木鶏という本当の強さ

人は目で見え結果として現れているものを信じようとすると漠然とした不安に苛まれるものです。その反対に心で観える経過が顕われてくるものを信じようとすると安心してくるものです。

だからといって心で観える世界だけかといえば現実がありますから、本来はその優先順位がどうなっているのかという確認が必用であろうと私は思います。

例えば、日々の仕事でもそうですが何を自分が優先しているのかというのは内省することにより自明してきます。日々の業務に追われていれば、目の前の業務を終わらせることが優先され本来の仕事は何だったのか、本業は何をすることであったのかということはおざなりになるのです。

そういう時には、何のために自分はこれを行うのかということを少し立ち止まり心で確認し、そこから業務に入ることで終わらせようとする気持ちよりも本質的に行おうと思うようになり、次第に丹誠を籠めて丁寧にプロセスを味わおうという仕事を楽しめるようになるのです。

忙しいというものは、自分の心の不安から本来観えていたものが観えなくなっている状態のことを言います。結果ばかりを追い求めては、遠くに探しにいくばかりで脚下の実践を大切にしなくなってしまうのです。

私は「あなたの探し物は一体何ですか?」という問いを投げかけることがあります。よくメガネをはずせば世の中がよく観えるとか、思い切って目を閉じて耳を澄ませば観えてくるとか、そういう感覚なのでしょうが本来、自分が何を優先して生きるのかというのは理念や信念によるものなのです。そういうものを忘れるくらい盲目になってしまっていては、探し物は探さなくても其処にあるのにいつまでも探し続けるのが仕事などという愚をおかしてしまうかもしれません。

心で観える世界というものは、心で観ようと思わなければ観えない世界のように思います。いくら目でそれを追ってみても何も感じず、何も分からないからです。もし理解して分かった気になったとしても本当にそれが分かったとはならないのはすぐに現場に出て観れば分かります。

心の信念がどれくらいの強さで行っているのか、心の理念がどれくらい本気であるのかは必ず相手が鏡のように自分を写してくださるからです。

子どものためにという「思い」にしても、その子どものための思いの質量はその人の「思いの強さ」によって決まるからです。どれだけの思いの日々を集積しているのか、どれだけ日々にその思いを育て醸成したかというのは、単なる業務を積み重ねる日々ではなく、本質的な志事を実践することによって行われるものです。

そしてその志事は、自分にとって困難である方、苦難である方、厳しいものである方が錬磨研鑽することができるのです。自分の方に軸足を置いて日々に働いた気になっていたとしても、それは目で追ったものを単にやり過ごしているだけになるのかもしれません。

そうではなく、常に軸足は信念、理念、もしくはお客様や子どもというように本来の志業に置くのであれば自ずから一体の境地で心身を高めていくことができるように思います。そしてそれは須らく「決心」というもので始まり「覚悟」というもので終わります。

今の世の中は、目に見えるものばかりが価値があるかのような錯覚を与える刷り込みと誘惑の世界です。そういう中でももっていかれない「本当の強さ」を持てるようになることが「木鶏」なのかもしれません。

そしてそれは出来事や事件といった体験といったご縁の一つ一つを大切に実感し学習し、改めて善いものへと見直すことによって改心されていくものです。

本当の強さを持てるようになるためにも、常に理念から実践し思いを醸成し精進していこうと思います。

人間都合の罠

人は物事を判断するときのモノサシとして自分にとって有益か有害かというものを見ます。

例えば、先日からの植物を例にすれば現在名前がつけられている植物だけで35万種あるといいます。まだ名前がつけられていないものも沢山あるのですが、その中で勝手な話ですが人間にとって有益だとしているのが大体3千種だと言われています。

おかしな話ですが、西洋から渡来した農業方針では34万7千種の植物は有害、もしくは無益とされ、農薬をはじめ除草剤、もしくは抹殺の対象となっています。そのためには、強烈な除草剤の開発を続け、それらの草を抑制するために様々な道具が日夜開発されています。

