人道の精進

世の中には天道と人道というものがあります。天の道は自然の道ですから、人間が中心ではなくあらゆるものを役立てて活かしていきます。人間にとっては都合が悪いことも自然は関係なく自浄していきます。たとえば物が壊れていくのも、虫が増えすぎるのも雑草が鬱蒼としていくのも、万物を創造し万物を破壊するのも天は選ばず、天は自然そのものだからです。

しかし人間はそうではなく、自分たちの中に善悪があり、自分の都合で役に立つか立たないかを選別してきましたからすべて人間都合で行います。だからこそ常に天道の自然に対して人道の都合が発生しますから常に手入れをしては修正を入れていなければ成り立ちません。

道路が傷むのを修繕するのも、崖が崩れないように保善するのも、また川に堤防を築くのも常に人間に都合が悪くならないように行っているのです。

これと同じく人間は常に自分を中心に物事を考えますから知らず知らずのうちに自分にとって正しいと思い込んだものに勝手に修正をしてしまうものです。つまり自分にとって役に立ち価値があるものだけにしていこうとしていくということです。

実際は人間は一人ではありませんからその人に都合が良くても相手には都合が悪いことが多々あるものです。そこで人間の世界ではルールというものを設けます。人間の都合は多勢に無勢か権力に左右されることが多く、結局は自分にとって都合が良いことを強く言う人に押し切られてしまうことが多いのです。今の政治を見ても一目瞭然ですが、その人物や一部の益がある人たちが優先されるようにルールを設けるのです。

人間がお互いの都合に折り合いをつけることができなくなればなるほどにルールは無限に増えていきます。しかしそうなると息が詰まるような人間関係の中で、お互いの権利を主張し合ったり制度だからと胡坐をかいては自分の都合ばかりを求めるようになり信頼関係が崩壊していくものです。

信頼関係というのは、お互いの都合をお互いが理解し合い、そこに思いやりという物差しを使って折り合いをつけていくことで積み上がっていくものです。それをどちらかがだけが我儘に自分の都合を押し切っていたら、信頼関係は崩れていきます。

それは人道というものが、お互いの都合で動いているものであるからなのです。だからこそこの手入れというものは、人道の最大の仕事といっても過言ではないと思います。

常に自らを修正し、周囲の都合を確認しつつ思いやりをもって自分を役立てていくということ。つまりは自分に役に立つかどうかで判別しているのが人間だからこそ、自分が役に立てるようにと常に自分が社會に役立つように所属する組織に役立てるようにと手入れをしていけば信頼関係はより強く絆も深くなっていくように思うのです。

人は信頼関係の中で自分を役立てているときがご縁を感じて幸せを実感できていることが多いように思います。自分の都合をどれだけ手放していくか、自分優先の欲求をどれだけ転じてみんなの善いことにしていくは、人道の精進なのかもしれません。

「自分がしてほしいことを他人にし、自分のしてほしくないことは他人にはしない。」これがまさに人道における至言なのでしょう。

自他一体になるほどに、自分が相手の御役に立っているという実感は自他を分けずにいる実践を行うということです。自我感情が見る目を邪魔をしたり、相手のことを気にしすぎたりするのは都合で分けている証拠ですから常に手入れをして人道の精進を積み重ねていきたいと思います。

自然は厭わない

昨日、出張から帰ってくるとベランダの山椒の樹に沢山のアゲハ蝶の青虫がひっついていました。葉っぱが食べられ、丸裸のようになった山椒は少し可哀想な感じもしましたが、青虫を別の場所に移したので一安心でしょう。

そもそも生きものに害虫益虫の違いはありません。

人間の都合が悪いものは害虫で人間に良いものを益虫と区別し、好悪感情次第でその時その場で判断しているのがほとんどです。これは単に虫だけのことに限らず、自分に都合の悪いのはデメリットで自分に都合の良いのがメリットだと仕分けては自分勝手に判断しているものです。

しかし実際は自分にいくらメリットがなくても、全体で観たら大きなメリットがあったり、自分にとってデメリットだと思っていても長く広い眼で見たらとてもメリットだということもあります。

自分の都合というものは、ほとんどが視野の狭い自分の料簡だけで判別されているものです。これを価値観とも言います。自分にとっての視野は価値観が左右します。その価値観は今まで育ってきた過程で染みついてきた自分の考え方と判断基準のことです。

