徳豊一致の泉

WELLという言葉があります。これは井戸や源泉が語源であるといいます。そして最近、WELLNESSやWELLBEINGという言葉もよく聞きます。これは健康な状態や幸福な状態のままというように私は解釈しています。

つまり日本語では日々の暮らしがととのい心豊かに健康に元氣で生きられる状態であるということです。これを私は「暮らしフルネス™」と名付けて実践を弘めています。

ウェルネスやウェルビーイングは海外から入ってきたものですが、本来、日本人は何がもっとも豊かで幸福であるかということはみんな実践できていた民族でした。貝原益軒の養生訓にもありましたが、私たちの先祖は長寿で健康、そして日々の暮らしの喜びに満ちたものでした。

改めて今の時代、人類は何を求めているのかという問いに対しての答えがはっきりする時代に入ってきたのかもしれません。成長と発展、繁栄の先にあると信じたものがなかったと思ったなら人類は大きな方向転換を定める時機です。

そこでこの「暮らしフルネス」こそ、私は世界に新しい人類の智慧を提案するものになると信じています。

私たちの生命は、偉大な何かを与えられて存在しています。すぐに分かるのは水や太陽、大地、空気など私たちが生存するためには与えられ続けている存在に頼っているのはわかります。私たちは与えられ、そして与える存在。つまり貢献し続けて共生しているから生きているともいえます。

この枯れない泉は、滾々と水を湧き出していのちを潤し続けています。この泉の水は何かということです。

英彦山にも湧き出ている清水があります。それが大きな川になり海になります。そのはじまりの水は流れ続けています。これを「徳」とします。この徳が湧き出ているからこそ、その徳を集めて私たちはあらゆる豊を積んでいくことができます。その徳を積むとき、泉は湧き出てきます。

つまり私たちはみんなで徳を積みながら真の豊かさを増やしていくのです。徳と豊かさは表裏一体であり、徳のあるところにこそ真の豊かさがあり、真の豊かさがあるところにこそ徳は積めるのです。

永遠という言葉は、この徳豊一致の泉にこそあります。

人類の目覚めは、「場」の道をととのえるところからはじまります。子どもたちのためにも私の使命を全うしていきたいと思います。

力に換える

昨日は、秋月の黒田鎧揃えに参陣してきました。これは以前も書きましたが、初代藩主の黒田長興公が島原の乱に出陣する前、正月三日に軍事演習(鎧揃え)を執り行ったことに由来し、相馬藩(現在の福島県相馬市)の「馬揃え」、土佐藩(現在の高知県高知市)の「旗揃え」と並ぶ“天下三揃え”のひとつといわれます。

主催の挨拶では、先人たちへの感謝や祈り、そして未来へ向けて想いをつないでいきたいという言葉がありました。また、秋月の藩校の稽古館の教えの唱和もありました。

長い時間をかけてどのような人づくりをしてきたか、そして藩祖がどのような想いでこの場所を見守り育ててきてくださったかとその御恩に報いているように感じました。

実際の行軍では、破邪顕正を祈り、法螺貝を立て、時の声を上げながら鎧を纏いみんなで清らかな心で行脚していきます。秋月のむかしの大切な場所へと向かい、祈り、そして本陣に戻りそのころの気持ちに寄り添うのです。

先祖が大切にしてきた気持ちは、言葉にならなくても伝統行事を執り行うことで初心に帰ります。その時の先祖や侍たちが大切に守ってきたこと、そしてそれがいつまでもその地に根付いていることなどが甦生するのです。

本陣に戻ると光月流太鼓や居合など、伝統の演奏演武もありました。

時代から先人の智慧や伝統は蔑ろになり目の前の便利さや合理性こそが智慧や革新のように思われている昨今ですがそれは本物ではありません。本物は、先人の智慧の中にあり、そして伝統の真っただ中にこそ存在するものです。

私は伝統か革新かと選ぶのではなく、本物こそ伝統であり革新であると思っています。つまり、智慧は先人からのつながりの中にこそ存在しそれをこの時代に活かすときにこそ本物になるということです。

一見、時代錯誤をしているように思われることでも時代が変われば本物を続けているだけです。この時代、次世代へと本物をつないでいくには工夫が必要です。私が取り組む「場」はその創意工夫に挑戦して本物を譲り遺すことにあります。

この体験もまた次世代への希望にし、子どもたちの力に換えていきたいと思います。

 

自然の回復期間

中国の長江でこれから10年間の禁漁措置を始まります。これは急減している漁業資源の保護のためです。そのため流域で働く漁師計約30万人に失職することになるといいます。実際には漁獲減の根本的な原因とみられているダム建設は続いており、禁漁だけで解決するのかという問題もあるそうです。

