心の余裕~聴福人の実践徳目~

人は相手の立場になってみることで初めて人の話を聴くことができるように思います。自分のことしかない視野や自分の価値観のみに囚われていたら、相手に心を寄せることができません。つまり人間は、本当の意味で心に余裕がなければ人の話をちゃんと聴くことができないのです。

例えば、怪我をしたり病気をしたり外傷がなくても心が深く傷ついている場合もあります。見た目がそんなに気にならなくても、その人の立場になってみると本当に辛く苦しいと感じることもあったりします。そういう時はいくら頭で考えて考えてみても本当にその人の立場になったわけではないのだから表面上のことしかわからないものです。

しかし心の余裕がある人は、たとえ自分がどのような状況にあったとしても相手の立場になって相手を思いやることができるのです。忙しい中でいくら相手の話を聴こうとしても聴けないのは、相手の立場になって思いやる余裕すらなくすほど自分のことだけで忙しくなるからです。自分自身を自意識で満たし、自分の思い通りにしようとすればするほど欲に呑まれ思いやりや心の余裕から遠ざかります。

人は日々に誰かと出会うのだからまず相手と接する前に、一度立ち止まってみて、もしも自分が相手が置かれた状況だったらと深く考えてみたり、自分にもわからない苦しみや葛藤、大変さがきっと相手にあるのだろうと深く思いやることで人は心の余裕を持てるようになります。

心の余裕は別に暇になれば持てるものではなく、考えたからと持てるものではありません。そこには自分というものを相手の立場に置いてみる訓練、もしくはもしも相手が自分だったらと置き換えてみる意識、そういう自分と相手が分かれていないといった自他一体の境地になってみてはじめて本当の真心や思いやりも発動していきます。

人間は過去の体験からの知識など思い込みで相手のことを勝手に認識してしまいますから、心が感じるよりも前に頭で過去の想定から相手のことを分かった気になってしまいます。そうすることで心は着いてこない状態になり余裕もなくなります。心が着いてこなければ、「聞く」ことはできても、「聴く」ことはできません。

聴福人は、まず自分を相手に置き換えて自分だったらと共感していく必要があります。そのうえで、しっかりと受け止めて傾聴し、その状況に一緒に寄り添い受容する、そのうえでお互いに出会ったことや共にあることに感謝していくというプロセスを経ていきます。

そうすることで心は救われ、心の余裕がまた広がり、思いやりと安心の間で穏やかな暮らしを積み重ね仕合せに生きていくことができるのです。

思いやりは、心の余裕ということです。そして心の余裕は、聴くことによって磨かれ高まっていくということです。

引き続き聴福人の実践を日々に重ね、子どもの憧れる生き方を貫いていきたいと思います。

前向きに諦める

人生には自分の思っていた通りになるものと思い通りにならないこと、思いもつかなかったことがあったりするものです。生きていく中で、色々と願望が固着し思いが重たくなってくるとその願望に執着して諦めることができなくなることもあります。

しかし本来は、目的を失うわけではないのだから手段は無数にあっていいわけで私たちはその手段を変えていくときに葛藤があるのかもしれません。言い換えれば、今までできたことができなくなることへの不安感であったり、今までその手段でやってきたことができなくなることへの心配が手放す勇気を減退させてしまうのかもしれません。

前に進んでいくためには、いろいろなことを手放していかなければなりません。それまでできたことが、新しいことをやろうとするとできなくなる。新しいことをやるために過去の手段を変えていこうと冷静になればいいのですがこれまでやってきたことはなかなか簡単に捨てることができないのです。

例えば、健康などもそうですが怪我をしてみて今までできたことができなくなるとそれまでできていたことがなかなか諦めることができません。なんとか元に戻ろうとしますが、元通りにはなりません。リハビリをしながら、新しいやり方を身に着けていく必要があります。ひょっとすると、元にやっていた時よりももっと上手にできるようになるかもしれません。しかし元通りになることに執着すればするほどに過去の習慣が手放せず変わることができなくなるのです。

