裸の心

人間はみんな我があります。特に我が強いということは、理想が高いということでもあります。しかし同時に我が強いということは、それだけ自分に執らわれやすいということでもあります。自分に執らわれれば執らわれるほどに自利に走ってしまいます。

以前、ある住職の言葉に出会いました。

「俺が俺がの我を捨てて、御蔭おかげの下に生きる」という言葉です。

この言葉を紹介する住職の方は、池田智鏡さんという女性の方ですがご自身の壮絶な人生体験を経て尼になり、この言葉に出会いそれまでの生き方を見直し、全て一からやり直して住職になって人々へ心の支えとなるべく全国各地へ講演をなさっているそうです。

私自身はとても我の強い人間です。

我が強く、どうしても感謝がまだまだ土台になりきりません。やさしさだけでは自分に甘くなり、強いだけだと厳しくなるだけ、マジメになっては思いやりの実践が途切れ途切れと猛省の日々です。どうやったら心が寛く大きな人になれるのか、今でもよくわかっていません。

自分の力でやったと思う驕りや慢心の心を澄ませて有難いと感謝する慎み深く謙虚な真心は出たり消えたり、人生道場はいつも真剣勝負の連続です。自分がすごいのではなく御蔭様がすごいのだと思える日もあれば、我が強く出ればやはり逆の自分になってしまいます。一生懸命にやってみては、できた日もあればできない日もある、一進一退の中で呼吸するかのようにただ直向きに前に進んでいるだけです。

人は孤独を感じるのは二つあると言います。その一つは無視、無関心に自分を扱われたことへの怒り。もう一つはわがままが人を孤独にするといいます。謙虚に周りの御蔭様と思えるようになるには、この我の強さを心を磨きどう芯の強さに換えるかという心の修業が誰にしろ必要のなのかもしれません。

池田智鏡さんはこう言います、「助け合うこと。自分さえよければいいという考えは、自分も滅ぼし社会も滅ぼします」と。この自分の認識次第では周りへの回路を断ってしまい小さな自分に囚われてしまいます。「忘己利他」に生きるというのは、その強すぎる我を少し下げて己に克ち己を少しでも捧げることができるということでしょう。人道の極みはこの自然体、裸の心でいることのように私には思えます。

私自身、同じような体験をしているものの同じように乗り越えようとする人たちの苦しみを分かち合い許し合えても、それを具体的に乗り越える方法も工夫も今はまだ発明できていません。しかし、祈るような心で自他を一体に大切な人だからこそ真摯に一緒に乗り越えさせてほしいと心から思うのです。

機会とご縁は、必要なことであり人生には一切の無駄はないのだから裸の心で生きて子どもたちの模範になるような大人を目指していきたいと思います。面白い人生を愉快な仲間づくりを味わいながら思い出深く刻んでいきたいと思います。

 

永遠の余韻~魂の航海~

人生は人それぞれで違うように人の夢もまた人それぞれで異なります。みんな誰にしろやりたいことがあり、そのやりたいことを成し遂げようと人はみんな産まれてきます。

しかし実際の社會に出て見渡せば、そんな我儘は許されないと厳格なルールと秩序によって特別な人や特殊な人を認めようとはせずに十羽一絡げにしてはその価値をなくしてしまおうとします。本来の価値はダイバーシティ(多様性)であり、それぞれが異なるからこそ持ち味を活かせ本来の人間としての歓びや倖せにつながる役割に気づくことができると私は思います。

そういう意味では人生は誰にしろ冒険であると言えます。

私が小さい頃から大好きだった冒険家に植村直己がいます。今になってなぜあんなに大好きだったのかを自明してきました。夢をあきらめず、好奇心いっぱいに子ども心のように生きて働いた生き様、そしてその心の大きさに惹かれたからです。

今になって齢を経れば経るほどに、同じように生きているだろうかと自分の冒険心を内省します。枠があっても枠を超えていく、前人未到の境界線を引き直していく、常識にとらわれず真実や本質を実践によって子どもたちに伝えていく、その生き方に感動するのです。

