声を聴く

昔書いたメモなどを見返すのは、昔の体験をフィードバックするときに使えます。

人は自分を中心に物事を捉え、すべてのことに善悪を考えたりすることで苦しみ悩んだりするものです。そういったことから、様々な思い出深い体験をし、悔いたり反省したりしていくように思います。

そうして時が経ち、次第に事実を受け容れることができ気づいたことを記憶に書き記していくように思います。それを自分を再び省みるようなことができるとき、自分がどのような感情があるのか、我欲があるのかを客観的に分析しそれを整えたり制したりしていくことができるのです。

それは頭で行うものではなく、すべて心が行っていくもので内省というものの本質を捉えているのです。

内省というものは、自分の心を観照しその心を見つめて変化していくもののように思います。

そうやって素直に自分を受け容れることができるなら、何らかの出来事というのは、自分が変わっていないことの証明と自分が変わっていくことを教えてくださっている天の声とも捉えることができるようになるのではないかと私は思うのです。

そしてその天の声に対して、自分が過去に体験して気づいたメモや書き記した記憶こそが自分の声ではないかと思うのです。自分の声をちゃんと素直に話ができることや、自分の声をちゃんと謙虚に聴けることができるようになれば物事は丸ごと善いことに変化します。

人は心が正しくなければ、何も聴こえないというのはこういうことからなのでしょう。

日々に精進して、道の中の記憶を刻んでそれを修めていきたいと思います。

プロセス重視と成果

人間学と時務学というものがある。

本質を学び人間を陶冶していくと同時に、知識や技術を磨くということです。日々の体験から、内省をし自らを高めていくのと同時に、自分の強みや能力を磨いていくことが必用だということです。

孔子とドラッガーではないですが、その両面を常に高め磨く必要があるように思うのです。私も日々の論語と同時に海外のビジネス書を読み込み感覚がズレナイように取り組むのもそれがあるからです。

特に仕事の仕方というものについては、一般常識的な知識を磨くと同時に自分の強みを発揮する仕事の仕方というものも学ばなければならないと思うのです。その人その人にとってもそれが個性であるからです。

P・ドラッッガーの著書「明日を支配するもの」にこうあります。

「自らがどのような仕事を得意とするかは、特に知識労働者にとっては、強みと同じに重要な問題である。」

この時の仕事というのは、単に業務のことを言うのではなくどのような仕事の進め方や在り方を最も得意とするかという広い範囲での自分の得手不得手のことをいうように思います。自分がどのような強みがあるのか、そしてそれをどのように活かすのか、自分を知り自分に合っているかどうかに集中するともいうように思います。

「実際には、強みよりも重要かもしれない。ところが驚くほど多くの人たちが、仕事には、いろいろな仕方があることさえ知らない。そのため得意でない仕方で仕事をし、当然成果は上がらないという状況に陥っている。」

成果というのは、どのような仕事の仕方で進めたか、そのプロセスが徹底したものであればあるほどに確実に成果が実るとも言います。結果さえ出せばいいという考えが常に失敗を呼び込むのは、そもそもプロセスを蔑にして仕事の成果を求めてばかりで本来の仕事の進め方や在り方そのものの方に注力しないことが問題ではないかと思うからです。結果を求めずにプロセスを重視するものだけが最良の結果を生み出すことができるからです。これは結果だけが実力ではなく、本来はプロセスに努力精進しているからその両輪で一流の実力者になると言えるからです。

よくアマチュアとプロフェッショナルの違いで語られますが、アマチュアでは結果だけとか努力だけとか偏っています、しかしプロフェッショナルはプロセスを重視し日々の徹底した仕事の進め方に妥協せず、同時に結果を出すから一流と言われるのです。

この見えないところでの精進と、目に見えてくる精進がプロの所以なのです。

「強みと同じように、仕事の仕方も、人それぞれである。それは個性である。生まれつきのものか、育ちのものかは別として、それらの個性は、仕事に就くはるか前に形成される。したがって、仕事の仕方は強みと同じように与件である。修正できても、変更することはできない。少なくとも簡単にはできない。そして、ちょうど強みを発揮できる仕事で成果が上げられるように、人は得意な仕方で仕事の成果をあげる。」

自分の仕事の仕方を重視している人だけが、自分の強みと同じくらいの個性を発揮するのかもしれません。そしてそれは、その人らしい精進と強みの開花が、最良の成果を引き出すに至るのです。

