情熱意識~薪をくべ続けること~

昨日、GTサミットが東京で開催されました。全国から同じ理念で保育を実践し高め合う仲間たちが集まり、語り合い学び合いました。総勢90名もの各地域のリーダーが集まると、会場は強い熱気に包まれます。

この熱気というものは、その人の熱意によって発生します。この熱量とは一体何か、これは情熱の意識のことです。これをやろうと決めている人たちや、やり遂げようと精進している人たちが持つ熱意の集積が会場の熱量になっているのでしょう。

人は熱意がなければどんなことをやろうとしても実現できることはありません。いくら能力があるからと、才能があるからと、取り組んでいても、長い年月継続して最期まで遣り抜くには必ず其処にその本人の熱意があります。

京セラの創業者稲森和夫さんも人生の方程式として、「人生 仕事の結果=考え方×熱意×能力」であるといいます。この3つがかけ合わさってはじめて人生が顕現してくるからです。その中で一番大切なのは、やはり熱意ではないかと思います。熱意がなければ一所懸命に取り組むことができません。人はどんなに壁が立ちはだかろうとも熱意があれば禍も転じて福にしていくプラスのチカラを得ることができます。熱意が乏しければ運にも気づけず、その運を伸ばしていくこともできません。熱意というものは、初心を燃やし続ける燃料でありその燈火を絶やさないという覚悟です。

また松下幸之助さんはこうもいいます。

「熱意に関してはだれにも負けないものを持たなくてはならない。知識なり、才能なりにおいては人に劣ってもよいが、熱意については最高でなければならない。指導者に、ぜひともこれをやりたいという強い熱意があれば、それは必ず人を動かすだろう。そしてその熱意に感じて、知恵ある人は知恵を、才能ある人は才能をといったように、それぞれの人が自分の持てるものを提供してくれるだろう。指導者は才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なきことを恐れなくてはならない」

できるできないがモノサシの判断ではなく、熱意があるかないかがモノサシの判断であるということ。必ず初志貫徹するという熱意の質量が、今の自分の姿であるということかもしれません。

自分に如何に薪をくべ続けて火を燃やし続けるかは、その人の求めていく熱意と行動が決めていきます。一年に一度でも、熱意ある仲間が集まることでまた情熱に薪をくべてその火を燃やせばまたその燃えた火によってさらに前進していくことができるものです。

燻っている火がまた燃えていくのを見られることも仕合せなことだと思います。子ども達の情熱もまた、周りの大人たちの生き方が薪をくべていくように思います。自分たちの情熱が子ども達に譲られていくことを念じつつ、何よりも強い熱意をもってこの見守る保育を弘げていきたいと思います。

自然共生の本質

自然界には共生関係というものがあります。それは相互扶助の関係で御互いに助け合うことで御互いを守る関係です。これを共生とも言いますが、本来の姿をよく見つめてみると自然は競争ではなく全て共生で成り立っているとも言えます。

例えば、アカマツとマツタケの関係があります。アカマツとマツタケの共生関係は「菌」が関係するということが解明されてます。 外生菌根から土壌中に広がる菌糸を根外菌糸体と呼び、松茸は根外菌糸体が土壌中から吸収した養分の一部を外生菌根を介して松の根に与え、逆に松が光合成で得られた糖分を分けてもらいます。痩せた土地であればあるほどに力を補い合い、御互いが存在しなければ生きることもできないというのが共生の関係です。

そして共生は、単に御互いにメリットがあるからやっているのではなく、一心同体に一生懸命自らのいのちを与え続けて生き切ることにより献身的に助け続けて成り立ちます。このマツタケでいえば、アカマツが育つまでは菌は栄養を貰うことができないのです。それまではじっと信じて耐えて何年もアカマツが育つのを待つのです。

そしてこの共生と子育てはとても似ているように思います。

全ての自然界の生き物たちは子育てを通して共生関係、相互扶助を結びます。鳥であっても、育つまでは大人の雄雌で給餌をして必死で子どもを守り育てます。他にもサバンナの生き物たちも危険を省みず同じように自分のいのちを懸けて子どもを育てます。そうして何年もかかるものもあれば、人間のように十数年~数十年以上かけて子ども時代を見守ります。