植村直己は下記のような言霊を遺します。

「大切なのは夢の大小ではなく、その夢に向かってどれだけ心をかける事が出来たか。心の大小が大切なのだ。」

心の大小といいました。まさに心をどれだけかけるか、そこに夢の価値があるのです。人からなんと言われても、自分の真心がそう思うのなら至誠天に通じるとして人事を盡すのが夢ということです。

「人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります」

そして心が決めたなら二度とない今を真摯に生き切ることが生きている喜びであり、産まれてきた充実であると自身の体験と実感から語り掛けます。さらに事に正対しては下記のように言います。

「あきらめないこと、どんな事態に直面してもあきらめないこと。結局、私のしたことは、それだけのことだったのかもしれない。」

希望を失わなかった、好奇心を忘れなかったというように私は解釈しています。しかし最後は冬のマッキンリーの登頂で山頂に国旗を遺し同時にいのちを失ってしまいます。その植村直己は私たちにこう伝えます。

「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である。冒険とは生きて帰ることなんです」

吉田松陰も植村直己も、至誠を貫き最期は非業の死を遂げましたがその魂は燦然と光り続けて子どもの心に燃え続けています。人がなんといおうが、その人が遣りきった人生というものは永遠の余韻が遺るように思います。魂はまるで死んでおらずいつまでも後に続くものたちへ受け継がれていくかのようです。

過去の偉人はみんなすごいことを成し遂げているから蛮勇だと思われがちですが、実際は大変な臆病者であったといいます。植村直己も冒険家の資質とは臆病であることと言い切っています。負けない戦いができるもの、謙虚に己に打ち克つものだけが到達できる境地こそ真の臆病者=達人ということなのでしょう。

最後にこの言葉で締めくくります。

「始まるのを待ってはいけない。自分で何かやるからこそ何かが起こるのだ。」

自分で何かやるからこそ何かが起こるというのが世の中の事実です。誰かが何とかしてもらうのを待つような自分の一生ではなく、自分が何とかしようと自らの実践を積み重ねることで世界を丸ごとを素晴らしく変化させていくことに生きるのです。

人類が目指す理想に向かって、冒険家たちを集めて無二の航海を楽しんでいきたいと思います。

 

 

 

自己有用感~存在価値~

人は有用であるか有能であるかということはとても大事な価値観であろうと思います。特に今の時代は自信を失っている人が多く、自己有用感を持てないという人が増えているようです。これは一言でいえば、自分が役に立っている実感が自分自身で持てないということです。

ではなぜこうなってしまうのでしょうか、そこには西洋文明の影響を強く受けた今の日本社會の価値観が関係しているように思えます。

人は誰かによって価値を定められ評価されているものです。それは自分を含めて、集団であったり国家であったり、自分の所属する場所に置いて自分自身の価値が判別されていくものです。本来、人は存在価値という価値があるのですが、能力価値だけをみるならば能力がない=不必要という解答になってしまうように思います。これは人や物が溢れてくると、あらゆるものを粗末にするようになり物質的豊かさの陰にある心の貧しさが広がっているからかもしれません。または信じるよりも疑う方が楽だと信じる努力を止めてしまうから自己防衛のために先に自ら評価を入れては勝手に自分の価値を自分で決め込んでしまい、自分の価値はこんなものだと先に裁いてしまうのかもしれません。どちらにしても何らかの理由で心を閉ざしているのです。

本来、価値というものは存在しているだけで価値があるものです。何かしら意味があって産まれてきたし、何かしらの価値は必ずあるのが自然界です。その価値を誰かの都合で一つの価値基準に合わせさせようとすればその基準に合えば有能であり、合わなければ無能というのでは誰でも自信を持つことができなくなるように思うのです。

人が自信を持つというのは、何かしら自分の価値を自らが認めているということです。言い換えれば自分の存在は必ず誰かの役に立っているという実感があるということです。それは決して何かしたから役に立ったのではなく、存在しているから役に立っているのだという実感です。

人は自己認識というものを他の人を通して行うものです。善い仲間がいれば、その仲間の中で自分が存在していいという実感があることで自分は必要とされていると感じることができます。そのためには自分から心を開いて仲間と本心を通じ合わせて、自分自身が周りを必要としていることを自らが発信していくことのように思います。

