本日は、これから一期一会の井戸掘祭です。私は有難いことに、井戸の甦生をするのは6回目になりますが人生の中でお水が地下から湧き出てくる瞬間に立ち会える感動は一生の財産になっています。
最初は、手掘りで一か月半ほどかかりましたがみんなが手伝ってくれて枯れていたお水が湧いた時にはそのお水の美しさと清らかさに涙と感謝でいっぱいになりました。一番大変だったのが、最後の1年半以上関わって職人と一緒に掘った18メートルの井戸です。あの時も湧いた時には、言葉では言い尽くせない感動と感謝がありました。
今回の井戸掘祭は50名以上の方々が結に参加してくださって一日で掘っていきます。色々な思いが湧いてはあまり眠れませんでしたが、文化の日でもあり弁財天の巳の日に相応しい朝霧に包まれた場になりました。
二宮尊徳にこのような話があります。
「大道は譬(たとえ)ば水の如し、善く世の中を潤沢して滞(とどこほ)らざる物なり、然る尊き大道も、書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし。譬ば水の氷りたるが如し、元水には相違なしといへども、少しも潤沢せず。水の用はなさぬなり。而(しか)して書物の注釈と云ふ物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く、氷の解て又氷柱(つらら)と成りしに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張(やはり)同様なり。扨(さ)て此の氷となりたる経書を、世上の用に立てんには胸中の温気(うんき)を以て、能く解して、元の水として用ひざれば、世の潤沢にはならず、実に無益の物なり。氷を解すべき温気(うんき)胸中になくして、氷の儘(まま)にて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至りなり。世の中神儒仏の学者有つて世の中の用に立たぬは是れが為なり、能く思ふべし。故に我が教えは実行を尊む。夫れ経文と云ひ経書と云ふ、其の経と云ふは元機(はた)の竪糸(たていと)の事なり、されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織り込みて、初めて用をなす物なり、横に実行を織らず、只竪糸のみにては益なき事、弁(べん)を待たずして明かなり。」
意訳をすると、
「天地の大道はお水のようである、流れるままに世の中を善くしては潤し滞ることもない。しかし如何にこのように尊い道であってももしも文字や言葉、そして書物や本になると世の中を潤すこともなければ役に立つことがないそれはなぜか。それはまるで氷のように凍ったものになっているからだ。ましては本の注釈や解釈というものもまた氷につららが下がったようなものでこれも役に立たない。では、この氷になったような文字や本をどのように甦生するといいのか。これを真にまた世の中の役に立てるには、心の中の温氣、真心でよく溶かして元のお水にしてからそれを役立てていくこと。そうすれば世の中をよく潤すことになる。もしも氷を解すべき温氣や真心がなくて氷のままで使っていては愚の骨頂である。世の中に神儒仏の学者が有って世の中の用に立たないのはこのためである。だからこそよく省みることだ。私の教えは、「実践と実行」こそ最も尊ぶものだ。これを経文、そして経書という。その経というのは機織り機の縦糸の事である。しかし縦糸だけでは役に立たず、横に日々実行実践を織りこんで初めて本当に役に立つのだ。つまり横に実行を織らないで、ただ縦糸ばかりでは役に立てないというは誰が見てもすぐにわかることだ」と。
つまり本質は、いくら智慧を知っていても、実践実行しなければ役に立つものにはならないということ。
智慧や真理もまた知っただけでは氷のようなものです。それを志や真心、初心を持ってよくよく熟成させ、その時機が来たら勇氣を出して迷わずに実行と実践をする。その時こそ、「至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く」境地に入ります。
つまり「まるでお水のように直観のままに潤沢して滞らずに上善水の如く天地自然と一体となって善を為すことができる」ということでしょう。この時、人は徳の循環を実感するのです。
太古のむかしから人道はお手入れをすること、そして天道は謙虚にすべての流れにお任せすることを一つの実践としてきて精進して生き延びてきました。
井戸は私たちの暮らしの偉大な大先達であり先生です。
本日は、よろしくお願いします。
