観光の本質

時代と共に言葉の意味は変わっていきます。それはその時代の人たちの価値観によって言葉は変化していくからです。かつて使われていた言葉が、かつてと同じように使われていなければ同じ言葉でもそれは全く異なる言葉になってしまいます。

何かを深めていくとき、その言葉がどこからはじまったのか、その語源が何かということを調べることはとても大切なことです。それはその意味を自分なりに深め、なぜ今のような言葉になったのかの経過を知ることになり、そのものの本質を再確認することが出来るからです。

例えば、「観光」という言葉があります。この言葉は本来、中国にある「易経」の「観国之光」から抜粋された言葉です。意味は、直訳すると「他の国へ行って、良い点を見て学んでくる」ことになります。

この言葉が日本で使われるようになったのはちょうど幕末の頃、アメリカと条約を結ぶための使節団が乗った船に「観光丸」と名付けたことが、日本で「観光」という言葉が使われた起源であるとも言われています。そして大正以降、「tourism(ツーリズム)」の訳として用いられるようになり、昭和に入り観光は旅行や娯楽、遊興、物見遊山や見物のように使われています。平成になると、娯楽、遊興、余暇や余興を楽しむことのようにその意味は変わっています。

本来、この観光の意味する観るのは光、この光とは文化のこと。正確には「観國光」という意味であり、言い換えるのならクニに暮らす人々の精神性、生き方、生き様、さらにはその国の持ち味、徳性、美点、善いところなどを見極めることが観光の醍醐味でもあります。

人々がその土地に行き、観光をするというのはその土地の大切な文化を学び直すことです。そしてその風土の文化に触れて、その文化の美点を吸収し、善いところをたくさん学ぶために行う学問の実践ということです。

同じ言葉であっても今の時代の観光とかつての人々が行った観光が異なるのは言葉を見れば明白です。だからこそ、その土地や風土の観光を考える人たちは本来の意味での観光を見つめ直さなければならないと私は思います。

なんでも経済とばかり結びつけてしまうと、儲けることばかりや儲かることばかりで営利を優先して本来の観光からかけ離れてしまうこともあります。以前、ある観光地へ訪問したときその場所でお店を出している人たちはみんな都会から商売のためだけに週末にきて稼いで帰る人たちばかりで地元の人たちはほとんど誰もいませんでした。

いくら観光名所にしたいからと、本来の意義や目的が変わってしまえばそれは単なる娯楽場所で終わり行楽は流行がありますからいずれは廃れるのが目に見えています。その土地の文化、その美点をいつまでも錆びさせないように磨き続けて光らせ続けるのが私が思う観光の本質です。

古民家の再生をしながら、家をただただ磨き続けていますがその磨き続ける先に強度の未来が光ってくるようにも感じます。子ども達に美点や良い点、また徳性や風土歴史の素晴らしさを伝承していけるように暮らしの再生を実践していきたいと思います。

愛着

町家の修理を行っていく中で愛着ということを考える機会がありました。現在、一つ一つの古いものをリメイクし修理して価値を再定義し今の時代の暮らしに甦らせています。

業者に頼んでリフォームというものもありますが、自分自身の手で一つ一つリメイクするとその道具に愛着が湧いてくるのです。愛着を辞書で調べると『[名](スル)なれ親しんだものに深く心が引かれること。あいじゃく。「愛着がわく」「愛着を深める」「古いしきたりに愛着する」 』とあります。

慣れ親しむもの、これは馴染むとも似ていて次第に自分のカラダの一部になってくる感覚のことだろうと私は思います。何度も何度も使っているうちにその場数によってそれが自分と一体になった感覚を持つということです。

人は何度も何度も活用しそのものを大切にすることによって愛着が湧いてきます。この「愛着が湧く」というのは、泉から滾々と湧き出てくる水のように湧き上がってくる状態になるということです。

人の心というものや人の情というものは、慣れ親しみ馴染むたびにどこからか心情が豊かになっていくものです。豊かな心情を持つ人はみな、この愛情を注がれ愛情を感じ、愛情と接していくなかで育ってきたものです。