その間は、自分の養分を分け与え続けるのです。そうして育ったものから、今度は自分が生きるためのいのちの糧を分けてもらうのです。本来の自然観とは、生死がかかっています。つまりは必死の中で、生きるか死ぬかの中に存在します。そういう中での助け合いとは共生であり、相互扶助の本質です。

人間のように今ではそんなに生き死にが身近になくなってきているから、共生のことが分かりづらくなってきているのかもしれません。頭で妄想している自然は不自然ですから、本来の自然に生きているいのちに私たちは学び直す必要があるように思います。そして自然界が競争ではなく共生である理由は「必死」であるから相互扶助(共生)が存在しているのです。

今の社會は助け合わなくても一人で何とかできるかのような風潮が出てきています。そんな不自然な環境下での助け合いは本来の助け合いの本質とほど遠くなっているようにも感じます。

共生の本質が理解できるのは、必死であることを自覚しているからかもしれません。自然の智慧を学ぶには教科書のように知ればいいのではなく、文字通り自然本来の姿に自分を近づけていくことのように思います。

共生から自分の刷り込みに気付けるように、学び直しを深めていきたいと思います。

知愚一如

森信三先生の人生の中で、生き方を大きく転換した中の言葉で「知愚一如」という言葉があります。それに気づいてから、自分の中の学術研究の意味もまったく変わったしまったほどだったと後述しています。

そもそも「知愚一如」とは何か、それを少し深めてみたいと思います。

まず最初に森信三先生はこう言います。(「知愚一如」 即ち、知者も愚者もひと度、絶対者の前に立てば全く同価値であって根本的にはその間に絶対に優劣がつけられぬということが、真に分かることによって初めてわたくしの哲学体系たる「恩の形而上学」は生まれたわけです。(「不尽片言」より))

これは根本にはすべて優劣などはないという意識のことです。そもそも知識というものは知っていることが優れ、より知らないものは劣っているという考え方を持っていては本当の意味で「分かる」ということはありません。これは「分かった気にならない」という言い方を私はしますが、分かるという考えがある以上はその知ることが愚かだということに気づけないということです。

さらに「森信三一日一語」(致知出版)の中でこうも言います。「知っていて実行しないとしたらその知はいまだ真知でないとの深省を要する無の哲学の第一歩は実はこの一事から出発すべきであろうに。」と。

つまり真知とは何か、やろうともしない学ぼうともしないのでは意味がないのではないか。知ることが如何に愚かなことであるかということに気づき、そしてそこから学び方を転換しているのです。これはカグヤで言う「やって内省しなければやらないのと同じ、内省してやらないのでは学ばないのと同じ」というように私は理解しています。

そしてここから「恩の形而上学」という境地に入ります。そこでは「「恩」とは、この自己の一切が、自己を超えたものの力によって与えられ恵まれているのみか、さらに自己の今日に到るまでの一切の歩みもまた、同様に自己を超えたものの力によるとする意味である。」(森信三)

これは次第に真知を実践していく中で、感謝、御蔭様、そして報恩という境地に意識が高まってきたと感じます。私自身、日々に書いている感謝日記が次第に深まっていくたびに御蔭様を経て報恩や報徳の真価に辿りついてきています。世の中の学問や哲学などというものを考える前に、本来のあるべき姿に立ち返り実践をするのなら自ずから明らかになるのが真理というものなのでしょう。

最後に、知愚一如についてもっとも明確に顕されているものを紹介して終わります。それは兼好法師の徒然草の中にある一節です。

『但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。』

真実の人は賢愚得失は存在しないということ、つまりは一切は「無」であるということです。

世の中に、様々な知識の刷り込みがあるからこそ自らの実践を高めて日々に精進し、余計な知識は手放しつつ子ども達と道を味わうためにも自らの感化につとめていきたいと思います。

