力の本質~変化を味わう~

よくあの人は営業力があるなどと言われるような場合があると思います。他にも学力が高いとか、能力とか〇力とつくものを語る時、その人がよほど何か自分と異なる才能があるからと分別していることが多いように思います。

しかし実際はどうなのかということを深めていることは少ないように思うのでここで書いてみます。

そもそも何でも力というものは、最初からあるわけではありません。よく「力が具わってきた」とか言われるように力というは次第についてくるものです。最初はないものが次第に身に着いてくるというのが力の本質です。

それでは何によって備わって来るのかといえば、当然のことながら「努力」であることは自明の理です。人は最初はできなかったことが、次第に何かを行うことによってできるようになってくる。

その何かとは、それだけの努力の賜物によって得られるということなのです。

よく努力してますがと思い込んでいる人もいますが、ほとんどは今もっている才能だけで乗り切ろうとしているだけで新しいことを真摯に勉学しようとまでの努力はしていないように思います。今までのやり方で通用しなくなっているからこそ、新しいことを常に学び直し、学び続けていくことで新しい力を具えていくように思うのです。

なので力の本質とは努のことです。この努の語源を辿ってみると その「努」は「奴」と「力」でできています。つまり「奴」は「女」に「又」を加えた文字。「又」は手を表す形です。つまり「奴」は「女」を「手」で捕まえて奴隷にすることからその意味に「めしつかい」「しもべ」「やっこ」となっています。また「奴」に「力」(鋤)を加えて、農奴が農耕に努めることを意味する漢字が「努」となりそこから「つとめる」「はげむ」意味ではないかと言われているようです。

これらの努力というのは、それだけ地道に仕えるということを連想させ、つまりは自分に自分を従わせていく力をつけていくことかもしれません。目標管理というものも、これは自分が自分を変え従わせるために必要になるのではないかと思っています。

長くなりましたが、営業力とは営業努力であること、学力とは学努力であること、他にも〇〇力という言葉もすべてその間には「努」が入るのだということなのでしょう。

努力なしに目標も産まれず、目標なきものに成功もまたないように思います。以前、顧問の方から教えていただいた言葉がようやくここでつながりました。その方の尊敬していたリクルート創業者江副社長の言葉だと紹介してくれました。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。」

これは営業に限らず全ての努力に通じる言葉だと思います。それだけ大量に最大に動いたか、どれだけ本気で沢山のことを遣り切っているか、その機会を産み出した分だけのものをはじめて掴み、そうした努力の上に他人に分け与えることができる、そしてその成果としてのみ変化があるということ。

まずは自分からチャンスを産み出す努力をすることのように思います。それらを本人自らできるようになるまでがコーチの真の役割かもしれません。

最後に、努力の人というと思い浮かべる方に王貞治さんがいてその人の言葉に勇気をいただきます。

「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」(王 貞治)

自分の都合でやる努力ではなく、自分を従わせるほどの高い目標に向かって真の努力を積み上げていくことのみが努力と呼んでいいのでしょう。ただ努力に悲壮感がでてくれは人生が勿体なくなる気がします。一期一会のご縁は天からの贈り物ですからその天に応援されるほどの報われる努力の先に出会ったことのない奇跡が待っていることを楽しみに、日々にワクワクドキドキと好奇心の情熱の炎に薪をくべ、その時々の変化を味わい新たな心で挑戦していきたいと思います。

家訓の価値

家訓というものをご縁があり深めていると色々なものがあることに気づきます。

有名なのは、上杉謙信、徳川家康、伊達正宗、保科正之など一家を為した人たちが子孫のために訓戒を遺したように思います。一家において、一家を維持継続していくために子孫は何を守るかということを説いているように思うのです。

「創業は易く守成は難し」といいますが、新しく事業を興すことよりもその事業を受け継いで守り続けることにほうが難しいという意味で用いられるものです。

何代も先のことも慮り、どのように生きていくべきかということを自分の代を真摯に生き切る中で得られた叡智を語り継ごうとした姿がそこに観えます。伝える方も必死だったあの時代、生き死にの中で大切なことを伝えようとした重みを感じるものが家訓のように思います。

また江戸時代の藩体制の基礎をつくった藤堂高虎家訓200箇条はとても興味深いものがあります。ご縁のあることから調べていると、正確には204箇条からなる手引きが書かれています。

