先住民族の智慧

昨日からカナダのバンクーバーに来ています。私はまずはじめて入る国には必ず歴史がどうなっているのかを調べる傾向があります。これは成り立ちを知り、原点を理解し、今を観察するのが好きだからかもしれません。

歴史を学ぶということは、その国の生い立ちを学ぶということです。これは人間も同じく、生きていて今何かをするのは必ず意味がありますからその意味を紡いでいくためにも私は歴史を学ぶことではじめて観光の意義があるように信じています。

このカナダという国は、もともとファーストネーションズと呼ばれるネイティブインディアンたちが何万年も前から住んでいた場所でした。またインディアンという名前は、1492年にアメリカ大陸にやってきたクリストファー・コロンブスがそこをインドと思い違いし住民を”インディアン”と呼んだのが名前の由来だといわれます。

またカナダという国名の由来は、1535年ふたりのインディアンの若者がフランスの探検家ジャック・カルチエに「カナタ」への道を教えたことが由来だといいます。「カナタ」は、ヒューロン・イロクォイ族のことばでは、単に「村」や「村落」のことをさすものでした。しかし、別の言い方がなかったために、カルチエはスタダコナ(現在のケベック・シテイにあたる地域)の呼び名としてだけではなく、種族の酋長ドンナコナの土地全体を「カナダ」ということばで呼ぶことになったといいます。そののち1547年の地図では、セントローレンス川の北側全体が「カナダ」と示されそれから全域がカナダとなりました。

こちらでは、先住民のことをネイティブカナディアンともいうそうですがこれも後から来た人たちがつけた名前です。本来は、その土地に住んでいた人たちの場所を奪い国家を樹立するという話はここの国だけのことではありません。日本でもアイヌの人たちのように歴史をも改ざんされた民族もあります。変な話ですが、国を占領した後は先住民を同化政策と称して自分たちの国民になるように教育します。

カナダの「先住民の同化政策」は19世紀にカナダの先住民の子ども達約15万人が教会の運営する「寄宿学校(residential school)」に強制的に入学させられています。そして当時、カナダ政府は先住民を教育するのは自分たちの役目だとし、先住民の子ども達に独自の言語などを禁止させ、英語を話し、キリスト教を信仰するように強要したといいます。1990年代には、多くの教会が先住民に公式に謝罪をして2008年には、当時の首相スティーヴン・ハーパー氏が正式に謝罪をしています。

今更ですが、その国の文化や言語を奪うことを同化政策といって迫害をしているのはすべて後からやってきた人たちです。自然の征服と同様に人類は、動植物や森だけではなく同族の人間であってもすべて占領し征服し洗脳して管理しようとするのは歴史が証明しています。

結局は、イギリスとフランスとの争いからアメリカも入り、今でもその時の問題が政治問題としていくつも課題が残っています。第一次世界大戦、第二次世界大戦によって国家というものができた例はこのカナダだけではありません。

国家というものができる背景には、必ず侵略や征服、戦争が関わっています。先住民族たちは、国家というものがなくても文化を進展させ文明とも上手に付き合い、それぞれの居場所で持続可能な暮らしを維持してきた人々です。

今それをやれとは言いませんが、そこから私たちは大切な考え方や生き方を見習う必要があると思います。なぜなら、長い時間、その場所を大切に守りながら破壊せず、自らの暮らしを守ってきた先達たちだからです。

今回、機会があれば先住民たちの暮らしや文化を学んでみたいと思います。そこから子どもたちに譲り遺したい智慧を伝承してみたいと思います。

有難味

人間は様々な体験を通して「有難味」というものが分かるようになってきます。特に艱難辛苦の出来事に出会う時、人はその中で多くの方々に助けていただいていることに気づき人の有難味がわかります。

この有難味とは、文字の通り苦労の味わいが分かってくるということです。この苦労は単なる労力的な苦労ではなく、親の有難味や友人、ご縁、仲間の有難味といいように存在価値や値打ち、その尊さのことを言います。その尊さとは「存在価値」のことです。

関係がどのようなものであっても、出会ったことがあり、いや出会っていなくてもそこにその人の存在があるから救われるという事実。救われることで私たちはその有難味の存在に気づき、感謝の深い味わいに気づける人になるようにも思います。

