遊び心~童心に帰る~

遊び心というものがあります。英語ではユーモアやユニークという言い方をしていますが、この遊び心というのは物事の全てにおいて重要なことであろうと思います。遊んでいるのか学んでいるのか、遊んでいるのか真剣なのかというように、まるで事物一体になっている人の集中力の中には遊びが必ず入ってきます。

その遊び心は何かということを少し深めてみようと思います。

遊び心は辞書でひくと、「遊びたいと思う気持ち。また、遊び半分の気持ち。」「 ゆとりやしゃれけのある心。」「音楽をたしなむ心」などと書かれています。

ゆとりを持っている人というのは、どこか真剣な中にも遊び心がありそのものを心から面白がって取り組んでいます。子どもの頃は、何をやっていても面白く、どれをしていても愉しく、大人になってみると何が面白かったのだろうかと思いますが今でもその感覚は覚えています。

好奇心と呼んでもいいのかもしれませんが、何に対しても興味が湧き、どんなものでもやってみたいと思うのです。ワクワクドキドキのままに、集中して愉しみ時を忘れて気が付くと日々がいつも充実しているのです。

人はそのワクワクドキドキを真面目過ぎることで見失っていくものです。面白くもないことを真面目にやるより、真面目なことも面白くする方がなんでも楽しくなってきます。結局は、自分の中にあるワクワクドキドキの蝋燭の火を灯し続けているかどうかがその遊び心を満足させるコツのように思うのです。

遊び心がなくなれば仕事も人生もつまらないものになってしまいます。

畢竟、私にとっての遊び心とは子ども心、つまり童心です。

言い換えればこれは理想を求めて已まない心のことです。

人は理想を失うとき、子ども心を失います。

どれだけ真剣であるか本気であるか、覚悟が決まっているかは、その人の遊び心を観ればわかります。よくニコニコ顔で命懸けという言葉を使ったりもしますが、大変でも愉しい、苦しいけれど仕合せ、ピンチだけれどチャンス、禍転じて福になる、そういう心境というのはワクワクドキドキし続けている証拠なのです。

子ども心は、大人から押し付けられた刷り込みによって真面目であることを強要されて失っていくものです。優等生に仕立て上げられる中で、本来の遊びは次第に消失していきます。

人生は一度きり、どれだけ面白いことに出会うかが人生の豊かさであり仕合せのように思います。日々に出会う奇跡にどれだけ心がワクワクするか、そしてリスクを取りどれだけドキドキするか、まるでそれは遊びそのものです。

子ども心が亡くなった人に遊ぶことはできません。

私たちの会社の理念である子ども第一主義は、その理想を諦めさせないことで子ども心を見守りたいと祈る実践でもあります。子どもの周囲の大人が、童心をなくしてしまうことを私は一番危惧するからです。

童心というものは、純粋に素直に、謙虚に正直に、そして何よりも自然を愛し野生を尊ぶ心の中に棲んでいます。ワイルドに飛び跳ねるように世界を廻り、ナチュラルに仲良く元気に、ピュアに明るく健やかにセンスオブワンダーの原点、その童心に帰る日々にしていきたいと思います。

 

忘れないこと~実践の真価~

私たちはなんでも忘れていく生き物です。日々に情報量が多ければ多いほどに、かつての出来事は忘れてしまいます。これも一つの生存本能で、全部おぼえてしまえば膨大に混雑した情報を整理することができなくなります。言葉ができ本ができコンピューターができるように、今では脳の代わりを道具が担うようになりました。そこに情報を保存して溜め込み、それを取り出すことができるのです。

しかしそれも自分が在る程度は引き出すための情報を持っていなければ取り出すこともできません。つまりは、覚えている機能は自分自身なのだから主はあくまで自分であって道具ではないのは分かります。

そして何かの決断や判断をするときは、その膨大な情報量の中から自分の中で吟味し決心して物事を決定します。それは何のためにやるのかや、なぜこれをやるのかと、自分の心に尋ねてはそこからできる最善の決断を自分が下すのです。

それは初心とも言います。その初心は物事のはじまりであり、自分がそれを行うための動機の元です。原点といってもいいし、根本や本質、目的という言い方もします。その決断を下すにはシンプルな答えが出てくるものです。情報量がいくら膨大であっても、何のためにかと問うとき情報の束に隠れていた真実が出てくるように、かき分けてもっとも真底にあるものを探し出すのです。

