透明な実践

引き続き佐藤初女さんのことを書いていますが、「透明さ」というのは心が澄んだ真心の生き方のことをいうのだと私は思います。心が澄んだ真心の人は、作為もなく計算もなく、ただ思いやりに従って行動していきます。その思いやりによって行動することを私は「祈り」と呼びます。このような「祈り」こそが祈りの実践であり、澄んだ真心で丹精を籠めて丁寧に行動したことは相手の心を癒すように思うのです。

最初に佐藤初女さんを知ったのは、地球交響曲ガイアシンフォニーに出演していたことです。映像の中で、おむすびを握る姿の中に無心で相手を思いやり行動する祈りの姿を感じました。

その初女さんの話の中で、自殺しようとしていた青年の話があります。ある青年の両親が話を聴いてほしいと青年を森のイスキアに送ってきたといいます。ずっと傾聴していましたが泣いてばかりでご飯も食べず、もう遅いのでとそのまま休んでもらったそうです。一晩たって帰る際に、朝からおむすびを握ってそれを持たせたそうです。青年がその帰り電車の中で、タオルに包まれたおむすびをみてこんな自分のためにここまでしてくれる人がいる、信じてくれる人がいるのかと感動しそれからパッと人生が変わってしまったという話です。

真心を籠めて行動したことが祈りになり心に届く時、心が透明になりそれまでのいのちがいのりによって移り変わる、、私にはそう思います。私も透明な心や透明ないのちを実践していく中で、如何に相手がどうこうではなく自分が「真心を盡したか」どうかを重要にします。

人は相手に合わせて自分を盡すことが大事なのではなく、常に自分の心を省み真心を盡していくことが何よりも祈りそのものになるからです。

相手の心に寄り添うということは、相手の苦しみに寄り添うことです。相手の苦しみをじっと受け止めて、自分の苦しみとして受け容れることはまさに苦を楽にし福に転じる妙法であろうと私は思います。

なぜなら人は一人では苦しみになりますが、一緒になら幸福に転じるからです。人生の妙味はこの中庸の中にあり、人生の醍醐味は調和の中にあるように感じます。

引き続きかんながらの道、透明な実践を精進していきたいと思います。

透明

自然のことを学び直す中で、あらゆるもの透明さを知り純粋であること、真に澄むことの大切さをいつも感じます。身近な光や陰、火や水、風や土、木や石などあらゆるものが融け合い混ざり合い一つになる瞬間はいつも透明ないのちを感じます。

この透明ないのちとは、「解け合う」ことで姿を顕します。そしてその瞬間が観えているかということが真心のままであり、その瞬間を捉える感性が直観のことであろうと思います。私のかんながらの道はいつも此処に存在します。

自然が磨いてくださるいのちの尊さの中に、その透明感はいつも存在します。透明なものを感じる感性は自然の心のままに心に寄り添い、自然体で心をおもてなす日本古来の精神の鑑です。天照大御神より八咫鏡を授かってから私たちは透明な鏡に心を照らして自己鑑賞し常に心の穢れを祓い清め、心を磨き続けることを大切にしてきました。透明さというのはこの鑑の心であり、鑑の心は常に自他一体に切磋琢磨、相手と自分を解け合うことで磨き合うものだと私は思います。

佐藤初女さんは、この「透明」であることを大切にされた生き方を貫かれた方です。私も透明であること、いのちを磨くことは人生の一大事だと考えており、その生き方や生き様には本当に沢山の影響をいただきました。

改めて初女さんの文章を拝読していると、日々の暮らしの中で透明さを磨いていた様子が遺っており私自身も改めて学び直していきたいと思います。その初女さんにこんな言葉が遺っています。

