないということです。

そこで谷崎潤一郎は最後にこう言います。

「私は、われわれが既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」

こんな時代であってもせめて「一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。」ということですが、私がやっていることもこの願いと同じことを実行に移しているだけなのです。子ども第一義の理念を省みればいつも子どもに何を譲り子どもに何を遺せるかを考えない日は一日もありません。進化を捨てるツケは必ず子ども達にまわるということを先祖になる私たちはちゃんと考えていかなければなりません。

自分たちの生き様、つまりは生き方働き方が子どもの未来に伝承されていきますから何が自然で何が不自然か、間違わないように真摯に今を温故知新して精進していきたいと思います。

 

 

人類の智慧~生き残りをかけた教育改革~

人類というものは今まで生きていく中で、何を大切に守ってきたかというものがあります。これは伝承されてきた文化であり、私たちのいのちが続いてきた根源でもあります。そして現代を生きる私たちにとっては戒めでもあります。日本の先祖たちが、己に克つことを大切にしたように社會を維持していくためにそれぞれが守るべき規範がありました。これを道徳とも言います。

今、世界ではこの人類が大事にしてきた自戒や回訓が失われてきているように思います。それぞれの国々が、自分さえよければいいと言う自利に走り、度を超えて我儘に自分の欲ばかりを満たしていたらこの先どのようになっていくのかは火を見るよりも明らかです。

今一度、教育に関わる人たちはこのことを考え直し社會をどのようにしていくかをすぐに改めて改善していくしかありません。これまで続いてこれたのは先祖たちが続いてこれるような生き方を貫いてこられたからであり、私たちは先祖の恩恵に感謝し、先祖と同じように先祖になっていくのですから真摯に向き合う必要があります。

自然界では、自分勝手に我儘が通用しないように常に調和が存在しています。御互いがほどほどに謙虚に生き、取り過ぎず度を超えずに暮らしていくことで種を保存していくことができているとも言えます。

人間界はそれに反して、自分たちの思い通りにしてきました。そのうち度を超えてしまえば、間違いなく自然の中で篩にかけられ不自然を淘汰する流れがやってきます。自然界の調和は宇宙の力であり、私たちちっぽけな人間などが敵う相手ではありません。

今は自然から離れてしまい、自然を意識しませんが私たちは自然の中で活かされている一つの生き物でしかないのです。

二宮尊徳は、「分度」という言い方をしました。分相応、自分の分を弁えそれ以上は譲ることを実践して仕合わせを創造していきました。これは人類が生き残る智慧の結晶です。

何が自然で不自然か学び直し、人類の生き残りをかけて教育改革を進めていきたいと思います。私たちは分度、推譲の実践によって世の中に一石を投じていきたいと思います。引き続き実践を考案し日々の実践を磨き改善していきたいと思います。

初動の早さ

人は本気であればあるほどに覚悟を持ちますがその覚悟や本気を確かめるのに「初動の早さ」というものがあります。何でもいいと思ったらすぐにやる人は覚悟が決まっていて本気であると言えます。しかしいつまでも悩んでばかりで始めようとしない人は本気と覚悟が決まっていないとも言えます。これを少し整理してみたいと思います。

そもそも覚悟とは何か、私の定義では迷わないということです。

例えば「やる」と決めていることがあるのなら、どうしようかと迷う選択肢はありません。もちろんやるとは決めているものの、その障害の大きさを感じれば気分はよくなく、やりたくないなと強く思ったり、周りから聞きた助言を好き勝手に解釈しやらなくていい言い訳ばかりや、何か他に楽にできる方法はないかと逃げようとする感情は誰でも等しく出てくるものです。

しかしいつもそれを繰り返して結局は「先延ばし」していたらタイミングが全て悪くなり、「時間切れで仕方がない」という最高の言い訳を手にするだけで何の結果も変わりません。つまり初動の早さの反対は先延ばしということです。

よく覚悟を決めろとか、本気を出せとかいう人もいますが、それよりも「いいと思ったことはすぐにやる」習慣をつけた方がいいように思います。よくないと思ったらすぐやめるというのも同じことです。

不思議なことですが、心というものは気付きを持ちます。それは場面場面で内省したり反省する中で、「もっとこうありたい」や「これをやろう」といった行動に移りたいと心が感じます。その時、同時に「とはいえ」が出てきてやると大変だとか、やれなかったとき評価が下がるとか、感情が出てきて邪魔をし出すものです。そのうち心の方がしぼんできたり、心が枯れてきてやる気が起きなくなっていきます。時間だけが過ぎ去ってしまい、前に踏み出す一歩が出て来ません。

何でもそうですがこの「初動」というのは大切なのです。言い換えるのなら「すぐにやる」というリズムのことです。決めたらすぐにやるというのを行動力と言い、結局はやれるかやれないかではなく「やるかやらないか」という選択肢しかないのが現実の世界から正対し続けていくしかありません。

