夢とは何か

人は夢を持っています。

自分がこうなりたいとかこうしたいとか、夢は膨らんでいくものです。実際の人生では、自分の思っていることよりも思っていた以上のことが起きて夢を諦めないで善かったと思うことが本来の夢そのものであるのかもしれません。

叶ってしまうような夢ならば夢ではないというのは、夢とは追い求めていくときこそが夢であり夢を持つというのは全ての今は夢の途上であると向かうことに意味を見出しているときだからです。

先日、夢についてイエローハットの鍵山氏と伊那食品工業の塚越氏の対談の著書「幸福への原点回帰」(文屋)にてとても共感し感銘を受けた文章があります。夢を追い求める人達へのエールになると実感しました。ここにはこう書かれています。

「どんな人でも、成長の過程で、何らかの夢をもつと思います。しかし、多くの場合、この夢が途中でなくなってしまうようです。これは、夢が逃げ出していったわけではありません。自分が夢から逃げ出したということです。これはとても残念なことです。夢に向かって重ねていく努力というのは、なかなか「これだ」と成果を確認することができません。簡単に成果を手にすることができるなら、おそらく多くの人が努力をし続けると思いますが、どれだけ努力を重ねても、近づいている実感がもてないものです。やがて、その努力を続けることがむなしくなり、はかないと思うようになります。そこでいやになり、もうやめてしまおうかと考えはじめてしまったら、それは自分が夢から逃げているということです。」

夢というものは、逃げないことで夢に向かうという意味なのでしょう。そしてこう続きます。

「私が会社で掃除を始めてからも、長年の間には、むなしい気持ち、はかない気持ちに襲われたことが数えきれないほどありました。一貫して希望に燃えていたわけではなかったのです。ほんとうにいやになり、やめてしまおうかと思ったこともあります。しかし、やめませんでした。「もうやめようか」という考えが湧くたびに、私は同じ結論にたどり着きました。それは、「昨日までの努力は、捨てるには惜しい努力であった」ということです。よしんば、昨日までの自分の努力が、いつ捨てても惜しくないものであれば、あっさりと投げ出したかもしれません。しかし、ここでやめてしまったら、昨日までの努力が無駄になると思ったとき、ふたたび心が奮い立ち、努力を続けることができました。」

そして鍵山氏は、若い人に「捨てるには惜しい努力、自分自身で納得できる努力をしていっていただきたいと思います」とエールを送っています。

この著書は素晴らしい名著で、今の時代の真摯に生き切ろうとする経営者の人達のバイブルになるものであろうと思います。

夢を持つというのは、向かい続けるということ、向き合い続けるということです。それでも逃げずに向き合っているならば、必ず夢は向こうから顕われてくるものだと私は思います。

信じるということは、今の自分が夢に向かっていると納得できるほどの努力をしていることだと思います。それまでやってきたことが、捨てるには惜しい努力であるか、そこに今を生きるという夢の本質があるからです。

何も手に入らなくても、この瞬間、生きている実感、感謝しかないと覚える今が夢そのものの真の価値なのかもしれません。そして人生の夢とは素晴らしい記憶に包まれている今に酔いしれて、味わい噛み締めているようなものです。この瞬間が儚いからこそ、永遠に感じるからこそ、いつまでも諦めないで続けていこうと思います。

未熟でガキで我儘なこんな自分を、耐え忍びて志に転じることで芯の強さに換えながら自らを磨き抜き、その本懐を遣り切りたいと誓います。

遣り甲斐と幸せ

自分の仕事の価値がどれだけのものかを知るということは大変な意義があります。

先日、もうコンサルに入り7年前になる園の職員取材の中で私たちと一緒に取り組んでいる実践をどう思うか尋ねるとその価値を大変高く実感していることをお聴きしました。

例えば、ブログの配信一つでもそれに自分の存在価値があるとし真摯に徹底して実践をしている姿に若いながらも将来の偉大な可能性を実感しました。何をやったかではなく、その意味やその価値を知る者こそが目標を大きく超えていくように思います。