「第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意」 (寝室を出る時から、今日は死ぬ番だと心に決めること。そういう覚悟があれば、物に動じない。本来、こうあるべきだ。)

というように死生観、生き方の心得からはじまります。

「第204条 物事聞とも根間すへからす」(物事を聞く時に、根本のことを聞いてはいけない。)

で終わっています。この文章を最後に持ってくるもの、また味があるように思います。細かく具体的にこうするべきであるとしたのは、それだけ大切なことなのだとそれぞれの意味を深めて書き記したものが残っています。

この家訓を読んでみると、その人柄が伝わってくるものもありお会いしていなくてもその思想や願いが伝わってくるからとても不思議な感覚を覚えます。

また何かある時にすぐに思い浮かべるものに柳生家の家訓があります。これは有名なものなので知っている人も多いと思います。

「小才は、縁に会って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖振り合う縁をも生かす。」

すべてのご縁は活かすものです—とこれはシンプルですが、そのチャンスを活かすということの価値をこの一文で全て語り尽くしています。タイミングを逃さないというものは、君子時中すとあるようにご縁に活きる、活かされているという智慧そのもののことなのかもしれません。

家訓には、大切な現場の智慧が入っていますし伝えようとする側の真心が籠っています。伝承していくことが役割だとしたときに、そこをもう少し奥へと親しんでいきたいと思います。

維新継承

昨日、リーダー研修があり最後の話で藤森代表から「主人公」と「伝承」という役割の話がありました。先祖が真摯に生きて今の自分があるからこそ、尊い御役目が自分にも必ずあることをもう一度よく考えるという機会になりました。

日常が当たり前になっていると自分だけで物事を考えますが、今の自分があるのはどのような御蔭であるのか、連綿と続いてきた風土や結縁、生死のめぐりのなかで受け継いできた魂やいのちの存在を実感します。

そういう自分をそういう今をどれだけ愛しく大切に生き切っているかを思うのです。

語り継ぐものに出会うとき、受け継ぐ側の覚悟を省みます。本気で生きているかというのは、本気で死んだ人たちの積み重ねの上に自分がいることを決して忘れないことかもしれません。

それは、今を真摯に生きぬくことで自分の御役目に感謝していることかもしれません。

今、自然農然り、古神道然り、大和魂然り、一つ一つのことを紐解いて自然からの手ほどきを受け学んでいますがこれも受け継ぐ側の覚悟があってはじめて語り継がれていくものです。外来の思想や、人工智が高く評価されてそれすらも誰も気にしないくらい浸透した昨今では、かつての風土の思想や自然智の価値を新たに実感する人も少なくなってきているように思います。

先祖たちがどのように生きてきたのかを知ろうともせず、周りだけをみて今までもずっと今のような生き方だったのだと思い違いをしてしまうことがほとんどです。戦争のことでも、私の祖父の代の話であったのに、受け継がれなくなるとすぐに感覚がマヒしているのが分かります。

これだけ継承していくことや伝承するということは、その時代の生き方の反映であり、そこに語り継ぐものと受け継ぐものの価値を等しくしていないと互いに成り立たないように思うのです。そう考えてみたら、それぞれが真摯に真剣に主人公として生き切った跡にこそ最も価値のある口伝が存在するように思います。

神主とは私の中では、自然のバランスを司る者、つまりは一切の無駄というものがない”しくみ”そのものになる者と定義していますが、これも受け継ぐにはそれ相応の覚悟があって先祖の叡智を直観するのでしょう。

刷り込みに誘惑されないで正しく受け継ぎたいという畏れと尊敬と謙虚さがあってこそ伝承は成り立つのです。先祖の素晴らしさを思うほどに、自分の襟を正すことばかりです。頭で理解することではなく、語り継ぎ受け継ぐという意味、つまりは真実の思想の継承なのです。

その人の時代があるとき、自分の時代があることに気づかなければなりません、同じ生き方をしても同じ時は共にできません、だからこそ自分の代を真摯に生き抜かなければなりません。そこには思想を受け継いでそれを正しく新しくしなさいといったメッセージと意志を感じました。

