偏見よりも感覚を信じる

人がその人を観るのにその人を観ずに立場や肩書を見ようとする人がいます。例えば、どこの大学出身だとかどの企業に勤めているとかもしくはどんな役職でとかでその人のことを確認したりするものです。

しかしその人そのものを観るよりもその人の肩書を見た方がその人のことが分かるというのはほとんどないと思います。特に一生を伴にする人を選ぶのにその人の肩書だけで決めるということはしないように思います。実際にその人のことを知りたい場合はその人の人柄に触れ、どんな人物なのかを見極めることが人付き合いには必要のように思います。

もちろん人によっては肩書きなどに頼らず、その人の人望や人柄をよく観察し人を見極めるのが得意な人もいます。沢山の人たちと付き合っていく中で、信頼できる人や信用できる人、そういうものを直感するチカラが長けている人もいます。周りが凄いと思っているからすごい人と思ったり、世の中が評価するからきっと評価通りの人だと思ったり、そのうち自分の価値観が出来上がり偏見が入ってくるように思います。結局、誰かが決めた評価基準に従って判断することが慣れてしまえばそれを鵜呑みにして自分で判断するチカラがなくなっていきます。

人物を自分の目で観て、自分の耳で聴いて、自分の感覚で確かめるというような五感を使って行う判断よりも、誰かの評価に従った方が安全で安心だと思いこんだりします。そして自分で判断しないことをいいことに、誰かのせいにしたり言い訳をしているうちに余計にまた立場や肩書重視の偏見に陥っていくようにも思うのです。

実際にもしも肩書きや立場、職業などがなくなったとき自分が一体どうなっているのかと考え直してみてみるといいように思います。職業がその人ではなく、その人がその人なはずですから人は職業に集まるのではなく人望に集まっているのです。だからどの時代でも人望のある人はたとえ肩書きがなくなってもその人は他人に求められますし、志と実行力がある人はどんな場所にいても他人から探し出されるものです。

人が本来、人を観るのに大切なのはその人の人格ではないかと私は思います。

人格を磨き高めている人や、道の実践者、道の体現者は肩書きがなくてもその人が放つ場の雰囲気やその人の様相をみると一目でただならぬ感じがするものです。肩書きや立場などがない動物や昆虫の野生の世界は、相手が強いか弱いか、どういう存在かを直感しているはずです。生き残りをかけた自然界の中で伴に生き残るために誰と一緒にいるかの判断を間違うと大変なことになるからです。生き物たちはその感覚を伸ばし、生き残るための大切なセンスを養い続けているように思います。

誰に着いていくのか、誰と一緒にやるのか、この誰とは生き残りに深く関与します。それを大きな企業だからとか、公務員だからとか、肩書きを見てこの人は安定しているからとかそんな基準で選んでいてはセンスが磨かれないようにも思います。偏見こそがセンスを鈍らせ、センスは偏見によって失われていきます。

自分の目で観て自分の耳で聴き、自分の手で触る。

こういう五感を磨いていくことが、偏見を取り払う大切な体験なのかもしれません。子ども達が偏見によって差別し、差別によって苦しんでいる人たちがたくさんいます。個性すらも障害と呼ばれる時代、世間にある偏見に惑わずに自分のことを信じられるようになるためにも、自分の五感を使うということの感覚を磨いていくことを実践していきたいと思います。

日本刀の心

昨日、渋谷にある刀剣博物館に訪問する機会がありました。古刀から新刀、現代刀に至るまで様々な日本刀が展示されていました。改めて日本文化の一つ、日本刀について深める機会になりました。

日本刀は、国宝の中の一割を占めるほど日本の代表的文化の一つです。

ちょうど平安時代頃に、今の日本刀の原型が産まれそれからずっと時代と共に刀が息づいてきたとも言えます。日本の神話では、素戔嗚の尊が八岐大蛇を退治した天叢雲剣といった三種の神器があります。これは勇気を顕し、その勇気の証が剣になっているとも言えます。

