挑戦の本質

先日、失敗についてどれくらい怖いかという話を聞くとほとんどの人たちが怖いと手を挙げていました。漠然とした失敗に対する不安を若い人が持っているのは特にこの国の社会や教育の特徴かもしれません。

そのまま失敗について何が失敗かを定義してみようと話してみると、ほとんどの人たちは「やらなかったことへの後悔」が失敗であったと話していました。そして逆に成功は、「遣りきったことへの信頼」であることだと話していました。

つまりは、やりたいと思っていたことを途中で諦めてしまい挑戦しなかったことを失敗とし、怖かったけれども思い切って挑戦してやり遂げたことを成功だとしたのです。

言い換えれば、結果に対して失敗か成功かではなく、挑戦したかしなかったかということが振り返ってみると失敗か成功を決めているのです。心で決めたことを遣ることは自分への信頼と自信が持てるようになります。自分の心が決めたことを頭や感情で抑制してやらせてあげなかったとき人は自分への信頼も自信もなくなっていくのです。それを後悔というのでしょう。挑戦することが後悔がない人生を歩ませ、挑戦しないことが後悔の人生になると思うと、日々の選択をどうしたか、挑戦か逃げかの集積で人生全体の成果が決まるようにも思えます。

しかしなぜそのようになるのかは、挑戦するときの勇気が出てこないことに問題があるように思います。日本の社會では、何かを挑戦しても結果次第では非常に厳しくマスコミや周囲がその人を叩きます。ただでさえ結果が出なくて落ち込んでいるのに、そこに追い打ちをかけるように痛めつけようとします。

本来は、挑戦したことが尊いのだからと励ましたり勇気付けたりするのが見守る社會なのでしょうが失敗したら取り返しがつかないとか挑戦しても無理だとか脅すような声掛けの方が多いのです。もちろん人情からいうのでしょうが、個人主義が蔓延し自分のことで精いっぱいだから人の世話が見切れないからいうのかもしれません。

挑戦すると本人が決めたのだからみんなで支えるというのが温かい社會です。チームワークも同じく、その人の決心を尊重しみんなでそれを支える、それは時には厳しくもあり、時にはやさしくもありますがそういう仲間を持てることで人は挑戦を楽しんでいけるようにも思うのです。

石橋を叩いて渡らない人が増える中で、石橋が壊れても必ず助けるからと周囲がその人の決心を信頼し尊重する社會がある中で人ははじめて挑戦できるのかもしれません。

安心できる環境というのは、何かあっても信頼できる周りがいるんだと自分が思えるかどうかにかかっているように思います。善い仲間に巡り合うことも、何かあったら必ず助けてくれるという絆が持てるのも、ご縁のように思います。

子どもたちには自分のやりたいことを遣り切れる、言い換えれば夢をかなえられるような人生を歩んでほしいと願います。だからこそ、常識に囚われずに熟慮したら挑戦し、安心して石橋を叩いて渡ることができるような社會を広げていきたいと思うのです。そしてそういう挑戦をすることができる人こそ、社會貢献ができる人であるのは自明の理です。

畢竟、自分から仲間を信頼するというのは、自分自身の信頼を一つ一つ積み上げていくのに似ています。自分の決心を優先できる本物の勇気と強さを実践していきたいと思います。

社育

なぜ教育が必要なのか、その問いについて私なりの明確な定義があります。色々と賛否もあると思いますが、ここで書き記してみたいと思います。

そもそも教育とは何かというと世間では学力だの躾だの評価だの色々と語れます。それは何か知識を得て指導されることにより、優れた人間になるというように思われています。その優れたというものも何をもって優れているかと言えば、社會に善い影響を与える人だということは自明の理です。

世界でも学力ということが注目され、日本の教師も海外視察をし様々な学校の仕組みに注目しそれを国内へと取り入れるよう苦心しています。そういう私もオランダやドイツに訪問し、その国の学校の仕組みを観察したりもしました。

しかしそれは具体的な教育技術であって、そもそも教育とは何かという答えではありません。

私の思う教育者というのは、社會者というものです。

畢竟、社會がないのであれば教育は要りませんし、教育しなければ社會は成り立ちません。人が人と一緒に集団で社會を育てるために教育が必要になるのですから真の教育とは「社育」のことです。

つまり私は社會を育てることが、教育の真価であると定義しているのです。

以前、イエナプランのコンサルティング会社の経営者と会食する中で私が日本の社会が貧しいと嘆いていたら「教育に携わるものが社會の文句を言うべきではない、そうしてしまったのは教育がしたのだから」という話に感銘を受けたことがありました。

