性格学

せっかちという意味を調べてみる。

すると語源由来に、「急ぎ勝ち」というところから来ている。急くという字と、勝ちという言葉の組み合わせで、どちらかというと急ぐ方が多いという意味になる。似た言葉に、気早、おっちょこちょい、生き急ぐ、先走る、性急などがある。

対義語は、のんきといい、当て字に暢気や呑気を使いますが本来は中国の暖気から来ているようで性格がのんびりしていて、無頓着、気楽で気が長いなどという意味になります。

もともとせっかちな性格というのは、言い換えれば行動力があり思い立ったらすぐに実行せずにおられない性分だということです。またのんびりというのは、事がなるまでじっくりと待ち冷静に楽観的に信じるという性分だともいうことです。

それぞれが善く出ているときは長所であり、それが状況に反して悪く出ているときを欠点だと呼ばれるものです。どうしても自分の時に合わせようと相手に求めてしまいますが、御互いが御互いを認め合うとき、その両方がはじめて活かされて調和していくように思います。

また一人の人間としてもその両方を状況にあわせて生涯にかけて活かしていく必要があります。そういうものも周りから学び、自分の性格を活かしていくことができるからです。しかしそんなに簡単器用にはいかないもので、だからこそ多様な人たちの中で一生をかけてその両方を得ていくようにも思うのです。

例えば、せっかちの人は歳とともに、次第に落ち着いていくものです。これはせっかちの善し悪しを学び、どの状況の時にどうあればいいかを気づき身についてくるからです。そしてのんびりの人は同じく歳とともに、どのときは直観に従い行動すべきか、危機感をどう持てばいいかというのを学び身についてくるのです。

そう考えてみると、人は一人ではなく大勢の中で様々な性格の人が集まっていることがもっとも現在に対応し対処できるように思います。自分だけの判断では、そのような自分の性格がぴったりと当てはまる事柄と、そうではない事柄の時があるからです。

もちろん、人間として完全になっていくのに色々な性格が次第に陶冶されて円みを帯びていくことに人間の学びの意味があるように思います。

同時に、自分以外の性格の人達いてその人たちの御蔭で物事が正しく乗り越えていけるという実感と歓び、そして多様であることへの共生や貢献、感謝などを学ぶこともまた大きな意義があるのです。

自分がどのような性格かを知ること、同時に周りの性格がどうかを知ることは、御互いの持ち味を活かすためにとても大切なように思います。そのままでいいけれど、こうありたいよねと本音で言い合えることもまた仲間も定義であろうと思います。

色々と自分もせっかちな性格を直そうと苦心してきましたが、どうせどうにもならないことに当たれば道草を楽しもうという境地にいくしかなく、やはり天はうまく調整してくださっていると思います。

諦めるところから、認めることから、自他の性を、人間を深く学んでいきたいと思います。

自然の叡智

今年は自然農の畑を改善して、新しい工夫を凝らしています。

最初から大した知識もなく、直観をベースに取り組んでいると御蔭で色々なことが観えてきます。自然というものの偉大さというものは、誰かから教え込まれた知識ではなく、もともと最初から備わっていた知識で理解するときにこそ認識できるものだからです。

教えてもらわなければできないのではなく、自分からやってみようと信じてみなければできることもできないのです。

自然とは、誰が教えなくてもそこに生きる智慧を享受されています。

植物たちが自ら伸びる時機を知っているように、親鳥が雛を孵し育て始めるように、誰が教えていなくてもそのものはそのものの命に従って一番大切なことを忘れることはできません。

後の知識でいくら刷り込んだにせよ、そのものの本性や本命というものは無自覚無意識に誰にも拒むことはできないのです。

自然というものを観察するに、人の中の自然というものがどういうものであるかの認識が必要です。

春の種蒔きの重要性を実感し、そこで種蒔きが成功しなければ秋には物乞いをするようなことになりかねません。人生というものも、如何に種を蒔くサイクルにあわせて行動するかということが問われるのです。

