ルーティンの意味

世間一般の大まかな職業というはある程度の仕組みを構築すると、同じような業務を繰り返していくようにできている。

カグヤでも、同じように日々の同じような仕事に打ち込んでいる。

その中でも、つい世間で言うONOFFを使い分けて気を抜くとあっという間に何も考えないような「単なる作業の繰り返し」になってしまい自分が初心で定めた本懐を忘れて流されてしまうことがある。

繰り返しの中に、日々、本当に「内省」して「感謝」までできているかということまで自然に問えるほどの習慣になるにはやはり信念や理念がちゃんと育って立ってないとできないのだなとつくづく思う。

自立できて自らで律して命を使えるようになるという定義は、きっとそういうことも普段からできているから独り立ちできるのだと改めて思う。

孟子にあります。

「孟子曰く、之を行うて著らかならず、習うて察らかならず、終身之に由っても其の道をしらざるは衆なり」

孟子は言う、「実行しながら自覚しない。習慣となっている行為の意味を考察しない。一生涯これによって生活しながら、その道理を知らないのがふつうの大衆である」 (孟子 安岡正篤 著 PHP文庫より)

本来、人生も仕事も日々のルーティンワークになっていることこそ派手な結果を求めるよりも丁寧に、そして大事にしないといけないと私は思う。

内省とは、何を大事にしていたかを絶対に忘れないと心に誓い、日々そのために自分を変えようとする強い意志がなければそれは意味を持たないし、本来の道の上にある成果もでないことになるのだと思う。

成果というのは、結果をどうこうで日々自分を慰めたり言い訳するためにやるのではなく、本当に一期一会に自分のやれることを全部遣り通した一日だったかと本気で自分へ矢印を向け感謝することから始まるものだと私は思うのです。

それは一歩一歩を深く噛み締め味わいながら、「自分が今日は何が新しく変われたのか?」を自分へ問うのだと思います。

研修や講演などで自分を高めることも、新しい大きなことを学ぶことも大事だけれど、それよりも私はやはり理念を基盤に如何に日々のルーティンの実践で自分の本当にやりたいこと遣るべきことが自分で評価できたかということなのだと思う。

教育や保育に直接職業的に携わっていたり、世界の子どもの未来に深く関わる大人はやはりどこか英国の騎士道のようなノブリスオブリージェが必要なのだと感じる。

やはり自問自答するとまず最初に自分の生き方の襟を正すことだと思うのです。

だからこそ、その刷り込みにさらわれない様に初心や理念に立ち返り、自分が本当にやっていた設計図のミッションが何か?そしてそれはみんなで本当は何を目指したのか?その本質的な志で仕事をしたか?と日々本気で「内省」し、自分を振り返り、よし明日もまたやるぞ!とエネルギーを充填していくのです。

子どもたちのこれからの未来を考えると、世間が無機質にアミューズメント的にただ面白ければいいや脳が求める浅い欲ばかりに大衆の目を向けさせる現代社会において、それぞれに揺るがない自分の使命を感じ、不動の心を持って本当に自分たちがそこで大事にしたものが何かを常に考えられる人になってほしいと願う。

世界はこれから激しく、古きもの、新しいものが再び大衝突するときが来る。

その時に、新旧の中から自分にしかできない古道が示す先人の求めた正しい道を歩んで学び、人類の本当に遣るべきことを使命感を持って守っていけるような平和で豊かな社会を創造してほしいと思う。

まずそのためにも、今の自分たちが何世代も越えても伝わってきた今の目下の仕事を深い意味を味わい噛み締め、変化を重んじ、奢らず謙虚に丁寧に実践推譲していこうと誓う。