変化の本質

人生というものは二度ありません。だからどんな時も一期一会であるとも言えます。あの頃はと思い返してみても、あの頃は戻ってくることはありません。その頃に感じたことはやはり一期一会であるのです。そして人生には変化があります。同じ人間がずっと同じままでいるということはありません。人は変わっていくものです。

明治以降に、税金を管理する関係上の法律ができて自分の名前は一生そのまま変わらないというルールが現代になって適応されました。それまでは人は変化に合わせて名前を変えてはそれまでの生き方を変えて新しい自分としてその時代の変化と共に歩んできたと言います。例えば、上杉謙信の場合も虎千代→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信とその時々の変化に対して名を変えて新しい自分で生きていきました。

つまりは人は変わらないということはないということです。幼年期から少年期、青年期、成人し、壮年を迎え、熟年、老年など、人生は確実に死に向かって前進していくものです。その都度、他人はその状態が変わるのだから変化しないということはありません。不老不死で見た目もいつまでも同じ齢のままということは、生きている以上はありえないことです。人は変わっていくというのは、受け容れることではじめて今の自分に出会いますから変わり続けていく自分を味わっていくことが人生の醍醐味であろうとも思います。

しかし同時に、変わらないものがあります。それは道です。一生涯かけて何度も変化したとしても、いつまでも同じことを実践しているというものがあります。私であればかんながらの道ですが、この十数年で何度も自分の意識は生長し別人のようになったはずなのにいつまでも同じことを続けています。これは別に一生勤めた会社にいるという意味ではなく、一生同じ道を歩んでいくということです。そしてこの道を歩んでいるということは、そういう「生き方」をしているということなのです。

ファーブル昆虫記のファーブルは90歳で亡くなるまで、ずっと昆虫を研究してきました。その間、何度も食べていけない状態が続き、そして何度も引っ越しをしたり職を失ったりしました。しかしそれでも虫の研究は死ぬまで続けています。他にもミミズを一生涯死ぬ直前まで研究した進化論を記したダーウィンもまた大変な状況に何度陥っても遣り続けました。

変わるものと変わらないものがあるのが人間です。

人生は必死ですからどんな人でも使い古されて死に至ります。それは変わり続けていくということの本質です。しかし変わらないのはそこにはその人が持って産まれた理想があります。その理想に対して決めた生き方は、死んでも変わることはありません。その生き方は、どんなに変化してもいつまでも同じ道を歩んでいるのです。

変わるものと変わらないもの、その両輪を円満にしていくことが一期一会に生き切るということなのかもしれません。

出会いがあれば別れがありますが、それは新しい出会いと別れを同伴してきます。その中で一期一会の道を一緒に歩んでいくのだからそこは確かな御縁があります。

子ども達に受け継がれ譲られていくいのちだからこそ、これまでの御恩を忘れずこれからも感謝で共に変化を味わいながら生きていきたいと思います。

報恩謝徳

人間は、我が優先されてくると今までの御恩よりも今の自分にとって都合がいいかどうかを考えたりするものです。本来、今の自分があるのは自分の一人のチカラで成り立っているものなどは何もなく、全ては今までの御蔭様の御力添えによって今の自分が成り立っているともいえます。

これは少し考えてみればわかることですが、カラダを与えてくださったご先祖様方。そのご先祖様方を支えてくださった縁者の方々。また育ててくださった父母をはじめ、先生や友人、兄弟などあげていけばキリがありません。

自分の一人のチカラではないものを、わざわざ自分一人が苦労して手に入れたなどと錯覚しては全ての御恩まで私物化していくのです。目の前にあるものや、自分の身の周りにあるものはすべて過去の御縁と御恩の集積です。その偉大な見守りや御蔭様が観えている自分であるならば自我妄執に打ち克っていますが、もしもその御蔭が自分のおかげなどとなっていたり、もしも相手に見返りを求めているのならすでに自我妄執に囚われているともいえます。