植物でこうなのですから虫や鳥などとなると、ほとんどが有害か無益と考えられ人間に都合がよい野菜以外はすべて排除するという考え方です。アメリカの大規模農園の映像をテレビで拝見しましたが、セスナで農薬を散布し、自分の育てている野菜以外はすべて排除の対象である姿を見て背筋が凍る思いをしたことを覚えています。

それでは人間に有益と呼ばれる種は今どうなっているかといえば単に過保護にされるだけではなく過干渉に種を操作し、F1と呼ばれ遺伝子をいじられたり余計に交配させられ、より沢山、より便利に収穫できるように改造されていきます。現在ではその有益とも呼んでいる種も固定種のものはほとんどがなくなり、ビニールハウスの中で24時間光をあてられ、肥料や栄養をどんどん詰め込まれ、より速くより大きくなるように仕込み収穫され、種もなくあったとしても種も改造され自らで子孫を残せないような種にさせられ販売している始末です。

よく考えなくてもどれだけ今、不自然でおかしなことが起きているのかが誰でも分かるようなことを見過ごされては身近な社会の極端な報道ばかりで全体が目くらましをあっているというのが私達とも言えるのです。

本来、人間都合というものはこの考え方に共通します。人間は自分の都合で世の中をみるのだから、見たくないものはみないというのもまたこの考えに添っています。直視するということができるのは人間都合、自分都合のメガネを取り払うときにできるからです。

もしこれら植物で起きていることが人間で行われていたらと考えれば現在の社会の構図が観えてくるともいえます。将来、この人間都合の考え方は倫理の壁もいよいよ超えて植物で起きていることを人間そのもので行われる可能性も決してないとはいえません。

それではどうすればいいのかということなのです。

自然農を実践していく中で、本来の人間都合というものがどれだけ危険な思想なのかというのを考えると同時に、如何に自分たちが実践していくことで自らが自然の謙虚さを学ぶのかといううことが肝要なのではないかと私は思います。

そういう私も都会に住み、現在の社会の中にいるのですから今の文明そのものを否定するのではなく、生き方として優先するものを何にするか、、都合という我慢や我欲をよく見つめ、自然界から生き活かし合う姿を学び、それらの自然を優先しつつその中でもって今を創意工夫していきながら本来の人間というものの在り方を一緒に学び続けていこうという先人たちの智慧の再発見を行うことだと思います。

祖先は皆、今の私達よりも多くの体験をしてそれを受け継いできました。私たちの100年ほどの価値観など、祖先の数千年、いや数億年の篩にかけられたものには決して敵いません。だからこそ祖神の声をよく聴いて、よく観て、よく真似ていくことが子々孫々の繁栄にかかせないように思えます。消えかけていますが探せばまだ沢山の智慧がこの国にも世界にも伝承されています。

最後に人類にとっての本当の危険とは、この人間都合の罠のことなのです。

本能が減退している現代だからこそ、本質を掴みとるために実践し、精進を続け、もう一度ゼロベースで自然から学び直していきたいと思います。

 

野に降る

自然を考えている中で、この今の自然が如何に人間の都合によって塗り替えられているのかを気づけます。

そもそも人間にとって都合のよい植物と都合の悪い植物で扱い方が天と地との差があります。野菜は人間が食べるものだから大切に育てますが、それ以外は雑草という呼び名でいつも嫌われています。

うちの畑でも最初に最も嫌悪されたのが雑草で、雑草の種が飛んでくるから草をすぐに刈ってほしいと遠巻きに言われたりもしました。草を敵にしない農法といくら説明しても、それが理解されるわけでもなく色々な農業事情のこともあり見た目のところが悪くならない程度に草を刈るようにはしています。

しかし、春から夏になれば雑草を中心に群がった虫たちの大合唱が楽しくて野菜も雑草も分け隔てなく食べている虫たちが元気な姿に畑の楽しさを実感して草もなかなか刈れなくなります。

都会で生活していると、虫がいません。ごくたまにベランダの花壇に飛来してくる蜂や蜘蛛、トンボなどを見ると本当に嬉しい気持ちになります。身近に虫がいないということがない田舎育ちのせいか、植物もない虫もない鳥の声もしないという中にいることは本当に淋しく感じます。