今の時代はなんでも一人で完璧にできる人を目指させる傾向が強くあります。完璧主義の刷り込みを持った人たちはたくさんいます。しかしもしも全ての事が一人で全部できるのならば他の人は要らないということになれば人類の人類たる由縁を忘れてしまいます。いくら便利な世の中になってもどんな人間も倖せになりたいのが本来の姿ですから、一見メンドクサイと思っても敢えて周りの人たちと仕事を分担してみる、一見自分でやった方が早いしミスがないからと思っても敢えて一緒にやってみる。そんな中ではじめて「楽しい」という体験ができ、その楽しい体験を通して自分が有用であることに気づくのです。

結局は自己有用感とは、誰かと一緒に働くことで得られる「楽しい」感情のことです。自分の価値観の中で有能さがある人は、能力だけで判断して役に立つかどうかを決めつけて結果を邪魔しないために具体的にかかわることを避けようとします。しかし、何もできなくても一緒にやっているのなら後ろからエールを送るだけでも、もしくは思いやり心配して励ますだけでもそれは一人の人間として十分に役に立っているのです。

自分の中の刷り込みを取り除くのは今までの自分の評価や価値基準を脱却するほどに大変なことですが、その先にある倖せな仲間との邂逅であったり、人と一緒にいることの愉快さ安心さを味わえたりを思えばブレークスルーしようと挑戦することの価値を感じます。結局は有用も有能もそれは人との絆や結びつき、真心によってはじめて活かされるものなのです。

そのための第一歩として自分が本当は何ができるのかを親切に教えてくださるのは周りの仲間たちです。自分で決めつける前に仲間に聴いて、自分の何を必要としているのかを心を自分から先に開いて素直に受け止め本人が自分からそのままでいいと感じ進んで殻を毀していけるように心の見守りを強めていきたいと思います。

因果の妙法

仏教に自因自果という言葉があります。

この「自因自果」とは、自分のまいた種は自分が刈り取らなければならないという意味です。人は善行を行えば善行がかえってくることをなんとなく分かっています。しかし悪行を行っている分についてはなかなか自分が認めたくないものです。

実際に何かの事件が発生するとき、それはもうだいぶ昔に自分が蒔いた種が花が咲き実をつけたものです。善い種を蒔いていたから善いことが起きて、悪い種を蒔いたから悪い種が出たということですがそれがだいぶ前のことだから思い出すこともなく眼前に一喜一憂してしまうのです。

特に悪い種の場合は、相応の自分にとってつらいことが発生するものです。しかしその悪い種を認めてその種を蒔くことを止めて、別の善い種に変えようとしなければやはり同じように芽が出て実をつけてしまうのです。これは永遠に繰り返されます。

自分でも気づかないような悪習慣は、他の人に教えてもらったり、体験を素直に内省して改善していかなければその種を蒔くのをやめないものです。同じように善い種ということにも気づいて如何に全体に善い種を蒔き続けるかということも大切です。

昔から「善いことは御蔭様、悪いことは身から出たサビ」という言葉があります。

如何に自らが御蔭様を感じて善い実践を積み重ね、自分自身に打ち克ち、日々に手入れして磨き上げ錆びないように実践研磨するかは本人の心がけ次第です。

人はみんな放っておけば誰しも傲慢になるように欲深くできていますから、如何に日頃から謙虚に御蔭様を感じ勿体ない有難いと実践を積み重ねて余計なことをしないかが正しく因果を見つめることかもしれません。

しかし振り返ってみれば善い悪いはなく、ただ福があったというのが人生です。どんな種も芽が出て花が咲けば自然界のいのちの何かしらのお役に立てます。

どんな出来事からも学び、それをより善く活かしていこうとするのが天の真心かもしれません。善いことはもっと善いことへ、悪いことも転じて善いことへ、それぞれの持ち味を愉しみ活かすことが因果の妙法なのかもしれません。

