普遍的な経営学

日本の経営学の祖とも称される人物に、江戸時代中期の儒学者荻生徂徠がいます。徳川吉宗の思想に多大な影響を与え、その後、各地の藩校の思想として取り入れられてきました。

よく考えてみると、経営というものは歴史から学べるものです。どれだけ永く続くことができたか、繁栄と発展を持続できたかなどは同様に組織を持ち人々を集め、経営をしてきた人物たちの知恵や仕組みを観れば共有するものがあるのです。

その共通したものをよく分析し、それをその時代の特徴に照らせば凡その改善点は観えてきます。しかしそれを知ってもできないのは、人間が自己中心的であり我欲に負けたり、また自律的な道徳観によって和していくことができなくなるからです。ちょうどこの荻生徂徠のいた300年前も今の日本と同様に都市化が進み、スピード社会になり、金と物とのバランスが崩れた時代でもありました。

国家をどのように守っていくか、そして経営をどのように進めていくか、言い換えれば今の時代の経営コンサルタントであったともいえます。

徂徠の経営学の要諦は徂徠訓の中に見て取れます。

一、人の長所を初めより知らんと求むべからず。
人を用いて、初めて、長所の現はるるものなり。
ニ、人はその長所のみを取らば、即ち可なり。短所を知るを要せず。
三、己が好みに合う者のみを用ふるなかれ。
四、小過を咎める用なし。ただ事を大切になさば可なり。
五、用ふる上は、その事を十分にゆだぬべし。
六、上にある者、下の者と才智をあらそふべからず。
七、人材は必ず一癖あるものなり。器材なるが故なり。癖を捨つべからず。
八、かくして、上手に人を用ふれば事に適し、時に応ずる人物、必ずこれにあり。
九、小事を気にせず、流れる雲のごとし。

意訳ですが、すべてにおいてないものを求めずあるものを活かすという考え方です。そして短所をカバーし長所を伸ばすという人の活かし方です。人間を経営者の都合で使うのではなく、その人そのものの持ち味を活かせという経営方法です。

これは古来より、人間が調和し組織の中でそれぞれが活かし合うための妙法として君子や聖賢たちが取り組んできたことです。驕り高ぶらず謙虚にあるがままのその人を認め、その人が活かせるような環境を創るということです。

そのうえで、その環境を伸ばすためにそれぞれに合った制度を立て多様性を維持してくことと、人々が安心して生活するために儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を磨き尽力することを諭します。

経営学は、いろいろな人たちが語りますが古今から普遍的に君子が守るべきものは尊重することです。その尊重することを、それぞれの時代でしなくなることから世の中が荒れ平和が維持されなくなっていくのです。

会社で行う小さな尊重こそがやがて世界の尊重になっていきます。経営を学ぶものとして、徂徠訓を肝に銘じたいと思います。

犬矢来と駒居~風情の仕合せ~

昨日は、聴福庵にある犬矢来(いぬやらい)に柿渋を塗り込み掃除や手入れを行いました。この犬矢来は、駒寄せとも呼ばれ本来は馬が家の塀を蹴ったり犬のオシッコなどで汚れるのを防ぐというという目的があったようです。木で格子を組んだ型・丸竹を数本並べた型・割竹を並べた型などの様式もあるといいます。竹が曲げてある形は滑って壁を登れないことから泥棒の侵入を防ぐ効果もあったようです。

京都にいけば町屋が並ぶ通りにはこの犬矢来や駒居がならび独特な日本の和の風情を醸し出します。先日は、離れの犬走りを玉砂利で敷き詰めましたが同じ「犬」の字がつくこの犬矢来は、犬を追い払うやらう(やらい)という意味で、駒居は馬を寄せるという意味からできた言葉です。現在では雨垂れが飛び散り家の壁を汚したり腐食したりすることを防ぐ効果からも用いられます。