「フィードバック分析は間違った仕事の仕方も明らかにする。その原因を明らかにできることはあまりない。しかし、間違いを発見することは難しくない。数年の仕事の経験は必要かもしれないが、やがていかなる仕事の仕方が成果をもたらすかは、直ちに答えられるようになる。いくつかの癖が仕事の仕方を規定するからである。」

本来のフィードバックとは、自分を知り自分を活かすということが何かに気づき改善することではないかと私は思います。孫子の兵法ではないですが、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」がありますが、自分の状況を事前に自覚することでより一層のプロセスに注力していくことができるということでしょう。

つい結果のみで判断してしまう昨今ですが、本来の実力とは何か、見定める力も指導者には必要であろうと思います。正直者がバカを見ないためには、正直とは本当は何かということを明るみにしていくことのように思います。

素直に取り組む人は、日々のプロセスの大切を知る者です。
何を自己監督していくべきか、事実は現実とともに明らかになるばかりです。

 

国際感覚

人は自分の価値観を拠り所にして様々なことを判断しています。

先日のインドでもそうでしたが、世界は様々な宗教観などを含め価値観を形成するものがありその価値観に由って生きているともいえます。ヒンドゥー教とやイスラム教などもそうですが、私たちからすればなぜそこまで激しく対立するのかと思うものですがそれだけ価値観というもの中で理解できないものが互いにあるのです。

食べもの一つでもそうですが、豚肉を食べないとか野菜しか食べないとかもその価値観がそうさせるとも言えるのです。自分の価値観が正しいと思い込んでいればいるほどに、相手の価値観は間違っていると思うのです。

本来は、それでも相手の価値観を認めて相手も正しい自分も正しいという柔軟性があればいいのですが相手から自分が間違っていると責め立てられれば同じくそれを仕返すというように対立は激化していくとも言えます。

そう考えてみると、世界での紛争のほとんどは互いの価値観のぶつかり合いとも言えるのです。言葉を話せるようになってから、文化をそれぞれで持ってから、私たちは逆に話し合うことができなくなっているともいえます。

言葉で何万語使って語っても、分かり合えないということも生まれてしまっているのです。

だからこそお互いに共通するものがあることを学ぶことが人間の最上の教育ではないかと思います。それは真心であったり思いやりであったり、勇気であったり優しさであったりといった人間の共通した生き方そのもので分かり合うことがシンプルなかかわり合いであろうとも思います。

そしてそういうものを感じるには、常に自分がシンプルであるように価値観に柔軟でいなければなりません。柔軟であるには智慧と体験、そして素直であることが必用でそういうものこそ学問を修めていく中で体得していくのでしょう。

世界で活躍する一流の人達の共通するものは、やはり価値観に素直である気がします。まずは自分から国際感覚を磨けるように、精進していきたいと思います。

虚無虚空の音楽~共鳴~

インドに訪問し、ラビ・シャンカールのことを思い出して深めてみました。

昨年の12月に亡くなっていることを知り、その偉大さを改めて再認識しました。このラビ・シャンカールさんとは地球交響曲の映画ではじめて知ってから何回かインドの音楽に触れることがありました。

ちょうせ先日からのインド訪問で、そのインドの風土や気候、人々の生活の中に流れるものに触れて改めて音を聴き直そうと思ったのです。

このラビ・シャンカールさんの奏でる音楽は虚空の音といい、かのモーツァルトに共通するものがあるように思います。今世紀の楽聖とも言われ、音楽というものの本質をシタールという楽器を通じて世界へと弘めて改めて音楽というものを刺激した方ではないかとも思います。

このシタールは、ギターのように、おおきな瓢箪と、弦からなる楽器です。その弦は7本あり、そのうち4本は、演奏用で残り2本でリズムをきざみます。さらに、その下に13本の弦があります。これを共鳴弦いい、この共鳴弦があるからこそ音に揺らぎがうまれます。もともとはこのシタールの原型、ヴィーナにはこの共鳴弦がなかったそうです。それをシャンカールさんが言うには昔の人は、鋭い耳をもっていて自分の力で、共鳴弦を聞くことができたのではないかとありました。

つまりはこの揺らぎの音を奏でることができる手と耳、そしてその虚空の音「アナハタ・ナーダ」を知覚する手を耳で行っていたということでしょう。このナーダという言葉は、もともとは「流れ」のことをいい目には見えないような確かな自然の流れを観てとり、耳で聴きとり、それを顕現させているものを音だと定義しているようです。