日々に執らわれない心を育てていきたいと思います。

恩師

昨日は、一年ぶりに中学校の頃の部活の恩師に会いました。私はこの恩師の御蔭で本当に人生を変える大きな道しるべと心には宝をいただき今まで歩んでこれました。まさか25年ぶりに再会し、今の年齢になって色々とじっくりお話ができるなんて夢にも思わず人のご縁の奇跡にただただ不思議に思います。

教育という深淵に触れたのも先生があったからです。

自分の人生に正面から向き合ってくださって、その上で人間としてどう生きようかと一緒に歩んでくださったこと、そして大事な局面ではまるで自分自身に喝を入れて叱咤激励するかのように遠慮なく全身全霊で愛情をかけてくれました。

懐かしい思い出は、目を閉じ眼れば今も心の中に鮮明に残っています。

その先生から指導についてのお話を今、お聴きできるのもこのタイミングで私が大事なことを学ぼうとしているからかもしれません。不思議ですが「今必要だと渇望していたら誰かが必ず愛の手を差し伸べてくれる、いつもご縁は初志を離れない」ことも改めて実感します。

私が部生活を通して習った恩師からの戦略は、”勝つバレーではなく負けないバレー”でした。いつも試合がはじまると、相手のチームが勝っているように感じているのになぜか試合が終わったらいつも相手が負けているという戦い方です。相手の監督や選手からもいつも不思議がられていました。

これは日頃の練習こそが本番で基本、その上で如何に自分に打ち克つことが仕合いだと私たちも先生も一体になって戦ってきました。その結果として、敵は周りにはおらず自分自身であることもそこで学んだことを今でも覚えています。先生はいつも自らの実践として練習を重視し、いついかなるときも選手の姿を見守り、常にプレーを通して生き方をきめ細かく指導してくださっていました。

試合ではいつも練習を出せばいい、思い切ってやれといい、試合に負けたら先生の責任だからといい、試合に勝ったら一緒に克ったなと心から喜んでくれました。厳しい中にも深い思いやりがある優しい先生です。先生の生き方は私の人生観に於いて、多大な影響を今でも与え続けています。

最後に先生からいただいた有難い言葉がありました。

先生にも尊敬している先生がいて、その方にある質問をしたそうです。それは「私のような未熟で不完全な人間が指導しても良い人間などできないのではないか?」という質問です。それに対して先生の先生はこう答えたそうです。「世の中に完全な人間などはいない、その中でも自分で勉強して、”こんな人間であろう”としっかりと勉強しなさい。子どもは、小学生でも、中学生でも、高校生でも、自分のその顔つきとか目つきとかでちゃんと人間性が出てくるから。」と。

それを心に、生徒指導の道を歩まれてこられたそうです。まさに論語の「己達せんと欲して人を達せしむ」です。 生徒指導を30年以上勤めて様々な智慧を持つ先生はいつまでも私の先生です。

不思議なことですが今になってみて、尊敬していた先生の生き方を知り、私は深く薫陶を受けていたことを感じ、自分の志事が自分勝手なものではないことに改めて気づきます。初志に教えていただけるのはきっと自分が何を大切に歩んでいるかから離れていないからです。

これからも素直に正直に、指導の原点を学び直していきたいと思います。

素敵な誕生日プレゼントを有難うございました。

御米

私たちは親祖よりずっと御米を食べて暮らしてきました。

それは国内にある様々な遺跡の中から、炭化した御米が発掘されていることからわかります。縄文遺跡の以前は、陸稲を中心に栽培され、弥生遺跡以後は、水田を中心に栽培されています。

そもそも私たちは自然の一部ですから何と共生をするのかを選択して生きています。この共生とはなくてはならないいのち同根、生死一道の関係のことです。その共生の相手に御米を選んだというのが私たちの親祖です。

人は食べたものでできているものです。何を今まで食べてきたかを観れば、その人のからだが何でできているのか、どこからでてきているのかが理解できます。その元を知ることが自分を知ることであり、その根を確かめることが自分を実現させることのように私は思います。

日本の全ての行事は御米と一緒に学んできたことがカタチになっているものです。それが今では私たちが一番長く食べてきたものを育てたことがないということに大変な危険を覚えます。古来からあるものから離れるということは、自分たちの姿を正しく理解できなくなるということでもあるからです。