そして日本刀には武士の心があると言います、そしてその道の実践には忠義があります。この忠義を実践するということは、義、勇、仁、礼、誠、智、信などの徳目を磨き自分の精神や魂を高め続けるという覚悟で生きるとも言えます。

例えば戦国時代の武将が放つ言葉の中に、その忠義の覚悟が読み取れます。

「いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない」真田幸村

「仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐればへつらいとなる。智に過ぐればうそをつく。信に過ぐれば損をする。」伊達正宗

「武士は常に、自分をいたらぬ者と思うことが肝心だ。」
「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である。」加藤清正

「大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である」上杉謙信

損得を超えて、道義や道徳のためにいのちを懸けていくのが武士とも言えます。そして死を前にしてどう生きるかを定め、その中で自分の決めた生き方を貫くことを優先する勇気があるかどうかが武士の実践とも言えます。

この「勇気」というもの、これは不安、恐怖、その他のものから逃げずに立ち向かうチカラ、信念を貫くチカラのことです。武士はこの徳目を実践し、自らを高め、それを日本刀の中に見出したのかもしれません。

刀鍛冶や研ぎなどの工程の中に、その日本刀の出来上がるまでの忍耐が見えます。この日本刀という道具は死を覚悟した人が持つ道具です。そしてその死を覚悟して信念に生きる人が持つ道具でした。その信念を貫けるように折れないものを鍛錬し、研ぎ澄まされた切れ味を磨きあげたとも言えます。侍や武士が持つのに相応しい、それが日本刀の心であろうと私は直感しました。

勇気と忍耐は表裏一体ですから、ここからさらにもう一つ深めてみようと思います。子ども達に日本人のことを伝えられるよう、日本の心を学び直していきたいと思います。

 

恩徳循環

人間はこの世の中のあらゆるものが循環していることを見失い目先ばかりを追いかけると、今の恩徳を感じられなくなるものです。また自分のことばかり心配をして、周りが見えなくなってしまえば余計に不幸なことばかりを思い幸福であることに気づけなくなるように思います。

人が視野が狭くなるのは、目先の心配に心を奪われ循環していることに気づけなくなるからです。循環を忘れないためには今まで受けた御恩のことを思うことのように思います。今まで生きてこられた事実の中に、未来への希望が存在します。もしも未来が見えなくて暗闇に包まれたとしても過去の御恩を思えば充分過ぎるほどいただいてきたことに感謝することができるように思います。またその感謝の心があれば、人は心に余裕ができ自分を見失わないでいられるようにも思います。

二宮尊徳翁の余話に下記のような話が遺っています。

「翁はこう言われた。世の人情の常で、明日食べるものがないときは、他に借りに行こうかとか、救いを乞おうとかする心はあるが、さていよいよ明日は食う物がないというときには、釜も膳椀も洗う心もなくなるという。人情としてはまことにもっとものことであるが、この心は、困窮がその身を離れない根源である。なぜなら、日々釜を洗い、膳椀を洗うのは、明日食うためで昨日まで用いた恩のために洗うのではないというのだが、これは心得ちがいだ。たとえ明日食べる物がなくても、釜を洗い膳も椀も洗い上げて餓死すべきだ。これは、今日まで用いてきて、命をつないだ恩があるからだ。これが恩を思う道だ。この心のある者は、天意にかなうから、長く富を離れないであろう。富と貧とは、遠い隔たりがあるわけではない。明日助かることだけを思って、今日までの恩を思わないのと、明日助かることを思うにつけて、昨日までの恩を忘れないのとの二つだけのことで、これは大切な道理なのだ。よくよく心得るがよい。」

困窮が離れない根源は、恩を忘れるからだと言います。そして天意に適い富が離れない理由は恩を思うからだと言います。そして昨日までの恩を忘れないことが何より大切な道理であると言います。

恩恵を思い、恩恵を忘れず、恩恵のための実践を行うものには常に豊かであるということを言うのでしょう。それは私にすれば循環の理を実践するものは、循環の中にあるから心配がないということに感じます。

