自他一体~残心~

武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。

辞書にはこう書かれています。

1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)

これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。

そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。

例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。

心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。

そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。

つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。

「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。

そしてその時なのです。

自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。

自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。

自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。

この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。

 

丹念を積む

人間は目的を見失ってしまうと本質から外れてしまうものです。

これは、全体と部分の物の見方にあるようにも思います。全体のことを最初に考えてから部分に入れば、全体としてどうしたいのかというものは確認することができます。しかし部分に入ってしまえば、途端に全体が見えなくなってしまい問題がすり替わってしまうというものがあります。

以前、大工の棟梁の話の中で、棟梁は常に全体を観るから作業をしないということを聴いたことがありました。職人というものは、入り込んでしまうのでどこまでやるのかということを見失い没頭してしまうので常に全体を視通す役割を棟梁がしているということです。

これに似ていて全体にとっての問題の解決と、部分にとっての問題の解決に視野の隔たりがあるように思います。常に全体や部分を行き来しながら問題を解決していくというのは、御互いが役割分担をしつつ大きな目的のために心ひとつに取り組もうということです。

そして本質や目的から外れないというのは、常に全体も部分も「つながっている」「無駄は一切ない」と信じ観えるようになっていること、言い換えれば私心が入り込んでおらず真心で取り組んでいるということを忘れないということであろうと思うのです。

真心で行うことは、そこには自分の都合や自分さえよければや自分の私心といったものが入り込む余地はありません。人間はどうしても自分の計算を入れていくからそこに自分寄りに物事を運ぼうとしたくなるものなのです。

先ほどの棟梁のお話ですが、飛鳥時代の大工はみんな棟梁たちのような仕事をしていたともありました。先人たちは、丹念や丹誠を籠めてひとつひとつのいのちを大切にして過ごしていたのかもしれません。目的を忘れずに取り組むプロセスそのものを何よりも重んじたということは、そこに道や信念があったということを覚っていたからのように思います。

先人たちに見習い、どのような御仕事も本来は何のために行うのか、そもそも目的は崇高な理念や大切な志のためではないのかと、自らのいのちのある時間に真心を尽くして手間暇を惜しまず手入れをしていこうとするのが本質から外れないことのように思えます。

本質というものは、自分のいのちの遣い方なのです。

意味のないものはなく必用なことを行うのだから、増えるとか減ったとか、遅いとか早いとか作業のような観念に縛られるのではなく、そのどれも勿体ない尊いお仕事をさせていただくのだと有難く一つ一つを丹誠を籠めて丹念に取り組んでいくことが目的や本質そのものと一体になっていることなのでしょう。

師走に入って何だか気分から忙しなくなってきている気がしますが、どのお仕事にも丹誠と丹念でと戒めていきたいと思います。毎日に流されず作業にしないで、その一つ一つの意味を丁寧に見極め意味づけし自分のいのちの時間をじっくりとかけること。

増えることや手間暇かけられることに、真心をさせていただく機会が増えたのだと感謝し、気持ちを鎮め、お腹の丹田から熟慮して時事を判断していきたいと思います。

仲間と一緒に集まり取り組む尊い機会が初心の確認となっています。
有難うございます。

心を入れかえる

昨日、ある面談の中で懐かしい体験をしました。

人は、何がキッカケになるか分かりませんが自分の心に向き合って心を入れ帰るという体験をして変わるものです。人生の醍醐味というものは、新訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」ではないですがその人が望んだ高さや求めた強さに応じてその人に価値のある機会やご縁が結ばれるように思います。

機会やご縁を活かすのはその人次第ということですが、どんな出会いがその人を変えていくのかを思えば人は自分の狭い視野で計るのではなく、その人自身が素晴らしいご縁に恵まれていることに感謝して成長を祈る方が真実のようにも思います。