仕事の価値を知らないということは、遣り甲斐を感じないということにもなるからです。遣り甲斐というものを辞書でひくと【やりがい(遣り甲斐)とは。意味や解説。そのことをするだけの価値と、それにともなう気持ちの張り。「―のある任務」】(goo辞書より) とあります。

つまりは自分の行っていることの本当の価値を自らが自覚しているかということに由るのです。

人は何をするにも、その価値を知って行うのと知らずに行うのは異なります。これは凄い仕事だと思って実践する人と、単なる業務の一環として取り組む人では仕事の価値が分からないのです。

この保育者も今まではそういう仕事ではなかった体験があったからこそ、新しく取り組む仕事の価値を知り、実感しているのです。いつも恵まれている人は、本当の仕事の価値を知るはずもありません。一つの実践を生み出すまでに、その裏に隠れた問題意識や危機感、哲学などがカタチにしていくのです。

遣り甲斐というものと等しく生き甲斐というものがあります。それを表現するのに、日本理化学工業の大山泰弘氏の紹介している言葉があります。

「人間の究極の幸せは、「人に愛されること」「人にほめられること」「人の役に立つこと」「人から必要とされること」の4つです。働くことによって愛以外の3つの幸せは得られるからです。」

生き甲斐とは幸せになることで、幸せとは愛されること、褒められること、必要とされること、そしてそれは誰かの役に立つと自分が実感して取り組むことだと思います。もっと自分を出し切っていきたいと、誰かのお役に立ちきっていきたいといった貢献意欲は自分の内面から開花させていくものでそれがヤル気、活き気になっていくように思います。

この程度の仕事と割り切っていく仕事ではなく、まさにその仕事の価値を自分で見出していくような仕事こそ、尊い仕事、楽しい仕事、遣り甲斐のある仕事になるように思います。仕事とは、何をするかではなく、どうあるかということに尽きるのです。

若い頃の自分の自他問を繰り返して鬱陶しがられていたことを思いました。

「この仕事は何の役にたちますか?何のためになりますか?」

当たり前に胡坐をかかないように真摯に実践を楽しみたいと思います。

 

共異共感

先日、ドイツでの視察に行った際にある保育施設でハンディを持つ人たちの立場に共感するために車いすの体験や、歩行具の体験、生活の中で自分たちと異なる人たちの気持ちに寄り添うような工夫をしているのを拝見しました。

私は、軽度発達障がいの子どもがいて当たり前という人の偏りを肯定するためのソフトを開発しましたがその際にも大前提は自分と異なる人のことを否定せずに、分からないのだから歩み寄って理解しあおうという考えに即して創りました。

人は何を持ってハンディかというと、人間がそれぞれ求める幸せを何かの柵や刷り込みで実現できないことです。本来は、どんなハンディがあっても人間は人間らしく誰しもが平等に生きる権利があるのです。それを最初から諦めてしまったら、それこそが歪んだ概念でその人のことを違うのだからと仕分けてしまうのです。

集団を優先し、経済を優先し、世間一般の数の論理で管理していく社会を優先していけば、そうではない人たちはとても大きな障壁ばかりを乗り越えながら歩まなければなりません。強いものが弱いものを思いやる、そして弱いものがあるから強いものが優しくなれるような社会にしていくことが本来の福祉の醍醐味ではないかとも思います。

人は共感して、自分と異なる存在であると理解するときはじめて違いを超えた存在に思いやりが持てるようになると思います。自分と同じだということを思い込んでしまえばいつまでも自分に合わせようとさせるばかりで共感することが難しいからです。

あのアインシュタインに、「誰もが天才なのに、魚を木登りで評価したら、魚はバカだと思い込んで一生を過ごすことになる。」という名言も残っていますがこれもそれぞれがそれぞれに持ち味がありそれを活かすことができれば天才だということです。

違いと異なるでは意味が変わります。

違いは自分との違いや何か基準を設けた違いだけを評価するのに対して、異なるというのはそのものを全肯定全受容しそのものの価値を丸ごと評価しているのです。

異なることは善いことで、異なりがあるというのはそれだけ多様な人たちの役割が必要になりみんなが幸せに活きられるチャンスを得られるとうことだからです。均一で画一な集団では、自分の役割まで競わなくてはなりませんし蹴落とさなくてはなりません。しかし互いに思いやれる優しい集団をめざせばハンディというのは周りを幸せにするように思います。