この音間の中にある無中の無、有中の有、つまりは有無を超えた無の音を奏でることができたというのはその流れを心がいつも捉えることができたということに他なりません。何もないように観える中から実際は確かに存在しているそのものの音を聴きとることができるということでしょう。
これを私は一瞬の閃きとも呼んでいますが、ある瞬間に降りてくるような感覚があるものがそのままに掴み抜き、流れの記録記憶にアクセスするようなものがあったのではないかと推察します。

自然に入れば、静寂の中にも確かに流れるいのちの音のようなものがあるように思います。それは五感を研ぎ澄ませていくことで次第に実感できるようになります。それが今の現代では、あまりも生活が偏り乱れバランスを崩し、自然ではない音を聞き、自然ではないものばかりを視て、自然ではないものを食べ、自然ではない香りを嗅ぎ、自然ではない光を浴び、自然ではない言葉を交わし、自然と離れすぎた生活をする中でそのかつての五感も六感もバランスも消失してきているのでしょう。

こういう本物の音に触れることは、自分の感覚を呼び覚ませていくとても貴重な道具の一つであろうとも思います。神社でもそうですが、かつての音楽、自然で奏でる音楽を聴くことで私たちの中に確かに流れる本物の音、虚無の音を学びつつ畏敬を感じて一体感を味わったのではないかと思います。

インドには確かに流れている真実の文化や道が存在していました。

その聞えない音や見えない光を正しく視て、正しく聴いていく修めることが今後も課題になっていくように思います。仏陀の八正道ではないですが、それは私にしてみれば「流れ」を感じる力を養う道のように閃きがありました。

今後も自然の音を、虚無、虚空の音を聴ける真心を磨いていこうと思います。

 

幸せの本質~インドの旅最終日~

インドの旅も最終日に入り帰りの航空機内で独りふり返りをしています。

あっという間の充実した4日間で、まだ情報の整理などもできていませんが初めて訪問したインドとそこで暮らす人たちの話を直にお聴きし体験しより深く学ぶことができました。

人間の社会というものは、本当の問題を表面上の違いで覆い隠していくものです。本来は、自然に沿って何もしなくてもいいものを余計なことを手出しすることから問題を広げていくものです。何かを優先すれば、そこに歪というものは発生していくのが自然であろうとも思います。

だからこそ互いに歴史は異なれど本来の互いの姿がどうであったか、同じアジアの異国を観ながらが自国のことを客観的に改めて考えることもできました。

今回の旅では幸せの本質についてもテーマを持ち、同時に鑑み深めていきました。

そうした中でよくよくふり返れば、世界が異なったとしても時代が異なっても人が運命が異なっていても、幸せということについては万物共通して同じであるものを発見しました。これは人々は平等に時空を超えて幾世代もかけて私たちは幸せというものが何かにいつもそれぞれがご自分で辿り着いてきているから分かるのです。

そう考えれば、実は幸せであることが何のことかを忘れてしまうことから他人は不幸になっていくのかもしれません。

人は幸せを忘れないでいるのは、常に自分でいることができるからです。それは本来の自分がどのようであるのかを人は知るために、一生をかけて学び育っていくようにも思うからです。そうやって自分を知り、自分を使い、自分を活かすことは世界共通の幸福につながっているのだと私は感じます。

今回の旅の最期は、釈迦のこの言葉で締めくくりたいと思います。

「天上天下唯我独尊」

世界に一人だけの自分をその手にしっかり掴んで、我が幸福の道を歩めばいい。
幸せの本質を心に抱き、自分をさらに精進していきたいと思います。

幸せの本質~インドの旅2日目~

今日は、早朝よりインドのデリー市内からアゴラまで車で移動しつつ現地の観光を行いました。町の中で様々に生きる人たちの様子に、それぞれの運命を感じることにもなりました。

人間は生まれた場所や環境がその後の人生に大きく影響を与えます。もしも自分がここで生まれていたらと思いを巡らせれば、今与えられている環境が感謝できるものです。そしてそれは見聞を深めるということでできるのです。

例えば、寒い気候や厳しい環境の中で成育したものと、温暖で湿潤の穏やかな中で成育したものとでは明らかにその今の自分の姿が異なるはずです。つまりはこのように見聞を広めていくことで本来の自分の今を正しく理解に努めていくことができるようにも思います。