昨晩も帰路につく最中、道端の雑草をみながら都会にも逞しくいのちをつなぐ姿に都会暮らしの中で自然を追及する自分の姿を映していました。なぜわざわざ自分は新宿のど真ん中で自然を観直に自然を学ぶのかと考えると、雑草のように生きようとしている自分が此処に居ることに自明するのです。

この雑草とは何かといえば、かつてエマーソンがこう定義しています。

「雑草とは何か?それはその美点がまだ発見されていない植物である。」と。

それをファン・デグォン氏は雑草ではなく、私は野草と呼ぶと定義しました。私もまったく同感で、野菜と雑草ではなく、野草であり野菜なのだというように考えています。道端の小さな虫たちも鳥たちも植物たちもみんな自然の一部。

その一部としての自然をどのように価値を見出すかはその人次第です。

だからこそ、自分の生き方を改め、本来価値があるものをもう一度再発見しなければならないように思うのです。今の世の中は、すぐに人間都合の歪んだ価値観でそのものの価値を定めようとします。しかし本当にそれが価値なのかと言えば、それは誰かによって意図的に生み出された人工的な価値であることには間違いありません。

この世でもっとも価値があるのは、すべて自然や天や神様が生み出したと私たちが謙虚であるときに観ているものではないかと思います。御蔭様然り、勿体ない然り、有難い然り、すべては私たちの想像を超えた美しさを永遠に放ちつづける自然の中にこそあるのです。

もう一度、野に下っていくところから人間は学び直した方がいいのかもしれません。今のような文明の過渡期に、価値の大転換をどのようにやってのけるのか、それは自然が味方になってくださるのだから自然の観方から転じていくことなのではないかと私は思います。

子どもたちには自然の価値は自然のままに観えています。だからこそ、子どもたちと共に自然から学び、自然に学び直す実践を続けていきたいと思います。その実践がいつの日か必ず人工的な価値観よりも優先されるようになり、最期には地上のバランスを人間が保てるように調和することにつながると信じます。

この世にはもっとも当たり前だと思っているものが何よりも当たり前ではない尊さと輝きを持っていることを決して忘れてはいけません。自然の価値に抱かれて活かされる幸せを謳歌していきたいと思います。

種に学ぶ

自然農を実践し、畑の種を観察していると色々と発見があります。

一昨年の冬に元気に育った大根をそのままに花を咲かせましたが、そこから自然に新しい今年の大根が生えてきました。それを観ていると、梅雨時期のたくさんの雨や夏の鬱蒼とした草たちや虫たち、多数の種たちの中でよくぞ此処で生えてきたものだと感慨深くなりました。

種というのは、不思議なもので自分が出てくるタイミングを自覚しているように思えます。それは季節だけではなく、今が自分の出るときだと知っているような感覚ではないかと私には思えるのです。

沢山の種がそれだけ長い時間、待っていることができるということに感動するのです。

土の中では、その他、何年も何年も掘り起こされるまで眠っている種もあります。自分が生育できる環境が顕われるまでタイミングをじっと待っているのです。時には、季節外れに生えてしまったり、時には、環境が悪化しているときに出てしまったり、他の種が先に芽吹けばそのまま種のままで居続けたり、そしてそれもまた自分の出番であり、自らの御役目を謙虚に受け容れ、種の維持、子孫として自らが道を切り開いているのです。

植物や虫たちは、種の保存、種(シュ)というひとまとまりで生きています。だからこそ、そのひとまとまりが自分そのものでありその種(シュ)を遺すために皆で協力して自分を生き切るのです。

この自分とは役割であるということが、ここから悟れるのです。

一見、評価の世界で生きていたら無駄死にではないかとか、犠牲になったとか、いろいろと論じますが本来は、そのひとまとまりでいのちであり、ひとまとまりで生き残っているのが私達です。

つまり違いもなく、自他もなく、みんなで役割を持ち生き切ることで一つのいのちであるということです。これは菌類も同じで、みんなで種を遺そうと協力し合い深い絆の中で共に活かし合い助け合い未来そのものになるのです。