他にも調べると、禁漁期間が終わってからの乱獲の問題、密漁の問題などもあり実際にはどうなるのかはこれからの様子次第でもあります。鵜飼など伝統的な漁業なども喪失していきますからこれは大変な措置です。しかしこのままでは魚が全滅してしまうということで10年間という期間、川をそっとしておこうという実験ということになります。

もともとこの長江は青海省のチベット高原を水源地域として中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川のことです。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位の大河になります。この川が禁漁というのだから大変なことです。

日本だと一番長い川は信濃川で367キロですからどれだけこの長江が凄まじい長さであるかがわかります。この川の魚がいなくなっているのだから、その損害はまた世界から見ても恐ろしいレベルです。

人間は、短期的に自然を搾取してお金にしますが自然はとてもゆっくりと回復していきます。自然の回復は大きいほどに緩やかですからその緩やかな回復を邪魔をするほどに搾取すれば回復する速度が追いつきません。

例えば、人間の身体もそうですが恢復は自然と同じくゆったりと治癒していきます。その治癒の途中にまた無理をすれば治癒が働かなくなっていきます。時間をかけて治癒していくものだからこそ、私たちはその治癒した分の余力で生きて暮らしてきたともいえます。

自然界も同様に、自然循環で発生し生まれた利子の分だけで暮らしていけば永続的に人間は生きていくことができます。つまり自然に寄り添い、自然を富ませ豊かにすることでその分の恩恵の中で暮らすことが私たちが循環の一部となって自然と一体になって地球での生活が保障されるということです。

人間は、地球の大きさに甘えてやりたい放題していきますからそれがいつか限界が来た時、真に反省するのかもしれません。長い歴史の中で文明は何度も滅んでいます。その滅んだ理由はほとんどが自然災害や自然が回復せずにその場所で生きられなくなったものだということもわかってきています。

何度も何度も同じことをして滅んでしまうのは、人間の一つの業なのかもしれません。子どもたちのためにも、その業と対話し、その業への向き合い方を転換し、暮らしフルネスを通して実践を伝承していきたいと思います。

コロナウイルスからの教え

日本ではコロナウイルスが減少しているという珍しい現象が発生しているといいます。科学的には、ウイルスの変異によって増幅ではなく、減少するような状況が発生しているともいわれます。感染しやすいウイルスが急拡大したことで、今度は急減少するという変異が発生したというのです。

宿主が全部死んでしまうと自分たちも生きてはいけないので、ある程度、広範囲に感染したら共生して落ち着くというのがウイルスの性質であるということでしょう。

以前、ウイルスのことを調べていた時にウイルスも生存戦略を持っていることがわかりました。私たちの身体の中には無数のウイルスがいますが、それはかつて同じように歴史の中で感染してきたものたちばかりです。それが時間をかけて無害化していくというプロセスを通して共生していきます。

これは固定種の種を育てていますが、野菜も同様に本来は人間に害のあった野菜も長いこと育てて共生していくなかで無害化していきます。菌の世界も同様ですし、動物の世界でも同じです。

つまり私たち人間は敵対するのではなく、共生する道をとってくることでここまで生き延びてきたのです。

このコロナウイルスは私たちに何を教えにやってきたのか、ここからわかることと思います。今、気候変動の問題をはじめCOP26なども開催されていますが、私たち一人一人も今回の感染症などをことからよく現実を見つめ直して本来の生き方に目覚める時機です。

私は、むかしの田んぼでお米を育てています。ここのお米は、伝統神事をしながら楽しく豊かにお米を育てます。農薬も肥料も入れていませんが、みんな昔たちや雑草たちも共生してくれて穏やかでおとなしいものです。

みんなで共生していこうと決めたなら、敵ではなく一緒に生きる仲間です。

この「仲間」だと思えるか、それが人類の世界における大切な役割だと私は思います。仲間づくりができる人だけが共生の原理を知るということです。この仲間も、敵対しない仲間ですから共に心豊かに楽しく仕合せを生きる人たちを増やすことです。

平和というのは、戦争と平和という対立概念のものではなく「和」のままでいつまでも穏やかでいるということです。そのために何が必要か、気づき時機が今の時代ということでしょう。

人類がアップデートするためにも、その場を創造し、この場から未来を変化させていきたいと思います。

 

お滝場の甦生

昨日はお滝場の石風呂にはじめての火入れを行いました。関わってくださった方々の御蔭で無事に場が整いました。特に建築に携わった大工の棟梁や窯をつくりあげてくれた職人、お掃除して綺麗に守ってくださった人たち、また修行者の方との一期一会はとても心に残りました。