今のような時代、風穴をあけるのはこのハンディへの共異共感かもしれません。
常に人間として大切なものを見失わないように、新たな実践をはじめたいと思います。

器

器というものがあります。どれだけ何を容れるか、それは器にもよるものです。器と言えば、料理の御椀から植物の鉢、その他、人間の器などというところまで様々です。

特に人間の器というものは、いくらでも変化させることができその器の価値は何を容れて何を与えるかによるもののように思います。例えば、自分のことしか考えられない我儘なときほど器の小ささを実感してしまうものです。自分の執らわれている何かがいつまでも手放せず、頑なにそれを固持すると器が小さくなっていく感覚を得ます。

自分のことしか容れない器など、取るに足らないものでそんなものでは自分以外の世間のものを容れる余裕もありません。本来の余裕とは、自分の器をどのように使っているかというものかもしれません。

またその器の中のものから空っぽにしていかないと次のものは入りません。

自分の器を何かに役立てるなら器のものを誰かのためにいつも使ってもらわなくはなりません。それは自分の方から言えば誰かに与えていかなければなりません。与えるということは、自分のもっているものをどれだけ誰かのために役立てているか。

それは智慧でもよければ笑顔でもいい、心の配慮でもよければ、思いやりのある言葉でもいい、誰かのために「与える」ということをしていけば器が私器ではなく公器になっていくのです。

また逆に自分の器ではないと頑なに選び、そして偏れば器は自分の思いで一杯になり、何かをしてもらおうとばかり考えたり、なぜ自分だけこんな目にと思ったり、ここまでやっているのにといった与えるよりも「奪う」発想になってしまうのです。この与えるとは反対にある奪うというものは、自分の器に容れるものを自分で決めてしまっているときです。

何でも善い、自分にできることがあるのならば与えられるものがあるのならば使ってくださいと言う謙虚な心には偉大な器が存在します。しかし自分の器はこれしか入らないとか、自分にはこれが向いていないとか自分が活かせないのは何かのせいとか言い訳をするならば、そこに傲慢な心が発生し器が壊れてしまうように思います。

器というもの、寛容力というものは何とかしようという意固地になるのではなく与えようと思う真心からできあがるものが美しく清々しいものかもしれません。器は大きいとか小さいとかではなく、どれだけ器としてのお役目を果たそうとしているか。世の中や誰かのために自分の器を使ってくださいと言う謙虚な気持ちで自分を使えるかに懸かっているようにも思うのです。

器を常に清浄にしていくことは、与えるものを清らかにし、容れるものも清らかであることがいいように思います。それは言い換えれば様々な御恩に感謝し、自分の体験した全てのことを誰かの御役に立てて貢献するという実践のように思います。

どんなに自分の心、身体、精神が病んで苦しくても、体験を通していつの日かこの経験が誰かの御役に立つと信じる事で報われる日が来ると器に感謝していくことかもしれません。他人の気持ちが分かる優しい人というものは、深く相手に共感をして全てを丸ごと受け止めることができる人のように思います。

そういう人を、人は器の大きな人と呼ぶのでしょう。

一見、地味で目立たない器ですがその器があるから生きものたちが活動できるということを忘れないでいようと思います。

自然の法理 ~生長の本質 じっと待つ~

植物や木々、身近な小さな虫たちから驚き、学ぶことが沢山あります。なぜだろうと観察を続けていると、いつまでも学ぶことがあります。子ども心はいつも不思議さと好奇な学びを自分に与えてくれます。

大人になると知識で分かった気になり頭でっかちになって何でも知っている人が増えていますが、本当は頭でっかちというのは日々を新しくしていくよりも過去のことを組み合わせてやりくりしやり過ごすことになるのかもしれません。昔どうであったかよりも、勇気を出して今、どうであるかの方が人生は豊かで楽しく感動で変化を味わい過ごしていけるように思います。

例えば、植物たちは時機というものに適応していつまでも準備しています。このいつまでも準備というものは、一見、あまり動きがなく、何もしていないように見えますがその実、如何なる時も着実に力を蓄えてそのタイミングを待つのです。