このように自分の都合を優先するようになると、その御恩も御蔭も自分の解釈でさも真実のように自分に都合よく捻じ曲げてしまいます。だからこそ、自分が見守られていることに気づいているか、自分が多くの御蔭様のハタラキで存在できていることが観えているか、と自戒しては内省し振り返っていることで本来の御恩や感謝に気づけるように思います。人間には所有欲や支配欲をはじめ様々な欲があります、しかし欲そのものが悪いというわけではなく理念や初心を優先できないことに問題があります。欲があるのは自分を守るためだったり、生きていくためだったりもします、だからこそ理念を設定し理念を優先することで御恩を忘れず感謝も忘れず徳に報いるための実践になっていくように思うのです。

「報恩謝徳」という言葉があります。

これは恩に報い徳に謝すという意味で恩に感謝し報いていこうという真心のことです。自分が今までいただいたその有難い徳の御力添えに対して、いただいてきた全ての恩に対して自分のできる限りのことを返していこうとする心。

この報恩は受けた恩に報いることで報徳ともいうそうです。そして謝徳は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩ともいうそうです。どうしても感謝の気持ちから何かをお返ししたいという心の発露が自然に出てくる心境に入っているということです。

本物の謙虚さというものは、報恩謝徳にこそあるように思います。

日々の試練は、理念を優先し如何に自分の都合と折り合いをつけるかの一進一退の真剣勝負でもあります。しかし、日々の実践を通じて感謝という意識の境地に達していくならば自ずから報恩する生き方に転じてくるように思います。私が尊敬する二宮尊徳が実践した「報徳思想」は、この御恩を刻み徳に報いる生き方だったのでしょう。少しずつですが、その深い真心に触れては有難い尊い歩みに御縁を感じます。

今の私にはまだまだとてもその境地にはいけそうにありませんが、日々の実践が何のためにあるのか、理念の御蔭様で振り返りができることにお時間とお役目をいただけた仕合せも感じます。

この「報恩謝徳」を常に自戒にして、これからも精進を続けていきたいと思います。

 

言葉という技術

人はコミュニケーションをとることで理解し合っていくことができます。対話がなぜ必要なのか、それは御互いを理解し合っていくためです。以前、養老孟子さんが「他人は互いにわかり合えないものです。わかり合えないからこそ、言葉があるのです。」ということを仰っていました。今のように言葉が無数に広がり使われるのはその技術を駆使されているからです。

人間は分かり合えないということを前提にしているからこそ、言葉という道具を使い細かいことを伝え合うのです。道具はすべて使い道ですから、どのように使うかで薬にもなれば武器にもなります。今はそれだけ細かく伝えなければならない理由が発生している情報が氾濫する時代だと言えます。

だからといって最初から伝えることを諦めてしまったら、分かり合うことができません。人は自分の方ばかりを分かってもらおうとしたり、どうせ分かってもらえないと諦めたり、分かるはずがないと決めつけたりしていたら言葉で伝え合うこともやめてしまいます。

想いを伝えるというのは、自分がどういう想いなのかを伝える技術です。心を遣って言葉の技術を磨いていくことは、分かり合うための学力かもしれません。分かり合うために言葉を使う私たちは、その言葉を磨いていくことでより人と想いを共有していくことができるからです。

そしてコミュニケーションや対話において重要なのは信頼関係です。信じているか、それとも疑っているかでは同じ対話でも同じ結果にはなりません。まずどのような「場」があって、その場でどのような心で伝え合い、御互いの立場や状況をどのように理解し合っているかという心の余裕が話の進行に関係してきます。言葉というものは御互いが余裕があるときに聴けば心地よいものも、御互いに余裕がないときに聞けばかえって不具合になることもあるのです。つまりは余裕を持つために自分の状態を常に確認しているかということは言葉を発する上で重要な要素です。

「我々は、行いによって友人をつくるよりも、言葉によって敵をつくることの方が多い。」(チャートン・コリンズ」というものもあります。

だからこそ日頃から小さな言葉がけや関わりを自らが発し、繋がりが観えなくならないように手間暇を惜しまずにコミュニケーションを持つことで、相手がどんな状況であるのかを慮り思いやり小まめに相手の心に寄り添うことで互いの言葉を通して相手を理解していくことができるように思います。