子ども達は愛情いっぱいの中で育てば自ずから愛着を持つようになります。しかしその愛着は、大切にすることや愛情を注ぐこと、そして丁寧に丹精を籠めてそのものと対話し接する中で生じてくるものです。

現在のように使い捨てが優先されていく世の中においては愛着はなかなか生じにくいかもしれません。永く使ったもの、ずっと一緒に活かし合ってきたもの、そして暮らしの中で伴に生きてきたものには魂が宿っています。滾々と湧き出る愛情は滾々と注ぎ込まれ滾々とまた愛情の輪を循環し湧きだすのです。

その魂を慈しむように味わい、その魂と触れるように接することが愛着を生じさせていくのでしょう。愛を注がれて愛を纏っている魂は、仕合わせそうな雰囲気を醸し出します。そしてその醸し出す雰囲気が人から可愛がられさらに愛が深まっていきます。愛着を持つ人はいつも愛の中に在って愛の循環を通してさらに仕合わせに生きていけるのです。

自分自身がどれだけ慣れ親しみ馴染み愛着を持つのか、それは暮らしの再生と深く関わっているように私は思います。引き続き、将来の子ども達が深くあたたかい愛着をもって仕合わせに育っていけるように私自身の実践を深めていきたいと思います。

お祭りの真価

昨日、地元の神社の宮司からお話をお聴きする機会がありました。現在、過疎化や高齢化が進み神社での活動を維持することが難しくなってきています。かつては氏子という神社のある地域で暮らしていた人々が地域の発展に貢献し、祭祀を神職の人々ともに執り行ってきました。

例えばお祭りなども祭祀の一つで、日本では古来よりお祭りを通して地域の人々の心の穢れを祓い清め、仲睦まじく暮らしていくことを実践していたとも言えます。これは海外でいうイベントではなく、日本伝統的に古来より伝承した神事です。

このイベントというものは、主催者がいて新しく始めるものであり、それに対し祭りは昔からの風習であったり何かを祀るものがある際に使われる言葉であるといいます。なぜ今はイベントになってしまうのか、それは経済効果を狙って企画者がイベントサービスを通して提供者と受給者が分かれてしまうところに由ります。しかしお祭りは本来地域の人々と一緒一体になって行われるものであり、そこに提供者と受給者が分かれません。

つまりは皆が主体的に自発的に参加するからこそお祭りになるのであり、そのお祭りを通して人間関係を円満に保ち、先祖たちや祖霊への感謝の心を取り戻し己に負けないようにみんなで精進してきた実践でもあります。

今では神社でのお祭りも宗教だとされることもあり、宗教の自由を名目にお祭りを廃止させたり参加を禁じたりする人もいるとのことです。

昨日、宮司の言葉でとても印象的だったのが、「地域の神社の荒廃こそが、その地域の荒廃そのものになる。祭りがなくなれば地域がなくなる」と仰っていたことです。地域の祭りがあればコミュニティが発生し犯罪率も下がっていくという統計があります。祭りが地域を繋ぎ、祭りが助け合いの文化を醸成するのです。

今年は祭りを深めていますが、祭りの持つ本来の意味を考え直してみたいと思います。古来から私たちの先祖は祭祀を通して謙虚であること、素直であることを優先していこうと皆で助け合って暮らしを実現してきました。

暮らしが消失してきている今では、次第に地域での祭りも失われてきています。イベントは長続きせずその場限りで終わってしまいますが、人々の心の中にある感謝の心が祭りを継承し伝承させていきます。

もちろん地球温暖化とか、世界経済の悪化とか世界に目を向けることも大切ですがその足元にある地域のことを考えずに世界を語ってもそれは本質的に改善改革をしているわけではありません。

地域の文化、町並み風景などから切り離され繋がりや絆がなくなると人々は生き甲斐を失い急速に衰えていくといいます。今の日本がどこか元気がなくなり、挑戦する気風が衰退するのは地域が弱っているからではないかと私は感じました。