「調理の間はいつも意識を集中させていないと、食材のいのちと心を通わせることができないですね。例えば野菜を茹でている時、火のそばを離れずじっと見ていると、野菜が大地に生きていた時より鮮やかな緑に輝く瞬間があります。その時、茎を見ると透き通っています。その状態をとどめるために、すぐに火を止めて水で冷します。透明になった時に火を止めるとおいしくて、体の隅々まで血が通うお料理ができるんです。素材の味が残っているだけでなく、味が染み込みやすい時でもあるんですね。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜のいのちが私たちのいのちと1つになるために、生まれ変わる瞬間だからです。ですから私はそれを「いのちの移し替えの瞬間」と呼んでるの。蚕(かいこ)がさなぎに変わる時も、最後の段階で一瞬、透明になるといいます。焼き物も同じで、今まで土だったものが焼き物として生まれ変わる瞬間に、窯の中で透き通り、全く見えなくなるそうです。いのちが生まれ変わったり、いのちといのちが1つになる瞬間に、すべてが透き通るのかもしれませんね。透き通るということは、人生においても大切だと思いますね。心を透き通らせて脱皮し、また透き通らせて脱皮するというふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないでしょうか」

これは調理のことを語っているのではないことはすぐに自明します。これは透明になることを語っているのです。

生きている間の課題として、如何に心を透き通らせて脱皮するかと言います。私の言葉では心を如何に研ぎ澄ましていくかということと同じです。心を研ぎ澄ましていくことは、人生において何よりも大切なことです。なぜならそれは人生とは魂を磨くことだからです。この世に私たちが来たのは、魂を磨き心を研ぎ澄ますために体験をしているとも言えます。

生きている修行というのは、結果が云々ではなくこの間にどのように生きたかというそのものが問われるように思います。自然界の生き物たちやいのちのように生きていくことが仕合わせであり、彼らと同じように日々に暮らしの中で自然の砥石で心魂が磨かれていくことがいのちを輝かせていくことだと私は思います。

人間の中においては御互いに思いやり真心を盡していくことで心魂は磨かれ高まりより透明になっていきます。透明な感性をいつも持ち続けることは、自然と解け合い直感のままにいて自然体になることです。

憧れた人に近づけるよう、私も持ち場で日々に精進していきたいと思います。子ども達に譲っていく透明ないのちを受け継いでいきたいと思います。

深さとは何か~直感~

物事には深さがあり、深さを持つ人はその深さを人に伝えていけることができるように思います。同じ話をしても、自ら刻苦勉励し体験を通して苦心しつつも掴んだ人の話は同じ言葉を並べても伝わり方が異なるものです。知識と体験との違いは、知識によっていくら文字を並べてもそれは単なる文字遊びにしかならず体験によって得た智慧や知識により文字が並ぶとそれは実行するためのヒントになります。

昨日、かねてから尊敬していた森のイスキアの佐藤初女さんがお亡くなりになりました。講演で一度だけお話をお聴きしたことがありますが、その時の御話もまた深さがありました。子どもがお菓子ばかりを食べて困っているという質問には、「ご飯を美味しく作ればいいのです。」とただシンプルに回答するのですがその言葉の間には真心を籠めて子どもを育てることや、食に命を懸けて取り組むことの大事さなど言葉の背景に膨大な暗黙智慧が語られている深さがありました。

この方もまた日本古来の大道をこの世に受け継ぎ、次代へ繋ぎ紡いだ有り難い道徳人でした。魂や大義は失われず、人々の心の中に生き続けて実践によって伝承されていくと思います。瑞々しい透明な心を通じて出会った有り難いご縁をいつまでも心に刻み忘れません、ご冥福を心からお祈りしています。

話を戻せばこの深さというのは、その人の体験によって深まっていきます。深さを持てる人とというのは常に理想を求めて一生懸命に苦労を厭わずに努力精進していくことで深まっていくように思います。深さの中には、つまり理想までの距離のようなものがあるのかもしれません。自分の目的や志の高さに対して今の現実があり、その間が深さになっていくように私は思います。

深さを持てる人になるためには、まず理想を定めて自ら覚悟決心する必要がある様に思います。そして自問自答し、本質は何かを求め続ける胆力や道を歩み続けて内省し続ける継続力も必要です。