幸せの本質について昨日から考えはじめて今も思いを巡らすとそこには穏やかで安らかといった心の持続ということを思い当たります。インドではこれをニルヴァーナとも言うそうですが、その境地を維持していくことができる心境ということです。

これは私には「真摯に実践を続けて悟ることのない状態の維持」というように感じます。つまりは、悟るというのは、悟るか悟らないかではなく悟ろうと学び実践を続けていることこそが心の平安を持続することのように思うからです。何でもそうですが、分かった気にならないというのは分からないままに実践して腹落ちするまで頭で分かろうとはしないということが現実と理想の中間を得ていると思うからです。

釈迦にこのような説法があるのを発見しました。

「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。人が、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるものがかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入するように。それ故に、人はよく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。」
意訳すると、欲というものがあるから色々な苦が付き纏う。だからこそそれに気をつけながら歩みなさいということですが私は欲が善いとか悪いとかではなく、ここでは気をつけなさいということが実践そのものであろうとも思うのです。自分という舟を川に浮かべて進んでいけば、波風や様々な試練から転覆しそうに揺ら揺らしていくものです。
最終的には大海原へと向かうのでしょうが、そこまでの旅路に安らかに流れ流され達していくことが幸せのように思えるのです。そしてそれは例えば菩薩行の実践をすることにより、その様々な欲と上手に付き合いつつ、自然循環の一部と一体になった境地にはじめて入っていけるようにも思うのです。
自利と利他がありますが、やはり人は自分のことよりも誰かの御役に立てることを優先しているときの方が欲も回避して自分らしい正しい行いができるように思います。これも実践というもので、それを行ってはじめて心静かな気持ちで義を優先していくことができるように思うのです。
そう考えれば、自分号という舟との正対の実践こそが幸せの本質かもしれません。
明日からは子ども達の施設の視察ですが、さらにインスピレーションを高めていきたいと思います。

物来順応~変化自在~

昨日は新年の祈祷と会議が行われました。
心新たに書初めをし、昨年のふり返りをして今年の方針を確認するのは大切な機会です。

私たちは根本が変わることがないので昨年に引き続き「リカンパニー」ですが、その他の課題は常に変化し改善していく必要があるので節目節目に確認することを大切にしています。 不易と流行ではないですが、何を変えずに何を変えるのかはそれは変化というものを正しく受け止めているからできることであろうと思います。

変化し続ける日々というのは、何をやめて何をはじめるかということの繰り返しです。
何度も何度も今までの習慣を新しいものへ変化させていくようなものです。

慣れてくるとマンネリ化してそのうちに本質が見失われてきたりするものです。
だからこそ客観的に間違いに気づけばそれを変えるという連続が今の自分を醸成します。

今までは要らなかったものでも、それがもう一度必要となったりもし、またはいくら苦手だと避けていてもそれは必ず通らないといけない道であったりもするのです。

自分の都合の良い道ばかりではなく、時には荊の道もあれば歩けないようなでこぼこの道もあるのです。それをちゃんと自分にばかり合わせずにもっと踏み込んでその道を楽しんでいこうと取り組む先にこそ変化の兆しを得るように思います。舗装された道路ばかりしかない今の時代にそんなところばかり歩いていても次第に面白くなくなっていくのかもしれません。

気づいたらその次には改善するくらいで居る方が考えすぎなくて心地好いのかもしれません。目標や計画、効果検証も期限を切るというものも、実際は道を楽しくするためにこそ用意するものかもしれません。

昨日は、その他に久しぶりに佐藤一斎の「言志四緑」からの文章に出会いました。

それは「物来順応」という言葉です。

これは剣の極意、武士道の在り方を示したものでこうあります。

「剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、これを動かすのには自然のままに動き、わだかまりなく実に広く万事万物にかたよることなく公平な公明正大であることである。これを静にするには、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。」

これは私の意識する「先待ち」という思想にも共通し、どのような事件があっても動じずに穏やかに処していこうとする錬磨修身の私の目指す生き方とも同じです。その境地へはまだまだ道は遠いですが、遠いということはそれだけ有難いことではないかとも思える日々です。

