歩く速度

古街道の町家に住んでみると、かつてはその通りにたくさんの人が往来しそこで商人や職人たちが仕事をして賑わっていたのが形跡からわかります。今ではインターネットを使ってどこでも簡単便利に品物も手に入り、物流も発達していますから修理なども郵送して行うことができます。さらに大型店舗ができることで、みんなそこに車で移動しその中で買い物しますし、大きな道に店舗はあっても車で立ち寄るようになっていますからそこに入ればまたすぐに他の場所へとさっさと移動してしまいます。

かつては、歩く速度で往来していた場所はほとんど廃れ、一部の観光地だけが残っていますがそこはほとんど土産物店です。本来の懐かしい商家や町家は、そこでの暮らしがあってその生活のために必要なものを販売されていました。数々の職人たちが住み、商人たちが人々が暮らしで必要なものを販売したり、または道具を修理したり、さらには休憩して情報交換する場所なども用意されていました。

この人が歩く速度というのが、もっとも人間には合っていてその歩く速度で物事を考えられたり、出来事を深く味わったりすることで私たちは仕合せや豊かさを感じるものです。

聴福庵のある場所も旧長崎街道ですが実際は観光地の場所だけ大型バスで乗り入れてそれが終わればまた大型バスで違う場所に移動というように歩くことなく去っていきます。本来は、じっくりと歩いてゆったりと観ていく場所ですが、かつてのような商家も職人もいませんから仕方がないことかもしれません。

京都に行けば、まだそのようなところは残っておりかつてのような佇まいを体験できるところもあります。日本にあったかつての民家がなくなっていくというのは寂しいものです。

民家の甦生は暮らしを実践することからはじまります。この旧街道に人々がまた往来するかどうかはわかりませんが、試してみたいことがまだたくさんあります。子どもたちに新しい生き方や世界が手本とするような働き方を遺し譲るために一つ一つを歩く速度で丁寧に甦生を続けていきたいと思います。

美しい生き方

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」に「お」がついて、より丁寧にしたものですが辞書をひくと「よい状態を保つために、整備・補修などをすること。」(goo辞書)と書かれます。具体的には「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」など、自らの心配りや心がけで修繕しているときに用いられる言葉です。

このお手入れは、何かを整えたり美しく保つために修理や修繕を続けて長持ちさせていくための智慧の一つとも言えます。掃除や片付け、修理やメンテナンスはそのものへの愛情を注ぎ込むことができ愛着の関係性が醸成されていきます。

大事にされているものは、大事にされている雰囲気が出てきます。これも一つの愛着というか、愛され愛し合う関係の調和が周りにそういう雰囲気を醸し出すのでしょう。お手入れはお互いに大切にし、大切にされた関係の歴史であり記憶です。

今の時代は、お手入れ不要の便利なものが増えてきています。例えば、お花では枯れない花や研ぐ必要のない包丁や、そのほか掃除やメンテナンスをしなくていい機械や便利な道具が溢れています。これらは使い捨てすることが前提ですから、使い切るまで一切のお手入れは不要です。

そもそも本来の言葉の使い切るというのは、「もったなく使う」ことで捨てないことから用いられたことばです。つまり捨てないでどこまで使い切ることができるかという意味でお手入れは絶対に必要です。

しかしこの意識の前提が「捨てることになっているか・捨てないことになっているか」でお手入れをするかどうかを分かつのです。捨てないことになっているからこそ勿体無く感じてお手入れが実践されるのです。

現代はグローバリゼーションのもと消費を優先して大量に生産し、そして捨てていく世の中ですがそのことで失われたのは美しい生き方ではないかと私は思います。この美しさとは心の美しさであり、修繕し勿体無くものを大切にし大切にされて生きていく愛情深い優しい所作、思いやりのある生き様のことです。

引き続き、修繕を楽しみ味わいながら子どもたちに大切な智慧を伝承していきたいと思います。

調和と響き合い~音響~

先日、あるジャズシンガーの方から聴福庵で生演奏をやってみたいというお話がありました。古民家の場を使った音楽というのは、私も以前から興味があり改めて古いものと音との関係を少し深めてみたいと思います。

