現場実践

先日、ミッションパートナーとのふり返りの中で心身についての話をしました。最近は、唯物的な社会思想の中で心というものがどれほど大事かということを忘れてしまっている若い人が多いといいます。

そもそも人間には、「考える」ということと「思う」ということがあります。考えるというのは、頭で考えるということであり、思うというのは心で思うということです。

これはまったく住んでいる世界観が異なるほどの違いがあります。

考えている世界というものは、形式知と言われるもので客観的に分析したり冷静に対応したりと起きている出来事や事物をそのままの形にして判断していくことができます。私も考えますが、それは説明するために理論化したり論理的に何かを表現するときなども用いいます。

しかし心の世界というものは、暗黙知とも言われ自他を思いやり、心を通じ合い、寄り添い共感したり、互いに感じ合ったりといったそのものの事物や出来事の背景までを感覚的に直観したりすることができます。私はいつもこれを何よりも優先にし、心が常に働いているかどうかと自分の状態に気を遣っています。

これらの考えると思うということは何よりも大切なことがらで、どちらを優先しているかで貢献していく形が異なっていくのです。まず考えるだけになったなら、どこか冷めていて何か事が起きても大変だと考えればすぐにやりたくないという考えが頭をもたげるはずです。そんな考えることを優先していたら、もし行動できても何かが起きたらすぐに避けたい楽になりたい方を選択してしまうように思います。

しかし、思うということを大事にしたなら、強い思いをもっているので情熱的に果敢に挑戦していき大変だと思っていても心が折れずに最期まで遣り遂げることができるように思います。そして日々に思い続けて思いをカタチにしていくのなら、避けたいや楽になりたいというよりも、向き合いたい、味わいたいという方を選択していけるように思うのです。

この「思い」というものの力は、誰かの役に立ちたいという願いであったり、何かの目標や志を持つことでより強くなります。

しかしこれらの目標や志であっても考えただけのものであれば、それは目標風、志風というような心で本物にしたわけではなく単に知識だけで象られたものになっている場合が多いのです。

だからこそ、常に「思う」、「思い続ける」という実践があってはじめて思いは醸成されるとも言えます。思いは、心で行うものですから辛く苦しいことばかりです。時には心が痛み、心が疼き、心が傷つき、心が張り裂けそうな思いを沢山します。

そういう思いを沢山して、その体験を通じて思いを固めて思いを決めて思いを本物にしていくことができるのです。そしてそのあと、はじめて考えてみればより思いをカタチにしていくために具体的な方法を活かしていくこともできるのでしょう。

狭い学校や知識の中で生きているのなら考えているだけでもいいのかもしれませんが、実際の社會では人々は沢山の苦しみを持ち、人々は多くの悲しみを背負って生きているのです。

そういう人たちの力になるというのは、心からの自分、「思い」を持った人になり、共に道を歩み手と手を取り合って助け合っていくことなのです。そして心から思うことに生き切る日々を積み立てて立志と言うのでしょう。

だからこそ考えてみてたとえ辛そうでも、そこで心を閉ざそうとせず我慢し、思いを引き出し思いを育てるために心を開き続けていくことを恐れてはいけません、心が傷つくことも避けてはいけません、人生は一度きりなのだからそういう苦労体験を若い時は買ってでもして、本物の努力をして成長していくことが大切なのでしょう。

知識偏重型というのは、物の世界です。ここでは共感中庸型ともいってみますが、心の世界も常に存在し同時にあることを気づいてほしいと願います。

現+実(現場実践)とはその両輪があってのものですから、「思いの醸成」になる実践をしっかりと積み重ねていきたいと思います。

立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

役割交代という尊義

先日、クルーの内省から他人事について考える機会がありました。

人は一般的には自分のことと他人のことを分けていて、これは自分と関係するものか、それとも関係しないかで自ら一線を引いているようにも思います。危機感というものもまたここから薄れていくのかもしれません。

これらの心理には何が働いているのかというのを深めてみました。

そもそも他人事というものは、相手は相手で自分は自分というようにまさか相手が自分と同じなどとは思わないというところから考えることがはじまっているように思います。逆を言えば、もしかしたらこの人は自分だったのではないか、もしくは相手は自分の代わりにしてくださったのではないかなどは考えないように思います。