人の有難味が分かるようになるというのは、感謝の味が分かるようになってきたともいえます。それは言い換えるのなら、存在価値の味が分かってくるということです。

お互いの存在価値を知るのなら、ご縁というものは何よりも尊いものであることに気づきます。そしてそれは自分というものの存在価値にも気づきます。自分の存在は存在自体で誰かのお役に立てるということ、そしてその存在が感謝の味わいを深くしていくということ。

私たちが生きているというのは、お互いの存在価値を噛みしめていくということなのかもしれません。価値は、何かをしてもらったかどうかではなくその人がそこに居るという価値。そしてその人の生き方で何かをするときに価値が出るという価値。この価値は、何物にもかえがえたい生きているだけで輝く価値でもあるのです。

活かされるというのは、自分の存在価値に気づき、周囲の存在価値に気づくときにこそ顕れるものです。人の思いやりややさしさ、ぬくもりや愛情、いただいたものをさらに感謝で磨いてこれからの恩送りに邁進していきたいと思います。

森の神様

昨日からフィンランド東北地方のクーサモ町にあるイソケンカイステンクラブに来ています。ここはサウナの本場、フィンランドの中でももっとも王道のサウナを提供するキングオブサウナと呼ばれる完全なるスモークサウナです。

フィンランドのサウナの品質を管理する協会「Sauna from finland」から、本格性、清潔性、リラクゼーション性などすべての項目をクリアした品質証明書も授与されているフィンの伝統のおもてなしを体験できる場でもあります。

私はここのサウナマスターからサウナの本質を学び、本物を体験するためにここまで来ました。サ道のタナカカツキさんにして、「ここが一番のスモークサウナ」であると紹介され遠路はるばると来てみるとまさにこれ以上のものがあるのかと心から感じ入りました。

確かに日本のサウナの聖地と呼ばれる「サウナしきじ」も湧き水と温度、利便性など日本人の水との邂逅に感動しましたがこのイソケンカイステンクラブはもう完全に異質です。

一言でいえば、「森の神様が宿る」サウナといってもいいかもしれません。

かつての私たち古来の日本人は、場に神聖なものを見出してきました。神社の清浄な場にいけば心が洗い清められます。同時にあらゆるものを五感で感じて、精神が研ぎ澄まされていきます。それを「杜」とも言います。そこには必ずご神木があり、私たちを永遠に見守ります。

ここの伝統のスモークサウナはまさに、杜で感じるものとまったく同じものがありました。美しい湖、この一帯がまさに神様の澄まう杜でありここで火や水、土や風、日や月、星々などが見事に調和されまさにその中心に「サウナ」があるのです。

大げさに思われるかもしれませんが、私は「場」を研究する場道家です。様々な場を学び、古来からのイヤシロチを創造することをライフワークにするからこそ感じるものがあります。

3年前に、この5つ星を超えた「7つ星」の場をここまで磨き上げたお父様がお亡くなりになり、今ではその娘さんたち2人の姉妹で家族運営されていますがお話をしているといつも身近に父の存在が見守ってくれているのを感じると仰っていました。

その遺志を継ぎ、ここに森の神様と共にフィン人の魂がキングオブサウナになって生き続けていると思うと不思議な奇跡を想い、とても有難く仕合せな気持ちになりました。

私も帰国後、日本人の魂が生き続ける浄化場サウナを建造しますがここでの貴重な体験を活かして先祖に恥ずかしくないように磨いていきたいと思います。子どもたちに、言葉ではなく心身精神すべてで伝承されていくような場を譲り未来への希望の糸を紡いでいきたいと思います。

ありがとうございました、ご縁に感謝しています。

 

暮らしの豊かさ~フィンランド~

私は古民家甦生を通して暮らしの甦生に取り組んでいますが、世界では暮らしに寄り添いながら文化を高め続けている国がいくつかあります。今回は、あるご縁からフィンランドを深めることになっていますがこの国はとても暮らしを大切にしながら人格を高めている国であるようにも思います。

もともとの原点に何を据えていくか、時代が変わってもむかしからの大切な普遍的な伝統と現代の発展との調和は今を生きる人たちの生き方に現れてきます。この国は、シンプルで豊かというイメージがぴったりで暮らしを味わいながら今の世界に上手く調和している感じがします。

昨年と今年の世界幸福度ランキングでは、他の変化のない国々の中で堂々の1位になっていました。外来人口に対する対応なども非常に親切であることや差別がないことなども影響があったそうです。暮らしが充実するからこそ、幸福度もまた充実するのだろうと私は思っています。日本の暮らしも以前は、とても質の高いものがありました。現代はほとんど暮らしが消失してきていますからどうしても幸福度は高まりません、日本は現在は25位だそうですが、比較するのではなく暮らしの質をもっと高める必要性を感じています。