しかしそれをまた見つけても、日々の情報量の塵や埃が降り積もりまた気が付くと見失ってしまいます。これは忘れてしまいますと言った方がいいかもしれません。まるで神社の参道に積る落ち葉のように、日々に掃除をしていなければ参道がどこであったかもわからなくなるほどです。

だからこそ神社では参道の掃除を神職の方々は欠かしません。それは初心や原点を忘れないための実践だからです。なぜ日々に塵や埃を自ら掃き清め洗い流し澄ませる必要があるのかは初心を忘れるからです。

情報量が多ければ多いほどに、どんな時も初心を忘れていないか、道を見失ってはいないか、一人慎み内省し、また初心に出会うのです。

理念など誰でも分かるし知っているという人も沢山いますが、しかしそれを片時も忘れたことはないと言い切る人たちはどれだけいるのでしょうか。人間の修養というものは、己に克つことですがそれは初心を忘れない人になるということのように私には思えます。

常日頃忘れないための実践とは、塵や埃にかぶらないように大切に守ることです。常に心の原点に回帰し、心の原点を忘れないために掃除のような実践、つまりは初心の実践を実直に守り続けることで忘れないように工夫していくことが最善のように思います。

人生は一度きりですから、大事な役割や使命を忘れないように実践を何万回と積み重ねて修業していきたいとおもいます。

生活人の智慧~郷中教育~

鹿児島には風土の教育文化として「郷中教育」というものがありました。この郷中教育とは藩内に「郷中」と言う数十戸で構成された自治組織を設けこの組織内における異年齢の子ども同士の間で学び合う仕組みです。

具体的には、六歳か、十歳までを小稚児と呼び、十一歳から十五歳の長稚児が生活万般のモデルを示す。さらにこの長稚児を指導するのは、十五歳以上の二才(にせ)と呼ばれる青年が担います。二才のリーダー格を二才頭(にせがしら)と言い、西郷隆盛はこの二才頭を務めていました。

所謂、「子どもの自治」を行うことで子どもたちをたくましくさせる仕組みがあったのです。今では大人が教え込まなければ子どもは育たないなどと刷り込まれ、知識や規範を厳しく躾けるようなことがいいように思われますが、かつて歴史で立派な人たちを沢山輩出した郷中教育では子ども同士の学び合いを何よりも重視しました。

そこには規則はありましたが、基本的には先輩がモデルを示し後輩を思いやり、己に克つための生き方を導いたリーダーが存在しただけです。非常に理に叶った方法で、異年齢による養育を行っていました。

その仕組みは、私たちの行う一円対話とよく似ています。磯田道史さんのニュースの紹介記事から抜粋していますがここにはこう書かれています。

「薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。」

子ども同士で気づき合うのがもっとも偉大な先生という発想です。異年齢で教え合うことで仲間の発達や気づきから、自分自身を鏡のように内省し、自らの改善点を自らで発見しそれを克服していく。

人間が育つということは、己を修めるということです。その己の修め方は先生が机上で教えるのではなく、仲間の挑戦から学ぶという方法です。決まりは、負けるな、嘘をつくな、弱い者いじめはするなと明瞭です。その他、自らに打ち克つためのことが書かれるくらいです。

教育といっても今のように知識偏重型だけのものではなく、人本育成について真剣に考えて編み出した仕組みがこの郷中教育であったということです。

西洋のメソッドばかりを見ては、学者が言う事をさもそれが最先端だと思い込みますが日本の風土に遺っている歴史の篩をかけられても真実の記録が残っているものこそ、最先端のような気がしてなりません。

温故知新とは、かつての本質を今の時代に甦生させるものです。

私が今、提案して実践をしている一円対話はその郷中教育の仕組みを随所に取り入れています。人は教えなくても育つ、できるようになるには異年齢による見守りが必要であるというのは古今東西の発達の真理なのでしょう。

さらに磯部さん郷中教育の仕組みをついてこう語っています。

「判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。」

生きる力とは何か、子どもたちが立派に自分の使命を果たし仕合せに役割を全うするための社會人、生活人にしていくための仕組みを考えた先人には頭が下がります。そしてこの郷中教育の基本は文字で教えず、全て実地実行、実践によってのみ行ったということです。

今年はこの郷中教育も少しずつ深めていきたいと思います。

 