庭のベランダの植物や野菜たちも、誰が教えなくてもそのタイミングを知っていてじっと養分を蓄え今という時に合せて自然に伸びていきます。それは実をつけるときも、種になるときもじっと待ち続けていることは共通しています。

そしてこのじっと待つというのは何もしていないわけではありません。
一瞬一瞬の今を全身全霊で代謝しているのです。

人間は止まっているときは休んでいると思ってしまう刷り込みを持っていますが、植物には止まっていることなどはありません。常に止まっていると思っている冬枯れの時でも、根しか残っておらず土の中にいるときでも、そして種となって春を待つときでも、命懸けで生きて、捨て身の覚悟でいのちを放ち、そして全身全霊全て出し切って日々を新たに今を生き切るのです。

人間は強欲ですからじっとするということが分からなくなったのかもしれません。植物たちのようにあるがままでいれば何もしていないように外から見えたとしても、その実、どれだけ真剣に今を生き切るかということでそれは時機を待つという考えもあるように思います。

人生を自然で捉えるならば、種から芽が出て、花が咲き、実をつけ、そして他の養分になりまた次世代の種になる。その生きるプロセスそのものにいのちの循環を怠るという意味が分からないほどにどの瞬間もじっと行い尽くし精一杯遂げるのです。

どんな花をつけようとするかを想うことも大事なことですが、今がどれだけ全身全霊でいるのかということが自然なのでしょう。自分がどんな種で生まれてきたのか、それはいのちが知っているのだから天に委ねて真摯に生き切ることで自分がどのような花になり実をつけるかもどうせ次第に明らかになってきます。育てる楽しみもまたそこにあり、自分もどんな花が咲くのか、そして実になるのかをワクワクドキドキしながら今を遣り切っていくのが自分らしく生きることでしょう。

誰かの花を求めたって誰かの実のようになりたいと思っていたって、それはそうなるわけではないのです。松の木は梅の木にはなれないように、自分の持って生まれた天命はどのようなものであるのかは今を生き切る先に存在しているからです。論語の五十にして天命を知るとあるようなものも植物の一生と照らして考えれば自明の理が存在します。

つまりじっと根気を据えて今を全身全霊で遣り切るというのは、どの瞬間を切り取っても全身全霊であることを自分が自分で尽くしている状態です。言い換えれば、「日々を新たに自己を改善し、今までの刷り込みを取り払うために実践をし、誠実に真心を籠めて周囲に尽くし、感謝で自分を生き切る」ようなものがじっと待つです。

いつも感動するのは植物たちは、それを自然にできています。

一見、変わらないと思ってしまうのは何か焦ってしまう気持ちがあり種なのに種の時に種をせず、早く早くと花を求めてしまう刷り込みが自分の中に存在するからかもしれません。自分を含めた誰かの評価が気になるのは、こうなってほしいといった欲望に自分の志や芯が揺らいだからかもしれません。

じっと待つ植物たちの生きる姿勢に、自分自身が恥ずかしい思いがします。早くそのものをそうしようと思う自分の焦りは、無理を通すばかりで子どもたちに不安を与えて生長を抑制してしまうように思います。どんな時でも子どもを見守る真心に曇りを持ちたくないと改めて自分を厳しく戒めたいと思います。

生長していくことの本質は、時機に備えて素直に謙虚であることなのは自然が教えてくださいます。植物たちとともに、同じ太陽の下、素直に明るく清々しく今を大切に日々を新たに生きていきたいと思います。

 

清々しく弘める

先日、ある取引先の先生から貧者の一灯のお話を拝聴してきました。富者の万灯よりも貧者の一灯という仏陀の話ですが、真心を籠めた一灯は大変尊いというお話でした。

もともと数が問題ではなく、一つ一つの行為に誠の心を籠めたものであったかという例えです。この話は、よく富者か貧者かというところをフォーカスされて使われたりしますが、そもそもその考え方自体が刷り込みによるものです。

