渾然一体

明治以降に急速に西洋化をした日本は、西洋的な発展を自分たちの発展と入れ替えてきたともいえます。本来、それぞれの国はそれぞれの発展の仕方と言うものがあります。気候風土に合わせて人種も分かれ、肌の色も価値観も暮らしも異なっていました。こういう人々たちがそれぞれにそれぞれの場所で独自に文化を発展させてきて今があるとも言えます。

それが今では世界が交通網や物流が世界の奥地のあちこちまで行き届き、世界中から物が運び込まれてきて同時に人や文化も入り混じります。そこで様々な文化が衝突し、受け容れられないものは排除したりと人類は今、乗り越えなければならない文化発展の過渡期を迎えています。

本来、異質なものが混ざり合うということはどういうことかそれを少し深めていきたいと思います。

混ざり合うという言葉に「渾然一体」という言葉があります。これは別々のものが混ざり溶け合って、お互いの区別がつかないほど一体になるさまをいいます。もはや混ざり過ぎて何が分かれていたのかが分からない状態になるということです。

渾然というのは、異質なものが異質なままに一体になっている様のことを私は定義しています。同じにする必要はなく、異なっているけれど理念に対しては皆一体になっているということです。

理念でいえば私たちの会社には窓際に沢山の花壇があります。カグヤガーデンと呼んでいますが新宿の高層ビルの中にある総合空調の中では、外にあるような自然がなく、風も吹かず雨も降りませんし季節の変化もありません。徹底管理された空間においても、それぞれの持ち味を活かす工夫として混植という方法をとりました。

この混植というものは、一つの花壇の中に多種多様の種類の植物をひしめき合うように入れます。しかしそうすることで単一の花を花壇に植えるよりもよほど長く花は咲き、それぞれの持ち味を活かして美しく空間を彩ってくれます。単一の花が美しいと思っている人もいますが、百花繚乱に咲き誇るそれぞれの持ち味が活かされた花の美はなんとも自分らしく尊く感じられるものです。

この混植こそが渾然一体の姿であり、分かれていたものが一体になっている様です。

私は会社の理念を語るとき、このカグヤガーデンをいつも意識しています。この花を見るとき、私はこれからの時代、グローバリゼーションで世界が単一化していく流れと、その反対に世界が多様化して百花繚乱に美しく活かされていく流れがあると感じています。

子ども達に遺して譲りたいのは、混ざり合うことは悪いことではなく混ざってい一体になったらもっと新しい美しさがあることを自分たちの生き方を通して伝承していきたいのです。それぞれの持ち味が活かせるのなら、私たちは必然的に助け合い譲り合っている社會もそこに存在しているはずです。

いがみ合い仲が悪く、果たしては戦争でいのちを殺めるということは子ども達にはしてほしくはないのです。だからこそ、自分たちがまず渾然一体になることを目指し、異質なものを受け容れる寛容さ、長所を友とし、その人のたちの好いところ、美点を伸ばし、認めていくという実践を常に大切に積み重ねていく必要があると思うのです。

私たちが実践する子ども第一義の発達の中心には常にこの「渾然一体」があります。

自然から学び直すのもまたこの渾然一体に気づく大切さを学び直すためでもあります。何が自然で不自然か、自分たちの理念を実践することで文化発展のモデルを示し、周囲に伝承していきたいと思います。

 

 

人類の智慧~生き残りをかけた教育改革~

人類というものは今まで生きていく中で、何を大切に守ってきたかというものがあります。これは伝承されてきた文化であり、私たちのいのちが続いてきた根源でもあります。そして現代を生きる私たちにとっては戒めでもあります。日本の先祖たちが、己に克つことを大切にしたように社會を維持していくためにそれぞれが守るべき規範がありました。これを道徳とも言います。