自分だけの影響力などちっぽけなものですが、何が繋がって何と結ばれているのかは天のみぞ知るのだから見守ることの大切さを改めて実感することができました。

人が変わるというのはどういう時に変わるのかをもう一度考えてみると、それは心を見つめることのように思います。

自分の心がどうなっているのか、自分の姿勢がどうであったのか、それに向き合った時、自分の心を深く正面から受け容れようとするものです。そしてその心がこれは違うと思ったならば、思い切って心を入れかえることで人は真に変化していくように思います。

自分の心を見つめるということは自分の心と対話していかなければなりません。自分はどんな生き方をしたいのか、自分が何を信じて生きていきたいのか、自分がいのちを懸けたいのは何かと、自分の心に素直になって自分の今の心がそれに対してどうなのかを正対していくように思います。

そうやって心を見つめて、心を入れかえることができるなら人は自然に変わるように思います。今までのことを反省して、日々に定めた心の場所で内省する。

こういうことを積み上げていく中で人は変わるように思います。

自分の心を見つめることというのは、向き合いたくないものもあるでしょうから実際は大変なことであろうと思います。しかしその先に、新しい自分が待っていると思うならその先の未来を信じて取り組んでいくことに価値があるように思います。

思い込んでいた自分から、新しい自分へというのが変化というものです。

自分の観えている世界も変わるし、周りからの世界も変わる、新しい世界が待っているのです。人は変わりつづけることで自他の世界を変えていくことができるのですから、不思議さというものもまたその中にあるのです。

心を入れかえる人は、頼もしくそして美しく感じます。
子どもたちにもそういう体験をたくさん用意できるような大人のモデルになりたいと思います。

郷入郷楽

人が変化するときは、様々な新しいことを受け容れながら変わっていくものです。

柔軟性がある人は、変化を楽しめますが頑固であればあるほどになかなか変われないものです。本来の柔軟性というものは、柔軟か頑固かではなく、大切なものは変わらないのだからそうではないものは遠慮なく変えてしまおうといった思い切りがあるものです。

そうではない柔軟性というものは妥協したり、自分の考えを押し殺そうとしたりするものです。自分の思いと違うということは、新しい文化に触れているということに他なりません。

私は以前、何度か外国暮らしをしていましたが旅行でいくのと実際に生活するのは同じではありません。旅行であれば、観光ですから感動したり評価したり味わったりしても自分の価値観まで影響を受けるようなことはほとんどありません。

しかし実際にその国に住もうとするならば、だいぶ自分の価値観の影響を受けるのです。数か月から数年とそこに生活すると決めると様々に受け容れ難いような出来事に遭遇します。人間関係であったり、食生活であったり、ルールであったり、そこでは風土に従って様々な環境が今までの自分と生きてきた価値観と全く異なるからです。

そういう時は、それをどのように受け容れていくのかという自分の葛藤と正面から向き合っていかなければなりません、

古語に「郷に入っては郷に従え」という言葉が童子教にあります。これは読んで字の如く、里に入るならば里の生活に従えばいいという考え方です。

しかしこれはなかなか難しいことなのです。

生活とは習慣のことでもあります。そこには思考の習慣であったり、それまでの生き方で染みついてきた自分都合の生き方があるとも言えます。例えば、西洋化された簡単便利な社会の中でどっぷりつかってきた人が、今さら古民家の里山のようなところに棲むのなら最初は大変なものです。

囲炉裏や炭での料理などもしたことがないでしょうし、生活時間帯からその中での人々の暮らしのルールなども全部異なるからです。

生き方を変えるというのは、ちょっとやそっと観光のような入り方でできるはずはなく、その中に入ったなら覚悟を決めてその新しい生活を楽しみ馴染むことが大事なことだからです。

食べもの一つそうですが、無理に食べようとするよりも、興味関心を持って工夫し楽しんでいくことがコツのようにも思います。「どうせやるならば楽しもう、せっかくやるならば面白がろう」という意味が、この郷に入れば郷に従えには隠れているようにも思います。

新しい環境や風土は、新しい自分との出会いと発見の可能性に満ちています。

郷入郷楽、「郷に入れば郷を楽しめ!」、価値観も魂も揺さぶられるような体験を沢山積んでいく歓びは発見と発明、自分への旅を歩んでいる証拠ですからまずは自らの背中でその姿勢を見せていきたいと思います。