滝行というのは、冬季の寒い中での荒行のように思われますが実際には一人で行うのと仲間と行うのではその感覚は異なります。昨日は、背中から水をかけてくださる方、勤行を唱えて祈りを捧げてくださる方、また法螺貝を吹いてくださる方がいて、他の仲間が見守る中でお滝をいただきました。

滝行をする方々は信仰深く、滝ではなくお滝とも呼びます。

私たちはいのちあるもの、尊敬しているもの、大切なものには「お」をつけます。お花、お米、お母さん、お水なども同様です。お滝というのは、流れている水ですがそこに確かな何かの存在を感じるのです。

神道の大祓詞には、瀬織津姫という神様のことが書かれていてこの神様が滝場にいて色々な災厄を祓い清めてくれると記されます。祓いというのは、あらいが語源で、禊というのはすすぐことを言うといいます。つまり祓い清めるというのは、今でいう洗い流ししてきれいにするということでしょう。

このお滝の神様の瀬織津姫のほかに、速開都比売(はやあきつひめ)・氣吹戸主(きぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)という洗い流してきれいにする神様がいると祝詞には出てきます。川や渦、海などみんな洗い流してきれいにする神様たちの御蔭で私たちの汚れや穢れは取り除かれて自然に循環するというのです。

先人たちはこの自然の仕組みを知り、日々の小さな塵や垢のように心や魂などにつく汚れや穢れも洗いきれいにできる方法を発明したのでしょう。

今の時代、以前よりもスピードがあがり今までのように簡単に洗い流すことができなくなってきています。できればしっかりと洗い流しておかないと積もり積もるとそれだけ浄化に時間がかかってしまいます。

日々の暮らしの中で、私たちは禊をしますがこれからはますます必要になってくると私は確信しています。人間は集合意識によって社会を形成しますからそれが歪であればあるほどに地球や宇宙にも影響を与えてしまいます。量子のことが解明すれば、意識こそが世界に影響を与えていることはわかってくるはずです。情報化社会というのは、意識の社会ですから人間力を磨き高めていくことで未来の流れも変わることでしょう。

子どもたちのためにも、大切な智慧や伝統を活かしながら場を創造していきたいと思います。

 

野生の食

最近、山とかかわり始めてからジビエ料理を食べることが増えてきています。このジビエとは何かというと、これはフランス語で狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉を意味する言葉です。

もともとヨーロッパでは貴族の伝統料理です。日本では鹿や猪がジビエでよく使われていますが、もともとフランスでは貴族しか食べられないほどの高級食材だったといいます。貴重な野生動物を食べるのだから肉から内臓、骨、血液、その全ての部位をすべて料理に使うといいます。栄養価も高く、食べると独特の高揚感というか体の芯から熱く漲ってくるようないのちを食べている感覚があるようです。

日本では古代からこの野生動物は身近な食材だったといいます。縄文の遺跡からも、ウサギ、クマなどを食べた形跡があるそうです。まだ稲作が入ってなかった頃は、山から色々な食べ物を集めては食べていました。毛皮は加工して暮らしのあらゆるところに役立てていたともいいます。

それが平安時代になると仏教が伝来し、食べることが禁止になったりもします。しかし山の周辺の人たちにとっては野生動物を食べなければ生活もできませんからなくなることはありません。江戸時代にも一般的には狩猟が禁止になっていますが、鴨料理やしゃも料理などは人気だったといいますから野生動物は食べていました。

明治以降は、牛肉や鶏肉、豚肉など養殖によって増やすことになり便利に食べられるようになってから野生動物を食べることが減ってきたともいいます。本来は、高級食材で滋味を味わうものでしたが近代になってから獣害のことが出てきて鹿肉や猪肉を捨てるのではなく何かに活用しようとフランスのジビエに注目して取り組む飲食店も増えています。

この時代は本当におかしなことに、物が溢れ、獣が溢れとバランスが崩れていますから過去の歴史と在り方が逆転していて価値もまた逆転しています。本来は、貴重な価値だったものが今では獣害として価値がなくなり処分に困っているということ。

なぜ野生動物を食べていたのかということも忘れてしまうくらい、今は食が溢れているということでもありますが本来食とは何かということを考えさせられるいいきっかけになるとも感じます。

むかし上司の山小屋で狩猟していた猪を檻の中で食べるまで飼育していたことを思い出しました。周囲には強烈な獣臭と強烈な殺気、そして檻に身体をぶつけては今にも襲い掛からんとする怒りの形相にたじろきました。野生動物と対峙するというのは、いのちのやり取りをするということです。