あの頃から、私にはオランダに行こうがドイツに行こうがどの国に行こうが、もしくは国内でも教育というものは常に一人一人が内省により実践し、自らの人格を高めることにあるということを自覚自明しました。

世界に影響を与える自分という社會を如何に自らが育てるか、つまりは社會人としての自分を如何に高めて学び徳を積んでいくのか、そういうことを自立し実践することが真の社會者=教育者であると私は思っています。

そしてこの人は真の教育者だというのは学校にだけいるわけではありません。

ある社會では会社であったり、宗教であったり、病院であったり、あらゆる1人以外の組織、コミュニティ(集団)の中にだって顕現しています。

善きリーダーが育ち、善き社會が顕われることこそが、真の教育に他なりません。

いくらテクニックばかりで教育を遠くに求めても、まずその自分自身の内省による社會が変わらないのならばそれはとても教育と呼べるものではないと私は思っています。

かつての神話にあるような世の中を、大国主が社育した世界、また聖徳太子が目指した社育、思いやりや正直に溢れた世に拡げていくことこそが日本人の伝統教育であると私は直観しています。

真の社會人になれるよう、矢印は自分に向けて自らの社育を実践し拡げていきたいと思います。

 

心の余裕

先日、余裕とは何かについて話すことがありました。

余裕というのは、心のゆとりのことで心が落ち着いてゆったりとしているという意味で用いられます。その心がゆったりとするというのは、物理的に何もしないことを言うのではないように私は思います。

そうではなく、心の余裕とは「初心を忘れていない」ということを言うのでしょう。

人は猛烈に忙しくなったり、体調を崩したりすると、感情や気分に呑まれていきます。すると、そもそも何のためにやっているのかとか、本質が何かなどは考えず、その時々の気分次第で物事に対峙してしまうものです。

そういう時は、心のゆとりがなくなり視野が狭まり自分の観えている世界も困窮していくものです。困窮してしまえば、感謝を忘れて当たり前であることに気づくことができなくなってしまいます。

本来、心というものの正体は広くゆったりしているというイメージがあります。これはなぜかといえば、どんな状況下であったにせよ、自分が活かされていることを実感したり、周囲や自他に感謝したいという気持ちを持っているからです。

心はありのままの自然や、生きていかされるあるがままで実相を捉えているように思います。心に邪念がなければ物事は正しく映りますが、ひとたび心を忘れれば邪気や邪念から落ち着けなくなるのです。

不安というものもまたゆとりをなくす理由ですが、心が「何のために」から離れるから不安が増大していくように思います。

つまりは、心の余裕とは「初心」です。

今の時代はどうも初心を忘れがちな時代のように思います。事件が多すぎるのか、マスコミや情報に踊らされてしまうのか、スピードがあがってしまったのか、自然の生活から遠ざかりすぎたのか、色々と理由はありますがどちらにしてもせっかくの人生が「何のため」を忘れることは悲しいことかもしれません。

幸福というのは、自分の御役目に感謝できることのようにも思います。

自分が何のために精一杯生きるのかの天命を知ることで、道楽を噛み締めることが歓びであるようにも思います。どんな状況下にあっても、心の余裕を失わないように「初心を忘れない、何のためにを忘れない」実践を積み上げていきたいと思います。

山野辺の道草

人は新しいことを学ぶときには、新しい山を登るものです。歩み続けるほどに新しい山は顕われ、その山をまた一つずつ登り学んでいくように思います。

山を登る時、人は登ってきた大変さを思うから降りたくないと思うものです。せっかく登ってきたのだから他の山に登ろうとは思わないのかもしれません。しかし、山は新しいステージに合わせて顕われますから今までの山の上にまた登ろうとするのではなく、心機一転新しい山だと思って最初から登る気概が必用ではないかと思うのです。

仕事でも、営業で学ぶ山、上司として学ぶ山、経営者として学ぶ山があるように思います。その山は一つの山の上にあるものではなく、それぞれ別の山を登っているのです。言い換えれば新しい風を感じながら、その山一つ一つの意味を確かめながら登るのに似ています。

みんな山と言えば階段のように、その上にまた山があっていつかはエベレストのようにてっぺんがあると思うのが山の概念です。しかし私の思う山はそうではなく、山の辺の道を歩んでいく中での道草の一つとして登る山々です。