暮らしの再生は地域の再生でもあります。

目に見えない価値が分からなくなってきている今の時代、損得勘定では測ることができない徳の価値を再定義し、目に見えない価値を可視化していくことは私たちが古来から安心し勇気づけられた付加価値に気づき直すことです。

引き続き、子ども達のためにも何を伝承していくのか真摯に向き合い見つめていこうと思います。

 

 

暮らしの再生~生き方の再生~

町家の再生をする中で昔の人たちは「職住一体の暮らし」を何よりも優先していることに気づきます。なぜそれを優先するのか、それは生き方が関係するからです。

本来。日本人らしい生き方があってそこに暮らしが付随しますから、かつての日本人の生き方を学び直すためにも暮らしの再生は欠かせません。今のように伝承されにくい時代になっているからこそ、遺していただいたものと対話しそれを再生させていかなければなりません。

私が定義する「暮らし」はその人が何を大切に生きていくかの初心のことであり、初心を実践する日々の人生道場でもあります。もしも初心が実践できるのなら自ずから暮らしは安定し、暮らしは自ずから充実していきます。

人は何のために生きるのかを突き詰めていけば必ず暮らしを見つめる必要が出て来ます。自分が何を大切に守るのか、その守るもののためにも暮らしがあるのです。

例えば、感謝の心を忘れないと決心した人が日々の生活の中でどれだけ感謝に包まれて生きていくか、そうした実践を通して道具も集まり、人も集まり、場が出来上がっていきます。その場は感謝の場であり、その感謝の場という暮らしがはじまります。

一たび暮らしがはじまるのならば、その暮らしそのものがその人でありその人が暮らしそのものになります。

そして今、再生している町家というものは職住一体でできています。なぜ職住一体であるのか、それは生き方と働き方が分かれていないからです。この生き方と働き方の一致こそが「暮らし」として顕れ、その暮らしが発展するのはその人がそれを実践して怠ることがないからです。

そして暮らしを実現するのは、まず理念や初心を定めなければなりません。何のためにこれをやるのかといった初志と動機を定める必要があります。それがあってはじめて「暮らし」となりますから、自ら日々に省みて己に打ち克っ実践ができているかどうかを大切に過ごしていくことが豊かな暮らしを実現させていくのです。

もしも理念や初心などとかけ離れてしまっている生活はとても暮らしているとは言いません。暮らしはその人そのものですから、暮らし方にこそその人の生き様が薫るのです。だからこそ大事なことは、常にどんな時も理念と初心から離れずに生活することが「暮らしの再生」なのでしょう。

引き続き、暮らしの再生を通して子ども第一義の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

省みること歩むこと

人は振り返ることで歩みを進めていく生き物とも言えます。この時の振り返るとは、単に再び思い出すという意味ではなく「省みる」ということです。日々というのは大きな変化の中で過ぎ去っていきます。その情報量は自分が思っている以上に膨大なものが入ってきており、その情報量を処理することも難しい時代になっているとも言えます。

しかしそのまま情報を処理しないままでいると心が忙しくなり、目の前のことしか見えなくなってしまいます。そうなってしまえば自分が何のためにそれを行うのかや、何の意味があって今こうしているのかなどの価値も感じなくなってしまうものです。また周りの人たちとの御縁や、自分の影響力なども気にならなくなってしまいます。

そういう時こそ、自分のやったことを一度省みることが何よりも重要だと思うのです。そうやって省みることではじめて、本当はどうしたかったのか、本来はどうありたかったか、また自分自身の改善と修養につとめようと思い直すのです。

江戸時代の儒者、伊藤東涯に「君子はおのれを省みる。人を毀(そし)る暇あらんや。」があります。(立派な人間になろうとする人はまず己自身を省みるものです。他人の文句や批評などをしている暇などはあるはずもない)といいます。

また論語にも「曾子曰わく、吾(われ)日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(とも)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」があります。

これは味わい深い言葉で、いつも内省をするときに自分自身はどうであったかと思うと未熟な自分が恥ずかしくなり改善しようと思い直すのです。これらの省みるということは、停滞していた自分自身を前に進めることであり、現実の今をあるがままに受け止め自分自身がどう変わっていこうかと感じることでもあります。

