樹の本質~The Giving Tree~

ギビングツリー(The Giving Tree)という物語があります。これは米国の作家のシェル・シルバースタインという作家が描いたお話です。この本はすでに30ヶ国語以上に翻訳され今でも世界中で読まれ続けています。

この話は、樹と少年のかかわりの物語です。少年が大好きな樹は、少年がほしいものを自分の身を削って与え続けます。すべてを与え続けてそれでも少年が大好きで、樹はいつまでも幸せだったというものです。もっている自分のすべてを大好きな少年に差し上げていく樹の姿に、言葉に表現できないぬくもりや見守りを感じます。そして少年もまたいつまでもその樹を忘れずに大切な節目にはいつも頼りにしながら自分の人生を自分で歩み切っていきます。

この樹と少年の関係の中には、お互いの絆を通して共に絆を深め合っていく尊いご縁と結びが観えます。この物語が深く共感され長く人々に読まれるのは、そこに確かな愛を感じるものがあるからかもしれません。

先日、ある森を歩いて樹を観察していたら樹はもともとその性質の中に「与える」という徳性があることに気づきました。なぜなら樹は存在し生えることで、周りの生き物たちをすべて活かすからです。

樹は1本から循環をはじめます、その樹は伸びていくことで水の流れを保ち、落葉しては土壌の微生物たちをはじめ様々な生き物の住処を用意し、木蔭で休憩する動物たちや、実や樹液は食べものになり、幹はあらゆる道具として活かされます。

地球上にいて歴史が古く、もっとも長く自然の篩にかけられても生き残っているのは樹木です。この樹木がなぜ選ばれるのかは、そこに「与える」という生き方があるからではないかと思います。

私にとっては、「tree=giving」であり、「与える=樹」であるとしています。樹はもともと与えるのが樹であるということです。今の樹があのようになっているのは、与えるのみの姿であるから私たち人間には気づきにくいのです。本来の樹は与える中に存在しているからこそ、自分の生き方がそうなったとき樹の生き方が観えるのでしょう。

そして自分への見返りを一切求めずに与えることは、それは失っているのではなく同時にサムシンググレートから偉大なものをいただいているということでもあります。自分が得ようとするよりも、与えることで得られるのが天恩であり天恵です。

つまり自分にとっての損得ではなく、自然そのものの尊徳を感じているのが樹ではないかと私には思えます。

樹から生き方を学んだ一年でしたが、少しだけ樹の持つ本質を学び直したように思います。

この「TheGivingTree」の物語のように、愛と見守りの仕合せの関係を生長の中で真の自立=人間愛を築き合っていきたいと思います。

 

バランスの善い人~知行合一~

人は志を持ち、自分から自問自答して場数を体験しなければ学問を大成していくことはできないように思います。教えてもらうことを学びにしている人は、教えてもらおうとする頭ばかりを働かせて頭でっかちになってしまいます。

この頭でっかちとは何か、少し深めてみたいと思います。

もともと頭でっかちとは体に対して頭が不釣合いであることをいいます。それを比喩し、知識は多いけれど実行が伴わないことをいいます。これも今の学校教育の刷り込みの一つだと思いますが知識ばかりを詰め込んでは場数や実行の量が圧倒的に足りないということです。

実行するには心を遣う必要があります。心を遣うと体が動きます、体が動けば心もまた動きます。そしてその中で頭を働かせるという順序が本当の働かせ方のように思います。

世間では何かの道を学ぶとき、心技体のバランスを確認するものです。これは心技体全てを駆使して渾然一体になっているかということです。難しい言い方になりましたが、志を持ち、律儀に場数を踏み大量行動によって自分を育てていけばいいのです。

しかしそれができないのは人には怠惰な精神というものがあります。頭でっかちになってしまうと、如何に楽をしようかと考えてしまうからです。本来、「頭」の仕事というのは身体が無理しすぎないように、心が傷つきすぎないように調整する役割を持っているように思います。

頭があるから、計算して休むことができ、頭があるから、知識によって体験が困難になりすぎないように調整してくれるのです。ただ実際は、頭を優先してしまうと体が動かなくなり精神が着いてこなくなり心を亡くしてしまいます。