未来予測

昨日、研修会でオランダ報告を拝聴しながら色々と思いだしたことがありました。時が経ち、ふり返りをしているとあの頃気づいたことが何だったのか、あの頃決意したことが何だったのかを今に実感することができます。

人は、過去の思い出にアクセスするときそのころの自分の決意に出会うのかもしれません。その時に決意した分だけがこの今に反映されていることを思えば、人は行動して決意したことこそが未来そのものになっているということなのでしょう。

未来を予測できないという人がいますが、私にはそうは思えません。
未来とは、この今の決意と覚悟が未来ということになっているからです。

子どもの未来を守ろうというのは、言い換えれば子どものために決意しようということです。未来をこのままではいけないと気づいたならば覚悟を決めて未来が分からくても真摯に取り組んでいくことが何よりも守ることになると信じます。

さて、私がオランダに訪問したのは5年も前になります。

あの頃は、どうしたら教育が変えられるのかと真摯に探し求めていたような記述がノートに残っていました。その中でオランダに訪問し、教育方法などは目もくれず万国万物に共通する物だけを見つめていました。

ある意味では他の視察者が見ようとはしないものだけを観ていたのだからそれを案内してくださった方には本当にご迷惑を有難い機会を与えてくださったと感謝しています。その中で、私が観たものは「質」というものです。

何をすることがもっとも本質であるのか、何をすることが質を高めるものなのかを観続けました。その御蔭で今のカグヤの仕事になったように思います。教育には教育だからこそ学校の先生たちだけではできないことがあるのです。

それは私たちが行っている教育や保育は国造りであり伝承であるから一部の人達だけではできないことだからです。それはまるで父と母がいるように、火と水があるように、御互いの役割は大切な役目をもって調和するのと同じほどに大切なことなのです。

教師や先生ができないことだからこそ、私たちにしかできないことがある。

それを持ち帰ったオランダであったと、今の社業を観ていると実感します。目には観えないものを観るというのは、信念が必要なのかもしれません。子どもたちを思う気持ちは、まったく変わらずとも立場と役割が異なるという歓び、それが人間の素晴らしさなのかもしれません。

引き続き、本質的な仕事によって子どもたちに未来を譲っていけるように日々の決意を新たに挑戦を続けていきたいと思います。

 

善き師友

昨日、久しぶりにドイツ視察にいった仲間との同窓会がありました。

先生を囲んで、その後、学んだことをどのように活かしているか、どのように過ごしているか、近況がどうなっているなどを確認していくのです。

共に同じ先生に学びながら、同じ時機を共にすることを同窓といいます。その期間、楽しかったことをいつまでも忘れずにいられるのは曾ての学んだ歓びをいつまでも忘れてないでいる幸せを味わうのです。

日々は大変なことばかりが起きますが、時折共に学びを志した仲間がいる存在を味わえばこの今も我々は大切なことを学んでいる日々であることを再認識することができるのです。

人生はあっという間ですが、時折に学び合った朋たちの様子を拝見できるということは出会いの素晴らしさを再実感することになり、活かされていることの有難さを再覚認できます。

その中で、ふと自然に感じたことがありました。

私はよく身の周りに素晴らしい人たちが多いと言われることがあります。善い人たちに恵まれて素晴らしい仲間が居て羨ましいとも言われます。それがなぜかということに「そうか」と気づいたのです。

それは善き師、善き先生がいるからではないかと私は思います。

つい若気の至りからか少し上手くいくと自分がすごくなったような気になったり、自分が何か特別なものであるかのような錯覚を起こすものです。それに様々な自我や自尊心から傲慢さというものは自分の知らずしらずににょきにょきと助長していくものです。そうすることで我儘になり孤立したり、性格が直せなかったりすると、やはり善き朋や善き仲間との出会いも少なくなっていくように思うのです。

しかし善き師、善き先生が居る御蔭でそういう自分の傲慢な気持ちも抑制してくださいます。また抑制した後に、省みればその徳、その人格から自分の理想としている姿を学び直し、精進していこうといった謙虚な気持ちになっていくのです。