「飛鳥から江戸は旧邦なれども、その智慧は維新なり」

これは今年ご縁があった保田與重郎の言葉です。

そして中江藤樹の訳した孝経こうあります。

「旧邦を興して天命新たなり」

時代が変われども、受け継ぐ人がいることを教えてくださいました。思想など目には観えないものかもしれませんが、心に響いたことを心に刻み、志を貫徹していきたいと思います。

大事なことを直観しました、いつも本当に有難うございます。

 

自生のサイクル

昨日、シイタケやヒラタケ、キクラゲなどの種菌を榾木に仕込む作業を行いました。昔は、山の中に自生するのを待ってうまくシイタケがつけばいいと何度も繰り返し菌が降ってくるのを待っていたそうです。空気中には色々な菌がいて、シイタケがついてくれる可能性というのはどれくらいあったのでしょうね。

今は何でも簡単便利に購入して、種菌も移植できますが昔の人達の長い長いゆったりとした自然時間をかけて繰り返し大事にされてきたいのちをその気持ちになってみつめてみたいと思います。

榾木は森の中に休ませ、菌たちの生活するための住居を用意し、それを見守り約2年後には沢山のきのこが出てくることと思います。自然が共生するというのは、それぞれの生きもの生活を用意してその恩恵によって少し分けていただく中にこそ有難みがあるように思います。

約2年後というのは、私の見解ではきのこの菌が榾木の中で繁殖し確立したらまた別の棲家を求めて旅立つ際に協力してきのこになるというものです。ここできのこになるというのは、増えすぎた棲家を若い種たちが離れて新しい棲家へと子孫を残していくための自立になるということなのでしょう。

菌という生きものは、そのものが種であり種であるから繁栄発展していくように思います。そこから推察してみると、私達一人ひとりも大切な種でありその種が次世代へと希望を繋いでいくようにも思います。

種が散らばって土に落ち、地上で花を咲かせて実をつける。
こんな当たり前なことも、菌や植物や生きものから学び直しているところです。

さて発酵を学ぶ中で次第に発展して、菌というものを身近に感じるようになりました。発酵というものも、菌が活性化することで行われるものです。ある一定の菌の食べものさえあれば特定の菌たちがそれを食べ尽くす際にエネルギーを放出していきます。

私達のご飯と同じように、食べるから元気がでてその元気さが発酵の証とも言えます。どの食べ物を食べるかでお腹の中の菌の種類も、また菌の構成も変化するのですから如何にそのものの環境に相応しいものを用意していくのかというのは大事なことなのでしょう。

そう考えてみると、きのこではないですが私たちの身体は榾木のようなものなのかもしれません。菌が私たちの身体に棲みついてその体で繁殖し移動していくのですから。植物や木々も、根っこには菌があって菌がそこに棲みついてきます。

あながち、生命の本体が菌であり私たちはそれを助けるために身体を構成したのかもしれません。人間の細胞も60兆にもなるといわれますから、そこには何か菌の不思議な力が働いているのかもしれません。

マクロもミクロも宇宙ですから、これはこれでまだまだ見極め研究も実践も楽しんでいこうと思います。これから数年の自生のサイクルできのこの見守りがはじまりますがゆったりとした時間の流れを寄り添いながら味わっていこうと思います。

体験の尊さ

私達すべての生きものは、人間を含め体験しないと分からないようにできています。

それは一度しかない自分の人生の中で、何を自分がしたいのか、何をしたがったのか、そういうものはすべて体験を積み重ねてみてはじめて自明していくものだからです。

この積み重ねていくというのは、言い換えれば時間を遡っていくもののように思います。つまりは体験を内省することで、その内省の意味を辿っていくかのようなものです。

過去から未来へも、未来から過去へも、今の積み重ねの中に存在するものです。これらの時間軸は自分で勝手につくりだしているもので、自然には今しかありません。そう考えれば体験の中にこそ私たちは生死を超越したところに棲んでいることを実感するということなのではないかと思います。

すべての生きものというものは、そのものの体験を通して学んでいきます。それは自然界では当然のことで、自然の循環に従って自分たちが体験したことを子々孫々へと引き継いでいくのです。今が積み重なっているだけという見方をしてみれば、その時代時代に内省をしてきた分の歴史が在るだけということです。