自然には全てに時機というものがあります。

その時機時期を逃さずに怠惰や安逸を戒め、如何に自律するかというのはそのものがそのものの時機通りに働いたという生きた証に他なりません。

自然というものは、そこに怠け心はなく全ての愛情を注ぎこむ自然界に倣い、その愛情に真摯に応えていこうとする愛の循環があるのです。

見守るの見るというのを学ぶに、この自然農はとても大きな役割を果たせるように思います。何もしないのではなく見るという偉大な行為。そしてそのもののもともと備わっているものを信じるという守るという偉大な行為。

自然から学ぶことは教科書から学ぶことよりも偉大な生命の叡智を思い出させてくれるものです。

飽きたらず、観察し、そして怠らず、実践し、教えないものを覚りたいと思います。

生死の行方

人は生き方が選べるように死に方も選べるように思います。

例え人生が今までどのような習慣を持ち生きてきたといっても、最期の瞬間に自分の求めた真の生き方に気づけたなら死に方もまたその瞬間に変わるように思います。自分がどのように死ぬのか、それを正面から向き合えば今、自分がどのように生きるのかが問われます。

これは今の自分の生き方そのものが死に方そのものになるからです。

生き方とは、簡単に言えば今この瞬間にもどのような選択をしたかの集積です。人は日々に大小さまざまな選択をして生きています。

人によっては、思いやりや優しさ、善や真心で幸せの種を蒔いていくような生き方を選ぶ人もいますし、また逆に利己的で自分のことばかりを優先し、奪うことや独占することばかりで不幸の種を蒔いていく生き方を選ぶ人もいます。

人はそれも自分で自由に選択することができ、どんな境遇であっても誰かの御役に立ちたいと願ったり、幸せを噛み締めてその幸せを周りへと広げたいという人になりたいと思うのです。

しかし世の中を直視してみれば如何に思い込むことで生きてしまっている人があまりにも多いのではないかと思うのです。人生が寂しいものになり、孤独になるのもその思い込みから抜け出せずに自分の自我に引き籠ってしまうからのように思うのです。これは自分で思う以前の問題で、そうならざるを得ないような生き方を選択した過去が存在しているのです。

人の思い込みというものは、過去に何かの出来事がありそのことの不幸を転じることができずに引き籠ったことで発生したままその記憶から抜け出せなくなることに似ています。そうして抜け出せないだけではなく、いつまでも同じことの繰り返しをしそれが次第に生き方に反映されてしまうのです。

過去の出来事がいつまでも尾を引くことで、その思い込みから抜け出すことができないのです。

思い込みはいつまでも自分の外側の世界に心を開かず本来の人間の美しい姿や愛情、自然の真心などが歪んで観えません。

本来、この世界はとても豊かで美しく、感謝と愛と真心、偉大な思いやりの中で私たちを活かしてくれていてそこに気づくことで心を幸せにし、その心の余裕こそが人々の中の平和を生み出していくように思うのです。

それを奪うのは全てにおいて過去の思い込みといった刷り込みによるものです。

これを取り除くには、覚悟が必要でその覚悟とは今の心が決めたということがいります。つまりは過去の自分と決別し、新たに今に約束した新たな自分の生き方を徹底して習慣にまで昇華させて未来を変えるのです。

人は小さなことでも、心で決めたことを遣り抜けばそのうち世界が自分が引き籠ったものから解放されていくのです。それもまたご縁と道との出会いが必用でまるで「啐啄同時」のように生死の境目にある絶妙なタイミングがあるのです。

この「啐啄同時」は禅語ですが、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。

両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、いのちを分ける大事で危険な一瞬だからこそ啐啄は同時でなくてはならないのです。

この人が変わるという瞬間、その生死の行方の境目というものは、運命の大きな掌の中にあるように思います。

コンサルティングをしていると、いつもこの機縁は透徹された絆を結び、仁義の通じ合った絶妙たる絶体絶命の時にこそ訪れることが多いからです。人の生き方や死に方というものを左右する、刷り込みの消去はひょっとすると生死の間にこそあるのかもしれません。

