学び直し~刷り込みからの脱却~

幼いころから正解を求められて生きていると、正解思考の刷り込みを持つものです。正解思考とは、どこかに正解があると信じ込まされるということです。正解を知ることが目的になっていると、本来の意味やその価値よりも正解に囚われ正解を出すことが目的になります。

例えば、学校では教科書がありそこに書かれているものが正解だと信じ込まされます。すると正解を知ることが正しいことであり、正解が分かると褒められ評価してもらえます。発明王のエジソンが昔、1+1=2であると教師に教えられたとき1つの粘土と1つの粘土をくっつけて2ではないというと気ちがいだと罵られ退学させられた話があります。

正解かどうかよりも探求することや、なぜそうなるのかと実験をすることを目的にしてしまえば正解を持っている側からすれば厄介な人物になります。この正解思考とは、人工的に育てるときには重宝されます。特に優秀な生徒と褒められる人ほど、自分は先生の言うとおりに正しいことをしているのだから間違っていないと信じ込んでいるものです。

しかし本来の学問の面白さは自分は間違っているのではないかと正解を疑い正解までのプロセスの中で学ぶことが自分の成長の喜びや本質的な学びの味わいのように私は思います。AIなどいよいよ人工知能がでてきて、人間以上に暗記するだけでなくその知識を縦横無尽に大量のデータを構成して活用できるようになるからこそ人間本来の意味や智慧がまさに必要になってきます。

正解だけを植え付けられ、正解だけを求めてそこにたどり着くことを目的にすればできれば良し、できないところはなくせばいいというように常に優劣の思想に囚われます。そうなってしまえば、優秀か劣等かだけが物事の基準になり少しでも優秀であれば自分が救われると勘違いしてしまいます。

言われたことしかしなくなるリスクというのは、根底にこの正解思考の刷り込みがあるようにも思います。間違っていないと正解を信じ込むよりも、自分は間違っているのではないかと自分を疑うことが探求心の入り口であり成長の切っ掛けです。

学び直しというのは、知識の詰め込みでは得られないものです。何を間違っているのかと常識を疑い、何を思い込んでいるのかと刷り込みから脱却することで、物事の本質やありのままの真実が浮かび上がってくるものです。

あのエジソンや、世界の発明家たちは人工飼育することができなかったいわば障害だったのかもしれません。しかしその障害こそ特殊能力であり、天才と呼ばれる天から与えられた天性を死ぬまで維持できた自然野性人間だったとも言えます。

自然というものを壊すのは人工というものです。人工的に作られた自分で満足するのではなく、正解を超えて自然の未知に触れていこうとすることが新しい時代を歩む人類の生き方になるのではないかと私は思います。

刷り込みを取り払うためには「学び直し」が必要です。今までの人生の学び詰込みではなく文字通り「学び方を直す」のです。それは今までの学び方を捨てて、新しい学び方にすること。間違っていないと正解を信じる生き方をやめ、間違っているのではないかと自分を疑えということです。

思考停止して指示待ち人間で一生を終わることがないように、その人一人ひとりが自然体に自分らしくいられるように子どもたちには正解よりもプロセスを、そして優劣よりもそのことの意味を感じられるように素直に謙虚に学び直しを続けていきたいと思います。

 

小さな種火

日本には古来から民族が信仰してきた伝統があります。それはいつはじまったものか、誰がはじめたものかは神話までしか遡れませんが今でも日本人の暮らしの中に残存しているものです。

例えば、八百万の神々というものや自然への畏敬を崇拝しているところにも観られます。私たちは無意識に山川草木のすべてにカミを見出し、すべての物にも魂が宿っていると信じて勿体ないいのちと大切に接してきた民族だといわれます。

その根底にある古来からの信仰が日本の伝統的なしきたり、年中行事の根底に息づいているともいわれます。それがここにきて、西洋から流入した生活文化に影響を受けかつての伝統のしきたりも年中行事も失いかけています。それはグローバリズムの影響を受けたのは一目瞭然ですが、未来の子孫の安らかな暮らしを思うとき、私たちの世代で体験し気づいて反省したことを私たちの世代で改善していかなければと強く思うのです。