それを壊すことができないと、自分にとってのメリットばかりを追い求めては価値観に囚われ、その価値観が壊せずに狭まっていく視野に自分を閉じ込めてしまうのです。

よく価値観が柔軟かどうかが大事だという言い方をする人がいますが、これは素直に物事を受け容れることができるかともいいます。自分の都合を優先せずに、物事の実相を捉えることができたり、自分の我執を手放すことができ、本質を保つことができるということでもあります。

日々というのは、様々な出来事に遭遇しますがそれを自分の好悪感情で判別するのではなく、実相は何か、本質は何かで判断できることで全体の一部としての自分の大きな役割に気づけて自分の存在価値を実感できるように思います。

存在価値から物事を考えてみると、青虫にも大きな役割があります。青虫はその卵のときから蛹になり成虫になるまで、沢山の生きものたちを活かします。寄生する虫たちの栄養になったり、その他の動物たちの食糧にもなり、花粉の受粉を手伝い、死して朽ちては蟻や菌類のものになります。

自然界には一切の無駄はなく、一切の損得はありません。損得というのは、その人本人の価値観と自分の判断基準と都合で行われるものですから全体から観ればそれはないのです。しかしこれに気づかないとおかしなことになってしまいます。

例えば、先ほどの青虫でいえば自分の嫌いなことはしない、虫にも食べられない、蝶になっても動きたくない、死んだら燃やしてもらいたいとか、色々と要求をしていたらその他の生きものたちが困ってしまうのです。

同じように人間も一人では生きられないのですから、自分の価値観や都合ばかりを優先するのではなくどうすればみんなが善くなるか、自分がどうしていることがもっともみんなの力になるかを考えて我執を手放していくことで心も軽くなり感情も穏やかになるものです。

自分にとっての嫌悪感といった嫌な感情は、一時的なものです。そういうものを乗り越えてでも誰かのためにや周りのためにと動く時、自分が偉大な存在に見守られている実感を味わうことができるものです。だからこそ「自然は厭わない」ように思います。

厭わないで努力し、嫌がらずに自分から動いていくことで価値観は柔軟になっていくように思います。自分が自分がと我儘をすると孤独になるのは、そういう自然のありのままの存在価値から離れてしまうからでしょう。

そのものの存在をありのままに認めることは自分の生き方次第かもしれません。自然の観察を楽しみたいと思います。

絶妙な自然の運任せ~樹木の戦略~

先日から樹木について書いていますが、樹木には種を残す数々の戦略が存在します。それはその種を風や動物、または水や重力、そのものが弾き飛ぶことで散布していきます。

その種の蒔き方もそれぞれが独自の形態で進化していますから、巧妙にそれぞれのやり方で試行錯誤した結果として戦略が受け継がれていきます。

今の時代に残っている戦略もまた、時代の篩にかけられてそれを耐え抜くことができた尊い戦略ということなのでしょう。

その樹木から学ぶことは本当に沢山あるのです。

私がとても大好きな言霊の一つに、空也上人の遺したものがあります。

「山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」(空也上人絵詞伝より)

これを意訳すると、「山合の川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができるのだ。」ということです。

これを成語大辞典(主婦の生活社)によれば「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意だが、これを窮地から脱して安泰を得るという、世俗一般のこととして、このことわざは使われる。自分を大事と思って、我(が)に執着していてはなかなか道は開けてこないというのであると書かれています。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は広辞苑(岩波書店)では「一身を投げ出す覚悟があってこそ、窮地を脱して物事を成就することができる。」とあります。

先日、橡の実が池にポチャンと落ちては、小川を浮遊しながら水の流れにしたがって遠くへ旅をしていく様を見る機会がありました。障害物にひっかかったり、時には濁流に呑まれたり、色々と旅の最中は大変なのでしょうがきっとそこで流れ着いたところを受け容れるのでしょう。

種がどこにたどり着くのか分からないと不安がり、また水に沈むのではないかと心配したりしていたら種を落とすことはないように思います。もしも人間のように自分の都合で種のタイミングを計ったり、種を落とすのを出し惜しみしていたら、種を落とす間もなくそのまま枯れてしまうかもしれません。

実際はどうなるか分かりませんが、種がどのように広がるのか、それはまるで運任せともいえます。しかしこの運任せということに生き残る智恵が潜んでいるように思えてなりません。