変わりたいという心の叫びが助けを求めているのかもしれません。

刷り込みを取ろうなどと、また世界を変えたいと真摯に願うのはひょっとすると狂人のような世界かもしれません。先日の死から再び学んだものは、生き方を変えたいと願う人たちの救いを求める心の叫びと許しの中にある愛の囁きでした。

生きていれば色々と向き合いたくない過去の自分も、今も変われない自分とも出会うものです。しかし未来を変えたいと願うなら、勇気を出して挑戦し、最期まで希望を失わないで遣り切ることができれば後は全てを天に委ねる。

それが生死の行方を決めるのです。

これからどうするか、、もう一段、自分は変化成長しなければなりません。
今は何を学ぶべきか、その道筋が少しだけ観えてきた気がするのです。

生死の行方は、私にも訪れています。

自然治癒の本質

自然治癒について深めてみる機会がありました。

もともと自然治癒というものは、自分の中から治っていくという感覚で病気が平癒していくことを言います。これは、薬が身体を治すのではなく身体が自分を治すことを薬が支援するというようにもともとは自分の身体の方からの免疫によって自助し回復するということです。

一般的には、身体が苦しい時や辛い時は、頭で考えると治っているようには感じないものです。なので苦しい時や辛い時は、外発的に治療しようと薬や対処療法を試したくなるものです。

しかし本来の自然治癒が働くときは、実際は苦しい時や辛い時、痛い時、シンドイ時にこそ働いていると実感するのです。これは、内発的に自分の内部から外部へと排出しようとしたり自分の力を使って怪我や病に打ち克とうとしている証でもあるからです。

つまりは感情というものは起きている出来事に対して働くのに対し、心身は自然に合わせて働いているということです。これは、心臓や脈、呼吸、体温など自然に身体を順応していくのに対して、感情はその出来事からその身体を順応させているのです。

言い換えれば、身体をコントロールする機関に情と心がありそれが交互に交代しながらバランスを取り一つの生身の身体を操作しているともいうのです。不思議な事実ですが、この調和と不調和とはこの情と心との協働により左右されているのです。

そして自然治癒とは、本来、心身の大調和によって成り立っているものです。

この心身の大調和とは、情と心が互いに協力して自然の場所を観出しその場所に止まることで平癒安心の境地に辿りつくことのように思います。これは例えれば、身体が求める治癒に対して感情もそこに合わせてあげること。そして感情が求める治癒に対して身体もそこに合わせてあげることに似ています。

統合医療の本質とは、きっと以上のようなもので情と心の協働をどのように融和していくかにその技術の鍵があるように思います。

苦しいから楽を選ぶのではなく、苦しいからこそ楽しい方を選んでいく生き方。辛く悲しいからこそ無難を選ぶのではなく、辛く悲しいからこそ有難を選んで感謝すること。こういうひとつひとつの出来事に対して内外の学びがあり、その学びを自分の体験に昇華することで人は成長という掛け替えのないものを得ているのです。

転じるということは、この大調和に換えたということに他なりません。
そしてこれが自然治癒の本質です。

外側と内側のバランスを保つために、常に人間は大調和のために努力精進していかなければなりません。それが生きる死ぬを知る者、つまりは大往生する人間の業だからです。

出来事に感謝、病気に感謝、偏りに感謝できるよう、バランスが崩れているところの声を聴き、受け容れ治癒に換えて学問がある歓びに大感謝していきたいと思います。

優先内省

久しぶりに体調を崩しながら健康の有難さを実感しています。

色々なことが同時に重なると、一つ一つの判断基準が微妙にズレていくものです。具体的には同時に全部をやろうと欲張るとその分無理が生じてきます。身体の緊張もそうですが、無駄な力が入ってしまうとその分疲労も蓄積します。