鏡の法則~心の鏡~

人間の心は鏡のようなものではないかと思うことがあります。その人のものの観方や考え方が相手の心に投影するからです。

例えば、なんでも人の善いところを発見しようとしている人が相手を自分の心に鏡に映すならその相手の善いところを映し出します。相手はその人の心の鏡を眺めることで映し出された新たな善い自分に出会うことができるのです。

このように人は人に出会うことでお互いを鏡のように映し出しますから、自分の心を澄ませて美しくしておくことは、相手の心の穢れや曇りを洗い清めることにもなるように思います。

自分はどのような鏡になるのか、そういうことを考えないかもしれませんが鏡の法則の本質とは自分の心を在り方をどうあるべきかということを伝えているように私には思います。

自分の心や自分の思いをどのようにメンテナンスしておくか、それは自分の考え方の基本姿勢をどこに置くかということでもあるのです。自分が毎日出会う人たち全てに自分が影響を与えているわけですから自分自身の心に責任を持たなければならないように思います。

どんな出来事も善いことに思い信じることや、どんな相手に出会っても相手を認め、相手の善いところを伸ばそう、持ち味を活かしてあげたいと思うことは、より善い豊かな人間社會を担う一員として大切なことのように思います。

それが自分が機嫌悪くし、嫉妬や妬みを持ち、人を信じず、不安をまき散らし、相手の欠点ばかりをつき、人と比較しては、損か得かとばかりを考え、物事を悲観的にし、どうせ無理だとあきらめているような心の鏡では、周りの自信も奪ってしまうことになり貧しい人間社會に傾かせてしまいます。

そういう心の穢れを祓い清めて、自分の心の鏡を如何に善心へと転じるかが自分自身で取り組む実践のように思います。日々に内省するのも、自分の心を正し修めるためです。そしてひとたび、多くの人に影響を与えている自分を自覚するならば自分自身の心の鏡を相手の心の鏡に映して相手を善い方へと導くことがその役割と使命だと思うのです。

コーチングであろうがコンサルティングであろうが、カウンセリングであろうが、その人の心が曇っていては相手の心を見守っていくことはできません。相手を見守るということは、相手から見られる自分ばかりを心配するのではなく相手を見守る自分の心こそ心配することです。

自然を観る心、思いやりを感じる心、仕合せを願う美しい心、利他に生きる優しい心、大義に生きる強い心、私はそれを「真心」と呼びますが、日々に真心のままに生き方を一に帰し、内省を鑑に実践を続けていきたいと思います。

いのちの基本

自然の中にある生き物たちを観察していると、そこにいのちの基本があることを実感します。今は基本が崩れている時代に入り、精神を病んだり心が閉じたり、様々な現代病ともいう病が蔓延しています。

自然界に生きる動植物から昆虫、微生物にいたるまで野生のものは全て活き活きしています。厳しくも慈しみがある自然界の中で、精一杯自分の生を生き切る姿に私たちは感動するものです。

いのちは輝くものですが、その輝くいのちとは精一杯の状態の時です。私の言葉では「生き切る」時です。いのちの基本は「生き切る」ことです。

刷り込みからあれこれと思い悩み憂いては、ありもしないことに煩悶し苦悩します。頭ばかりを使って感覚を使わなくなると、もともと備わっているいのちの力を発揮することができなくなってくるものです。結局、どこかでいつかは諦めないといけないことなのですが頭だけでいくら考えても無理なものは土台無理なのです。根本や基本は教材やテクニックでは乗り越えることはできないのです。

「いのち」はとても心と密接で、心の応じるままに初心を忘れなければいつまでも活き活きと光り輝きます。頭でああだろうとかこうだろうとかを思っているのは心を盡し遣っているわけではありません。「心が疼く」という言い方をした方もいましたが、心は行動や実践することによって「からだ」の感覚で一心に気づいていくものです。

「こころ」か「からだ」ではなく、「こころとからだ」ということです。心体技も同一のものです。私たちは分かれていないものを無理に分けて考えはじめたところに病の元があるようにも思います。そうやって分けて考えたことで、真実から遠ざかったのかもしれません。

いのちの基本は生き切ることです。

それは自分を全力で出し切ることでもあります。日々に出し惜しみせずに自分の中の最大限の真心を、そして誰の見返りを求めずに全身全霊に精一杯遣りきる日々こそ、万物のいのちの基本になるのでしょう。