登ることが目的ではなく、山々を歩いていく中にこそ道があるように感じています。

ヤマトタケルの辞世の歌に下記が残っています。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるはし」

(大和は日本の中でもっとも素晴らしい場所。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた倭は、本当に美しい。)

「命の またけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子」

(いのちの無事な者は、幾重にも連なる平群山の大きな樫の木の葉を かんざしとして挿すがよい こどもたちよ)

私の思う山々というのは、このヤマトタケルの定義している山と同じです。

その天に恵まれ見守られる山々の中で私たちは活かされ道を歩むことできています。その山々に感謝しつつ、新しい山を観てはそこを登らせていただきまた降りさせていただき次の山に学ぶのが、道場としてのお山なのかもしれません。

山はまるで神様のようなものだからこそ私たちはその中で生きているのですからその山の入り口で静かに佇む樫の樹の葉を御守りにして、活かされているままに澄んだ真心で学びとっていくことがいのちが自然一体に成長するということなのかもしれません。

倭人の子どもとして今も歩んでいくのだから青垣の美しい山々は続いていきます。
新たなステージを楽しみながら山野辺の道草を行脚していきたいと思います。

 

等身大の自分

全身全霊を捧げるという言葉があります。

これは文字通り、自分の持てるすべてを懸けてということでしょうが簡単なことではありません。人間には、我があり、その自我との調和がもっとも難しいと感じます。

いくら自分は捧げたと思っていても、そこには自分我が入ってきます。その我が入るからこそ、そこに邪念が発生して澄んだ清らかな気持ちを維持していくのが難しくなるのです。

全身全霊の境地というのは、とても泰然自若とした心境ではないかとも思います。

それは本当に全てを捧げる覚悟だったか、思いやりを優先し切っているかどうかと省みると、まだまだ足りないと思う処にいつも保身があったりするのです。

相手のことを自分のように思えるかというものも、全身全霊に近づく方法の一つのように思います。人は全ての力を出そうとはせず、これくらいやっているのだからや、周りが評価してくれるのだからと、自分のミッションや使命に生きることや遣り切っていくことよりも無難で在る方を選択してしまうものです。

一つ一つのそういう自分のわきの甘さに向き合って、今、何を優先したか、その優先する真心は何かと正対していく必要を感じています。感謝や謙虚というものの中に入るのもまた、そういう全身全霊を捧げることで実現するように思います。

自然界に野生する動植物たちは、我がないからあるがままの自然に同然しています。基本に据えているものの中に、慈愛や尊厳を感じているのかもしれません。

自分の都合を入れていないか、もっと周囲のために活動できているか、真心のままに日々を遣り切らせていただいているか、内省を深めて等身大の自分を錬成していきたいと思います。

等身大の自分であるかを常にチェックし、素直な心で自然を学び直していきたいと思います。

型を遺す

佚斎樗山の天狗芸術論は、読み進めていると実践をベースに記されているのがよく分かります。もともと佚斎樗山が青年期に師事した熊沢蕃山は、陽明学から神道、さらには芸術にも精通しており、常に実践を優先し私心に囚われることのない真心を目指したのがその生き方から感じられます。

生き方を学んだ人が、その生き方を文字を遺すということは、後世のためにその「型を遺す」ということなのかもしれません。生きものではないものを使って後を託すのは、その心(生き方)は自ら修練し読み取るようにと先人を歩んだ実践者の強い祈りが入っているのかもしれません。

古の著作や、古の言霊に出会うことは実践を励まされているようで有難く感じています。

その天狗芸術論に「当世の修行者気質を嘆く」があります。

「古へは情篤く志し親切にして、事(わざ)を務ること健やかにして、屈することなく怠ることなし。師の伝ふる所を信じて昼夜心に工夫し、事にこころみ、うたがわしきことをば友に訊ね、修行熟して吾と其理を悟る。ゆへに内に徹すること深し。師は始め事を伝へて其の含むところを語らず。自ら開くるを待つのみ。是を引而不発(ひきてはつせず)といふ。」

(昔、武芸の道に志したものは、情熱ゆたかで志固く、技術の修練によく務め、挫けず、怠らず励んだものである。師匠が教えたことを信じて日夜心に研究を重ね、実技を試み、疑問があれば友に尋ねて、修業を積むことによって自らその道理を身に付けた。したがってその理解はとことんまで徹底したものである。師匠は、最初は技法は伝えても、それに含まれている道理を語ろうとはせず、自ら理解するのを待った。これを「近づけはするが明らかにはしない」という。これは惜しんで語らないのではない。)