今、世界ではこの人類が大事にしてきた自戒や回訓が失われてきているように思います。それぞれの国々が、自分さえよければいいと言う自利に走り、度を超えて我儘に自分の欲ばかりを満たしていたらこの先どのようになっていくのかは火を見るよりも明らかです。

今一度、教育に関わる人たちはこのことを考え直し社會をどのようにしていくかをすぐに改めて改善していくしかありません。これまで続いてこれたのは先祖たちが続いてこれるような生き方を貫いてこられたからであり、私たちは先祖の恩恵に感謝し、先祖と同じように先祖になっていくのですから真摯に向き合う必要があります。

自然界では、自分勝手に我儘が通用しないように常に調和が存在しています。御互いがほどほどに謙虚に生き、取り過ぎず度を超えずに暮らしていくことで種を保存していくことができているとも言えます。

人間界はそれに反して、自分たちの思い通りにしてきました。そのうち度を超えてしまえば、間違いなく自然の中で篩にかけられ不自然を淘汰する流れがやってきます。自然界の調和は宇宙の力であり、私たちちっぽけな人間などが敵う相手ではありません。

今は自然から離れてしまい、自然を意識しませんが私たちは自然の中で活かされている一つの生き物でしかないのです。

二宮尊徳は、「分度」という言い方をしました。分相応、自分の分を弁えそれ以上は譲ることを実践して仕合わせを創造していきました。これは人類が生き残る智慧の結晶です。

何が自然で不自然か学び直し、人類の生き残りをかけて教育改革を進めていきたいと思います。私たちは分度、推譲の実践によって世の中に一石を投じていきたいと思います。引き続き実践を考案し日々の実践を磨き改善していきたいと思います。

不便の価値と人間の文化

先日から便利・不便について書いていますがそのことを少し深めてみたいと思います。

人は便利と不便を使い分けるとき、自分の感覚を用いないのか、用いるのかということで使い分けているように思います。例えば、鉛筆削りなどもそうですが今では電動であっという間に削れますが昔はナイフで自分の手で削っていました。ライターが普及すればマッチで火をつけるということもなくなりました。

他にも大きなことでは天気予報や災害情報なども今ではスマートフォンのアプリで勝手に知らせますが昔は自分の五感や感覚で天候や自然の状況を察知していました。今では自分の感覚を用いないことを便利といい、自分の感覚を用いることを不便と言います。

そのうち自分の感覚が失われていき、本質的に不便になっていきますが実際の便利と不便の定義もあべこべになっているように思います。動物たちにとっては自然界で生きるのに、自分の感覚を使うほど便利なことはありません。人間はすでに自然から離れ、都市化され加工したところに住んでいるとすべて自分の感覚よりもデータや道具の力でやった方が便利だと信じ込んでいます。都会の人が田舎にいったら途端に何もできなくなるような感覚があればその意味に気づけるようにも思います。

もちろん別に原始返りすればいいと言っているわけでもなく、動物の時のように戻れというわけではありません。大事なセンスや能力、五感はそのままに磨き続けて現代の技術を用いることが本来の人間の持ち味ではないかと私は思います。そういう意味で今の時代のような便利を追求するということは、自分の感覚を怠けさせるのではないかと思うのです。そして自分の五感や感じるチカラが減退するということは、それを生物でみれば本来の進化とは呼びません。今は急速に人の持っている感覚が消失しているのも、便利な道具に流され依存し自分の感覚を使わなくてもよくなったからのように思います。

結局は一つの価値観によって画一化されて単一化された道具で、誰でも簡単に自分の感覚を使わずに便利さや自由の中に埋没してしまうとより一層個性が失われていくということでしょう。これは自立と依存の関係がとくに現れていることであり、生きるために自立するのが大変だから依存していたいと怠けてしまうのです。