基本があっての応用ですから、自然界の野生の生き物たちは基本に忠実ゆえに自然にお互いを思いやり活かしあうことができるように思います。

自然をお手本に自然の中での生き方を学び直していきたいと思います。

天命に慣れ親しむ~愉しい実践~

「習慣は第二の天性なり」という諺があります。習慣の力は大きなもので、生まれつきの性質と変わらないほど日常の行動に影響を及ぼす、また広辞苑では「習慣は人の性行に深くしみこんで、生まれながらの性質のようになる。習慣が人の性行に影響することの大きいことをいう」という意味で使われます。人間は「慣れ」によってできあがっていきます。言い換えればその人の一瞬一瞬の生き方や生き様によって出来上がっているということです。

これを少し深めてみようと思います。

人格形成という言葉があります。人格が出来上がってくるというのは、どのような習慣をその人が持っているかということです。例えば、自分が得をすることばかりを考えて生きている人と、周りのしあわせのことばかりを考えて生きている人ではその持っている習慣が異なってくるものです。

前者は、自分の身のことばかりを憂いてはもっと自分に都合が良いことばかりに腐心していきます。しかし後者は、周りのことを思いやりどうやったらお役に立てるだろうかと利他をします。その生き方一つとっても異なってくるのは、前者はいつも機嫌悪く自分のことばかりを気にして暗いですが後者は周りを喜ばせようと機嫌よく笑顔を絶やしません。結局は、その人の考えたが習慣に顕れるのです。

そうやって慣れてしまうと、自然に習慣が考えを形成し、また考えが習慣を形成するのです。よく潜在意識と顕在意識という言い方をしますが、顕在意識の奥に潜在意識があり、その潜在意識がどうなっているかで顕在化してくるのです。

どのような習慣を持つかはその人の今までの生き方にも由ります。今まで持っている「慣れ」を別の「慣れ」に変換するというのが生き方を変えることがですが、これができないのはその本になっている習慣を上書きすることができないからです。言い換えれば初心を忘れてしまうからです。

日々生きていれば情報を取り影響を受けるのが私たち人間です。その情報を毎回取捨選択していくのですが、その本になっているものもまた「慣れ」に由ります。だからこそ、初心を持ち忘れない工夫、いわば実践により己の今までに打ち克つことで刷り込まれた習慣もまた変えていけるように思うのです。

新しい習慣を身に着けるには、常に忘れないための実践が必要です。習慣の上書きともいいます。どのように生きたいか、どのような生き方をしたいか、それは向き合えば自ずから明らかになります。如何に自分の本心に正直であるかが試されるのが習慣ともいい、それが天から与えられた個性を活かすということになるのでしょう。

日々は自然体に近づくための人生道場、人生修養です。

自分の決めた生き方に対して正直に自らの性質を知り、本来のその天性を研ぎ澄ませ素直に練磨の実践を愉しく天命に慣れ親しんでいきたいと思います。

本物の継承~原点回帰~

人間はその人を判断するとき、その人の職業や性別、年齢、見た目、経歴など様々な情報をもとに分類していきます。例えば、医者、職人、芸人、営業マン、お坊さん、経営者など、その人の立場を見ては分類分けしていきます。分類分けしてわかるのは表面上のやっている業務全般を知ることはできますが、その理念は何かとまでは確認しているわけではありません。

言い換えれば、人間か猿かライオン、オスかメスかという分類はしていてもそのものが本当は何を目指しているのかや本当は何がしたいのかということまでは知らないままに役割を勝手に決めつけてしまうものです。

そもそも自分の役割というものは、理念があってはっきりしてきます。その集団が目指しているものは何か、その社會が目指すものは何か、全体の集団の中で自分の役割を知るのはその全体の集団が何を目指しているのかによるのです。

例えば、全体の集団が人類の幸せを目指し見守ることを優先しようと理念を持つなら、それは見守る社會を創造する社會ですから、そこでの人たちは見守る医者、見守るお坊さん、見守るコンサルタントのように、その人の肩書きの前に何をする人か、つまり理念がはっきりしているように思うのです。

その共通する理念の中で、自分の役割を考えることで役割を押し付けるのではなく自分の得意分野で役割を活かしあうことができるように思います。それはまるで森の中の木々たちのように、百花繚乱の花々のように、また発酵場にあるような土壌の中の菌類や生き物たちのように、皆で互いのいのちを見守り合います。

