遠心力と求心力

遠心力と求心力というものがあります。これは簡単に言えば外に向かって働いていく力と、内に向かって働いている力のことです。遠心力といえば何かを振り回していれば外側に向かって広がろうとする力であるのは想像できると思います。これは宇宙が膨張していくように、中心から外側に向かって離れていこうとするものと同じく拡大成長していくような力です。

それに対して求心力は、中心に向かって引き寄せていくような働きのことで宇宙の星が引力や重力があって宇宙空間に物質が飛んで離れていかないようにと中心に集めようとする力のことです。その求心力のお陰で、私たちの住む地球もあらゆるものがこの場に存在して安心して暮らしていくことができます。

宇宙というものはこの円運動で行われているもので、この働きは体の内部のことであっても自然現象のあらゆるものであってもその道理が働いています。つまりは根本的な仕組みとして私たちはこの道理を活用して日々の生活を成り立たせているのです。

この道理に照らしてみると、例えば「集まる」と「集める」というものがあります。集めるというのは外側から何とか人為的に集めていこうとする働きのことです。これは膨張の力で広げていく中で集めようとしていきます。しかし「集まる」という働きは、みんなで重力場や引力場を育ててあらゆるものがそこに集まるように中心(核)を創っていくということです。

この核がしっかりあるからこそ、あらゆるものは外には飛び出さず中心に向かって集まっていきます。この集まる力によって重力も引力もあります。その中心に向かってもっとも大事な役割をするのが自然であれば土です。土は核の周りにあってしっかりと地球を守ります。そしてその土に根をはりめぐらせ広がっていくのが樹木でもあります。

この樹木もまた、根という中心があり幹があり葉をつけ種を運ぶからこそ広がっていきます。しかしその根がなければ結局は森はできませんし、森がなければそこに豊かな生態系や暮らしに集まる生き物たちは現れることもありません。

求心力と遠心力は表裏一体であり、そのどちらのバランスが崩れても私たちは中心を維持することができないということです。人間はどんなに知識を持って妄想してもその実自然の中にいますから決して自然の道理に逆らうことはできません。

私のコンサルティングはこの自然の道理に従って物事を捉え、自然の摂理に沿って物事を判断していきます。つまりお手本は自然であるということです。

子どもたちのためにというのであれば、中心から外れてしまうような仕事はしたくないものです。引き続き、様々なことを磨き直しながら理念経営、初心伝承を進めていきたいと思います。

伸びる感性を持ち続ける

物事にはすべてに調和、バランスがあります。対立したものが調和して物事は一体になっていきます。それは光と闇、火と水のように相反する性質のものがちょうど中間で折り合いをつけてバランスを取りちょうどいい具合に変化していくのに似ています。

この相反する性質のものを活かすには、どちらにも固執しないようなしなやかでやわらかな感性が必要になるように思います。古語にはそのバランスがあるものを中庸ともいいますが、この中庸は頭で理解できるものではなく心魂を磨き徳を備え、万物の調和の感覚を得ている自然と同様な生き方をできる柔軟性を持つ人たちが得ているように思います。

それはなんでも好いことに転じて活かす感性です。物事や事物を消極的に捉えるのではなく、それを楽観的に前向きに明るく捉えて味わい挑戦していく能力とも言えます。

自分のやりたいようにもっていこうとしたり、自分の思っている方へと向けようとしたり、自分を手放さなかったり、自分のできないことを避けようとしたり、自分に固執すればするほどにその柔軟性は失われて頑固になっていきます。

この時の頑固さとは周りが変化しているのに自分だけが変化しないでいようとすること、そして自分が変化しなければならないのにいつまでも周りにばかり求めようとすることです。

この頑固さを手放し、周りの変化に合わせて自分の方をさらりと変えていくのが自然の姿であり柔軟性を持ったということです。そのためには変わることを悪いこととは思わず、新しくはじまることを好いことだと信じ、常に挑戦していくのを楽しもう、どんな未来になっていくのかをワクワクしてやってみようと好奇心を発動させていくことで柔軟性はさらに磨かれていくものです。