例えば、動物の世界では集団という群れで生きていますがあるものは食べられ、あるものは生き残ります。名前もない世界ですが、同じ仲間、家族として生きていけば自然の法理に従って生き死にを瞬間に分かち合っているのです。その世界では、ひょっとしたら明日は我が身かもしれないという危機感の中で共に自分の出来事として共感するのです。

しかし人間は自他を分けて個人主義になり、画一化された自我の中で線引きし自分のことしか考えなくなると次第に周囲への思いやりよりも自分を守ることを優先することになっていきます。ここに矛盾が発生するのも、周囲がなければ自分が立たず、自分が立つのは周囲の御蔭であるということ、自他とは御互いにつながりお世話し合う中で存在していることを忘れるということです。

またこのようになるには、幼少期からの教育もあり、本来は自分でそういうことを考えないといけないことを考えないという弊害から発生しているようにも思います。もしも自分のことだと思えば、世界への関心というものは開けていきます。他国の戦争は他人事ではなく、もしかしたら自国のことになるかもしれません。さらに極端かもしれませんが、相手は生まれ変わったら自分が同じ境遇になるかもしれません。

それくらい御互いに体験をシェアしつつ、御互いの人生を生き切ることで互いに生き残るために助け合っているのが人間社会であるようにも思います。

社會というものを考える時、本来は自他一体、もしも相手が自分だったら、もしもお客様が自分だったら、もしも会社が自分の会社だったら、もしも自分が・・だったらと共感していくことが共生しているということになるのです。

自分の立場の責任だけを果たせばいいとか、自分はここまでやればいいとか、自分というものを線引きして自分の都合で割り切ることは実は本来の全体の中での自分という考えではなく、自分が中心で周りは自分に合わせている付属的要素のような考えになってしまうのです。

自分があるのは、先祖代々より親が子を養い、そしてまたその子が親になり子を養うように、世話をしてくださった人があって自分が今度は世話をする番になるというように役割交代をしながら自他一体共に支え合って生きているのを忘れてはいけません。その生きざまには自他一体で御互いに大切な大義のためにいのちを支え合っていきている尊い絆があるのです。

例えば死にゆくものの気持ちが分かるのがそれは死ぬときでは、あまりにも生き残った自分の役割を考えなていないのではないかとも思うのです。共感力が落ちるということは、それだけ自分自身であることの意味が喪失しているということなのかもしれません。

だからこそ他人事というものは、もっとも御縁御恩を忘れる行為として戒めなければなりません。全部のことを身近なところから自分事にして「もしも自分だったら」とそこから考えるということが、人間社會に活かされ所属させていただいているという自覚になっていくのでしょう。

この自分くらいという考えが、多くの人達の足をひっぱっていくのを忘れてはいけないと思います。もしも自分がやったことが廻り巡っていつか自分の家族や子どもたちにツケが周るとしたらと思えば、、、きっと誰もがとても他人事には思えないと思います。

その前には必ず自分に返ってきますから、全てを自分事として役割交代なのだと真摯に相手のために自他一体で全身全霊を尽くすのが礼義になるように私は思います。

私達人類皆兄弟、一家であるということがもう一度これから思い出される必要を感じます。慈悲という気持ちも、またその苦しみや悲しみから産まれてくるように思いますから真心の実践を積み深めていきたいと思います。

慈安一体の自然

先日、慈悲や慈愛について直観する機会がありました。

人は、身近にある当たり前に気づくことができるかどうかで色々な新しい教えを学びます。それができないのは、その私心や先入観が邪魔をして本来の自然であることが分からなくなるからです。

そういうひとつひとつの私心を転じて、全体の働きの中に入るという体験を通して様々な自然の有難さや勿体なさ、尊さ、偉大さに気づいていくのが教えというものに気づくということなのかもしれません。

教科書などには書いてはいない自然の経書を読み解くというのは、心が揺さぶられるような体験をどれくらいしているかによるのかもしれません。

人間は生まれながらに様々な苦しみを持っているともいえます。

その苦しみは、一人一人に異なり、その人なりの苦しみというものを持っています。それは単なる楽か苦かの苦しみではなく、心が唸るような感動、心が痛み割けるような感激を持つのです。