これを思う時、体験しないということがどのようなことかを考えてみるのです。

体験というものの尊さというものは、内省することによってはじめて得られるように思います。なぜなら、内省することが正しく体験をすることだからです。

毎回毎回の出来事はその瞬間瞬間に確かに意味が存在しています。それはマクロからミクロを観るように、ミクロからマクロが観えてくるように、一部と全体というものは首尾一貫してつながっているからです。その「つながっている体験」というものをどのように捉えているか、どのように味わっているかで人生全体というものが顕現しているように思います。

少しこんなことを書くと哲学のようになるのかもしれませんが、そうではなくそもそも体験こそが人生であるということを改めて実感するということだと思います。体験というものを大事にしていくには、体験しないことよりも体験していく尊さを実感する方を優先していなければなりません。そのためにも内省を続けて積み重ねていくことで、そのつながりを切れないようにと努力することが必用ではないかと思います。

長くなりましたが、体験も内省も今も、「つながり」の中で用いる言霊ということです。

だからこそつながりが観える人は、生死を超えた今を見つめます。しかしつながりが観えない人ではいつも未来や過去を憂慮するばかりで自分の今が分からなくなってしまいます。怒涛の如く過ぎ去る日々にも流されない平常心を持てるかどうかがより善く歩んだ道の姿なのでしょう。

ですから体験の尊さを忘れはいけません。なぜなら体験してみようと試みること、チャレンジすることが人生を切り開くことなのですから。

体験を勇気づけるゲーテの名文をいくつか紹介します。

「涙とともにパンを食べたことのある者でなければ、人生の本当の味はわからない。」
「つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。」
「 とにかく、とりかかれば心が燃え上がるし、続けていれば仕事は完成する。」
「 自分を信頼しはじめたその瞬間に、どう生きたらいいのかがわかる。」

体験することで得るものが真の智慧であり、そこに道を歩んだ軌跡が永遠に遺ります。最後にゲーテはこう問いかけます。

「君は本気で生きてるかい?」

取り組みを恐れずに取り組まないことを真に畏れ、前進していきたいと思います。

情熱感謝

何かの物事を成し遂げる際に、他力が入るという言葉があります。

これは遣っていく中で何度も実感し、そのうち他力の方が重要ではないかと感じていくものです。この他力とは、自力を尽くした後の他力のようなもので目には観えない何かの力が働いたことでその物事が為されるということです。

人は全身全霊の情熱を傾けて物事に取り組む時、自分の力を超えた何かによって支えられているのではないかと気づくものです。天が助けたくなってしまうような純真で直向な努力を怠らないことで竟には思ってもいなかったような奇跡に出会い、いつもそこに何か力を貸してくださった存在があったこと、まるで天と一体となったような不思議な感覚を覚えるものです。

自分の力の全力を惜しまず情熱を持って事に当たれば苦しい時ほど助けが入り最期まで遣り切らせていただくのです。その後に、いつも自分の思い通りではなかったけれど思った以上のことが起きていることに気づいては感謝するのです。そういうひとつひとつの感謝が今というものの中に存在していることを知ると、出し惜しみしないという考え方が身に着いてくるように思います。遣り切るというのは同時に遣り切らせていただいたということなのでしょう。

一般的には人間は誰もが失敗したくないものです。特に知性ばかりを評価されてきた生き方だと、他人の目ばかりが気になってしまうのです。何かを努力して乗り越えたことを評価されてきたならば、その人は尽力を出し切ることの方が素晴らしいことを自覚しているのです。

尽力を出す機会をどれだけ得られたかというのが本来の運かもしれません。運を伸ばし運を善くするには、自分の底力を出していく機会をたくさん求めていくようなご縁に出会うことかもしれません。

ご縁を大事にしていく生き方というものは、今を尽力するという生き方です。

二度とない時間、二度とない場所、二度とないこの今にどれだけ本気に向き合っているかという生き方です。情熱もこの今から湧いてくるものですし、自力というものもこの今に正対する心から派生してきます。そう考えてみると、情熱と感謝は常に表裏一体なのかもしれません。

最後に私がとても好きな西行の詩を紹介します。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

遣り切る生き方というものは、いつもその御蔭様に気づける生き方なのかもしれません。日々を大切に自他に活かされていることの御恩返しをしていきたいと思います。

時々の初心~人の成長~

ソフトの名前の変更にあたり、色々な意味を考え直しています。

能の大成者の世阿弥に「時々の初心、忘れるべからず」という言葉があります。これは、出会いというもので置き換えて考えてみるとその本質が理解できるように思います。

出会いというものは、それまでの出会いがあります。ある出会いから、人は様々なことを学んでいきます。それは職業との出会い、出来事との出会い、人との出会い、場所との出会い、様々な出会いを生きています。そうして出会いから何かを学び、そして卒業したら次の出会いを学ぶのです。