この柔軟性がなくなってきて固くなれば死に近づいていきます。あの新芽の若い新緑の木々たちのような柔らかな姿、新しい環境に自らが喜んで周りと一緒に成長していこうとする豊かな姿。成功や結果よりも、「成長する喜び」に生きようとするものはすべてにおいて柔軟性を発揮していくように私は思います。

マジメニチャントヤロウとするよりは、成長していこうと機会をチャンスととらえてその機会を活かすような生き方をすることでいつまでも若い瑞々しい柔軟性を磨いていくことが変化そのものになっていくことのように思います。

あの三つ子の魂たちのように、イキイキワクワクと成長していく仕合せと伸びる歓びのままに純粋に生きている子どもたちのような姿こそ柔軟性でその子どもたちのあこがれるような生き方を志すのなら決して忘れてはならないものがこの伸びる感性を持ち続けることなのです。

常に成長を信じてやっているか、常に変化を味わって好奇心で取り組んでいるか、自分の好奇心が枯れて干からびていかないように常に変化の水分を吸収して明るい光をもって伸びていきたいと思います。

失われていく文化

昨日、佐賀県鹿島市にある創業100年以上続く漬物蔵「漬蔵たぞう」に訪問してきました。聴福庵の風呂に使う樽を譲っていただくことになり選定と発送作業を一緒に行いました。

その樽はすでに50年以上経過しており、15年前から使っておらず今では蔵の中の大きなモニュメントとして活躍していたものです。蔵を拝見すると、その空間には発酵蔵として長年生き続けてきた息遣いを感じ発酵場があることを実感します。

私も自宅裏の森の発酵場で伝統の高菜漬けを種から育てて漬けていますが発酵場独特の空気感や酵母の醸す香りや佇まいには癒される思いがします。この蔵の中に置いてあった樽には、100年間漬物一筋に手作りで手掛けてきた人との思いや、その中で共に暮らしてきた菌たちも樽に住み着いているように思います。

その樽を使わなくなった理由をお聞きすると、桶職人さんがいなくなったことが一番大きいと仰っていました。これだけの巨大な樽のたがをしめることができる桶職人がこの地域からいなくなりメンテナンスができなくなったそうです。

この地域は、肥前浜宿といって長崎街道の脇街道として酒造を中心に栄えた宿場町です。本来は酒を醸造するために大きな樽がたくさんあったものですが、その樽も次第になくなり桶職人さんもいなくなって今に至ります。

本来、伝統文化というのは職人さんがいてこそ成り立つものでそのつながりの中で様々な伝統が維持できていきます。大工、左官そして鍛冶師と研師が一体であるように、この樽や桶と酒、漬物、味噌、醤油などの発酵師たちもまた一体なのです。

意味があってあった職業が今では西洋のものと挿げ替えられ、伝統のものを修繕したり修理する技術も失われていきます。消えていく文化というものは、連綿と続いてきた先祖の知恵が消えていくということです。

先祖の知恵によって数千年も生き続けてきた私たちはこの風土の中で生き残るために真摯に改良を重ね今も存在できていますが海外から入ってきた風土にそぐわない技術に安易に便利だからと飛びつけば取り返しのつかないことを未来に残してしまいます。

たとえ小さな種火であったとしても、その種火が遺るのならその種火からまた火を大きくしていくことができます。私が取り組んでいる伝統の高菜も種があるから続けられ漬け続けるから子孫へと継承していくことができます。

こんな時代だからこそ忍耐力が求められますが、何をもって成功というのか何をもって成長というのか、失われていく文化と向き合いながら子どもたちのためにもあらゆるものを甦生させ活かしていくために発明に挑戦していきたいと思います。

