新時代のはじまり

本日は、神社建立式ののち直会(なおらい)をBAで行う予定です。この直会とは、神事ののちに神饌としてお供えしたものを参拝者と共にいただく行事(共飲共食儀礼)の事を指します。そして供物そのものもまた直会と呼びます。

これは正月の歳神様の依り代である鏡餅をみんなでいただくことでその神様との結びつきを強くしその力の恩恵を受けることと似ています。穀物にはむかしから神霊が宿っていると信じられていましたからその力をみんなで分け合うことで私たちは元氣をいただいていたのでしょう。この元氣は、いのちの力であり、生命の活力のことです。

また直会の語源は、「直り合い」(なおりあひ)からきているといいます。この直という字は、素直の直のことを指します。この直るという字は、邪気や穢れが祓われた清浄で明るく澄んだ姿のことを指します。

人間はこの世に出れば誰しも執着を持ち、個人的な観念や想念によって価値観が形成され本来の自然のままであることやあるがままであることを忘れてしまうものです。その穢れを神威によって祓われることでみんなが素直になった自分と出会うことができる。そういう出会いの場こそ私は直会の本質であろうと思います。

心が澄んでいく感覚というのは、あるがままのものがあるべきように存在そのものの「徳」が顕現する状態です。本来の人間は誰しも、魂の中にはその徳の境地を持っています。徳の境地の存在は私たちの転生意識にこそあります。地上に生まれて生きていく中で私たちは様々な穢れを受けますが、その中で何度でも生まれ変わり魂を磨いていく生き方をしたいと願い何度も転生しているのはその徳の境地があるからです。これを仏教では「縁起」といい、神道では「むすび」といい、西洋では「愛」とも呼びます。そして私は、新しい時代に入りこれらを「徳積」という言葉で語ることを定義しました。

本日は春分の日、古来からの伝統的な暦では今日この日をもってはじめて「庚子」(かのえね)年となります。つまり今日こそが旧正月と春分が重なり「本当の新年がはじまる日」なのです。

暮らしの中にこそ徳は生き、暮らしを通して私たちは文化を継承していきます。私の取り組む暮らしの甦生はたとえ微小だったとしても新しい時代を変えて化けるように祈り、大河の中に一滴の永遠の雫を垂らしていきたいと思います。

智慧の神様

今回、神社建立において思い返すと様々なご縁があってこの機会をいただいていることを感じます。私は、幼いころから神社や境内、御守りが大好きで両親によくせがんでいたのを覚えています。家にはそうやって出かけた場所で買ってもらったたくさんのお守りがあり、それは決して神道だけに限らず数珠やお札などがありました。

それが小学校の頃に入ると、次第に薄れ始め神社の境内や近くの地蔵堂などではよく遊んでいましたがあまり御守りなどには興味がなくなりました。今度は、中学生の頃になると、密教や空海の生き方に興味が湧き、サンスクリットの勉強をはじめ今度は竜神や水神、白蛇などに興味が湧き色々な池や沼などをバイクで探索していました。

そこから高校生くらいになると、中村天風、安岡正篤、吉田松陰など実践哲学や陽明学に目覚め、他にも孔子や老子、中国の様々な偉人たちの本を読み漁りました。大学生の頃は、西洋の文化に興味を持ち海外へ留学しては現地でドラッガーをはじめ、ナポレオンヒルや七つの習慣などの価値観に触れ、成功哲学や自己実現についての考えに触れつつ、美しい教会の大聖堂に魅せられ、ヨーロッパに行けば教会めぐりをしていました。

社会人になってはじめの頃は、山や川、海、人気のないところと子どもたちの感性から学ぶことに夢中になり、暇があれば温泉を深めていました。そして30代に入り、また神社や仏閣の建造物や歴史、伝統文化に興味が湧き、全国各地を訪問しました。同時に自然農といった自然の知恵を活かす生き方や、民族伝承の智慧といったものに惹かれ、実践を積み重ねつつその深さを味わいました。

そして40代になってから古民家甦生に取り組みはじめて、暮らしの知恵や先祖の叡智、伝統の意志や生き方、働き方の転換、最後に「徳」というものに昇華されました。思えば、二宮尊徳に惹かれたのは社会人になってしばらくしてでしたがそこから15年くらいこの「徳」ということが何度も頭によぎりました。

