伝心

人は知識があるないにかかわらず、信じているか信じていないかは言葉に表れて出てくるものです。何のために知識を持つのか、それがかえって不安材料になってしまうのではせっかくの知識がうまく活かせないことになるかもしれません。

先日ある人が、若いときは「できないことが増えるから挑戦したくない」ということを言っていたという話を聞きました。優等生で優秀であったために、何かをすればできないことが増えるから何もしたくないという心理があったとのことです。それを聞いた周りの人は「できないことが増えるのはできることがそれだけ増えることだからもったいない」と言っていましたが、その人はできないことが増えることは可能性が広がるという考え方でした。

同じ事柄であっても、できるできないをどう捉えるかというのはその人のセルフイメージが決めています。セルフイメージとは自分の心と思いのことです。自分の中で何を信じているか、自分の中でどのような思いがあるかということに気づけば自分の努力の方向性が分かるようにも思うのです。

人は対話をします。その対話はただ言葉を行き来させているのではなく、その人の心や感情を伝えるものです。いくら上辺を繕って表面上は誤魔化してみても、心はそのまま相手に伝わります。心や思いがどうなっているのかは、語らずとしても伝わるものです。

これを以心伝心といいます。信じるということもこれに似ています。その人が言っているから鵜呑みにして信じるではなく、自分から能動的にどれだけ信じようとするかということが大事なのです。

言葉にはその人の信が入ります、そして眼差しにも信が入ります。信じ合っている絆は強く簡単には崩れません。しかし信が弱くなれば、絆は脆くなります。お互いが信じ合っているという関係を維持するのは、お互いにその信を送り続ける努力が必要なのです。

信じるというのは、自分が信じる実践を積み重ねていくことで溜まっていきます。自分との約束を果たし続けていたり、自分に打ち克ってきた場数によって信はより篤く盤石になっていきます。もしくは自分の信じる人が信じているものを一緒に信じることでその信を結び信頼の手綱を握り合うこともできます。

目には見えませんが、その信があるからお互いに頼り合うことができるのです。自立というのは、信頼関係を築けるということです。つまり自ら信じることができるようになるということです。

信じさせてもらおうという態度では、いつまでも他人のせいにできるような姿勢では信じることは難しいものです。自分を如何にだまし続けるかは、自分が如何に信じ続けられるかです。本来の知識とは、自分を信じ騙すためにあるもののように私には思えます。そしてそれは信じる方も同じです、信じているかどうかが相手の信の礎になるのです。

どんな情報も知識も受け取る側の考え方次第ですから、それを善いものへと転じるのは具体的な実践による智慧に換えた時に変わるように思います。知識をどのように活かすかは、その人の生き方ですから長い目で観て世の中を仕合せにするために遣っていきたいと思います。

子どもたちのためにも、できるできない、分かる分からない、知識か智慧かではなく、信じるということ。何よりも主体的に心を育てて思いを揺るがないものに成長していきたいと思います。

師弟とは~一心同体~

よく師弟関係という言葉を用いることがあります。何の道でもそうですが、何かを習い始めては師がいますが師がいれば自分は弟子となります。しかし本来の師弟というのは一体だと私は信じているのでむやにやたらに誰かを師にすることはありません。

吉田松陰にこのような言葉があります。

「師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべきし。」

これはかなり厳しい言葉にして、師とするな、師となるなといいます。真にこれは教えなければならない学ばなければならないことの時にだけ師となれというのです。

吉田松陰や孟子の著書を沢山出版している川口雅昭氏がこれを解釈しています。「この言葉はよく一般論として、教師、上司はこうあらねばならないという引き合いにだされるが、実はそうではない。知識があるとか、品行方正、学術優秀な教師はたくさんいると。しかし松陰のいう師弟関係とは、国家のために死ねと命令したら死ね。死ねない人間は弟子になるな。これに対して弟子も、先生の言うことなら死んでもいいという。両者の思いがそのレベルで一致して初めて師弟関係となる。」

つまりは、お互いの「本気」「覚悟」があってのものということです。言い換えれば、師を弟子に置き換えた文章でも同じということです。「弟子道を興さんとならば、妄りに人の弟子となるべからず、又妄りに人を弟子とすべからず。」なのです。

