変化とは何か

東京から戻ってきてBAに滞在していますが、室礼していた紫陽花の花が次第に寂てきています。また庭先には蝉の鳴き声が大きくなり、雲は積みあげられ空の碧さはますます鮮明です。

季節は梅雨から初夏にはいり、光の差しかたや風の動きが変わってきました。

私たちは、気づいていないうちに日々に大きな変化に晒され私たちも変化の真っただ中に存在します。止まっているようでも止まってはない、地球が自転し、宇宙が旋回し、あらゆるいのちが循環をしていくなかで活動を已むことはないのです。

しかしこの動きの本体こそが、静止していることもでもあるように私は思います。つまり動こそが静であり、その静こそが止であるということ。言葉遊びのように聞こえますがこれはそうではなく、この偉大なる動きこそが已むことがないのだから止まっているということなのです。

心を落ち着けて瞑想をすると、この動いている今の中に静を感じます。つまり静止します。静止するというのは、先ほどの宇宙の旋回、地球の自転、いのちの循環を感じている状態になることです。

それを感じるとき、これが永遠に繰り返されていることを知り本当の止まるという意味を悟るという具合です。

変化とは何か、それは変化しないということです。永遠とか永久とかいうものもまた変化の正体です。私たちは、変わるものと変わらないものを持ちますが、変わらないものは変えようがないものです。変えることができるものだけが、私たちが変化と呼ぶものです。

私たちが変化と呼べるものは宇宙や自然、いのちに私たちが合わせて和していくことです。こうやって暮らしを一つ一つ丁寧に紡いでいけば、私たちはそこに変化の根源や変化の意味を直観するのです。

変化しても已まない、この心の安心感はとても偉大で穏やかです。子どもたちに、変化の喜びや仕合せを伝道していきたいと思います。

徳の正体

老子にこういう言葉があります。

これは「大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し、道は隠れて名なし。」(大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形 道隠無名)

直訳すると、「大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。道とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのです。」となります

これは道を語る一文です。

偉大なものはこういうものであり、偉大だからこそそこに徳があるというのです。

この言葉は私の解釈ですが観方を換えれば、こうなります。

「もし道を学ぶのであれば、大方とはもっと大きな意味と深さがあることを知り分かった気になってはならぬ、そして本物になろうとするのなら時間がかかることを覚悟し根気をもって事に励み実力をつけ、真摯に研ぎ澄まし洗練された透明で鮮明になるまで磨き上げ、自他一体、全体善になるほどにすべての事と調和してそのものとなる。これが道であると。」

どんなことにも大切な意味があり、その意味はその先の偉大なものの一部であるという生き方。まさに道は徳に裏付けられて存在し、道を歩む人は必ず徳の存在に出会います。

私たちが捉えている宇宙と、老子が捉えている宇宙はまるで別物かもしれません。それは道には天の道と人の道があるというように、道を解釈する人と、解釈する前の道があるという言葉では語りつくせないものを表現しているように思います。

文字や言葉では表現できないものが必ずこの世には存在します。私はそれを「意味」と呼びます。意味がないものなどこの世には一切存在せず、意味があるから日々が発生してきます。真理を探究していく人は、意味を深めて意味をつなげて意味を生きる人たちです。

真実の深さというものは、この意味を辿る生き方、ご縁と共にあるひとたちがもっています。頭で考えてどうにもならないことがあるのは、そこには天の道、徳があるということでしょう。

「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観んと欲し、常に有はもってその徼を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄のまた玄衆妙の門なり。

この玄妙こそ、私は徳の正体に近いと感じています。

私の歩む道は、遠大で偉大を志しています。そのことを自覚して、心の余裕を大切に日々の意味を紡いでいきたいと思います。

 

一つの生き方

人は主体的な能動的であるとき、やる気が出てくるものです。しかし自分のやりたくないことや否定的なことをやらされると感じるとき、やる気は出てきません。これは感情がその人のやる気を調整しているからです。

しかしよく考えてみると、人生というものは生きていればやりたくないこともやりたいことも同じくらい出てきます。やりたいことだけをやっていたら、それと同じくらいやりたくないこともでてくるのです。

これを毎回、自分でやっていたら結局はやりたくないからやりたいこともしないという具合に消極的になることが多いように思います。

その中で、どんなこともやる気に満ちていて人生を楽しみ充実させている人がいます。日々に、一期一会だと真剣に向き合いどんなこともやる気がある人がいます。そういう人たちの共通する特徴は、やらされているという感じがないということです。