やってどうなるのかはやってみた後に必ず明白になります。やる前からどうなるのかを考えていても明白になることはまずありません。そして何のためにやるのかを決めている人はチャンスを逃しません。そのチャンスは、「今此処全て」です。

いいと思ったことをどんどん増やしている人は、好循環のサイクルを掴みます。またよくないと思っていることをすぐにやめる人もまた好循環の運気を呼び込みます。逆はすぐにやらない、いつまでも悪いと思う習慣をやめないですがこれが悪循環を呼び込み運気を下げる方法かもしれません。

迷わないということの効能は、人生においてとても大切なことのように思います。それは全身全霊のチカラが無理なく自然に発揮されるからです。余計なことを考えないで決めたことを遣り切る人には、覚悟と本気のチカラが加味されいつも追い風が吹いてきます。そしてたとえ向かい風のときにもまた、自分と向き合うチャンスに換えます。

覚悟力は迷わないチカラを持てるということです。初動の早さというものはリズム感ですが、それは迷う暇を自分に与えない克己の工夫ということでしょう。

「なんでもいいと思ったらすぐにやる、よくないと思ったらすぐにやめる。」ただこれだけの実践ですが、迷っている時こそ理念や本質に寄り添い原点回帰し、素直に正直に自分の感性を磨き、日々の習慣に手入れをしながら克己復礼に取り組んでいきたいと思います。

 

 

体験が学び

先日、奥庭の剪定でイラガやチャドクガに刺されました。イラガははじめて刺されましたが、急な激痛で熱を持ち、その後は小さな赤いぶつぶつができます。背中の棘の先から大量の毒を放出するようでその毒によりこちらが撃退されてしまうという仕組みです。チャドクガにおいては、毛を放出しその毛についた毒によって敵を撃退します。

今回はその両方の毛虫によって色々と痛く痒い思いをしていますが、こうやって体験することでその虫のこと、対策のこと、あらゆることを身体で学びます。体験の学びは、大変であればあるほど心身に沁みますからそのことから人は学ぶということがはじまるのでしょう。

今の教育は教えるばかりであまり体験を重視していませんが、本来は子どもは体験するから学ぶのです。体験なしに学んでいてもそれは学んだとは言わず、できる限り様々な体験を通してその体験が何だったのかということをフィードバックし内省することにより本来の学ぶ価値に出会えるように思います。自然というのは、そういう意味では私たちにとっての至高の先生です。

さて、このイラガとチャドクガですが特に殺虫剤を使わず枝や葉ごと取り除きましたがこの毒蛾の幼虫にも天敵はいます。例えば、カマキリや蜂、寄生虫、ウイルス、また一部の鳥が食べてしまいます。自然界はとても絶妙に調和していて、殺虫剤を使って全滅させるとかえってバランスを壊し一部の虫たちが大量発生したりします。

その都度、殺虫剤を使っていたら常にそこに全滅の状態を維持しなければならなくなり一度使ってしまうとずっと殺虫剤を使い続けなければならなくなったりします。自然の調和が来るのを待たずに結局は全滅させるとその後がもっと大変になるのです。自然農を学んでいるため、大変で面倒で危険でも手作業で手入れをしていきますが虫のことをもっと観察し学ばなければ今後も同じように刺される嫌な体験をしなければなりません。

どんなことでも体験をしてすぐ学ぶことが何よりも大切であり、その学びを次に活かすことで学びはさらに深まり学ぶ真価が出て来ます。自然の奥庭をつくっていますが、その自然の奥庭づくりが不自然では成り立ちません。いくつになっても「やってみたい」と思う子どもの好奇心があれば失敗を恐れる気持ちはなくなっていくものです。

引き続き、どんな失敗からも積極的に学び直し自分の方を変化させていく楽しみを挑戦と共に味わっていきたいと思います。

不便の価値と人間の文化

先日から便利・不便について書いていますがそのことを少し深めてみたいと思います。

人は便利と不便を使い分けるとき、自分の感覚を用いないのか、用いるのかということで使い分けているように思います。例えば、鉛筆削りなどもそうですが今では電動であっという間に削れますが昔はナイフで自分の手で削っていました。ライターが普及すればマッチで火をつけるということもなくなりました。

他にも大きなことでは天気予報や災害情報なども今ではスマートフォンのアプリで勝手に知らせますが昔は自分の五感や感覚で天候や自然の状況を察知していました。今では自分の感覚を用いないことを便利といい、自分の感覚を用いることを不便と言います。

そのうち自分の感覚が失われていき、本質的に不便になっていきますが実際の便利と不便の定義もあべこべになっているように思います。動物たちにとっては自然界で生きるのに、自分の感覚を使うほど便利なことはありません。人間はすでに自然から離れ、都市化され加工したところに住んでいるとすべて自分の感覚よりもデータや道具の力でやった方が便利だと信じ込んでいます。都会の人が田舎にいったら途端に何もできなくなるような感覚があればその意味に気づけるようにも思います。