思いを同じくするというのは、知識が多いから師匠と呼ぶのではなく、経験が豊富だから師匠というのではなく。師弟一体になりたいと願う、魂の求道なのです。それだけ一心同体になって物事に真剣になりたいということなのです。

私は孟子の私淑という言葉が大好きです。私淑とは「孟子巻第八離婁章句」に書かれている言葉です。

「予未だ孔子の徒たるを得ざりしも、予、私かに、諸を人に淑くするなり」

意訳ですが、私は時代が異なり孔子の弟子になれなかったけれど、孔子の遺した徳風から様々な薫陶をうけそれを学び周囲の人々に伝えていたのです。つまりは「ひそかにその人を師にして尊敬し模範として学びます」という言葉です。

孟子の姿勢は孔子にとって一心同体のように私には思うのです。それだけ本気だったということ、それだけ同じ夢を目指したという事、ここに真の師弟を観るのです。単に自分が学ぶために師とするのではなく、師と同じ夢を持つという事、同師というのかもしれません。

師道を興すというのは、後に続く者たちへの夢を遺すということです。

本気度で師に刺激をいただく日々に感謝しつつも自戒ばかりが頭をよぎります。子どもの前に立っているのだからこそ、子どもが背中を追いかけてくるからこそ、決して自分のために行うのではなく、やったりやらなかったりするのではなく、真摯に至誠の実践を積み重ねていきたいと思います。

自戒の意味~慎む~

人間はいつもの自分をどの高みで内省するかで気づきの度合いが異なるものです。気づいているようで気づいていないのも、気づきというものは素直さと比例するからのように思います。素直でないと反省もまた反省風になり、気づいても気づかず、直そうにも直せないということにもなるからです。

自分のことを正しく理解できるというのは、思い込みや刷り込みを取り払ってあるがままに物事が視えるということです。言い換えればそれが素直さなのですが、受け止めたくない事実がある場合や受け容れられない現実がある時はそれを湾曲してしまうものです。

気が付けば、やっているつもりになっている実践が多いのもまた事実です。如何に深く内省し、如何に深く気づき、如何に謙虚に行動するかはその人の人格の成熟や精神の研鑽によるもののように思います。

そしてそれを直すのに自戒があります。自戒とは、自らの癖を見抜き気を付けるための心掛けのようなものです。人間は欲や自我がありますから気が付けば怠惰に流されてしまう自分に対して主体的に自ら気づき自我欲よりも優先できるものを持とうとするものです。

しかし一人慎んでいないと気づかないうちに優先するものが入れ替わるのが人間ですから、その入れ替わった瞬間に気づけて改善できるかどうかが実力をつけるポイントのように思います。

先日、あるお寺を参拝しているときに慎むということの実践で興味深い文章に出会いました。この文章の作者は元善光寺の住職が作ったものと言われていますが自分が気が付けば慎んでいないときの事例が書かれているのではないかと実感したので紹介します。

「 高いつもりで低いのが教養  低いつもりで高いのが気位

  深いつもりで浅いのが知識  浅いつもりで深いのが欲望

 厚いつもりで薄いのが人情  薄いつもりで厚いのが面の皮

  強いつもりで弱いのが根性  弱いつもりで強いのが自我

 多いつもりで少ないのが分別  少ないつもりで多いのが無駄」

(元善光寺「つもり違い十ヶ条」より)

この十か条は人間として気を付けないといけない生き方を並べると、今の自分がどちらに傾いているかを内省するときの基準になります。これはこのまま並べてみればその意味が分かります、つまり「低い教養、高い気位、浅い知識、深い欲望、薄い人情、厚い面の皮、弱い根性、強い自我、少ない分別、多い無駄」ということです。

高慢・傲慢・不遜になってはならぬ、自分のみの価値観の世界に浸って陥ってはならぬと言い聞かせるのです。人は他人の話が聴けなくなると以上のような状態に陥るものです。素直に他人の意見を聴けるというのはそこに謙虚な生き方があります。