この犬矢来を聴福庵に取り入れるキッカケになったのは、聴福庵は町家づくりのためその原点になっている京都の町家建築を学び直すでその美しさに惹かれたからです。京町屋にある壁伝いに巡らされた駒寄せや犬矢来のある美しい町並みをみていたらその街並みの調和に感動したからです。そこに竹の清々しさや柔らかさ、そして町全体の暮らしを感じることができたからです。

現在では竹製品は少なくなってきましたが、むかしは物が不足していた時代の無限の資源として短期的な成長力があり生産性がもっとも高かった「竹」を暮らしの中で十分に活かすことを考えて竹を用いました。このことからむかしは日本の家の中外のほとんどに竹製品が彩られていたのです。

聴福庵も箱庭には竹垣や観音竹を、側道には黒竹や黄金竹を、玄関には京都の竹を用いた犬矢来、厨房の天井には年代物の煤竹、花籠、竹団扇、竹箸、それに火吹き竹や竹炭装飾に至るまで家の中はあらゆる竹に関係しているものが活動しています。

よく考えてみれば日本人の風情の中に「竹」は欠かせない存在です。それは日本の気候風土が湿度が高く水気が多く腐りやすいからです。その点、竹は水に強く丈夫でいつまでもしなやかに経年変化の中で長持ちする特徴があります。

現在グローバリゼーションや資本主義経済優先の中で、大量生産大量消費して世界中どこでも同じものを安く使い捨てする世の中です。本来の気候風土に合ったものを捨て、プラスチック製品や安易に製造できる化学製品を買い求めます。しかしそのことから、無駄を生み出すだけでなく風土の中で豊かに生きる智慧や風情をも捨てていきます。

生きていく仕合せの中心は、暮らしがあることです。暮らしがない人生は味気もなく、無機質なロボットのようになってしまいます。本来の人間として与えられた感性や地球や自然と一体になる喜び以上に豊かなものはありません。

引き続き子どもたちに、譲り遺していきたいものを丁寧に治し、そして活かし、温故知新していきたいと思います。

夏季実践休暇~盂蘭盆会~

今年の夏季実践休暇の一環として、聴福庵で天神様の盂蘭盆会の供養を行いました。菅原道真は私の遠い先祖であることもわかり、日ごろ見守ってくださっている地域の天満宮の清掃と共にむかしの形式を学び直しつつお花や供物をお供えしました。

そもそも盂蘭盆会というものは、仏教からはじまったものです。お釈迦様の弟子のひとり、目連尊者(もくれんそんじゃ)が自分の亡くなった母が地獄に落ち逆さ吊りにされて死後もなお苦しんでいることが神通力を通してわかり、どうしたらその母親を救えるでしょうかとお釈迦様に尋ねたのがキッカケです。それに対しお釈迦様は、「夏の修行が終わった7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができるであろう」とし目連尊者と僧侶たちがその教えに従うとその功徳によって母親は極楽往生が無事に遂げられたといいます。

ご先祖様への供養となるのは、仏教が中国に伝来してそれまでの儒教などと融合して発展したといいます。時期は南朝梁の武帝(在位502~549)の時代に同泰寺で盂蘭盆斎が設けられ以後、中国の年中行事の一つとなって大いに流行したといいます。日本では推古天皇14年(606年)の記録が古くのち先祖供養や祖霊来訪の民俗信仰と習合して正月と並ぶ重要な年中行事となっています。

この盂蘭盆会の実施の時期は、歴の関係で新盆とか旧盆とか月遅れとか呼ばれますが明治時代の暦の改変で変更されてからこうなっています。西洋のグレゴリオ暦にする前は、暦は年々変化しますからむかしはその暦の変化に合わせて御盆も実施されていました。お釈迦様のときは夏の修行後とあったので、私たちとは生まれた場所も異なりますから本来の日時も季節も同じではおかしいかもしれません。

しかし本質として、亡き人を偲び自らの心に供養をすることは亡き人の苦しみや悲しみを和らげることができまた同時に自他も仕合せになるという真理があるように思います。それを子孫たちが行うことには大切な意味があります。