種ということから自然の全容が顕現してきます。

もっと大きく、もっと全体で、もっと役割というところから自分を見つめていきたいと思います。
種に見習い、生き方から見直していきたいと思います。

2014のテーマ

昨年も沢山の方々の御蔭様の中で、無事に自分を活かしていただくことができました。年々歳月、自分の与えられたいのちの時間は減り続けていますが同時に豊かさの時間はずっと増え続けています。

この地球上で人生を謳歌できるということは、自然のあるがままにいるということであり、得難い一期一会を戴いていることを心で実感します。

また新たな出会いの中で仲間や家族が増えていくことほど、人生の無二の愛を実感することはありません。人は人との間に愛があり、愛を感じることで絆も深くなっていきます。たとえ外界の自然界と人間の距離が離れてしまっても、御互いを思いやり必要とし合う関係の中で新たな「つながり」を産み出していくのが私達、いのちあるものの徳恵であるようにも思います。

都会と田舎を行き来していく中で、都会では強く人との愛を感じ、田舎にいけば自然の中で慈しみを感じます。生きているということは、偉大な慈愛の中で活かされているのだということを思わない日はありません。

今年も、独立自尊の道中において師とのテーマを共有することができました。
毎年、ふり返りの中で道の課題と正対し学び続けることができることに幸せを感じております。

今年は「途中を大切にする」ということになりました。

保育のお散歩で例え話をいただきましたが、子どもたちのお散歩もよく目的地まで行くことが目的になっていて目的に達するとさっさと戻って来るということがあるそうです。学校の教育実習などもそうですが、目的地だけが目的になってしまっていることがよくあるように思います。

そうではなく、目的地までの道中を楽しむ、プロセスを味わうというように、実際は目的地に行くことが目的ではなく、目的地までの道のりそのものが目的であるのだという意味です。

どうしても人は焦りや不安があったり、目先の出来事だけに囚われてしまうとどうしても心の眼で捉えていた本質から次第に離れていくものです。しかし、たとえ暗闇の中にいるようでも灯を消して観れば自然の明かりがぱぁっと啓けて顕われてくるように思います。

色々と社会現象や、子どもの今を垣間見たとき焦りそうになることがありますが、夜明けのない朝がないように必ず世の中は清々しい夜明けを迎えることができるように思います。

だからこそ途中を忘れないための実践をすることを優先し、結果や目標が目的ではなくその過程をどれだけ大切に生き切っているか、その大義や意味を深めて堅忍果決、精進しつつ丹誠を玩味するのかはその人の決めた生き方そのものによるように思うのです。

これは心の余裕ともいうものかもしれませんが、常に心のままに観立てていける力を育てつつ真摯に学んでいく一念にしていきたいと思います。

今年も、また学問道楽の日々を送れることに心から感謝いたします。

今年もよろしくお願いします。

道草日記~あるがままに~

先日、「ファン・デグォンのLfe is peace with 辻信一」のDVDを拝見する機会がありました。以前、自然農の川口由一さんのDVDと同じシリーズだったので、自然をテーマに本質的なお話が拝聴でき、新たなインスピレーションをいただくことができました。

このファン・デグォン(黄大権)氏は、米国留学後、帰国した際にスパイと間違われ激しい拷問とそのまま13年と2ケ月という月日を独房で牢生活を送っています。その中で、様々なことを生き直し野草という身近な存在に気づいてそこから自然というものに入り込み「野草手紙」という獄中から妹に宛てた手紙が出版されると100万部を超えるミリオンセラーになったとのことです。

この物語だけを聴いても、吉田松陰のことを思い出します。吉田松陰も妹がいて、獄中から様々なことを妹に手紙を送っています。それに獄中で囚人たちと共に学びその講話を記述した「講孟箚記」は100年を超え今でも読み継がれるミリオンブックです。

その人が艱難辛苦を耐え忍び、その志を堅古にし内省により掴んだ智慧はいつの時代も人種の違いもなく真理として心に深く響くものがあるように思います。

この話の中で特に印象に残るのがカササギの観察の話です。私も動植物の観察はライフワークなので巣をつくるところと自分の居場所を組み合わせで直観した話はとても参考になりました。