同じ人と一緒にいても、御互いが出会ったことから学び、卒業すれば御互いに次の学びに進んでいくのです。御互いがずっと一緒にいられるというのは、御互いが努力精進するのを已めず常に切磋琢磨し学び合って成長進化し続けている証だともいえるようにも思います。

先ほどの時々の初心というものは、一つの物事を乗り越えるときそこでかつての初心に別れを告げて新しい初心に出会うという意味ではないかと私には思えるのです。

昨日のセミナーの情報交換会でも、見守る保育ということを学ぶと1年目も5年目も10年目でもその時の見守る保育に出会うということ、つまりは道というものには終わりがなく常に初心を新しくしていくことが大事だということをお話ししました。

これは温故知新と同じ意味であり、常に新しくしていかなければ初心を忘れてしまうのだということなのです。

ソフトを新しくするというのも、それまでの初心を卒業しもう一度、新たな初心に出会うという意味ではないかと思えるのです。それは単に新しく販売するとか、数字を出すとかという意味ではなく、自分を新たにして新しく次の初心を達するために真摯にゼロから学び直すということであろうと思います。

それは説明を単に変えるなどという次元の話ではなく、そもそもの新しい初心を築くことのように思うのです。またはじめから行うのかということを人は嫌がるものかもしれませんが、それでは初心に出会えません。

初心に出会い続けるのは、「もう一度新しく出会いたい」と願う心からはじまるのかもしれません。

人は長年共に過ごしていても、そのうち次第に落ち着いてくるものです。しかし進化成長を已まない人と共に過ごすなら自分自身も同様に新しくしていかなければなりません。そこには過去の出会いとは別に新しい出会いへと刷新していく努力がいるように思います。人は成長し合える人と出会いたいと心で願っています、だからこそ自分も一緒に成長できる関係でありたいから常に自己改心の努力をするのです。

つまり挑戦するというのは、新しくするということです。そしてそれが時々の初心ということであるのです。日々は真剣勝負です、ややもすると昔の学びの方が楽なのでそこに依存してしまいますが過去は過去、それをすでに習得したのならスパッと卒業して次の学びへと駒を進めることが進化成長の法理です。

同じソフトをやるにも、まったく異なる新たな意識に変えて最初からやり直していこうと思います。バージョンアップをやめてから4年目に入って、ようやく新たなバージョンアップに行き着きました。また次回もその時が来るのでしょうが、伴に理念の大切な道具と歩める日々を継承し歩めることを心から有難く思います。

しかしいつの時代も道具が変わるのではなく、変わるのは道具を用いる人の方だと心を定め気を引き締めて初心を学びこんでいこうと思います。

新たな出会いと別れに心から感謝しています。

口伝

宮大工棟梁の西岡常一さんの著書「口伝の重み」(日本経済新聞社)には、技法というものが如何なるものかということが書き記しています。

先祖代々の重みを、受け継ぐということがどのようなことであるのか、その生き方や生きざまを拝観していると心に染み入るものがあります。

姿勢とか、考え方とか、今の自分に照らすとちゃんとやらなければという激励を戴いている気がしています。その中で、代々、西岡家棟梁が受け継がれた家訓を祖父から伝えられる場面があります。

正座して、父と一緒に聴いたとあり、これが祖父からの最期の教えだったと言います。受け継ぐ側も承る側も、そのような大切なことを最期にするというのは清々しく感じます。これを思う時、私が教えるということが安易ではないか、心して教えていたのかと思うと恥ずかしい思いがし、本来の心というものは教えにもあるのだと痛感いたしました。

その口伝ではこうあります。

「仏法を知らずして堂塔伽藍を論ずべからず」
「天神地祇を拝さずして宮を口にすべからず」
「法隆寺大工は太子の本流たる誇りをもて」
「伽藍造営には四神相応の地を選べ」
「堂塔の建立には木を買わず山を買え」
「堂塔の木組みは木の癖組み」
「木の癖組みは工人等の心組み」
「人の非を責める前に自分の不徳を思いをいたせ」
「百工あれば百念あり一つに統ぶるが匠長が器量なり」
「一つに止めるの器量なきは謹みおそれ匠長の座を去れ」