実際に盂蘭盆会の準備でご先祖様が家に帰って来るという意識で供物やお花を用意していると、今の自分がなぜここに居るのか、そして多くの見守りに活かされているのかを実感し、有難い気持ちになります。

先祖や亡くなった方々があって今の自分があるという意識は、自分だけがよければいい、自分の世代だけ乗り切ればいいなどという自我欲が恥ずかしくなるものです。自分のことだではなく全体のため、子孫のため、地球全体のためにと生きてこそ、私のその先祖の一員になれるという気がしてきます。

また先祖の霊は山からくると信じられていますから、山の花々、山から下りてきた花々を一緒にお祀りすればまるで身近にご先祖様の霊が訪れ華やかに喜んでくださっている気がしてきます。

日本の行事の中には、先人からの大切な教えや回訓があります。学校の知識も大切ですが、本来実践して学ぶという行事からの学びは智慧の伝承として決して失ってはならないものです。

子どもたちに自分たちの代で途絶えることがないように、丁寧に温故知新し甦生していきたいと思います。

真心の日々

人は初心を忘れずに実践をし続けることで道を歩んでいくことができます。道には終わりがないように実践にもまた終わりはありません。実践も日々である理由は、道を歩くのと同じで少しずつでも歩き続けていたら前進していくからです。もしも歩くのをやめたり、休憩ばかりして歩まなければそれが十年、三十年、五十年という歳月が経ったときには遠大な差になっているからです。その差は人生の本質に影響を与えます。

人間は何度も生まれ変わります。その生まれ変わりは、先祖から今に至るまで数百年数千年、数万年、それ以上の歳月をかけて歩み続けてきた道です。人類の成熟に向けてどこまで自分がその道をつなぎ歩んでいけるかは、それぞれの人生に課せられた偉大なテーマであろうと思います。

よく仕事と人生と分けないことを、実践を通して語りますがこれは分けることで本質が失われてしまうからです。これは仕事、これはプライベートを分けるのは自分の知識であり、本来はどれも人生なのだからどれだけ本気で人生を生き切るかということになります。

もしも初心があり日々を歩んでいくのなら、分けずに何でも来たものを選ばずに今に集中して今を生き切ることが必要です。言い換えればそのどれにも必死になって努力し楽しむ人生を歩んでいくということです。

人生の時間は誰にも平等で、その人生にはいつの日か終わりが来ます。そして今一緒にいる仲間やパートナーや縁者たちとのお別れの日が必ず訪れます。今しかできないこと、人生としてやり遂げておきたいこと、そのどれにも妥協せず、言い訳せずに、これも人生であると言い切れるように日々を実践で彩っていきたいものです。

いつ死んでも悔いのない生き方の中に、真心の日々があります。

子どもたちのためにも真心の日々を磨いていきたいと思います。

変わらぬ思い

昨日、聴福庵にタマリュウ(玉竜)を植えました。このタマリュウ(玉竜)は「ジャノヒゲ属」に分類され「ジャノヒゲ(蛇の髭)」は別名「リュウノヒゲ(竜の髭)」と呼ばれます。よく間違えられますがタマリュウはリュウノヒゲの中の1品種です。

このタマリュウ(玉竜)は、葉も綺麗ですが花を咲かせ美しい青い実をつけることで知られます。そして古くから縁起のよい植物として重宝されてきたといいます。薬としても知られており、鬚のような根のところどころにある小さなイモのような部分は、麦門冬という生薬となり、強壮、咳止めに効果があるとされています。

また本州以南に自生するユリ科の常緑多年草であり、以前近くの山の中で採取したことがあります。本来は、葉が長いものが多いのですがこのタマリュウは園芸用に葉が短くなるように改良されてきたものです。