力の抜き加減や緊張を融和するような自分の状況や状態をどれだけ冷静に観察するかは、自我との折り合いにもよるものだろうと思います。それだけバランスを保つというのは、自分の内面と外面の調和を意識している自分を持っていないと難しいと思うのです。

東洋医学に内因と外因というものがあります。

内因とはその人の持つ体質のことで東洋医学では主に精神面を重視しています。「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」これを七情と呼んで感情が体に影響を与えると考えています。七情はそれぞれ特定の臓器と関連しています。喜は心、怒は肝、憂は肺、思は脾、悲は肺、恐・驚は腎となります。

外因とは体の外から侵入してくるもののことです。主に気候の変化によるもので「風・寒・暑・湿・燥・火」に分類して、これを「六淫」、「六邪」、「外邪」と呼んでいます。その他には、不内外因といい暴飲暴食や疲労、外傷などによります。

これは全体を観察するときの原因を突き止めるために行う東洋の智慧ですが、確かに心身と感情、気候も出来事もすべては元々複合的に絡み合っているのが日常であるからです。何もない今などもなく、常に万物変化し已まないのだから体調もまた刻々と全体にあわせて管理しているともいえるのです。

このように今を観て全体の調和を考えず、一方だけの考え方に偏れば傲慢になり、その分の無理が生じれば、その歪としてその無理の原因としての結果が訪れます。

これは身体だけのことではありません。自分の考えだけに固執し、それぞれの人達が話すそれぞれの考えもまた同時に正しいと思う時、全体の調和がとれ、優先するものが確信してきます。しかし意固地になり、謙虚さを失い、自分だけが正しいと思い込めば周りの人たちの話を聴かなくなり優先順位も定めることができなくなるのです。

何を優先することがもっとも全体にとっていいかは、自我を優先しないことを考えているということにつながります。信じる力が弱ってくると自我が出てきて判断が歪んできます。信じる力とは健康な時に満ちるのは、健康とは全ての因を福や善として捉えることができる状態のことを言うからです。

病とは、判断基準にとても大きな影響力を与えています。

病を転じて福にしていくことこそが、心身ともに調和しているともいうのです。

優先していくことを考えることは、信じているかどうかを内省することに等しいように思います。この病からも学び、体験から悟り、それを同じ苦しみを持つ人たちへの御役に立てたいと思います。

真理と刷り込み

人間というものは、真理を知っているからと人生が変われるわけではありません。人生を変えようとするならば、自分の中にある刷り込みを取り除くことが何よりも先であるのです。

その刷り込みとは、知らずしらずにうちに自分の中では正しいと思い込んでいるもののことです。

例えば、過去に誰かから教えられたことを鵜呑みにして何かを怖いと思っていたらいくらそれが安全な事であってもその人にとっては危険なものであり、何かを判断する際、自動でその選択肢から危険を避けようとして判断が歪んでしまうのです。

判断の歪みというものは自分では気づくことができず、歪みはいつまでも変わることはありません。その歪みは自分では間違っていないと思い込んでいるのですから、いくらそれを指摘しても気づかないという仕組みになっているからです。

ただどうしても前に進もうとするときや、それを避けては通れないときがあるのです。

それはどのような時かといえば、人生を変えたいと強く願う時のように思うのです。

自分ではこれだけやっているのになぜか前に進まないときや、壁を乗り越えられないとき、もしくはどうしてもうまくいかないと思う時、それは実は人生を変える時だということです。

人生を変えるには、自分と向き合わなければならず、その時は、自分の持っている大前提の刷り込みと正面から正対しなければなりません。それは鏡で自分のありのままを直視するように、もしくは誰かから指摘されたことを素直に聴き入れるように、あるがままの姿が何かを受け容れる必要があるのです。

つまりまず刷り込みに気づくということが最初の難関なのです。

この最初の難関は、素直でなければ超えられません。今までの常識や先入観を疑うのですから、真実に気づくためには自分の都合が入ってはならないのです。真実がいくら身近にあっても人が変わらないのは刷り込みが取り除けないからです。