求めている理想が大きければ大きいほど、世のため人のための祈りが広ければ広いほどその深さはますます奥深く深淵な深さになります。またその深さは五感や全感覚を通して感じるもので、到達している深さは観えないほどですから互いの直感でしか感得しえません。西洋ではそれをシンクロニシティともいいますが、本当の深さを求めている人はいつもご縁によって導かれるように思います。ご縁の世界に生きる人々は深さを持ちます、そしてその深さは直感と導きと道中の閃きによって開拓されていくのでしょう。

日々に何を最も優先するのかを忘れずに、自分の持ち場を掘り下げて道を歩む人たちに恥じない背中をみせられるように文字遊びを戒め深く精進していきたいと思います。

 

場と場所

日本の古来からの文化に「場・間・和」があります。これは心の世界を表現する三文字であり、日本人が常に大切にしてきた真心が此処にあるとも言えます。一つ一つは全て日本の伝統文化を顕しており、歴史を観ても、身近な文化の中にも息づき入り込んでいるものです。

今回はその「場」を深めてみようと思います。

場とはただの場所のことではありまん。場所というのは、その指し示す環境一帯のことでありそこに営みがあるかどうかはあまり関係がありません。しかし「場」となると、そこには確かな営みがありそこに集う人たちの思いや願い、心が存在します。

場が発生してくるというのは、そこには場を創ろうとした人の理念や初心があり、そこに集うものたちはその思いによって引き寄せられて集まる仲間たちです。これは例えば、山林にある雑草が生え人が全く手入れをしていなかった休耕田があるとします。そこに一つの思いをもった人が自然農法を行おうと独りで田に立つのなら次第にその田には野菜や作物、稲をはじめ虫たち、動物たち、周りの人たち、そして思いを共にする仲間たちが次第に集まってそこに「場」が産まれるのです。

この場が産まれれば、そこには空間が産まれます。この空間の「間」とは、時間を超越した間合のことです。間とは心のないところには産まれず、忙しさとは時によって行われるものですから忙しくない時、つまりその時そのものが無くなって「間」は産まれます。これを無の心ともいうのかもしれませんが、間合の中には時を超越した心が存在します。

そしてこの間があるところに「和」が存在します。この和とは、言葉で表現するのなら全てが調和し中庸になっているということです。和になれば心が安住する居場所が産まれ、居心地が善い場が誕生するということでもあります。これは次回、事例で深めて書いてみようと思います。

話を戻せばこの場と場所の違いは、理念を持った人がいるかどうかに由ります。そして理念を共にする仲間たちがいるかどうかに由ります。場と仲間というものは、常に隣り合わせであり、仲間づくりをしようと思えば場づくりをしようとなるのです。

今年は「場」の面白さに気づき、その場を子どもたちの環境の中に広げていきたいと思っています。場から学び直し、和の持つ有り難さを味わっていきたいと思います。子どもに一つでの譲り遺せるものを日本の文化から発掘し開発していきたいと思います。

居心地

人間はこの世に出てきて自分の居場所というものを持とうとします。これは自然の生き物と同じく、自分がこの世で何をするのかを求めて自分の居場所を見つけるのです。居場所を持つことで自分の世界での役割を知り、居場所ができることで自分の心が安住するところを知るのです。

そして居場所に対して居心地というものがあります。

この居心地の定義は、人それぞれに定義するものが異なりますが私は人の生き方であろうと思います。同じ生き方する人たちが集まればそこに場が生まれ、その場はとても居心地がいいと感じるからです。

例えば、ホスピタリティが高いホテルや、おもてなしが美しい旅館、その他、サービスの行き届いたショップや、よく気配りができていて丁寧な会社など、人は居心地がいいと感じることが多いと思います。

それはそこで働く人々の生き方が同じ理念、同じ方向を向いて皆で内省し精進を続けることで発生していく居場所があるからのように私は思うのです。居場所というのは、人々が集まる場のことであり、その居場所にいる人たち一人ひとりの生き方がその居場所の居心地を決めるとも言えます。