常に志を優先し、初志貫徹、何のためにといった初心や目的に照準を合わせて真摯に実地実行を繰り返すことではじめて頭を活かすことができるように思います。

頭が良いのは才能の一つで、頭が良いことで様々な創意工夫やアイデアもまた生み出していきます。だからこそ、まず如何に自分が望む自分を手に入れるために臆病でメンドクサがりな怠け心に打ち克ち苦労や忍耐を学び、日々に己自身との真剣勝負の場数を踏むかが何よりも頭を従い活かすためには大切なのでしょう。

頭で考えたなら、やれないことややりたくないことばかりでしょう。しかし、実際は現場を体験してもらうことでその一つの現場から学んだ有難いご縁や感謝を実感したらもっと実行していきたい、もっと恩返ししたい、もっと成長させてもらいたいと思うのが人間です。

頭も心に追随して困っている人たちに貢献したいと願っていますから、有難い現場をいただいていることにいつも感謝し、その中から学んだ気づきを改善してより行動を増やしていけばいいように思います。

私も今までの人生を思い返せば、行動してきた御蔭様で今が在ります。今の自分を創ってくださったのは出会った方々と尊い体験と、御縁といった場数でした。心が突き動かされるのはその場数に対する感謝があるからかもしれません。

長くなりましたがバランスの善い人というのは、頭を活かして行動が伴う人です。

知行合一に人生の実践を味わい、世のため人のために盡力していきたいと思います。

 

自然の本能~足るを知る~

今の時代は古い暮らしをしていた先住民たちの文化が壊れている時代です。グローバリゼーションという名の波が、世界中のあちこちにまで蔓延し多様な暮らしを一つの暮らしになるように変えてしまいます。

隣国の中国でさえ、15年前と今ではまったく暮らしが変わってしまい都市部ではかつての中国の様子がほとんど感じられません。今ではあの広大な国の僻地にまで大規模工場や娯楽施設、西洋的な住宅が増えてはそれまでの悠久の暮らしはなくなってきています。

アフリカやブータンなどという古い暮らしも次第にその波に脅かされています。もともと持っていたものの価値を否定し、若い人をはじめ自分たちが西洋人と比べて持っていないことを不幸だと植えつけられ、その不幸を避けるためには勤勉になるしかないと教育し不幸を抜け出すために必死に経済のために働くのです。

みんなが持っているのに自分は持っていないという考え方は貧しい考え方だと言われます。しかし本当は貧しいのではなく、足るを知らなくなることで不幸であるという生き方になってしまうのです。

老子に「足るを知る者は富む」があります。「足ることを知らないと不幸になる。欲が多すぎても強すぎても不幸になる。足ることを知ることに満足できる人は常に幸せでいられる」(老子第46章より)があります。

そもそもの貧しさとは不幸のことであり、豊かさとは幸福のことです。真の豊かさというものは、持っているか持っていないかということではなくすべて持っている、「今の自分のあるものはもっとも今の自分に相応しい」と満足し、だからこそ感謝して、その上で御恩返しになるようにさらなる生活を向上し自助練磨、修身精進していくようなものです。

畢竟、自分は誰とも比較できない自分自身であり、自分自身は絶対的に自分であるという唯一無二の自分らしさよりも誰かや周りと比較しては自他を羨みそして競争し、集団に餌付けされ飼いならされ本能を忘れてはまるで自転車操業のように毎日只管走らされて止まることを恐れ不安にさせられています。そうやって視野狭窄にし追いつめられては周りを巻き込んでいくのが今のグローバリゼーションの手法です。

そこに自分自身が負けてしまうことで不幸は蔓延してより多くの人たちが物が溢れて裕福なはずなのに仕合せに生きられなくなってきています。

かつての暮らしは、自然を優先し人間を少し下げて調和を重んじてきました。

今は人間が何よりも最優先で、自然であるよりも人間社會の中での上下の差や貧富の差にばかりフォーカスされては幸不幸を語られます。一度、破壊され喪失してしまったかつての文化の中にもう戻ることはできず一度走り出したら自転車操業しかありません。

