経験の質量~見守る実践~

人生というのは経験することですが、その経験には無駄なものが一切ありません。

例えば、人間はかつて経験したことが必ず次に役に立つという仕組みになっています。ある病気の体験が誰かの役に立ったり、自分の失敗成功体験がそのまままた誰かの役に立ったり、自分が味わって共感して学んだことはすべて何かの時に役に立つ日が必ずくるのです。それは思い返してもなかったといっても、スパンが短いだけで長いスパン、子々孫々時代を跨いで観れば必ずどこかで役に立っているのです。

自分の体験を大事にするというのは、自分の体験することは必ず役に立つと信じることなのです。その体験を味わい経験を積んでいく中で、誰かがそれを必要としてくれるようになります。これは自他は繋がっているという意味ですが、自然は全体と渾然一体になって循環しているものです。だからこそ、自分の行動や体験は誰かに必ず影響を与えていますし、同時に誰かの影響を受けて自分も影響を受けているのです。

だからこそ、自分の体験という役割がある、自分の経験という使命があると考えるのです。

人生は道場だと定義しさえすれば、日々どんな場面も人生練習であり、如何に自分の今の体験を味わい尽くして質の高い経験をするかというのが自分の人生の御役目を果たすことになるのであろうと思います。

ふり返れば、真心を籠めて誠実に誰かを思いやり取り組んだ実践が何よりも将来、大切な人たちや支えて下さる人たち、仲間や見守り合う関係において一番御役に立てている気がします。

御恩返しとは自分の人生を真摯に生き切ることではじめてできるものなのかもしれないと私は感じます。自分を中心に良し悪しや正否を判断するのではなく、そのものの体験はあるがままの経験として尊ぶことが何よりも大切なのかもしれません。

自他の経験を尊重していくことで見守る実践の質量を高めていきたいと思います。

一緒に

今の世の中の刷り込みの一つに押し付けられ管理するというものがあります。

これは小さい頃から学校や様々な場所で、大人から一方的に何かをやらされることで身に着けてくるものです。もちろんやらされることが悪いとか良いとか言っているわけではなく、人はやらされると自ら気づく機会が得にくくなるように思うのです。

人は頭で分かるというものと、自らの感覚で気づくというものがあります。前者の分かるは、単に知識として理解しただけですが後者の気づきは体験や経験を通して納得するというものです。

この納得するというのは、やらされてできるものではなく自らで気づくからこそはじめて身に修まるように思います。本人が身に修まれば楽しめるものですが、分からないままに遣り続けるというのは疲れるものです。本来の分かるというのは、頭ではなく気づいて納得することが分かったということだからです。

つまりここから考えてみても主体性を相手に求めるときと、自分が主体性であるときは結果までのプロセスが異なるということが観えてきます。

主体性がもしも相手になる場合は、「やらせる」「してもらう」という具合で例えば上司が部下に仕事をやらせようとしたり、してもらおうとすることで部下は上司にとって管理される対象になります。この場合は、上司部下お互いのプロセスが受動的になりその両方が相手の出方次第になりますから主体性などは発揮されません。

よく会社などでチームワークが停滞するのもこの理由で、御互いに受動的に相手次第になり出方を待っているからどう動けばいいかが合わせられず協働が機能しなくなるのです。

これとは別に、もしも「一緒に」という具合に上司も部下も共に一緒にやるのであれば管理はせずに同時にプロセスを共有しようということになります。すると、御互いに自発的になり御互いがそれぞれに自ら考えて一緒に取り組んでいるのだから主体性は存分に発揮されているのです。

そうなれば、互いに尊重し合い互いに力を合わせて協働していくことができるようになります。しかしこれができないのは、「一緒に」という意識がなくなって、「自分」という意識が強く出てくるからできなくなるように思います。

人は皆と一緒にやるときは思いやりで動きますが、自分だけでやるときは立場で動くものです。常に相手を思いやれるのは、一緒にやろうと決めているからです。個々の主体性というのは相手か自分という二者択一の関係ではなく、一体の関係の時にだけ発揮されるように思います。

学校で画一的に、先生と生徒と分けられたり、親と子が分けられたりを上から下へとか下から上へとか立場などで教えられることで分からなくなったのでしょう。本来は、一緒に育ち合うもの、一緒に分かり合うものが人間関係の本質なのです。