これはカササギが、巣をつくるために何回も何回も試行錯誤し最初の枝が木の隙間にストンと入るまで諦めずに新し枝を探し求めて旅を続けるというところです。そして「平和や幸せというものは、それと同じく自分のいるべき場所にいることだ」と言い切ります。

「そこには一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは人智を超えた神の精妙なるデザインである」と続きます。ここにも自然の仕組みをこの方が発見していることを悟ります。

私達人間というものは、自然から離れ人工的な欲を満たす世界の中で謙虚さというものを忘れてしまっていくものです。本来は、自分の思い通りになどいかず、その方が思い通り以上の素晴らしいことが起きていることも分からなくなっていくものです。

そうしてみては不平や不満を言い、自分の居場所ではない所の方を羨ましがり本来感謝していたはずの存在そのものの有難さよりも、自分にとって都合のよいことのみを嬉しがるといった道から外れた幸せを追ってしまうものです。

しかし本来、自分の与えられた天分というものは自分が決めたものではなく生まれ落ちたところから今にいたるまで全ては全体の中の一部として存在させていただいているものです。自分がそうさせていただいているという実感は、自分があるのは様々な御蔭様の上に成り立っているという謙虚な気持ちを持っているということであろうと思うのです。

本来ならば、自分が地球上でこれだけの自由にさせてもらいながらそこへの感謝を忘れては地球や宇宙への貢献ということも何の事だか歪んで解釈されていくのかもしれません。私たちが活かされているということも自然の動植物は当然に自覚しているからこそ、先ほどのカササギの枝のようなものまであるがままに観えるのでしょう。

あるがままの心で生きるというのは、素直に活かされていることを実感するということだと私は思います。そして今、居るこの場所を深く厚く掘り下げていくことだと思います。生きている以上は活かされているはずです、それは空気も水も光も風もみんな自分を活かしてくださっています。

だからこそ自然の有難い御恩にどれだけの感謝を盡すか、共に天命に活きようという声掛けなのかもしれません。道ということは、目で追わなくなり心が定まった時に顕現するものかもしれません。暗闇の中に一筋の光が差し込むようなものなのかもしれません、私も絶望の度にいつも助けて下さる方々に出会い人生がさらに歩みだしていきます。

ファン・デグォン氏は野草でしたが、私の場合は道草なのかもしれません。このかんながらの道のブログも私という草を活きる「道草日記」のようなものだからです。これからも自然に活かされる有難さを感じつつどんな機縁も勿体ない心で、自然と共に強く優しくあるがままに歩んでいきたいと思います。

立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

一生一省~ライフワーク~

先日、ある園長先生とのふり返りの中で生き方と働き方について話をしました。その中で、ライフかワークかではなく、ライフライフライフだということや、ライフワークそのものという話をして盛り上がりました。

私はこれらのライフもワークも分けない人、いつも遣り切っている人だとよく身近な人たちから評価されていますが、これが何かということを一度深めてみることにします。

よく世間では、仕事とプライベートという言い方で人生を分けています。働いているときと休日も分けていて、週末はぐっすり寝て休み、平日は一生懸命に仕事をするといような感じになっています。他にも、私的なものと公的なものという分け方や自分事と他人事という分け方などこれは自分の人生で、あれはみんなと合せた人生という分け方をしたりもします。

言い換えれば、自分の都合で何かを分けているという感覚で仕分けるのでしょう。

これを生き方の働き方の一致、つまりはライフワークになっているとどうなのかといえば平日も休日もまずありませんし、私的も公的もなく、自他も一体になっているし、全て丸ごと自分の人生という生きざまになっているということになります。

つまりは、ライフライフライフであり人生というものそのものに真剣になっているという状態なのでしょう。真摯に生きるということは、自分の中の分別知を持たないということによるのだろうと思います。