人は発信することで受信しますから、受信するにも発信しなければ還ってくることはないように思います。信というものを頼りに関係を築くのが人間ですから、不信になれば信頼関係を築くことが難しくなります。

それに相手を理解する前に、人間は誰しも自分自身のことが一番分かっていないものです。自分と静かに向き合って内省し、素直な心で自分の本音本心を知ることで言葉は大切に磨かれていきます。自分が一生涯に生きて、どんな言葉をかけていきてきたか、それを想い返せば壮大な生き方が凝縮した一冊のノートのようです。そこに記した言葉を読めば、その人の人生の日記、そして一生の歴史そのものを記すものかもしれません。

このブログも、日々に書く日記も、どんな一日を過ごしたかが書かれていますからそれだけ言葉を大切に磨いていく中で言葉や道具の使い道を間違えず、言葉の砥石で自分も磨いていけるように思います。

人の言葉を素直に受け止めていく人は、御縁を信じて歩んでいける人のように思います。言葉によって傷つくからと、言葉を使うことを避けたら本当に善い言葉に出会えることもなくなってきます。これは人間の出会いと同じで、出会いと別れは常につきものだからこそその両方を福にしていくためにも正対し、丸ごと向き合っていくことが御縁を味わうことになっていくのでしょう。

コミュニケーションは人間関係の要諦ですから、引き続き学び直していきたいと思います。

君の志は何ですか?

人は純粋であればあるほどに志を持つものです。志というのは、純粋性でもあります。その人がどれだけ理想に対して真剣であるか、理想に対して素直であるかが問われます。以前、NHK大河ドラマの中で吉田松陰が「君の志はなんですか?」と何度も聴くシーンがありました。まず出会った人に志を尋ねるその純粋さに心打たれたものです。

この志は、混じりけのない純粋な思いでありそれは理念とも言い、原点とも言い、初心とも言うものです。人は私的な自我が強くなればなるほどにその純粋な思いを忘れてしまい気が付けば不純なものに入れ替わっていくものです。本来は純粋性こそ本物のその人らしさです。もしも本当にその人が純粋に思いを語れるのなら、それが志とも言えます。この志は生まれた時から持っているもので、それが曇らないように澄ませていくためにも穢れを祓い清める日々の実践があるように思います。

そしてその志を推し量るのに下記があるように私は思います

一つは、運の強さ。そして一つは、思いの強さ。もう一つは、絆の強さ。この3つがあるものは強い志に支えられているように思います。さらに同時に、真心の篤さ。次に感謝の篤さ。最後に学びの篤さ。この3つの篤さがあるものは篤い志に助けられているように思います。

その強さと篤さは「最期まで諦めずに絞り出したか」、そして「常に全身全霊を出し切ったか」の集積によって積み上げられていくようにも思えるのです。

志は誰にしろありますが、その志を開いてくれるのは全て御縁です。

出会った人に「あなたの志はなんですか?」、「あなたの目指す理念理想はなんですか?」と尋ねることは、つむいできたつながりの道の上にある一期一会のあなたとの御縁を信じていますという確かなメッセージです。

私はお会いする人たちに信念の種や志、理念を尋ねます。それはその人たちの志を叶えたい、そして同時に自分や周囲の方々への御縁を結びたいと願うからかもしれません。かんならの道は御蔭様の道でもありますから、出会う御縁に導かれるように歩んで往ける今がいつも仕合せなことです。

「出会いの哲学は初志にあり、御縁の哲学は貫徹にある。」藍杜静海

一期一会の生き方の中から学び直すことばかりです。道中の出会いを大切に、一日一生を実践していきたいと思います。

 

好循環~実践の強さ~

物事には好循環というものと悪循環というものがあります。これは循環の理の中で如何に循環を理解しているかということが深く関係するように思います。循環を邪魔しないというのは、自分が循環の中に入るということです。