もしも理念を省みず、それぞれにバラバラな方向を向いて自分の好き勝手にやっていたらそこに居場所は産まれません。そして生き方が異なる人たちがもしも集まっているのならそこが居心地がいいとは思わないはずです。

人は、一人で生きているのではないのだから誰かと一緒に生きていくのです。一人で生きていると思っているのは錯覚で、その時代の人たちと一緒に生きているはずですし、自分の周りの環境の中で買い物や食べ物、その他を購入したり働いたりするのだからやはり自分の周りの環境と一緒に生きているとも言えます。

一緒に生きていく人たちがチカラを合わせて自分たちの生き方をその場その場で盡していくことが居場所を持つことであり、その居場所を居心地が善くするかどうかはそこで生きる人たちの徳の生き方に由るように思います。

一人ひとりが徳を高めようと人格を磨き続けるのなら、その場は徳によって思いやりのある場が自然発生していきます。もしも徳を蔑ろにして我ばかりを押し通してしまえば場もそれ相応に変化していきます。

場は人が創るものですから、その場にいる自分自身がその場を創っているのだという自覚がなければ居場所も守れず居心地を維持することもできません。人はあの人がいるから居心地がいいやあの人がいるから居場所があるというのは、そこに必ず徳の存在があるということです。

徳を高め、居心地が善い場所ができるならその場にいて心休まり心癒され心が繋がる人々が次第に集まっていくように思います。徳を積む人が増えれば人が集まるのは、その居心地が善い場所に徳を慕う人たちが集まるからです。結局、徳業というものの上に事業がありますから本来の道徳が優先で利殖が着いてくるのでしょう。

桃李成蹊もきっと居場所居心地があってできるのでしょう。

こどもたちのためにも、徳の道を譲れるように精進していきたいと思います。

自然の心

昨日、かねてより理念を共にするお客様と改めて初心についての確認を行いました。本来の開園の目的やその意味、また理由や内容を一つ一つ解いて結び直していると私自身がなぜここに御縁があり、永く一緒に取り組んできたのかも自明しました。

ここは仏教を信じる保育園で、その理念の根幹には仏陀の教えに沿っています。また具体的な実践として、自灯明法灯明によって仏性を内省により発明し、その仏性の思いやりによって平和な心を育てていこうという願いがあります。

もう私たちの実践する生き方の一つである「一円対話」をはじめ、他の仕組みも導入し、一緒に同じ方向で取り組んで9年目になります。9年間、何をやってきたのかに思いを馳せるとき、そこに仏陀の偉大な見守りや恩恵を感じました。

私たちの一円対話では、隣の人の善いところを観てそれを賞讃するというものがあります。その一円対話を進行する「聴福人」たるもの、常に善いところを観てその人の善いところを信じる生き方を実践していることが肝要になります。それは常に人の中には真心があり、その真心の気づきを聴いてその真心の声から御互いに学び、御互いを思いやり大切に敬っていくという心得があります。

そのための心がけとして自戒すべきは何よりも「人を見下さない」ということです。自分を特別視する人は他人を見下してしまいます。何でも分かったとなって自分が真理を知ったかと勘違いしているうちに自分の特別視が強くなるものです。そういう自他を分けて考えたところに思いやりや真心はなく、自他一体のところに有り難さも感謝も存在するように思います。

本来、どんな人でもその人の中には必ず魂や心があります。そしてその人間の本性に善悪はなく、そこにあるのは自然そのものです。自然に善悪はなく、自然はそのままで美しく素晴らしいものです。その美点、その美化したものを人が観るとき、それは全て善いことになり福になるものです。一円観は、その人の善いところを観ることで持ち味を発見し、その持ち味こそが自然の価値であると賞讃しているのです。

人が常に人の善いところを観ることができるということは、常に持ち味をみてその持ち味の素晴らしさを実感しそれをみんなで愛してみんなで活かしていこうといった自然慈愛の心であろうと私は思います。その慈愛の心はすでに仏陀が語り尽くしているように思います。