御米作りというものは、一生涯の働きであり、御米を食べるということは私たちがなんであるかを知るただ一つの道だと私は感じています。

日本の自然思想家であり医者である安藤昌益という人物がいます。この方の「自然真営道」という著書の中で下記の一文があります。ここに御米とは何かということの真実が書かれているように思うので紹介します。

「米(こめ)は神と同音、米(よね)は世根、稲は寿根(いのちね)の略。稲荷とは人の神身皆稲なれば人常に稲を荷(にな)ふ意。飯は命師(めし)又は身師(みし)の転訛。寿(いのち)は飯中(いいのうち)の略。迷は米吾(わ)を去りて他にゆく意。即ち食を離れた時の心理状態に名づけしものである」

つまり古来、御米こそ日本人のいのちの糧であり心であったということです。

自分がどこから来たのかというのは、これからどこへ向かえばいいのかを自覚する唯一の鍵です。その鍵こそ私は御米であると確信しています。

今年もまた自然に沿った御米作りがはじまりますが、ここで御米から学んだことを後世のために譲り、そして人類の初心のために活かしていきたいと思います。

 

執らわれない

人が一人前に仕事ができるようになるというのは、様々が定義があるように思います。例えばそれは技術力が極まりミスがなくなることという人もいれば、結果が出せるようになるという人もいます。しかし私が思う一人前は思いやりで仕事ができるようになることであり、なるべく周りに迷惑をかけないようにしていくことのように思っています。

実際、人として当たり前のことができればそういうことは少なくなってきます。しかし実際にそれは大変に難しく、日常の挨拶から片付け、情報共有や労い、御礼など言い出せばきりがありませんが心構えができてその一つ一つのことを実践できつつも同時に一つのことに執らわれない心を如何に持てるかということが大切ではないかと齢と体験を経るたびに思えるからです。

どれだけ自分に打ち克ち我儘をしないで周りを思いやれるかは人間人格修養の一生の課題かとは思いますが、仕事というのはその人格を磨くための大切な機会になっているように私は思います。仕事が面白いのは、そういう自分の心を高め磨くリハビリにもなっているからです。

私がよく讀み直す大好きな本の一つに、千日回峰行を満行された塩沼亮潤さんがいます。この方の著書「執らわれない」(PHP研究所)の中にはその人生体験の中で得られたことを自分の言葉にして紹介している箇所がたくさんあります。

ここで仕事の思いやりについていくつかご紹介します。

『自分が正しいからと言って、強さが先行して優しさに欠けたり、心配りが足りなかったりすると、陰で涙を流す人がいたりします。ちょっとした加減で微妙に変化する人生は、方程式のように毎回同じようにはいきません。』

人は得てしてうまくいったパターンにとらわれてしまうと自分が正しいと思い込みます、そしてそれをやることが一番なのだと周囲を省みずに強引に進めていると周りを知らず知らずに傷つけてしまうものです。独りよがりの正義は思いやりを内包しませんから、正しいよりも楽しい方を選んだり、正しいからいいではなく真心を籠めるという力をつけなければなかなかみんなが倖せになるような行動ができないものです。私もいつも気を付けていますが、どうしても理想と現実の中にある中で頭で思い込み刷り込みに負けて真心や感謝が欠けると人間関係に失敗をしてしまうことばかりです。

『みんなのためにと思って行動しているときに、何か一つのことにとらわれすぎると、周囲との隔たりができたり、ものごとが裏目に出て、逆にみんなに迷惑をかけてしまうことがあります。』

よく法理法則では「部分最適ではなく全体最適を」という言い方をします。人は自分の考えに固執するのではなく、よく周りの意見を聴き相手を慮り譲歩しながら歩むならあまり行動が裏目に出ることもないように思います。きっとこれでいいはずだという思い込みは、不確定な状態では頼りになるのもしれませんがいつも心を周囲に開いていたり、真心や思いやりを忘れないように小まめに自己内省していき聴く姿勢を正していくことが本質的に迷惑をあまりかけない方法かもしれません。