このような環境下で自分の感覚を使うというのは、常に決心と決断、その自立への覚悟が問われています。主体性が失われてしまうから便利な道具に流されてしまうのです。主体性を持っている人は便利な世の中であっても、敢えて不便の中に身を置き、敢えて不自由を遊び愉しんでみるという実践を必ず持っています。不自由と不便を使いこなしているからその人の人生は常に発見と発明、創意工夫、活気に満ち溢れるのです。

つまり便利さに流されるのは本人の自立の問題だということです。そして自立は自分の感覚を使う人のことをいいます。

今は世界中で単一画一が蔓延し、次第に調和のための多様性が求められてきました。こたえのない時代と言われているからこそ、子ども達はこの感覚を研ぎ澄ます体験がますます必要になってきます。不便さや不自由さは今からの時代に何より必要な道具であり、何よりの智慧であることは間違いありません。

今までの教育の概念を根底から見直す時代に入り、今までの価値観は転換され世界はもう一段成長した成熟した社會を望んでいます。

世界の責任のある一人の人間として、自分が不便不自由を謳歌しながら実践をし、子ども達や周りにその不便の価値と人間の文化を正しく伝承していきたいと思います。

暗闇の価値

私はいつも早起きをして内省しブログを書きますが、この時間は一日の中でとても大好きな時間です。早起きが好きなのは、この薄暗いところから次第に明るくなってくる様子に心が安らぎ心地よくなっていくからかもしれません。

今の時代は「暗闇」を嫌い、暗さを遠ざけているように思います。特に都市では一日中、夜もネオンなどで眩いばかりで暗さがありません。この暗さというものを遠ざけているから内省もまた遠ざかってしまうのでしょう。日々に追われ流され日々に忙しくなるのは「暗さ」の味わい深さに気づいていないからかもしれません。

今回はこの「暗さ」を少し深めてみようと思います。

この「暗」という字は、日が隠れているという組み合わせでできている字です。同様に「闇」もまた、門の向こう側に隠れているという組み合わせの字です。まだ明りが隠れていて出てきていないという意味になっています。暗闇は、これから日が出てくる前の状態ということです。

私達の生活には陰陽があります。陰の時間に内省をし、陽の時間に活動します。その陰陽のバランスを保つことで日々、心と精神と身体が一体になって心身統一された日々を正しく送ることが出来ます。

暗闇の持つ徳というのは、私たちが深く考えることができるということです。暗闇というものは、奥深さを顕し、日本文化では陰翳礼讃といって明かりの持つ妙味としてずっと大事にされてきました。

例えば、「無暗」という言葉がありますがあれは前後を考えない、理非を考えない、つまりは「考えがない」という意味になります。この反対に「暗がある」というのは、前後をよく考えている、理非を考えているということになります。

人は暗闇があるから考えるのであり、暗闇によってその奥に在るものを常に感じ取り明るみの陰にある本質を感じる感性を磨き上げることが出来るように思います。

かつて長野の善光寺に参拝したとき、「お戒壇巡り」という体験をしたことがあります。地下の戒壇に入った途端、漆黒の暗闇が訪れます。昼間明るいときに急に暗闇に入ると恐怖や不安が突然襲ってくるものです。しかし、目を閉じて暗闇を受け容れ歩きはじめると今度はゆっくりと心が落ち着いてきて様々な考えがまとまっていきます。

この明暗の体験で気づくのは、人は如何に目を基準に物事を判断しているのか、目で見たものを信じているのかということではないかと私は思います。目で見たもの以外信じなくなると人は文字通り「目先」にばかり目を向けて余裕のない日々を過ごします。

しかし目を閉じて暗闇に入るのなら人は「内省」によって目に見えないものを感じとることができるのです。この内省により感じ取ること、それによってその隠れた奥深い意味やつながり、御縁を結んでいくこと、その中に本質を見失わない人としての生き方があるように思います。

子ども達に暗闇を体験させること、そして「あかり」を感じさせることは、生き方を感じてもらうことです。囲炉裏も炭も家もすべてその体験を助けてくれる大切な道具です。暗闇の中の星空、それを家に呼び込むのは宇宙を体験させることと同じです。いつも先祖の偉大さを感じます。