もう一度、真の仕合せとは何か、真の豊かさとは何か、「足るを知る」心から見つめ直して本来の本能を呼び覚ましていく必要があるように思います。

足るを知る心とは、自然界の本能だからです。
自然の本能の減退こそが、人間の不幸だということです。

自然界の本能を育てて磨いて、本来の人間の仕合せを働き方と生き方の一致で新しい時代の真の豊かさを次世代へとモデルを示し譲っていきたいと思います。

 

 

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

自然の営みに合わせる

昨日、自然農で育ち収穫し脱穀した稲を籾摺りして炊いた玄米を食べました。噛めば噛むほどに深い味がし、御米が育つ場・間・和を優先してじっくりと見守られ見守った御米は感慨も一入、また格別でした。

そしてその時、食べるというのは実は大変有難い丹精丸ごとを食べているのではないかと実感しました。

私たちは便利さを追求しているうちに食べるという行為でさえ、単なる空腹を満たすようなものになってしまっていますが本来は食べるという営みこそが、生き活かされている証拠であるのです。この「食が営み」という言葉を何度も聴いたつもりでいましたが、昨日一年間の御米の見守りを振り返りながらはじめて「ああ長い時間を経て得たこの出会いの瞬間こそが営みであった」と深く実感しました。

人生の目的は結果ではなく経過であることは誰もが分かっています。しかし、結果さえよければと結果だけを追い求めるのが人生の目的になれば暮らしそのものを味わったりするよりも悩み煩わしいことばかりに心を奪われ意識が囚われてしまうものです。

しかし丸ごとの今を受け容れ、時間をかけて丹精を籠めて全てを善いことにして楽しんでいく日々を過ごしていけば結果が自分の思い通りでなくても、自分の思っている以上の出来事が起きているのを知って感謝の心が育っていきます。

自分の思い通りにいくかどうかばかりを皆追い求めますが、本来追い求めるものは思っている以上の奇跡や感謝に新たに出会うことだと思います。

長い年月ずっと念じ続けて思い続けて信じていれば、たくさんの御縁に恵まれそのことから事が次第に為されていきます。素直に謙虚にさえ歩んでいけば、自ずから道が開けて周りの助けによって事は”なる”のです。

本来、じっくりと時間をかけるのは自然が四季を循じるように自然が自浄していくように自然に任せて取り組んでいくものです。思い通りにいかないのは人間に合わせようとするからです。人間に合わせるのではなく、自然の流れに沿い従い応じて任せていきながらその中で精いっぱいの自分の丹精と真心を使うことではないかと思います。

地球上に於いては”いのち”はすべて等しいものであるということを自明します。人間だけが特別であるという傲慢な気持ちを少し我慢さえすればこの世はまるで楽園のようです。齢を経るとともに、人々の囚われている自我の刷り込みを何とかして取り除いてあげたい気持ちは減るどころか益々高まってきています。

今回、取り組んだ自然の実践ではまだまだ技術は未熟ですが自然の営みに合わせるその真理は少しだけ心身に染み込んできたように思います。じっくりとゆっくりとしたいのちに合わせて有難い機会と実践の恩恵に感謝しつつ、その気付きを子どもたちの未来の社會に還元していきたいと思います。

役割意識~人生の目的~

北米インディアンの諺に「7代先の人達のことを考えて生活しなさい」があります。ちょうどこれは200年から300年くらい先のことを考えて今を判断しなさいという教えです。

人は判断をするのにどれくらいの長さで物を観るかでその哲学が変わってきます。今が過去の集積によって存在していることの実感は、同じように先祖たちが考えてくださった未来を今を生きる自分たちが感謝し子孫へ譲っていく思想です。

例えば、食糧でも同じく自分たちの代で食べ尽してしまえば必然的に子どもたちの時には残っていません。子どもたちが貧困で苦しい思いをしてほしくないという思いは誰だって子どもが産まれたら願うものです。そして戦争でも同じく、自分たちの代で戦争をすれば子どもたちには戦禍を遺すことになってしまいます。子どもたちが悲劇に見舞われないようにという願いは同じように誰にでもあるのです。

しかし今の人たちは意図的に操作された自我優先の慾環境によって盲目に刷り込まれ自分たちの身の上のことばかりを思い煩い、先々のためにどう生きるかということを優先することができません。まるでそれは自転車操業のように、走り続けなければ倒れてしまうと思い込んでいるように働きに働きづくめで忙しさに心を取り戻せません。