今日からはそれをいつも体現してくださる師と同行しインドに行きます。
どんな出来事が待っているのか、もう今この瞬間から旅のシンクロニシティに出会っています。

自分と我

日々に生活していく中で、自分というものと我というものがあるように思います。

どこまでが自分で、どこまでが我なのか、この境界線はとても曖昧のように思います。なのでそれを割り切るということは難しいように思います。自分の中で我に囚われているときは、周りのことも観えず自分のことも観えず、その我を通そうとばかりに躍起になっていくものです。

しかし自分を持つことができている人は、我に流されずに自分というものを優先してより周囲に役立て自分を活かすことができるようにも思います。

自分を持つことができるというのは、何のために自分があるのかその使命や信念に沿って取り組んでいく中で醸成されていくように思います。そして我は、やはりどれだけ省いていくかということのように思うのです。

我が出てくるのは、自信のなさや焦りといった欲望から生み出されていくように思います。それに人間関係でもそうですが、無意識のレベルで常に自他よりも我欲を守ろうとして常に自分を押しのけて出てきてはそのまままに我を通そうとしたりするもののように思います。

この我を抜けて自分というものと平常から対話していくことが、本質そのものでいることのようにも思います。そしてそれは大元にある理念と具体的な実践を通じで行っていく中ではじめて本来の自分を優先することを維持していくことができるようにも思うのです。

パターンとしてはそれを左右している自分と我を修めている感情を観れば一目瞭然のように思います。感情には表面の波立っているものと深層の静かなものがありますが常に全体を俯瞰して調和し直観的にいるときは安心しているものです。それがひとたび我が次第に全面を支配し侵食して何かしらの不安というものが発生することからどうしても感情が波立っていき我の雲や霧によって視界を覆いつくして自分が隠れてしまいおかしなことになっていくようにも思います。

自分と正対していくというのは、自分を持つということで我をなくすということだろうと思います。

なかなか実践は難しく日々は葛藤の連続ですが、大切なのは内省であろうと思います。日々に内省することで何が我であったのか、何が自分であったのかを確認していくことができるからです。

こうやって日々に、そして週に、そして月に、そして年にと、心正しく内省を繰り返していけば、そのうち自分というものを正しく持つことができるように思います。ここで内なるものから省いていくものは、それは我そのものであろうと思うからです。

そうして我が省かれて自分が顕われれば、自分を知り自分を学び自分を楽しむことができるように思います。自分との付き合いもまた変わっていき、融通無碍な自由な自分と邂逅する日々を味わえるのです。こうやって自分との旅を今に味わえることはとても上質で楽しく豊かな一期一会でもあります。気づいて変わっていくということは、こういう自分と我の最中で味わっていくものかもしれません。

道筋は長くても焦らずに穏やかに内省をしながら丹誠籠めて歩んでいきたいと思います。

天才とは何か

昨日、スティーブンホーキングの自伝がテレビで放映していて久しぶりに昔の感覚を思い出しました。

中学生の時に、その著書「ホーキング、宇宙を語る」を読んだ時の衝撃が忘れられません。内容がどうであったかというよりも、その好奇心、その驚きを求めていく姿に自分の中にあった真理への探究の気持ちなどが刺激され感動したからのように思います。

宇宙がどうなっているのか、ブラックホールは何でできたのか、それを様々な客観的事実や例えを交えながら説明していく姿にこの学問の面白さを感じたのです。

もちろん、そのころの自分といえば何もわからずただただ驚いて内容がどうであるよるもすぐにホーキング博士に会いにいきたいと思い、必死で英語の勉強をしたことを憶えています。もともとの動機がホーキング博士に会うことでしたが御蔭で英語の成績がぐんぐん上がるというようなこともありましたから意欲は何がキッカケになるのかわかりません。

そのホーキング博士の生い立ちを映像でみて、娘さんのインタビュー記事をインターネットで拝読すると決してご自分の境遇を憐れまず、星を眺めて自分のやりたいことだけに専念していく姿に、改めて生きるということ、その生き方を学ばせていただきました。

通常なら2年と宣告された余命も、その後40年以上たった今もご健在で、これから宇宙に行くという目標も立てているようで流石は博士だと改めてその好奇心への情熱に感動し、今の自分も新たに触発されました。こうやって人は何をやったかとかではなく、何をやることに信念と情熱を傾けるかということが本来の人生であろうと思います。

一人一人、生まれたらそれぞれにテーマは異なりますが宇宙やはじまりについて人生を懸けて取り組むという姿に天才ということの定義を見出してしまうのは私だけではないでしょう。
天才というものは、その無限に湧き出る自分の好奇心かもしれません。