人生の中で前向きに諦めるときは、目的を達するために他の手段を考えようと諦めないと気です。ある部分は諦め、ある部分は決して諦めない。この諦めると諦めないの間にこそ諦観があります。

この諦観とは、辞書には「 本質を明らかに見て取ること。」「 悟りの境地にあって物事をみること。」と書かれます。

思い通りにいくことが目的を達する道ではなく、どんなに思い通りにいかないことがあったとしても目的を最期まで失わないこと。人生はどんなことが起きるかわかりませんから、その中でも目的を失わなければ色々なやり方があるという中に本当の可能性が隠れているかもしれません。

なんでもできるという可能性と、できなくなって明らかになる可能性。

前向きに諦めることの本質は、流れに逆らわずに我を手放し来たご縁をすべて活かしていこうとすることのように私は思います。

気づく感性を高め、何かを見落としいなかったか、無理をしていなかったかと、内省を深め、さらに一歩一歩前進していきたいと思います。

 

信頼関係

人間にとって何よりも大切なのは信頼関係を築くことです。信頼関係のことをあまり考えない人もいますが、人との関係で何かをするのが人間ですから協力するためにもこの関係づくりへの努力が何よりも優先されています。

信頼関係のことを英語にすると信頼関係を英語にすると「Relationship」といいます。「Trust relationship」を「Build」という言い方をしますが本当の関係性を築き上げていくという意味です。具体的には、お互いに心を通じ合わせて困ったときに頼り合える存在を持つという事です。文字通り、信じて頼る人がいるというのがこの信頼関係です。

よく観察していると、信頼関係を構築していきやすい人とそうではない人の特徴が分かってきます。自分の生き方がはっきりしていて、自分に嘘がない人はこちらが相手のことを見て判断しなくてもその人は勝手に自分に生き方を貫いていきます。自分に正直であり、真心があり周りに対して親切な人はその生き方を優先するため誰が頼っても同様に対応してくれます。

逆に、人をみてコロコロと意見を変えたり自分に嘘をついて誤魔化したり、隠れてこそこそと周りを見ては自分のスタンスを変えたり、本音や本心をさらけ出さない態度をとって不信な行動をとっている人は信頼されにくくなります。

本人は無自覚であったとしても、この「隠れて」や「隠そう」という行為や行動が周りの不信と不安を広げてしまうからです。自意識過剰な人やプライドが高い人、自分中心な人は如何に上手にその場を合わせているように見せてもすぐに本心が周りに露呈します。本人が無自覚なのは、その自我の強さから信頼を失っていることに築かず信頼関係ができないのもわからなくなってしまうからです。

自我が強い人は、自分を守ろうとするあまり頼れる関係ができにくくなります。自分を守るのではなく、全体を守ろうとしたり相手を守ろうとする人は自ずから周りに信頼される人になります。自分よりも大切なものを持つというのは、生き方もそうですが大事なのです。この生き方が優先といいながら自分勝手を優先していることにも気づかないこともありますから注意が必要です。

だからこそ組織は理念が必要であり、みんなが理念を優先することで自分勝手なプライドや自意識過剰、自分中心な自分が抑えられていきます。

どんな時も理念が優先されるか、その辺に信頼関係を築くポイントがあるのかもしれません。引き続き、深めつつ子ども第一義の理念を積み重ねていきたいと思います。

聴福人の実践

私たちは聴く仕事をしています、その聴く仕事の人を私たちは聴福人の実践と定義しています。この聴くという実践は本当に奥深く、聴く境地に達するにはいのちがけの精進が必要になります。すぐに人は聞きましたと返答しますが、その実は聴いているようで聞いていないということが多々あるものです。

「聴く」ということにおいて、高木善之氏の著書 『ありがとう』(地球村出版)に「耳の大きなおじいさん」と題するお話が紹介されています。これは私の思っている聴くということに通じていてとても参考になるのでご紹介します。