これだけ先覚者たちが言霊や遺志を遺してくださっていても人間が変われないのは私は刷り込みによるものだと確信しているのです。そして人生が変わるのは、刷り込みに気づいてそれに打ち克つことが全てであると信じているのです。

悔しい思いも、悲しい思いも、辛い思いも、すべては素直へと通じる一本道です。
身近な人の死が改めて教えてくれたのは、刷り込みに向き合う尊さでした。

最後に、御礼参りに伺った祐徳神社のご縁にて素敵な文章をいただきました。

「素直になれば、態度が変わる 
 態度が変われば、行動が変わる 
  行動が変われば、習慣が変わる
   習慣が変われば、運命が変わる
運命が変われば 人生が変わる 」

もうずっと前から本当のことは分かっているのです。
みんな本当はずっと前から変わりたいということは分かっているのです。

それを変えてあげるお手伝いをしたいと願っていても、変われないことばかりです。

そんな時は、いつも魂が疼き、この刷り込みに打ち克つ真の強さが欲しいと願ってなりません。人間の未来のためにも、真の伝道のためにも、正面から刷り込みを取り除く仕事にいのちを懸けていきたいと思います。子どもたちには子どもの姿を保障する私たちの刷り込みのない存在が、先祖伝来の宝をそのままに引き継ぐことになるのです。

そして学ぶべき至善の真理は、生身の実生活にしてこそ本来の真理です。

現実の真っ只中にあるこの今こそが真理です。
ご縁と教えに感謝いたします。

 

縁愛8

ドイツ研修も最終日を迎え、日本へと帰国しています。

世界に視察に行けばいくほどに、自分は日本人として今を生きているかを向き合う機会に恵まれます。かんながらの道を歩もうと決めていますが、日本人としての奥深さはまだまだ計り知れないものがあります。

勿体ないも有難いも、結びも御蔭様も、またまたお天道様の見守りも、先祖代々から脈々と流れて受け継いできた日本人としての心がいつも自分の中に連綿と生きています。それをどう今の時代に置き換えて日本人の自分らしくを貫いて子どもたちに継承するかは私の生きざまによるもののように思います。

日本人らしく生きることは、自分らしく歩んだ先人たちと道を共にすることかもしれません。自分らしさというのは、自分の中に連綿と存在しているものを引き出していくことだと思います。

有難いことに世界に出ればでるほどに、私の日本人としての自分に襟を正し内省します。先人たちに恥ずかしくないよう、これからも精進していきたいという決意を新たにした旅になりました。

今回は人間愛をテーマに様々に深めてきましたが、今回のもので一区切りとします。

シンプルに言えば、これは一期一会を生きるということです。またそれを言い換えればそれは縁を愛するということに他なりません。一つひとつ、出愛の全てを大切にしていくことが人間愛を顕現させることだからです。

私は今のような時代だからこそ、人との縁を愛することを選んでいきたいと思うのです。それは誰に対しても、どのような境遇の人にとっても、人種が異なっても、価値観が偏っていても、それでもそういうものを乗り越えて「ご縁」であると信念を持って生き切ること。

こういうご縁という思想が、私には人間愛に思えてならないのです。

そして平和を愛する心とは、ご縁を大切にする心です。

「世界の輪 結ぶご縁は 愛の糸 光り輝く 星々となる」 藍杜静海

一期一会に生きる中に愛は永遠にひかり続けています。

縁愛7

ドイツ研修も6日目を迎え、今年も無事に学びが実る体験を新しい方々と一緒にできたことに幸せを感じています。

今まで見ず知らずの人達が、同じ目的のために一同に集まり共に学び共に遊ぶ、まさに保育というものは自分の使命を遣り切っているときにこそ最も身近に感じられるものなのかもしれません。