フィンランドは福祉国家ですがIT技術も最先端を進んでいます。最近では政府が地元スタートアップとともにブロックチェーンを活用した難民向け金融・社会支援を開始したほか、国連がブロックチェーンを活用したプロジェクトを開始しています。近くにあるエストニアと合わせてこの二つの国は、新しい技術を使い自分たちの世界を広げ注目をされています。

また男女平等では110年をかけてその社會を構築し、工芸品、教育制度、安全面、汚職の少なさ、報道の自由、すべてにおいて世界の最高峰に達しています。

人口は550万ほど、国土は日本と同じくらい。実際の経済規模は小さくても一人当たりGDPなどを見ると豊かで自由な民主主義国です。そしてOECDレビューにおいては「世界で最も競争的であり、かつ市民は人生に満足している国の一つである」と2014年には報告されています。

フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っているのです。

大自然豊かで、芸術、伝統、文明すべてにおいてバランスよく取り入れ発展を続けています。精神文化も、日本と同様に八百万の神々を信じあらゆるものにはいのちが宿っているという思想も持っています。

国民の人格が国家の国格でもあるように私は思います。私が生まれる前の明治前後の日本を私はこの目で見たことはありませんが、きっと今のような雰囲気だったのではないかともこの国にきて直観しました。

どのような発展の仕方があるのか、そしてその国家理念は何なのか、そこに住む人々の歴史や生き方を学び直しながらその国の宝の磨き方を、日本の子どもたちの未来のために一緒に深めてみたいと思います。

 

共育

自然農の田んぼでお米作りをしていますが、お米の育つ力を信じてどれくらい手を貸せばいいのかに気づくのに何年もかかりました。具体的には、こちらが育てるのではなく、相手だけが育つのではなく、如何に一緒に育っていくか。こういう視点が持てるようになるのにとても時間が必要だったように思います。

育て方や育ち方などのマニュアルは多く出ていますが、「一緒に育つ」というものの考え方はまだ少ないように思います。

本来、生き物は信頼しあい信用し合うことで「共に育つ」ものです。

共に育つからこそ、はじめてどこまで手を貸せばいいかわかり、どこまで見守ればいいかもわかってきます。たとえ、出来が悪くても一緒に育ちあってきた時間はかけがえのないものです。

現在の価値観は結果重視ですから、結果や成果が悪いとすべてを台無しのように扱うものです。しかし実際は不出来であろうが、見た目が悪かろうが、一緒にいのちを燃やし、一緒にご縁を結び、一緒に思い出を共有し合った仲間であり、家族である事実は変わることはありません。

本当の意味での仕合せや喜び、豊かさはこの共育なかにこそあります。つまり古来からの教育とは共育ということでしょう。

自然の仕組みを先生にして私は教育を語ります。私の教育の考え方は、大学で論文を提出して博士になったわけでもなく、世間から評価や名誉をいただいているわけではありません。しかし自然がそうなっているものを学ぶのは、古来から人類の学び方の原型であり、その原点を基準にして今の生き方に反映させていくのが学問の醍醐味だと私は思っています。

教育者ではないのに教育者を語る不届き物かもしれませんが、実際に生きものが「育つ」という真理は、教育者が育てたのではないと私は思うのです。つまり一緒に育ったのです。その育つものを育てたものがもしもあるとするのならそれは「場」が育てたのであって教育者が育てたのではないのです。

そんなことは自然農で稲をつくってみれば必ずわかります。

引き続き、保育の仕事をするからこそ本質が何か、自然がどうなっているのかを子どもたちの傍で伝承していきたいと思います。

苦労の本体

昨日、自然農で収穫したお米の稲架け(はさかけ)を行いました。これは古来からある伝統的な方法で現代では人工的に機械で乾燥させるため見かける機会も減ってきました。

稲刈り直後のもみは約20%の水分を含みますが乾燥後のもみの水分は15%程度まで減少するため脱穀・調製やその後の貯蔵にとても効果があります。さらにこの稲架けの乾燥方式はお米の品質に及ぼす影響が大きいといわれ普通20~30日かけてゆっくり十分に乾燥させると品質、味覚がよい米に仕上がるといわれています。