『私が子どもの頃、近所に東(あずま)さんというお宅があり、そこにおじいさんがいました。おじいさんはいつも籐椅子で揺られていました。 耳が大きく、いつもニコニコして、いつも半分寝ていました。

もとは父と同じ病院の歯医者さんでしたが、数年前に定年退職しましたので六十五歳くらいです。いまなら六十五歳は高齢ではありませんが、「村の船頭さん」の歌詞にも「ことし六十のおじいさん」とあるくらいですから、当時は六十五といえば、近所でもっとも高齢でした。

この「耳の大きなおじいさん」は、「悩み事、相談事をするととても楽になり、解決が見つかる」 ということで評判で、近所の人はもちろん、遠くからも人がやって来ました。

私は、小さな子どもだったので実際に相談したわけではありませんが、人の話によると、おじいさんは、どんな話も黙って聴くのだそうです。

相手が笑うと、おじいさんも微笑んでくれるのだそうです。 相手が泣くと、おじいさんも涙を流してくれるのだそうです。

相手が黙り込むと、おじいさんはやさしい目で見つめて黙って待ってくれるそうです。

そして、相手が立ち上がると、抱きしめてくれるそうです。そして玄関まで送ってくれて、相手が見えなくなるまで手を振ってくれるそうです。

相談に来た者は、最後にはみんな涙を流して「ありがとう!ありがとう!」 と感謝して帰っていくそうです。

「耳の大きなおじいさん」はどんな悩み事も、受け止めてくれるのだそうです。

あとになって私は、父親にこのことを聞くと、

「あのおじいさんはね、耳が聞こえなかったんだよ」 と衝撃的なことを話してくれました。

「えっ!どうして!どうして耳の聞こえない人が相談を解決できたの?」 と聞くと、父は

「さあ、わからないけれど・・・きっと愛だったんだろうね」 と言いました。

そして父は、 「ボケ(認知症)がかなり進んでいた」と付け加えました。

耳が聞こえないおじいさん、認知症のおじいさん、 相手の話も聞こえない、相手の話も理解できないおじいさんが、 多くの人の相談事や悩み事を解決したということ。

そのおじいさんを思い出すと、いつもニコニコしている笑顔が浮かんできます。

相談者は、

黙って聴いてくれること、

うなずいてくれること、

共に喜んでくれること、

共に悲しんでくれること、

それを一番に求めているのです。』

人間は、自分自身を信じられなくなる時、心情が揺さぶられます。そのとき、「うん、うん」と心を寄り添って、きっと深い意味があると丸ごと信じて聴いている存在に、自分自身が救われ信じる力を取り戻していくものです。

様々な人生の困難があるとき、その困難を解決することが大事なのではなくその困難の意味を学び、その体験を周りの人たちのために活かすことが何よりも大切なのです。

それが人の本質であり、それが人生の意味であり、人間は助け合うことで信じる仕合せと幸福を実感するようになっているのです。

聴くということは、話すことよりも重要です。如何に、相手にとっての善い聴き手になるか、話し上手よりも聴き上手という諺もありますが聴き手の力によって相手はもっと成長し、さらに学びを深めていくだけではなく自信と誇りを持ったり、勇気や元気を出したり、自分のやっていることの背中を押されたり反省したりすることもできるのです。

聴き手の力はどのように磨かれるか、それは「省みること」によって行われ、「信じること」によって高まります。自分の真心はどうだったか、相手のことを丸ごと信じたか、そしてご縁を一期一会にしたか、その場数によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。

現場実践による聴福人の生き方とは、その場数を高めて精進することで本物になります。引き続き、子どもたちのためにも聴くことが徳であり、徳こそが人であるという背中を遺していきたいと思います。

聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

「ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

「うん」

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

(いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

「肥料」

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

自然治癒の根源

坐骨神経痛になった御蔭で、自然治癒のことを学び直す機会が増えています。医と農は私の生涯の学習テーマであり、自然に照らして自己を内観することでさらに道が深まり楽しみも増していきます。