気づき成長するには、身近にいる人たちのことを一緒に育つ関係であると大切に思いやり共に学び共に生活していることを忘れてはならないと思います。

御縁があった人たちとは、一緒に生活している人たちです。

如何に思いやりを優先するかは、一緒にやっていくことを優先していくことだと思います。刷り込みを取り除き、協働の楽しみを現場に拡げていきたいと思います。

 

歴史の重み~平和維持の本質~

先日、「鬼に訊け」宮大工西岡常一の遺言というDVDを拝見するご縁がありました。

この方は、法隆寺、薬師寺の宮大工棟梁として先人たちの思いを紐解いてその意義と価値を甦生された方です。映像を観ていたらとても大切な文化、伝統、そして伝承することの重み、また生き方、あり方に至るまでを実感することができました。

今回、印象に残ったお話の中で法隆寺や薬師寺の伽藍の修理などで国から派遣された学者や建築法などによって本来、木造建築の中になかったコンクリートや鉄筋を入れさせられたことでした。それに西岡常一さんが信念をもって意義を立てているうちに、法隆寺にはまるで鬼がいると揶揄されて「鬼」という綽名がついてしまったようです。

しかし少し考えてみるとすぐにわかるのが、1300年も数々の災害や自然現象を乗り越えて建っている建物の仕組みを尊重しようとはせずに、今の進んだと思っている文明の科学を押し付けていくというのは賢いやり方とは思えません。

文明では、人間が後ろ盾になって法律や学術理論によってその科学を証明しますが文化では自然の篩にかけられた歴史や時間が科学を証明するのです。

自分の浅はかな考えなどわずか数十年であるのに対し、歴史は自分を含めた何代も何代もかけて数百年、数千年と考えられた深淵なものであるのです。

その先人たちの智慧や仕組みを考えたうえで、今の文明の価値を試すのならいいのでしょうがその仕組みを知らないのに自分の考えが正しいというのはどうかと私も思います。知識というものは、理屈では合っているのです。しかし仮想ではなく実相実在する現実では理屈抜きにして合っているものがあるということなのでしょう。

それが自然か不自然か、調和か不調和かということを直観するのと似ているのです。

1300年生きた檜を使うからこそ1300年生きる、鉄もしっかりと打ち錬磨し叩いたものだからこそ1000年生きる、そういう長い年月いきたもののいのちをそのままに活かそうとする自然の叡智は、人間が加工してつくったものよりも価値があるということなのでしょう。

西洋文明というものは、ビタミンとか栄養素とか色々といいますが自然に野生で育ったみかんを一個食べそのものの「いのち」を身体に吸収した方がはるかに元気になるのも知らないかのように推し進めていきます。

人間の知能の方が、自然よりも勝っている。自然を人間が征服することが価値があると勘違いをするからこそ、おかしな文明が広がっていくように思います。文化というものは、自然を尊重して畏れ敬い生き活かされていることに感謝するから継承できるように思います。

明治以降、大切な文化が目先の利に迷って次々と否定され喪失していきました。まさに論語、「大学」にある「利をもって利とせず、義をもって利とする」ということを守らなかったからでしょう。道義や道理を蔑にしても利益があると勘違いするのは、人間が歴史に対して傲慢になっているからであろうと思います。

伝統が次々と文明に破壊されているのを観ているとまるで戦争のようです、西岡常一さんの平和を願う真心がこの映像より伝わってきて心に沁み込むものがありました。

現代建築ばかりが最高の価値があると思ってしまうのが世の常なのでしょうが、伝統建築の真の価値を知らずして世の常を語るのではないという声が聴こえてきそうです。

信念を貫くことを大切に、自然経営を心掛け初心を伝承していきたいと思います。

 

固定概念

人間には誰しも固定概念というものがあります。

そのものの本質を自ら考えるのではなく、誰かが何かをいっていたからと鵜呑みにしたり、流行や何らかの情報をそのままに思い込んで受け入れてしまったらそれが固定概念になるのです。

人は考えるのをやめることで、物事を単純類似化し画一的にしようとしてしまうものです。分類を分けることで、自分の中で整理するのは脳が行うのでしょうが本来は複雑なもので渾然一体となったものを分けて考えはじめたことから物事の本質が観えなくなっていくのでしょう。