上記のことを逆さに書いてみると、「高い教養、低い気位、深い知識、浅い欲望、厚い人情、薄い面の皮、強い根性、弱い自我、多い分別、少ない無駄」です。つまりは人間として慎む姿が観えてきます。

人間は知れば知るほどに、知識が多ければ多くなっていくほどに慎まなくなっていくものです。教える立場の人たちは何よりも自戒する必要がある智慧が「慎む」という実践なのでしょう。

真の実力とは、精進により磨かれた人格の上に慎み抜かれて錬成された実践です。他人のことをとやかく言う前に知識ばかりを詰め込む前に、自分の生き方をよくよく見つめて内省していきたいと思います。

 

 

信念会~ふり返り~

昨日、社内で新しい年を迎えて昨年の御蔭様に感謝とともに熊野神社に参拝し昼からは七草粥、また夕方からは一年のふり返りを兼ねて新年会(信念会)を行いました。

今年は書初めではなく、磨き初めという初実践もはじまり皆で貝に字を彫り込みその貝をピカピカに磨くという実践を行いました。磨ける仕合せ、磨いたら光という有難さ、何より磨いている自分自身が感謝に包まれるという体験をできたように思います。皆で磨き合えるというご縁もまた、天の絶妙な計らいかと思うと勇気づけられ励まされるのは同じように志した仲間がいるという安心感かもしれません。

また信念会では、一年間で約1万枚にも及ぶ写真の中から厳選されてムービー化されたものを観ながらふり返りを味わいました。毎日は、怒涛の如く過ぎていきます。充実していることも忘れるほどに様々な課題や出来事に遭遇します。

しかしふり返りを大切にしていないのならばどうしても目先の問題に囚われ、物事のマイナスな面ばかりに感情が揺さぶられたり、事物の不安な側面ばかりが視えてしまったりするものです。ふり返りをしていくと、実はとても有難いご縁であったとか、本当は見守ってくださった多くの方々の御蔭様であったとか、善い方、素敵な方、仕合せな方を観ては今の自分に対して天が与えてくださっているすべてに感謝することができるように思うのです。

人生とは旅のようなものです。

目的地に行けないことばかりを悩んでは不平不満を並べるよりも、旅をしている最中を楽しんだ方が旅をふり返ったときにまた行きたいねと感じるものです。旅はふり返りながら歩むことにこそ真価真楽があるということです。

奇跡に出会った喜び、仲間に回り逢う仕合せ、そういうものを分かち合うご縁がある。

ご縁を大切に素直に学べることに感謝して、精進を味わっていきたいと思います。

時間の使い方~未来の自分~

人は自分の時間の使い方でその人の人生観が観えてきます、一度しかない人生を何に遣っているかは時間が証明します。時間とは何か、それが人生とも言えます、その時間にどれだけの意味と感謝を持つかでその質は変化していくように思います。

志を持ち実践し継続するという時間こそ、その人の天命に応じる生き方かもしれません。

自分の時間であるけれど、それは他人のための時間でもある。

そう考えることができるならば、その人はスケジュールというものを有意義に使えるように思えます。なぜなら人はみんなご縁で結ばれていて、そのご縁に感謝すればするほどに自分の時間は大切な誰かのために使いたいと願うようになるからです。不思議なことですが、自分の事ばかり考えて自分の時間ばかりを持つ人ほど時間を持て余してしまいます。いつも誰かの役に立ちたい、誰かのために力になりたい、だからこそ誰かのために成長したいと願う人は無限の時間を持っています。

論語に、「夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す」(雍也第六の三十)があります。

これは弟子の子貢が孔子に人を救うことについて尋ねた質問への問答です。私の意訳と解釈ですが子貢は、人々を多くの災難から救い施し豊かにするのが真心の人ですかと尋ねます。すると孔子は、それができたら真心の人ではなく聖人だ、古代の聖帝の尭・舜ですらそれができなくて苦労されたのだ。

そしてここからが上記の有名な一文「己を立てようとして他人を立て、己達さんと欲して他人を達す」の意味ですが、真心の人は自分が立ちたいと願えば他人を同時に立て、自分が達したいと思えば同時に他人を立てる、つまり他人のことも自分のことのように思いやることができる、まるで自他一体なのだよと言います。