しかし実際は、自我欲や己に負けては循環を邪魔をし謙虚さを忘れては間違いをするのも人間です。素直さや謙虚さというものは、実践を忘れない心があってこそ顕現してきます。いくら頭でわかっていても口先で語っても、一つの実践には敵いません。一つの実践を丹精を籠めて取り組んでいく中でこそ、はじめて循環の中にいる実感を持てるようにも思います。

二宮尊徳は常々、「道は書物にあるのではなく、行いにある」としています。知識で分かったからとそれ以上取り組むのをやめてしまったり、本を読んでは理解したからと深めていくことをやめてしまっているのは道ではないということです。この道もまた循環に関係しますから、大いなる廻りに同化していくためにも日々の小さな実践を積み重ねていくことで道と縁は展開していくように思います。

二宮尊徳はこう言います。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道を知るもの、必ず行はざるべからず」

道を知る者は必ず実践しているものだということです、そして道を知らないのは学ばないとの同じで学んでいないのは生まれていないのと同じであると言います。学ぶということは道を実践することであるとはっきり定義しています。

孔子が論語の中で、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」といいます。

最初から苦労なしに学んだ人たちは誰もおらず、みんな自らが苦労を積み重ねてその長いプロセスの中で道を実践し体得して周りの人々のお役に立ったのです。自らの実践を怠り、知識ばかりを増やしては満足していたら道は遠のいていきます。そして循環というものは、自然と同じですが本当に少しずつ動いていきます。頭で考えているようなスピードや頭で思っているような結果はすぐに出て来ません。しかし好循環は、発酵と同じく本当に小さく少しずつ動いては偉大な変化を創造していくものです。

日々のちょっとずつでも小さくても行う実践こそが何よりも偉大なことを実現します。それを二宮尊徳は「積小為大」といい、実現するのに「至誠」「分度」「勤労」「推譲」と言いました。これはまさに好循環の理を語っているということに他ならないと私には思えます。

迷いを断つのは日々の実践への強さが影響するように思います。子ども達のためにも、実践を強く発揮していきたいと思います。

炭のチカラ③

今回の夏季実践休暇で炭を深めれば深めるほどに奥深く、炭が持つ多彩な効能には驚かされます。例えば、森や川を再生させるために用いられたり、生き物たちが回復するのを助けたり、循環が滞る場所に炭が入ることで循環の流れが活性化されていく姿には感動することばかりです。

特に炭と微生物がこんなにも深く関わっていることを知ると、発酵の持つ本質に近づいていく気がして本当に有難い気持ちになりました。本格的に発酵から学び直しをはじめて約4年、その道の中に炭との出会いがあったことでさらにこの発酵が愉しくなりました。

これは人生と同じで、一見、関係がないように見えてしまうことでも「道」であると実践を積み重ねれば、寄り道や道草の中で不思議な出会いに回り逢い、シンクロにてシティを感じることができるという御縁の仕合せと同じです。今では単に知識だけを幅広く持っていることばかりを楽しみ実践を怠っては道に気づかず、本来の実践の愉しみが分からない人が増えてきているように思います。

人間にとって何よりも大切なのは、道に入ることです。

その道に入るというのは、自らを磨きあげよう、そして自らを鍛えよう、自らを高めようといった、敢えて苦労を選んでも愉しみたいと実践することを決心することのように思います。生き方を観て尊敬する人に出会ったなら、そこには必ず何らかの道が存在します。その道を極めた人や達人に触れることで、実践人たちが道を愉しんでいる姿に憧れるのです。子ども心は憧れですから、憧れが続くというのは実践を怠らず取り組んでいることができるからなのでしょう。

私の場合はかんながらの道ですから自然を観るとなんでもすぐにワクワクしてしまいます。その道を辿る中で人生は彩られ、かつてない感動に出会い続けることができます。この発酵や炭もまさに自然の美が奏でる共生循環の世界そのものです。