音というものは空間で響くものですがこれはお互いの関係性によって音楽が奏でられるものです、例えばある物質に別の物質を当てて音を鳴らすときお互いの物質の特性によってその鳴り響く音が変わります。私がよく使っている砂鉄の鉄瓶などは、玉鋼の火箸で軽く触れるとキーンという高音が長く響き渡ります。この時、お互いの音はそれぞれの性質によって顕れてきます。

そして不思議ですが、経年変化している古いものは丸みがある音が出ます。これは古木や柱などを軽く叩くとわかりますが、ずっしりと深みがある音が出ます。時間が経ったものは相応の音を響かせます。科学的には時間が経過した古いものは木に含まれる水分が抜けて音の出るスピードが速くなるからといわれますがそれだけではないことは古民家での暮らしをしてみればわかります。

例えばおくどさんの中で、竈やまな板で料理をしたりかつお節を削る音はその空間に響き独特の調理場の音を奏でます。そこにはもちろん古い道具たちが響き合い、お互いにその音を聴いているかのような空間が生まれうっとりしますが、使い手の人間性や人柄も道具との相性によって変わってきます。同じかつお節を削っている音であっても、技術や人間の個性よって差が出てくるように古い道具たちにそれに合わせて音を奏でます。

道具も古いものが鳴らすのは、均一ではない個性を持っているからです。ホームセンターで買ってきたような安い包丁は、誰でも切れるし扱えますが個性がありません。均一化されて平均化されることで誰でも使える道具にした分、そのものの特徴もなくなりますから音の響きはありません。古い道具は使い手が試されますから、使い手が道具の特徴を見抜き腕を上げて使い調和させていきます。この調和するときの響きこそ音楽であり、その音楽が周りの古い道具たちとの調和を引き出していくように私は思います。

こんなことを非科学的といわれるかもしれませんが、腕の善い老練の職人さんが昔の道具たちを用いて作業する音は、心に深く響き感動します。音の響きというものは、決して現代の科学だけでは解明することはできないように思います。

そして話を戻せば、古いものは周りと調和していきます。調和した響きは環境や空間と響き合います。つまりは新しい建物で聴く音と、古い建物で聴く音は異なります。さらには風土に適った材料で出来上がった場と、風土に適しない材料で出来上がった場所では水分量の関係もあり、音の感覚がズレていきます。私たちはもともとこの風土の中で音楽を聴いて耳を発達発展させてきましたし、そういう微細な音を聴き分ける繊細さが備わっています。

箱庭にある、鳥の声や雨の音、鹿威しの音など、空間を伝わっていく音響を感じ取ります。そして古民家には、その主人が日本的精神を持ち丁寧に暮らしているのならそのどれもが調和するもので整っているはずです。

新しい建物であれば、楽器を鳴らしても単体で響きます。しかし古い建物で調和されているものであれば周囲と響き合って調和する音を奏でます。古民家で音楽をすると感動するのはこの調和音が聴けるからです。

先日、杉並区にある普門館が耐震構造をクリアしていないため取り壊されるという話を聞いてとても心が痛みました。あの空間で響き合った調和は、子どもたちに譲ればどれだけのことが伝承できただろうかと思うばかりです。

引き続き、復古創新を続けながら子どもたちに貴重な文化財を譲り遺していきたいと思います。

 

暮らしの醍醐味

昨日は聴福庵の甦生で大変お世話になっている大工棟梁とそのご家族に来ていただき、聴福庵での暮らしとおもてなしを体験していただきました。もう一年半以上も一緒に古民家の修理や修繕を行ってきましたが、いつも作業やお仕事ばかりではじめて一緒にゆったりとこれまでのプロセスを振り返る時間を取ることができました。

和ろうそくの灯りの中、二人で盃を交わしながら深夜までお酒を吞みましたが棟梁からは改めて「このような家を手懸けることができ大工冥利に尽きる」と仕合せな言葉もいただきました。まだまだ完成したわけではなく、修理や修繕は暮らしと共に継続しますからこのように家を中心に素晴らしい出会いやご縁があったことに感謝しきれないほどです。