引き続き、暗闇の価値を磨き内省の実践を高めていきたいと思います。

伝承の意味

私達は言葉を通してあらゆる知識を取り容れていきます。このブログも文章によってできる限り日々の出来事から気づいたことや問題意識などを書いていますが文字というものはとても便利なツールであるとともに、その便利さゆえに本来の本質が伝承されないということも起こります。

昨日も伝承について話をしましたが、伝承というものは文字や文章で簡単に伝わるものではありません。本来、まだ言葉がなかった時代、文字がなかった時代のことを思えば私たちはその時でも悠久の時を日々の暮らしから大切なことを子孫へ伝承してきました。

この伝承の本質について深めてみたいと思います。

そもそも人間は文字を使いますが、それ以外の動物たちは文字を使いません。私たち人間の特徴は、あらゆる道具を開発し道具によって発展をしてきた生き物だともいえます。その一つの道具として文字というものを開発してきました。この文字を造ってから人類は飛躍的に知識を交流させるようになり、今のようなIT時代になるとありとあらゆる知識を瞬時に便利に入手し活用することもできるようになりました。

しかし同時にその便利さというのは、常にその便利の陰に隠れている大切なことを失っていきます。例えば、今では火をガスやライターなどで簡単につけられる時代になりましたが昔の火のもっているゆらぎやぬくもり、癒しなどはそれと同時に失われてきました。便利さの陰で失われるものは、火というものの存在の本物の真価です。

これと同じように文字や文章が簡単に使われる時代になると、それまでもっていた本来のいのちの真価や自然そのものの存在をあるがままに直感するチカラも消失してきました。

今は自然のことを文字で説明して教える時代になっています。山を見て山と認識し、川を見て川と認識する。雲は雲で、氷は氷と言いますがそんなものは本来の山でも川でも雲でも氷でもないのです。

自然をそのままに理解するのに言葉は必要かといえば、むしろ言葉は必要ありませんし文字も必要ないのです。

その便利の陰に消えてしまったものをどのように取り戻していくか、ここに民族伝承の鍵が私はあるのではないかと思います。文化の継承や伝承は、この無文字の世界、無言葉の世界、言い換えるのなら「無」によって行われるものです。

この「無」をどのように体験してもらうのか、そこに日本の精神「場」や「間」や「和」の伝承の仕組みが存在していたと思います。子ども達が言葉や知識だけではわからない物を体験させることは何よりも大切です。そしてその中に私たちの先祖から連綿と続いて繋がって結ばれてきたものをがあることを忘れてはなりません。

その先祖の存在こそが私たちのアイデンティティそのものであり、その先祖に感謝しているからこそ安心して未来永劫仕合わせに存在していることができます。

こういうものを文字で書かなければならないということは矛盾そのものですが、現実を受け止めつつこの時代にどのように初心伝承していけばいいか、まだまだ学び直していきたいと思います。

家の恩徳

昔から家というものは、その土地や風土、その国の価値観を今でも色濃く建物の中に遺ってあるものです。山の中や海の近く、川の傍から谷の底など、その場所場所で家は工夫されてきました。また英国やオランダなどヨーロッパの家と中国や韓国などのアジアの家、それらは気候風土だけではなくそれでの伝統も家の中のつくりのなかに取り容れられています。

日本人の家は南は沖縄から北は北海道と気候風土も異なりますが、家の中にある価値観は同じようなつくりで建てられています。例えば畳、縁側、瓦、土間、障子、襖など、これは全国各地のどこの日本の家でも共通して存在していました。