松と同様に冬にも枯れずに青々と光る葉が美しいと感じたのかもしれません。また夏の日照りにも強く、繁殖も強いこともあるのでしょう。むかしから日本の先祖たちは、身近に縁起が良いものを置き、その福に肖ることで様々な福を取り入れてきました。

福はもともとはすべて自然の中にあるものでその自然の福が豊かであるようにと願い祈り続けて子孫を繁栄させてきたのかもしれません。禍転じて福にするという諺にあるように、私たちは常に福を意識して心の持ち方や生き方を学び続けていくのかもしれません。

このタマリュウの花言葉は「変わらぬ思い」「深い心」「不変の心」。いつまでも初心を忘れずに子どもたちのために復古起新するぞという決意と共に聴福庵を見守っていきたいと思います。

本律的組織~自他律一体~

組織には自律型の組織と他律型の組織があるように思います。簡単に言えば、自立型は主体的に自らで律することを優先する組織、他律型は受動的に他に律されることを優先される組織であるとも言われます。自律型は自らで責任をもって自らの意志で実行しますから元来から持っている自分の力を発揮しなければなりません。しかし他律型の方は、自分の元来の力を使わなくても周りに合わせていくことで調整していきます。

これは体に置き換えればすぐにわかりますが、体温調節をするのに空調に頼って自分の体を使わずに空調によって行うのか、それとも自らの体に備わっている温度調節機能に頼って行うのか。これを組織でいえば会社に依存して行うのか、それとも自分事として自ら主体的に自立して行うのかということです。体でも自分の元来の力で生きている人はとても元氣で楽しむ気持ちも高いものです。逆に自分に都合のよい便利な環境の中でぬるま湯につかっていたら体も弱るし楽ばかりを求めて怠けてしまいます。あまり自分を怠けさせないことも充実した人生を送るうえで大切なことです。

今の時代は、異常気象でもありますから便利な道具も必要な時には使いますがほどほどにしないとその便利な道具によって身を亡ぼすこともあります。だからこそ自己自律が必要なわけで、常に自らがバランスを保ち続ける必要があるのです。そして自と他というものは、本来は簡単に分かれているものではなく一体であったものです。

この自他一体になるというのは、律することにおいては自他律一体ということです。これを本律と定義してもよいと思います。本律とは、道理とも言い換えれます。道徳道理に従い行動する基準をみんなが持つということです。

自分か相手かという考え方はそもそも道理にズレるものです。全体調和や全体快適といった、すべての生き物は循環し全体とつながり活かされるものですから当然常に全体のことを思いやり自らを律して他を思いやりながら生きていく必要があります。人間には集団をつくるその根幹には「何のために組織をつくるのか」「何のために協力して共に生きるのか」という目的や本質があるのです。

その本質を守り続けるために本律がある。その本律の維持と研鑽が、真に道徳的で自他律一体の組織を醸成するのです。自律とか他律とかどちらがいいとかわるいかとか議論する前に本律がどうなっているのか、よく正対してみる必要があります。

人はまず何のために生きるのか、そして何のために働くのか、それを一人ひとりが自覚していることで律は働き始めます。そのために組織のリーダーは、自ら本質を学び、初心を定め理念を掲げ、本質がブレないように学び続けて精進していく必要があるのです。

謙虚さも素直さもまた、その本律的生き方が顕れたものです。

マニュアルをつくり他律で管理しようとしたり、しつけばかりをして自律で管理しようとしたり、そういうことをする前に自分自身が本質を保っているかを管理する方を優先することで組織もまた本質的になって自他律一体になるのでしょう。

目的を忘れない、初心を忘れないための工夫をみんなで一緒一体になって取り組むことで本律的組織は実現します。引き続き、風土改善の提案を深めていきたいと思います。

人生の仲間

人間は物事に取り組むときに、「自分事」になっているか、「他人事」になっているかという観点があります。どこか相手の問題で自分にはかかわりがないと線引きしていたら、結局は本質的にその人の問題を一緒に解決することができません。