自然界というものは、あるがままを受け容れ、あるがままを許します。その天地の恩恵の中に見守られている真心を感じているからこそ、疑わず自分の身を捨てても厭わないというような戦略を発揮できるように思うのです。

人間にはとかく我執がありますから簡単にはいきませんが、その戦略から自分を奮い立たせ学び直し、そして信じるという実践に転換してきて生き残ってきたのかもしれません。この橡の実の覚悟に人間が無常観を悟るのもまた、生死を度外視するいのちの真価に目覚めるのかもしれません。

周りを見渡せば、あらゆる実践事例に育まれて生きてきた仲間たちが沢山います。今年はイチョウとタブノキを中心に深めてみようと思っています。またブログで紹介していく予定です。

色々と世界の難題は山積みで時折、問題意識ばかりが頭を擡げますがこういう時こそ明るく開き直って絶妙な自然の運任せ、子どもたちのためにもその浮かぶ瀬までの旅を楽しみたいと思います。

 

 

自然明

自然と農を実践していく中で、風が様々な生きものたちに大きな影響を与えているのを実感します。

例えば、風は気温、気配、香り、水分の量、その音、そのリズム、通り抜けてきた場所の感じなど様々な情報を伝達していきます。植物はその枝や幹の肌、または葉によって風に揺られながら情報を入手していますし、動物は身体の毛を揺らしながら皮膚や匂いや呼吸を通して情報を入手します。

もともと自然の生き物たちは、風の音色をよく聴いては自然のリズムを体感しているのかもしれません。もちろん風の音色だけではなく水、火、土、石、様々に自然は音を奏でますからその音色を感受するアンテナが高いからこそ私たちのように知識を使わないともいえます。

現在は、そういう直感的に理解するものがあまり評価されない時代になっています。さも考え抜かれたもの、理論的に優れたものが価値があるかのように勘違いしてしまいます。自分がそもそも刷り込まれた知識の中にいて、その中の価値観から抜け出すことをせずに、自分だけが正しいと思い違いをしているのが人間なのかもしれません。

自然は正直で素直ですから、そのまま感受することができるのでしょう。

自然の言葉というのは、昔から職人さんたちが使う言語の中に入っていたように思います。職人さんが「あまり勉強ばかりしているとバカになってしまう」ということをよく話すのも似たようなものでしょう。

自分の中にあるものをどう引き出し、どう体得していくのかというのを自明と言います。自明とは、自らが然るがままに明らかにしていくということです。自然明ともいうのでしょうが、それは自分の中にあるものの感覚を高めていくしかありません。

それは善く気づき、善く学び、善く遊び、善く味わい、善く覚るということを続けていく中で自分の内面の奥深い自然観を高めていくことだと私は思います。

私が自然農を行う理由も自然に学ぶ理由もすべては、一度学びこんだものを如何に忘れ去るかということを大事にしているからです。一巡している学びを同時に消化しながら前に進むというのは、自らで然るがままに会得することを重んじているからかもしれません。

元来、文字がなかった時代は何から学んでいたか、言葉を使わなかったときは何から学んだか、人間は思い違いをして真実を見失っているのかもしれません。

自然には音色がありますが、人間にも音色があります。それは心や感情が研ぎ澄まされることでよりアンテナは鋭敏になっていきます。自然は風音によって伝えます、人間は言霊によって伝わります。

発信することも受信することも、それは自分の中の自然明に由るのが最善なのでしょう。

学ぶことが愉しいのは、体験できたり実践できる幸せを生きるからかもしれません。同時に学ぶ楽しさは譲る歓びですから、子どもたちに生き方が遺せる可能性があるということが幸いなのでしょう。日本の麗しい風土に恵まれ、その優美な風土に育ててもらって大人になっているのだから、御恩を忘れず自然の言霊を謳歌しながら自然明の生き方を子どもたちの傍に広げていきたいと思います。

いつも新鮮な学びは、かんながらの道の中です。

積算の法理~いのちの熱~

先日、徳について深めているとある発見がありました。

生きものというものはその体内に徳を有しているものです。その徳は、四季に影響を受けているものです。人生を四季に例えるのも、またその徳の流れによるものです。いのちは周囲と共に発達し発展しますからそのものだけで生きることはありません。知らず知らずに受けているのが周囲の恩徳ということです。