大きなことを言うのは簡単ですが、一人ひとりが自ら気づいてそれを実生活の中で改善していくことが世界を易えていくことです。そういう意味で伝統的なしきたりや年中行事を現在の暮らしの中に甦生させ創新することは最終的な世界の平和にも貢献していくことができます。

ハチドリの一滴ではないですが、民族の文化甦生の小さな日々の実践こそが世界の平和、人類の共生と繁栄に偉大な影響を与えると信じているから私たちは暮らしの甦生に取り組むのです。

話を戻せば、住環境の変化というものは古民家甦生を通して改めて実感することばかりです。昔は、農耕を主としその土地に住み、その土地から離れることはありませんでした。自分たちが生まれた土地を守ってくれる神を産土神とし産土神を祀る社を作り崇拝するようになりました。その土地に根付く存在として、その土地と共に大切に歩むという古来からの精神も美しい風土を守るための智慧の一つです。

今では若い人はどこにでも引っ越していきますし、マンション住まいになれば仏壇も神棚も置かなくなり、床の間もなく年中行事なども失われています。数千年、あるいは千何百年もずっと続いてきた伝統的な暮らしが失われる責任を私たちは感じなくなってきているのかもしれません。

民族が大切にしてきたものがなくなるというのは、民族がなくなるということです。日本民族が世界の中で多様性の一つとして世界貢献に発揮するためには私たちはその文化を今の時代でも昇華して世界に発信していかなければならない使命があります。子孫を思うとき、子孫はその伝統に見守られ世界で活躍していくのです。

改めて、日本民族の古来の信仰を学び直しそれをどんな小さな形でも子どもたちに譲り遺していけるように小さな種火を探し出しその火を絶やさないように守り続けていきたいと思います。

お盆の発祥

昨日からお盆に向けて、いつも見守て下さるご先祖様を迎え入れる準備をはじめています。よくお掃除をしてお供え物や迎え火、送り火の準備、そのほか様々なことを整えてこの期間を心静かに過ごします。

そもそもこのお盆とは何か、少し深めてみようと思います。

お盆という行事が最初に日本で行われたのは推古天皇の時代、606年だといわれます。日本古来の祖霊信仰とインドから入ってきた仏教が和合し、このお盆という行事が私たちの暮らしに定着しました。

このお盆は旧盆というものがあり、旧暦の7月13日から4日間ほど行われていました。しかし、その時期はちょうど農繁期で忙しくそれを遅らせようと明治以降からこの8月13日からの4日間をお盆の期間としたそうです。なのでこの時期は、月遅れの盆といいます。先日参加した京都の祇園祭は、旧暦のお盆と同時期に行われていましたから明治以降に暦が変わり行事の時期も変化したのが改めてわかります。

本来、行事の日程というのは古来よりその日でなければ風土や気候、自然との関係が薄れることから簡単に日程の変更はしてはならないものなのですが現代ではその辺の日時も珍紛漢紛になっているものが多く意味も薄れていっているようにも思います。

ご先祖様が故郷に帰ってきてくださる時期をこちらの都合で遅らせてもらうというのも微妙な気もしますが、どちらにしてもご先祖様への感謝の行事として私たちはこの時期はご先祖様の存在を身近に感じることができるように思います。

もともと「お盆」という呼び名は、インドで発祥した仏教の経典を中国の竺法護が訳した『盂蘭盆経』に由来する「盂蘭盆」が省略された言葉です。その盂蘭盆経にはこう読まれます。

『釈迦様が祇園精舎におられたときに、目連が初めて六神通を得て亡き父母に何かできないかと思った。その霊視力をもって世間を探した所、亡き母を餓鬼たちの中にみつけた。飲食も取れず骨と皮で立っていた。目連は悲しみ、すぐ鉢に御飯を盛って母のもとへ持っていった。母は御飯を得て、左手で鉢を支え右手で御飯を食べようとしたが口に入れる前に炭に変ってしまい食べることはできない。目連は大いに泣き叫び、釈迦様の所に帰って、このことを報告した。

お釈迦様は言うことには、あなたはお母さんの罪は重かったようだ。あなた一人の力ではどうにもできない。あなたの孝順の声が天地を動かし天や地の神々、邪魔や外道・道士に四天王まで動かしてもどうにもならない。まさに十方の修行している僧の力が集まれば解脱することができるだろう。これから救済の方法を教えよう。それですべての苦しみや憂いも消えるだろう。