徳の高い人を師とし先生とするならば、自ずから自分の徳が磨かれるのです。

私の師も先生も私にいつも「責任」というものは何かを教えてくださいます。リーダーであるということがどういうことか、人を導くということが如何なるものかを無言の説法で語りかけて下さいます。

その一つ一つを、朋にする友や仲間と語り合い、戒めつつも歩んでいくことではじめて善きご縁を結んでいくことができるように思うのです。師や先生というものの存在は、学びにおいてはとても大切な仕組みであろうと私は思います。

どのような人を先生にするか、どのような人を師にするか、それは徳を磨くために自分を戒められるような人、調子にのせないような人が善いのかもしれませんね。

どちらにしても、それもまた一期一会の尊いご縁。

そのご縁の尊さに気づいたならばそのご縁を一期一会に大切にしていくことこそが真に自らを磨き学び続ける姿勢につながっているように感じました。

同窓会は、様々なことを再確認することができる素晴らしい機会であり仕組みです。学び合っていく道の日々に、謙虚さから離れることがないように善き師友と共にしていこうと思います。

心耳

最近は、テレビの影響とかいう言葉も聞かなくなってきました。

一昔前は、テレビを見る事で考えない子どもになるとか、テレビの影響で洗脳され脳が働かなくなるとか言われていたことがあります。これは、一方的に聞くとか見るとかを続けていることで、情報量の多さで心頭が麻痺してしまうようなことであったように思います。

そのせいかどうかは分かりませんが、聴聞ということが分からない人が増えたように思います。

聴聞というのは、聴くという字と聞くという字が入っています。聞くというのは、情報をそのままに感じ取っていくときの聞くで日々に様々なことを聞いては知るというように情報を処理していきます。もう一つの聴くというのは、自分から疑問に思うことを質問したり自分の思いを相手に伝えたり、その瞬間瞬間の自他の心を感読しつつ通じ合うことをいいます。

心耳という言葉があるように、聴くというのは心が行うことであるから同時に自他の間にある真心を通じ合わせていくのです。その聴くというのは、単に聞いたから分かるのとは異なり、自分から主体的に相手を傾聴し、共感し、受容していることをいうのです。

人と話をするのに、心を遣って頭も合わせて丸ごと全部で行うことが聴聞なのです。つまりは聴聞するというのは、心から耳を傾け相手のことを理解しようと努め、きっと何か大切な理由があるのだろうと思いやることをいうのです。

浄土真宗の親鸞の記した教行信証にこういう言葉が残っています。

「楽んで世尊の教を聴聞せん」と。

これはこのんで釈尊の教えを聴聞していきたいという意味ですが、この「聴聞」の左訓に親鸞は手記で「ユルサレテキク シンジテキク」と記しているようです。

つまりは親鸞にとっての聴聞とは、許すこと信じることという実践であったということです。聴くというのは何を聴くか、それは同時に自分の心を映し鏡にして相手に透過していく聴くであるのです。そして聞くというのも、素直な本心本音でその人の良知が引き出されるようにあるがままの澄んだ耳で聞くということなのでしょう。

聴聞というものは、自分の心の耳が行うものです。

この心耳の実践こそが、人々の心を救い、導く仕組みになっているのです。
ものにしていくには、まだまだこの心耳を澄ませていかなければなりません。

日々の実践道場の中で、ミマモリングを通じて学び勤めていきたいと思います。

 

遣って内省

内省というものがあります。

自分が本来のあるべき姿に対してどうであったという矢印を自らへ向けるものです。その反対は、外責ともいうのかもしれませんが矢印は自分以外のものへと向けるものを言います。

人は内省をしていなければ自信を持つことができません。経験を糧に、その経験が何であったかをふり返り、その意味を味わっていくなかで自分の内面にある自己への深い信頼が具わって来るからです。