これを少し自然界を用いて説明してみます。

生きものというものはすべてにおいて積算温度というものがあります。今、身近で育っている烏骨鶏でも卵を孵化するのに約21日以上の積算日数がかかります。同じく変温で生きる昆虫も卵が孵るのにはそれぞれに積算温度が要ります。これは植物でも同じく、冬から春にかけ、また夏の暑い時期に成長していくために必要な積算温度があるのです。

言い換えれば「熱」というものですが、この熱は地熱、太陽、いのちの熱ですがそういうものを体で受け取りそれを代謝することで生き物たちは活動することができるのです。

人間も10月10日間、母体の中での積算温度があります。そして母体から出てきてからも、周囲の温かい真心や周囲の体温によって育まれていくのです。

いのちの全てには「積算」という考え方、つまりは「積む」という概念が存在します。そしてこれは一体何を積んでいるかということなのです。

自然界ではこれを「徳」と呼ぶのでしょう。人間は徳を勘違いしていますが、私にはこの積算温度が徳であるのを実感するのです。

私たちが共に生活するこの地球には温度があります。

その温度の恩恵を受けて私たちははじめて生きられますから、生きている以上温度を感じないということはありえないのです。温度があるということは、その熱により活かされているということです。

農業では、積算温度計といってその積算温度から逆算して収穫を測ったり、虫たちの発生を予測したりするそうですが、人間も同じくその熱を測ればどの時期に開花するのか、実をつけるのかもある程度予想できるのかもしれません。

だからこそ徳を積むという考え方は、徳によって活かされているという言葉になるのです。徳に報いるというのは、その熱をいただいているからこそその熱をより周囲への熱に転換していこうとする自然の生き物の「ハタラキ」なのでしょう。

生きものたちは地球の温度とリズムに対して絶妙に熱を測ります。その熱の中でどの時期に産まれればいいか、どの時期に出てくればいいかを知っているのです。たくさんの生き物たちが出てくるときに出てくればいいのです、易経では潜龍といいますが、潜龍もその熱を感じて昇龍の時機に合わせて徳を積算していくのでしょう。

徳の積算とは、熱の積算です。
言い換えれば熱の伝導とは徳の伝導なのです。

積み重ねていく日々をその温度を感じながら弛まずに怠らず成長を味わい、その熱を周囲へと伝導し、未来への子どもたちへと徳を譲り渡していきたいと思います。

子ども第一主義の旅~貢献~

樹木についての共生は運命共同体だと書きましたが、貢献についてここでもう一度深めてみます。

そもそも樹木に限らず、すべての生命は自分たちの種を遺すことを使命にしています。自分たちが今まで生きているということは、かつて様々な気候変動や環境の変化の中で生き抜いてこれた変化があったということです。

その変化は今の時代でも続いていて、常に生き物は変化に対して適応していかなければ子孫を残していくことができないのです。温暖化や寒冷化でもそうですが、その時代時代の変化の中で命を懸けて真摯に真心で生き切ったものが、次の子孫に突然変異をもたらし次代の環境に適応させていくのです。

例えば菌類などもそうですが、常に生まれ変わる中で変化をつくあげていきます。何世代も何世代も生死をめぐり繰り返す中でもっとも環境に適応する種を創り上げていくのです。

共生も同じく、そのものの種を遺すために、その環境や人物と調和していこうとする力、種を遺すために共存共栄していこうとする意志がいのちの中には存在するということです。共に歩む者たちが似てくるのも、共に必要としあう物たちが近づいてくるのも、同じく共存共栄の定理に沿ってのものです。

そして貢献というものは、自然界ではどういうことかといえば生きている過程で大きな無駄を発生させていくことです。

例えば、樹木でいえばドングリなどもそうですが何万個の種を地面に落としてはほとんどすべてが何かしらの生き物たちの食糧になります。その中から1本以上の木が実をつけることができればそれで繁栄できるのです。ほかにも、果実を持つ樹木もたくさんの果肉を提供しては種を飛ばしてもそのほとんどは人間からみれば無駄を発生しているように感じるものです。

しかし発展と繁栄というものは、その無駄多きことの中に存在しています。その無駄はそのものにとっては無駄であっても、周囲にしてみれば決して無駄ではないのです。

人間は軸足が自分にだけ向いていると、その無駄を嫌うようになるものです。自分の物差しで価値を判断し、自分にとって利益があるかないかでその無駄を測るのです。しかし実際は、その一見無駄とも思える中に他への貢献があります。だからこそ自然は、貢献を重んじるのです。