人間は動機がいつも誰かへ向けられた思いやりや優しさ、そして貢献によるものから発せられるものであるならば、その遣りたいと思ったことはきっと使命によるものです。自分が誰かのために生きていると実感することは、そこに愛があることを確信しているからかもしれません。愛は愛されるよりも愛することというように、自我に呑まれて愛される側を望むよりも、自我と調和し愛する側で愛を弛まず実践し尽くすとき、其処に必ず誰もが求めた愛の姿が顕現します。

いつも先人の道の足跡を辿ってみれば、そこには全てがなくなっているはずのその人が遺したものがいつまでも私たちの心の中に残っています。会ったこともない、話したこともないその人の存在がなぜか自分の中にあるというのは愛があることの証明なのです。

人は人のカタチがなくなるとき、愛が出てきます。つまり、生きている生身の人間の要素が消えたとき、自分のかけている色眼鏡が物体を捉えることができなくなり、なくなったはずのその人の残り香から真心や愛が永遠に香ってくるのを実感するのです。そしてその香りに引き寄せられ、その人の愛を確かめることでいつまでも人間の中に愛が存在していることを思い出すのです。

そういう愛の香りを持つ人々は、いのちを与えられた以上に尊くいのちを遣い切り、人間を誰よりも愛した実践を生き方で示した人たちばかりです。

今まで隠れたものが出てくるというのが出愛です。

それは私たちが表面の自我で接してその人たちのことを認識しているばかりを見るのではなく、本来のその人の中にある純粋な心に触れることで愛を観出すことができるからです。その純粋な心の中に、出会ったこともない人たちとの出愛があるのです。

この出愛とは、どこか愛を結ばれた感覚を持っているのです。生まれた瞬間から私たちは、偉大な愛に活かされているのを自分の心は知っています。その愛があるから、人は自分も他人をも愛することができるように思うのです。

つながりや絆、そういう結び目に出愛がありそのご縁で人はさらなる愛のカタチをこの世の中に顕していきたいのです。それが生きるということ、死ぬということであろうと思います。

私が子どもを愛しているのは、親心が好きなのかもしれません。その親心の傍にいる子どもたちを観ていたらいつも愛は私たちが生存する限り存在するのだと確信するからです。

また今日も子どもたちのように、今を生き切り、新たな人間に出会っていきたいと思います。

一期一会

縁愛6

ドイツ視察研修の5日目になりました。

これで続けて訪問して3年目になりますが、藤森先生の変わらぬ姿に改めて学び直すことばかりです。参加者への思いやりはまったくブレず、そして社会や世の中の変化に対しては柔軟に変化し続けるということ。

不易と流行というものは、どちらも思いやりがあれば順応できるものだと、保育の初心を実感することができました。その見守りの姿勢に、発達を助長するのではなく、発達を援助するのではなく、発達を保つという全く異なる次元からの目線、これを保育であると定義していること。

この保つという字には、どこか見守るという意味が深くその字に籠められている気がします。どれだけ純粋に学べるかというのは、自分を謙虚に磨き上げていく学問の楽しさを知っている人であろうと思います。

一つの単語の行間にあるその哲学を、東西の垣根を超えて学び直しています。

さて、人間愛がテーマでいよいよ終盤に入りました。

人間は、一人で生きているのならば自分の価値観の中だけで世界を観て世界がそういうものだと思い込んでいることもできるものです。しかし、それでは世界にはもっと美しいものがあったり、もっと楽しいものがあること、そういう真の豊かさに気づけないで道が途絶えてしまうような感覚を持つこともあるかもしれません。

信じてきたものが何か自分の中にある先入観によって得られないという感覚に似ているように思います。そういう時、その自分の知らなかった世界を持つ人を直観的に感じ取ることができるのもまた愛だろうと思うのです。

例えば、真実を知ろうとすれば自分に都合の悪いことがあるかもしれません。もしかすると、自分を変えたくないと思っている壁が立ちはだかるかもしれません。しかし、それでもそれを乗り越えた先に大きなものがあると信じるのが好奇心であろうと思います。