その一つに、不軽菩薩という話を聴きました。

「不軽菩薩 其の所に往き到って 而も之に語って言わく 我汝を軽しめず 汝等道を行じて 皆当に作仏すべしと」

これは私の意訳ですが、「不軽菩薩はいつもどんな時も語り聞かせていた。私は誰一人見下さない。みんな一緒にこの世に往生して日々修行している仲間であるから、みんな仏そのものにかわりはない」と。

この世に産まれてくるというのは、どんな人でどんな体験をするかも人それぞれ異なります。それにその人の姿容、また性格、持ち味も異なります。これは自然界と同じように、万物はそれぞれに自然の一部として存在しているということです。

あの植物は上で、あの植物は下、あの虫は善であの虫は悪などとの道理は自然界に一切なく、すべてのいのちはいのちそのもののありのままの姿です。そのありのままの姿こそが仏性であり、そのありのままを禮讃美することは自分の中の刷り込みを取り払い、本来の自然の姿を思い出すことになります。

人の善いところを観て、人の善いところを賞讃し、その人の気づきから学ぶことは自然界が共生し合う真心に近づいていくことのように思います。平和というのは、自然の中にこそ存在するものですからその平和を人々の間に築こうとするならば一円観の理念が私にとっては何よりも重要なことになっています。

私の自然の心はどんな生き物であっても偏見を持たず、まるで家族や古い友人のように接し、さらにそのものが持つ持ち味そのものを深く尊敬し、そのものの価値をそのままに活かせるような自然の心に近づきたいと願っています。

子ども達の為にも、人としての生き方をもっと形にして譲り遺していきたいと思います。こういう時代だからこそ、道徳や福徳といった人間の中にある善いもの、その徳を明らかにしその徳に気づかせその徳に報いる生き方を精進していきたいと思います。

 

必死

全ての生き物には感覚というものがあります。人間では五感や六感ともいい、味覚、聴覚、嗅覚、視覚、触覚、また直感なども感覚の一つだと言われます。今は時代的に視覚ばかりを使っていることが多いとも言われますが、古来からこの五感はフル動員してバランスよく活かすことでここまで生き残ってきたとも言えます。

視覚ばかりを使うと目が疲れ肩が凝ります。これは脳ばかりを優先し使っているからそこに筋肉が緊張することで疲れが溜まります。脳は視覚と直結しており、頭でっかちになっていくのも視覚を頼りすぎるから偏るのかもしれません。

この五感というものは、感覚の世界であり頭ではわからないことも察知したり洞察したりコツを掴んだりというように全体活動によって行われます。そしてこの五感というのは必死になることで最大限のチカラを発揮します。

自然界の生き物は、常に食べ食べられる関係でありいのちの危険に晒されています。もしも五感が研ぎ澄まされていなければ、その次の瞬間にはいのちを失っているかもしれません。常に自分の持ち味や得意を伸ばし、五感を最大限活用して生き残ることをしてきたとも言えます。今遺っている生き物たちはみんな、その五感を練り上げ研ぎ澄ませてきた生き物たちです。

都会に住み、安全安心な中で何でもボタン一つで便利に生きていると頭だけを使えばある程度のことは事足りてしまいます。ご飯をつくるのもガスを使ってキッチンタイマーで測り、ボタン一つで風呂も沸き、携帯をみては天気や電車の時間を調整する。これは頭で計算した世の中で感覚で理解している世の中とは異なります。さらに問題が発生しても自分の感覚を用いようとはせず頭で計算している通りにならない時にも周りに文句を言ってお金を払って解決します。これでは、言い訳ばかりの世の中になるのも分かる気がします。何もしないで文句を言えるのは感覚を使うよりも計算通りかどうかが重要になっているからです。

自分の身体に具わっている感覚は、磨かなければ減退していきます。どんなに才能を持った人でも、どんなに特徴がある肉体を持っていても、その感覚を鍛錬し研ぎ澄まさなければ宝の持ち腐れになってしまうものです。

人が挑戦する面白さは、「必死」になることです。必死になるというのは、五感をフル動員しているということです。この五感を使う面白さと楽しさは、いのちが輝いている感覚です。