お釈迦様は目連にこう言った。十方の衆僧が、七月十五日、「僧自恣」の日、まさに七世の祖先から現在の父母まで、厄難中者のためにつぎの物をお供えしなさい。御飯、多くのおかずと果物、水入れ、香油、燭台、敷物、寝具。世の甘美を尽くして盆中に分け、十方の大徳・衆僧を供養しなさい。この日、全ての修行者は或いは山間にあって禅定し或いは四道を得、或いは木の下で歩き経を上げ、或いは六種の神通力で 声聞や縁覚を教化し、或いは十地の菩薩が大人になり、神になり比丘になって大衆の中にあるのも、みな同じ心で、この御飯を頂けば清浄戒を守って修行する人たちのその徳は大きいだろう。これらの供養を「僧自恣」の日に父母も先祖も親族も三途の苦しみを出ることができて時に応じて解脱し、衣食に困らない。まだ父母が生きている人は、百年の福楽が与えられるだろう。もう既に亡い時も七世の祖先まで天に生じ自在天に生まれ変わって天の華光に入り、たくさんの快楽を受けられるだろう。

その時お釈迦様は十方の衆僧に命じた。まず施主の家のために呪願して七世の祖先の幸せを祈り坐禅をして心を定めしかる後に御飯をたべよ。初めて御飯をたべる時はまずその家の霊前に座ってみんなで祈願をしてから御飯をたべなさい。その時目連や集まった修行者たち皆大いに法悦に包まれ目連の泣き声もいつしか消えていた。

目連尊者の母は、この日をもって気の遠くなるような長い餓鬼の苦しみから救われ得た。目連はまたお釈迦様に言った。将来の全ての仏弟子も私を生んでくれた父母は、仏法僧の功徳をこうむることができた。衆僧の威神力のお陰である。将来の全ての仏弟子もこの盂蘭盆を奉じて父母から七世の先祖までを救うことができる。そのように願って果たされるでしょうか。

お釈迦様は答えて言う。

いい質問だ。今私が言おうと思ってたことを聞いてくれた。善男子よ、もし僧、尼、国王、皇太子、大臣、補佐官、長官、多くの役人、多くの民衆が慈悲、孝行をしようとするなら皆まさに生んでくれた父母から七世の祖先までの為、七月十五日の仏歓喜の日、僧自恣の日において多くの飲食物を用意して盂蘭盆中に安じ十方の僧に施して、祈願してもらいなさい。現在の父母の寿命が伸びて病気も無く一切の苦悩やわずらいも無くまた七世までの祖先は餓鬼の苦しみから離れ天人の中に生まれて福楽が大いにある。

お釈迦様は善男善女たちに告げて言った。

この仏弟子で孝順なる者はまさに念念の中に常に父母を思い七世の父母までを供養しなさい。毎年七月十五日に常に孝順の慈をもって両親から七世の祖先までを思い盂蘭盆を用意して仏や僧に施して、父母の長養慈愛の恩に報いなさい。もし一切の仏弟子とならばまさにこの法を奉持しなさい。この時目連、男女の出家・在家はお釈迦様の話に歓喜し奉行した。』

このように仏陀の説いたものが盂蘭盆経の中に記されています。

どんな意味があってこのお盆という行事が生まれ、何が起点になっているのか、古来を深めるということは先祖につながるということです。

引き続き子どもたちのためにも、お盆の行事を学び直してご先祖様との邂逅を味わっていきたいと思います。

いのちの原点

自然環境と共にある野性の生き物たちと触れると、野生の本能が観えてきます。媚びずあるがままに自然にある姿はどこか凛としていて、その美しさに感動するものです。

私たちは自然環境とは離れたところで生活しており、野生の本能は教育などによって次第に減退していきました。昔からもっていた五感は不必要となったことからその代わりに脳を肥大させていきました。

現在では、その脳の肥大の象徴のように人工知能が発達してきて人間に取って代わるほどになってきました。また仮想空間が現実よりも現実化してきたことで、さらに自然とは切り離されていくように思います。