人は自分が変わることで、流れに身をゆだねていくことができます。それはまるで清流の中のたまりにつかまってしまっている落ち葉を水が押し流すように、朝靄の真っ白な景色が風によって吹き流されていくように、ふたたび歩みがはじまり時が進んでいきます。

忙しい時だからこそ敢えて省みることや、大変な時だからこそ内省を怠らないことこそが己に負けず己を活かす克己の工夫になっているように私は思います。

引き続き内省することの価値や大切さを、実践を通して周りを感化できるように日々に怠らず取り組んでいきたいと思います。

 

 

人間の仕合せ~仲間の存在~

人生には、何をするかという考え方と誰とやるかという考え方があります。これは旅も同じでどこへ行くかではなく誰と行くかというものがあります。面白い旅には、もちろん目指したい旅路の方向性というものがあります。みんながどこに行きたいかは理想としている世界があり、自分がもっとも味わいたい場所へ向かって歩みを進めていきます。

しかし時として人間は何か成功を手に入れて結果を出そうとするあまり、行き先ばかりを求めるあまり周りを省みず一人になり孤独になることもあります。誰といくかを思えば自ずから旅の優先順位がプロセスに変わり仲間の存在が何よりも大切であることに気づけるようになるのです。

一生懸命に頑張って手に入れることだけが人生の歓びではなく、現在、いただいている御縁を噛み締めて仲間の存在に気づくこと、その仲間と一緒に生きて暮らしていく歓びに気づくことが人生の醍醐味のように思います。

小林正観さんに「もうひとつの幸せ論」があります。ここには『「人生の目的」とはと書かれ「思い」を持たず、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)こと。「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」を生活の中で実践し、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる(=天国度100パーセント)」ことになり、「喜ばれる存在」になる。……これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです。』と紹介されます。

とても印象深く共感するのは、人生の目的の中に「よき仲間に囲まれることが最も大切である」と書かれていることです。そして人生の目的を具体的に仏陀と弟子との話でその意味が紹介されています。

『お釈迦さまの第一の尊者と言われた、アーナンダはあるときお釈迦さまにこう言ったそうです。

「お師匠さま、今日、私はあることで突然、頭の中に閃(ひらめ)きが生じました。私たちは《聖なる道》というのを追い求めているわけですが、もしかしたら、よき友を得るということは《聖なる道》の半ばを手に入れたと言っていいのではないでしょうか」

《聖なる道》というのは、自分の中に悩み、苦しみ、煩悩がなくて、いつも幸せで楽しくて執着がない状態ですね。

すると釈迦は「アーナンダよ、“良き友”を得られたら、その《聖なる道》の半ばを手に入れたということではない」と言ったんです。

釈迦は言葉を続けて「アーナンダよ、良き友を得ることは《聖なる道》の半ばではなく《聖なる道》のすべてを手に入れることである」。

同じ価値観をもち、同じ方向に向っている人たちを自分の友人にすることが、実は人生のすべてなんです。』(弘園社)

善き仲間に巡り会いその仲間と一緒に人生を歩んで往くということ。そのこと自体が聖なる道そのものであり、それが人生の幸せを手に入れたことなんだということ。

私も色々と半生を振り返ってみて、どこから歩みが変わったか、そしてなぜ歩みが変わってきたのか、今の自分の選択があったのかを鑑みればこの「仲間に巡り会う」ことが全てであったと思えます。決して人々が願っているような成功や最初に思ったような成功は手に入らず、その通りの結果も手に入りませんでしたが、御蔭様で今が豊かであること、そしてよき友を得ることができたことの仕合わせに何よりも有難い思いがします。

仲が良いというのは、仲間が良いということです。この仲間が良いから仲が良くなるのであり、この人と人の中にあってその人たちが一緒に和気藹々と日々に暮らしていくことが何よりも居心地がよくそこには必ず人生の幸せがあります。つまり人間の仕合せとはこの「仲間に巡り会うかどうかが全て」であると感じるのです。