よく後進国の子どもたちや、ジャングルの中の少数民族の子ども達が目がキラキラとしているのを見ることがありますがきっとあれも「必死」になっていることで出てくるいのちの輝きなのかもしれません。

今の時代、自分で「必死」を掴まなければ必死になる機会も環境もありません。平和というものは有り難いものではありますが、同時に平和にどっぷり浸かってしまったら本来の本能や生きている感覚までも減退していくように思います。そうなると何が大切だったのか、何を忘れてはならないのかすら消失していくのかもしれません。

人が挑戦している姿に感動するのは、その人の「必死」を見るからです。必死になっている人はいのちが輝いていますから、そのいのちの輝きをみると人は勇気づけられ元気が出るのです。頭でっかちに生きるよりも、必死に生きることの方がいのちは歓び、周りも幸せになります。

全てを与えられ、何もしなくても生きていけるようになることは決してその人を倖せにするわけではないのです。

日々に一期一会に生きるのは、その人のいのちの燃焼に懸っています。子どもたちのお手本になるような必死な生き方をして、五感を使うことで生き残ってきた先人の智慧を伝承していきたいと思います。

正論の刷り込み

先日、正論について考える機会がありました。正論とは、正しい意見、道理に適った言葉といい、確かに正確に物事を言い当てるものです。特に教える仕事をしている人たちは、この正論を吐くことで周りを説得したり納得させようとするものです。

しかし正論をいくら聞いてもその正論通りやってもうまくいかないとなることがほとんどです。正論は実際に現場で実践することができず、正論通りにやったからといってそれが納得されるかというとほとんどそれはありません。

例えば、ある人が問題を抱えていてそれがうまくいかないと相談にのっても共感もしていないのに正しいか間違っているかだけを見て答えてもそれは問題の本質を解決するわけではないからです。

人は時として、問題を解決しなくても共感しているだけで解決していくことがあります。

以前、村でニコニコと笑いながら頷いている御爺さんが村人の悩みを解決していくという御話を聴いたことがあります。村の人から尊敬されている御爺さんが亡くなり、はじめてその御爺さんが聾唖の方だったと知ってみんなが驚くという話です。その御爺さんが隣でじっと話を聴いてくれてニコニコと頷いてくれることで相談者はみんな自分で問題を解決していったという話です。これは江戸時代末期の名僧「良寛さん」にも似た話がたくさん残っています。喋らず黙って、相手の言うことに耳を傾けるだけで相手が自然に気付いて変わっていったと言います。

学識の比較競争刷り込みの中で、刷り込まれていると勝ち負けや正否に囚われ肝心な共感するということを怠ってしまう人が多いように思います。それはきっと机上では人の心までは共感できないからです。本来、正論よりも優先するものは常に思いやりであり、思いやりがあるから人間はその思いやりによって助け合い認め合うことができるように私は思います。

正論を述べては相手を打ち負かし、自分の正しいことを証明してもそれで現場が何か変わるわけではありません。かえって相手の自信と自己肯定感を奪っているだけで、その教える人は有名になって優越感を持てても実際困っている人たちはそれで解決しましたとはならないことがほとんどです。知識の持つ刷り込みに気付くためにも、あまり自分を特別視せず知識を用いて人を上下で見ないことが何よりも正論の刷り込みを打破する方法ではないかと思います。

二宮尊徳に「至誠と実行」がありますが、思いやりを行動することが何よりも現場の問題を解決するといいます。そしてそれはまず「傾聴」することや「共感」することが何よりも優先されると私は感じています。

自分を後回しにしてでも相手の話を聴いている人や、自分のことは気にせずに相手のためにと行動する人は「至誠と実行」している実践者の風格を感じます。世の中の刷り込みに巻き込まれて頭でっかちに頭ばかりを働かせようとせず、心で動いて頭で考えるように思いやりと行動を大切に日々を精進していきたいと思います。