人間らしい人間、人間であるということの原点も五感の減退と自然環境とのかい離によって失われようとしています。改めて私たちは野性の生き物たちが自然と共生しながら生きていく姿から本来のいのちの美しさを見つめ直す必要があるように私は思います。

自然はそもそも野性ですから、野性の性質によってそこにある生き物たちを野性化していきます。自然の野性はあるがままでそこで地球の姿そのものをいのちは顕現させます。つまり野性に生きているものは、地球本来の自然の姿そのものに近づいてそのものと一体化していくのです。それは自然はみんなで一つ、みんなが一つだからです。

私たちが観ている野性のいのちは、地球や自然のいのちそのもの象徴でありそれを観ることで私たちはその一つの光景に美しいと心が感じます。心が感じるこの美しさと懐かしさは、地球や自然と一体になって生きる丸ごと一つの融和の仕合せを五感で感じているのです。

野性を磨くというのは、自然本来のものに自ら溶け込んでいくということです。生きる力というものはこのいのちがもっとも燦然と輝く場においてその本領を発揮されるのです。

引き続き、人類の子どもたちにいのちの原点が譲り遺せるように人間として人間らしい進化の姿を譲り遺していくために挑戦していきたいと思います。

仕事はリハビリ

先日、ある高校生が会社見学に来て私たちの初心会議に参加してくれました。その高校生は、学校生活をイキイキと楽しんでいるだけでなく社會のことや未来のことに深い関心を持ち、自立してどのように生きていくかを積極的に模索されていました。

特に印象的だったのは若さですが、若いというのは年齢だけではなく柔軟性があるということです。自由に物事を考える力があり、なんでも固定概念に縛られず納得いくまで行動しようとするところにその人物の可能性を大きく感じました。

論語に「学べばすなわち固ならず」という言葉があります。ユダヤの格言にも「柔軟性を持っている者は、いくら年をとっても若い者だ」とあります。常に何か変化しようと日々を学ぶ人は、固執して頑固になり固定概念に縛られることが少なくなります。

過去の刷り込みにいつまでも囚われるのは変わりたくないという感情の束縛であったり、新しいことに飛び込んでいくと柔軟に対応することが増えて大変だからいやだとか、歳と共に変化を嫌がって硬直していくものです。そのうち生き方も頑固になってしまい新しい考え方や深い生き方に出会っても学ぼうともしなくなっていきます。

しかし時代の変化と共に、価値観も変わり、同時に常識も変わりますから昔良かったことがいつまでもそのままよかったことであることはありません。あるとき、気が付けば突然に世の中の常識が変わってしまい、昔は難しかったことができる世の中になっていたり、昔は認められなかったことが認められるような世の中になるのです。

そういう中でも大切なのは、常に柔軟性をもって自分を変え続けて創造し続ける自分を育てていくということだと私は思います。そのためには、日々の変化に挑戦し、自らを毀し続けるために新しい未知の世界へ飛び込んでいく勇気、そして常に自分はわかった気になっているのではないか、自分は間違っているのではないかと、今の自分を疑い、新しい自分を発見発掘していく努力によって自己維新していく必要があるように私は思います。

固定概念に縛られいつまでも昔のままに自分に固執してしまえばそのうち時代と合わなくなってきます。大事なものを守りたいのなら、それ以外のものはすべて柔軟に対応するという心構えがあって自分は変化していきます。いつまでも自分のプライドや自分の保身ばかりで構えていたら変化する切っ掛けも失ってしまいます。

そういう意味では仕事は常に世間や時代の象徴でありますから、仕事を通して自分を磨き維新する砥石として自分を変えていくことこそが本来の時代の変化に適合させていくというビジネスの本懐のようにも思います。

仕事はリハビリというのは、自分が時代に合わなくなったきたものを柔軟にしていくリハビリであるということです。

新しいことに取り組むことがリハビリになりますから、生き方や考え方を学び直し、さらなる柔軟性を磨き新鮮さを持ち続けることが一生自分を役立てていく力になると思います。

引き続き、子どもに学び、子どもが憧れるような素直に柔軟な心と魂を磨き育てていきたいと思います。

勇気の価値

なんでもそうですが新しいことに挑戦するのは勇気が必要です。この勇気は出そうとして出てくるものではなく、やっているうちに積み重ねて出てくるものです。昔から勇気は振り絞るものとありますが、ないものをみんな振り絞って取り組んでいくのです。