「吝(やぶさか)にて語らずにはあらず。此間に心を用いて修行熟せんことを欲するのみ(中略)。是古人の教法なり。故に学術芸術とも慥(たしか)にして篤し。」

(この段階で心を働かせ、修行の実を挙げることを願うからこそのことである。これが古人の教育方法であった。これによって学問も技術も、ともにしっかりしていて内容豊であったのだ。)

「今人情薄く志切ならず。少壮より労を厭い簡を好み、小利を見て速やかならんことを欲するの所へ、古法の如く教ば、修行するものあるべからず。今は師の方より途(みち)を啓き(ひらき)て、初学の者にも其の極則を説き聞かせ、其の帰着する所をしめし、猶(なお)手を執りて是をひらくのみ。」

(今日では、武芸を学ぶ者も情熱が薄く、真剣な志を抱いていない。若いときから骨の折れることをいやがり、手軽なことを喜び、小手先のことで手早く上達するのを望んでいる。このような者に対して昔のようなやり方で教えたのでは、修行をしようという者がいなくなってしまう。そこで今日は、師匠の方から手ほどきをして、初心者にも極意をを説明し、その実際を見せ、さらには手をとってこれを教えこむほかはない。)

「かくのごとくしてすら猶退屈して止まる者多し。次第に理は高上に成て古人を足らずとし、修行は薄く居ながら、天へも上る工夫をするのみ。これもまた時の勢いなり。」

(このようにしてさえ、厭気がさして止めてしまう者が多いのである。こして理屈だけではだんだん達者になるばかりで古人の説では満足できなくなり、ろくな修行もしていないくせに、天にも登るほどのわざを得ようとするのだ。これもまた時の勢いとうほかはない。)(武道秘伝書 吉田豊編 徳間書店)

学び方一つとっても、今の学校の教え方と古の学問への姿勢は異なるものです。本質を学ぶということや、実践をするということが本来の学び方であったはずですが今のような情報や物が溢れかえった時代にはこの時代と同じような問題が発生するのかもしれません。

如何に貪欲に学ぶのかは、その人の真摯な生き方との向き合いなのでしょう。何のために学ぶのか、その初心を忘れないでいることが修行なのでしょう。先人の型をを参考にして取り組んでいきたいと思います。

人馬一体

昨日、流鏑馬の稽古の中で師より「人馬一体」ということについて指導がありました。

乗馬においてもまだまだ自身の身体がまったくついてきませんが、長い時間、引き合い気持ちやタイミングを合わせていく中で少しだけ学びの入り口を体験させていただけたようにも思います。

そもそもこの人馬一体とは、辞書には「乗馬において乗り手と馬が一つになったかのように、なだらかで巧みな連係が行われること」とあります。師からは、長い時間の馬との関わりの智慧をひとつひとつの言葉の中で教えていただけているのを実感します。

自分なりに、感謝のままに武の心を学んでいきたいと思います。

滑稽さの中に教訓と風刺をまじえて江戸時代中期に流行した「談義本」の祖とされる佚斎樗山に宮本武蔵『五輪書』とならぶ「剣術の秘伝書」に「天狗芸術論、猫の妙術」があります。

ここに人馬一体について書かれています。

問ふ 「何をか動いて動くことなしといふ。」 曰く「汝、馬を乗る者を見ずや。」よく乗る者は、馬東西に馳すれども、乗る者の心泰(ゆたか)にして忙しきことなく、形静かにして動くことなし。ただ、かれが邪気を抑へたるのみにて、馬の性に逆ふことなし。ゆえに人、鞍の上に跨(また)がって馬に主たりといへども、馬これに従って困(くる)しむことなく、自得して往く。馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、精神一体にして相離れず。これを鞍上に人なく鞍下に馬なしともいふべし。これ動いて動くことなきもの、形に表はれて見やすきものなり。未熟なる者は、馬の性に逆って我もまた安からず、つねに馬と我と離れて、いさかふゆえに、馬の走るにしたがって五体うごき、心忙しく、馬もまた疲れ苦しむ。ある馬書に、馬の詠みたる歌なりとて、

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり

これ馬に代りてその情を知らせたるものなり。ただ馬のみにあらず。人を使ふにもこの心あるべし。一切の事物の情に逆ふて、小知を先にする時は、我も忙しく、人も苦しむものなり。