このことは、私のかんながらの道にも通じるものがあります。つまりは真心の実践とは自他を分けないということ、つまりは思いやるということです。逆説ですが、他人を立てることができる人だから自分で立つことができます、そして他人を達させることができる人だからこそ自分も達するのです。

私は自分のために成長したいのではなく、その他人の力になりたい、助けられる技術や仕組み、救えるための法則を学びたいと真摯に祈り探し深めつづけて歩んできました。するとその力は自分のために必要なのではなく、力になりたい誰かのために必要になるのです。自分が達したいと思う願いの本質は、相手があってのものだからこそ自他を達することができるのです。

人間は自分と他人とをどこかで選別しています。まさか目の前の人が自分だとは思わないものです。しかしよく考えてみると、自分とは何か、それは関わる人たちとの出会いに由って存在しているものであり、それによって変化していく存在です。

その自分という物は、単に自分と認識できる範囲の小さな自分ではなく世界丸ごと含まれた中にある自分という存在もあるのです。つまりは、自分とは相手であり相手が自分という世界のことです。

自分が助けたその人に由って同時に自分が助けられているという事実、自分が真心で実践したことが相手の真心に通じて同じ実践ができることも全ては自分というものの認識の別に由るのです。

人間には外見では同じようなことをしている人でも実際に実践するとその深さが異なることに気づきます。自他一体も、同時というのも、己というものの捉え方一つということなのでしょう。

自分の周りを仕合せにできる人は、自分も仕合せになる人です。

全てを真心と思いやりのために時間を遣え生きれる人が、常に己に克っている人ということなのでしょう。分けない実践、選ばない実践、全ての人を未来の自分だと思える実践を引き続き深めていきたいと思います。

循環型社會の本質~一緒に生きる~

昨年は、社業を通してなんでも一人でやるのではなくみんなで協力しシャッフルすることから大切なことを学び直しました。

何でも一人でできる社会は、なんでも自分の都合で物事を進めることができる便利な社会です。人は自分の都合でできることを良しとして、自分の好き勝手にできることを自由だと勘違いしてしまうと不便さというものは排除するものとなってしまいます。

しかしこの不便さというのは、そこに誰かへの思いやりがあったり自分が誰かのために義務を甘受するようなやさしさがあるのです。

循環型社會とは何か、それを昨年は思い知りました。

それは誰かの都合で動かない社會です。それは家族がみんなで協力して助け合う社會です。言い換えれば、全てを必要とし全てを活かしている社會です。そしてそれは不便の中、面倒の中にこそあるのです。

昨年、皆で取り組む実践の中で便利に一人で簡単に進めるよりも、たとえ不便でも面倒でも一緒にやる方が周りのためになっていることを実感しました。誰か一人だけが頑張るのではなく、みんなで力を合わせることでパワーもエネルギーもすべて循環します。

今の時代はパワーやエネルギーを一つのためだけに使い切りますが、しかし江戸時代などはみんなでそれを振り分けて役割分担をして活かし切りました。この使い切るという発想が自分の都合で起こり、この活かし切るという発想が自他一体で行われているのはすぐに自明します。

そもそも循環というものは、周りを思いやっているかということです。自分だけが良ければいいでもなく、自分がやっていればいいではなく、「一緒にやる」といった中庸の場所で物事に取り組むことができているかということです。

一緒にというのは、運命共同体です。私の言葉では自他一体になっているということです。相手が自分であり、自分は相手なのです。自分さえよければいいという考え方が社會を便利さに走らせ、周りを思いやろうとする社會こそが不便であっても一緒にやろうと思える社會を創造するのです。要はどこまで相手や周りのことを思いやって一緒にと思っているかです。自分の成長だけを思う人と、周りの成長まで思いやる人では同じ動きをしていてもエネルギーは循環するかしないかの差が産まれるのです。

子どもにどちらの社會を遺してあげたいか、それはみんな心では分かっているはずです。だからといってその便利さの恩恵を受けている今の文明や時代を否定する気はなく、むしろ有難いのだからもう一段場を高めてその中でも「一緒にどこまで為れるか」が今に生きる私たちの大切な課題なのではないかと私は思うのです。