よく叱られるのが怖いとか、周りにどう思われるか心配とか、そういうことから言われたことしかできなくなったり、言われていないことはしなくなったりという態度をとることがあります。人は経験したことがないことには消極的になるものですが、その目的の意味を正しく理解すれば自分なりに行動していくこともできるようになるものです。

私の場合は、何のためにということをまず考え抜くようにしています。その自分の行動の判断基準が何のために行われるのかを正しく理解すれば、やったことはすべて無駄ではなくその目的につながっていると実感することができるかです。

無意味というものは目的が定まれば一切はなく、失敗という経験もまた目的に向かうための大切な体験の積み重ねの一石を投じたことになるからです。

教育の刷り込みによって、組織や集団の中にいれば言われたことしかやらない、言われていないことはしないといった歯車のように動くことを正しいことを思い込まされてしまいますがそうなれば自分で考えることをやめてしまいます。与えられた仕事だけを仕事だと思いこみ、何も言われなければこれでいいと信じ込んでいたりもします。目的を考えるのは上の人で、自分は言われたことをやればいいという心理は、目的を忘れた心理です。

大きな目的があるから人は勇気を出せますし、私の場合は子ども第一義という子どもの憧れた生き方や魂を磨くためにと思えば難しいことであっても不安や心配であっても、それがきっと子どもたちの未来に一石を投じるはずだと前のめりに歩んでいきます。

一歩進んで内省し、また一歩進んで内省すればその体験がすべて新しい経験になっていくことに気づきます。経験が少ないからわからなかったものも、経験を積み重ねることによって次第にコツがわかってきます。

コツがわかるまでやるというのが、経験をものにしていくことであり、分からないことはしないというスタンスはそこにはありません。分からなくてもやってみようと思ったり、やるなかで学んで深めていこうと成長を優先する生き方は、長い人生においてその質の明暗を分けてしまいます。

大きな使命や目的に日々に生きる人は、日々のすべてが挑戦であり、日々のすべてが勇気の連続であり、日々のすべては目的に達するための貴重な一歩です。

引き続き、誰もやったことのないことに挑んでいくのだから先入観を持たずにありのままに来たものを受け止めてそこから学び、新しい経験の上に立つ未来を信じて歩みを味わっていきたいと思います。

古井戸の甦生

郷里で古民家甦生を続けていますが、昨日ついに手掘りで彫り続けた井戸に念願の水が湧き出てきました。一か月も前から少しずつ掘っていましたがいつまで掘ればいいのだろうかと仲間と不安にもなっていましたが、湧き水が出てきたことで一安心です。

今回、私たちがやったのは古井戸の甦生です。かつては使用されていた井戸も、もう何年もそのままに放置され、大量のごみが井戸の中に投げ込まれていました。出てきたものは、前の住人の方の遺品やガラス、陶器、金属の破片や井戸蓋、鉄筋コンクリートなども出てきました。その他、粘土や真砂もありましたがほとんどがゴミとして誰かが井戸に投げ込んだのでしょう。

昔は水神様として井戸を大切にしてきたといいます。それは暮らしの中心に井戸があり、暮らしを支える存在として水は欠かせないものであったからです。その井戸に感謝して、井戸神さまをお祀りしていつも清浄にしていた暮らしがありました。

火の神様はガスの出現でいなくなり、水の神様は水道の出現でいなくなり、火と水を祀るという暮らしも失われていきました。

私が取り組んでいる古民家甦生というものは、古民家再生とは異なります。なぜなら、古民家はそのままあったものを再生していくものですが私のやっているのは現代になりすでに壊されて失われていたものをもう一度、かつての暮らしをお手本に甦生していくからです。

私にとっての甦生は、この古井戸の甦生と同様に現代ではいならなくなったものを拾い、それを新しくしていくプロセスを通して子孫へと伝承していくものです。

ただ水が欲しいから井戸を掘るのでもなく、ただ珍しいから竈を使うわけではありません。本来、大切にしてきたものを粗末にしていく現代においてなぜそれが大切であったのかを教え諭すためです。