これを石井邦夫氏が現代語訳しています。

「次のような質問があった。”動いて動くことなし”とは、一体どのようなことを言っているのであろうか。次のように答えて言った。あなた方は乗馬者をよく見るだろう。上手な乗馬者は、馬を東西に走らせても心は安泰でせわしいことはなく、その姿も静かでゆれ動くことがない。外から見れば、馬と人が一体になっているようである。

しかしそれは、ただ彼が自分の邪気を抑えているだけのことで、馬の性質に逆らうことがないのである。それだから、人が鞍の上にまたがって馬の主になっていたとしても、馬はそれに従って苦しむこともなく、納得して走っていくのである。

馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、気持ちが一体になってお互いに離れることがない状態、これを”鞍上に人なく鞍下に馬なし”とでもいうのであろう。これなどは”動いて動くことなし”ということが具体的な形に表れて、わかりやすい例である。

未熟な者は馬の性質に逆らってしまい、自分もまた安泰ではなく、つねに馬と自分の気持ちが離れて、争ってしまうために、馬が走るにしたがって身体が揺れ動き、心がせわしくなり、馬もまた疲れて苦しむのである。

ある馬術書に、馬が詠んだ歌として、次の和歌がある。

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり
(集中して走り込もうとすると引き止められ、手綱が口にかかって前に行かれないんだ)

これは馬に代わって馬の気持ちを伝えたものである。

ただ馬だけではない。人を使う場合にも、このような気持ちはあるであろう。一切の物事の状況に逆らって小賢しい知恵を先に働かせてしまうような場合は、自分でもせわしなく、他人も困らせてしまうものである。」(講談社)

古武道から学ぶ智慧は、今の人生を生きる智慧そのものです。

何事も分けずに道から教えが入っていることに感謝し、心のままに学びを深めていきたいと思います。

体験即感謝

毎日、色々なことが起きる中で自分の思い通りいかないことは沢山起きます。最初は、感情的になりますが内省をし意味づけしていく中で新しい発見に出会います。発見というのは、自分の思ってもいない出来事に出会うことを言うように思います。

自分の思ってもいない出来事というのは、その出来事に良し悪しがあるわけではなくそのままにそれが起きたということです。そういう時は、その出来事に真っ直ぐに向き合えるかどうかでその出来事を正しく学ぶことができるようにも思うのです。

そして真っ直ぐとは何かといえば、直視することですがこれは心と体と精神が正面から受け止めるということであろうと思うのです。世の中には受け止められないことがたくさんあります、その理由は自分が捻じ曲げてしまっているからです。

本来の自分はこうであるはずということや、自分の思い通りではないというところに執着を持つと分かってはいてもその執着が手放せずにいつまでも苦悶は続いてしまうのです。この自分の思い通りというのは、世界は自分のものであるということ、自分の一部が世界であるという感覚のことであろうと思います。自分が全体の一部であり、世界の中に自分が存在していて循環の担い手であるということがこれを手放す鍵かもしれません。

自分の身におきる全ては何かの意味が隠れていてそれが世界に多大な影響を与えているという責任を持っているかという自覚なのです。出来事を善きことにしていこうとするとき、一見悪いと思えることを善いことだと信じようとするとき、世界の本来の姿が顕現するのです。

この世は、自分が生きているだけ、活かされているだけで幸福な場所なのです。その幸福な世界に棲んでいるだけで善きことなのですが、私や我が入ることでそう見えなくなっているのです。

そこから体験を省みれば体験そのものが感謝であると実感できるようにも思います。

体験即感謝というのは、この世界があるがままの世界のままにいる自覚をするためのコツかもしれません。知識という別の世界を産みだし、そこで人間だけの世界を創造してしまいましたがそのことから真実から離れてしまったように思います。

本来の世界そのままにいるということで、正直、素直であることを体現するのですから全体宇宙の感覚を忘れないように感謝のままでいる実践が確かな意味や記憶というものを純真にしていくように思います。

ズレテいるのは誰か、ズレテいるのは何か、そういうことを出来事との正対、自分自身との向き合いにより学び直すことが新しい発見を創造するのでしょう。有難い機会に一つ一つ深く感謝して歩みを清々しくしていきたいと思います。

 

大和の言霊

先日、世田谷の松陰神社に参拝する機会があり純粋な志に感応しました。

以前、ヤマトタケルが大和の風土であることをブログで書いたかもしれませんが私の思う純真な風土人の一人がこの吉田松陰先生です。

自然をお手本にしていますが、天人合一に自然一体となった純粋媒体の人物の生き方に触れるといつも心が揺さぶられます。もっとも有難いことはその人の遺産が歴史として書物として口伝として心に残っていることなのかもしれません。