これは私が子どもの仕事をしていることと、ある故人より古い魂の人物ですねと言われたこともあるかもしれません。私は長老の役目というのは、民族を自然に照らして丸ごと善いことへと導くために生き方を示すことのように思います。

私は見た目がまだ若く、長老とはとてもいえるものではありません。しかし、なぜか私の中に流れるものの中に、伝統の知恵や暮らしの知恵、そして自然の知恵や歴史の知恵、様々な知恵が存在することに気づきます。

今回の神社建立は、この「智慧」そのものをお祀りすることによります。八意思思兼神というのは、いわば「長老」の道を司る神です。観念そのものが智慧ですから、その「智慧を神とせよ」という意味になろうと思います。

まさに今の時代、このタイミングだからこそ智慧を祀るということが必要なのです。私が今回の神社建立のご縁の結び目には、智慧が存在することは自明の理です。子どもたちのためにも、智慧を譲り遺し、人類が末永く仕合せになるように私にできることを努めていきたいと思います。

天の道理に従う

人は頭で考えていても行動しなければ成果につながることはありません。それは天の道理として努力をした分だけしか成果が出ないからです。この天の道理は、現代の世の中では如何に楽をしてとか如何に便利にとかの価値観が優先されていますから無視されることも多いようになってきました。

農業なども天地の道理に逆らって、遺伝子を組み替えたり、機械を駆使し、合成肥料や特殊な農薬等を使うようになってきました。これまで数千年から数万年という歴史で紡いできたものをいとも簡単に壊して新しいものにしようとします。

しかしこれはその時は収量が一時的に増幅したように見えますが、必ずそのうち道理に逆らった歪によって収量が激減して絶滅していきます。

自然界というものは、決して人類がさわれない天の道理があります。この天の道理の中で人類も生きていますからそれに逆らったら生きていくことはできません。異常気象なども、人間にはなすすべがありません。だからこそ私たちは、今こそ天の道理の存在に気づき、改めてその道理を尊重することこそが進化であると私は思います。

天の道理を尊重するというのは、かつての先人たちが磨き上げてきた文化を尊重していくことです。もっとも自然の循環を邪魔せずに自分たちもその循環の中で、豊かに生きていくということ。天の道理を尊重してきた人類は、何千年も何万年も地球と共生し子孫を紡いでいきていくことができました。

しかしかつて同様に天の道理に逆らった文明はほとんどすべて滅んでしまいました。天は道理に逆らうと天敵が現われ滅ぼされていきます。そしてまた調和が訪れるという仕組みになっています。

人類の天敵は人類そのものですから、人類が自分たちの欲をおさえ徳を積むように天理に従い生きていかなければ天敵が自分たちになってしまいます。本来、人類も自然の一部でしたから天敵になるはずはありません。

天敵にしてしまうのは、自然の一部であることを忘れ自然から学ぶことを忘れてしまうからでしょう。自然には人間本来の姿を回帰させる様々なことがちりばめられています。日本人の先人たちも暮らしの中で自然を取り入れ、常に天の道理を学び直しながらその中で人類のあるべき姿を見つめ謙虚に文化を高めて磨いてきました。

まさに今は文化が減退し、人類も危険な状況になってきましたからもう一度、自然の叡智である「徳」を中心に据え生き方を見つめ直す必要を感じます。

引き続き、遠大な未来のために狂人や変人といわれようが我が道を進んでいきたいと思います。

 

視座を磨く~心の呼吸~

人間の心には様々なことが日々に浮かび上がってくるものです。何もしていなくても、心は活動していて私たちが呼吸するように心も生きています。

その心に浮かんでくる様々な想念を如何に味わい盡し、如何に磨くかはそれぞれの日々に生き方次第です。生きていれば様々なご縁に導かれますから、その一つ一つの意味を確かめながら歩んでいきます。

そうやって心を高めながら同時に生まれる様々な感情を浄化していき、心を磨いていきます。それが人生の醍醐味であり、天命を生きるということでしょう。

天命を生きるとき、私たちはどの視座で物事を観ているかというものがあります。世の中の常識に合わせて語るときと、悠久の時空を超えて語るときがあります。常識ではわからないようなことも、視座を高めれば自然に観えてくる境地があります。