ご縁いただいたこの樽は、これから福岡県八女市の松延さまの手によって聴福庵のお風呂として甦生します。このお風呂の一つの物語が子どもたちに伝承され、末永く心に残っていく風景を醸し出すようにと祈り見守りたいと思います。

・・・義を見てせざるは勇無きなり。

たとえ目のくらむような巨大な壁に怯みそうになっても、失われていく文化を前に今、自分にできることから実践していきたいと思います。

生きる道~生き方と生き様~

一般的には人は職業によってやっていることが異なるものです。職業の違いで立場や役割を分けたりしては、その立場を守りその役割を果たそうとします。しかし現代に入り、ますます多様化した社会と合わせてAIなど人工知能の出現でこれからの職業は大きく変わっていくように思います。

そもそも職業から私たちは先入観でこういう仕事だと思い込みますが、職業がそうだからとそこから生き方まではわからないものです。医者をはじめ教師、もしくはなんらかの職人であってもその人の生き方次第では同じ職業であったとしても全く異なることがあるからです。

私たちが本来、大事にしないといけないのはどのような生き方をするかを決めるのであってどのような職業に就くかというのではないと私は思います。職業に就いたからそうなったのではなく、どのような生き方をするかと覚悟を決めたからこそ人は為るからです。

人物というのは、世界のどの場所にも存在していてそれは職業で分かれているのではなくやはり生き方で存在します。どんな生き方をしているかを観て、そこに自分が共感し、その生き方を尊敬して自分の生き方に反映させていくということ。

これが生きる道であり、どんなにAIや人工知能、また社会が多様化して時代が変化してもこの生きる道は変わることはありません。

生きる道とは生き方のことです。

「あなたはいったいどんな生き方をしますか?」

この問いは、一日の時間の中でどんな生き様をするかということ。自分の決めた生き方が生き様になりますから、どんな生き方をするかがその人の人生そのものになっていきます。

職業の別や方法論に入る前に、自分の生き方に出会うことが自分の生きる道を見出すということです。後ろから歩んでくる子どもたちのためにも誰が何と言おうと勘違いされようと、自分の生き方は自分で決めて自分で貫くような人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

御井戸~水の見守り~

人間は古くから水とともに暮らしを実現していきました。水がなければ生きていくことができず、常に水は人間にとっては欠かせないものです。かつては水の近くに居住区を構え、河川の近くで生活をしていたのが井戸を掘る技術を身に着け他の場所場所へと居住区を広げていきました。

いつ頃から井戸があったかというのは遡ることはできません。遺跡ではいろいろと遺っていても、きっと遺跡のもっと前からこの世に存在していたはずです。掘り進めていけば水にあたるというのは、下から水が湧き出ているのを発見してからずっとあったと私は思います。

井戸が本格的に国内に広がっていったのは、弘法大使空海が唐から技術を持ち帰ってからだともいわれます。かつて井戸は、清らかで冷たい水が湧き出すことから冥界とつながっていると信じられ水神様や龍神様が祀られ大切さにされてきたといいます。

各家庭には必ず井戸があるといっていいほどに井戸を持ち、また地域の中の大きな井戸では井戸端会議といってみんなが集まり水の周りで話をするようなコミュニケーションの場が醸成されていたそうです。

今では水道が整備され、ほとんど井戸の存在など忘れ去られてきていますが少し前までは私たちの暮らしをずっと支えてきたのはこの井戸水であったのです。この井戸水は風土の水であり、その水を飲むことで私たちは風土の恵みをいただくことができます。

「水が合う」という言葉もありますが、そこでの暮らしが居心地がよかったりその風土が体に馴染むというものもこの水が関連してきます。自分の合った水を飲むのがその人の居場所やその人の体質に合うもので自然とそのような環境に移動していったのかもしれません。

今では地域や場所の違いはほとんどなく、あちこちに移動したり引っ越ししたりしてあまり水が合うかどうかなど気にもされませんが、本来、家や井戸などは森の大樹のように動かないものです。