どこへ行くかではなく、誰といくか、もしも人生を2分割して折り返し地点を過ぎたならば頑張るのをやめて降りていく生き方をしてみるといいかもしれません。今の時代は競争や比較の刷り込みで、頑張り過ぎて苦しんでいる人たちがたくさんいます。頑張るのをやめて周りを大切に仲間と暮らしていくのならそこには今までに観えなかった幸せがあります。きっとないものねだりではなく、あるものの尊さに気づいてその刷り込みが取り払われ仲間が次第に集まってくると私は思います。

人間の道を示した仏陀の生き様に安心感を覚えます。そしてそのように生きた小林正観さんのメッセージが有難いと感じます。引き続き、子ども達に遺せる生き方を自らの道の実践で精進していきたいと思います。

内的生産性

先日の理念研修の中で「内的生産性」という話をお聴きすることがありました。生産性という言葉は、産み出す力のことで如何に生産性を高めるかということが組織の課題だとも言えます。一人ひとりの生産性が高まれば高まるほどに組織は生長し、生産性を上げていくことができるからです。

この内的生産性というものは、一般的には「意識」ともいいますが動機やモチベーションのようにも使われます。それに対し外的生産性というものは「行動」であるとし、如何に実践により成果を出していくかというものです。

この意識と行動というものは、一人の中で完結する場合もありますが組織においては役割分担をすることでそれが相補作用を行うこともあるのです。

例えば、ある組織のリーダーがポジティブ思考を持っている人であったとします。するとそのリーダーの意識が全体の組織に与える影響は大きく、失敗を怖がらず成長を愉しみ、また悪いことも善いことへと転換しますからどんな出来事もチャンスに換えて挑戦していくことができるものです。この反対にネガティブ思考を持っている人だとすると、その影響は先ほどのことと逆に事が起こってきます。

先日、ある映像の中で拝見したのはある御店の店長をした方が重度のハンディキャップを持った方でしたがその方の笑顔で周りのみんなが元気になるという御話でした。その方は具体的に身体を動かし外的生産性を産み出せないように見えましたがその人の存在自体が産み出す内的生産性によって周りが動機づけられ相乗効果を産み出しているのです。

この「笑顔」一つが与える影響を観るとき、笑顔が持っている内的生産性の価値に気づきます。自分の意識が与える影響を知る人は、周りを活かし自分を活かすことができる人です。

このことからもわかる様に一人ひとりの意識というものは何よりも重要であり、自分くらいという意識が全体に与える影響は大きいのです。自分勝手に我儘に自分の保身ばかりに視野狭窄になっているとその意識が周りを辛く苦しいものにしてしまいます。貢献というのは、自己内省による克己の実践をすることではじめて共生の価値に気づくものです。だからこそそれぞれ一人ひとりが自分の意識に責任を持つことで生産性というものは確実に高まるのです。

自分が何もできないからやらないのではなく、自分のできることで何でも貢献しようとするその意識、たとえできなくても少しでも力になりたいと発奮し協力して御互いに必要とし助け合い見守り合うからこそそこに確かな行動が生まれ本当の生産性が発揮されていくのでしょう。

だからこそ組織のリーダーは、そう思えるような組織にしていく必要があります。愛し愛し合う組織というものは、御互いを大事に思いやり御互いに大事にしたいと思える居心地の善い場を創っています。

引き続き、内的生産性の価値を深めていきたいと思います。

 

家とは何か

昨日からクルーのみんなと一緒に新潟の弥彦村に来ています。弥彦神社に参拝し、宝物館をはじめ百年以上続く古民家を見学したりと「いにしえのえにし」を直感しながら過ごすことができました。

私は初代当主を名乗った数年前から「家」とは何かと考え続けています。歴史を鑑みて代々家が繁栄し続いていくところと、すぐに家が廃退してしまうところがあります。その違いは一体何か、それを見極めるためにも古きよきものに触れ学び直しています。