天命が分かれば使命に気づき、その使命に生きれば心の純度も洗い清められ視座もまた高まります。何のために生きるのか、何のためにそれをやるのか。その初心にどれだけ透徹するほどに心に思いを刻んでいるか、それが日々の修養の糧になっていくのです。

生きていくというのは、成長することであり、真の成長は心を磨くことです。

様々な課題を日々にいただきそれと正対しては今に集中して心に浮かぶ様々なことを一つ一つ丁寧に磨いてご縁を紡いでいきます。ご縁こそ、磨くための砥石であり、その磨き合いが続いていけばさざ波の中で出会う美しい砂浜の貝ように魂も輝きだします。

子どもたちのためにも日々に心の呼吸を丁寧に整え、視座を磨いていきたいと思います。

神棚の徳

先日、ある友人から会社の神棚を設置したいと頼まれ神棚を深めています。神棚の歴史は江戸時代中期頃に、伊勢神宮の「御師」たちが日本全国を行脚し、神宮のお札を各地に届ける中で発生したのではないかというのが有力な説です。

もともと古代の日本では木や岩や山などを神様として敬う風習であったため、神棚はありませんでした。その中で天照大御神が日本で最高位に位置する神様として伊勢神宮が日本各地の神域を代表する最高位の神社・神域とされお札をお祀りするようになり神棚を置くことになったように思います。

当初はお札を入れる簡素なものでしたが、次第に変化して現代では豪華絢爛なものからシンプルなモダンなタイプも出ています。

そもそも神棚になる前には、古代は宝物を納めたり、供物を捧げたりする場所としての棚が設けられました。今でも、神社の前に三宝を置いて供物を捧げます。また、大切な宝物や依り代になるものを大切に保管するためにお社も立派にできています。

私たちの先祖は、稲作を通して様々な行事や儀式を行ってきました。その中で、自然の恵みに感謝して自然の御蔭様を忘れないようにみんなで力を合わせて心を一つになるように文化を紡いできました。

それが次第に神棚を設け暮らしの中で日々に拝み感謝するという習慣をつくっていったのでしょう。最近では西洋建築になり、稲作にも触れる機会が減り、神棚のない家庭が増えてきています。

改めて子どもたちが安心して先祖の知恵と徳が伝承されていくように、神棚から丁寧に暮らしを甦生していきたいと思います。

日本人の魂

もうすでに郷里の古民家甦生に取り組みそろそろ4年目に入ります。昨年末から、取り組んできた私の復古起新の実践を「暮らしフルネス」と命名し、その理論を具体的な方法にして展開をはじめています。

思い返せば、日本人としてどう生きるか、そして子どもたちのために何ができるかと考え抜いて出た結論がこの暮らしを甦生し、文化を守ることでした。文化とは、生き方であり生き様ことで、私たち日本人の魂のことです。

日本人の魂を磨くというのは、暮らしを磨くことで光ります。

暮らしを磨くのは、先祖の恩徳を高め、先人の智慧を活かし、それを次代へ伝承していくということです。民族伝承の知恵こそ、日本人の魂が顕現したものであり、それを磨くことで日本人は磨かれ世界一流の国際人としてこの先の未来でも大切な役割を果たします。

現代では、それが欧米の文化によって取って代われ、日本人は魂が薄れてきています。和魂とは何か、それを突き詰めていかなければこれからの日本が世界で活躍することはできません。

そのためには、まずは建物や通り、町をどのように磨くのかを町のリーダーたちは理念を定め、真摯に取り組んでいく必要があります。誰かが思い切った行動をして、世の中と反対側に走っていかなければならないのです。この時、必要なのは、資金ではなく、人の数ではなく、勇気を出すということです。

日本という文化を大切に磨くことが、自分自身を大切に磨くことにつながります。そして日本の家は、日本の国家のことですからこれを忘れてはならないと思います。

最後に、フランスの人類学者・地理学者、ジャック・プズー・マサビュオーの言葉です。

「日本の家は、現代において、日本民族と日本的魂の誕生のあり方を、普遍の形で示しているのである。家は、家族の母胎であると同時に、日本民族の母胎でもある。日本民族は、家によって育まれ、趣味や感受性、社会の規則や慣習が、家で作られているのである。同じような家を際限なく建て続けることによって、日本民族は、自分自身のイメージを再生産し続けているのである。そのイメージにおいては、過去と現在が普遍に混じり合っている。日本の伝統的な家は、「日本らしさ」の永遠の源泉であり、この家こそが、日本民族にとって、何よりも確実なルーツなのである。」