他にも、清貧といって物質的なものよりもそれ以上の価値で簡素に生きていくという言葉もありますがこれも富むか貧しいかというところが比較されて使われるのも同じです。

そもそも貧者の一灯の場合は、富むか貧しいかが問題ではなく「真心」かどうかを語っていますし、後者の清貧か富豪かではなく「清らか」であるかを語るのです。

何でもそうですが、今の時代は競争か共生かとか、画一か個々かとか、何でも比較して語られますが本来のそれは言葉を脳で仕分けただけでそこに確かな心の生き方がどうかが語られなければ本質的な話ではないのです。

本来、私は競争は悪いとも思っていませんし比較も悪いとも思っていません。他にも画一が悪いとか、大人目線が悪いとか、贅沢が悪いとか、その反対に玄米食しかダメとか、お酒も醸造アルコールはダメとか色々とダメなことばかりを言うのでもありません。

そこにこだわりがあるのは、あり方の方で、私はそこに清らかであるか、真心かといったものがないのはどうかと思っているのです。

例えば、競争も清らかに真心を籠めればその競争はとても美しいものになります。お互いを高め合い認め合い、尊敬しあい、思いやりに満ちた素晴らしい体験になるでしょう。他にも比較も、互いの長所を褒め、互いの美点を尊び、その比較が全て善転するようにするならばそれもまた存在に感謝しあうでしょう。大人目線といっても、真に思いやりのある大人として目線を確かめたなら真実に触れ人は自律し磨き合い高め合うでしょう。

このように本来の心の定めた在り方次第で、いくらでも物事は本質のままであるのです。

人が本質から外れるのは、そういう在り方よりも表面上の脳で裁いた右か左かという発想が本質を歪めてしまうように私は思います。

今の時代は、物が溢れたからこそ物を否定せず、物をもっと大切に感謝して豊かさを清々しくしていく必要があるように私には思えます。それはまるで清貧思想でも清富思想でもなく、清く豊かな思想です。

これは感謝の時代、それだけ感謝をたくさん豊かにしていく時代のように思えるのです。貧しい時代が善かったとか、今は物が溢れすぎて心が貧しいとか色々と言われますが、もっと有難うということを豊かに感じる感性を磨けばいいようにも思います。

どうしても恵まれすぎると、色々なことが目に入らなくなり与えられている幸せを直視できないで感謝を忘れてしまうことがあります。特に豊かである人ほど感謝を亡くすのです。しかしそんな時は、恵まれすぎたものをどれだけ自分が多くの人へと還元するか、精進してそれをもっと豊かで幸せな社会のために真心で全てを活かそうかといった感謝の発掘発展と心のおもてなしに使えばいいように思います。

思いやりや真心、そして清らかである方を選ぶ生き方そのものが貧富の差なども取り払ってしまいます。大切な生き方が観える生き方かどうかは、生き方を実践しているかどうかで決まります。自分の生き方がそうだから、他人の生き方が観えるということは、自分も同じ生き方をしようと決めた人にだけ与えられる世界があるのかもしれません。

環境がどうであれ、日々の「生き方の実践」を怠らないのであれば人の住む世界はいくらでもその人の生き方次第で観え方が変化してしまうのです。そしてそれが道そのものとしてひらかれていくのでしょう。

今のような時代を全て受け容れ、清豊主義で与えられたものを最大限伸ばして真心を籠めて感謝でき、それを分け与え清々しく弘めるような生き方をこのまま優先していきたいと思います。

道心を弘めるのも私の使命ですから、脚を止めずにこのまま歩んで往こうと思います。

勇気

人は何かをしたことを満足したくなるものです。

例えば、これをやったのだから凄いとか、これをしていないからダメだとか、結果だけをみて判断してしまうものです。しかし本来、物事というものはそこに世間からの評価や評判などの基準で良いか悪いかを判断しているのは、自分がそう思われたいから求めることが多いのです。

世間の評判を気にして何かをすることは自我が求めているだけで、本来の自分の魂が望むものではありません。

自分の魂が望むものとは、全てにおいて日々にどうありたいかということでありそれは自分の生き方を換えることによって得られるように思うからです。しかしこれも大変難しいことで、生き方を換えるには勇気が必要になります。その勇気は、今までの自分の思考のパターンを変換して同じ状況を転じて福にして善いことへとしていく実行力が必要だからです。