何かに取り組むとき、それを単に仕事の一つとして捉え、どこか相手がやることになっていて自分はあくまでそのサポートでとうことであれば全体の解決のプロセスをチームで進めることはできないのです。

先日、あるリノベーションの会社の記事を読んでいたらその経営者が「自分が其処に一緒に住む」という覚悟で仕事に取り組んでいるという話でした。その方は、それまではクライアントの依頼に応えるだけで、如何にクライアントにメリットがあるかと考えて仕事をしていたといいます。もちろん、仕事のクオリティも高くお客様も満足してくださっていたそうですが数年後にその建物にいくと結局はその人抱えていた問題は解決もせず、自分が手掛けたものが活用できていないという事実に直面したといいます。

その時、最初はそれは相手に問題があると考えたそうですがそれでも何件も同様の建物を見るにかぎって自分に矢印が向いたそうです。果たして自分は「自分事」であったかという自分への矢印です。どこかビジネスだと割り切って他人事にしていたのではないか、本当の一緒にやっていたかと思うと大きな反省があったそうです。

これは今の世の中の世相を現わしている気がします。結局は何かに取り組むときに自他を分けて一緒にやっていないで相手の問題になっているから自分が提案しているものはあくまでもビジネスとして自分の立場を守るものになってしまい覚悟が決まらないのです。一緒にチームで取り組む覚悟もなく、ただ単に仕事をするだけであれば本質的な問題を一緒に解決に向かって協働したことにはなりません。

こういう仕事は、仕事のための仕事であって人生を一緒により善くしていこうという本質的な関わりはできません。

「自分事」だと思っているかというのは、前提が人生で一期一会に一緒に生きていきたいという「何のために働くのか」という生き方が定まったものであり、それは自他一体の境地で一緒一体に生きていく同志ということになります。自分の人生を懸けて取り組んでいく仕事を一緒にやることはそれ自体が美しく、その結果は単に成功以外の大きな喜びや仕合せがあります。

分けないという生き方、自他事一体として生きていく力には人生の主人公としての力が必要なのです。

今のような自他が完全に分けて考えられているような時代、コンサルティングをする上で決して間違ってはならないのは決して他人事にしないことです。もしもこれが自分の会社だったら、目の前の人が自分だったらと、自分に置き換えることができるからこそ本質的な本物の協業が実現するのです。

人は協力者があるからこそはじめて偉大なことができます。

いい人との出会いが、人生を唯一無二のものにします。一緒に生きていく人生の仲間を大切に人生として関わっていきたいと思います。

居場所

人は自分の居場所を感じることで心が安らかになるものです。しかし自分の居場所がなくて辛い思いをしている人もたくさんいます。過剰に周りを反応を気にしたり、どうせ自分のことは嫌われると決まっていると思い込んだり、もしくは本当の自分をつも我慢して無理をしていたりすると余計に居場所がなくなるものです。

そもそも居場所というものは、自分が居てもいいとゆるせる場所のことでもあります。ここに居てもいいとゆるされているというのは、自分のあるがままでいいと自分が感じられるということです。

自分のダメなところばかりを自分で指摘し、自分がダメだから居場所がないと思い込んでしまうループは余計に居場所をその人から奪うものです。こんな自分でも仲間は許してもらえる、こんな自分でも愛してもらえるといった自分への受容は、そのまま周囲の人たちへも居場所を提供することになります。

実際に自分の居場所がないと思い込んでいる人は、同時に周りの人の居場所もなくしてしまうような対応をしてしまうことがあります。例えば、自分から本音を隠して我慢すれば同時に相手の本音も遮断し相手に無理をさせていくという具合です。

だからこそ、自分のような存在を認めてくださっているという周囲の思いやりや温もりを感じたり、同時に自分からどんな欠点や弱点、短所がある人のことを愛する訓練が必要です。それは言い換えれば、丸ごとの自分を愛することやあるがままの自分も許してあげるという受容がいるのです。