「自分が一生懸命に真心で生きればそれが誰がのためになる、自分の実践が誰かの勇気や元気になる」という言葉も貢献を志す言葉です。貢献したいと願う理由は、そこに確かな子孫繁栄への道筋が存在しているからです。

貢献していくための無駄というものは、その人物にとっては無駄でも、決してそれは全体にとっては無駄ではありません。如何に周囲のために自分を使い切っていくか、如何に全体の為に自分を遣り尽くしていくか、その行動と実践、それが人事を尽くすということです。

そうしていえば、天や自然が必ず善いことにしてくれるということを生き物たちは直感しているのでしょう。進化というのは発達と発展であると私は確信していますから、その発達と発展とは、共生と貢献であるということです。

自然は当たり前の真理を私たちに思い出させてくれます。知識ばかりが多くなって、シンプルな本質も分からなくなっているようでは刷り込みに負けてしまうのは当然です。

最後に種は旅をするということを教えていただきました。旅とは古くは、タベ(たまわれ)とかタビ(他火)という語源が示すように旅は苦行ともされていたそうです。生業を旅まわりともいうように旅を通していのちは無限の生長を已まないということでしょう。

旅そのものが学びであり、旅そのものが人生なのだから、旅を通して浄化し刷り込みを取り払い、常に苦しいながらも楽しむこと、その進化と変化そのものが愉しいというような一期一会の「子ども第一主義の旅」を味わっていきたいと思います。

共生とは何か

昨日、社内研修にて森林インストラクターの方から樹木の話を拝聴する機会がありました。

樹木の世界はとても奥深く、少し触れただけですが私たちよりもずっと前からこの地球に存在し、今までどのように生きてきて、今どのように生き残っているのかをお聴きすると同じいのちを持つものとして尊敬します。

今も生き残っているということは、今までの環境の変化の中で適応してきたということです。言い換えれば、今生きているのはたくさんの恩徳の御蔭様であり、またその生き物があらゆる環境下において助け合って生き残ったという証でもあるのです。

種が残るということは、後に譲っていくということであり、自分の変化そのものが子孫を守るということですからこれは本当に先祖の偉大な丹誠と徳恵をいただいたことに気づきます。

これからいくつか樹木についての発見をまとめていきますが、共生についてまず深めてみます。

例えば多くのイチジクの仲間(クワ科イチジク属)は、イチジクコバチ(類)と呼ばれる小さな蜂をポリネーター(花粉の媒介者)がいるそうです。そして、イチジクの種類ごとに異なるイチジクコバチがいて、お互いに繁殖するために共生関係を結んでいます。

お互いに進化することでお互いが進化する、イチジクが変化すればコバチも同じように進化するという関係が存在します。しかし強い共生関係は強い繁殖を産みますが、お互いのどちらかが絶滅してしまうと同時にそのペアの相手も絶滅してしまうそうです。まさに運命共同体です。

自然界はこのようにお互いが活かしあえるのならば、助け合おうとという関係はイチジクだけに限らず、多くの植物と昆虫の間にも見られます。

同時に人間と植物、人間と虫や動物との関係もあります。たとえば、ツバメと人間であったり、蜘蛛と人間であったり、稲と人間であってもそうです。お互いに長く生き残っていく中で互いに互いのことを必要としあって共生してきました。

不思議ですが、自分が生きているということは一緒にいきていた運命共同体がいたということです。その運命共同体がいなくても生きていけるように改良されたり、改造されたりしていますが、必要としなければ絶滅しますから種が減ってくるというのは互いに活かしあう関係が断裂しているともいえるのです。

自然界の絶妙な共生関係を崩してしまうのが人間だとしたら、この人間に適応するために動植物も大変な変化を強いられていることを実感しました。進化や変化は地球の気候変動に左右されるものですから、何があっても生き残れるように工夫してきた種が断絶してしまうということはそれだけ私たちが生き残る戦略も減っていくということなのかもしれません。

先祖たちはそういう大事なことを知っていて、だからこそ杜を守り育て生き物たちがたくさん生存できるような環境を遺してきたのかもしれません。環境に優しいとか色々と今は言われていますが、本来はそういう人間側の都合で語られるものではないことを直感するのがこの共生の原理です。

共生とは運命共同体のことです。

運命共同体=共生であることを決して忘れずに、どうあるべきか自分たちの生き方を見つめ直していきたいと思います。子どもたちや子孫のために、自然とご縁を結び直し絆を深め、一つでも多くの運命共同体を遺していきたいと思います。