また「はさ」の意味は、 挟(はさ)むの意とされています。今回は、長い竹を切ってそれを木に吊るし、その竹に一束ずつ藁紐で縛った稲を真ん中から広げてそれを竹に挟んでいます。

以前、稲架けしたときに雀が大量に飛来してきて食べていったので今回は釣り糸を用いて対策をしています。

次第に乾燥して色合いが変化し、黄金色の稲になっていく様子は格別です。また田植えから草取りなどを仲間と一緒に苦労し合ったことが懐かしく思え、この稲架けをみるたびに心が豊かに満たされていきます。

現代の農法は、ほとんど機械を使って一人で大量に生産します。私の自然農は、機械は一切用いずに肥料も農薬も一切入れませんからすべて手作業です。この農法は実際にはかなりの手間暇もかかり苦労ばかりです。

しかし一緒に取り組んでくれている仲間との豊かな思い出や、見守ってくださっている協力者のお陰様を身近に感じ、食べ物の大切をさを学び、自然の仕組み学び、生き物たちの共生と貢献の姿に癒され、水や太陽の恵みに感謝し、季節のめぐりの有難さ、五感で味わうお米作りの喜び、心の安心と安堵感、生きていくための智慧、お米の持つ偉大な力、野生のしたたかさ、風の持つ価値、土の魅力、まだまだきりがないほど出てきます。

苦労というものの本体は、一体何なのか。

苦労とは、いのちの味わいを与えてくれるものかもしれません。いのちが何を味わいたいと思っているのか、そして味わったことで感じる自分のいのちの仕合せは何なのか。

私たちは活かされているということを結局は学び、生きることを味わうことをやりたいのです。人間や人類は、この世にきてとても大切なことを忘れないために存在している生きものなのかもしれません。

だからこそ、どのような生き方をするのかは生死を度外視しても必要不可欠なもののように思います。一瞬一瞬、一期一会にこのいのちを大切に苦労していきたいと思います。

ありがとうございました。

自然の智慧

昨日、自然農の田んぼの稲刈りを行いました。東日本大震災からはじめていますからもう8年目になります。

私はほとんど出張や東京にいますからあまり田んぼに出ることができません。一般的な農業をされる方々は、家の近くの田畑の手入れをしているものです。私のように遠隔で田んぼに関わるというのは、本来は無理なことへの挑戦です。

誰もができるはずがないと思われることに挑戦することは私の生き甲斐であり遣り甲斐です。

他にも暮らしの甦生に取り組み、古民家甦生と年中行事を行っていますがこれもまた東京と福岡を行き来していますから旬を逃さずに取り組んでいます。

最初は無理で不可能だと思っていたことでも、挑戦する範囲が増えれば増えるほどに取り組みそのものが有機的につながってきます。それは仕事の進め方や取り組み方、時間の使い方、もっとも効果があるものへの集中、周囲の力を活かすこと、タイミングを外さないことなどあらゆることが重なりあってきます。

一つの事だけでも大変なのによくそんなにといわれますが、多くのことをやるからこそ一つのことを維持しなければならないということもあるのです。

人生は一度きりですし、一期一会です。自分の心が決めたことや自分の初心が忘れたくないことを現実の世界で応援できるのは最も身近にいる自分自身であることは自明の理です。

だからこそできないとすぐに諦めるのではなく、どうやったらできるだろうかと可能性を探り挑戦を続けていくことが自分を信じるということになります。そして多くの失敗を通して何度も何度も挫折しますが、その都度にそこから学ぶものは何だったかと学問を深める豊かさや喜びも得られます。

特にこの8年、多くの人たちが関わりそして去っていきました。まるで旅のように、その時々で出会いと別れを繰り返し今も私は道を歩み続けています。

昨日は稲の収穫をしましたが、当然無肥料無農薬で機械も一切使っていませんから虫に食べられ、雑草に追いやられ、イノシシにも少し荒らされ収量は世間の農家さんの田んぼを比較するととても少なく微々たるものです。

しかし収量は度外視するのなら、これだけ豊かな田んぼはあるのだろうかと感嘆を覚えます。自分のことだけを考えて収量を増やすのではなく、虫たちや野草たちと一緒に生きていく中でみんなが分け合い、残ったものを私たちが食べるということ。自然でいえばすべての循環を邪魔するのではなく、循環の豊かさを維持しながら生きていけるという仕合せ。