変化の美

経年変化の美について書きましたが、経年劣化という言葉もあります。年月が経つということは、ある意味自然消滅していくものですから自然劣化していくものです。同時に、劣化せずに味わいが出てくるものもあります。それは道具に関わらず、人物においても同じように劣化と味わいというものは付き纏います。

例えば、齢を経ても美しさが変わらないとか、齢を経れば経るほどにその価値に磨きがかかりより一層美しくなるものもあります。いつまでも変わらないものを維持しているというのは、いつまでも大切にしているものが変わらないということです。

そもそも経年というのは、単に年月が経つことですが変化というのは自らが変わり続けることです。時代が変わっても、その時代の価値にあわせて変化を已まないでいることは常に温故知新を続けているということです。そしてそこには主軸になる理念があるように思います。

人は時代に左右されずに自分の信念を貫く人や、いつまでも理想や夢への情熱を失わない人も「変わらない人」と言うことがあります。そういうものを失ってしまった人のことを「あの人は変わった」とも言うこともあります。これは生き方のことを言っているのであり、見た目の変化のことではなく内面のことを言っているようにも思います。

人は理念があり、その道を歩み、研鑽を続けて精進をするのなら経年は変化の連続ということになります。変化の連続をするものは経年劣化とは言わず、経年変化というように思うのです。

道具も同じく、使われ続けたものは経年劣化とはいわず大切にその道具を用いる人がいるのなら経年変化になると思うのです。経年変化の美とは、変化の美のことであり、この世にいていのちが活きている証とも言えます。

いのちを輝かせ、いのちを活かし、いのちを盡していく日々が経年の持つ味わいを深いものにし、美しさを高めていくように思います。

古の道具に再び呼吸を取り戻すのも、こちらの姿勢如何です。かつての思いやかつての願い、そして理念と共に歩める仲間たちが増えていくことで場が生まれ、物語がはじまります。

変化を共にする仕合わせを大切に、子ども達に変化の大切さを生き方で譲っていきたいと思います。

経年変化の美

経年変化という言葉があります。これは時間が経ち、次第に変化していくという意味で使われます。この変化には、劣化していくという意味や、味が出てくるという意味もあります。古来から、日本では侘びや寂びという表現で骨董をはじめ古き善きものを愛でる感性というものがあります。

これらは鑑賞という言葉で、芸術や美術のもつ妙味を感覚で味わうように進化してきました。特に暮らしで使われてきた古民具や、その時代時代の価値観が反映されてきた古美術品などの中には、確かに「経年」の価値を感じます。

この経年の価値には、自然の変化と同じように自然が変化して積み重ねていく年月の重みを感じます。この重みは感覚によってはじめて直感できるもので、永い年月大切に遣われた重みや、誰かのためにと役に立ってきた重み、そして心を籠めてそのものをつくり上げた重み、様々な重みを感じます。これを重厚感といったりもしますが、心が入っているもの、経年変化の味わいがあるものはすべて重みがあります。

そしてこれは人にも由ります。

何百年も何千年も時代の篩にかけられて遺った言葉も重みがあります。例えば、孔子や仏陀、キリストなどの言葉にもその一言には重みがあります。そして道を歩んだ大家や、実践を積み重ねた方々にも貫禄があります。この貫禄も重みのことで、軽々しくない行動や眼差しには凛としたものをいつも感じます。

この経年変化は、自然の持つ日々の積み重ねの自然美のように私は思います。

自然を観賞する感覚というものは、その人の自然観に由るものです。どれだけ自然が美しいと感じるかは、その人の心の澄み方に由るものです。心が澄んでいれば自然が美しいと感じ、自然の美しさが心に映るということはその人の心が澄み渡っているということです。

その自然の美しさを道具の中に見出し、その美しさを留めている骨董に心を通じ合わせる仕合わせを味わっているのが経年変化の美のように思います。新しいものばかりが価値があるかのようになり古いものは価値がないと捨て去られていく世の中ですが、自然の価値の素晴らしさは永久不変の美であろうと私は思います。永久不変の美には「とき」が籠っています。

子ども達のためにも、その自然の真心を伝承していきたいと思います。