空の悠久に流れる星々をみつめて今世の自分の役割を果たそうなどと考える時間もないほどです。

北米のインディアンたちは、太古の昔から「自分のいのちは役割を果たすためにある」といった哲学をもって生き抜いてきました。何よりも優先するのが使命や役割だったのです。「グレートスピリッツ」という全自然の偉大な大生霊の循環によって産み出された自分の存在を生き活かそうとするのです。

それは自分が男や女、またどの家系に紐づいているか、その今の自分そのものの全体の中の役割に生き切ろうとするのです。

その役割についても徹底してて、部族の役割の頂点にいるのが酋長です。この酋長は全ての物を全ての人に分け与える存在として選ばれます。従って酋長は一切資産資材を持たず、一族の中では最も質素な暮らしをしていて全体のために自分の役割を生き切るのです。

役割意識というものは、何よりも大事な意識です。

自分の人生を役割だと思えるか、その役割を果たそうと実感できるか、そこには謙虚な生き方があります。自分の生とその自分に与えられた役割に素直に感謝できるとき、今の自分が見守られていることを知ります。そして満たされている存在、足るを知ることによりその御蔭様に対して御恩返しをしたいという願いがでてきます。

その時、はじめて自分がどう生きたいか活かされている自分をどうしていきたいかという人生の目的に出会うのです。

どんな人もどんな動物草木昆虫菌類、無機質のものにいたるまで役割があるから一緒に暮らしているのです。お互いが違う役割を求めるとき、人は生きる意味を見失うように思います。

自分探しや自分の目的など色々と彷徨っている話を聴きますが、大切なのは与えられた役割に気づき役割を果たすことに専念することのように思います。

「自分のいのちは活かされている」という実感があって人は目的に出会うのでしょう。

役割を果たせるように今日も未来永劫に続き未来の子どもたちと、宇宙や世界全体のために今できることに専念していきたいと思います。

 

この酋長はもっとも

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

自然循環と人間社會~天命畏、徳性尊~

以前、「なぜ新宿で自然に沿った生き方をするのか」とある人に聴かれたことがあります。里山か田舎にいけば、田もあり土もあり、自然はあるのに東京都庁の隣の大都会でなぜかとありました。

そのことを少しここで書いてみます。

そもそも都会というものは、人間が生み出した社會のことです。この社會とは人間だけを中心にどのような暮らしをその中で行うかを考えて人工的に創りだされたものです。私たちは集団をつくりその集団の中でお互いが生き残るために力を合わせて生きていく仕組みを開発してきました。

その社會の中には、思いやりが中心に据えられ人のぬくもりを感じながら安心して暮らし続けてきました。人間社會という言葉にある通り、人間が社會であり、社會が人間ということです。

また同時に地球の中に住まう私たちは地球の一部です。地球の一部であるというのは地球のリズムに沿って生きているとも言えます。四季があるように、昼と夜があるように自然は一定のリズムを持ちます。その自然のリズムに沿って生きるというのは、人間社會とは別に存在している自然循環です。先ほどの人間社會に対し、自然循環というのも自然は循環であり、循環が自然のことです。

人はこの自然循環を優先し、そのあとに人間社會を実践することが調和を創ります。里山の原理も同じく、問題は自然に沿っているかどうかということが問われているのです。

都会の中にいても自然に沿っているならば、私たちは自然の浄化を邪魔することもなく持続可能で豊かな生き方をしていくことができます。人間社會のみの発展だけに特化し経済競争だけを中心にしていけば勤勉であることが美徳のように語られます。

しかし本来は勤勉とは、その背景に楽しさがあってのことです。日本人が勤勉だから美徳ではなく、日本人は働くことが大好きな民族なのです。つまりは道楽者が多いということ、働ける仕合せを実感して生きる御蔭様や感謝の真心のままに素直に生きてきた民族であったのです。

世界からは勤勉だから経済大国になったと目標にされますが本来、自然に沿って暮らしていつつも感謝を忘れないで生きてきた私たちは働く仕合せがあったから結果として経済も発展したのです。