今では和風建築に残るくらいで、ほとんどが西洋式の建物に変わってしまいそこに住む人々の価値観も次第に変わってきています。

日本の家というのは、自然の世界と人間の世界の境界線がほとんど曖昧につくられています。西洋の家では、塀や堀、また壁によって外界との共感線ははっきりと遮断されます。

たとえば、西洋などでは冬になれば全て窓を閉め切り完全密封して暖炉で家ごと暖めます。しかし日本は、隙間風も多く囲炉裏や火鉢、炬燵の近くに人間の方が近づいてじっとして暖まります。自然から切り離して人間の都合で人間の慾を満たそうとするのではなく、70パーセントの快適さ、腹八分目、ほどほど満足、足るを知るかのような境地でそれは少々我慢します。

たとえ部屋が暖まり快適にならなくても、みんなが火があるところに手が届く距離でみんなで暖をとれば、その分、人の暖かさで温もりがとれるという考え方だったのでしょう。日本人のこのような発想の工夫、自然の活かし方、人間の心の活かし方はまさに自然と人間が調和しているように思います。

もしも100パーセントの快適ばかりをめざし、いつも満たされていたら人間は次第に傲慢になっていくのかもしれません。数パーセントの不便をもゆるさず、その不便を克服するためにさらに自然から遠ざかっていくように思います。

しかし日本人の謙虚さは、自分だけを満たさず周りのことも思いやることで少々我慢しますがその分、思いやりが通じ合うことによる感謝やぬくもり、一緒に生きる人々の安心感が得られるのです。一人でなんでもうまくいけばいいとやればやるほど実は孤独になり、不安を抱えているという話はよく聴きます。自分勝手が人間を孤独にしていくとも言えます。実際には、人は一人では生きていけませんから不便だからこそ人は助け合い、不便だからこそ思いやれます。しかしその不便は安心というもう一方での眼には見えない心の快適や平安を産み出しているのです。

自然と共に暮らす安心感とは、いつも一緒につながりあっている安心感です。自然から切り離すことでその関係も切り離されます。日本人の持つ、御縁が結ばれているや絆があるという感性はこの自然との共生、人々との協働生活による調和の中から感性が磨かれてきたのです。天照大御神のときより共同していることを重んじるために永年実践してきた様々なまつり、稲作、暮らしの神事が今はものすごい勢いで消失してきています。

何を大切に生きてきたか、それがあったからこの気候風土の中で私たちは今まで生き残れてきたとも言えます。それを子孫へつなげないということは、この気候風土では長生きできなくなるということです。世界でもっとも自然災害を受けているこの国は、他の国のような暮らし方では通用しないから先祖はもっともその災害を通して学んだことを子孫へあらゆる暮らしの文化を通して遺してくださっているのです。

その思いやりはまるで父母の恩徳そのものです。

この父母の恩徳を感じ、それを継承することは自分がその父母の恩徳そのものになろうと実践することです。古民家再生は、家の再生ですが、家の再生とは父母との恩徳の再生でもあります。古民家の価値は、子ども達を思いやり続けた親祖父母の祈りや願いが籠っている暮らしの中にびっしり詰まって遺っています。まさに家の恩徳は父母の子どもを思う真心の結晶です。

末永く子ども達が安心してこの気候風土を楽園にしていつまでも仕合わせに生きていかれるようにと祈り、願う心のままに恩徳は今も息づいています。ひきつづき子ども第一義の理念を実践することで暮らしの再生を通じて伝承していきたいと思います。

 

なつかしい未来

人間は誰にしろ「懐かしい」と感じる心を持っています。まだ幼い子どもがある景色をみて懐かしいと感じたりします。この感覚はいったいどこから来ているかということです。

「懐かしい」という字を辞書で調べると、(1 心がひかれて離れがたい。2 かつて慣れ親しんだ人や事物を思い出して、昔にもどったようで楽しい。3 引き寄せたいほどかわいい。いとおしい。4 衣服などがなじんで着ごこちがよい)(コトバンクより)などと書かれています。