一円対話の中で、傾聴、共感のあと受容があります。この受容とは、すべてを丸ごと認めてあげることでそのままでいいとゆるしてあげることです。言い換えれば、その人の長所も短所も転じてあげて認め褒めたたえるということです。

理想が高い人はすぐに自分を責めていきます。自分の身の丈を超えて努力してきた人ほど、理想との自分と現実の乖離がゆるせないものです。そのために自分を責めては、「これではダメだ」と自分自身に鞭を打っていきます。そうやって自虐を続けているうちに自分の中にも居場所がなくなり一人になってしまいます。

内面の自分との関係を良好に保つことができなくなれば受容することはできません。受容するためには、常に自分との対話を通して「ゆるす」ことで認めそこからお互いにカバーし合って助け合っていこうねという風土を醸成していく必要があります。

仲間と助け合う風土は、ダメ出しするのではなく認めて肯定しゆるすことで生まれます。自他を責めず、そういう時こそ「課題が見つかってよかった」と認めたり、「長所が分かってよかった」とほめたり、「学び直していこう」と改善したりすることで居場所はできます。

比較競争社会の中で、居場所がなくしている真面目ないい人たちが苦しまなくていいように家族のようなぬくもりのある社會に近づけていきたいと思います。

何をするかよりも何のためにやるのか

人間には大きく二通りのタイプがあるように思います。それは何かをするときに、何をするのかを考えるタイプ、そして何のためにやるのかを考えるタイプです。前者は、やることが目的であり結果を出すことが大事です。後者は、なぜやるのかが目的であり何のためにやっているのかというプロセスが大事です。もちろん本来は両方とも大切ですが、この順番がどうなっているのかで物事の本質が変わってきます。

この「何のために」ということは、自分自身の初心を確認するものです。例えば、同じ質問であっても何をして働くのかと何のために働くのではその問いの意味が異なります。

何のためにというのは、働くことへの原点でありその気持ちがあればどんな職種であっても仕事であってもあまり影響はないとも言えます。しかしこれを自分と向き合っていなかったら何をするのかが重要であり、業務や職種に依存してしまうことにもなります。もちろん、何のためにと追求していくのなら次第にその人の仕事が本質的になりますから業務も職種も近づいていき気が付けば相応しいものになっています。

つまりは人間を観るのに大切なのは、その人の肩書や立場、結果ではなくその人がなぜそれをするのか、そしてその人が何のためにそれをするのかを確認することです。

それを観ずにしてやっていることだけを見ていたらその人間が本当はどのような人物で何をしたいのかが分からなくなります。そしてこれは当然相手だけではなく、自分自身にも確かめ続ける必要があります。それもまた初心なのです。

初心の確認というのは、お互いに本質的であり続けようとする確認でもあり、人生の方向性を見誤ることがないようにお互いにそれぞれ何のために生きるのか、何のために働くのかを忘れないようにし、その人の本質を観続けて助け合っていこうとする相互理解・相互扶助の道徳の仕組みなのです。

私たちが行う一円対話は、聴福人が本質を問い続け何のために働くのかを忘れないために初心の振り返りを行うのです。人間は、忙しくなりすぐに流されて心を亡くしてしまうと初心を見失います。何のために働くのかを忘れるから、心が疲れてくるのであり、何のために生きるのかを忘れるから好奇心が減退し面白くなくなってくるのです。

常に本質を見失わない工夫こそが、人格を高め人格を磨きます。真実の人たちを守っていくことが子どもたちの未来への偉大な布石になります。

引き続き、何をやるのかではなく何のためにやるのかを発信し続けてこの世の中に本物の価値を伝承していきたいと思います。

まちづくりの原則~復興の本質~

かつて二宮尊徳は荒廃した村を復活するのに、優先するのは「心田開発」であるといいました。その理由は、先に心が荒廃するからその結果として村々の荒廃があるというのです。よく考えてみるとこれは現代のまちづくりでもまったく同じことが言えます。