つまりどのようなことでも、「自分のやりたいこと」になっている人はやる気がつねに湧いてくるということでしょう。では、やりたくないことはどこにいったのかということです。この方々は、「やりたくないことも含めてやりたいことになっている」ということが前提にあるように思います。

物事の捉え方、物の観方が最初から異なるのです。

何のためにやるのか、なぜやるのか、それを突き詰めている人はどんなことも必然であり必要なことだというマインドセットを持っています。そして大きな意味で、それは自分の魂が望んでいることであるという自覚を持っています。

そういう人は、すべてやりたいことだったと自分の意識をすぐに切り替えることができる訓練を積んでいるのです。生きていれば、本能もあり感情もありますから心の声に従えといってもなかなか言うことを聴いてくれないのが人間です。

しかし何度も自分の初心や心の声に問いかけて、本当は自分はこれをやりたかったのではないかと自問自答する中で次第に磨かれていきマインドセットされていきます。それを修練を通して、気が付くとすべてやりたかったことに換わるマインドを身に着けるように思うのです。

人生は一度きり、日々は常に一期一会。感情に左右されても、目的は失わない。そういう生き方ができる人が、人生のプロセスを味わい、初心を忘れずに豊かで楽しい人生が送れるように思います。

現代は、忙しすぎてそんなマインドセットの修練をするよりもすぐに目先の結果ばかりを追いかけてしまいます。心豊かに生きられる人生は、成功も失敗もなく、そこに最高の人生があっただけです。

子どもたちのためにも、一つの生き方としてお手本を目指していきたいと思います。

フルネスと暮らし

昨日、ある場所で座禅をする機会がありました。座禅は、長崎の禅寺で社員で参加したことがありましたが改めて体験してみると別の角度からその座禅の効能を実感することができました。

現在は、日本よりも海外でZENといいその座禅の価値も広がっています。特に海外の名経営者や発明家、あらゆるジャンルの人たちもこの禅の効能を述べています。

ジェームス・スキナー
「再新再生(活性化)を図る最大の方法の一つは、毎日「瞑想と思索の時間」をとることである」

プラユキ・ナラテボー
「仏陀の「気づきの瞑想」は「マインドフルネス・トレーニング」と呼ばれ、精神医療の現場では有効なストレス軽減法として、またグーグルやインテルなど多くの企業では社員のメンタルヘルスと仕事のパフォーマンス向上を目的として、取り入れられてきている」

アンディープディコム
「このテクニック(瞑想)の素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただコツを覚える必要があります。練習が必要で意識する方法を学ぶ為のフレームワークも必要です。これが瞑想というもので今この瞬間を理解するのに役立ちます。また今という瞬間から最良を得る為の アプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこの為にあるんです」

リチャード・デイビットソン
「人々が単に一日、心のトレーニングを行うことで遺伝子の活動というレベルにまで効果があった」

この瞑想のアプローチは、人の生き方の対話であり、人生を振り返り自分自身の存在、自然の一部である自分、真我に気づくことのように思います。

私は座右が一期一会ですが、この生き方もまた禅に通じています。よりよい人生を歩む人は、常に自分への問いかけを持つ時間を大切にします。自己の判断を歪めないように、自己の純粋な調和を保てるように、穏やかでゆったりとした場を心の中に澄ませます。

以前、道具は扱う人によっては凶器にもなることを感じた時、人もまた然りであると実感しました。人は本来は人ですが、使い方次第では凶器になるということ。心の平安を保つことで、私たちは人としての生き方を守っていくように思います。

禅はまさに、心の調和に導引する仕組みで満ちています。改めて、フルネスと暮らしを学び直していきたいと思います。

オフィスの定義

現在、職場という考え方が大きく変化してきています。コロナのことで、今までの職場がリスクなり新しい職場をどうするかとそれぞれで工夫しています。

もともと日本は、職住一体型の暮らしを続けてきた民族ですが西洋の文化が流入してきてから工業化が進み、高度経済成長期、衰退期を経て、今にいたります。そのプロセスでオフィスの環境は大きく変わってきました。

しかしここにきて、今までのオフィスの定義が変わってしまうような出来事が発生してオフィスそのものをなくすという選択をする企業も増えてきているといいます。そもそもオフィスは何のためにあるのか、そこからまた見直すいい機会になっているようにも思います。

