一を以て貫く円

教育界だけとはいわず世の中にはたくさんの偏見がある。

たとえば、先生と呼ばれる人たちは先生であるがゆえに周囲よりも自分が高く見てしまうことがある。医師などもそうだが、次第に目線が高くなってくる。

周囲がそう思わせていくこともあるのだと思う。

そしてそれが肩書きの量などで余計に増えていく。
それを偏見というのかもしれない。

本当に不思議だなと思うことがある。

たとえば、利益を出す会社員は世間では「業者」と呼ばれる。出入り業者という言葉もある。そして出入り業者という言葉があるから出入り禁止という言葉がある。それは、何か出入りを禁止するという絶対拒絶と脅しのようなものを意味するのだろうと思う。

きっと片方の立場が強いからその言葉を使う。
もしも平等ならば、お互いに話あってしかるべきものなのだと思う。
そうなると「お互いにあわないから仕方がなかったね」となるのだと思う。

そうやって得てして出入り禁止などと伝える側を洞察してみると、民間ではなく官僚の方がよく使っている言葉であることは見ていると分かる。

常に何を背にして話をするかで話し方というのは変わってくるものかもしれない。

たとえば、官僚や先生は研究者を重宝する。具体的な研究をしているからその知識を教授いただくためにいろいろと媚び諂うことがある。これも私の偏見といわれるかも知れないがたとえばこの教育業界は「研究者」という肩書にとても弱い。

最近ある現場で実感したけれど、単なる社長という肩書よりも研究者とした方が評判が良くなるもの確かだ。

そう思うとき、如何に人は話をきちんと自分で咀嚼し、その人の風格や人格を確かめず、その人のそのままの存在を認めるのではなく、肩書きのみを判断して物事を評し喋ってしまっているかがよく分かる。

昔、二宮尊徳が農民の立場でたくさんの人たちの心田を一人で耕した。
肩書きもなく、実践のみで世の中のたくさんの人たちを救った。

宋代の碩学・張横渠にある。

天地のために心を立つ
生民のために道を立つ
去聖のために絶学を継ぐ
万世のために太平を開く

という言葉がある。

真に、いろいろな人間がいても自分を鼓舞し大志を貫徹する人は、評されることには微塵も動ぜず、常に偉大な思想と自らに捉われない泰然としたものが備わっているのだろうと私は思う。

今も昔も、人間のそういうものの見方、偏見はあっただろうにと思うと不動の覚悟が備わっていた二宮尊徳を心から仰ぐ。

成田山での断食直後、二宮尊徳の詠んだ詩にこういうものがある。

「打つこころ あれば打たれる 世の中よ 打たぬこころの 打たるるは無し」

私は、まだ自分が揺れ動き乱されることがある。きっと無意識にもどうしてもどこかで人を打つ心を持っているのかもしれないと猛省させられる。

立派な人は多くの人たちに触れていく中で、物事を正しく観て取る人は人間を評するようなことはしない。そして人間はいろいろあるのだから、それをそのまま受け容れていくような寛大な器がそこにある。

古人の聖賢は皆、そういうものが周囲にあったはずだし、その中でも道を志して道に恥じない生き方をなさっていたはずだ。

どんな時代でどんな生き方があったとしても、偏見を持たず、人としての思いやりを貫けるようなものを持つことは何よりも大事なことなのだと思う。

最後に、そうやって私のように揺れ動いてしまう偏見の世の中にあってもとても勇気が戴けることがある。

それは、同じような志を持った同志や朋が誰が何と言おうと自分にしかできないことを貫き、この国や子どもの将来のことを憂い、ともに歩んでいると実感する至上の邂逅の時間だ。

論語にある。

子曰わく、学びて時に之を習う、亦よころばしからずや。
朋遠方より来る有り、亦楽しからずや。
人知らずしてうらみず、亦君子ならずや。

(孔子が言われた、聖賢の道を学んで時に応じてこれを実践し、その真意を自ら会得することができるのは、なんと喜ばしいことではないか。共に道を学ぼうとして、思いがけなく遠方より同志がやってくるのは、なんと楽しいことではないか。だが、人が自分の存在を認めてくれなくても、怨むこともなく、自ら為すべきことを努めてやまない人は、なんと立派な人物ではないか。)

私は、まだまだ未熟で人々が偏見を持たれるほどに自分の行いが至誠に通っていないのだろう。特に、肩書きを持っている人たちや教師、先生といわれる人たちから立場や肩書で人間を評されてしまうと尊敬したいという自分の感情を優先してつい腹を立ててしまうことがある。

しかし、子どものためを本気で思い、子どもの声を命を以て聴き届けるならそういうものもすべてまるごと受け容れてそれよりも先にある貢献のために自分を使っていくことを第一にすることが何よりも自分には必要なのだと真摯に思う。

これからも子どもたちがそういう偏見で物事を評するのではなく、いろいろな物事、出会う人々の中でも、一円観を持てるような人たちになれるように私の実践を以て社業を邁進していきたい。

感謝。