どちらにしても「執らわれない」という塩沼亮潤さんが目指す理想が、私が目標にする姿と一致してその生き方に共感することばかりです。離れていても共に歩んでいる道があること、真っ直ぐに歩まれているその有難い存在に深い感謝を覚えます。

『強くなんかない。清くなんかない。唯そうありたいと、願い続けているだけ。人の一生はみじかい。いかなる道を歩もうか。思いなやむことなく、唯この道をひたすらに。』

執らわれない実践を積み重ねて歩んでいきたいと思います。

自他の尊重~聴く真価~

ブログで何回か聴くということについて書いていますが、改めて聴くことの大切な意味を感じます。人は人の話が聴けなくなるとき、その身が亡ぶと言われます。それはなぜかということです。

諺に「聞くは一時の恥、聴かぬは一生の恥」があります。

「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とは、知らないことは積極的に質問するべきだという教えです。つまり知らないことを人に聞くのは、そのときは恥ずかしいと思っても、聞かなければ一生知らぬまま過ごすことになるので、そのほうが恥ずかしい。知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせずに、素直に聞いて学ぶべきだという教えということです。」(故事ことわざ辞典より)

人は自分というものがありますから、自分の中でだけで物事を整理していたらそのうち現実からズレてしまうものです。それは人間には自我感情がありますから次第に感情の影響を受けては現実が捻じ曲げられてしまうのです。いくら物事をあるがままにありのままにみていると本人が思っていても、実際は自分の感情が入り込んでいる現実ですから様々な執着がこびりついてしまうのです。

そういう時、優れたリーダーというものは必ず自分に意見するものを近くに置くものです。松下幸之助さんはこういう言葉を遺しています。

「よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。私は学問のある他人が全部、私より良く見え、どんな話でも素直に耳を傾け、自分自身に吸収しようと努めました。」

人が話を聞けなくなるというのは、聴きたくないからです。周りの人たちの話を聴くというのは、自分の間違いに気づかなくてはなりません。それは単に間違いに気づけばいいのではなく、真の間違いに気づくということです。

人は分からないことを分かっていたら改善することはできません。自分が分からないことがあると気付いているからこそはじめて分からないことを知るのです。分からない部分が自分の改善点ですが、分からないことを知ろうとしないから改善することがなくなるのです。

人は大なり小なり必ず小さなズレが現実の間で発生します。いくら正論を語り正しい法則を知り尽くしていたにせよ、自然に必ず矛盾は発生します。その矛盾は沢山の人たちの意見に耳を傾けることで矛盾を内包できるようになり絶妙な判断をしていくことができるのです。

自分だけの判断が絶対だと我儘になれば、無理やりに真実を捻じ曲げて上手くいったように錯覚するようになります。その時、その身が亡ぶように思います。周りの人からの意見に耳を傾けることを「衆知を集める」といいます。これは言い換えれば「叡智を結集する」という意味と同義です。

自分一人だけで正解探しをするよりも、もっと信頼できる人たちと一緒に矛盾の中にある真心探しをしていく方が人生はより豊かで楽しいように思います。手段と目的を見失うことがないように、自ら省みて自他を尊重して聴く訓練を積み重ねていきたいと思います。

 

奇跡の今

人類は何万年も前からこの地球で暮らしていたことが遺跡からわかっています。宇宙はどこまで広がっているのか、またどこからはじまったのかも興味があるかもしれませんが同時に人類はどこから来たのかというルーツについても同じく興味があるものです。

そうして時間というものを考えてみると、いつはじまりいつおわるのかは誰にもわからないことに気づきます。ある生き物は7日間で生死をめぐり、ある生き物は数千年で生死をめぐります。生死の長さはそれぞれにとって異なり、人間が定めた時間を物差しにしてみると短命、長命と分別しています。

しかし実際の生物たちは、過ぎた過去のことを憂い、まだ見ぬ未来のこと憂いているか、時間という概念がもしもないのならそういうことを思い煩うこともないように思うのです。

例えば人類があと5万年生きようとします、すると5万年をどう生きるのかを悩めば悩むほどにありとあらゆる準備をしなければなりません。文明を発展させては、もしも地球が滅んだ時のためにと宇宙にも脱出していかなければなりません。そのためにありとあらゆるテクノロジーを開発していくのでしょう。