その上で二宮尊徳は「報徳」といって、恩に報いることが徳であるとしました。報徳訓にはこうあります。

「父母の根元は天地令命に在り  身体の根元は父母の生育に在り  子孫の相続は夫婦の丹精に在り  父母の富貴は祖先の勤功に在り  我身の富貴は父母の積善に在り  子孫の富貴は自己の勤労に在り  身命長養衣食住の三つに在り  衣食住三つは田畑山林に在り  田畑山林は人民の勤功に在り  今年の衣食は昨年の産業に在り  来年の衣食は今年の艱難に在り  年々歳々報徳を忘るべからず。」

以上のことを忘れないでいることが常に困窮を離れる妙法であるということなのでしょう。恩返しや恩送りは社會を豊かに育てていきます。子ども達のためにも、恩を中心にした世の中の仕組みを考案し恩徳循環の実践を高めていきたいと思います。

 

恩の循環

「恩」という字があります。恩は自分が誰かや何かから受けた恵みのことです。よくこのご恩は忘れませんという言葉や、いのちの恩人というような使い方をします。この恩は、御蔭様の気持ちを忘れない心のことでありいつも自分がいただいている偉大な恩恵を忘れずに過ごしていることを実感し続ける謙虚な心でもあります。

ドイツの詩人ゲーテに「忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。」があります。自分の力でと勘違いすることほど弱点であり、恩を忘れない謙虚な人は皆それぞれに強みを活かすことができるのは周りの御蔭に気づいているからかもしれません。

そしてこの「恩」という字を、致知出版社の藤尾社長はこのように解釈しています。

『「恩」という字は「口」と「大」と「心」から成っている。「口」は環境、「大」は人が手足を伸ばしている姿。何のおかげでこのようにして手足を伸ばしておられるか、と思う心が【恩を知る】ということである』

自分が伸び伸びと日々に暮らしていけるのは、その蔭に本当に多くの方々の見守りがあるからです。両親をはじめ、先祖の方々、今まで自分を育ててくださり自分を助けてくださった本当に多くの方々がいることで今の自分が存在します。あの出会いもあの気づきも、あの言葉もあの親切も、もしくはあの厳しさもあの悲しさも、すべては今の自分をつくってくださった御蔭様の一つです。

恩を知るというのは御蔭様を知る心であり、御蔭様をいただいてばかりだからこそ何か自分も同じように恩返しができないかと感謝の気持ちに満たされるとき「恩」の意味を自覚できるように思います。しかし恩はその人にお返しすることはできず、その人もまた他の人の御縁によって恩をいただきそれを他の人に送っているわけですから同じように恩送りをして人と人の間で恩を循環していくしかありません。

そしてこの恩の循環のことを繁栄というように私は思います。

社會を発展させ繁栄させていくというのは、人類が倖せになっていくということです。そして人類の幸福を願うなら、この恩の循環を通して社會を繁栄させていくしかありません。その社會の繁栄は、自分の日々の生き方次第で行われますから日々の恩送りの実践こそがより善い社會を育てていきます。

その実践とは、受けた恩よりも少しでも多くを他の人の送ることです。ペイフォーワードという映画もありましたが、これは社會を育てていく最善の方法のように感じた記憶があります。

受けた恩や恵みを自分のものだけにせず、誰かに一つ多めに付け足して送っていくことが豊かさを約束し皆を仕合わせにしていく自然の摂理です。恩の循環を忘れないように御蔭様の心を実践していきたいと思います。

 

ちょうどいい

人は自分の都合で物事を考えていくものです。自分の都合の良いときに選んだものが後には都合が悪いと思ったりします。その時々の都合で良し悪しを決めている生き方は、執着してこうであらねばといったネバネバした生き方になってきます。

人はこうでなければと執らわれると、様々なことが都合が悪くなっていきます。その逆に、どちらでもいいと気にしない人は都合に合わせて自分は平気です。これらのことはものの見方の問題であり、さらにどんなことも自分の今に相応しい、今の自分にちょうどいいと思っている人は困難を機会だと前向きに捉えて楽しく挑戦していきます。