今回は少し今まで気づいたところまでをまとめてみようと思います。

永く続く家というものは、徳がある家とも言えます。代々、徳を高め徳を譲り徳が遺るものが永く続く家の特徴です。家が廃退するというのは、目にはみえない徳が廃退することに似ています。如何に自らに与えられた徳に気づき、その徳を活かすか、そしてその徳を伸ばしていくか、それはその代の生き方に懸っているとも言えます。

そして今の自分の徳を思うとき、その徳はどこから来たものか、それは先祖の丹精であることに気づきます。ご先祖様の皆様が、その代その代をもって一生懸命に世のため人のためにと自分のいのちを周りに役立てていたとも言えます。その苦労がみのり、今の代に種から芽が出て花が咲くように繁栄が訪れているとも言えます。

以前、幸田露伴の幸福の三福のことをブログで書きました。徳とは福のことで、福を如何に使い切らないかということが書かれていました。同じく徳を如何に使い切らないか、言い換えるのなら如何に自分が日々に徳を積み続けていくかということです。そういう徳を重んじる生き方、二宮尊徳はこれを報徳とも言いましたが先祖の御恩に感謝し、先祖の徳に報いるように自分の代を盡していくことが継承していく真理であろうと思います。

そして家とするとき、もっとも大切なことは「火を絶やさない」ということだと私は思います。その火とは何か、火は一つのもので謙虚と傲慢を顕します。人が己に負け傲慢になるとき、その欲望が業火の如く顕れ焼きつくしてしまいます。しかし人が己に克ち謙虚になるのならその火は、世の中を光り輝かせ照らす美しい火となり心を癒していきます。

比叡山延暦寺の国宝根本中堂に1200年絶えたことのない火があると言います。常に菜種油に4~5本の芯をつけ火が灯り続けています。この油を一瞬でも絶やせば火が消えることから ”油断するな” という語源が生まれたそうです。

この「油断するな」とは、いったい何を油断するなということなのか。

それは初心に対する情熱を決して絶やすなということだと私は思います。家の存続は、この「油断するな」の一言に尽きると私は思います。どんな時も、理念や初心を忘れずに日々に実践し続けることを怠らなかった家は何百年何千年と火が絶えません。

火は己自身ですから、その火を消すのも灯すのも自分次第です。

家を守る人は、どんなことがあってもその火を守り続けていくのでしょう。血筋がどうこうではなく、火を守れるかどうかが当主の資質です。未来の子ども達のためにも、1000年、10000年と続く家を興せるように真摯に今生と向き合っていきたいと思います。

実践の意味

昨日、永い間お会いしていなかった方とお会いすることができました。もう16年ほど前にご一緒してから、何度かご連絡したのですがすれ違いようやくお会いすることが出来ました。

ずっと永い間、お会いしていなかったものの会ってみるとすぐに懐かしく心が温まる有り難いお時間をいただくことができました。あの頃には分からなかったと、あの頃にはこんなに近くて同じ方向に向かって御互いに一生懸命であったことなど気づきませんでした。

お会いしてみると、子どものためにどれだけ深めてきたのか、また社会のためにとどれだけ盡してきたのか、どれだけ実践を積み重ねたのかが全身全霊の感覚で伝わってきて有り難く嬉しい気持ちに包まれました。

ご縁はとても不思議で、立場がどうであっても志が同じくしている人との出会いは本当に仕合せです。論語に、「遠方より朋来る・・」がありますが御互いに実践していることを学び合い語り合えれば瞬時に仲間であることを思います。改めて、学問の醍醐味に感謝します。

昨日印象深かった話に、レッジョエミリアの保育の話です。これを現在は、レッジョ・アプローチというが、実際はレッジョ・インスパイアであるということ。つまり、イタリアを真似ても意味がなく自分で実践してものにしていかなければならないということです。

自然農を実践していく中で、私も試行錯誤して取り組んでいますが真似しようとすればするほどに真似できず、何回やっても同じようにはなりません。その時、自然農の川口由一先生にどうしたらいいのかと尋ねると「田に独りで立ちなさい」と言われたことがあります。