その一つ一つは、あまりにも自然で頭では理解できない程に自然なことなのでしょうがこの世に活きている以上は共にいのちのある存在として分かち合って存在しているのが現実なのです。

そのいのちに対して、受け容れ難いことを受け容れるのは時間があるという慈悲、それでも変わらぬ自然という慈愛、いつも私たちを真心で包んでくださる当たり前すぎて気づけないような水に帰するものなのかもしれません。

水の流れのように、時が流れ、汚れを洗い流していく様に、そこに映し出される悠久のいのちの流れを味わってみるといいのかもしれません。龍の如く生きる私たちが、その水に癒され、その水に揺さぶられ、そしてまたその唸りに一体に溶け込んでいく。

言葉にするにはここが限界ですが、慈しみ愛する心が自然と同じように私たちの中にあるということが何よりの安らぎになっているように思います。

時代は変われども、その苦しみに寄り添いそれを転じて愛する心は永遠の煌めきを放ちつづけます。その安堵に、自らの使命を果たすことに専念するという自然の活動に心から感謝の念も湧き出てきます。

子ども達のためにと生きる日々ですが、慈安一体の自然に活かされる日々を味わっていきたいと思います。

一生一省~ライフワーク~

先日、ある園長先生とのふり返りの中で生き方と働き方について話をしました。その中で、ライフかワークかではなく、ライフライフライフだということや、ライフワークそのものという話をして盛り上がりました。

私はこれらのライフもワークも分けない人、いつも遣り切っている人だとよく身近な人たちから評価されていますが、これが何かということを一度深めてみることにします。

よく世間では、仕事とプライベートという言い方で人生を分けています。働いているときと休日も分けていて、週末はぐっすり寝て休み、平日は一生懸命に仕事をするといような感じになっています。他にも、私的なものと公的なものという分け方や自分事と他人事という分け方などこれは自分の人生で、あれはみんなと合せた人生という分け方をしたりもします。

言い換えれば、自分の都合で何かを分けているという感覚で仕分けるのでしょう。

これを生き方の働き方の一致、つまりはライフワークになっているとどうなのかといえば平日も休日もまずありませんし、私的も公的もなく、自他も一体になっているし、全て丸ごと自分の人生という生きざまになっているということになります。

つまりは、ライフライフライフであり人生というものそのものに真剣になっているという状態なのでしょう。真摯に生きるということは、自分の中の分別知を持たないということによるのだろうと思います。

自分の人生の目的に対してどれだけ真摯に今を生き切るか、真理を探究するか、自らを修養するか、自学自習を研磨していくかということを実践していくのです。

実践と実験と実証を繰り返す人生においては、ライフもワークもないということでしょう。

自らが取り組んでいる人生の課題、言い換えれば目的に対してどれだけ真剣に生き切るか、全てのご縁を活かそうとする人生の姿勢がブレナイということがライフワークになっているということかもしれません。

時間というものは、あの川の瀬音に聴こえるように猛スピードで流れていくものです。二度と戻ってこない今だからこそ、少しも無駄にしたくないという心が全てを遣り切るという行動につながっているのかもしれません。

死を想い、生を活き、時を信じ、人を愛し、自然一体の道にいることが一生一省なのかもしれません。

この今もいのちの躍動を感じつつ、かんながらの道を楽しんで往きたいと思います。

縁とは心~自他に正直~

心の力というものがあります。

これは信じる力というものかもしれませんが、不安を転じて安心に換えたり、ピンチをチャンスに換えたり、有難を幸福に換えたりする力であろうと思います。

心というのは、感情に左右されずにいつも善いことであると信じているものであろうと思います。心が強い人というのは、困難があっても何か不安があってもきっと善いことであると信じることができるということです。

感情というものは、生存本能から自分の生存にとってマイナスなことを探し当ててくるものです。なのでネガティブなものを見つけては危機を察知し、そこから危険を回避するという力に転換していきます。

しかしその分、感情で考えるということはネガティブを呼び込むことになりつい良いか悪いか、正しいか間違っているかなど、両極に偏りバランスを崩してしまいます。本来は、心の強さが必用で心は丸ごと信じるということを行うことで全てを包みバランスを維持することができるのです。心が丸ごと信じられるというのは、自分が活かされているという全体の働きを自覚することであり、つながりで観る、ご縁を大切にするということで顕現するのです。