その動かないものが守ってくれるように、家で暮らす人たちのことをずっと見守り続けています。そういう存在に神様が宿っていると信仰したのがかつてのご先祖様たちだったように思います。長い期間をかけて見守る存在を神と崇めて奉る、その姿勢そのものが信仰の源だったように思います。

あるご縁から聴福庵の井戸を甦生することになりましたが、暮らしの中に井戸があることが大切であることを実感します。引き続き、子どもたちのためにも暮らしの甦生を深めていきたいと思います。

好きになること~時間の使い道~

人は時間の使い方を観ればその人の生き方がわかるものです。その人が一日24時間を何に使っているか、また一週間の168時間を何に使っているか、さらには30日、1年とその時間をどう過ごしているかでその人の生き様が観えてきます。

例えば、一日の仕事を好きでやっている人は一日中好きなことに没頭していきます。好きでやっていることだからそれは単に時間を浪費しているのではなく、好きなことをするのに大切な時間を使っていることになります。

私も好きなことややりたいことが山ほどあって寝たくないけれど寝ないといけませんから寝ますが、寝ても覚めても好きなことのことを考えています。もちろんそれは単に趣味に没頭しているというものもありますが、やっていることがすべて一つの目的につながっていると感じることができればすべてのことが好きでやっていることに気づくのです。

やりたくないことや大変なことがあったにせよ、この時間は二度と戻ってこないものです。その時間をどのように大切に使い切るかは、その人の問題意識に由るものです。この体験はきっと誰かや未来に役に立つ、この経験はきっと何か大切な意味を含んでいると深めて内省を続けていれば後になってやっぱりあれはとても大切なことだったと気づきます。

そういうことが連続で起きてくると、好悪で仕事を選ぶのではなくそのすべてを愛せるようになってきます。よく考えてみると、好きになるというのは単に好き嫌いの好きではなく嫌いなところがあっても好きであるということです。つまりいろいろな欠点や問題があったにせよそれでも好きなっているということです。

一日の時間の使い方の中で、どれだけ好きなことに没頭できるかでその人の一生は決まるように思います。それは嫌いなことを排除しようとする努力ではなく、好きになっていく努力、それほどまでに好きになるほどに時間を大切に生き切ったかという自問自答の集積だと私は感じます。

時間をどのように使うか、それはその人次第です。

少しの時間も無駄ではないとその時間そのものを楽しんでいけるようになるには、自分自身の人生を好きになると同様に時間を好きになるということです。与えられたものに文句を言うのではなく、与えられたすべてのご縁を好きになること。

つまりは自分にとってもこの時間はもっとも相応しいものであると受け止め、それを真摯に時間に還元し時間に尽くしていくことのように思います。

この時間は二度とないからこそ、どの時間もかけがえのない大切な人生です。出会いを好きになり、ご縁を好きになり、経験を好きになり、ありとあらゆるものが好きになったとき、人は自分自身のことを本当に好きになるように思います。

自信と誇りは時間の使い方次第です。

引き続き、子ども第一義、すべての時間をその一点に集中して歩みを刻んでいきたいと思います。

理念の共有

誰かと何かをやるときに理念の共有というものは大切なことです。特に組織でいえば全体を一緒にカバーしていくような柱の人たちはこの柱を支える役割がありますからその柱がちゃんと立っている必要があります。

もしも柱がどこかにいってしまったり支えていなければ、それは全体の家を支えることができなくなるからです。だからこそこの理念の共有は、柱を支える人たちにとってはなくてはならないものだともいえます。

家であれば柱が傾けばその柱に重みが一点に集まって乗ってしまうことはわかります。傾いた柱に重みが乗ればあっという間にその全体の重量がかかり家が傾いてしまいます。そうならないように周りの柱も一緒に支えることで家は立っています。