つまり愛とは一人で完結するものではなく、二人以上の人達によってはじめて完熟していくように思うのです。つながりや結びつきの間にあるものが愛であり、その愛のカタチを御互いに円熟させていくために他人は愛し合うように思うのです。

まるで円い中で失った欠片を探し当てていくように異なりを求めあい、多くの人達との出逢いのご縁を通じて愛の色を渾然と染めていくかのようにです。

お互いの大切なもの、大事にしていきたいものが一つではなく二つ以上ある絆の場所に愛は存在しているのかもしれません、自分の過去を振り返ってみても、愛を教えてもらったのはみんなお互いの大切なことを交換しあって絆した結び目にあるように思えます。

縁と愛とは、人間が出会う中のことであります。
出会いを大切に、一日一日を過ごしていくことこそが愛に触れていくことなのでしょう。

出会いの中に偉大な愛はいつも生きています。

縁愛5

ドイツに来て4日目になりますが、天候に恵まれ美しい景色の中で森の学童保育所を視察してきました。森の中に入ると、自然に子ども心が顕われてくるのはそこに自然を感知する感覚が生きているからかもしれません。

都市化されている社会の中で、大切な感覚を陶冶していくというのはそれまで私たちが自然に行っていた自然の中での営みを忘れないためにあるのかもしれません。脳が優先されているような都市社会では本来の当たり前にあるそれぞれの役割を忘れてしまうのかもしれません。

森の中の木々一つ、松ぼっくりの実の一つひとつに、その役割があることを学ぶのかもしれません。人間愛のテーマの中に、つながりを書きましたがここに役割というものがあることを書いてみます。

マザーテレサにこういう言葉があります。「世の中で誰かに必要とされているという意識です。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」

愛というものの定義に、自分が必要とされているという実感というものがあります。何か大切な役割があるとその人が思えるならこの世に存在していいという偉大な自然の愛を実感できるように思います。つまりそれがつながりの中にいることを実感できるという意味です。

人は誰かの御役に立てるということほど、自分が必要とされているという実感を得られることはありません。つい、今の社会では自分の都合ばかりで自分が必要とされている有難さに感謝する機会が少ないように思います。

物が溢れ、自分のものであることを当たり前だと勘違いすることから愛が不足していくように思います。愛の不足とは、この物との関係にとても深い因縁があり、自分の物とするところからそれまで私たちがお互いの関わりやつながり、役割を感じて愛し合っていたことを忘れさせていくものだからです。

人間というものは、分かち合い、助け合い、御互いを必要だと実感できることで愛がある中に生きていることを実感できるように思います。こんな自分でも生きていいのかという問いに対し、自分のままでいいから生きてほしいと願う思いやりの中に愛は活きています。

私たちがもともと使っている「有難う」という言葉も、本来はそういうひとつひとつのお役目を天からいただいていることに対して使っていた言霊のように思います。それが人間都合の物が溢れたことで大切に使い切ろうということではなく、その場その場でゴミを捨てるように使いだしたことからその役割がもともとなかったのように意識が変わっていったのかもしれません。

今の時代は何度も何度も有難うという言葉を使わないとお役目に気づく感性は伸びていかないのかもしれません。愛もまた不足するのは、本来、ないものねだりではなくあるものを探してあるものを大切にしていこうとする中に育つからかもしれません。

身近なところから愛の実践をしていくのは、御互いを必要とする関係に幸せを実感し、その役目があることに感謝していくことのように思います。

最後に今日もガンジーの言葉で締めくくります。

「この地上の理不尽に目をつぶることなく、愛ある行いを実践しようとする人がいる限り、わたしたちはそれに続かなくてはならない。」

愛ある実践は、子どもの中に備わっています。
子どもの自然な行い、その宝を見出す感性の中に愛の偉大な可能性が観えてきます。

保育を学んでいくことは、愛を育てていくことかもしれません。