循環型社會とは、ただ環境をそうすればいいというわけではなく、其処に住まい、此処に生きる全てのいのちと運命共同体になるということです。つまりは「一緒に生きよう」とすることです。

視野を広くして悠久の歴史に今を照らせば、今までもずっとみんなで一緒に地球の中で生きぬいてきました。苦しいときもつらいときも、楽しいときも悲しいときもいつも周りをみては同じいのちを慈しみ愛して生きてきました。

視野を狭くするから自分さえよければと思うのでしょうが、連綿と続いて継承されてきたいのちの姿かたちが今の「自分たち」なのだから過去が悠久の長さがあったように、未来をも悠久の長さで考えないといけません。

今年はさらにすべてを分けずにもう一歩深く踏み込んでみたいと思っています。これは循環が単に共生という言葉ではなく、「一緒」の方が循環の本質に近いのではないかと感じているからです。いのちと生活ということがどのような実践と環境なのか、それをこの時代、今此処ではどうなのかを突き詰めてみたいからです。

一緒に行うことの真価を、全ての機会を活かし切りクルーたちと一緒に深め、志のままに挑戦し試してみたいと思います。

観察眼~心の実力~

外は急に寒くなり、雪も降って冬景色です。

動物たちは小さく丸くなって寒さをしのいでいますが、人間は数々の暖房器具、防寒衣服に包まれてぬくぬくとしています。

今は水も水道をひねればすぐに出てきますし、火もガスコンロを回せばすぐにつきます。また空調によって室内の温度も自由に調整でき、食べ物はコンビニに行けば何でも買えます。調べたいものがあればインターネットで検索できるし、買い物もボタン一つで購入しそれがすぐに自宅に届きます。暇があればテレビをつければ娯楽番組が流れますし、音楽だって聴きたいものはすぐにダウンロードできる時代です。人間関係も同じく、お金さえあればと面倒なことを避けて関わっている人も増えています。

少し羅列してみてもそこに何の不便さもなく、「便利」に囲まれて生きていると言っても過言ではありません。これらの便利さと引き換えに失ったものの本質は、じっくりと考えて物事を判断する観察眼ではないかとも思えます。

年越しに火を焚き、薪をくべ満天の星空を眺めながらゆっくりと思想に耽る時間がありました。昔の人たちは変化をじっくりと考える時間があり、物事の判断をとても長いスパンで検討して決断をしてきました。今は、情報化社会の中で何でも簡単便利に迅速に快適になることが何よりも優先されています。欲望を中和するような時間も持てず、目先の快楽のために精神が怠惰に流されてしまうのかもしれません。

観察眼とは、心を感じる力です。

心で感じたり、心で動いたり、心で取り組むという心の力、言い換えれば真心の実践を行うには観察眼がいるのです。相手と心を通じ合わせたり、全体のために心を配ったり、心を籠めて丁寧に接するというのは、そこに心が入っているのに気づきます。

心無いことをしたり、心を入れなかったり、心がけもなくなれば、頭でわかった気になり過去の知識からこんなものだろうと忙殺してしまいます。心は目には見えませんから気づこうとしなければあっという間に観えなくなるものです。心で観るという習慣を持つには、自分が心をいつも遣っていく生き方をしなければなりません。それはよく面倒くさいといって人が自分からやりたがらないことを敢えて自ら進んでやることでその観察眼が磨かれるのです。

森のイスキアの佐藤初女さんにこういう言葉があります。

「私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。「(おむすびの祈り 集英社)」

心を失い、心を遣わないでいるとすぐに人は不安になり不信になり自我感情に呑まれてしまうものです。平常心や心の平安は常に心を感じるから視野も広くなり絶対安心の世界に住むことができます。

観察眼とは手間暇の実践です、手間暇という心を遣うそのひと手間こその中に心が籠っているからこそ「実践」を蔑ろにしてはならないと改めて思います。「凡事徹底」という言葉も、心を遣い観察眼を磨く智慧の一つということです。

人間生活の中でいくら面倒と感じても御蔭様の心を持ってもうひと手間ができるようになれば心の実力が備わってきていると考えていいと思います。今年も、雑さを戒め、自然の精妙さと丹精をモデルにして心がけ、かんながらの道を求めていきたいと思います。