逆に自信がないというのは、もしも上手くいかなかったらどうなるだろうとばかりを思い煩い、やらないといけないことをやらないでやるためのことばかりをやろうとしては何もやらないから内省ができず自他を責めては自己を信頼することができなくなるのです。

人はやる前に考えたりするのではなく、やってから思索思想を深めて哲学を持ったり、やってみてからその経験が何になったのか、その体験で何を学んだかと振り返ることで改善になり、その改善の積み重ねこそで自信をつけることができるのです。

今の人は、やる前にやろうとばかりに気合を入れてはやれないというサイクルで停滞することが多いように思います。これは学校の刷り込みもありますが、勉強したら答えがある、答えがあってはじめて勉強をするという考え方に囚われているからかもしれません。

本来、答えなどというものはその人が自らの自覚によって導きだすものだからやっていないのに分かるものなどありません。答えというものが自分だからこそ、やってわかるものなのでしょう。

つまり内省ができないのは、「やってないせい」であり、本来の内省とは「遣って内省」の順序なのです。

常に遣って内省であるかどうかを問うことだと思います。自問自答してもどうしていいか分からないと苦しむのは、それは単に遣らなかったからかということにハッと気づく訓練をすることが善いように思います。それを促す人たちの存在もまた必要のように思います。

なぜか分からないもののすべてはやったら分かるという真実。

人生とは、体験をすることで成長し、経験を積むことで役割を与えられるものなのだから大切なのは迷う前にやってみる事だと思います。迷ったらいけではなく、迷う前にいけというのが本当なのでしょう。

心で浮かんだことを、浮かんだ瞬間に決めるという訓練。

考動一致していくことが、何よりも気合ばかりを使わないでいいコツなのかもしれません。不安は誰にもあるものですし、どうなるか分からない未来など当たり前といえば当たり前です。だからこそ、何から心に浮かんだか、そして次の瞬間にそれを遣らせてあげようと自己を見守ったか、それを支える燃料は内省により充足していくというのが私の考え方です。

遣って内省を生きていきたいと思います。

真似とは何か

先日ある人との面談の中で、自分が形を真似してしまったのがよくなかったという話を聞きました。それは仕事の仕方を真似したものの、説明になってしまい自分の意見が入っていなかったということに気づいたという話でした。

常に自分の意見を持つというのは、自分の考えを話すということでそれは心を開いて相手と接するということにつながっています。人は誰かと話をして心を通わすにはオープンで在ることが必用でそれは自らが進んで「自分はこう考えます、そしてあなたはどう考えますか?」という関心を主体的に問いつづけ育んで常にご縁に対して素直にいることのように私は思います。

それはそれで大切なことを気づいた善い時間になりました。

ただここで真似というものの本質について私なりの意見を書いてみます。

そもそも真似というのは、表面上のものを真似することを真似とは言いません。真似とは生き方の真似のことを言うのです。

例えば、尊敬する先人や師、もしくは身近に仕事を習う人たちに着いたとします。すると、その人のコピーをして同じ言葉、同じことをしてみても決して同じことにならないことはやって観ればすぐに分かります。これはなぜかということです。

私には師がいて、勝手に師にしているだけで師も師とは思ってもいないかもしれませんが沢山の師がいます。その師はすべて人生の師であり、生き方の御師匠さんです。その人の姿形や仕草を真似しているのかといえばそうではなく、その人の考え方、その人の姿勢、その人の実践、その人の人間性そのものを尊敬し真似しているのです。

真似というものは、決して簡単にコピーできるようなものではないのです。その勘違いがあるから真似ができないということになるのです。

真似というものは、長い時間をかけてどのようにしたらその人のようになるのか、なぜあの人はこのような話ができるのか、どうして同じことをしてもこんなに差があるのかと、その人のことが真に分からなければ似るということもないのです。

つまりは孟子の「似て非なり」なのです。

似て非なりとは、ちょっと見た感じでは似ているけれど実際は全く違っているという意味で本物と偽物のことを説いています。これはそのものの本質を観るときに使う言葉です。

本物になるということが本来の真似をするということです。だからこそ仕事を学ぶということは、先輩の生き方を真似るということです。学ぶ順番を間違うと本末転倒になるかもしれません。