その時から私は「田に独りで立つ」と覚悟し、自分で実践して咀嚼し自分で味わい自分でものにすると決心して今でも取り組んでいます。教科書があるのではなく、誰かが教えてくれるのではない。自分で学び自分で感じ取るものが本来の姿なのです。そのために教えてくれる先生は自然、自然から学び直し自分の中にある知識を削除していく作業をしていくのです。

昨日のお会いした方が「やるからこそ課題が観える、やるからこそ本では得られないことができる。そういう世界で生きている、臨床とも言う。子どもと向き合うのが仕事であれば、子どもに向き合ってみないとわからない。実践の意味はそこではないか。」と仰っていました。

人はやりもしないのに分かるはずがありません、それは知識や頭で分かったものは所詮分別された単なる切り取られた部分であって全体を掴んだわけではありません。コツを掴むこともなく、頭で知っただけでは焦りばかりつのって実際には現実がカタチになりません。

だからこそ分かった気にならないでいるには「実践する」しかないのです。実践というものは知識とは違って「積み重なる」ものです。つまりは集積していきます。ある程度、実践が集積すればその時からはそれが現実の世界で活用できる智慧に変化します。

知識を智慧に昇華するには、場数しかなくトライアンドエラー、そしてまたフィードバックという回数を徹底するしかありません。量がある一定の量を超えるまでやるということですが、質はそのあと自ずから転換されていくように私は思います。

どんなに大変であっても実践を怠らない理由はそこに在るのです。本来の力とは継続のこと、継続とは自分に打ち克つこと。そういう実践をするもののみが、現実の世界で真実を継承し次世代へ伝承していけると私は信じています。

改めて始まった御縁から、色々とまた御役に立てるように関わっていきたいと思います。御縁は本当に何度も何度も容を変えて、機会を得ては顕れますから感謝の心で引き続き精進していきたいと思います。

職住一体

町家の再生をしていると職住一体という言葉に出会います。今の時代は職住を分けて生活をしていて、よくビジネスとプライベートは違うという言い方をします。特に最近ではメリハリをつけてというように、あくまで仕事は仕事、私生活は私生活というように分けなければ問題になっていたりします。

しかしかつての私たちの先祖はどのように暮らしてきたか、それは生活の中に仕事があり、それが分かれていたことはないとも言えます。今のように金融を中心にした社会が形成されると暮らしや生活のみが切り離されて働くことだけになってしまうのかもしれません。日本人はよくエコノミックアニマルと海外では称されますが、これは働くだけで暮らしをしていないという言い方をされていることです。

改めて職住一体について少し深めてみようと思います。

そもそも職住一体とは何か、昔でいえば農家や商人などは暮らしの中に仕事がありそれを分けることなどありませんでした。農家であれば土間を使って仕事をしたり、農作業を共にする馬や牛なども家の一部に一緒に住んでいました。また商人についても、店先というのは路地側のところを開放しそこで商いを行い家の奥の方で暮らしを営んできました。本来人は、暮らしを立てるために農を行い商を行ってきたのです。

昔は大切な守るものがあって、それを守るために暮らしを立てていました。本来の守るものとは、それまでの先人たちの生き方であってそれが暮らしを通して伝承されてきたとも言えます。それが今は間違った個人主義が蔓延し、自分さえよければいい自分のことだけでいいと、守るものは自分となってしまう風潮もあります。

家というものを守るというのは、単に家系を維持すればいいのではなくその家の理念や初心を守っていくということです。その一つ一つの暮らしの中に、その家の理念が隠れているとも言えます。家を感じるとき、暮らしを見つめるとき、私たちはその先人の理念に触れているのです。

職住一体というのは、自他一体と同じく分かれていないところに立ってみて気づく境地でもあります。どんな理念を築き上げて、どんな理念の実践をしていくか、それが家の定義なのです。

家になるというのは、理念を実践する家族や仲間と共に暮らすということです。一家の一員として、如何に理念をカタチにしていくか、生き方を見つめ働き方を改善していくか、それが職住一体ということだと私は思います。

引き続き、家としての本命を深め新たな暮らしを温故知新するため毀すものは迷わず毀し、日々新たに創造していきたいと思います。