小林正観さんの話の一つにこういうものがあります。

「すべてがあなたにちょうどいい。 今のあなたに今の夫がちょうどいい。 今のあなたに今の妻がちょうどいい。 今のあなたに今の子供がちょうどいい。 今のあなたに今の友人がちょうどいい。 今のあなたに今の仕事がちょうどいい。 死ぬ日もあなたにちょうどいい。 すべてがあなたにちょうどいい。」

これは仏教の大蔵経の中に出てくる言葉だそうです。全てのことを受け容れて「ああ、自分にはこれがちょうどいいんだ」と無理をせず感謝に転じることができるのなら全てのことは有り難いと思えて次第にちょうどいいと思えるようにも思います。

人は与えられていることの奇跡よりも、思った通りにならないことに不平不満を感じます。どこまでも足るを知らず、さらにさらにと求めていきます。片一方では嬉しいことを得ているのに、もう片一方の嬉しくない方ばかりを見たりします。ないものねだりをしていると、ちょうどいいことが分からなくなります。

実際にちょうどよくないかと尋ねてみたら、自分にもっとも相応しいものを天が与えてくださっていることに気づけるはずです。そこに気づけるのなら、その御恩に報いようという気持ちが出て来ます。

ちょうどよいものに出会うのは実は当たり前ではないことに気づくことのように思います。ちょうどよい生活、ちょうどよい仕事、ちょうどよい自分、ちょうどよい今、このちょうどよいは全て当たり前ではない奇跡に出会っているということです。

その今を有り難く受け止め、その奇跡に感謝できるとき人はものの見方を転換していけるように思います。困難もちょうどいい、孤独もちょうどいい、苦労もちょうどいい、試練もちょうどいい、辛いこともちょうどいい、周りの人もちょうどいい、御縁のタイミングもちょうどいい、運もちょうどいい、年齢もちょうどいい、環境もちょうどいい、ちょうどいい、ちょうどいいと念じてちょうどよいことの有難さに気づこうとすることが足るを知り自分が本当に恵まれていることに自らで気づくことのように思います。

人と比べたり、誰かのことを羨んだり、その人ではない人生を自分の人生と見比べて不足を思うのは足元の幸せを忘れていることであり、自分に与えてくださっている恵まれた事実を見過ごしているからかもしれません。足るを知らない心はすべて私利私欲から来ているものであり、もっともっとと思う心は決して向上心なんかではなく我欲である場合もあるように思います。孔子は「己達せんと欲して人を達せしむ」ともいいました。本当の思いやりの人は、いつでも誰かのためにと自他一体に生きている人です。

「ちょうどいい」ことは足元の幸せに気付くこと、そして多くの見守りに気付いたならそれを大切に使わせてもらうことが人類共生の道理、自利利他に生きることのように思います。今まで人からいただいた御恩を忘れず、それをもっと大きなものにして御恩返しができるように足るを知る心を育てていきたいと思います。

指示命令とマネジメント

世の中の状況は、かつて右肩上がりと言われた何をやっても収益が上がり拡大成長した時代からバブルが崩壊し右肩下がりになり低空飛行のような状況になっているともいえます。そもそもバブルというものが本来はおかしな状況であり、いつまでもそれが続くこともなくまたそれが訪れるという幻想もあるはずがありません。しかし右肩が上がりで成長していくという幻想はいつまでも刷り込みとして教え込み、教育や仕組みも戦後のものがほとんど変わらずにそのままです。

例えば組織では、個を強くして個をできるようにと育成してきました。一人の力で何でもできるようになるようにと指導し、組織に入れば役割と責任を与えました。そしてリーダーになるか、リーダーを支えるためにサポートするかという選択を決められそれに従うという方法です。

そこには主に指示をする人と、指示を待つ人という2つに分かれその思考もまたピラミッド構造になってしまいます。管理し管理されるという考え方が沁みこめば自分で考えて主体的に行動するということが分からなくなってしまいます。