どんな社會にしていきたいか、どんな世界にしていきたいか、そういうものがまず先にあって職業はそのあとであるのが本質なのです。しかし今の時代は、原点には触れず職業だけで自分の立場や役割を決めつけてはその範囲を勤めることが仕事だと刷り込まれています。

自分が何のために産まれてきたのか、自分の本当の役割とは何かとは、使命感のようなものです。突き詰めて深めていけば、志や思いやりに人は生きるように思います。この時代の中での自分の役割は何か、この自分の人生での全体の役割は何か、いつも周りの世界に心や眼を開いて何のために在るのかを自覚することが役割に目覚めることかもしれません。

理念とは、本質そのものであり本来の原点です。

不易と流行、温故知新、刷り込まれず素直に正直に理念を観て、本物を継承していきたいと思います。

善好奇心心~三つ子の魂~

知識というものは便利なもので、世の中のことをある程度予測することができるものです。統計や集計を通して過去のパターンを分析することで、ある程度の予測は可能になります。人間はどこまでいっても自分を守るために危機感を持ちますからそれを発展させていくことで知識を膨大に広げていくようにも思います。

しかしその知識は常識というものに縛られるものです。言い換えれば前例主義や自分の想像の範疇を越えることはありません。新しい発見というものは前例の中から出てくるものではなく、その常識を超えた気づきによって出てくるものです。

例えばいくら過去の災害を想定したとしても、自分たちの想定を超える出来事が起きるのが自然災害です。同じように自分たちがいくら想定をしていても、偉大な廻りの循環の中で私たちが知りもしないようなつながりを通して私たちは活かされ生きています。

そういうものを理解するのはほとんどが直感であり、暗黙知です。形式知の粋を集めてみても、その全体までは知ることはできません。感覚というものは、知識ではないのです。それを言霊では「思い」や「祈り」、「ご縁」とも言い換えてもいいかもしれません。

言葉というものも、言葉がなかった時代は人間は自然のように直感そのものの存在でした。天文に精通し、地理に精通し、文化そのものでした。そこから言語知識が形成され、一つが二つになり、分かれて今では無限に分かれ続けています。

知識を持つことが優秀だと思っていますが、広がり続ける言葉や知識を知っているのはただの物知りであって本質や本物に気づきにくくなっているだけとも言えます。しかし現代では、その直感を形式知で語れなければ人に伝えることも難しくなっています。本来の自然を伝えるだけでも難儀なもので、それをいちいち分かるようにわかるところで伝えなければなりません。

ある意味、人間の進化ではなく文明の進化というのが今の進化の定義なのでしょう。人工知能やコンピューターや仮想空間などの発展というものは、文明がいよいよ新しい局面に入るということです。

歴史は人間の教科書であり常識です。

その常識を超えるには、今の時代を生きる人たちが希望を捨てずに新しい道を切り開き新しい発見を実践していくことのように思います。温故知新ですが、言い換えれば魂の磨きであり心の成熟と真実の技術の発達かもしれません。心と技術を如何に高めるか、今は魂の試練の時代のように思います。

子ども達には、どちらかという二者択一の生き方ではなくその間にある目覚めに生き続けてほしいと思います。それは善好奇心心といってもいいかもしれませんが、常に三つ子の魂を持ち続けて、なぜどうしてという問いを持ち続けてほしいと思います。

人間の可能性を信じているからこそ、諦められず已められないのです。

日々に納得するまで問いを発していきたいと思います。

口伝と体得~初心伝承~

一昨日から紹介している鵤工舎の小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)には共感するものばかりです。王陽明はかつて「道統を継ぎ、絶学を紡ぐ」と言いましたが、師の教えを忠実に守り伝統を継承する志に子々孫々への思いやりや真心を感じます。

そういう理念を持つ組織だからこそ、その教え方も本質的であり実践的、体得体認することを重んじています。口伝の重みでも実感したことですが、口伝できるというのはその志を受け継ぐ心があってのことです。血肉に伝わっていくような関係の中にこそ、大切な原点や初心、その志や伝統は伝承できるのではないかと今でははっきりと思います。

今年は伝統文化や老舗から日本の職人文化を学び直そうと思っていましたが、その最初に鵤工舎のことを学べて有難く思います。

文章の中で修業について書かれているところが沢山あります。修養も修行も、その心構えのことでしょうが具体的な実践事例で「研ぐ」ということの意味が書かれているので紹介します。