豊かさについては色々という人もいますが、私が思う真の豊かさというものは自然に沿った生き方をし人間を大切に思いやり正直に明るく楽しく暮らしていくことです。

私が新宿で子ども第一主義の理念を掲げ実践を増やし続けているのも、そういう本来の生き方を環境や状況に左右されずに成し遂げていこうとする初心を忘れないためでもあります。

子どもたちはこの加速した都市化していく暮らしの中で希望や夢を失うことがないように、私たち今の大人が天命を畏れ徳性を尊び、御蔭様に感謝しぬくもりや思いやり大切にして実績を遺してあげることだと思います。

自らが挑戦してモデルになることで必ず子どもたちの勇気になっていくと思います。

忙しさに負けない心の強さとやさしさ、真の豊かさを味わえる高い心を道を共にする仲間たちとともに大事に育てていきたと思います。

 

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。

自分の道~人生の醍醐味~

人間にはそれぞれに与えられた人生があります。産まれた時から今に至るまで、その人にもっとも相応しいものを与えてもらい今の自分が存在します。自分というものの認識は、今与えられている全てに感謝できるときにだけ本来の自分であることができるものです。

しかし人は不平不満から与えられていることよりも、不足していることの方にばかりに関心を抱き、今を受け容れることをしないものです。

その代表的なものが「自分で決める」「自分で歩く」ということの放棄です。

物事に限らず全ての機縁は、来たものの選択によって左右します。言い換えれば日々は全てにおいて「選択と判断」によって大きく変化していくからです。来たものに対してどちらを選んだかで未来は全て変わっていきます。

来たものに対して自分にとって都合の良い方ばかり選ぶ人と、来たものに対して自分にとっては都合が悪くてもそれ以上の大切なもののために最善を選ぶ人と、それはその人の生き方といった判断基準によって変わってくるものです。

ある人はチャンスをすべて棒に振り、ある人はチャンスは全て活かすのです。それは判断次第ですが、その判断がまともにできるのなら人間はみんな完璧な存在になります。しかし人間は本来、与えられた役目がありますから完全な存在です。それを前提に物事を省みると、来たものを選ばないことが最も今の自分に相応しいということになるのです。

そしてその時、同じ出来事を通過してもその体験の質を考えないといけません。つまりは、その道は与えられたものを歩かされているのか、それとも自らが歩んだかということです。

もしもその人が自らの運命を信じてすべて来たものを選ばないと決めているなら、矛盾していますが本当の意味で選ぶことを決めなければなりません。向こうから日々に訪れた時処位に対して歩かされてしまうのか、やらされてしまうのか、それとも自らが歩むのか、自らで決心したのかは唯一その瞬間瞬間に選択できるものだからです。

人生というものは、外側の世界をどうするかではなく自分の内側の己に対して如何に正直に素直にいるかということが本当の勝負です。だからこそ、目の前の出来事に対して頭ばかりを使うのではなく、出来事を心を味わい、それに対して自らが積極的に決心をし進んで義務を甘んじる勇気と実践が何よりも大切なのです。

日々の仕事にしても、やらされている人は与えられているものを結局はちゃんと受け止めずそして単にそれをこなしているだけで敷かれたレールの上を背中を押されて歩まされているだけになります。人生は一度きりですから、レールがあるならそのレールを自らの決心で受け容れ、自らの足で歩んだときそのレールは最幸のレールになるのです。

親のレールであれ、誰かのレールであれ、今のあなたがいるのはそれはもっとも相応しいからそこに在るのですから文句を言う前に大事なのはそのレールに感謝しそのレールを自分のものにする覚悟こそ「道」だと思います。

道を単なる道路にしてしまえば目的地までいくのは自分勝手にできるのかもしれません。しかし道は単なるレールでも道路でもなく、あなたに与えられた唯一無二の道なのです。

道は自らの足で歩んでこそです。

本当の自分を取り戻すには、何よりも日々の瞬間瞬間を選ばずに選び自らの足で道を「切り開き踏み締める」ことで得られると思います。人生は気づけば何度でもやり直せるのも道の御蔭様です。

子どもたちに見せられる背中を歩んでいきたいと思います。