本来、この懐かしいという言葉は「なつく」という語源から来ている言葉であり慣れ親しんでくる、つまり馴染んでくるという意味で用いられていた言葉と言います。

昔ながらの田舎の棚田をみて、稲作をしている人たちの仕事ぶりや様子をみると何か心に惹かれるものがあります。また古民家で暮らしている人たちの様子をみるとまた同じように心が何かを思い出しています。また一緒に暮らしてきた犬や猫、牛や馬、ツバメや雀なども今でも近くにおいて共に生きていこうとします。

私達は知識で認識できないものであっても、心は慣れ親しんだものをいつまでも宿しています。かつての記憶は私たちの心に生きています。思い出せないと思っていても、実際はなつかしいと感じる心が遺っていますからそれは忘れてはいないということです。

何百年、何千年と同じようにその場所で生きてその場所で暮らした記憶は慣れ親しんだ情景と共に心の中に生き続けています。そしてその安心感があるから、人は先祖とつながり、先祖がいてくれた御蔭様で今が在ることに心から感謝するようになります。

懐かしいという言葉を使う時、それは単に過去に戻りたいと言っているわけではありません。私が思う「懐かしい」という言葉は、慣れ親しんだ文化、自分たちの風土にあった馴染んだもの、その居心地の善さのことを言います。それは言い換えれば自分らしくいられること、日本人らしく生きること、自分たちがどのようなものと共に永らく道を歩んできたか、自分たちの個性を取り戻すということでもあります。

なつかしいままに未来があるというのは、多様性を維持しながら進化成長していくということです。画一的な西洋一辺倒の文化が先進的で価値があると思い込み、それを単にコピーするだけでは地球はもう発展を持続することができなくなってきています。成熟した社會を創造するには、もう一度原点に立ち返りそれぞれの違いを認め合い共に尊重して助けあっていきていかなければなりません。

世界は今、過渡期であり欧米、アジア、中東にある大国をはじめ様々な国家が成熟できず行き詰まりをみせています。なつかしいままに未来を切り開くというのは、本来の慣れ親しんだ文化を大切にしながら新しい時代を革新していくということです。それは自然に沿って人々が調和していく社會を築けるかどうかということです。何千年も生きてこられた智慧を捨てるのか、拾い直すのか、ここが人類の分水嶺ということです。子ども達のためにも何もしないまま指をくわえて待っているわけにはいきません。

温故知新の温故とは、この「懐かしい」という意味と同じです。本来の日本人らしい日本人のままに世界に出て自分たちの自然文化から世界の調和のために貢献できる成熟した人間を育てていく必要性をひしひしと感じます。

そのためにも何よりも自らの改革と実践あるのみです。伝承という懐かしさを深めつつ、何を新たにしていくか、子ども達のためにも日々に創意工夫し挑戦していきたいと思います。

 

転換時期

明治維新から長らく日本の体制というのは変わっているようで実はほとんど変わっていないように思います。人口が増加し成長していくという経済構造は、これから人口減少で縮退していくという時代の変化に対応していく必要があります。

色々な政策をみてはどこか自分には大きすぎてイメージがわかないように感じられますが、簡単に言えば地方の小さな村々で起きていることが今の日本に起きているということを考えればわかります。高齢化で過疎化、人口が減りそこに政治や経済がまったく行き届かないということ。子ども達がおらず、多少生まれてもどこか違う場所へそのうち引っ越してしまう。お年寄りは老人ホームか都市に引っ越し、次第に空き家も増えてそのうち誰もいない廃墟のような村になってしまうという構図です。そしてその村々を捨ててコンパクトシティ化といって都市の一か所に集めようという動きが進んでいます。

これはどこか遠くで起きている事例ではなく、今の日本の国のあちこちで起きていることです。大なり小なりどんな場所でもこのような姿は次々に発生し進行しています。もう前から分かっていることでしたが、これが日本の未来に抱える今の課題ということです。