「刃物というのは、なかなか研げないものや。砥石にぴったりし刃を当ててゆっくり擦ればいいだけだが、それができんのや。人間の身体というのは思いの通りには動かないんだな。・・・中略・・・言葉は常に後や。自分の身体が考えの通りには動かないことにまず気がつかなならん。だから修業するのや。言葉や考えが役に立たないことにも気がつかなならん。無心で研げるようになって初めて刃物が研げるようになる。じゃあ無心ってどういうもんかと考えるかもしらんが、刃物が研げたときや。答えは刃物や。」

西岡棟梁から学んだ刃物研ぎの本質が記されています。無心とは研げた時だといい、答えは刃物だといいます。これは仕事でも同じように思います、無心でできるときは自他一体になっているということでその答えは仕事そのものだということです。そしてこう続きます。

「苦労して、悩みながら研いでいるうちにある日、「おっ」と思うことがある。そうやって階段を上がっていくんだな。精神修業のようだが、そうじゃない。大工は体を作ることだ。頭や考えも体から生まれてくるんや。俺はそう思う。だから刃物を研がせる。」

体をつくることと言います。以前、メンターから「からだ」という字は肉体だけではなくそこには心や精神も入っていると聞いたことがあります。「からだ」で覚えるというのは実践で染み込み自分のものにするということでしょう。

「よく研げるようになれば、道具を使ってみたくなる。木を削ってみたくなる。穴を穿ってみたくなる。それが大工として最初や。切れない刃物で木を削らせたところで、辛いだけでうれしいことも気持ちがいいこともない。そんな心で仕事をしていてもいいものはできない。だから刃物を研げないやつには道具を持たせない方がいいんだ。手道具は体そのものだ。体の一部として、考え通り、感じたとおりに使えなくては意味がない。その最初が研ぎや。」

”手道具こそ体そのもの”とあります。仕事では何が手道具であるかということです、それが商品であり自分そのものでもあります。

最後にこうあります。

「嘘を教えれば嘘を覚える。研ぎは全くそうや。ほんとうを覚えるには時間がかかる。時間がかかるが一旦身に着いたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる。・・・中略・・・上手になれば過去の自分の未熟さがわかる。それも上手になって初めてわかること。つまり、判断は常にその時の自分を超えないということや。刃物は自分の力量を表す鏡や。一心不乱に研ぐことによって、大工としての感覚と研ぎ澄まされた精神も養われるんやな」

”判断は常にその時の自分を超えない”とあります。今の自分の刷り込みを取り除くには、”からだ”で身につけろということです。言い換えれば一心不乱であるし、私の言葉だと全身全霊です。それだけの実践をどれだけ積んでいるかで本物や本質が磨かれるように思います。ここでの刃物とは人格に似ているように思います。何を研ぐのか、手道具とは何か、もう一度そのものの在り方から見直してみないといけません。

そして「技と人」の伝承とは、つまりは「口伝と体得」ではないかと改めて実感します。今の時代の人と技の教え方、学び方に対して刷り込みを見つめているととても大きな危機感を覚えます。子ども達には自学自悟、自分らしく自らを磨き上げていってほしいと思います。まだまだ職人文化や初心伝承を高めていきたいと思います。

師弟と撫育~志事の流儀~

今の時代、徒弟制度などもなくなり対等な立場で物事に取り組みます。学校のようにいつも教えてもらえるものだと思っている人はあまり伸びません。それは素直ではないからのように思います。そういう意味では、徒弟制度というものは職人文化ですが日本人としての育ち方、教え方の粋を集めた智慧だったのではないかと思います。

一緒に暮らし、師のことを理解し近づこうと努力しまた師も弟子のことを知り弟子を伸ばそうとするのです。両者一体の中で教えたことは、決して知識ではなく親がわが子を育てるように感化薫風し陶冶したように思います。今の時代の育成の関係性に危機感を覚えてなりません。

法隆寺の宮大工、西岡常一さんの一番弟子に鵤工舎の創業者小川三夫さんがいます。この方の著書「棟梁」(文春文庫)に師弟の生き方が書かれています。自分の昔に照らしていくつか感銘を受けたものを紹介します。