例えば他にも重たい石やものを持つときにも、持ち上げる際には一人よりもみんなで持ち上げることで持ち上がります。その際は、一緒に息を合わせて持ち上げることで持ち上がります。これもまた先ほどの理念の共有と同じく、みんなで支えて持ち上げなければなりません。

自分だけでやろうとするのではなく、みんなに協力してもらって持ち上げていくこと。そのためにも理念の共有は欠かせないのです。大黒柱がもしも家からなくなってしまえば、その家は少しの災害でも倒壊してしまいます。同じくチームの中での大黒柱がなくなればそのチームも同様に崩れてしまうかもしれません。大黒柱とそれを支えるチームの人たちが如何に目的を共有して一緒に組織を支えるかは、その目的の共有の質量に由るのです。

目的の共有とは、何のためにやるのか、誰のためにやるのか、なぜこれをやるのかという意識の共有のことです。意味があってやっていることであっても、その意味が分かっていないのでは目的が共有されているのではありません。

一回言ったからいいではなく、何回でも耳に胼胝ができてでもその目的を伝え続けなければなりません。それが本質であり続けることであり、本来の目的に対して誠実にみんなで力を合わせて取り組んでいくことになります。

柱が多ければ多いほど、また真っ直ぐに凛として立てば立つほどにその家は強く逞しくなっていきます。自分が支えているものが何か、何をすることが支えることなのか、その経過を理解し合い持ち合うことが家を守ることになります。

幹部というのは木の幹、根幹の幹ですからこの経過を常に確認することはチームや組織において何よりも優先していく必要があると私は思います。

引き続き、お客様の理念がブレずに目的に向かえるように理念の共有を説いていきたいと思います。

 

宿る

昨日は、熊本から長くお付き合いいただき一緒に理念の実現に向かって取り組んでいるお客様が聴福庵にきてくださりお泊りされました。

すぐに箱庭を気に入っていただき、庭木がとても喜んでいるように見えると仰られありがたい気持ちになりました。ちょうど昨年、鬱蒼とした庭木の剪定を素人ながらに必死に行いすっきりさせ、その庭に年代物の春日燈篭や江戸中期の壺、そのほかにも竹垣や土器、睡蓮鉢にメダカを育て水盤、いろいろな道具も配置していきました。

それに苔も8種類ほどのものを混植し、観音竹や山の清流に流れている石や草草なども移動しました。それから約一年経ち、鑑賞していただけるものになりそれを誉めてくださる方が出てくると、庭に一つの空間が宿ったことを感じます。

そもそもこの「宿る」という言葉は、いのちが宿るや魂が宿る、もしくは宿命といういい方もします。この宿は、単に泊まる場所をいう場合と、宿るといってそこにすまうものがあるという意味もあります。

私たちの体にもいのちと魂が宿ることで存在します。宿っていないものはすぐにわかります。この宿るというのは、目には見えませんが確かにそこには思いや願い、祈りや精神、そういうものがいつまでも留まっているということです。

魂を宿しておくというのは、体がたとえなくなったとしてもその魂自体はその空間やその道具に遷して留めておくということです。それは物に限らず、言葉であったり、建物であったり、遺し方はいろいろとありますが大切なのは宿らせることなのです。

暮らしも同じく、そこの家で取り組んできたものはその空間に宿り続けています。それは継いでくれる人によってさらに高められ、確かに宿ったものに由って甦るのです。

私たちは死んでなくなるという発想を持つのは自分のことや自分の代のことだけばかりを考えるからで、死なない存在がある、つまり宿るのだということに気づけばその生き方やプロセスの方を大切にすると思うのです。

宿っているものを見てくれる人がいることがありがたく、この道をしっかりと踏みしめていきたいと決意と覚悟を新たにしました。

子どもたちのために、何を大切にし譲っていくか、本質を守り続けていきたいと思います。

志結

吉田松陰が死の直前に書いた留魂録というものがあります。これは辞世の句からはじまり、仲間や同志、弟子たちには「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と記し、家族宛に「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」と記しています。