しかも世の中には類似したものから取り組むということで、分業し技能を分けていきますからその技能からものをみたら分かれていない方が怪しいとか不可解に見えてしまうのです。

その最たるものが決めつけというものであり、きっとこうだろうとよくも考えず自分の固定概念に周りを合わせさせようとしてしまうところに失敗もまたあるように思います。沁み付いた固定概念を取り除くには、向き合って受け止めてもう一度ゼロベースで本質から考え直すプロセスを通過することが大切なように思います。

しかし実際は、同時に自分の中の感情が揺れ動き結果を先に思い込んで決めつけているからこそなかなかそれを覆すことができません。きっとこうだとか、きっとああだとか最初に分かった気になってしまっているからこそ自分の世界を変えていくことができないのです。自分の世界が変わらないということは、実際の世界も変わらないということですから同じところをループするだけになってしまうのです。

このループを抜け出すには、分かった気にならず勇気を出してやってみる、そしてそれを本質に照らしてフィードバックすることがあることで少しずつ抜け出せるように思います。

その本質が何かというのが理念でもあります。

理念は決して外罰的なものや外責的、もしくは外省的に誰かに押し付けるものではなく本来は内省的なものなのです。つまりは理念は自ら省みるものであってそれは本質に帰すのは自分自身であって自分以外の周りを本質にするわけではないということです。自分が正しい相手は間違っているというのも固定概念です。

本来の目的を忘れないようにすることで自分の固定概念というものの縛りを抜け出せるように思います。だからこそ何度も何度も日々に省みるものを持てるかどうかは本質的に生きる上においてとても重要ではないかと思います。

言われたことを盲信しただやるだけのステレオタイプになってしまえば、その時点で自分の固定概念の中でのみ生きてしまうことになります。如何に自分を通すときにそれを本物にするかは個々人各自が実践において行わないといけないものです。それが自分の人生だからにほかなりません。

これらの刷り込みを乗り越える先に、目指した本当の理想が存在します。生き方を貫くというのはなかなかすぐには理解されませんが、社業を洗練しより高度な技術を磨いていきたいと思います。

 

進化成長

人は誰かの体験を自分のものにしていくときは、自分の体験にしなければなりません。誰かの体験を教えてもらったからといっても、その体験を他人に語っていてもどこか自分のものではないのだから自信を持つことができなくなるのです。

人は真似をする生きものです。

真似というのはとても高度な技術が必要で、日本人はよく世界からコピーする民族と揶揄されたりしますがコピーできるというのはそのものを体得するという意味ですから、実際は本当に難しいことです。

例えば、子どももそうですが最初は身近なものを観察しながら簡単なものから真似していくものです。そうして真似をしながら実際に大人がやっているようにやってみようと思うものです。これは人間に限らず、動植物、昆虫にいたるまで周りの真似をしていきます。

そうしてその真似ができた時に、次第に真似からはじめて自分のものにしていくことがはじまるのです。つまりは、真似をすることで真似ができると自覚します。そして真似ができればそこから自分でもやってみたらその真似の内面にある本質を掴めるのではないかとやる気が引き出されてくるという感じです。

このやる気というものが出さえすれば後は自動的に発達発展していくのです。真似というものは、何よりもこのやる気を誘因するように思います。誰かの真似からやっていくことを馬鹿にする人がいますが大きな間違いであろうと思います。

真似ができるようになるときにはじめてやる気が入るからです。人間はやる気なれば何でもできるものです。これは教育の本質であろうと思います。何かを教えることが教育ではなく、やる気にさせることが教育であるからです。

真の教育は真似からというと誤解されるかもしれませんが、真似したくなるような生き方が身近にあることがより善い社会を構成していくには必要だと私は思います。多様性というのは、真似するものがたくさんある社会のことを言うのかもしれません。

飛行機ひとつ、船ひとつ、ありとあらゆる道具は自然界の真似から発生してくるものです。真似をしているうちにやる気になって翼を持ち、鰭を持ち、生きものは進化してきたのです。

この進化のコツは、やる気にあると私は信じています。

やる気こそが何よりも進化成長を促すということを忘れずに、実践を楽しんでいきたいと思います。

傾聴の本質

傾聴ということについては、一円対話をはじめ色々なところで実践していますがこれは何よりも重要な学びの姿勢であることを実感することばかりです。

あのPF・ドラッガーも「リーダーにとって最も重要な資質は「聴くこと」だと私は考えます。常にインプットし続け、学び続け、成長し続けるためにも、聴くことが重要なのです。」とあります。