時代の変化と共に、会社も事業も変化は已みません。今まで大きく事業投資してきた企業は、そう簡単には今までの投資した状況を変化させるというのはできません。そこには大きな勇気が必要です。特に大企業などは、人数も額も大きく変化するのには大ナタをふるう覚悟も必要です。

小さな会社や組織は、その点、大きな投資もしていませんから撤退も変化も楽にできます。職場もまた、大人数を擁しているわけではないのでどこでも移動でき、どんな状況でも働けます。

変化は小さなところから大きなところまで、また所帯の大きなところから小さなところで起きてきます。改めて、オフィスは何のためにあるか、その意味が多様化してきますからそれぞれに新しいスタイルがたくさん産み出されていく時代に入っているように思います。

しかしそこに共通する上位概念というものがあると私は感じています。それは生き方のことです。

何のために生きるのか、何のために働くのかという人生の目的、言い換えれば初心のようなものをもって人は生き方と働き方を決めていきます。そしてその生き方と働き方が一致したものが「暮らし」となります。

どのように生きたいか、どのように働きたいかは、暮らし方が決めるのです。私の会社は、子ども第一義、子どもが憧れるような働き方と生き方をしていくことをみんなで取り組んでいます。

子どもが憧れる働き方は、大人たちがイキイキと仕合せそうに楽しんで仲間を愛し、助け合い支え合い、変化を挑戦と成長のチャンスにして自他の仕合せが周囲の喜びになり、人々が尊重し合い生きていく社會を創造することでもあります。

ある意味でオフィスがどうなろうが、原点となるところは不動です。その時、オフィスがどのように化けていくのか、これからの展開がとても楽しみです。子どもたちが未来に、憧れる暮らしがあるように場づくりを通して面白いことに取り組んでいきたいと思います。

文字を記す意味

人は頭で理解するために文字を読みますが、共感するためには実際に体験するか実践している現場を感じるかといった感覚を用いるものです。最初は文字から入ったとしても、そこに共感できるものがなければその文字は本当の意味で自分に入ってきているわけではありません。

人間が文字を読むとき、それは自分の体験や経験とアクセスしてそれを補完して仮想体験をしています。それを実際にするには、その後にその文字にあるような体験をしたり、似たような境遇を経験してはじめて共感して文字が自分のものになっていきます。

人間は文字を通して学びますが、文字が自分のものになるのはずっと後の事です。

学校で私も文字を学びましたが、その文字は暗記によって覚えましたが時間が経てばすぐに忘れていきました。そしてその文字をいくら知っていても、体験したわけではないからその文字が人生の役に立つことはあまりありませんでした。

例えば、火の熾し方などは縄文時代から現代までどうやって火を使ってきたか、どの道具をどのように使えばいいかは知っていました。しかし実際に、木や炭から火を熾すことは簡単にはできませんでした。これは何度も何度も経験してからはじめてできるようなるわけで、文字はあくまで知識としては得ますが実際の生活にはそのままではあまり役に立つことがありません。

何かを伝承するときにも同様で、記録としては文字があってもそれを経験して体験し共感した関係がない限りそれが実用として実践し続けることがないのです。

私は古民家再生をしている人になっていますが、建物を直しているのではなく日本文化の甦生や、大和魂の継承、民族伝承の智慧を遺すことなど、子どもたちのためにと思って取り組んでいます。言い換えれば、子どもの仕事をしてきた体験や実践をたまたま古民家でやっているだけで古民家甦生が本業ではないということです。

子どもの仕事というのも、直接的な子どもの仕事から、子どもとは関係がないように観えて本当の意味で子どもの仕事になっていることもあります。子どもの定義も、下位概念は年齢の小さな人間のことをいいますが上位概念は、純粋な魂や、清らかな心を持つ人のことを言ったりします。

つまり同じ「子ども」という文字を使っていても、その使う人の体験や経験、その人生の目的や生き方によっては別の意味を記しているのです。だからこそ、この「記す」という実践は大切なことで、発信し続けていくことで同志と切磋琢磨でき、仲間を鼓舞し合い、草莽崛起し合う縁をつないでいくようにも思います。