この時代の人間観では収量が少ないことは貧しいことかもしれませんが、絶対的な自然界では分け合い生きる共生と協働の世界は収量がたとえ少なくても豊かなことです。

いのちというものは、必ず死を迎える日が来ます。生きている間だけ富を独占したり、収量をこれでもかと根こそぎ奪い取ったりしても自分のものになるのはほんの少しの間だけです。そんなことをしても、自分の代は贅沢できたと思っても、子孫という永く継承されていくいのち全般を観たら収量はいつも一定であるのは誰でもわかります。

たとえば老舗企業が500年かけて稼ぐ金額と、新興企業が10年で稼ぐ莫大な金額は時間の問題だけで500年の軸で換算すれば総額はほとんど同じなのです。

だからこそどれだけ長い目線で物事に取り組むかが自然の智慧を上手く取り入れることであり、人類が永く生き残るための仕組みになっていくことと歴史を鑑みればそれがよくわかります。

私の取り組む自然農も、暮らしも、これはすべて生き方のことを言っています。

子どもたちに譲り遺していきたい智慧を伝承していきたいと思います。

煙の智慧

スモークサウナを深める中で、燻製のことを書きましたが同時にそもそも煙とは何かということを考えてみる必要があります。私たちは煙というものを見ても、それが一体何の煙であるのか、煙はどうなるのかを考えることが少ないようにも思います。

身近では焚火で出る煙、たばこなどの煙、車の排気の煙、火事の煙、工場の煙、他にもお灸の煙、お香の煙、蚊取り線香の煙など煙にも色々とあります。その煙は、見た目は同じに見えても実際に排出されているものはまったく成分が異なります。

煙は一般的には不完全燃焼によって発生した固体や液体の微粒子を含んだ空気のことを言います。煙は気体だけではなくそこには煤をはじめ個体や時には液体も混じります。あまりに微粒子過ぎて目には観えませんが煙になってそれが空気と合わさって広がっていきます。完全燃焼して煙が見えないときも、実際にはその微粒子は空気に広がっています。

黒煙や、濁った煙がでるときそのものは不完全燃焼しています。この不完全燃焼とは空気中の酸素が足りずに炭素とうまく合体できない状態ことを言います。炭素は酸素と合体すれば二酸化炭素になりますが酸素不足になるから一酸化炭素になるのです。そしてこの一酸化炭素が有毒の気体になりこれが窒息死などの原因になります。

人間は酸素を吸い続けなければすぐに死んでしまう生きものですから酸素不足になればすぐに呼吸困難になるということです。

二酸化炭素はCO2で一酸化炭素はCOですから、酸素Oが足りていない状態が一酸化炭素ですからその酸素を求めている状態が不完全燃焼を示すのです。

むかしの家は隙間だらけでしたから囲炉裏や竈があっても一酸化炭素中毒になることはありませんでした。しかし今の家は、気密性が高くほとんど魔法瓶ですから窓を閉め切った状態で火を熾せばすぐに一酸化炭素中毒になってしまいます。

そして煙には無色透明なもの、白いもの、黒いものがあります。完全燃焼すれば無色透明ですがそれでも煙は出ていることになります。そして白いものは湯気のように水分です。黒いものについては炭素の微粒子です。つまり湯気が液体で炭素は個体なのです。スモークサウナでいえば煙は炭素で、蒸気は水分ということです。

煙の中の炭素の中には、カルボニル化合物やフェノール、有機酸などあらゆるものが含まれます。その成分が防腐効果や殺菌効果なども発揮します。つまり有毒のものであっても使い方次第では、燻製にするための材料にもしたのです。

万物には、善悪があるように一長一短がありますし使い道次第では効能もあれば害毒もあります。

むかしの人々はそれをよく観察し、上手く暮らしに活かしたところに深い智慧があるように思います。引き続き子どもたちのためにも、残したいもの譲りたいものをうまく建築や仕事に取り入れて伝承していきたいと思います。

炭好き

私は個人的に炭が大好きで、炭オタクのように言われています。炭の魅力は言い尽くせないほどで、ありとあらゆるシーンで私は炭を活用しています。特に炭火については暮らしの中心に据えており、炭火があれば暮らしは必ず豊かになると信じています。

そして今度、炭火を活用したサウナに初挑戦するためフィンランドのキングオブサウナと呼ばれるスモークサウナを研究してくる予定です。

そもそもサウナの原型であったスモークサウナは、紀元前からずっと続いていたものですが20世紀に入り薪の燃焼によって排出される煙を煙突から逃がすサウナストーブの発明や、煙の出ない電気サウナストーブの設置が主流になりそのほとんどが消えていきました。日本でも、洞窟や石窟内での蒸気浴が主流でしたがそれがお湯を貯める風呂になり今ではほとんど消えています。