素直さを思う時、他人の話を素直に聴ける人を素直であると思います。どうしても自分の概念で歪めて聞いても聴かず、聞いているようで聴こえないのでは、改善しようがないからです。

エグゼクティブ・コーチの第一人者として知られる、ゴールドスミス氏の記事がハーバードビジネスレビューの3月号に紹介されていました。

そこには、「自分の周りにいるすべての人から学びなさい」と常にアドバイスをするそうです。

そして自己変革に成功するか否かを左右する要因が三つあることを述べていますので紹介します。

「その一つが勇気です。自分の顔を鏡で見るように自分と真剣に対峙し、ありのままの自分の姿を見つめる勇気がなければなりません。」

「二つ目は謙虚さです。自分は勘性されたリーダーではなく、まだまだ改善の余地があるということを認める謙虚さがなければなりません。」

「そして三つ目が自己を律するというファクターになります。自分を常に改善し続けていくためには、自己規律というものが不可欠です。」

これらの三つについても、傾聴できなければできないものです。常に自分と正対し、自問自答しながらひとつひとつを改善していく精進があります。弛みない努力と怠らない実践の集積よってはじめてリーダーは自己研鑽を続けていくことができるというもの、言い換えれば話を聴ける状態を維持しているということであろうと思います。

最後に、このゴールドスミス氏はこう締めくくります。

「私は自分の身の周りにいる人を大切にしなさいと言い続けています。私たちの悪い癖が職場に出ていたら、それは間違いなく家庭でも出ているものです。職場で人の話を聴いていなければ、家でも家族の話を聴いていない。職場でよくなるということと同様に、家庭でもよくなることが重要です。企業にとって顧客が重要なのは身近な人だからです。家庭で善くなることができれば、その効果はきっと職場にも及ぶことでしょう。」

身近な人を大切にすることができる人こそが、学び続ける人なのかもしれません。知っているから分かっているからと怠慢にならず、どんなことからも誰からも学び続けていくために傾聴の実践を楽しんでいきたいと思います。

防災の本質

先週末と昨日は都内で大雪が降り、道は所々凍りまた積もっています。

そうなると都会では、すぐに気象の影響を受け交通が麻痺します。人工的に造られた都市では、人間を中心に組み立てていきますから自然というものが入る時に機能が低くなるのでしょう。

私たちは知らずしらずのうちに、麻痺していくのはこの自然から遠ざかっていく感性のことだと思います。

例えば、子どもは落雷や突風にもとても怖がるものです。他にも、地震、大雨、あらゆるものに敏感に反応していきます。これは本能が自然の畏怖を感じるからあろうと思います。しかし都会に住んで、色々な知識を持てば大体こういうものだろうという思い込みや刷り込みを持つようになります。そうすると、想定外であることは起きないと錯覚するのです。ここに危機意識が低下する罠が潜んでいるように思います。

本来、自然というのは想定外のことばかりが起こるものです。

地震や津波、火山の爆発や竜巻、洪水、寒波や熱波なども私たちが想像するのをはるかに超えたものがやってきます。歴史を見てみても、想像を絶する高さの津波や恐ろしい爆発、何年も続く寒波や熱波など常に想定外の出来事があったことが証明されています。

まさか起きないだろうでいつもいたら、今回もまた起きないだろうという感性になり竟には何も感じなくなっていくのです。交通が麻痺するのを分かっていても、たぶん大丈夫だろうとしていつまでも働こうとするのもこの感性が鈍ってきている証拠なのです。

以前、釜石の奇跡というDVDを拝見した時にも感じたのですが自然を畏れ自ら逃げた人たちが助かったという事実に、納得するものがありました。自然から離れたところがもっとも危険なところであることは東日本大震災の時に経験したからです。

本来の私たちの感性が鈍らないようにすることが防災の本質ではないかと私は思います。これは天災だけではなく人災に至るまですべてその危機意識が低下しないような訓練が必要だということです。これは自然だけに限らずありとあらゆる自らに降り注ぐ危険や危機というものは、日ごろのその危険や危機に備える感性がなくなることで災害となり発生するからです。