学問が今ではただの受験勉強のようにすげ換っている様相を見せる現代において、本来の学問とは教えずにして教え、学ばずにして学ぶものであったということをこの寺小屋のような古民家甦生を通して伝承していくのです。

日本の家は私たちの日本的精神を磨かせ、日本の道具や暮らしはそれを活かすことによって文化を伝道してきた継承の仕組みを支えているのです。

引き続き、古井戸の甦生を通して子どもたちに先祖からの智慧を譲り渡していきたいと思います。

 

天神様の生き方~和魂円満~

来月の天神祭にあわせて準備を進めていますが、改めて菅原道真公の遺徳を感じることばかりです。もう1100年以上前の人物が、今も大切に祀られ子孫である私たちを見守ってくださっているだけですごいことですが、至誠の神だけでなく、雪冤の神、正直の神、文學の神、書道の神、相撲の神としてあらゆる分野で先祖たちは畏敬の念をもって接してきました。

また「和魂漢才」といって、日本固有の精神をもって外国から伝来した学問を活用する模範となった方でもあります。

人生としてはたったの57年ほどのもので、その最後は冤罪によって大宰府に送られましたが真心が天に通じてその後に人々に至誠を盡すことが大切であることを生き方で伝道された方でもあります。

その切り拓かれた道を、後世の人たちがその時代時代に続いてきたからこそ今もその恩徳や霊験が大切に信仰として遺っているように思います。

江戸時代の復古神道の大成者の平田篤胤が記した「天満宮御伝記」というものがあります。道徳の規範として、菅原道真公の生き様、またどのような恩恵があるかについて記されます。

「仰天満宮世に在ませるときは、第一に神を尊び御二親に御孝行にましまし、君にはよく忠義を盡し給い、もの読み手跡を好み給ひ、御心正しく直に坐ませる故に、神となりても世人の忠孝の道を守らず正直ならざる者は悪み給ひ、読み書きをきらふ物をば恵み給はねば、能能親の示し、師匠の教えを忘れず守り、主に事へては大切に勤め心を正直に持ちて偽はる事なく、読書手習ひに精出して、天満宮の御心に叶ふやうに心を持つべし、もし此事を守らざれば、天満宮の御罰蒙りて遂には禍を受べし」

とあります。

何を大切にすることを天満宮が示したか、どのような生き方をすることが学問の意味であるか、千年を超える信仰の中に私たちはこの教えにより繁栄を続けてきたことを実感します。

小さな島国において、和魂を盡しつつその才を活かし伸ばすということが風土が顕現した学問の原点です。

私は「和魂円満」という言葉を用いますが、この円満は天満と同じ意味になります。八百万のものを受け容れながらそのものを丸ごと活かす境地こそ、学問がある高みに達してその学問を大成した証になるように私は思います。

天神様の教えが、如何に幸福な生き方を私たちに伝承されてきたか。日本人が今の日本人になるために偉大な師匠であったことを改めて実感します。生き方や生き様な燦然と輝く天満宮を、古民家甦生信仰の柱にしたいと思います。

風土の民

私たちは少し前の常識を歴史として認識するものです。少し前の時代に、新しい基準を設けそれを3代ほど繰り返せばそれが新しい常識になります。歴史や伝統もまた、新しい基準に合わせて変わればそれが繰り返されるうちに当たり前になるのです。たとえそれが二千年続いたものであっても、ものの数十年で違うものに変えてしまうことができます。それが歴史の姿です。

有名なものに暦の改暦というものがあります。日本も約140年前にそれまで800年以上続いていた旧暦をあっという間にグレゴリオ暦に変えてしまいました。現代ではほとんど新暦が当たり前になり、旧暦の存在すらも忘れ去られています。

季節の移り変わりや、潮の満ち引き、そういうものを一切無視してはそれまでの自然や伝統、暮らしに合わせて先祖が築き上げたものはなかったことにして世界の基準に無理やり合わせようとする。欧米から入ってきたカレンダーをみては季節感もなく、農や暮らしとも関わりがなく、ただそのスケジュール通りに生きていくのが生きることになればそれまで続いてきた自然と共生する智慧の暮らしが失われるのは自明の理です。

本来は変えてみてよくないと気づいたならすぐに原点回帰するというのが歴史の学問ですが、なし崩し的に伝統が消えてなくなってしまったらどこが原点かもわからなくなってしまいます。