自分の人生の目的に対してどれだけ真摯に今を生き切るか、真理を探究するか、自らを修養するか、自学自習を研磨していくかということを実践していくのです。

実践と実験と実証を繰り返す人生においては、ライフもワークもないということでしょう。

自らが取り組んでいる人生の課題、言い換えれば目的に対してどれだけ真剣に生き切るか、全てのご縁を活かそうとする人生の姿勢がブレナイということがライフワークになっているということかもしれません。

時間というものは、あの川の瀬音に聴こえるように猛スピードで流れていくものです。二度と戻ってこない今だからこそ、少しも無駄にしたくないという心が全てを遣り切るという行動につながっているのかもしれません。

死を想い、生を活き、時を信じ、人を愛し、自然一体の道にいることが一生一省なのかもしれません。

この今もいのちの躍動を感じつつ、かんながらの道を楽しんで往きたいと思います。

成長とは何か~真の智慧~

先日、ある園の理念の確認の中で強く逞しくあるということについて教えていただきました。

強く逞しくという意味を教えて下さった方は、戦中戦後の厳しい環境の中で、実に多くの苦労をなさって今に至ります。そしてこの強く逞しくというのは自立を顕していますが同時に苦労というものの本質を示しています。

そもそもこの苦労というのは、肉体的にも精神的にも何かと苦しい思いをして懸命に何かを為し遂げたという意味や、それだけ沢山の方々のお世話になり厄介になって助けていただいたという意味で使われます。御苦労人という言葉があるように、過去に様々な悲しく辛いことを体験し苦労をすることで人生の機微や他人様の有難さを知り人情に通じている人のことをいったりするのもこの「苦労」という意味です。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という格言があります。これは若い時に苦労をしたことは後のちとても役に立ちますよという意味です。

今の時代は物に溢れ、何もかもが豊かに満たされ苦労することはなくなってきてすべてにおいて甘やかされた環境の中で生きているともいえます。若い人が苦労をする場所がどれだけあるかといえばほとんどなく、苦労を体験できるところも減っているように思います。

一昔前までは、ないものづくしのなかで便利ではない社会の中で、思い通りにはいかないことで沢山の苦労をする環境がありました。しかし今は、そういう苦労はさせたくないという人たちとそういう苦労はしたくないという人たちの思いばかりで自ら進んで苦労をしようとする気持ちなど持たなくなっているように思います。

この苦労というものは人を強く逞しくし、苦労がないと人は弱く貧しくなり元気を失っていくように思います。人は成長するというのは、この苦労をするということであり、苦労をしないで成長するということはないのです。

苦労がある人の持つ人生の背景というものはとても奥深いものがあります。表には出さないけれど、その人の人格や風格、人間性や言霊、生きざまにはその背景というものがのるのです。その人生背景に苦労がある人は、人間的に豊かであり洗練され含蓄があるものです。しかしそういうものを持たないで知識だけもってもやはり何か薄っぺらなものを感じてしまうのです。

そう考えてみたら、この苦労するというのは今のような時代「買ってでもせよ」ということが大切なのではないかと私は思います。この買ってでもというのは「自分から体験を克って出よ」ということではないかと思います。

つまりは自ら大変だと分かっていても、志や使命に根差すものを持つのなら主体的に行動し失敗を恐れずに挑戦せよという意味であろうと思うのです。もちろん、挑戦すればするほどに失敗もあり辛い体験、他人様からの評価批判などに晒されてしまいます。

しかしそこを耐え忍び、辛く苦しい中でも労を厭わずに信念をもって努力精進していく中ではじめて貴重で豊かな尊い人生体験をすることができるのです。

成長というものは痛みを伴うのは有難いことであり、体験し苦労をせよという意味なのでしょう。また逆に成長を止めるということは苦労することを避けてしまい痛みを怖がって何も挑戦しないことを言うのでしょう。自立というのは、強く逞しく生きていくことなのかもしれません。

だからこそ成長というものは、そこに「強く逞しく生きよ」という独立自尊する人生の強いメッセージを実感します。このメッセージとは、「どのような環境下であってもその気持ちを忘れてはならぬ、齢を経て、人生を振り返ったときに最も大切だったのは『苦労する』であった」と教えて下さる方の言葉こそが真の智慧ではないかを自明するのです。