もちろん別に原始返りすればいいと言っているわけでもなく、動物の時のように戻れというわけではありません。大事なセンスや能力、五感はそのままに磨き続けて現代の技術を用いることが本来の人間の持ち味ではないかと私は思います。そういう意味で今の時代のような便利を追求するということは、自分の感覚を怠けさせるのではないかと思うのです。そして自分の五感や感じるチカラが減退するということは、それを生物でみれば本来の進化とは呼びません。今は急速に人の持っている感覚が消失しているのも、便利な道具に流され依存し自分の感覚を使わなくてもよくなったからのように思います。

結局は一つの価値観によって画一化されて単一化された道具で、誰でも簡単に自分の感覚を使わずに便利さや自由の中に埋没してしまうとより一層個性が失われていくということでしょう。これは自立と依存の関係がとくに現れていることであり、生きるために自立するのが大変だから依存していたいと怠けてしまうのです。

このような環境下で自分の感覚を使うというのは、常に決心と決断、その自立への覚悟が問われています。主体性が失われてしまうから便利な道具に流されてしまうのです。主体性を持っている人は便利な世の中であっても、敢えて不便の中に身を置き、敢えて不自由を遊び愉しんでみるという実践を必ず持っています。不自由と不便を使いこなしているからその人の人生は常に発見と発明、創意工夫、活気に満ち溢れるのです。

つまり便利さに流されるのは本人の自立の問題だということです。そして自立は自分の感覚を使う人のことをいいます。

今は世界中で単一画一が蔓延し、次第に調和のための多様性が求められてきました。こたえのない時代と言われているからこそ、子ども達はこの感覚を研ぎ澄ます体験がますます必要になってきます。不便さや不自由さは今からの時代に何より必要な道具であり、何よりの智慧であることは間違いありません。

今までの教育の概念を根底から見直す時代に入り、今までの価値観は転換され世界はもう一段成長した成熟した社會を望んでいます。

世界の責任のある一人の人間として、自分が不便不自由を謳歌しながら実践をし、子ども達や周りにその不便の価値と人間の文化を正しく伝承していきたいと思います。

伝承の意味

私達は言葉を通してあらゆる知識を取り容れていきます。このブログも文章によってできる限り日々の出来事から気づいたことや問題意識などを書いていますが文字というものはとても便利なツールであるとともに、その便利さゆえに本来の本質が伝承されないということも起こります。

昨日も伝承について話をしましたが、伝承というものは文字や文章で簡単に伝わるものではありません。本来、まだ言葉がなかった時代、文字がなかった時代のことを思えば私たちはその時でも悠久の時を日々の暮らしから大切なことを子孫へ伝承してきました。

この伝承の本質について深めてみたいと思います。

そもそも人間は文字を使いますが、それ以外の動物たちは文字を使いません。私たち人間の特徴は、あらゆる道具を開発し道具によって発展をしてきた生き物だともいえます。その一つの道具として文字というものを開発してきました。この文字を造ってから人類は飛躍的に知識を交流させるようになり、今のようなIT時代になるとありとあらゆる知識を瞬時に便利に入手し活用することもできるようになりました。

しかし同時にその便利さというのは、常にその便利の陰に隠れている大切なことを失っていきます。例えば、今では火をガスやライターなどで簡単につけられる時代になりましたが昔の火のもっているゆらぎやぬくもり、癒しなどはそれと同時に失われてきました。便利さの陰で失われるものは、火というものの存在の本物の真価です。

これと同じように文字や文章が簡単に使われる時代になると、それまでもっていた本来のいのちの真価や自然そのものの存在をあるがままに直感するチカラも消失してきました。

今は自然のことを文字で説明して教える時代になっています。山を見て山と認識し、川を見て川と認識する。雲は雲で、氷は氷と言いますがそんなものは本来の山でも川でも雲でも氷でもないのです。

自然をそのままに理解するのに言葉は必要かといえば、むしろ言葉は必要ありませんし文字も必要ないのです。

その便利の陰に消えてしまったものをどのように取り戻していくか、ここに民族伝承の鍵が私はあるのではないかと思います。文化の継承や伝承は、この無文字の世界、無言葉の世界、言い換えるのなら「無」によって行われるものです。

この「無」をどのように体験してもらうのか、そこに日本の精神「場」や「間」や「和」の伝承の仕組みが存在していたと思います。子ども達が言葉や知識だけではわからない物を体験させることは何よりも大切です。そしてその中に私たちの先祖から連綿と続いて繋がって結ばれてきたものをがあることを忘れてはなりません。

その先祖の存在こそが私たちのアイデンティティそのものであり、その先祖に感謝しているからこそ安心して未来永劫仕合わせに存在していることができます。

こういうものを文字で書かなければならないということは矛盾そのものですが、現実を受け止めつつこの時代にどのように初心伝承していけばいいか、まだまだ学び直していきたいと思います。