なぜこのようになるのか、それは今まで信じられてきた右肩上がりの成長信仰、グローバリゼーションによる消費拡大のロジック、スクラップアンドビルドによるハコもの投資がもはや通用しなくなっていることの証明なのでしょう。

日々に追われるばかり、また自分のことで余裕がない人ばかりになっていて全体構造を根本的に変えるような一人ひとりの実践が追い付いていないように思います。

日本の未来はすぐに子ども達の現実になります。古い体質や旧態依然の態度のまま何も変化していなければ必ず行き詰ります。これは人の成長と同じで、よくないとわかっているのにいつまでも以前のままの習慣を続けていればそのうちにそこから綻び破たんしてきます。

一人の人間の改革は一国の国の改革と同じです。

大きなものを身近な小さなものに換えてみると、そのものの本質が分かるのです。如何に国を形成するのは一人ひとりの当事者意識と自覚、己に克つことが影響するのかが分かります。

かつて二宮尊徳が、村々を復興させていくのに際しそれを「心田開発」と名付けました。「わが道は、人々の心の荒蕪を開くを本意とす、心の荒蕪一人開くる時は、土地の荒蕪は何万町歩あるも憂ふるにたらざるが故なり」といいました。

どんなに村が荒廃していても、一人の人間の心の姿を換えてしまえればどれだけ大きな村々の復興であってもまったく心配する必要がなくなると言いました。では二宮尊徳はどの刷り込みを取り払って何に心を開かせたのかということです。

これは今の時代でも通用する普遍的な知恵であることに気づきます。

あの時代も同じように人々が行詰る何かの刷り込みをみんなが持っていました。自前で物事を解決せず、藩政に文句をいい、自分がやらない言い訳ばかりを募らせ、自分のことしか考えないで誰か任せにし誰もなにもしようとしませんでした。

そこに二宮尊徳が本来の姿が何かに気づかせ、一緒に実践していくことで村を復興させていったのです。一人の人間が、その時代に与えた影響は大きく子孫たちはどのように今の時代を復興させていけばいいかをその時の歴史の真実の事例に学ぶのです。

もちろん過去と未来では現象は異なります、今のように近代化して西洋文明が入り複雑であった時代とは異なります。しかしよくよく共通するところを観ていたら普遍的な人間の問題も観得てくるものです。それは時代を経てもまったく関係なく、同じことが人々の心の中に発生していることに気づくのです。

一人の実践と一人の改革は、国の改革を担っています。

子どもたちのために、自分自身ができることをそれぞれで他人任せにせず自分の立っている処から何を実践していくのか一人ひとりが取り組んでいく必要があるように思います。誰かの政策は魔法のように何かを解決していくものではありません、世の中が変わって価値観も変化していく中、かつての栄耀栄華をいつまでも忘れないままで愚痴をいってもいつまでも同じことの繰り返しになってしまいます。

価値観が変わるときは、常に発想の転換も必要です。今、まさに時代は転換時期に入っています。そして私達は子ども第一義の理念を掲げて実践をする会社です。引き続き、子ども第一義の理念に沿って温故知新に取り組み足元から新たな実践を増やしていきたいと思います。

 

愛着形成~故郷の存在~

今、古民家再生を通して郷里故郷のことを学んでいます。

故郷というものは、自分を形成した場所であり、自分の原点がある場所です。故郷にある懐かしさとは、先祖たちが子ども達のためにと遺してくださった深い愛情を私たちは心で感じているのです。

この愛情を受けて私たちは健全に育ちます。これを愛着ともいいますが、自分を形成する際に必要不可欠なものです。この愛着はどのようにつくのか、それは好きになっていくことでついていきます。つまり、好きこそものの上手なれという諺もありますが好きになるから自然に愛が発生し、その愛を纏うことで愛着ができるのです。

そして愛着を持てるようになるには、好きであろうとする努力と同じことが必要です。相手の美点をみることや、相手の持ち味を探すこと、相手が偉大な存在であることに気づくこと、尊重することで次第に好きは高まっていきます。