論語の「遠方より朋来る」の一文がありますが、あれもまた文字であって共感するものは別の次元、上位概念の中にあるように私は思います。

子どもの未来のために、これからも今を綴り続けて精進していきたいと思います。

探求力とは

人は様々なご縁を辿っていく力が備わっているように思います。特に私は、ご縁に導かれていることに任せて物事を判断していくタイプですから、どのようなご縁がつながっているのかをいつも感じています。

その中で培われた力の一つに探索力というものがあります。

ご縁を探し出していく力のことです。これは、簡単に言えば「つながりを辿る力」のことです。先ほどのご縁を辿るというものと、つながりを辿るだと言葉が異なるだけに感じられるかもしれません。

しかし私にとっては、少し分かれたニュアンスがあります。ご縁の方は、自然に任せていく力、そしてつながりの方は、共通するものを発見する力という具合です。

前者の自然に任せるというのは、自然の流れに従いながらそれを邪魔しないということです。別の言い方だと素直になることです。松下幸之助さんのいう素直道に似ています。これがご縁を辿る力を磨くことになります。

そして後者のつながりは、同じ真理を持っているものを辿るということです。それは文化であったり、生き方であったり、悟りであったりとそれが共通しているものを持ているものをつなげていくということです。これは、どの道に入っても究めたらすべて同じであるということに似ています。一道を究めてみれば、何かもっとも至高のものかが自明します。そして何が一流で何が本物か、そして洗練されたものがどのようなものか、その物語やプロセスを嗅ぎ取る力がついてきます。

つまりこれが冒頭に書いた「探求力」というものです。

探求力は、物語の中に潜んでいます。そしてその物語を面白がって探して辿っていくと、様々な出会いが生まれます。その出会いを総合的につなげるとき、新たな発明が起きるのです。

こうやって探求力を磨いていくことで、ご縁もつながりも高めていきます。

私たちの人生は、仏教道具の羅網のように無数に混然一体になっておりこの世に存在しています。それを味わい楽しみ、慈しみながら生きていくところにこの世の仕合せがあります。

子どもたちに本物を結び、譲り遺すためにもさらなる高みに向かって精進していきたいと思います。

自然になる

本当の自分とは何か、これは現代の人たちが分からなくなったものの一つです。かつて人は、自分とは何かということを問うことないほどに自他一体の境地を持っていたように思います。

その根拠は、自然界の生き物たちを観ていたらすぐに察知できるからです。ほとんどの生き物たちは、自他の区別がなく、集合体として存在しています。つまり感覚はあっても、自己認識が人間の思っているような個人という認識が少ないように思うのです。

例えば、植物たちでいえば自分たちが懸命に生きることで周囲の生き物たちを喜ばせていきます。花にミツバチや蝶がくるように、自分の生を全うすることで何かの役に立つ喜びを持っています。

私たちが花を見て仕合せを感じるときもまた、花はただ懸命に自分の喜びを味わっています。自己肯定感が少ないといわれる時代になりましたが、自分が誰かのために真心を盡していれば相手や周囲が喜び、そしてその中に自己の喜びも出てきます。

みんなが喜ぶか、これを現在では全体最適とも言いますがそうやってみんな一人ひとりが懸命に自他一体の境地で利他の喜びを感じられる世の中であれば本当の自己の仕合せに気づくようにも思います。

自己を喜ばせる。

これは自分自身を一生懸命に生きるということでしょう。心の中にいる童心や大和魂が何を望んでいるか、どうありたいか、最初の原点に立ち返れば子ども心の時の自分ということになります。

自分のやりたいことがあって、それを喜んでくれる社會がある。それを活かしてくれる周囲がある。見守り合う世の中、まさに先ほどの自然界の花や虫のような世界に生きることです。

あるがままでいられなくなったのはなぜでしょうか、ありのままではいけないとなったのはどうしてでしょうか。人間の苦しみは、自然であることを否定するところから発生してくるように思います。そしてそれは個人主義で自分の身勝手にすることが自由でもないし、自然でもありません。

みんなが喜んでもらえるように自己を一生懸命に生きる、そして自己を尊重し合うように周囲と尊重し合う関係を築く。そこに本物の自然があるように思います。みんな違ってみんないいという言葉は、みんなが善いことになるように生きてみてはじめて、違うことの良さを感じられるとも言えます。

目先の欲望や、個人的な自分を喜ばせることが自由でも尊重でもありません。みんなの仕合せの中にいる自分、自分も一緒に仕合せを味わえる自由。自己が統一して、自己が調和する喜びに生きる。