昨日は、「自助」ということについて考える機会がありました。本来、人間をはじめいのちのあるすべての生き物は偉大な恩恵を宇宙や地球からいただいて生活を営んでいくことができます。

当たり前のことですが、自然の中に空気も水も光もあり、さらに地球には重力というものがあり私たちはその存在によって活かされています。この活かされているもの、それが自然治癒の根源とも言えます。この自然治癒の根源の力が常日頃から発揮されて私たちは生きています。

その活かされている力は、例えば重力であればそのことによって筋力も骨力も高まっていきます。他にも空気や水であれば、美しい森の森林浴のように私たちは心身を癒され安らいでいきます。

当たり前すぎて忘れてしまうものですが、私たちの体は自然の一部です。自然の一部だからこそ自然治癒をする。その自然治癒を邪魔するものが何か、それが人間の意識であろうとも思うのです。

自然治癒を邪魔するものは、不自然なもののことです。例えば、昔の人たちはよく自然の中で歩き、歩くことで心身を循環し鍛錬し健康を維持していました。今では車社会になり、ほとんど歩くことも亡くなってきています。道路は舗装され、かつてのような弾力のある土や砂利、草の上を歩くこともありません。

不自然な生活を積み重ねることで生活習慣病になり、様々な問題が発生してきます。それを一時的な対処療法で治してしまうと自然治癒がより働かなくなることにもなります。

自然治癒の特徴は、じっくりとゆっくりと治していくというものです。即席栽培のようにいきなり育たせるのではなく、自然栽培のようにじっくりと周りの環境に適応しながら治していきます。

私たちが生活習慣病になるもの時間をかけて行われるように、同時に生活習慣病が治癒して本来の自然な姿に原点回帰していくのもまた時間がかかります。その際に、何が不自然なのかを見極め、その不自然な暮らしを少しずつ改善していくことで自然治癒に向かっていきます。

自然をよく観察していけば、何が不自然で何が自然であったかを学び直すものです。もっとも危険なことは、不自然なことが常識になってしまうことと、不自然であることに気づくことがなくなってしまうことかもしれません。

自分の不自然に気づくために病気もあり、活かされていることを忘れていることで不安も葛藤も起きてきます。これは実は自然なことかもしれません。人間が自然の一部であることを忘れることから問題が生まれ、その問題に気づくために病気がある。病気とは天の声であり、その病気はすべて治癒のはじまりなのです。

自然治癒の根源に気づくことこそが、自然治癒の極意なのかもしれません。

見守られていると感じながら病を得ることは、病があることに感謝する生き方です。この病が自然から離れないように心が自分自身を助けてくださっているのかもしれません。自然に見守られる中で如何に自立するか、これはすべての生き物のいのちの命題です。

子どもたちに不自然な道を残していかないように、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。

 

運を拓く

先日、郷里のある方から古民家甦生の取り組みで嬉しいお知らせをいただきました。地道な取り組みが一部の方々に知らず知らずに認められて応援してくださっていますよという内容でした。私たちは地道に自分たちの信じたことを継続するだけですが、まわりまわって地域の方々に伝わり応援していただけるのは本当に嬉しいものです。

先日からやなせたかしさんの言葉を紹介していますが、「運」と「継続する」ということについて語られていたものがあります。

『運をつかむには、自分のやりたいことをずっと継続して、やめないことだ。「継続は力なり」という。同時に「継続は運」なのだ。』

この運とは何か、それは道のことだと私は思います。道をやめないからこそ運がある、そう考えるともっとも大切なことは「道の実践を継続する」ということであろうと私は思います。やなせさんは、継続の人でした。どんな状況になっても、周りからどんな批判や批評、諦めそうな出来事があるときでさえ、継続をした方でした。