同じことが起きるのが人生で、マンネリ化してしまうのも人生ですが、同じパターンをやめたいと強く念じるならば今までとは異なる乗り越え方をしていく必要があるのです。それはまるで、自分の内面の扉を開けて道をひらいていくような感覚なのです。

これを言い換えれば「受け容れる勇気」というものかもしれません。そもそも勇気の本質とは、どれだけのことを逃げずに真っ直ぐに受け容れるか、つまりは自分が与えられたものを受け止め心から信じるかということですが、そこに疑いがあることは受け容れたことではありません。

どんな環境や境遇であっても、今与えられたものには何か大切なことが潜んでいるということ、それを真摯に学ぼうとすることができてはじめてそこに感謝も真の歓びも幸せも楽しみもあるように思います。

自分の思い通りにいかないことは楽しくないものです。それは脳が楽しくないと思っているからです。それを邪魔するのは自分の身がかわいいからです。しかし心は生き方ですから、それとは反して覚悟を決めて今を遣り切っていくと一瞬一瞬が幸せであるように感じられるものです。そしてここに転じるのも勇気の一歩が必要なのです。

楽よりも楽しい方を選ぼうとするとき、そこに勇気がいるのです。何が起きるから分からないけれどそれも全て天に委ねようとする勇気、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という捨て身の覚悟というものが求められるのです。

この捨て身の覚悟が私の思う覚悟力の本質で、その時こそ人は勇気をもって変われるのかもしれません。どれだけかわいい自分自身を捨てられるか、そうすることで身がから離れ本来の魂といった生き方や死に方が心に顕われるように思います。これは身近な人の闘病を見守りながら、何を捨てて何が捨てられなかったのかを見つめることができたことで気づくことができました。

本来の死生観とは、そういう身をどこか他のところに置いてでもという境地が必要なのかもしれません。ただ、それも極端な観念論ですから、日々の取り組みは真心をどれだけ籠めて遣い切ったかでもいいように思います。

自分のことを思い煩うよりも、人のために自分の真心を今日も遣い切るという方が私にはどうも合っているように思います。他人のためになる仕事、つまり自分を役立てるというのは、もっとも身近な家族を大切にしていくことからもすぐにできることだからです。理念を真心で遣り切ることも偉大な勇気の一端であろうと私には思えます。

最後にマザーテレサの言葉に励まされます。

「どんなに小さいことであっても、大いなる愛を込めて行うことは、人に喜びを与えます。そして、人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるのか、それが重要なのです。」

どれほどの愛を注ぎ込むか、そこに生き方を教えてくださっているように思います。
今日も楽しく豊かになる一日を与えてくださって本当に有難うございます。

魂のうずき

色々なことが分からなくなると、師から教わった言葉などを整理してその意味をもう一度深め直します。師弟の学びの豊かさというものは、先覚者たちの学んだものを共に学んでいこうとする師弟一体のところで生きるときに感じるからです。

自問自答していくというのは、自明していくのを待つということですがこれは師から学んだもので成熟するということは魂が求めたものが研ぎ澄まされるということだということです。つまり自明というものは来たものをじっくりと待ち、取捨選択していく力ということです。

何が必要で何か不必要か、その優先順位は来たものを待たなければなりません。焦り驕り高ぶることは魂のうずきではなく、それは単に自分を信じられないだけで本来魂をやっているということであるならば自分を信じて来たものは全て今の自分に必要なことだと謙虚に素直でいることが成熟していく魂を育てていくことであろうとも思います。

この「待つ」というのは今を生き、今を信じるということとイコールですが、大変難しいことです。人はつい過去の栄光に縋ったり、未来の希望に託そうとします。しかし本来、魂を磨こうと心が定めた決心があれば後はそれが必ず天が環境を用意してくださっているのだからそれを素直に受け容れ選ばずに全部を意味があると受け取り、それを真摯に学んでいけば夢は必ず実現するとも言えるのです。

特に大きな夢であれば一代だけでは叶わずとも、必ず世代を超えてその夢は受け継がれていくようにも思うのです。

魂がうずくというものも自明ありきであり、これは来たものを観てそして今に全身全霊で実践するとき、「ああ、これは二度とない自分にとって掛け替えのない大変尊い体験をさせてもらっている」と心から感謝に昇華したときうずきは修まるのです。言い換えれば、その連続で魂の目標というものは次第に明らかになってくるものです。