最後にそのホーキング博士の言葉についてとても好きな言葉を紹介します。

「人生はできることに集中することであり、できないことを悔やむことではない。」
「私が人生で学んだことは、自分がいま持っている力を、ぜんぶ使えということです。」

まさにこれが好奇心の源流である気がします。さらに大切な戒めも続きます。

「今の仕事を好きになれないのでは、違う仕事に就いても好きになれない。今の仕事に一生懸命になれないのでは、違う仕事でも一生懸命になれない。今の仕事を好きになって一生懸命やったとき、次なる道が見えてくるものだ。そもそも天職はなるものじゃない、気がついたらなっているものだ。」

自分の大好きなことを遣り続ける力が、生死を超えたところで存在する宇宙かもしれません。
宇宙はまるで心の世界そのものです、阿吽の呼吸ではないですが自分なりの宇宙を生き方で表現していきたいと思います。

 

 

自然のまんまの御漬物

先日、愛媛の松屋旅館にて宿泊し糠床の手入れやお漬物についての講話と実践を学ぶ機会をいただきました。

昨年より、自然から学ぶ中で微生物や菌の世界の素晴らしさをさらに実感し具体的な実践を通して学んでいく中での出会いでもありました。そして漬物を環境を用意して早速挑戦してみたものの手入れの仕方が分からず大変悩んでいましたが今回全てが腑に落ちました。

何でもそうですが実践してみる時に、今までのものがないというのはつらいことです。本来は、昔ながらの伝統が残っていて身近にそれを教えて下さる人たちがいたのでしょうが今では本やインターネットですぐに手に入る情報ばかりのようですがあれは実践している文章ではないものもたくさんあります。

特に売れるためにや宣伝のために書いている文章などというものは、現場で試してもどうしてもそれが腑に落ちず、とても悩むことばかりだからです。今回の糠床でもそうでしたが、本を購入しても調べてもためしてもどうしても分からなかったからこそ行動してみて本当に善かったと思います。

きっと私たちの保育現場であっても同じように情報過多で、真実の情報はとても少なく現場で試しても合わないものばかりで苦しんでいる方々もたくさんいるように思います。そういう方々へも少しでも手が届くようなところに真実の情報を届けていかなければ気持ちを新たにすることもできました。

さて、この松屋旅館の糠床は江戸時代から300年以上生きているもので漬けられているものです。御漬物の予約もして食べてみたのですが、今まで食べたものとは明らかに異なり全身が驚きました。

こんなに美味しい御漬物ならば毎日食べたくなるものだと感心したのですが、そのあとの女将さんのお話も全て目から鱗のことばかりで本当に楽しいお時間を過ごすことができました。

内容については、あまりにも情報の質が高くすべてをご紹介することはできませんが一部を紹介すると

「昔の方の智慧は素晴らしい、昔のやり方でやっていれば間違いはない。」

「子育てと同じで、手をかけてあげることが何よりも大事」

「糠床にも四季がある、そして呼吸する、しっかりと四季を味あわせてあげるといい」

「御漬物は美味しく食べ続けるから腐らない、おいしく漬け続けることが大切」

「御漬物が今どういう状態かというのは離れていてもすぐに分かる」

「糠床と仲良くやっていくといい、楽しみがでてくるようになるといい」

「自然に漬かるのをじっくりと待つ、そして食べる分だけちょっとずつがいい」

他にもたくさんの実践語録をいただき、我が家の御漬物も会社で取り組んでいくものの指針も頂戴することができ、これでまた皆と子どもたちの未来へ譲るものを一つ、キッカケを得ることができました。

最後に、昔の人の智慧については本当に頭が下がる思いがしました。今に残っている自然の智慧は、何千年もかけて私たちの先祖たちが編み出した生き残りのために自然から教えてもらったことを自然に教えてきただけでもあります。

自然から学ぶということは、そういうものを謙虚に素直にどれだけ今の私たちが子々孫々へ正しく実践を通して継承していくかというのが今を生きるものの責任であろうと私は思います。どんなに今の価値観が便利や目新らしい変わったものばかりが注目されようとも、長いスパンで物事を省みれば先人たちの行った偉業が眩いばかりに随所に残っています。

本来の智慧とは何か、今年も自然から学び直して自分を立て直していこうと思います。
今年は温故の価値を再定義する年になりそうです。