日本らしさを大切にした生き方を、引き続き高め、和魂の精神を子どもたちに伝承していきたいと思います。

感謝を磨く

昨日、ある法人の理念研修で感謝の話をお聴きしました。この法人の職員はもともと仏教を信仰している方が多く、とても感謝の心を大切にしています。その話とは、同じことをしていても感謝の心でやっているかどうかがとても重要だという話です。

何かのことをやる際においても、実際には多くの人たちの努力や御蔭様が存在します。また食べ物一つを食べるというのであっても育ててくれた人、運んでくれた人、料理してくれた人、そして人だけではなくその生きものを育んだ地球のことまで思いを馳せれば自然に感謝が湧いてきます。

この感謝は、実際に当たり前ではない存在を感じ取っている心であるとも言えます。如何にそれが有難いことか、滅多にないことかと自覚している心が感謝の心であるのです。

人間はなんでも自分の思い通りになる生活をしていると、次第に傲慢になってきてなんでもあって当たり前、なんでも自分の権利であるかのように勘違いしてしまいます。そのうち感謝の心を忘れてしまうと、自分自身のいのちにさえ感謝をすることをやめてしまうことにもなります。

みんな何かの出来事があり、なぜ自分がこんなことにと思う時、静かに振り返れば感謝の心を忘れていたのではないかと思い出すように思います。

忘れるのを思い出すことと、忘れないように日々に思い出すこと。今のようななんでも物に溢れ、人間の都合でなんでも簡単便利に手に入る時代だからこそ心を磨くために、感謝という実践を積み重ねていくことが心を平安にしていくための大切な徳目になっていきます。

時代が変わっていく中で、今が何に気を付ける必要があるか。仏教ではそれを六波羅蜜で説いています。まさに今の時代は、有頂天にならないように気を付けること。それは感謝を忘れないで生きていくという自戒を持つことだを感じます。

当たり前ではない存在に気づくのは、自分勝手な妄念や妄想を払清めることからです。

初心や理念を忘れずに、感謝を磨いていきたいと思います。

 

自然と神様

昨日は、分霊する八意思兼神をお迎えにいくために埼玉県の秩父神社でご祈祷を行いました。この神様の子孫である知々夫国造が武蔵国西部(秩父神社を中心とする秩父・児玉地域)の氏神様になりました。

改めて祝詞を奏上し、神様の分け御霊を御幣に降臨していく姿に立ち会うと分けていただいた存在をさらに大切に集めて増やして活かしていきたいと思う気持ちになりました。

神様の話になるとどうしても宗教のように聞こえますが、あくまで私の神様は日本文化としての道の一つです。その道は、極端かもしれませんが漬物を育てていくのと同様で実践がセットであると信じています。

例えば、漬物の菌も樽に移しその樽を大切に使いながら漬物を育てていきます。その樽に菌を分けてもらい定着してもらえば、あとはその樽が腐らないように傷まないように手入れをしながら漬物を漬け続けます。その漬物や樽が使えなくなるのは、手入れを怠り、塩加減や水加減を間違い、放置すれば廃棄しなければならなくなります。

ちゃんとその漬物の樽を活かし、菌に活躍し続けてもらうにはずっと大切に一年の自然の四季のめぐりに沿った暮らしをしながら自分もその自然の一員にしていただくように取り組んでいくのです。

私にとっては、神様は菌と同じです。そしてお社は樽と同じです。こういうと不謹慎だといわれるかもしれませんが、自然を神様として観れば何も違うことはありません。

本来の自然(神様)のハタラキをそのままに、最大限活かすには自分自身が自然(神様)が喜んでくれるような生き方をしていかなければなりません。私は、自然農をはじめ、日本の暮らしを甦生していますから特段、何か特別なことを増やすわけではありません。

今の暮らしの中に入っていただき、より活躍する場を醸成していくだけなのです。これから新しいパートナーが増え、新たに暮らしが充実していきます。秩父神社とのご縁に心から感謝しています。