『「運がよけりゃ」と、棚の下でぼた餅が落ちてくるのを待っていても、そんな好都合なことは起こらない。自分でぼた餅をつくってこそ、類は友を呼ぶではないが、いろんな餅が寄ってくるのだと思う。自分自身も、世に出なくとも、代表作がなかなか描けなくても、黙々と漫画を描き続けてきた。アンパンマンはそうした長い歳月から生まれた「運」だったのだ。』

アンパンマンがヒットしたのは70歳を過ぎてから、それまでの継続が実を結んだといいます。

代表作をつくりたい。漫画家としてのアイデンティティを持ちたい。そんな長い間の願いがかない、アンパンマンの人気が高くなったのは、なんと七十代に入る直前、六十九歳のときだった。遅咲きも遅咲き。よく「大器晩成」とおだてられるが、いやいや、「小器晩成」の典型だ。でも、大器でも小器でも、いいじゃないか。せっかく生まれてきたのだ。絶望するなんてもったいない。なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。

『「継続は力なり」というが、あきらめないでひとつのことを思いを込めてやり続けていると、ちゃんと席が空いて、出番がやってくるものなのだ。』

だからこそこう言います。

『運は自分で拓くもの 運は自分が呼び込むものつまり、運は天が定めたものではなく、自力で動かすものなのです。』

運は継続によってはじめて拓かれる、そう考えれば継続とは運を自分で動かす大切な実践ということです。誰がどういおうと、どんなことになろうと、自分が信じた初心を貫くことで運ははじめて拓けるものです。

引き続き、子ども第一義の理念と一緒に歩んでいきたいと思います。

 

 

幸福の本質

先日から坐骨神経痛になり、急に歩くことができなくなりました。寒くなってくると、筋肉が収縮し今までと異なる場所に力が入りすぎるようになり全体のバランスが崩れることで神経を損傷することがあるといいます。

改めて歩けなくなると、日ごろ当たり前にできていることが如何に有難いことか気づきます。ちょうど自宅を掃除する機会だと思い、整理整頓していると以前神社で見かけた「生命の言葉」という紙が出てきました。そこには「それいけ!アンパンマン」の作者のやなせたかしさんの言葉が紹介されていました。

「健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」(明日をひらく言葉 PHP文庫)と書かれます。

そして表紙には「ごくありふれた日常のなかに、さりげなく、ひっそりと、幸福はかくれています」と、これはとても含蓄があり深い味わいのある言葉だと思います。

私たちはみんな誰にしろ幸福というものは隠れています。生きているだけで、ありとあらゆるものに恵まれ私たちは日々の暮らしを営んでいます。この体も五感も心も、すべては天からのものであり、さらに広げればこの空気も太陽も水も宇宙もすべて私たちは存在そのものに活かされます。

幸福ばかりをもとめて足るを知らず、恩恵を省みず当たり前のことのように感じていれば幸福は逃げていくばかりです。幸福は、気づかないところ、隠れているところ、ひっそりとしているところ、そこを見つけてほしいと待っているように思います。

つまり幸福の本質とは、足るを知ることにありいただいている恩恵を見つける心にあるとも言えます。

当たり前のことの中にある幸福に気づかせてくださるように、天はありとあらゆる機会を私たちにあたえてくださいます。そう考えれば、この機会もまた恩恵であり気づくことで幸福感を味わえます。あたりまえができなくなることは決して不幸なのではなく、当たり前に気づけることが幸福だと実感できる自分でありたいものです。

子どもたちに見せる背中として、そういう幸福の姿を譲り遺していきたいと思います。

立志

人間は一生の中でもっとも大切なものを持つのに「志」というものがあります。これは生き方のことで、生まれてきた以上どのような生き方をするかと決心するようなことです。

よく夢と志を混同されていますが、夢は願望のようなものであり志は信念であるとも言えます。同じ夢を観るにしても、志があるのとないのではその夢は野心や野望にもなります。しかしひとたび志が立つのならその夢は、自分の欲を超越した公のものになっていきます。