管理されることを当然と思ってしまうと、そこには指示と命令がなければ動かない人になってしまいます。指示と命令する方も、指示と命令しなければ動かないと思い込んでしまいます。それが組織の価値観となってしまいます。

今の時代は多様な価値観を持ち、一人ひとりの個性を如何に発揮して衆知を集めて問題を乗り越えていくかといったことがどの組織でも求められます。つまり本来の組織の強みを活かすように原点回帰しているとも言えます。そこでは指示や命令ではなく、「協力」することで御互いの持ち味を活かすマネジメントが採用されます。当然、人が集まるのですからそれぞれが怠らずに自分を活かして貢献できれば組織は成長し続けます。

しかしこの管理型の教育を受けて指示と命令の刷り込みを持っている人が急に個々の主体性を発揮して協力し合うマネジメント型の組織に入ってもすぐに動くことができません。例えば情報共有の仕方などがすべて変わって来るからです。指示で動いてきた人は、事前に情報共有などはあまりする必要はなくそれは指示する人の問題であり命令を待てばいいのです。しかしもしも命令も指示もしない組織は、御互いに最初から一緒に情報共有を続けなければなりません。情報共有をしなければ、御互いの持ち味を活かすところまではいかず空気を読むか指示命令を待つかになってしまうからです。

他にも一人でできることを良しとして育ってきた人は、周りと一緒に仕事をすることがあまりできません。管理され役割と責任を持たされるとその持ち場のことはきっちりとできるようになるために努力をすることを学びます。しかし主体性を発揮し協力する組織になると一緒に仕事をすることが重要になります。例えば、このプロジェクトは誰とやった方がいいか、この場合は誰の持ち味が活きるかというように常に思考は主体的になります。

指示命令で育ってきた人はこの持ち味というものが分かりません。同じことを他の人と同じようにできることを優先し、歯車の一つになりできなければ取り替えるということを良しとする組織観というものの中では個性や持ち味というものは邪魔になることもあるからです。

この組織が変わるというのは言い換えれば生き方が変わるということです。今までと別の組織観の中に身を置くには自分自身がその組織観の生き方に転換していく必要があります。それは身の置き所を単に変えればいいのではなく、自分の生き方そのものを変えるという転換作業が必要になるのです。

理念を中心に何を優先しているかを自覚したら、パッと自分の方を変えていくことが出来る人が柔軟性がある人です。学び直しができる人は常に今までの方法に固執せず、ゼロベースで学び続けていることで可能になります。

引っ張る率いるという方法ではなく、協力し衆知を集め持ち味を活かすという方法をとるのは時代の流れでもあります。

自分ができないことが悪いのではなく、誰と一緒にやった方が持ち味が活かされるか、これも一つの発想の転換です。保育や教育、経営は一つのマネジメントです。引き続き、組織マネジメントの刷り込みについて深めていきたいと思います。

人間本来の能力とは何か~持ち味を活かす~

現在は誰かを比べたり誰かの目を意識したりと常に自分を何かに合わせなければならない窮屈な世の中になっているとも言えます。個性のことを障害といい、天才のことを精神病と呼び、人と異なる資質を持つ人のことを奇人変人だと偏見で差別したりします。

本来、みんなが周りと同じ姿であるほうがおかしな姿であり異なるのは御互いを活かし合うために必要な自然の性質ですから持ち味を御互いに出し合って協力して生きていくのがこの世の中の摂理です。

今は一斉画一にすべて同じものを良しとして、同じものを目指され、如何に平均から外れないかということを押し付けてくるものです。学校などは最たるもので、みんなと同じことができないことを恥ずかしいこととし平均の中でもっとも上位にあるものを優秀であると定義して技能を教え込んでいきます。

能力は別に学識や体力だけが能力ではなく、素直であること謙虚であること、また自分らしくいられることも能力の一つです。この能力のそもそもの定義とは何か、それはその人が「もっとも持ち味を活かしている状態」のことを言うと私は思います。そして私は能力の本質は「自分らしくいられること」がもっとも能力を自他に活かしていることであることだと思うのです。