その遺訓や遺産を志で承ることが志士の心得なのかもしれません。社會に出でては仕事をしますが、志士でなければ何ものかということでしょう。ただ自分が貪るために生きるのではなく、豊かに何か大切なもののために生きたいと願うならそれはもうすでに志士の一人です。

初心や理念、志を重んじて生きる事こそが生き方となって受け継がれていくように思います。

吉田松陰に下記のような大和の言霊が残っています。

「夫れ重きを以って任と為す者、才を以て恃(たのみ)と為すに足らず。知を以て恃と為すに足らず。必ずや志を以て気を率ゐ、黽勉(びんべん)事に従ひて而る後可なり。」

(重大な使命を掲げ、それを自らに課すものは、決して才能を頼みにしても、知識を頼みにしてもいけない。必ずその初心や志を以て仕事に励まなければならない。その時々の自分の思い付きや単なる小手先のテクニックなどで仕事を片付けようとしたり、いたずらに知識ばかりを増やしてはいけないのである。)

「士は過なきを貴しとせず、過を改むるを貴しと為す。」

(失敗して恥をかくのが嫌で挑戦をしないのは取るにたらない小人のやることである。志士はそういう無難であることを尊いとは決して思わない。使命感に生きる人は失敗してもすぐにその過ちを認めてすぐに正すことを優先する、チャレンジしては改善することを尊いとしているのです。)

最後に、心に深く響く言霊です。

「自らその暗劣なるを忘れて日夜勉励し、古賢を以て師と為す。」

(自分が誰かよりも劣っているとか能力がないとかそういうことを思い煩うのを忘れるほどに日夜精進し真摯に実践することを怠らず、古の聖賢の背中や足跡を先生として生きていきなさい。)

意訳ですが、言霊の受け取り方はその人の心で受け取るものです。世間から学びはしても、世間の価値観には迎合されない確固として志がいつも自分を助けてくれます。群れる必要もなく、無理に合わせる必要もない、只ひたすらに自らの求めた道を歩んでいきたいと思います。

真心が至誠

昔から人は真心を持って生きる事や、至誠であることは天を相手にしているという言い方をします。これは天というものの存在を実感し、その天に恥じないような生き方をしようと心掛けているということです。

これをお天道様という名で呼び、そのお天道様がいつも見守ってくださっているのだからそれに恥じないように生きて活きましょうという声掛けをして正直にその性を全うしていたのだと思います。

そもそもこの天とは何かといえば、天地自然のことです。大宇宙という言い方をしてもいいのかもしれませんが、私たちを活かしてくださっている偉大な存在のことをいうように思います。

例えば、私たちの身体は何もしなくても自分で成長し自分で回復していくものです。これは本能とも私たちは呼びますが実際は何かによってそうさせていただいているということです。つまりは私たちの身体も英語で言う何ものかサムシンググレートによって活かされているということです。

私たちが天を感じるというのは、そのサムシンググレートを感じているということでありその天の運行、天の恩恵を素直に正直に承れるようにしていることが謙虚でいるということであるように思います。

本来は天が活かしてくださっているのだから何もしなければその恩恵は享受できるのですが、しかし人間は我や私が入りますからそれをすぐに邪魔をしてしまうように思います。自分の我や私が入り込むことで丸ごと受け取ることができなくなり、運が悪くなっていくようにも思います。

天は人間を活かし、そして万物を丸ごと包み育むのだから必ず善くなるようにしてくださっているのです。だからこそ天を邪魔しないように生きていくこと、自分に与えてくださったものを選ばないこと、来たものは全て善いことになるように祈り取り組むこと、周りの全てを受け容れて一体となって丸ごと善いことになるのだと信じた実践を積んでいくことが徳を高め運がより善く開けていけるように私は思います。

西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、これは天が自分を愛してくださるように自分も人を愛する、それは天の真心のままに活かされますという覚悟ではないかと私は思います。

天人合一というのは、全てを一円の和の中で丸ごと善いことにしていく生き方のことです。言い換えれば、天に対しては謙虚、人に対しては素直でいるということであろうと思います。

人間は無我や無私になる時にだけ、すべての問題が自分の問題になるように思います。
自他一体とは、無我や無私のときにこそ実感でき同時というのもまた其処に存在します。

日々は学びの連続ですが、天に感謝し、全てを善いことにしていくよう内省したいと思います。
日々の有難い体験と学びという豊酬に心から感謝しています。