なぜ過疎が進み荒廃していくのか、そして都心でもまちが乱れていくのか、それはそこに住む人たちの心が大きな影響を与えています。例えば、まちづくりであればそれぞれが主体的に暮らしを整え、美しい生き方や、心豊かに生きようとするのなら、その場所は次第に暮らしに向いていく場所になります。しかし、そこに住む人たちの心が荒んでいけばゴミを捨てたり、周辺住民と紛争ばかりを繰り返したり、不平不満や不安や恐怖を感じていたらそのまちは荒んでいくのはわかります。これはすべてにおいて人々の「徳」の影響が出ているのです。

別に今と昔は大差なく二宮尊徳のいた時代も同様に、村が荒廃するのはその村の人たちが心が先に荒廃していくからその結果として村が荒廃したのです。今の時代も同様に、まちの人たちの荒廃がまちの荒廃になっているのは自明の理です。まちを治したいのであれば何を治すのか、まちづくりのするのならその大前提になっている価値観そのものを丸ごと転換しなければならず、前提が変わらずにちょっとやったくらいでは焼け石に水なのです。だからこそ二宮尊徳の時代も為政者に覚悟があるかどうか、本気で腹を決めたかどうかを大切にしたのです。

どんなまちにするのか、どんな村にするのか、それは村や町をどのように経営していくかという視点が必要です。それは会社経営と同様に、どのような会社にしていくか、その覚悟を決めたら、その理想に向けて社長を中心に社員と協力してコツコツと取り組んでいくしかありません。そういう地道な努力があって最終的には物事は開花しますから何を目指しているのかどんな未来にしたいのかと定めたら、あとは時間と努力の掛け算があるだけです。

例えば、株式会社でいえば数字だけを追っかけて社員の大切にせず利益だけのために過酷なノルマを課していればブラック企業のようになります。これはまちづくりも同じで、財政赤字の解消のために町民を大切にせず利益だけのために税金ばかりを課しているのならブラック行政になります。会社ならそこに働く人たちは心身が病んだり、退職や転職をし、その会社も衰退し倒産します。これはまちづくりも同様のことが置きます。原理原則や法理というものは、別に会社やまちに関わらずすべて自然の摂理ですからそのままのことが起きるだけです。

会社経営ならば、よく一人ひとりの社員の声を真摯に聴き、どのような会社にしたいかを定め、みんなで協力して協働しながら安心して働けるような環境に変えていく。そしてその会社で暮らす仲間たちやお客様が仕合せになるような働き方をみんなで一緒に実践して心豊かに日々の努力のプロセスを楽しんでいく。そういうことを同様にまちづくりでも行えば必ずその「まち」は会社経営と同様に時間の経過とともに善くなっていきます。

そういう意味では、誰の会社なのか、誰が経営しているのか、なぜそうしたいのかということが観えない「まち」が多いように思います。そもそもの理念がはっきりしない、そして誰にも浸透していない、何のためにそれをやるのかをみんな知らない、個々がバラバラで好き勝手やっているのではまちづくりなどできるわけはありません。何を優先するかも定まらないのでは、その取り組む順番など無茶苦茶で未来のグランドデザインなど組めるはずもありません。

二宮尊徳が村々を復興させていた時代も、村の荒廃によって住民たちが苦しみました。住民が苦しんで貧困の極みにおいて、報徳仕法という仕組みが実践され村々は復興しました。その時、二宮尊徳が一体何から取り組んだか、まちづくりに取り組む人たちは目先の効率や流行りばかりを追っかけるのではなくもう一度、復興の本質を深く見つめてほしいと思います。

私も子ども第一義の理念で取り組んでいく以上、子どもたちが自立して安心して暮らせる世の中を譲り遺していきたいと思います。引き続き、むかしからの日本的経営と暮らしの甦生を復古起新しながらできることをコツコツと取り組んでいきたいと思います。