尊敬することも尊重することも全部丸ごと含めて「好き」の中には入っているとも言えます。古民家再生は、まちの景観維持でもあり、まちの暮らしの継承でもあり、まちの人々の心の伝承でもあり、まちの美しい豊かな自然を遺すことでもあります。近代化で壊れてしまった様々な歴史や文化、先祖の遺徳を丁寧に直し修復修繕していく中で次第に故郷への誇りと自信、愛を学びます。

故郷の再生は何か新しいことをやるように感じますが実際は会社を善くしていくこととまったく同じです。社員が会社を好きになれば当然会社は良くなっていきます。社員に好きになってもらう努力は経営者の最大の責任です。それに社員も一緒に一体になって会社を好きになることで御互いのことを好きになり誇りと自信を持ちます。会社もまた自己を形成した大切な思い出のワンシーンであり暮らしと切り離すことはできないのです。

だからこそ故郷が愛の原点であり、愛着形成は人々の故郷そのものなのです。

そう考えてみると一つ一つの思い出をどのような環境で自分が見守られてきたか、それを省みるとそこに偉大な愛が潜んでいるように私には感じます。見守るということの実践は、好きになること好きになってくれるようにここが相互主体的に努力することからはじまるのかもしれません。

引き続き、子ども第一義の理念にそって子どもに譲っていきたい生き方と働き方を実践によって深めていきたいと思います。

場とは何か1

古民家を再生していく中で「場」について考える機会が増えています。古来より「場」というものにはチカラがあります。その場を活かして人々は神事を行い、暮らしを実現させてきました。この「場」とは何か、これから少しずつ「場」について深めていきたいと思います。

例えば、山野に行き清らかな川のせせらぎの澄んだ空気の中で休んでいるとします。その時、私たちの心は清浄な気持ちになってきます。この時、自然が私たちに働きかけるものと私たちが自然を感得していく相互作用があります。つまりその時、そこには確かな「場」が存在しているということに気づきます。

この「場」は御互いの主体的な影響力によって高められます。これはもともと其処にあったものに自分が近づいていったのか、もしくは自分の心が感応してそれを創りだしていくのか、それはお互いの結びつきや繋がりに由って変化していくものです。

さらに例えるのなら、庭をつくるときその庭に対して自分がどのように関わるか、どのように美しく育てていくかと接していけばその庭は次第に変化していきます。そして庭が変化するとき、その庭には「場」が創出されます。そこには美しく育てていく仲間が集まり、一緒に育ち合い成長をし続けて「場」のチカラを発しています。

私たちは何もなかったところに「場」を産み出します。そしてその「場」が私たちに関わり始めます。つまり環境というものは、場の働きのことであり、場が働くということは人間と環境の相互作用によって発生しているのです。この相互作用は共に働き次第に相乗効果を産み出します。

この相乗効果こそ自然界のバランスのことであり、調和はこの場の働きによって行われているのが自然なのです。自然というものを感じるとき、自然は場によって創造される調和であることに気づきます。

自然農の実践において感じるのも、自然の様々ないのちが複雑に絡み合ってその土地の風土の中で私を含め一緒一体に暮らしていく中でその人を含めた自然の田畑が出来上がっていきます。ここには人と風土の一体感の中で発生した「場」ができたのであり、自然の働きと人の働き、その相互作用によって安心安全な作物ができ、風土の他力が働き相乗効果の「場」のチカラが発揮され続けます。言い換えるのなら、生き活かされる共生の場ができるということです。

人類が今、課題になっている協働や協力、共生や自立といった社会問題のすべての課題はこの「場」のチカラによって再生も回復もできるように思います。

子ども達にどのような「場」を譲っていくか、そして私たちがどのように「場」から学び直しをしていくか、見守られてきた過去の自然や歴史を省みながら温故知新していきたいと思います。