人が一般的にうずいているという感覚のものは、実は古傷が痛むということかもしれません。人は誰しも過去に色々な古傷があり、それは癒えないのですから信じることを阻害する要因と常に向き合っているものです。その時は、生き方を変えよという本当の意味での魂のうずきを蔭で戴いていることに気づかないだけかもしれません。

これは今までの生き方のままでは夢は難しい、だからこそ刷り込みを取り除き新しい自分とし生まれ変わるような生き方をせよと言われているのかもしれません。それは例えば、私ならもっと多くの感謝をして生きなさい、謙虚に自分の間違いを正していきなさいとずっと魂からの声が入っているように思います。

魂のうずきとは、その実、この「転じるうずき」のことで矛盾のうずきですがそれが成長そのもののノックが入るうずきです。そして魂の成長、つまりは魂が成熟するのをじっくり待てるのは魂の矛盾を抱え込む真の胆力が、つまりは今を生き切る必要があるかもしれません。

今できることの最大限を実践していくことで、次第に顕われる今を大切に味わっていきたいと思います。魂は心と体とのバランスの穏やかな時にヒラメキもまた訪れます。

ノックが入る時は発想の転換のチャンス、堅苦しく真面目に考え過ぎず傾き、遊び心で楽しみたいと思います。

実体験の価値

人が生きていくのに実体験というものが生き甲斐や遣り甲斐を生み出していくものです。その実体験とは何かといえば、自分でやっているという実感のことです。

これは自分で決めたことを自分で遣り抜く時、もしくは自分の人生を信じて今、与えられている環境に感謝するときに実感できるように思います。不平不満を言っては、遣らない理由を探すのは言い訳で、言い訳をするとまた実体験から遠ざかってしまうのです。

実体験とは、酸いも甘いも全てを味わおうとする境地で、自分が心で定めた志を頼りに後は眼前の今に全身全霊で特化していくというものです。それは例えるなら、世界の問題を自分の中に容れながらも粛々と目の前のことから学んでいくのに似ています。

禍福一円ではないですが、今、学んでいることは将来どこかでその能力が必要になるのです。ないものねだりをする前に、自分に何の力を欠けているかを教えてくださっているのが今という見方が素直で謙虚な姿勢です。

また自分の欠点を知ることは、自分の美点を知る事でもあり、人は同時に両面を受け容れなければ本当の自分を世の中へ役立てていく方法へ辿りつきません。

そして欠点だからそのままでいいかというとそうではなく、欠点もまた美点になるように精進していく必要があると思うのです。それはバランスのことで、美点は欠点があるから引き立たされるものだし、欠点は美点をさらに引き出していくからです。

例えば、何かができなくて大変だからこそそれをできる人の美点を見つけることができる。そしてその美点を活かしつつ自分の美点で協力していくこともできる。欠点は補い合い、美点は尊ぶということが、自他を活かすことのようにも思うのです。

人はどこか自分に似ているところがあるから惹きあうともいえます。しかし同時に似ていないところがあるから求めあうこともできるのです。

だからこそ欠点もまた美点になるように、互いを尊重し認めていくのは視野を広げ、遠い先のことを慮り、いつの日か必ず力をつけてお役に立とうと今を遣り切っていくのが自分を活かすということかもしれません。

目標も夢も、本当に遣りたいことは実は日々の体験の中で得られるようにできているのが人生です。生きること、生きていることそのものが夢の中にいるからです。そして分かるように言い換えるならそれは大前提として、「現実の中にこそ真理がある」と信じている事です。

最後に森信三先生の言葉です。

「いったん決心したことは、必ずやりぬく人間になることです」

やりぬく人間になること、これがイコールで実体験する人生であるということかもしれません。
人間は頭で生きるのではなく、全身全霊で生きるもの。人間ですから弱る時もあるかもしれません、しかしだからなんだというのもあります。

志とは実はそういう時にこそ、盤石に発育していくからです。

実体験を尊び、試行錯誤しながらも前へ前へとその舵をきっていこうと思います。

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。