その人がその人らしくいられるというのは、周りもその人らしくいられることです。これは御互いの持ち味が存分に発揮されている姿であり、それらの能力が相乗効果によっ御御いに役立っているということです。

人間の仕合せというものは、御互いに仕い合うことです。つまりは誰も不必要としない、そのままで役に立っている社會の実現のことだと思います。人道の平和とは、御互いが持ち味を活かし合って仕合わせを築くことだと思います。

今のようにこうでなければならないと押し付ける窮屈な社会での中で、その人らしくいられないことで心を病み苦しんでいる人たちがたくさんいるように思います。自分が此処に居てもいいという心地好い居場所があるかないかでその人の人生の仕合せは決まっていくようにも思います。成功か失敗かではなく、金持ちか貧乏かどうかではなく、仕合せかどうかを皆で見つめる世の中にしていくことが道に入っていくことのように思います。

あるがままの自分でいいと思えるためには、あるがままを受け容れてくれる社會が必要です。そしてその社會は徳によって実現することは自明の理です。人が思いやり助け合い御互いの持ち味を活かし合う世の中は、そのままでいいと受け容れてくれる暖かい場を一人ひとりが築き上げていくことに由ります。

引き続き子ども達のためにも子ども達の個性を伸ばし、その個性を受け容れ、みんな違っているからこそみんながいいのだという見守り合う社會を社業を通じてこの世に広げていきたいと思います。

暮らし方と生き方

日々というのは小さな所作の連続で過ごしているものです。起きてから寝るまで、私たちは「暮らし」の中に存在しています。そしてその暮らしは全て小さな所作から成り立っていることに気づけるものです。

例えば、朝起きてどのように過ごしているか、そして日中はどのように過ごしているか、夜中はどのように過ごしているか、その過ごし方の中にその人の日々の生活があり、その生活を通して人は毎日を生きているとも言えます。ある人は、朝起きてお湯を沸かしご飯を炊き味噌汁をつくる。太陽に向かって御祈りをし、その日一日の予習と準備をし心を整えて清々しい笑顔で挨拶をし丁寧に思いやりで一日を過ごし夜に内省をして就寝する。またある人の一日は、朝寝坊してバタバタとしご飯もコンビニで済ませ準備で散らかったままに仕事に出ていき忙しくし、夜は飲み会に出てお風呂も入らずに就寝する。もちろん同じ日ばかりではありませんが、同じような日を何度も過ごしているうちにその人の「暮らし」が習慣になってしまうものです。その暮らしの習慣が暮らし方であり、暮らし方がその人の生き方です。

暮らし方というのは、日々のその人の生き方のことです。心の余裕を持ち、心を穏かに心静かに生きていこうと決めている人の生き方と、心を失い心を亡くし、心せわしく生きてしまっている生き方があるとして、人生は一日一日の集積のことを言いますからどんな人生を送ってきたかは、その日一日の過ごし方が決めてしまうのです。

その人が人生で大切にしている優先順位は、いともたやすく暮らし方によって崩れるものです。日々の暮らしの中の小さな所作は自分が優先しているものを確認する大事なチェックポイントであり、その小さな所作の中にその人の初心が維持できているかを確認できるのです。そして丁寧に丹精を籠めて生きている人は小さな所作を決して蔑ろにすることはありません。掃除や食事、睡眠や日記、身のまわりのお世話をする意識を片時も外すことがありません。なぜなら「いのち」が生き方だからです。

この「いのち」というものは自分が大事に扱えば大事に扱われるものであり、自分が粗末にすれば粗末に扱われるものです。だからこそいのちを大事にするというのは、小さな所作を大切にしていくということです。

どんないのちとも触れ合っている状態を維持するためには片時も心を手放せません。心を手放さずにすべてのいのちを活かそうとする真心の中にこそ小さな所作が活かされます。

暮らしの中にある一つ一つのことに真心を籠める実践を通して、暮らし方を観直していきたいと思います。

透明な信条

佐藤初女さんの透明な生き方は、多くの人たちに日本古来の暮らしを考え直す機会になりました。本来の暮らしは何か、何をもって暮らしというのか、そのおむすびを握る丁寧な所作、万物をもったいないと活かそうとするいのちの扱い方を観て暮らしの本質を直感した人はとても多かったように思います。