日本人文化甦生

私たちは日本人としての文化を持っています。それは何千年も前から生きた人々が、暮らしの中で培ってきた心の文化だとも言えます。自然に信仰し、自然に食べ、自然に生き、自然に家族を持ちました。そうやって、長い年月をかけて身に着けてきた知恵や仕組みこそが文化になったのです。

現代では、神様を拝もうとするとすぐに宗教だといわれます。神様=宗教としてそれぞれに宗教の違いを信仰よりも先に語られます。しかし本当にそうでしょうか。

確かに宗教は個人の自由であり、税金もかからないから特別な組織とみなされます。しかし本来、宗教が始まる前はみんな自然に信仰を持っていたはずです。それはアマゾンの奥地やインディアン、各地の少数民族に至るまで何かしらの信仰心をもって自然や先祖を崇拝していますがそれを現地では宗教とは言いません。

つまり本来、すべてのものは文化からはじまっているのでありそれを分類したものが宗教などになっていったともいえるように思います。異なる文化を認めるというのは、それぞれの育ってきた歴史を肯定し認め合うということです。

そしてその文化をつなぐものこそが「暮らし」であり、その暮らしを丁寧に紡いできたからこそ日本人としての本来の役割や個性も世界で発揮できるようになるのです。

人類がそれぞれで移動して分かれてどのように地球に適応してきたかというのは、偉大な叡智であり智慧そのものです。気候変動の中で、また人類の社会を創っていく中で、どのようにその場所で調和させようとしたか。

実際に実験を人生を懸けて行ってくれてきた先祖たちの生き方が、私たちの水面下の意識で文化として醸成され、今に引き継がれ、この先を見守るのです。

今度、私は神社を建立しますがこれは決して宗教として取り組もうとしているのではありません。私はあくまで「文化」としての道を、日本人の古来からの生き方を暮らしを通して甦生させていこうとしているのです。

まさにそれが子どもたちに日本人の心を育て日本人の誇りを思い出すことにもつながると信じるからです。私自身も、日々に手を合わせ、内省し、自然の循環と共に人も一緒に八百万の神々と共に暮らしていくことに仕合せを感じています。日本人の生き方を学ぶためには、古民家も必要ですし、暮らしも必要ですし、暮らしには行事もあるし、神社も必要です。

心を甦生していくのは、日本人の暮らしの甦生からです。

2月4日、立春の日に出現する神社と共に日本人文化甦生に歩んでいきたいと思います。

真の強さとは

何かを守るということで人は強くなります。しかしその守るためには強さが必要です。その強さとは何かということです。

相対的に戦って勝つか負けるかという強さもあります。しかしそういう戦国の世においても、もっとも最上の策は戦わずして勝つともいいます。つまりは、戦わないことこそ本当の強さであるとも言い換えることができます。

この場合の戦わないとは、戦わないために何がもっとも大切かということを考え抜く正対する力を持つということです。

人間はすぐに自分を中心に物事を考えてしまいます。そして自分の価値観で物事を裁く傾向があります。また欲望があり、保身があり、魔が差す弱さも持っています。そういう人間の姿をあるがままにありのままに見つめるには、心の鍛錬が必要になり心の胆力のようなものが求められます。

優しさは強さにもなり、優しさは弱さでもあります。その優しさが本当の意味での強さになるには心を高め、自他を深く見つめ、丸ごと一体善になるように自分を融通無碍に変転自在になるような精進を続けていくことです。

守るというのは、何を守ろうとしているのかを自分自身に問うことです。

その守るものが私利私欲でないものであれば、また忘己利他のものであれば守る強さは偉大になります。

守るとは、常に損得を超えた「徳」を実践するときにこそハタラキます。その徳は、親が子どものために命を懸けるように、また体が自然に自分のいのちを守るように、地球が生命を保持するように偉大なものです。

徳を実践する人こそ、真の強さを持ち合わせる人物であると思います。そして徳がある人は「運がいい」のです。運がいい人は、長い時間をかけて先祖代々に積んできた徳が備わっています。

その徳を引き出し磨く人こそ、人徳者であり強き者であるのは自明の理でしょう。引き続き、徳を磨き、徳に報いていけるように人生のかじ取りを間違わないように取り組んでいきたいと思います。