これと同じく、「諸友に語(つ)ぐる書」というものを遺しました。

ここに最後まで忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」

意訳ですが、「君たちはきっと僕の真心を理解していることと思います。これから先に死んで逝く僕のことを決して悲しまないでください。僕の死んでしまうことを悲しみ同情することは、僕の本心や真心を理解してくれたのではありません。もしも僕の本心や真心を深く理解して同情してくれるのなら、僕の志を受け継ぎ、この志を更に大きく実現してくれることなのです。」と。

ここに最後まで真心に生き切り、自らの志、その忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

志は、自分の人生だけで完結するものではありません。何代も先のため、せめて七代先のことも憂い、自分がその使命を果たそうとするのです。志を継ぐというのは、それだけ物事を長いスパンで考えてその志のバトンを受け継いでまたそれを次に渡していこうとする試みなのです。

例えば、孔子や仏陀、キリストをはじめ、神話や伝説などもそれは語り継ぐ人がいたから今の私たちがその言霊と真心を理解することができます。数千年以上前の出来事が今でも生き続けているのは、その志を継いでくれた人たちがいたからです。

その志を継ぐことは、決して頼まれた結果を出せばいいのではなく同じ生き方をしていってほしいという願いと祈りに近いものがあるのです。自分の真心や本心は何か、それは未来の子どもたちや子孫のためにも、先祖のためにもこう生きたいという心そのものです。

その心のままに歩んでほしいと願い、その心が同じであるから共に同志が集うのだから守るべきは自分のことではなく志を守ろうとするのです。守るものがあるから生きられ、守るものがあるから本来の自分の使い道があるとも言えます。

何を守るか、何を信じるか、何のために生きるのか。

これらが志と結ばれ、その志が永劫に受け継がれ生き続けるのです。吉田松陰にこんなに惹かれるのは、志が同じくするからかもしれません。別に外国を追い払おうとしたのではなく、大和魂を守ってほしいというのが志だと私は思います。

引き続き子どもたちに大和魂を譲り遺すためにいのちを懸けていきたいと思います。

稽古の意味~初心伝承~

人は初心を磨くことで初心に近づいていくものです。その初心とは、目的そのものであり本質のことです。それをどう磨くかといえば、それを何度も思い出してはその初心のままかどうかを確認して実践し学び続けることです。

そしてこれを稽古というように私は思います。

師が弟子に稽古をつけるというのは、単なる技術だけを指導するのではなく生き方を指導してくれます。その人の生き方に触れることで自分が初心を思い出すことができるからです。

そもそも人は日々の些細な出来事の中で、何のためにやるのかということをいちいち考えずに日々は流されるままに動いてしまいます。特に環境の影響を受け、環境の中で最善を考えているうちに本筋からずれてしまうことあるのです。

その時、自分自身を振り返り、自分が本来の目的に向かっているか、初心に対して誠実であるかと内省を繰り返すことで本道からそれなくなっていくように思います。

それを稽古していくともいい、ここでの古(いにしえ)とは初めての心のことであり、産まれたときの心境に回帰しそれを稽(かんがえる)ということです。この稽の字は、もともと留まる、引き留める、頭を地につけるという意味があります。

そうやって繰り返し稽古することで人は上達していきます。

理念を浸透するというのは、自分はもちろんのこと一緒に目的に向かって取り組む仲間も同時にこの稽古を積みかさねていくということです。理念は創造して初心を発信することで物事の半分が終え、残りの半分はそれを稽古を継続することで半分を終えます。

結果にとらわれて初心を忘れるようなことでは、周囲も方向を見失います。大事なことを忘れないようにするのは、自分の生き方の稽古の研鑽を積むことです。

引き続き、理念が仕事ですから自分自身が稽古を積み精進していきたいと思います。