つまり感情と心でバランスを維持するというのが本質であろうと思います。

これらのバランスの維持とは、頭で考えてできるものではありません。なので常に心を優先してその後に考えるということ、言い換えれば実践を先にしてそのあと内省するという順序を大切にすることで維持できるのではないかと私は気づきました。

心は全体を見通し、感情は状況を見通します。ですから、バランスというものは自然のままに自分を活かす、正直でいるということを示しているというのが定義であろうと思います。

バランスが悪いというのは、正直ではなくなっているということ、またそれを忘れてしまっているということです。今の世の中は、頭で考えれば、否、目で見える世界を追いやすいように思います。目で見えない心の世界を学び、つながりやご縁を観る力を養っていく必要があるようにも思います。

内省を続けることは、自分の中にある直毘を養い、その真心を研鑽していく実践方法です。常に日々に流されないというのは、心を遣ってということであり、それはつながりを心を観続けているという意味、つまりはご縁が観えていますか?ということであろうと私は思います。

ご縁を大切に、心を強く、自他に正直に生きていきたいと思います。

正直評価~精活改善~

正直というものを考える時、自分に正直かどうかという基準があります。

今、使われている正直というのは外部からその人へ正直であるかといった他から自へと向けた正しいかどうかという基準で動いているように思います。しかし、そこには何らかの他から操作主義が入り込んでいます。そういう正直さというのは、他人から言われる素直さと同じようにそれは本質的には正直でもなければ素直でもないのです。

本来の正直さや素直さというのものは、自から自へが本来の姿であり、自分自身の心に嘘偽りがないか、自分自身が決めたことに対してどれだけ本気であるかどうかのときに使われるものです。そこには世間一般や大衆集団のモノサシの中の平均であることを求めるのではなく、本来の人生の目的に対してどれだけ正直に実践しているか、素直に学んでいるかということになるはずなのです。

他人の目を気にし、自分自身を偽るようになっている状態で正直というものはわかるはずもないように思います。自分を大切にするということの本意はそこにあるのです。

思い返せばこれは学校教育などでは分かりやすいのですが、学校では学校の基準でその人を推し量り、何らかの評価を存在させます。頭が良く優等生であることがいいという評価があれば、そうではない人たちはそこに向かって自分を確認していくということになるのです。そこでは学校の方針、ほとんどが受験による知識偏重型の評価が用いられています。

しかし実際はどうなっているかといえば、自分を生きていくには人生をより善く生きぬいていかなければならず、そこには自分の中で決めた自分らしい評価、つまりは自分の人生の目的をどうするかというものと正面から向き合わなければなりません。

それは言い換えれば、自分がどう生きたいのか、どう生きるのか、そういうものを自らが持ち、その大義を中心にして自らで判断していかなければならないのです。そう考えてみると、正直であるということは自分に正直であるということで誰かに対して正直であるという意味ではないのです。

この自分に正直であるというのは、その正直な自分のままに他に対しても正直でいるということになります。だからこそ正直な人は他に正直を伝えることができますし、他の正直に対して自分を正直にしていることもできるようになっています。

人生というものを共に分かち合い、自分の正義を貫く人たちが同じ土俵で語り合えるようになる幸せもまた得られるようになります。人が人として共に生きていくことの素晴らしさ、そしていのちといのちの邂逅、真心の通じ愛もまたこの自他に正直であることで実現するのです。

人生の目的というものに向き合い、自分が何のために生きるのか、どう生きるのか、そういうものと真摯に向き合い実践していく中で、日々の正義が積み重なりそこではじめて正直評価を維持していけるように思います。

子どもの正直な姿は、その子がやりたいことを実現しているときに顕現しています。そしてそれを実現するのを見守っているとき、こちらにも正直さがわかる自分があるのです。

自他に正直というのは、周りの目を気にして周りの評価に合わせようとして、本来の人生の目的を忘れずに自分を誤魔化さないということです。

そして正義には思いやりがつきものですから、正直さを大事にすることの難しさを理解することで自他をよく思いやり、真心をもって自他に尽力することが正直の定義であろうと思います。