これは生きていく上で、生き残る上で、人間が何よりも失ってはならない感性です。

カグヤでは3月11日を「大切なことを忘れないDAY」として会社を休みにして防災学問と防災訓練の日にしています。これもまた、忘れてはならないものを子どものモデルになるようにいつまでも覚えていようとする私達の試みであり理念の実践の一つです。

人間都合でいることの怖さ、本来の自然への畏怖の価値を忘れずに常に機会を逃さずに行動していきたいと思います。今の生きる私たちが遺志を受け継いで子どもたちを守り抜いていきたいと思います。

「考えない」

知識というものの使い方には色々とあるように思います。

知識はあるときは、効果がありますがまたある時は邪魔をします。知識はもろ刃の剣であり、使い方次第で本質から外れてしまうことがあるのです。

例えば、考えても考えても答えが出ないとき、その時には「考えない」で実行するということがあります。これは考えることでは答えが出ないようなことをいつまでも考えて解決しようとしても無理だという選択をするということです。

しかしそれを分かっていてもいつまでも行動できないのは知識というものがあるから行動を邪魔していくのです。言い換えれば知識そのものが我欲を助長してしまっているのです。

知識というものは、思想であり、思想は行動ではありませんから埋められない壁があります。その埋められない壁とは経験のことであり、経験がなければ体験できませんから思想では補えないのです。つまりは考え過ぎることで、本来の本能や直観のようなものを覚っていくことがなくなっていくように思います。

本来、人間には全てのものが備わっていてその中には自然が一体になって存在しているということころに立脚するとします。すると心があり、そこには魂がありとすれば知識がなくても完全な存在ともいえます。産まれてきては、呼吸をし心臓を動かし、そして食べ物を探すように生きる方法を自覚しています。

つまりは考えなくても私たちは生きる力が備わっているということです。それを考えることによってできなくしていくのがこの思考の罠なのかもしれません。

クリシュナムルティの日記に下記のようなことが書かれています。

「あなたは、多くの知識を持ってはいるが、心は貧しい。そして心が貧しいほど、知識への欲求は大きくなる。」

これは私なりの解釈ですが、実践しない思考では心が貧しい。貧しくなればなるほどに実践をしなくなって知識ばかりを探そうとするという意味ではないかと思います。

今の時代は知識ばかりで成り立たせようとしたことで真心や思いやり、そして誰かのためにと自分を盡していくことで愛することなどをあまり大事にしなくなったようにも思います。そういう刷り込みを受けて育ってしまえば、知識が豊富だと心も豊富だと勘違いするのかもしれません。だからこそ刷り込まれた知識がそのものが邪魔をしては固定観念や先入観にいつも囚われてしまうのです。この固定観念や先入観こそが、本来の自我の目覚めを妨げていることに気づかないのです。

それを取り除くには自然を信じる「勇気」であろうと私は思います。

今は勇気が必要な時代、その勇気を大義のためや愛する人たちのためにと発揮していくことが「考えない」ということなのかもしれません。「自分の実践が誰かの勇気になる」のだからこそ、勇気を出すことを優先していくことが真の心の豊かさなのかもしれません。

「考えない」ということは、思い切った勇気、出し惜しのない真心、思いやり誠実に盡す、人を信に愛することなどを言うのです。そうして観ると考えないで実践しようとするのは人道の極みなのかもしれません。

日々に実践することを何よりも大切に取り組んでいきたいと思います。

福自省

日々の実践をするということは、日々を怠らないということです。

これは日々というものは、大切な記憶に焼き付けていくものですがその焼きつけたものが必ず子孫たちの発展につながっていると自覚するからのように思います。自分だけでもという「私」に囚われてしまったならばまさに私欲にもっていかれたとなるように思います。

二宮尊徳に、このような話が残っています。

「天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生ずるのと同じである。それゆえ、人道は私欲を制するのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とするのである。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理は永遠に変わるものではなく、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ、人道は勤めることを尊しとし、自然にまかせるのを尊ばない。人道で勤めるべきは、己に打ち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。己に打ち克つとは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨てて、わが心の米を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。『論語』に「己にうち克って礼の規則にたちかえる」とあるのはこの勤めのことである。」