人生はいつ誰と出会うか、それによって運命が変わっていきます。年齢も人生も離れていた人が何かの機縁によって出会い助け合う。そしてそのご縁によって豊かで仕合せな記憶を紡ぐことができる。志を共にする仲間が出会えるということが奇跡そのものであり、その数奇な組み合わせにより新しい物語が生まれます。

聴福庵の道具たちはすべて時代的に古いものを甦生して新しく活かしているものばかりですがその道具たちには職人さんたちの魂が宿っています。みんな人は何かを創りカタチを遺すとき、そこに自分の魂を削りそして籠めます。それは時代を超えていつまでも生き続けているものであり、その物語は終わったわけではありません。

その物語の続きを創るものがいる、魂を受け継ぐものがいる。そうやって今でもこの世に存在し続けて私たちと一緒に記憶の一遍を豊かに広げていくのです。またその魂は、同様に同じ志や思いをもっているものたちと引き合い弾き合わせてご縁を奏で波長を響かせていきます。その空間にはいつまでも楽しく豊かな記憶が、志を通じて甦るのです。それが暮らしの醍醐味なのです。

子どもたちに譲り遺していきたい暮らしとは、このように昔から続いている魂を大切に受け継いでいく勿体無い存在に対する尊敬の念です。ご先祖様たちの重ねてきた人生の延長線上に今の私たちがあるということ。それを決して忘れないでほしいと願うのです。

そのためには、それを実感できる場や存在、生き方や生き様などを与えてくれる大人たちの背中が必要なのです。今、私がここで感じている仕合せをどのように今の時代の子どもたちに伝承していくか、まだまだ未熟で途上ですがここで満足せずさらに一歩前に踏み出していきたいと思います。

 

思い込みからの脱却~聴く勇気~

人間は誰にも「思い込み」というものがあります。この思い込みは、過去に何かを体験した際にきっとまたこうだろうとその体験を思い出しては結果を先に決めつけてしまうことです。

先日、足を痛めすぐにまた元通りに歩けるようになろうとリハビリをしたところ歩くたびに激痛が走りそれを何度も繰り返しているうちに右足を出すことが怖くてビビッて尻込みしているうちにまったく足が出なくなりました。

一度そうやってまたきっと痛いだろうと怖がる心やビビる感情に苛まれると、どうせまた結果は同じだろうと先に答えを出してしまって思い込んでしまいます。それから月日が経ちもうすでに治っていたとしても、無意識的に心は感情と共に痛みを防御しようとしますから痛くなくても痛い感覚が思い出すのです。まるで古傷がいつまでも痛むように、治っていてもそれが痛いという感覚がずっと残ります。

そしてこれは単に体のことを言うのではなく、心のトラウマや古傷もまた「思い込み」によって痛みを感じているのです。

このように過去に何らかのことで心が傷ついたり辛いことがあったり、感情にインプットされた様々な痛みはいつまでも記憶の中に「思い込み」として残ります。それが邪魔をして怖くなり足が前に出ない、前に進めないという人は本当に多くいます。好奇心が旺盛な人はその体験を乗り越えてそれでもやってみたいという熱情が湧いてくるのでしょうが、いざ本番になると急に足がすくんでしまいます。

人が「背中を押してもらいたいや背中を押されたい」という願望は、この「思い込み」を乗り越えるための勇気をくださいという切望でもあります。

先ほどの足でいえば私の場合は出なかった右足を痛いかどうかではなく「勇気」の方に意識を集めて挑戦すると足が前に出て階段を無事にあがることができました。思い込みに意識を持っていかれる前に、勇気に重心を置いてみるという話ですがこれもまた単に体の話ではありません。

人間は過去の痛みを乗り越えるときもっとも大事なことは「勇気を出す」ことです。スポーツ選手が怪我を乗り越えて優勝したり、友情や愛情が困難を乗り越えて結ばれてるように、人間はそれみて感動し魂が揺さぶられます。それはすべて勇気によって得られるものです。今までの体験を乗り越えて新しい体験で過去を刷新し上書きするには勇気を出すしかありません。同様に先ほどの思い込みを抜けるにも勇気しかないのです。

ひょっとしたらまた傷つくかもしれない、もしかしたらまたあの時のような状態になるかもしれない、「それでも勇気を出して前に進もう」という気持ちこそが未来を変えていくのです。