しかし実際はどうかといえば、宇宙の大きさからみても私たちが準備してもどうにもならないものもあります。太陽が爆発したらおしまいですし、ブラックホールが急に出現してもおしまいです。地球の中にいても急に大噴火が発生し氷河期がきても大変ですし、大地震で大津波がくるかもしれません。何が起きるかはだれでもわかりません。これは決して対処しなくていいというわけではなく、あまりそういうことばかりを考えていたら本当の今という現実から離れてしまわないかということです。

生物たちは今の一瞬一瞬を面白く楽しく過ごしています。どんなことがあっても今から離れずに今を生き切っていきます。そこには自分が7日の生命かどうかなど煩わず、もしくは1000年であろうが関係がありません。今日一日、この今の一瞬一瞬を大事にしていきます。心を今から離さないといった方がいいかもしれません。そうして今から離れないからこそ沢山の奇跡に出会っていくように思います。

よく考えれば、この先のことを憂うよりも今があることがどれだけ有難いことか、昔のことをくよくよするよりも今があることがどれだけ御蔭様であるか、物事の善い方を感じることができることは仕合せなことです。

畢竟、今を大切に生きるということが心でいつも奇跡を感じる方法かもしれません。

奇跡の星に生まれて奇跡の星に今あることが愉しいのでしょう。

ありのままに正しく物事をみるためにも今を愉しみたいと思います。

心の実践

人は共感することで相手のことを深く理解していくことができます。この共感とは単に相手を知ればいいということではないことはすぐにわかります。しかし実際、共感をするということが何かということを理解している人は少ないように思います。

例えば、相手の話を聴くということがあります。これも単に話を聞けばいいのではなく、聴くというのは相手のことを自分のことのように関心をもっているか、もしくはどれだけ自分が心をありのままに開いているかということが関係します。

しかし実際は関心も心も開くこともなく、心を遣わないままに頭が先に出て心が入らないことがあったりするように思うのです。それを自分で気づける人は修正できますが人間が幼いころから大人の社会を身に着けるために世渡りが上手くなって刷り込まれてくる過程でその心の実践を忘れてしまうことがあるように思うのです。

それでは心の実践とは何かということです。

極端な例かもしれませんが、1990年、フランス人の野生動物専門カメラマンを両親にアフリカのナミビアで生まれたティッピという少女がいます。10歳になるまで、原住民たちと共にアフリカの野生動物に囲まれて育ち、生まれつきどんな野生動物とでも仲良くなれたと言います。

この子の動物と戯れている写真を見たら、まるで兄弟か家族のように動物たちと仲良くなっています。動物たちもその子に警戒せず、その子も警戒しません。本来の野生動物は食べ食べられる本能がありますが、生命の進化を観ていたらその相手ではないと思えば自然に近づくことができるのかもしれません。

その中でその子がこういう言葉を語っています。

「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」

ここに共感するということの真意が潜んでいるように私にも感じます。相手が心を開かないのは自分が先に心を開かないからです。そうして開かないからこそ相手は自分に対して心を開いている分しか開いてくださらないのです。

まず自分が心を開くのは相手が先に心を開いてくれてからという人もいますが、人が自ら共感するというのは自分の心をまず開いてから行うことをいうのでしょう。もちろん、心を開けば傷つく時は大きな痛みを伴うかもしれません。しかしそれ以上に相手を思いやり、もしくはそれ以上に冒険したいという気持ちがあれば心はいつも先に出てきてくれるようにも思います。

勿論幼いころの心の傷や痛みは古傷となって今でもズキズキするかもしれません。しかしその傷や痛みは相手を分かろうとした痛みであり、相手を近づこうと冒険した証の傷なのですから自分の誇りであり、また勲章なのです。

仲良くなり助け合いわかり合う共感とは、心のかかわりつながりを持つことです。

小さな勇気を振り絞り小さな一歩を踏み出すことで心は開いていきます。
自然はいつも私たちに心をまるごと開いてくださっています。

仲間に出会える倖せのためにも、敢えて自分から裸になる心の実践を積み重ねていきたいと思います。