今の時代はスピードや効率を優先し、大事にしてきた日本の心が次第に失われているようにも思います。何でも粗雑粗末にし、荒っぽく薄っぺらい行動をしていのちを傷つける人が増えたように思います。何でもいのちをただのモノのように雑に扱い周りを傷つけても平気な人が増えたように思います。そしてそのただのモノと同じように扱われていることにマヒし、周りにも同じように身勝手に利己的にふるまい乱暴であることにも気づかない人が増えたように思います。不親切や思いやりのないことがあたりまえになってしまうことで心は貧しくなり、そしてその人生もまた独りよがりのさみしいものになっていくようにも思います。

本来、日本人は心が豊かな民族でありそれは日々の丁寧な暮らし、もったいない心と共にあったように思います。初女さんの後ろ姿には、連綿と受け継ぎ大切に重んじられた大和心を感じます。その初女さんはこの粗雑粗末にかかわる話にメンドクサイという言葉が如何に美しくないかということをこう語ります。

『私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。』

もう少しだけのところに、利己的が利他的に転じる境目があるように思います。いのちの移し替えと同じく、透明な心に移るかどうかの極みで一歩が越えられない。この一歩こそ、実践の一歩であり、自分の決心した生き方を貫くかどうかの信念や志であろうと思います。

これは特別な大きなことをしなくても日々に大切にしたいと決めた生き方を優先し、自我に打ち克ちもしも理念を実践するかどうかのことです。人は思いはしても言葉にしても実際にその優先した理念を「実行」することが出来ないものです。敢えて実行すること、言行一致することこそが実践であり、その実践を行う心に「面倒だから」という思いは一切入ることはありません。

結局、独りよがりというのは、利己的であるということです。みんなが自分のことしか考えず、自分のことばかりを優先してしまえばそこに思いやりはありません。思いやりのある社會は、周りの人のことを配慮し、そのために「独りでも誰も見ていなくても自分の生き方や暮らしを周りのために粗雑粗末をしまい」という生き方を優先することです。丁寧な所作や丹精を籠めた行動は、その真心の為す業であろうと思います。また初女さんはこのようにも言います。

『何かにつけて、自分と言うものが先になっている。実践ということまでいかないで
考えるということに留まっている。言葉はたいへんに貴重なものだけれども言葉を越えた行動が伝えてくれることが非常に大きいのです。だから、私は、なるべく言葉を越えた行動をしたいと思っている、と。』

言葉を越えた行動をするというのは、「実践を優先する」ということであろうと思います。本当に思っているのなら、本当にそうしたいのなら、「実践」することだと仰っているように私は思います。私の定義している実践も初女さんと同じく、言うのならまず実践しましょうということです。そしてこの実践は全て身近な小さな行動で実現できるものしかありません。

最期にこの初女さんのこの信条を遺訓として受け止め綴りを締めくくりたいと思います。

 

『言葉を超えた行動が心魂に響く』

 

ご冥福をお祈りするとともに、透明ないのちを受け継ぎ私たちは私たちの道で子ども達のためにその大和心・大和魂を実践していきたいと思います。

 

 

透明の磨き方

透明さというものは、穢れを祓い清め洗い清める中で磨かれていきます。その透明さを磨くのに私はよく「遣り切る」という言葉を使います。この「遣り切る」ことは一期一会を大切に出し切ることであり、常に心徳を高め魂やいのちを輝かせるための磨き方のように思います。

人は本気になり真剣になればなるほどに明るくなります。この明るさは単なるマジメのもつ深刻な感じから出てくるものではなく、真剣で本気だからこそ出てくるものです。出し切るというのは何を出し切るのか、遣り切るとうのは何を遣り切るのか、それは「本気を出し切り、真剣を遣り切る」ということに他なりません。