私は何をはじめるのにも原点や原型にこだわるタイプで、そのもののはじまりに道理や真理、そして自然の摂理や意味を深めます。その理由は、はじまりがあって発展し、それが終わりを迎えるからです。簡単に言えば歴史を学ぶことで、そのものの本質をつかむことがまず先でそれができればあとは自由に設計することができるからです。

学ぶというものは、単に知識を得るものもありますが物事の本質を深めるというものもあります。知ったかぶりといわれないように、そのものの歴史を学び直し、謙虚に自分の知識が智慧に及んでいないことを体験することで自然への畏敬、科学や発明への尊重が産まれます。

物づくりは物のいのちを扱う仕事ですから、何よりもその取り組みの姿勢にこだわるのが私の流儀なのです。またこんなことを書いていると宗教とか変人とか言われますが、「物が語る」ということを聴くことが如何にたいせつなことか、先人たちの生き方を子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

話を戻せば、石を温めるというのは後程紹介しますがまず煙という存在の面白さです。私は古民家でお香を焚いていますが家が穏やかになり清浄になっていきます。しかし囲炉裏や竈の近くは燻されますからまた独特の雰囲気を醸し出します。」

燻すことで有名なものに燻製がありますが、燻煙には殺菌や防腐効果、抗菌作用や味を引き立てる力があります。成分はフェノール系化合物やアルデヒドで、木材中の主要3成分のセルロース、ヘミセルローズ、リグニンが熱分解してできるものです。

私は山や田畑に出るとき、虫に刺されたりしないように野生動物や病原菌が寄り付かないように体を煙で燻していたことがあります。なぜか煙で燻すことで、その周囲には虫があまり近寄ってこなくなります。自然の智慧を観て、昔の人たちはそれを暮らしに活用したように思います。

これから10日間かけて、先人の智慧を深め炭を究めていきたいと思います。

拾う未来

私は世の中の動静を長期的に直観していると、この世には捨てる未来と捨てない未来があるように思います。今、私たちの社会は常に大量に生産し大量に消費することによって経済を成り立てています。捨て続けてはゴミが増え、そのゴミは循環を破壊してあらゆる貧困を巻き起こしています。

ここまで世界を捨てる未来が席巻してしまうともはや元の状態が何であったのかを思い返すことも難しいのかもしれません。同時に個人主義が私個人の利益だけを求めるという歪な欲望が渦巻き、競争や比較の中でさらに不安を増加させては加速を上げています。自分の家が汚れたり破壊されたり住みにくくなることには抵抗するのに、地球全体の問題はどこかほかの家での話のように認識しているかのようです。

長い目で観て、私たちの未来はそのまま子どもたちの未来になります。資源を使い切り、汚染するだけ汚染して、お金を使うだけ使っては死んでいく。空き家の問題もお墓の問題も、介護の問題も、精神を病む問題も、これは全部一つのところから発生していることに気づく必要があります。

知識というものは短期的で限定的なものです。人類は知識を得ては文明を発展させていきました。科学という技術を発達させることで、自然のエネルギーや力を上手く取り出しては自然を凌駕したと思い込み自然を征服していきました。

しかしそのどれもが本来は自然のエネルギーを一時的に取りだしたのであって、膨大で永遠な自然の力のほんの微細な点にすぎません。水を創ることも、火をつくることも、いのちを創ることもできません。偉大な智慧にはとても敵わないのです。

いくら征服したと思ってみてもその思い違いはすぐにやってきます。征服するから不安が募り、支配するから恐怖がきます。そうではなく共生して協働するのなら安心が増え、心の豊かさが訪れます。

人類は長い間、自然と共生してきました。

物質的に豊かになっても、自然由来の豊かさには決して敵いません。そしていくら便利になったとしても、深い味わいは自然の手間暇には敵いません。

今こそ、よく考えて私たちはこれからの未来を拾う必要があると私は思います。未来を拾うことは、子どもたちの未来を拾うことです。みんなで捨てるのをやめ、しっかりと今を手入れし、磨いてそれを子どもたちに譲り渡していくこと。

「徳を積む」とも言いますが、今こそ新しい経済に舵を切る時機です。

私にできることを考えて、構想を認め、仲間や同志を集めていきたいと思います。