顕彰の証

陰ながら善行を積み上げてくことを陰徳といいます。

顕彰という言葉がありますが、あれはその人の陰ながらの功績や善行、真心を忘れないという意味で使われます。彰という字は、明らかになるという字で、同じく顕という字もはっきりと明らかになるという意味です。

これは何が明らかになるのかといえば、目には見えないけれど偉大な恩徳が明らかになっているという意味です。

吉田松陰は、自分が正しいと信じて実地実行するのならば誰が分かってもらえなくても後の世に同じ聖人の道を志すものたちがいつかは自分のことを分かってくれるから気にせずに突き進めと弟子たちや自分を叱咤し善行を積むことを優先した人物でした。

それは留魂録にも、生死を度外視というものの中に確かな徳を積むことの価値を述べています。そしてそれはやはり死して彰かになっているものであり、後の世の志士たちに顕かにされていくのです。

表彰というものは、その陰徳を顕かにしていくものです。

その人が自分が信じた正しい道を踏み固めるとき、誰がわかってくれなくてもどんなに評価してもらえなくても、それを観ているものがあることを全体に伝えること。決して目立たなくても、決して覚えてもらえなくても、その人が積み上げたことが後の世に偉大な功績を遺したことをはっきりと明らかにすることが社會をよりよくしていくことにもなるのです。

今の時代は、表彰というとすぐに人を操作したりとか動かすためにとかいいます。しかし本来はそういうものではありません。

祖先や古人たちは、善いことがいつも観えていました。心が澄み善行や陰徳を常に観える目がありました。だから人が陰ながらやっているのを察して讃えて、常にそういうものを見つけよう、そういうものを育てて守っていこうとする真心や思いやりがありました。

今ではそういう陰徳を観ようとはせずに、見た目や結果がよかったものだけを褒め称え、その陰で目立たずに地味に世の中のことを憂い、平和な社會のためにと徳を積む人たちに気づかなくなってきました。

昔、「木を植える男」という絵本を読んだことがあります。その絵本にはある荒れ果てた村を、一人の男が生涯を懸けてどんぐりの種を植え続けて後世にその村が豊かな森林や水に溢れ、たくさんの家族が移り住み幸せに平和に暮らす村になった話です。

あの絵本にも、表彰や顕彰という意味が籠められています。

そういうことを忘れてしまう組織や社會というものの中に欲や悪行を蔓延らせる何かが潜んでいる気が私にはします。

これから考えようとしてしている私たちの顕彰の仕組みは、子どもたちにそういう陰徳を忘れてほしくないという祈りと願い、そしてそういうものを私たち大人が何よりも大切にしていきたいという覚悟です。

出会いはいつも私に有難い贈り物をいただけます、ご縁こそが御蔭様でありそれが顕彰の証ですからしっかりと受け止めていきたいと思います。

社會徳

ここ数日、社會に関することを書いていますがそもそも社會をつくる仕事とはどういうことかということを掘り下げてみます。

そもそも社會というのは、人間が一人以上存在する中で成り立つものです。もし無人島に一人で生活するのなら、別にそこに社會は必要ではありません。当然、生きていくためには人間以外の生き物たちといきていきますから広義でいえばそこにも社會はあるとしますが今回は人間社會ということにします。

つまり人間が一人以上になれば社會を形成しますから、社會を形成するというのは人格を形成するということです。人格を形成する必要があるのは、そこに道徳がなければお互いを尊重し合うことができなくなるからです。道徳とは自然の一部である自覚のことです。

先ほどの無人島であっても、人間がもしも道徳から外れるならば島にあるものを全て殺傷し搾取し、あっという間に島の生物たちが死滅してしまいます。そうするとその人間も終には死んでしまいます。そこに人格が形成されれば、社會を活かそうとし周りを助けて自分も共に生きて貢献する道を選んでいくはずです。そうすればお互いに長くその島で幸せに暮らしていくことができます。

このように社會を形成するというのは、その人格を形成するということです。そしてこの人格形成というものが私にとっては教育の本義です。教育とは社會を形成していく人材を育てていくために行うものでしょう。つまり見守る=保育に対して、人格=教育というのを根底に持つのが本来の日本人の民族性からの言葉の意義でしょう。