2015年のテーマ

昨年も本当に沢山の有難いご縁をいただいた一年になりました。毎年、当たり前ではない出来事に恵まれ、日々に充実するのは一日一日が最期だと感じているからかもしれません。

人生はあって当たり前のものではなく、勿体ないものです。今の自分が今此処にあるのはそこには由緒があります。これは単に私だけの人生ではなく、連綿とはじまりから今まで続いている人たちがあってその中に自分も居るのです。

先祖代々から今まで、数々の困難や苦難を生き延び、私にまでいのちをつないでくださった方々に感謝を思わない日はありません。今の私が存在するのは、本当に偉大な御蔭様で成り立っています。決して私個人で生きるのではなく、志古人に生きたいと願うばかりです。

子どもたちのために生きようと志した日からずっと、自分の生を何のために遣おうかと覚悟を定めてきた日々でしたがいつも感じることは、祖神祖先への畏敬と慈愛への感謝ばかりです。有難くいただいた一期一会のいのちですから、悔いのない日々を魂に応じて従いつつ信念をもって歩ませていただきたいと思います。

また今年も師とテーマを共有することができました。ご縁をいただいてから十二年の歳月、共に錆びずに磨き続けて道と学問を共有できるものをいただけるのは真心の為せることだと師の恩沢洪大に心より感謝の念が湧いてきます。

今年のテーマは、「時代に翻弄されず、初心を忘れない」ということです。

変化の時は近くを見ては酔ってしまうものです、そうではなく夢を持ち常に本質でいることを忘れないということです。単に頭で理解すると簡単な言葉ですが、実際は今までの毎年のテーマの総合力が必要でこれが分かるにはまた沢山の実践が必要です。

夢を持つからこそ人はブレずに一つにいのちを盡していけます。時代が変化の時こそ、夢に向かって真摯に自分自身と正対して独立自尊の努力をできるかが大切になってきます。

世界は次第に激動期に入ってきています。どんなに寒く凍ったような闇夜がきても、明けない朝はなく、太陽が昇らないことはありません。私たちは地球にいるいのちの一つですから万事転じて安心し、信じた福世かな時代に換えていくのみです。

常に初心を忘れずに人類共通の夢の実現のために自分自身の真心を盡し切ってつながりの中で篤く貢献していきたいと願います。

今年も天恩に対して謙虚に、人恩に対して素直に、仲間を愛し思いやり、同志を勇気づけ励まし、師を真心で援け、後輩を命懸けで導き、子どもたちを深く信じ、清く正しい心で社會を広く明るく照らせるように、自然の道、かんながらを歩ませていただきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

磨く②~特技と自信~

昨日から磨くについて書きましたが、なぜ磨く必要があるかといえば自分の徳を引き出すためです。人間には一人ひとりの個性があります、特技とも言ってもいいし、特性とも言ってもいいと思います。天がその人にだけ与えた自分らしさとも言えます。

その個性や特技は、人間力に左右されます。人間力を伴わない個性や特性は世の中に活かせるものになりにくいからです。それを上手に扱える人がいればいいのですが、本来はその実力は自分で磨く必要があるのです。

日本には武士道があり、侍には刀があります。

刀は磨きに磨いても鞘から抜くことがありません。そんな毎回、何かがあるたびに刀を抜いていたら磨いている価値もまた失われてしまいます。その侍の価値は磨き貫かれた人間と刀に観照してその生き方を示していたのでしょう。

人間力も同じく、磨かれていない特技と磨かれていない人間性であればもともと天から頂いた力を世の中に活かすことができません。荒削りな特技では、先ほどの刀でいえば迷惑千万、むやみに周りを傷つけたり、怪我をしたり、すぐに破壊したりするからです。

もともと持っている特性や徳を引き出し、活かすには自信が必要です。それは真摯な場数によって失敗を繰り返し改善を続け、自己練磨、自己修養によって得られます。自信とは、自分に打ち克った数ではじめて自得できるからです。困難や試練は自分の魂を磨いてくれる試金石です、その苦労を自らかって出るような生き方や勇気こそが自信につながるのです。