私たちはそういう勇気を出したいと思っている人たちに寄り添って一緒に帆走したい、背中を押してもらえれば歩めるという人たちを心から見守りたいと、聴福人の実践を続けています。

人はみんな勇気を誰かに分けてもらって元気を出します。誰かの勇気が誰かを助けるのだから自分から勇気を出して殻を破ればそれだけで周囲の力になります。大変だけど一緒に思い込みに立ち向かおうとする仲間に出会えることはとても仕合せなことです。

その思い込みを捨てる練習は、「聴く」実践によって行われます。思い込みの強い人は誰の話も聞きません。痛いから怖いからどうせ無理だと最初から諦めているのでしょうが、そこを勇気を出して深く聴いてみる、きっと何か深い理由があったのだろうと聴く勇気を出してみること。話は最期まで聴いてみないとわかりませんから、相手を疑いから入る前に信から入る勇気を振り絞って自己との対話に挑戦していくしかありません。

聴福人の役目はそういう人たちが安心して皆で認め合って聴き合う場を醸成していきます。人生は自分らしく生きていくためにも、乗り越える力、英語ではリジリエンスといいますがこれによって勇気を磨くのです。

引き続き、勇気を出せる存在になれるよう私自身聴く実践を高めていきたいと思います。

真己を磨く

刷り込みを深めていると、環境のこともありますがそれに負けないような自分を如何に創り上げていくかという課題も同時に感じます。幼いころから自分というものを育てようとせずに外から誰かに一方的に教え込まれたままに大人になると自分のことが分からなくなっているものです。

この「自分を知る」ということがどれだけ大事なことか、改めて書いてみようと思います。

そもそも自分を知るために必要な問い「自分とは何か」、これとちゃんと向き合ってきた人は少ないように思います。漠然とした自分のことはわかっていても、本来の自分というものはほとんどわかっていないものです。人生は自分を知る旅だとも言えますが、日々に本心や真己と対話をし良心ともいうべき本当の自分に出会い続けることで自分のことを知っていきます。

素直な自分というか、自分を欺かず自分の心と向き合い自分の声に耳を澄まして自分でその今の事実を受け止めて決断していく連続において自分を知っていくとも言えます。

何のために自分を知る必要があるのか、それは誰も代わることができないたった一人の自分、たった一つの人生を、自分が責任をもって主人公として生き切っていくためでもあります。もしもそうでなければどうなるか、他人の人生を自分の人生だと思い込み、一度きりの人生を無責任に他人事のように流されていたら本当の自分に出会うことのないままに死んでしまうことになります。自分を知るというのは、すべての自立の根っこであり、自立するためにはまずその最初の登竜門でもある自分を知ることからはじめなければなりません。

そして自分を知ることができれば今度は自分を創ることをはじめていく必要があります。本当の自分から目を逸らさずに自分を見つめて自分を知れば、自分にはいろいろな感情や性格や性質、特性や徳性があることに気づきます。その中で如何に自分を全体のために発揮していくかを考えるとき、善いところを伸ばし、悪いところは目立たないようにしていく、そして今できないものは周囲を頼ってカバーしてもらうというように自分を創り上げていかなければなりません。

畢竟、教育の本質はこの自分を知る、自分を創るということでしょう。そして如何にその自分が社會に参画し世界を平和にしていくか。そのために私たちは日々に学ぶ機会を経ては己を知り己を磨き続けるのです。

今の時代は、歪んだ個人主義が蔓延し、あまり自分自身を知ることや自分自身を創ることをし自己を評価して改善する時間をじっくりと取るよりも、周囲の評価に合わせては見た目ばかりを誤魔化し忙しくすることで自分を知ろうとも創ろうともしない風潮があります。

どんな自分に仕上げていくかは、自分が自分を知り、自分で自分を創造していくしかありません。そのためには、自分を見つめることから初めていくことだと私は思います。日々に省みることは、自分を知るための最大最高の道です。真己を内省により磨き続けていけばそのうち穢れも洗い流され曇りも晴れて、本当の自分を知る出会いに巡り会えると思います。諦めないで続けていくこと、どんなことからも逃げずに向き合ってみること、いただいている有難いご縁に感謝することからはじめていくといいと思います。