今は周りをみたら正直者がバカを見るなどと諦めている若い人が多いそうですが、それは自分らしさが肯定できず周りからもそのように扱われてきて自他を誤魔化しているからそう見えるのでしょう。

そこを勇気をだして先人たちや実践者から、自分らしさを学び自分を変えていく努力をしてみることでたった一人、たった一度の自分の人生の価値に気づけるように思います。

私が日本人らしさに正直を書いたのは、日本人の祖神たちの足跡をには、その正直に生きた証がたくさん残っているからです

自他一体も正直も、すべてそこには一生懸命に真摯に自分を活かし、同時に他人を活かしたという互いに人生を活かし切ったその人らしさの証がのこっています。どれだけ今に精を出して全てを活かそう、自分を活かし切ろう、すべてを善いものへと転じていこうとする活動の心命魂を実感するのです。

祖先たちの求めたところを求めて精活改善を実践し、着実に歩みを進めていきたいと思います。

日本人らしさ

先日、日本人らしさについて考える機会がありました。

私たちは先祖代々からこの日本の風土に合った人格を形成してきました。瑞穂の国と言われるように、瑞々しい感性を持った人たちが切り開いてきた風土感が存在しています。

日本人らしさというのは、そういった風土の中で連綿と受け継がれた日本人であることを生きることをいうように思います。

例えばそれは、有難い、勿体ない、御蔭様、おてんとう様、見守りといった生き方を貫いてきて今があることを自覚します。

私たちはどう生きるかと考える前に、どう生きてきたか、何を理念にして生き残ってきたかを考える事のように思います。尊敬の念を抱き、何を自分が受け継いでいるかを感じ取ってみると自らの時代の責任が何かということに辿りつきます。

先祖代々が、それぞれの時代で日本人として生きてきたように、私たちも今の日本人の責任を果たしていくのは今の日本人として日本人らしく生きることに他なりません。

それはいくつかピックアップしてみると、謙虚さ、素直さ、清々しさ、純粋さ、楽観さ、勤勉さ、正義感の強さ、子どもっぽさ、そして道徳、その全ては日本人の徳性ではないかとも思います。

これは神話からも歴史からも顧みることができ、日本人が何を目指していきてきたか、どのような価値観で理想を求めたのかが分かります。

すべての項目に共通しているのは「正直」というものを本義にして生きる生き方です。
ここに元来の日本人の目指した姿、日本人らしいことの誇りがあるように私は思うのです。

道を歩み自然と調和し一体になって活きることの中に正直という美徳が顕現します。
この風土こそが私たち日本人らしさを産んだのでしょう。

かんながらの道を静かに深めつつ、祖霊たちの御恩に感謝し、日本人に相応しい生き方を求めて日々を実践していきたいと思います。

ピンチはチャンス

先日、ピンチはチャンスという言葉を改めて考えてみました。

この言葉はよく心に残る言葉として、あらゆるところで用いられピンチと思っているものをチャンスに換えてチャレンジしていくというように使われているように思います。

ネガティブな感情をポジティブに変換しようとするときや、追い詰められた状態から脱しようとするとき、実際は善いことになっているのだと考える時に用いられるように思います。

私はよく禍転じて福となすという言い方の方が好きで、よく「転じる」ということを用います。この転じるという言葉は何かというと、他のものに置き換えるということになるように思います。

例えば、ピンチというのは現状のことで発生してきます。自分の思い通りにいかないことや、大きな壁にぶち当たって動けない状況に陥っています。その時、八方塞になりピンチだと思ってしまいます。つまりはピンチとは、今までの自分では乗り越えられないような人生の障壁に出会ったということです。

こうして自分の方を変化させていくときはいつもピンチに出遭います、相手も状況も変えられずどうしようもない状態に気づいてしまい現実と向き合っていくのです。それは感情的にも精神的にも大変なことで、できない、乗り越えられない、自分には無理だという感覚が迫って来るかのようになります。

そんな時、このピンチの御蔭で自分自身と向き合えるのではないか、ひょっとしたら新しい自分に出会えるのではないか、今まで知らなかったことを知る機会になるのではないかと、その障壁を前に自分の人生と向き合うチャンスにするということです。