グローバル化の中で、本来の変えてはならないものと変えていくものの違いがその時々の責任ある伝承者たちによって正しく継承されなければ文化はその時から次第に失われていくのではないかとも私は思います。

風土というものは、私たちにとっては切っても切り離せないものです。

地球のどの位置にいるか、その場によって気候も環境もそして暮らしも全く異なるからです。先祖たちは何千年もかけてその風土を学び、その風土に適応し、その風土と一体になって暮らしを創造してきました。

その暮らしの伝承があってこそ、私たちはその風土の民となります。

風土の民は、それぞれに独自の文化や信仰を発展させその風土の持つ魅力や価値、その風土から学んだ智慧を人類の未来に託してきました。その智慧は何のためにあるのかといえば、人類を存続するために必要だったのです。

それが急速に失われていくということは、人類が生き残る可能性も急速に失われていくということを意味します。

何千年もかけてきたことが、ものの数十年で消えてしまうという真実を私たちは本気で畏れなければなりません。もう一度、やり直せといわれても遺っていなければ最初からやり直しでまた数千年の歳月を実験していかなければならないのです。

なぜ生き残るためにこれを選んだかは、それが先祖たちが唯一学んだ人類存続の方法であったからです。

知識や情報は増えましたが、それはどれもあくまで短期的な利益をみれば効果はあります。しかし永続的なものや長期的なものを考えたときの利益はほとんど効果がないものです。

だからこそ風土の民として責任を果たすためにも、先祖を学び、先祖が暮らしてきたものを子孫へ伝承する使命とが今を生きる私たちにはあると思います。

引き続き子ども第一義を貫き、分度を守り、風土を推譲していきたいと思います。

 

風土

私たちはそれぞれに住んでいる国の風土があります。その多様な風土の中でそれぞれの文化が発生し、その文化によってその国の人々の暮らしの個性が出てきます。

世界には風土の数と同等数の多様な民族や暮らしがあり、それを継続して発展させて文化にまで昇華したものが伝統というカタチになって遺っているのです。

現在は、世界の国々でもともとあった風土とは異なる文化をそのまま移設しようと試みられていますがそのことによりその風土にあった「場」が失われてきています。同時に、場が失われれば文化もまた減退していきますから民族の個性や暮らしも失われていきます。伝統が消えていくというのは、その国の風土や文化が消失していくということに他なりません。

伝統文化において大切なのは、場と間です。

どのような風土の中で、どのような経過を辿ってきたか、それが混然一体となって和が産まれます。

日本には産霊や結びといった、あらゆるものが混ざり合い産まれる和という信仰があります。これは風土が他を排斥せず否定せず、お互いを尊重し合って一つのものになるということです。

これは日本の風土が、小さな島国の中であらゆる多様な気候の変化を受け容れることにもよります。こんなに小さな場所でも、この日本は非常に複雑で新鮮な風土環境を持っています。それは台風や地震、火山やあらゆる自然の猛威を潜り抜けている場所ともいえることでもわかります。

私たちはこの場に住んでいますが、今こそこの場を改めて見つめ直して学び直し、価値を再構築し再発見をする必要があるように思っています。

なぜなら世界は今、大きな岐路に立たされておりこの先の未来のためにも自分たちがどのように伝統を守りそれぞれの個性を互いに尊重して一和していくかが問われているからです。

風土を無視して同じ色に塗り替えるということが世界が一つになることではありません。多様な風土があるように多様な民族や伝統文化、暮らしがあってそれを尊重し合いながら生きていくことが人類の役割だと私は思います。

地球上で生きるすべての生き物やいのちたちを追い払って自分たちだけになって果たしてその世界は楽しく豊かな場になっているのでしょうか。閑散としたビル群の中での生活は確かに便利で楽でしょうがお金を使うことばかりに創られた都市の中で本当の仕合せはないと私は思います。

あの美しい自然が私たちの心を癒すように、何が本来の姿だったか、懐かしいものを現代に伝承していくことも今の世代の責任だと私は思います。

引き続きこの先に地球に生まれる子どもたちのためにも、風土のあるべきようを究め直し、風土を活かした志事を実現させて和の甦生を実践していきたいと思います。