ちょうど昨日、テレビのドラマで「陸王」という番組が放映されていました。その中で足袋会社の社長が、1億円の借金をしてでも新しいシューズを開発するかどうかの岐路に立たされます。その中で、周りの人たちからどうするのかを尋ねられます。その際、社長の「できるならば、、」という言葉に、その程度なのかと周囲は幻滅して一人二人とその人から離れていきます。

人は誰かと何かをやろうとする時、どこまで本気かどうか、そこまでしてでもやるかどうかを確認するものです。それは自分のいのちを懸けるだけのものがあるか、自分の人生を懸けるだけのものがあるのかを確認するからです。

結局は、生き方や人生を迫られるとき人は悔いのない選択をしたときにこそ志が試され、その覚悟を決めた時に志が立つのです。

以前、大河ドラマの中で「あなたの志は何ですか?」と吉田松陰が弟子たちに問いかけるシーンがあります。これは、あなたの覚悟は何ですかとも言い換えることができます。

そこで先ほどのように「できることならば、、」というくらいでは、それはまだ立っていないといえます。私はこれを何がなんでも実現する、そしてそれが世界人類、またはすべての存在に対して貢献することを信じるというものがでた時、その人の志が立つと思います。

その志は、事あるごとに試されます。つまりどこまで本気なのかと、果たして全身全霊だったかと、自分自身に迫ってくるものです。できればいいかなくらいの気持ちは、本気の勝負の時にその人自身が自滅する原因になります。だからこそ周囲は、その人がそうならないように本気を試し確認してくるのです。

孟子に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」があります。

これは志を立てるために天が敢えて試練を与えるということでもあります。

天理は不思議で、何を拠所にして何を中心に自分を立てるかが決まらない限り手助けが借りられない仕組みがあるように思います。いつまでも自分ばかりを握って自分の個人のことに執着し固執していたら志は倒れるばかりです。

子どもたちのためにも、立志を磨き続け悔いのない人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

老い

老いというものがあります。仏陀の説く生老病死の中の老いは、人間だけではなくすべての生き物が宿命的に備わっているものです。その老いというものは、経年によっていのちの変化していく様のことです。人間も若いころは考えもしないことを、歳を経ることによって次第に老いを意識するようになります。

つい年齢の刷り込みを受けることによって、私たちは歳をとるイメージを勝手にもってしまうものです。20代はこう、30代はこう、50代はこうで、80代はこうだと誰かが勝手に決めた平均年齢での状態を誰かに常識を刷り込まれ思い込んでいるものです。

しかし実際には、身体機能などは衰えてきたとしても武道の達人や芸術家の極みの人物のように無駄な動きが全部とれて自然体になり万物すべての力を活かす能力を持てるような人もいます。若いからいいのではなく、極まったから価値があるのでありそこに年齢はあまり関係がありません。

ただし年々の修行において、余計なものが磨かれてそぎ落とされていく中で余裕が生まれその余裕によって老境に入ります。

若いころに分からなかったことが経年変化をすることで次第に気づいていくという歓びと仕合せは、老いによって気づけるのかもしれません。

そう考えてみると、若いころはできるようになったことが喜びであり一つ一つできることに幸福感を味わいました。老いていけばこの逆にできなくなることが喜びになり、それが一つ一つそぎ落とされていくことが幸福感になっていくのでしょうか。

今の私にはわかりませんが、老いることで顕れる歓びを探している途中です。

昨年より古民家甦生に取り組むことで、何十年前も何百年も使われていたものに囲まれる暖かさや懐かしさの中で味わい深い時を楽しむご縁をたくさんいただきはじめました。そこでの学びは心の余裕ともいうか、真善美の持つ豊かさともいうべき妙味を感じる時間のようなものです。

そこでは一杯のお茶を炭を熾し立て静かに縁側にいて四季の流れを眺めるだけですが、そこには確かに老いる中でのみ感じられる経年変化の心の素晴らしさがあるような気もします。

自然を見つめ、自然と一体になり、自然体に近づくために老いに素直に向き合っていきたいと思います。