今の時代、侍などもいませんからいのちのやり取りなども身近ではありません。しかし、野生に入るというのは本来の自然に近づいていくことでもあります。人工的になんでもできる時代ですが、こんな時だからこそ原点を忘れないで野生を宿した人間のままでいたいものです。

子どもたちにも時代の節目に相応しい本物の暮らしと食を譲り遺していきたいと思います。

心の風景

時間というのは、変化のことです。どんなに変化がない物質であっても、必ず微細には変化しているものです。変化しているからこそ、変化を感じることで時間を捉えることができます。私たちは時間というものを人生の中の時間と認識しますが、本来の時間というものは変化そのもののことをいうように思います。

その変化は、現実に外界が移り変わっていくもの。また内面の世界が移り変わっていくものがあります。その両方が合わさって時となりますから、この時間というのはとても矛盾に満ちていて同時に不安定なものです。

私たちはその時々の組み合わせから一期一会を感じるものです。

この一期一会は、組み合わせともいえます。その組み合わせは変化の組み合わせから産まれる偶然の一瞬のことです。その一瞬は、外側の変化の一瞬に合わせて内面的な心の状態が組み合わせられ自分にしか見えない景色が現れます。

その景色に心は感動し、今この一瞬に目覚めるのです。

今朝も雨の晴れ間に一瞬、美しい虹が出て心の風景を映しました。

美しい景色をみても何も感じない人もいれば、その景色に涙する人もいます。私たちは景色を磨いていく生き物であり、人生とはどのような景色を産み出したかといっても過言ではありません。

心の景色を大切に過ごしていくことは、変化を味わい変化を愛おしむように生きていくことです。二度とない人生だからこそ、悔いのないように大切な初心のために生きていくこと。

人生の純度を高め磨いていくことは、この心の風景をより鮮明に美しくしていくことです。

一期一会を生きていきたいと思います。

物語を生き切る

英彦山の宿坊の甦生が始まる前に色々と心の整理をしています。毎回、古民家甦生や場の甦生をする前は傾聴や覚悟の時間があります。このプロセスはとても大切で、今までの様々な物事を紡ぎ、結び物語を続ける準備に入るからです。

物語というものは、すべてのものに存在するものです。

この世にあるものはすべて物語があり、その物語の続きを私たちは生きています。何も意味もないもののように見えても、実際にはそこには意味が存在します。それが物語がある由縁であり理由です。

その意味が観える人と、意味が見えない人がいるだけです。私たちはどのような場にも意味があると感じられる人と、場に意味を感じられない人がいます。私は場道家を実践しますから、そこに一期一会の物語を直観していくのです。

これは自分の人生にも言えることです。

今の自分があるのは多くの物語の集大成でもあります。その物語を歩んでいく過程で、色々な人たちとさらなる物語の続きを見つめ、自分の役割、徳、業にいのちを傾けていきます。

こうやってまた新たなご縁が産まれ、新たな出会いと別れがあります。この出会いと別れもまた物語の一端に過ぎないことでありまた再び物語は歩むのです。私がもっとも仕合せを感じるのは、止まっていたもの、忘れられていたもの、捨てられていたもの、失われていたもの、形がなくなっていたものを「甦生」するときです。

私にとっての甦生は、物語を綴ることでありそれはこのブログを書いていることにも似ています。

今日も一日、かけがえのない日々がはじまります。

子どもたちのように一期一会に生き切り、自分自身の一生の物語に生きていたいと思います。

世の中で一番

心訓七則というものがあります。福沢諭吉が弘めたものですが作者は誰かはよくわかっていないようです。どちらにしても、これはとても心の持ち方に対して大切な教えが入っているものです。

一、世の中で一番楽しく立派なことは、一生を貫く仕事を持つことである

一、世の中で一番みじめなことは、教養のないことである

一、世の中で一番さびしいことは、仕事のないことである

一、世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことである

一、世の中で一番尊いことは、人に奉仕して決して恩を着せないことである

一、世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことである

一、世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことである

この「世の中で一番」というのは、他にはないものということです。つまりそれ以外はないものという意味になります。例えば、ある人は世の中で一番大切なものは利他であるとします。すると、それ以外は実は必要ないとしているのです。またある人は、世の中で一番大切なものは義だといいます。それも同様に、それ以外は自分の人生においては取るに足らないものということです。