つまりはピンチがチャンスなのは、ピンチは今までの自分の人生や生き方、生きざまなどと向き合うチャンスだということであろうと思います。自分に正直に生きていくのが人生の目的だとしたときに、どれだけのピンチに出会ったかというのが運であり縁であり何よりも大切なことであろうと思います。

そういう時に正直に壁にぶち当たり、正直に向き合い、正直に努力する。そうすることで、丸ごと福に転じることができるように思うのです。これは言うは易しで実行は大変困難ですが、最期まで決して諦めないで正面から人生に向き合っていればそれが本気を呼び覚まし、真剣勝負の機会を呼び込み、失敗を母にして自然に発達していくように思います。

子どもが主体的に自由に無限の可能性を発揮し成長するのも思い通りいかないことを乗り越えていく中で自立していくものです。

つまりは、

「ピンチとは、日々に自分の一度きりの尊い人生に真剣に向き合う最幸のチャンスです。」

葛藤の中で、何かのせいにしたり怒っても仕方ありません。真摯に向き合うことばかりですがあの幼い子どもから生き方を学び、そのままの大人のモデルになるようにどんなものでも丸ごと活かし感謝で前進していこうと思います。

真面目の罠

刷り込みの一つに真面目さというものがあります。

どの職場であっても真面目というのは美徳とされているものです。それはサボらないという意味で使われています。特に、保育の現場ではほとんどすべての方々が真摯に子どもたちのためにと努力されていて不真面目である人を見かける方が少ないように思います。

しかしそこに一つの刷り込みの罠があることに気づきます。

それは一見すると真面目なのはいいことなのですが、真面目過ぎるのではないかと感じることが多くあります。それはサボらなければいいと勘違いし、努力する方向が間違っているのではないかと感じるときです。

例えば業務を行うことはきちんとできているのですが、大切な本質や目標に対してはどうかといえばそれはどこかに御座なりになっていてもそのままでも真面目にやろうとしているのです。

この時の真面目というのは、遣ることは真剣に遣っているのだから真面目という意味です。

しかし本来の真面目さというものは、目標や初心、理念を達成するために本気であるという意味が本質であるように思います。そのために日ごろから目標を達成するための努力を怠らないということです。

またそこには主体か受身かというモノサシも入っているのかもしれませんが自分自らで達しようとするときの真面目さと、周りの評価を気にしやらされているときの真面目さとがあり、その真面目という言葉でもその目標設定次第でその定義が異なるように思います。これは誰かに与えられた目標に真面目か、自分から決めた目標に真面目かという意味です。前者は自分の人生に不真面目になってしまうこともあるのです。

この真面目という言葉の中の、面目という意味は、1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。2 物事のありさま。(goo辞書)にはあります。しかしここに真が入ることで、本気や真剣という意味になるのです。

真剣に取り組むこととは目的に対して本気になるということであり、真の真面目さということは真剣勝負をするということです。単にサボらないように必死にやるのは実は真面目過ぎるのであり、それは不真面目になることもあるのです。

いつも真面目に行うというのは、他人の評価を気にすることではなく大切な目標や目的を達成するまで徹底的に取り組むということであろうと私は思います。

私はよく不真面目のように見られることが多いのですが、目標を達成するためのしつこさや諦めなさはシブトイと言われます。寝ても覚めても一つのことばかり考えますし、何が何でも解決することだけしか興味がありません。一見、寄り道ばかりして遊んでいるように思われるかもしれませんがそれだけ真理を探究し、他人事を自分事にし、真面目になっているように思います。

それは単に真剣にやることが問題ではなく、「必ず理想を実現するのだ」という真面目な心が働いているのかもしれません。

真面目にやっているのだからという自分への甘えが実は最大の不真面目になってしまうのかもしれません。この落とし穴に落ちればまた同じことを単に繰り返しますからもったいないように思います。ちゃんと仕事しているのだからという理由で毎日残業しても、大切な理念や目標がそれで果たして達成するのかと本質から考えてみるのも一つの方法かもしれません。

真面目不真面目という両極で考えるのではなく、「真剣かどうか本気かどうか」というモノサシで取り組んでいくことを大切にしていきたいと思います。

遊び心とは、本気であるから産まれるものです。本質を維持するために敢えて型破りも辞さないのです。周りの評価を恐れず、本質を達成することに勇敢に真摯に真面目に実践していこうと思います。