引き続き、刷り込みを見つめながら子どもには刷り込みを与えないように、大人にはその刷り込みを毀すために如何に真己を磨くかを伝道していきたいと思います。

生き甲斐と働き甲斐

人生は、「生き甲斐」を持つことで希望が現れ楽しくなります。この生き甲斐は、世界では「mottainai」や「kawaii」などと同様に「ikigai」として注目されているともいいます。

この生き甲斐は、生きるに値するもの、生きていくはりあいや喜びと辞書では訳されますが私の意訳では「暮らしの仕合せ」です。一日一生として、毎日を人生の大切な日であるとして初心を忘れずに丁寧に暮らしを営むことで生きる意味を感じる生き方のことです。

人は何のために生きるのかと突き詰めれば、どう生きていきたいかに出会います。どのような生き方をするかと決めれば、毎日はその生き方を挑戦できる尊い一日になります。それを初心ともいいますが、その初心を忘れずに生きれるのなら毎日は生き甲斐のあるはりのある一日を過ごすことができます。その日々の暮らしこそが幸福の源流であり、その中にある最中こそが本当の仕合せなのです。

そしてこの生き甲斐は、そのまま働き方に転換されていきます。働き方改革など世の中でいわれているもののほとんどは、働く手段や方法のことばかりを変えることをいいますが本来は生き方を変えることが働き方を変えることです。そして生き甲斐があれば働き甲斐が出てきます。

この働き甲斐は、日々の仕事の中にあります。

どのような初心を持ち、日々働きそして内省するか、それを繰り返すことで次第に働き甲斐が高まり豊かになっていきます。その豊かさは暮らしの豊かさであり、日々の仕事の中に自分の価値や意味、その大いなる目的を共に体験することで天職に気づいていくことです。

与えられたご縁はすべて意味があるものとして生き方を磨き、与えられた仕事もすべて天職として意味があるものにしていくことで働き方を磨く。そこで得られる生き甲斐と働き甲斐は自分が生きている、活かされている充実感を味わうことです。

「ikigai」「hatarakigai」は、日本人の持つ尊い文化です。

日本人の文化に支えられながら、暮らしを甦生させ日々を充実するよう初心と実践と内省を伝道していきたいと思います。

日本の文化

私たちは目には見えないけれど確かに文化というものを持っています。その文化は表層にはあまり現れていなくても、深層には確かに存在していて何かがあると顕現してくるものです。

例えば先日、都内で大雪が降ったとき多くの人たちがみんなで協力し助け合い雪かきをしたり道を誘導したり、声掛けをし合ったりといった光景を観ることができました。他にも大震災のときなど、みんなが自粛して行動したりみんなのために分け合ったりしながら助け合い思いやりの光景が観られます。

世界は報道などで、日本人のこれらの助け合い譲り合いの精神を垣間見ると大きな尊敬の念を抱いてくれます。その時、外国の人たちが観ているのはその国にその国民に流れる文化を観ているのであり、その文化の素晴らしさに感動されているのです。

この文化というものは、一朝一夕にできたものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し、自分たちが大切にしてきていることを忘れないで生きてきた集積によって定着していきます。

言い換えるのなら生き方とも言えますが、先祖が何を大切にして生きてきたか、そして子孫へは何を大切にして生きてほしいか、さらには自分は何を大切に生きていくかということを自覚して人生を伝承していく中で伝統となってつながっていくからです。

私たちが災害時や有事のときに自然に体が動くのはなぜか、自分の中から優しい心や思いやりの精神が湧いて出てくるのはなぜか、それはひとえに先祖がそういう生き方をなさってこられたからです。それが文化として脈々と自分の中に備わって受け継がれていることに気づいたのです。

初心に気づくというものもまた同様に、自分がどのような生き方をしていくかはその伝統とのつながりの上に折り重なっていきます。人間の性が本来、惻隠の情や真心があるのもまた親祖の初心が自分に備わっているということなのです。

日本の文化を大切にするのは、自分自身の初心を大切にしていくことで守り続けることができます。決して伝統工芸や食文化だけが日本の文化ではなく自分自身が日本人である生き方を思い出し、それを伝承していくことが日本文化を守ることになります。