佐藤初女さんは、透明さを磨き切った方でした。その磨き方が本人が語る言葉の中に遺っています。

『私はどんな時も自分の都合を優先せず、その人が求める形で出会いたいと思っています。何かに取り組む時、ある限界までは、誰でもできることだと思います。けれども、そこを一歩越えるか越えないかが、大きな違いになると思うのです。そして1つ乗り越えると、また限界が出てきます。そのように限界を1つずつ乗り越えることによって、人は成長しますし、その過程は生涯続くものだと思います。確かに、このような生き方は大きな犠牲を伴いますし、私は時々自分でも厳しいなあと感じる時があります。『忙しい』という言葉を、私はなるべく使わないようにしています』

最期まで一期一会に遣り切るというのは、最期まで「我」を優先しなかったということです。真心を盡して盡し切ったかということが、御縁に向き合う至誠であるように思います。自分よりも誰かのためにと見返りを求めずに真心を与え続ける人生というのは、常に犠牲を伴います。しかしそれでも真心や思いやりを盡していくことが透明さを磨くということになっているのです。あと一歩で諦めてしまう人や、あともう少しの努力でやめてしまうのは真心までいかないからです。人事を盡して天命を待つという言葉もありますが、人事を盡していないのに天命は待つことはできません。この真心までいくかどうかに、感謝で生きる道もまたあるように思います。

また初女さんは、こう言います。

「『私、苦しいんです』と訴える人に対して、頭であれこれ考えて解決の方向にもっていっても、それは本当の解決になっていないです。『そう、苦しいね。でも、もっと苦しまなくちゃ』って伝える時もあります。『初女さんは苦しいと思われることはないのですか?』という質問を受けることがあります。もちろん、私も活動を続ける中で、どうすることもできない心の葛藤が生まれることがしばしばあります。そんな時、私は苦しみを否定せずに、自分の心をまっすぐ見つめます。そしてどんな時も、苦しみを感じきることを大切にしています。苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、もうどうにもならない、というところで『神様へおまかせ』に入るんです」

私の言葉では「選ばない」ということです。逃げないと選ばないは同じ意味であり、全てを御縁の尊さで感じ切る、いただいている御縁に感謝しているかという祈りの実践でもあります。そして人事を盡し切ったならもうできることはないのだから後は天にお任せしようと祈り待つ境地しかないのです。それが「遣り切る」ことだと私は思います。

人間は誰しも出会いによって人生は変化していきます。

そして出会いをよくよく感じて内省するとき、その御縁や出会いは向こうから発見してもらって呼んでくださっていると感じるのです。つまりは「選ばない」ことの背景には、それは向こう側から自分を選んでくださった、自分にこれをやるようにと教えてくださった、自分にもっとも相応しいものをいただいたと自覚しているからこそ「選ばない」のです。

天命というのは探して得るものではなく、受け容れて得るものです。四十になって実感するのは、四十にして惑わずではなく、四十にして天命を選ぶのを已めたということです。天命を選ばないから惑わずになるわけで、人はその天命を選ばずに受け容れることでその後の人生の意味をしっかりと学問していくことができるように思います。

初女さんの生き方が、とても透明に徹しているのはこの人生への正対の覚悟、また一期一会に生きる決心の強さのように私は思います。

かつて東京で初女さんの講演を拝聴する中でもっとも強く印象に遺った言葉に『私はメンドクサイという言葉が大嫌いです、どんなことも決して面倒くさいと言ってはいけません』と静かに厳しく仰っていたことが今でも忘れられません。

真心や思いやり、本気や真剣さはこのメンドクサイの反対側にある言葉です。一つ一つを丁寧に丹精を籠めて生きていくことがその透明さがより磨き研ぎ澄まされることになっていくように思います。

追悼を籠めて書き綴っていますが、初女さんの偉大な後ろ姿に改めて学び直すことばかりです。子ども達のためにも、こういう方が遺してくださった真心を子どもたちに伝承していきたいと思います。