話を戻せば、炭の微生物の発酵に江戸時代元禄年間に書かれた宮崎安貞による「農業全書」というものがあります。そこには炭の活用で「万の物を蒸し焼きにして、濃き肥と混ぜてねかせ、万の物に遣ると良い。とくに豆に良く効く。これを灰糞と言う」と書かれていました。

宮崎安貞は元和9年安芸の国(広島)に生まれ、父親は宮崎儀右ェ門という方で浅野藩主で山林奉公を勤めた方です。その安貞が25才のときに福岡藩主黒田忠之に200石で召し抱えられましたがやがて自ら官を辞し、九州を始め山陽道、近畿、伊勢、紀州の諸国を巡歴し各地の篤農家を訪ねその経験を聞いては種芸を学び農の集成と中国の農業書を読んで研究を積みあげました。その後、福岡の志摩郡女原に帰ってからは一農民となって自ら鋤鍬をとり、周りの人々と農事改良と、農民生活の向上に心魂を傾けた人物で人々からは「農聖」とも慕われていた方です。

この「農業全書」に記された灰糞はの効果は今では科学的に証明されており、炭や灰のチカラで田畑に自然の植物ホルモンや抗生物質をつくりだし土壌病害なども防いでくれることが分かってきています。ここからも先人たちの炭の活用はすべて発酵につながっているということが具体的な技術にも応用されているのがわかります。この農業全書もまた炭からいただいた御縁です。

今回も大変有意義な実践休暇になりました。実践できることが有難く、実践をさせていただける仕合せに感謝することばかりです。引き続き、この炭の持つ神秘を深めつつ、発酵の智慧を体験により学び直していきたいと思います。

炭のチカラ②

昨日、無事に合計700キロの備長炭を床下に敷き終えることができました。すでに2日目になると、床下の空気や雰囲気も澄んできているのを感じます。炭の効能は科学的にわかってきている部分もありますが、未だに解明されていないものもあります。

先人たちは炭と共に暮らしていく中で、その効果を長い年月をかけて自得していたのでしょう。昔は傷ついた動物が炭焼き小屋で傷を癒したという民間伝承も遺っています。実際に、牛や犬なども胃腸を整えるときに炭を食べているそうです。炭には水を浄化するだけではなく体内を浄化するチカラもあり、いのちに関わる様々なところで昔は活かされたようです。

私の中で現在、発酵を通して気づいたことは炭には微生物が棲んでいるということです。炭の表面を拡大して観察するとミクロ単位の孔が無数にあるそうです。その孔は縦横無尽につながっていて全てが外気に触れています。

この炭の内部にある「多孔チューブ」の表面に水や空気が通ると有害物質が吸着され、孔内にすむ無数の微生物によって分解するという仕組みです。この内部に住む微生物こそ土壌をアルカリ性にする作用があり、木炭を撒いた畑の作物が良く育つ理由とも言われています。私たちが生活しやすいように微生物たちに活躍してもらうという方法なのです。

私たちの住まいが家であるように、微生物の家は炭になります。そして炭を愛する微生物たちが私たちの人間の暮らしに共生し、自然の相乗効果を発揮するのではないかと私は推察しています。

自然農や自然養鶏の中で、水の中に炭を入れていますが生き物たちはその炭の周囲を暮らしの中心にしていきます。不思議なことですが、その炭を置いた処から発酵場になり発酵が進むのです。多様な生き物を活性化するということが発酵ですから、炭の効果は甚大なのです。

今回の夏季実践休暇で気づいたことは、「炭こそ暮らしの家」であることです。炭がある暮らしというのは、そこは豊かな生態系が発生してきた家であったということです。私たちの親祖たちもずっと火をおこし炭を焼き暮らしてきました。そしてその周りに人間たちが共生した生き物たちが集まって豊かな生態系の中で一緒にいのちをつむいできたということなのでしょう。

炭の持つ、不思議なチカラを体験できる善い御縁をいただきました。さらに炭道の達人との新たな出会いもありましたから引き続き学び直しつつ深めていきたいと思います。