つまりは、自然は日々に怠らずに流れていても、人間は私欲が出てくると怠ることになる。だからこそ「人道は一日怠れば、たちまちすたれる」という意味になる。

ここに如何に「実践」を徹底することが大切なのかということが自明しています。

人は私欲が入ってくると、その実践を自分の都合で置き換えていくものです。最初に決めた初心や何のために行うのかということを忘れて、気が付けば実践風のことを実践と呼んだりもするものです。しかし本来の実践とは、初心のままであることであり、最初に覚悟し決意したことを何度も何度も怠らず勤めていくことのようにも思います。

今のような誘惑の多い時代に、大切なものを守るというのは自然農の生き方ように真心や誠実さを優先する実践を行うことのように思います。

そして実践が独りよがりにならないためにはそれを福に転じていく精進がいるように私は思います。もちろん実践を徹底するとなれば、思い通りにいかない環境の中で上手くいかないようなことにも出会います。それをどれだけ乗り越えるかというのは、誠実にそれを受け止めたか、受け容れ改善したかということが問われるのです。

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」

二宮尊徳の生き方として、実践の大元にはこの誠実という正直があるのです。転じるというのは、簡単なことではなくどれだけ誠実さの方に舵を切ったかが常に問われます。それは思いやりのことですが、思いやりを増やしていく、思いやりをより大事に育てていくといように実践を高めていくことが真の人格的成長、つまりは天を見ては自分を正すという実践になっていくようにも思います。

日々を怠らず勤めるというのは、日々の実践を積み上げていくということでしょう。

他人のことよりも自分の実践が高まっているか、誠実であるかを常に自省していきたいと思います。

チャレンジ精神

人ははじめて何かを行う時には緊張します。それは自分がうまくできるかが分からない、経験がないからこそ考え過ぎてしまうのです。

この考え過ぎるというのは、頭ばかりが先に動いている状態のことを言います。つまりは考えるというのはどこか自然体ではなくバランスを崩した状態ということです。

新人の時というのは、ミスをたくさんするものです。なぜならミスをするのは、練習不足だからです。ミスというのは、本番で改善するところがあるということでありそれを何度も修正することではじめてミスがなくなってくるのです。

つまりはミスとは、真剣勝負を積みかさて気づけた自分にとって必要な課題ということです。新人の時はミスを沢山した方が善いというのはそれだけ課題をたくさん発見できるということだからです。よく失敗例にプライドばかり高くなって本気になれないというのは、自分を守り過ぎる恐れや不安からくるのです。これもそういう自己独善中心的な発想そのものを取り除く練習が必用だという課題に出会えるのです。

このようにミスを怖がって避けていたらいつまでも上達しなくなるのは、課題をいつまでも見つけることができないからです。ミスを誤魔化してしまうと、そのミスをまた別のミスで補うようになるだけでいつまでも改善されることがありません。見直すという字は、改めてまた観るということですからやった経験からそれを見つめて直すことではじめて上達になるのです。考え過ぎるのは練習不足、経験不足ということなのです。

そしてこの考え過ぎるという状況を脱するには、この練習をしっかり積む他に如何に緊張しないかという場数を踏み自分自身の緊張を乗り越える工夫を積まなければなりません。例えば、結果をあまり気にしないで善い仕事になるように努力するとか、いつもの自分のペースで取り組むとか、自分が自分自身を乱さないようにと留意して自分が最高のパフォーマンスを発揮できる状態を創る必要があるのです。

ほとんどのスポーツや仕事などは、最初の段階の緊張、そして実力が備わってきてからくるプレッシャーとの正対です。新人の時に沢山の経験をして失敗をたくさんすることが、将来訪れるプレッシャーを乗り越えていくための基礎になっていくように私は思います。

リーダーやエースなどは、プレッシャーに晒されていきますがその中でも楽しめたり子どものような感受性と遊び心で何でもプラスに転じていくにも、この失敗を乗り越えて強くなった経験が支えになっていくからです。

失敗を怖がってはいけません、ミスすることを恐れてはいけません。それは強くなるということ、逞しく生きていくということを学ぶことだからです。

挑戦をするというのは、失敗をするということです。子ども達のためにも失敗の中にこそ至玉の教え、研鑽錬磨の鑢があるのだと念じてさらなるチャレンジ精神のままに楽しんでいきたいと思います。