聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

うん

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

肥料

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

  1. コメント

    毎回、一円対話の目的・ルールを確認し、一円対話後の振り返りをする時、今日はどうだったろうかと毎回考えます。推察ではなく、よくよく聴いてみるとそういうことに気付いていたのか!や本当はそう思っていたのかなど、毎回感じるものがあり、参加者として話しているとき以上感じるものがあります。聴福人としての生き方に近づいていけるよう、日々意識して聴くことを大切にしていきたいと思います。

  2. コメント

    相田みつをさんの詩は、ほんとうにただ寄り添ってくれます。苦しい心に、悲しい心に、寂しい心に、そして、情けない思いに、恥ずかしい思いに、ただただ寄り添ってくれます。それは、まるで「観世音菩薩」のようでもあります。この「ただただ寄り添う」ということが非常にむつかしく、ついひと言加えてしてしまいます。「元気出せ!」とか「大丈夫だ!」とか「こうしたら?!」とか。それが、余計なのでしょう。

  3. コメント

    寄り添うことが見守りであり、変えようとすることは自立を阻むとすると、かなりの信じる心と、環境があるか、環境に自分がなっているかと振り返る内省力が必要なのだと感じます。自分を省みていきたいと思います。

  4. コメント

    「釈迦の(百日の)説法屁一つ」という言葉がありますが、その解釈の深さはわかりませんが、屁一つぐらいで説法が台無しになったと思うぐらいの聴き手であれば、誰にも救えないように思います。どこまで疑いを持たずに信じ切ることが出来るか、それは相手ではなく自分自身の心次第なのだと思います。自分の心の状態を常に澄ませておきたいと思います。

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