花のように虫のように、自分の喜びが誰かの喜びになり、誰かの喜びが自分の喜びに”自然と為っている”、ここが自立の本懐だと私は感じます。

子どもたちがあるがままの姿でも尊重し合える関係が見守られるよう、場を創造し真心を盡していきたいと思います。

見守り続ける

コロナウイルスがまだまだ落ち着かず、このまま感染拡大は続きそうです。人類は、気候変動に加え、これからどのように自然環境と折り合いをつけていくか、真剣に向き合う時間になっていくように思います。

改めて、ここまで生きていて感じるのは次世代の声を聴かない人が多いということです。新しく生まれてくる人たちは、これからの世の中を創造していきます。その子どもたちは現在の地球環境をみてこれからどう人類が活きるべきかの声を持っています。

しかし大人たちが子どもたちの声を無視して、自分たちの知的?な理屈が通る常識的な声ばかりを優先しては時代の変化を邪魔していきます。本当は、子どもたちの声を真剣に聴いてそのうえで、どのような環境を譲り渡していけばいいかとみんなで自制し自律しながら智慧を働かせていくのが大人の仕事でした。

現在では、我こそはと好き勝手なことをやってはいつまでもその地位や名誉、権力や経済力が落ちないようにこの世にしがみ付いていくばかりです。

ふと考えてみました。

もしも人類が競争や自利に走るのを已めるような大災害や地球滅亡のような大きな困難に出会ったら、その時、人類は何を考えて何を思うのだろうかと。

そんな状況下になったとき、誰かを蹴落とすような過当競争はやっているだろうか、そしてみんな自分さえよければいいと好き勝手なことをするのだろうか、お金儲けを必死にするのだろうか、と。

ある意味で本来の「自然」とは離れた人類の意識が、この世を創造しているのであり、人類の今の意識がこの世の中であり、その意識がこの環境を産み出しているということでしょう。

自然の猛威は、人類の意識に影響を与えます。気候変動は、私達人類の意識に何をもたらすか、コロナにはじまりこれから発生してくる様々な災害は私たち人類の意識を変革する大切な分水嶺です。

子どもたちの声に耳を澄ませて傾けながら、新しい時代にスムーズに移行できるように見守り続けていきたいと思います。

 

本物の生命力

この時期、草刈りをしていると植物たちの力の大きさを実体験することができます。非常に旺盛に元気よく生えてくる草草は、生命力の権化です。少しでも時間を空けると、こんなに大きくなったのかと思うばかりに成長していきます。

よく考えてみると、古木や大樹は樹齢何千年から何百年まであります。よくこれだけ長い期間、あらゆる天災や災害、気候変動を乗り越えてきたものだと感心します。年輪を見れば、その時機時期の気候がわかり時として氷河期、時として温暖期、ありとあらゆる季節を乗り越えて今があります。

そして他にも、枯れていたものや折れていてもそこからまた復活し繁茂します。草刈なんてしていても、きりがないほどにまた繰り返し生えてきます。ひしめき合って居場所を確保し、その中でそれぞれが必死に太陽の光を捉えていきます。水や火や土や、風や日月の光を存分に浴びて木に養分を運びます。

そして多様性です、ありとあらゆる環境、砂漠から高地、海の中や過酷な環境でもその土地に適応して生き延びます。もはや、生命力の大先輩というか権化です。この生命力というものを実感するとき、それは植物の力の偉大さを感じずにはおれません。

私たちは、自然の生命力から本来の生命の本質は何かを学び直せるように思います。最近では、栄養学や医療なども発達していきましたが生命力は果たしてどうなっているでしょうか。

かえって生命力は衰えて、本来の生命の在り方から大きく離れてきているようにも思います。自然の生命力に学ぶことは、自然との共生に回帰することでもあります。私たちは自然と共生する方が本来は大きな利益があるという事実を学び直すことです。

それは自然をコントロールすることではなく、自然と共生して自然の生命力を自分たちも得ることです。現代の人類は生命力が衰えてきています、それは自然との共生を已めたからです。自然との共生こそ自然の生命力を蓄える力であり、それは衣食住、ありとあらゆるところで繋がり直す必要があります。

気候変動で生き残れるかどうかは、この生命力にかかっています。子どもたちが生命力を発揮して、植物たちのように強く逞しく生き残れるように、今、私が取り組めることで世界に貢献していきたいと思います。