先輩がどのようにして今の実力を手にしたのか、それはコピーでは得られず自らの脚下の事物をもしあの人ならどうするかと大事にし、その自らの心に師を描きつつ真摯に真似てみてはじめて非が分かり、その非を恥じてまた心して生き方の手ほどきを聴くことができるのです。

昔は師弟といったのかもしれません。しかしこの師弟とは、何かを通して共に生き方や生きざまを友にした「非で似ているもの」かもしれません。

今の時代は、安易に何でも真似ができると勘違してしまう人が増えているように思います。これも刷り込みで答えや結果さえ似ていれば真似できたと勘違いしてしまうからかもしれません。

真似は簡単ではないのです。

本来の結果とは、そのプロセス、つまりは生きざまのことでありその生きざまが同質であるかどうかを問われているのです。尊敬する人と同じように生きるには、それなりに真剣に生き方や生きざまをその人と同事にしていかなければ得られません。

あの人と自分は違うからというような言い訳が自分自身の成長を阻害しているように思います。あの人と自分も同じ人間、あの人と自分も同じ学友と思えれば、見せかけのものよりも中身で近づきたいと思うようになるのでしょう。

真似とは難しいものなのです。

私にもたくさんの指導者がいますが、ちょっと形が似たくらいで分かった気にならず、似て非なる真実を常に内省し、真摯に真似し真心で精進していきたいと思います。

循環するという意味

知識社会というものがあります。

私たちは今、西洋的な考え方によって人間が創りあげた世界を社会と定義して生きています。例えば、知識が多い人を先生と言い、何でも物知りで教えることができる人のことを偉大だと思い込んでいます。

二宮尊徳にある伝承が残っています。弟子に富田高慶という人がいて、大変な知識者だったそうですが念願の二宮尊徳に会った際、尊徳が彼に「大豆という字を書いてみよ」とし、その人が大豆と書いたら「お前の大豆は馬は食うか?」と尋ねました。その後、「俺の大豆は馬も食う」と言いその人は感動して弟子入りしたといいます。

物知りだから偉大なのではなく、自然の循環の道理を覚り、その道理を人間に及ぼしていく導者だからこそ偉大であったのです。自然の中に生きた尊徳だからこそのこの逸話です。

人間は知識というものを得てから、一部の知識がある人こそが価値があるものだと勘違いをはじめました。特に日本の昔は、まだ文字もたいしてなかったころは自然に精通し自然そのものの循環でいのちと渾然一体になって生きていたようです。

それが外来からの理論によって、さも知識がある方が素晴らしいことだとし時の権力者が真理を使って人々を管理したのです。そうしたものが蔓延ってくると、人はそういうものを鵜呑みにして人間の持っている知識が最高であると思い込んでいくのです。

しかし動物から植物、いや、地球宇宙に生きる私たち本来は循環の道理の中でこそいのちを役立てていくことができ、いのちそのものを活かしていくことができるのです。

生きることや活きること、そして活かすことや生きているということは、須らく自然の循環の中にスパンと入ってこそのものなのです。

答えを持つことが素晴らしいのではなく、その人の中にも自然の答えがあることが真に素晴らしいのです。勉強の本来の意味を間違えて自然を征服しようとしても、そのことで苦しむの私達本来のいのちや魂なのです。

人々の魂やいのちを輝かせるのは、もう一度自然に戻してあげることのように思います。天地の間に在る私たちが本来の姿に戻り、そしてそこではじめて言葉を持ち、正しい方へと導いていくことが道師を目指すということだと思います。

むやみに人の師になるな・・・吉田松陰先生の遺訓が骨身に沁みます。

そして二宮尊徳の道歌にまた、感涙を得ます。

「天地の和して一輪福寿草 さくやこの花幾代経るとも」

永続する循環の中から外れない生き方をしていきたいと念じます。常にいのちも魂も、自然と一体になってこそ輝いていきます。先生たちの生きざまから、今の姿勢を正していきたいと思います。

有難うございます。