齢を経るというのは、成長の証が残るということ。そこに真心を持って苦労を伝えて下さる方々がいることに心からの感謝と共に、自らも成長していきたい、苦労していきたいと心が激励されるのです。

一期一会の出会いの御蔭様で苦労という人生の豊かさが真の豊かさであること、真の智慧とは苦労の中にあることを学べ気づかせていただきました。

強く逞しく、挫けずへこたれない大和魂を次世代のために奮起し実践していこうと思います。

有難うございます。

 

仲間との邂逅~尊い学び~

先日、社内木鶏会を行う中でクルーの一人の生き方からとても大切なことを教わりました。

それは「自分の行動が誰かの勇気になる」という言葉です。

これはかつて自分を鼓舞するとき、努力すれば必ず夢は叶うと信じて努力を優先するときにいつも自分に投掛けていた言葉のひとつでした。それを改めてそのクルーが努力と挑戦をする中で同じ言葉を用いていることに新ためて教えられたのです。

久しぶりにこの言葉に出会ったとき、「そうか、あれはそうだったのか」と新たに学び直しができたのです。

それは私が若い時、営業先のある方に「天知る、地知る、我知る、人知る」ということを教えていただきそれを紙に書いて机に貼っていたものと対語になっているようにも思えたのです。そのある方は御取引先の方でかなりの高齢の方でしたが、ご縁を戴く中で「誰も観ていなくても天は観ている、神様は御見通しなのだから一人の時でも慎み努力精進をし続けなさい、あなたは一生懸命だからきっと大丈夫だ」と鼓舞された思い出があります。

今になってみると、蔭ながら本気で努力をすることの大切さ、常に裏表なく陰ひなたなく誠実に自分の人生を遣り切っていくことの原点が此処に在る気がして懐古し再び感動しました。

人は同じ体験をしてくれている人を観ると、まるで自分のことのように思えます。その中で、かつて自分が出会った素晴らしい言葉にその人が出会うことに何よりも感動し、自他一体に甦るのです。また生まれ変わるのです。

この「同体験の学び」ということの素晴らしさというのは、同じ体験をしてみたいという憧れから来るものかもしれませんが机上で空論を振りかざすのではなく子ども心に無垢に素直に純粋に憧れ実践するということの歓び、その今の自分の体験の有難さに感謝できているときにそれを実感するのだと思います。

「誰が見ていなくても天が観ている」、だからこそ自分の行動が誰かの勇気になっていくのだと自分を信じて、誰が認めてくれようがくれまいが自分が信じたのだから必ず善くなると、信念を心に抱き挑戦し続けるという姿勢に、「天の見守り、御蔭様への感謝、そして有難いご縁への報恩」の新しい自分の境地を発見し続けて人生の道楽に回り逢い続けるように思います。

この世の楽園というものがあるとするならば、自分の生き方が誰かのためになっていることの素晴らしさに気づき、だからこそと自分の生を怠らず精進しようと努力するときに顕現するのではないかと私は思います。体験できる、尊い学びをいただけるとき、つながりの中で自分として生まれた価値を味わっているのです。

今の時代はすぐに近道を探したり、効果があることばかりを優先したり、結果が出そうなことばかりを選んだりしがちですが、本来は何のために人生を遣わせていただけるのかをよく内省し、健やかに実践することで目覚め、飽かずに地道に丹誠を籠めて一歩ずつ努力していこうとする姿勢に本物の自分との邂逅があるのでしょう。

いつも仲間の努力している姿に清らかな学びを得て、自分の人生の意味を再認識します。仲間の存在とは、何よりも有難いことで師友があるということは其処に尊い学びがあるということなのです。

「自分の体験は必ず誰かの御役に立つ」そして「自分の真摯な真心は必ず天に通じている」と日々の過ごし方を愛おしむように努力させていただけることに感謝していこうと思います。

尊い学びをいつもいただけるのは私の方です、有難うございます。
体験させていただける天に地に我に人に、誠を尽くしていきたいと思います。