引き続き、子どもたちに日本人の生き方を伝承しながら誇りをもって日本の文化を伝道できるように精進していきたいと思います。

水の味

井戸水を炭で沸かして点てるお茶はいつも格別な味がします。このお茶の味の中には、井戸水の深い味わいが混じっています。この水の味というものは、今では水道水の普及と共にあまり日常的に意識して感じなくなったかもしれませんがこの水には不思議な個性の味があります。

例えば、販売してあるようなペットボトルのミネラルウォーターの水や自然からそのまま湧き出る水は同じ水ではありません。成分の違いもありますが、どの場所の水を汲んだか、さらには水を取り出した時機など、その水には様々なものが映っています。

水の不思議な力のひとつは、混ざり合う力です。どんなものとでも混ざり合い融け合わせる力を使ってどんなものも浄化していきます。ミネラルが豊富に入るのは、水の中に自然物が融けているからでもあります。

最近問題なっている酸性雨は、空気中の汚染物と融け合った水が空から降ってきているし、また水道水に入る有害物質もまた河川の汚染の影響で融け合った水が配管から流れてきているともいえます。

水は万物を循環しながら、混ざり合い全体調和によって万物全ての生き物のために融け合わせていく働きを已めません。

人間の体では、60%以上が水でできておりすべての臓器や骨格に水が含有しそれが流れ続けています。一日に約2リットルの水を摂取し排出しながら体の中にあるものと混ざり合い融け合い浄化を続けます。腎臓は、その8倍の水を常にフィルターで人間の体に適合するように再生され続けます。

井戸水がなぜいいのか、それはこの土地の木々や植物や野菜などこの地の水を取得して成長しているからです。その風土に適した水は、その風土に調和した水とも言えます。外から運んできた水は、外からもってきた水ですからその土地のものではありません。

その土地の空気や水、光や風は、見事にその土地の持つ不思議な風土と合致します。その合致した状態が調和であり、私たち人間も自然に調和を美味しいと感じます。この井戸水が美味しいと思う感覚はそこから来るのです。

お茶もまた炭を熾し、井戸水を入れ、時間をかけてゆっくりと融けだしていく万物の調和に美味しさを感じ水の不思議な感覚を覚えます。万物の根源に触れる機会があるというのは、調和を甦生する機会に出会うということでもあります。

水の不思議な力を味わいながら、思索にふける時間はとても豊かで味わい深いものです。引き続き、復古甦生を味わいながら学び直していきたいと思います。

日本の心と自己錬磨

私が尊敬する方の一人に日本の将棋棋士で永世七冠の羽生善治氏がいます。いくつかの著書を拝見していますが、そのどれも自己との対話や感情との折り合い、調和への心の姿勢などどれもとても参考になります。実戦により鍛錬されたその思想や感情、どのように向き合って自己錬磨されているか、それは事物に挑むときの指針になります。例えば、自己との勝敗を決める岐路について磨かれている言葉には下記のようなものがあります。

「自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。」

「基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていくことがあると思います。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。」

「どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。」

「「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。」

「勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。」

「平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。」

自分との戦いを続け、如何に自分を磨いていくか、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉に木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす「木鶏」という言葉がありますがまさに羽生善治氏はその木鶏そのもののモデルように私は感じています。この境地を体得するために、私たちは自己錬磨を続けていくように思います。

「ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、
頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。」

「人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。」

「私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。」

「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」

「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

自己錬磨の価値を教えてくれる存在が、同じ時代に生きていてその姿勢を見せてくれることがどれだけ有難いことか。日本の伝統文化である将棋には、日本の心があります。その日本の精神性や心を体現している存在があって、私たちは勝敗とは何を学ぶものか、そして自己錬磨とは何かということを先祖の生き方を学び直します。

尊敬し憧れるのは、単に強いからではなく日本人として磨かれた精神を将棋に感じ、その自己錬磨の生き方に感動するからかもしれません。

最後にいま、特に心に響く言葉です。

「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。」

「 今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

どのような決断をするか、そして何を捨てるか、常に自己との対局を楽しんでいくことで自己錬磨の面白さも味わいも豊かになります。引き続き、日本の心と自己錬磨を学び直していきたいと思います。