それを忘れていくら難しい議論を戦わせても、結局は欧米文化の枝葉を揺さぶっているだけで自分たちの持っている日本人の精神を活かしているわけではないのです。

話を戻せば、社會というのは道徳によって行われるときもっともお互いを尊重し合う平和で豊かなものになります。そのためには、人間から道徳をどう引き出していくか、道徳をどう高めていくかということが基本になるように思います。

孟子は、惻隠の情といって人間はもともと善であるという言い方をしました。この善は善悪の善ではなく、そもそも天が与えた天性と天命を持っているという意味での善であると私は定義します。

そういう天の化身が人間なのだから、天の真心を持つ人間から道徳を引き出していけばいい、政治はそうあるべきであると説いているように思えるのです。

だからこそ如何に道徳を引き出していくかは道徳を教えることではなく、その人を信じて見守りその人の善いところを認めて褒めて表彰していくことのように思います。

二宮尊徳は、徳に報いるという言い方をしました、報徳のことです。人間には誰にしろ必ずその心身に徳を享受されている。その徳を引き出し報いようとすることに社會の社會たる価値があるのでしょう。

如何に社會に徳を引き出していくか、ここからが新たな挑戦です。

個性の真価

人は自分の能力の如何で自分が役に立ったかどうかを自分で判別しているものです。能力が高いと一般的に言われるのは、他の人ができることが自分もできるということです。

しかしそれができない場合は、能力が低いと言われ自分が役に立てないと感じてしまうのです。先日も有能と有用の違いについて書きましたが、有能というものは能力があるということで有用は役に立つということです。

そして私は本来の有能も有用もそれは個性のことだと思っているのです。

人はその人らしさを発揮していれば自ずから有能が発揮され有用になっていくように思います。組織の中で、自分が周りと同じことがたとえできなくてもその人らしい個性が組織で存分に発揮されていればそれがもっとも価値があるのです。

例えば、明るくて楽観的で前向きな人はその人らしくいれば周りに元気ができる存在になります。他にも冷静で客観的で安定感のある人は、周りに的確な判断を与えられる存在になります。他にも慎重で丁寧な人、実直でコツコツの人、繊細で優しい人など、その人の個性そのものが周りを活かし豊かにするのです。

個性を発揮するというのは、自分がその自分の個性を認めその個性を積極的に発揮していく必要があります。周りと同じようになろうとか、周りと同じことができるとか、そういうものを能力だと勘違いせず、自分の個性そのものが周りのための有能さ有用さなのだと発想を転換することで自然に周りを活性化していくのです。

自然界というものも同じく、そのものがそのものらしく生きているだけですがそれだけで周りを活性化するものです。すべては自然の一部なのですから、その一部が発揮されれば全体が発揮されていくのです。

しかし人間は自然の一部であることを忘れて、自然から離れて自分で完結することを自立だとか勘違いしてしまいました。組織から離れて自分のことは自分でできることで迷惑をかけていないなどという人もいます、しかし本当にそうでしょうか。

迷惑をかけないというのは、迷惑をかけているという自覚であり、それは自分が全体の一部である自覚を忘れないということなのです。社會というものは自然と同じです。つながりの中で一部として存在しているのですから、つながりが断裂しないように常に慈しみ手入れをし、つながりの中で自分の個性を発揮させることでみんなの仕合せに貢献しようということが働くということでもあります。

仕事だけできるなら能力さえあればいいのでしょうが、仕事ができないのも能力のせいにしてしまうなど言い訳になります。そうではなく、働くというのは如何に自分自身の個性を発揮してみんなの御役に立つかを積極的に実践するということなのです。

これは私の確信ですが「自らの個性を活かす時、その存在そのものが誰かの御役に立つのです。」

自分の存在が役に立っていないなどと嘆き文句を言う前に、では自分の個性を発揮しているかと自分と正対し間違った考え方を払しょくすることのように思います。

自分が自分らしい時、それが有能であり有用なのです。

個性とは、天の命じたその人の一個の天性です。その天性を活かしなさいと天は私たちに与えたのです。それを私物化して活かさなければ周囲から奪う存在になってしまいます。もしもその個性を周囲のためにと発揮するならば、それは天が与えたものを周りの人々へと与える行為になります。

奪う側か与える側か、これも生き方働き方、自分の積極的な心がけ次第です。

環境や状況に左右されずに発揮すべき真価とは「個性」なのでしょう。
自分らしく輝いているか、これは自立をテーマにする私たちの本義です。