人間は、誰もが初心というものを持っています。他の言い方では業と呼んだ人もいます。その人の使命、人生の役割がその人の世の中で一番であるのです。

この心訓七則ですが、ここでは強調するために世の中で一番と使われていますからこんなに一番ばかりが並んだら本来はおかしなことになります。だからこれは並べて読むものです。

「一生を貫く仕事を持ち、教養があり、他人の生活と比較せず自分を生き抜き、利他に善き、すべてのものにいのちがあるものとして愛情深く接し、正直に生きていくこと。」これがもっとも世の中で一番の生き方であるということを感じさせるためのものです。

理想の生き方として、日本人の伝統的な美しい暮らしを営む人々が世の中で最も尊いと言っているようにも思います。そこから離れないこと、そういう人間にならないように心がけようと戒めているともいえます。

よく考えれば、この逆は「仕事がなく、教養もなく、他人とばかり比べては自分のことばかりを優先し、物を粗末にして嘘ばかりついている生き方。」これを戒めているのです。

学問をしていくのは、志を磨き、精神の働きを高めるためでもあるといいます。まさに、人間は生き方が仕合せを決めますから時代が変わってもその本質は変わりません。しかし環境や場が濁ってくると、それもできなくなってくるのでしょう。

場を磨き高めること、これらの学問の本懐を守り続けることにもつながります。子どもたちが安心して素直に正直に成長していけるように、見守り続けていきたいと思います。

徳積の一灯

仏陀に「貧者の一灯」という物語があります。これは簡単に言うと古代インドの阿闍世王が招待した釈迦のために、宮殿から祇園精舎への帰り道を大量の灯火で明るく照らそうと布施を声掛けします。貧乏な老婆も自分も釈迦のためにとお金を工面して一本の灯火を布施する。阿闍世王の灯火は徐々に消えていったが、老婆の灯火は朝まで消えなかったという話です。

それぞれの解釈の仕方がありますが、この物語はその中身がとても重要な話です。食べるものがなくて貧しくても布施をしようとしたこと、釈迦の教えを説いて布施をする人を集めたこと、単に油や火をつけたのではなく永遠に消えない信仰という火をつけたこと。どんな大量の油や火よりも真心を籠めて徳を積んできた火は尊いということ。世の中のために世界のために未来永劫の子孫のためにという偉大な心で取り組んだこと。ないからできないではなく、徳を実践しようと心掛けたことなどがあります。

釈迦は、説法もしますが実践をされた方です。それは姿からもわかります。布切れ一枚しか持たず、道を歩み、最期まで徳を実践されました。この徳は、仏教では布施ともいい、わかるよりも行動で示されました。

有名な布施には、「無財の七施」というものがあります。言い換えれば、徳を積むための「七つの実践」ということです。眼施、和顔施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施の七つです。

眼施(がんせ)は、常にやさしいまなざしでいる実践。

和顔施(わがんせ)は、いつも和やかに笑顔で人と接する実践。

言辞施(ごんじせ)は、優しい言葉で人と接する実践。

身施(しんせ)、自分の身体で奉仕する実践。

心施(しんせ)は、他の人に対して心配りをする実践。

床座施(しょうざせ)は、席や地位を譲る実践。

房舎施(ぼうじゃせ)は、自分の家や部屋を提供する実践のことです。

これは、他人を自分だと思って大切にする実践。自他一体の境地を顕すものです。私たちは自分を大切にするように他人を大切にするときに徳は積めます。決してお金をたくさん持っていなくても、財産に恵まれていなくても徳は積めます。言い換えるのなら、ないからこそ徳の実践はさらに豊かになります。

簡単にできないからこそ磨かれるものであり、それがもっとシンプルで根源的であるからこそ私たちは迷いなく生きていくための真理に近づいていくともいえます。

大切なのは真心で「一緒に積んでいこう」「共に磨こう」というあるないにかかわらず、実践するという純度の高い一灯に真の意味があるように私は思うのです。この貧者は果たして本当に貧者なのか、真の豊かな心を持つ「心の長者=仏陀」ではないかと思うのです。

昨日のブログで心の長者のことを書きましたが、この心の長者は心の豊かな者のことです。そしてこの心の豊かな者の正体は、この貧者の一灯の実践をする人ということだと私は確信しました。まさに仏陀は、誰にもできることであり、みんなが勇気を出して踏み出せばそこには仏陀があるのです。

徳の仲間ができることは、仏陀を産み出すことであり仏陀はそれを同じ人として平等なところで語っているのです。

これからいよいよ地球環境の変化の著しい人類の行く末を決める大きな分岐点に、この貧者の一灯はこの世を明るく照ら光明になるでしょう。子どもたちのためにも、徳を積むことの意味を実践して伝承していきたいと思います。