知性ばかりを褒められる人は人の評価を気にして失敗を恐れては場数を避けようとしますが、それでは真の自信はつきません。自信は文字通り自分を信じることですから、本質に生き失敗を恐れずに苦しい方を選択しその苦労をじっくりと味わって楽しみに換えていくような努力が要ります。

最後に、磨くということについてある空手家の名言があったので紹介します。

「特技を磨くとは、自分を磨くことだ。自分を磨くとは、自信を磨くことだ。」(大山倍達)

そして自分の特技は、大義に生きた人にもっとも与えられるものです。そして大義を貫くからこそ自分が磨かれていくのでしょう。何よりもまず「初志」があって「貫徹」することではじめて磨かれるのが魂です。

そしてもう一つ、共感する言葉がありました。

「何のために強くなるか?それは自分に打ち勝つためであり、義を通すためであり、人を導くためである。」(大山倍達)

真の漢には、強く優しくなりたい理由があるのです。

そのためには常に自分と正対し、怠惰な自分に喝を入れては日々に自分に打ち克つ努力と精進が要ります。それが磨きの本質ということでしょう。気づき打ち克つ、つまり研磨するということはそういう今一瞬を生き続ける覚悟です。

まだまだ自分は本物の特性については分かっていません。自然の道具、本物の道具を学び、そこから特性を身に着けていきたいと思います。来年は、「磨く」ことをテーマに様々な実践を高める一年にしていきたいと思います。

 

 

磨く①~磨徳道楽~

今年は貝磨きの体験から磨くそのものの価値について再認識することができました。気づくことはできていましたが、気づきに気づくということには到達していなかったように思います。ここで磨くということをもう一度、整理して深めてみたいと思います。

磨くという字で思い浮かべる四字熟語には、「切磋琢磨」や「磨斧作針」があります。

「切磋琢磨」は中国の「詩経」の中で 「切」は骨や象牙を切ることで「磋」はそれらを研ぐことだとし、細工師の技工や完成した細工品に喩えて切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き向上することを言いました。

そして「磨斧作針」の方は、学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいるとき老女に出会い、鉄の斧を磨いて針を作っていた老女の行動から努力、根気の強さに反省し李白は学問に励むようになったことから、惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することを言いました。

どちらにしてもここでの「磨く」というのは、忍耐と根気によって継続して実践を続けて已まないことを例えています。

磨くというのは、単に摩擦していることではないことがここでわかります。一見、無理で難しいと分かっていることであっても諦めずに励むことでどんな石でも磨けば光る玉になることを示しています。つまりは、そのものの対象に問題があるのではなく磨く本人にこそ問題があることに気づけるのです。

例えば、気付くという一つの実践があります。継続して実践していける人というのは、関心を失うことがありません。あのエジソンが何千回、何万回の実験と努力を通して新たな発見・発明を産み出したように根気強く丁寧に気付きを内省する人は同じ実践をしていても必ず確かに磨かれていきます。

それは本人が気づこうとするかどうかに由るからです。

単に同じことをしているから磨かれるのではなく、もっと改善していこう、そこから大切なことを気づいていこう、心を澄まして感応していこう、気付いたことを次に活かそう、「発見=気づき(徳)=発明」と精進するものではじめて磨くことができるからです。

「玉磨かざれば光なし」という故事があります。

この「玉」は丸い形の宝石のことで、 宝石が原石のまま磨かれなければ美しい光を放たないのと同じように、人もどんなに才能があっても、学問や修業を怠れば立派な人間にはなれないということ。これは 『礼記・学記』に「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」という言葉よりの引用です。

人が道を歩むということは、日々に気づくということです。そして日々に気づく人は次第に徳が引き出されその器が出来上がってくるということでしょう。

磨く楽しみというのは道を歩んでいる愉しみであり、玉を磨くというのは徳を引き出していく歓びなのでしょう。

産まれてきては生きる意味を味わいたいのが人生です。その一度きりの人生がどのような自分を与えられたにしても、その人生をより善くしていきたいと誰もが願うものです。

生きている間、磨ける仕合せを味わいつつ実践を盡していきたいと思います。