「昔は十二、三歳になれば親方のところに弟子に入るか、店に丁稚に行ったそうだな。年季を決めて、前渡金を親がもらって働き手として出すのもあったそうだし、親方の元で雑用をしながら仕事を覚えるというのもあった。せいぜい十四歳、五歳までに行ったんだな。これより年を取ったら反発したり、生意気になって素直に言うことが聞けんようになる。遊びも覚える。世間も気になる。お金を勘定するようになる。そうなったらひたすら言われるままに働くのは難しいわな。ものを教わる、覚えるために一番大事なのは、素直なことや。教わる方もその方がいいし、教えるほうもそうや。そのためには、そのぐらいの年齢がちょうどよかったんだな。それ以上になると体ができてしまう。体ができるということは、頭もできるということだ」

とあります。以前、自由の森学園の校長から「中学生は体だけではなく心も精神も出来てくる大事な時期だからこそその時期をどのような環境で過ごすのが大切か」と言われたことを思い出しました。素直さというのは刷り込まれる前の姿ですから本質を理解するのに余計な知識が邪魔になる前にあるがままを体得することで一道の深淵に触れる機会を持てばいいということかもしれません。

またこう続きます。

「体がきついと、楽を考える。楽を考え出したら、終わりや。楽なんてないということに気づくまで、ずっと遠回りせなならん。もしくは、楽を求めてやめてしまうことになる。何もかもその職業で生きていくために自分が身につけることやから、他人の目をごまかしても何にもならん。損なだけや。そのためには体と頭、技が一緒に身につくことがいいんやな。」

考えるということは総じて楽を選ぶときに行う作業です、だからそれは損やと言い切ります。

「親方が悪いんやと、他人のせいにするのは簡単や。しかし何も好転せんわな。ひがんで、ふて腐れてたらもっと悪いわ。他人のせいにするのも逃げや、ふて腐れるのも相手が悪いと思うからや。相手は親方や。代えられん。親方のとこに来たのは自分や。自分を変えることで状況を脱出せなならん。そう考えるんだな。俺は頭が悪いから、そうたくさんのことは考えられん。やめて逃げ出さないなら、がんばって早く仕事を覚えんべえ、と思った。それしかねえんだ。これはどんな時でも一緒だな。逃げたらあかん。逃げる前に考えるんやな。それと、他人のせいにして自分が正しいと思いこもうとしても無駄や。自分を騙しているだけやんか。ものを覚える、人と何かをする、ものを作る。何でもそうやが目的があるやろ。そのためにそこにおるんやろ。そういうところで、どうするか考えるんやな。俺もない頭で考えた。」

考えるということの定義が楽をすることではないからこそはっきりと示されます。目的を考えよと、そのために其処に居るのではないかと考えろと言います。

最後に私が何よりも共感したのは「はじめに」の中にある下記の文章です。私も同感で、何よりも自戒しているのは下記のことです。

「人から人へ技を伝えるというのは容易なことではありません。言葉で技や感覚を伝えることは不可能です。こうしたことは本文で詳しく話しますが、言葉や数字やデータ、映像に頼ってものを学んできた若者にそのことを教えるだけでも簡単ではないのです。学校では先生が教科書を使い、黒板を駆使して教えてくれます。子ども達は教わることが当たり前だと思っています。教わればわかると思っています。教わらないことは知らなくて当然です。中学や高等学校は一年が経てば進級し、三年経てば卒業します。学校には期限があります。生徒はみんな同じ能力があると設定され、同じ方法で、同じ期間学びます。進級するには最低、決められた点数を取ればいいのです。その点数を取るためには近道があり、早道があり、要領があります。学校ばかりではなく、塾も予備校も、家庭教師も、それを教えてくれます。このすべてが私たちの世界では、技や感覚を師匠から受け継ぐための障害になるのです。少なくともこの方法に慣れた子どもに、技を教え、感覚を身につけさせることは無理です。技も感覚も大工の考え方も、本人が身につけるものなのです。体に記憶させる、体で考える。このことを理解してもらうには、親方や師匠と一緒に暮らし、一緒に飯を食い、一緒に働くしかないと思っています。」

これは本来の本能の学び方、道理を悟った真理であり、動物からあらゆる生き物たちが如何に本質を掴みとっていくのかということの要諦が書かれています。頭が良くなったつもりが、刷り込まれていてかえって地頭が狂ったでは本末転倒です。

今でも身近でも私はその刷り込みを取り払うのに苦労苦労の連続の日々です。叱咤激励くらいではダメで、私の技術も忍耐も未熟そのものです。しかしだからこそ同じような志を抱き、鵤工舎を創業した方の信念にも少しだけ触れることができます。

物事に正対し、正面から坦々滔滔と歩みを進めていきたいと思います。