これら一つ一つは、いつ頃からあったのかもわかっていないそうです。しかし、その一つ一つは先祖がそれぞれの人生を生き切る中で生涯をかけて艱難辛苦の泥沼の中から咲いた蓮の花のような叡智であろうと思います。

文章に書けばすぐに書けますし、読めばすぐに理解はできますが、その重みを理解することなとはできません。それを口伝で伝え、家訓とするのにはそれ相応の理由があり、先祖たちが失敗を積み重ねて乗り越えてきたなかで遺したものであろうとも思うのです。

震災で、津波に関する石碑のことなども同じことを繰り返さないようにと子々孫々への思いやりをもって先祖が様々なことを伝承してくださっています。神話もまた、先祖が私たちに語りかけてくるのもどのような国を造れば善いのか、そしてどのように暮らしていけばよいのかを教え導いてくださっているものです。

それを受け賜る側の姿勢として、今の自分はどうであろうかと猛省する気持ちがします。そして、先ほどの口伝の続きにはこう書かれています。

「諸処の技法は一日にして成らず祖神達の徳恵なり」

全ての技術とは、必ず一朝一夕になるものではない、長い時間をかけて猛練習猛特訓の上で築いてきたものであるということを諭してくださっています。決してできないからと諦めるのではなく、その上で何をすべきか、どのように真剣に猛稽古に打ち込むかといった祖神たちの見守りを感じるのです。

口伝とはその重みを感じる側がいて受け取る側がいるのかもしれません。子ども達のことを思えば、伝承していくことの大切さを改めなければと決意に満ちます。真摯に一つ一つを古道に照らし学びとっていきたいと思います。

体得会得の努力

人が大切なことを覚えるのには、自分で体得会得するのが一番です。

しかしそれを実際に遣ろうとしない人が増えてきているようにも思います。なぜ体得するのが善いのかと言えば、それは忘れないからです。他人から教えられたことは、いくらメモに書いてもノートに残しても覚えられるようなものではありません。

それを暗記としてはあれかと思い出しはしても、実際の現場で役に立つための智慧にはなりません。何度も何度も自分なりに挑戦してみては、教えてくださった師や先輩、または上司のように自分もできてはじめてそれが自分のものになったとも言えるのです。

宮大工棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)にその学び方の姿勢について色々と書かれていてとても共感できます。

そこにはこのような主旨のことが書かれていました。職人の世界では、手取り足取りの指導などはしないものです。その教えには、「体で覚える。優れた仕事を見て、それを盗む」これを基本だとしています。そして「口より先に手」と、まずは自らの手で掴みとれという心構えを沁みこませます。理屈であれこれというのはうまくいかない。それぞれが、自分で体に仕事をしみこませるしかない。何かを伝えていくのも、そうしたやり方になる。それだけに「教わる方も、教える方も必死。」だったとのことです。

それだけカタチにしていくということは、口先や言葉ではできないということを自らの体験から知覚しているのでしょう。口伝というものの本質は、言葉ではなく心を汲みとれということでしょう。そして心組みをして心構えこころざし、心得、心の糧、心の全てを受け継ぐということなのかもしれません。

表面上の仕事をやったとしてもそれは本来の志事ではありません。

自分で考えて考えて考え抜いて、自分で遣って遣り抜いて遣り切ってこそ、はじめて教えた側も教える側も「必死」「本気」でやったということになるのでしょう。

今はそのような努力を避けて、できそうなところだけを選んでいる人たちがたくさんいます。心を通じ合わせなくて学べるものなど本来は一切なく、小手先の技術を学のではなく、本物の技術を学んでこそ伝承ができるように思います。

技術の基本とは、「心を入れる」ことに他なりません。そして基本の技術を学ぶために、必ず通過すべきことは「心を入れ変える」ことからはじまります。

自分の心が入っていなかったことを恥じて、もう一度心を入れかえて基本中の基本からやり直そうとする覚悟、そしてその基本から逃げずに何年もかけてコツコツと学び直す忍耐、師からの教えを頭で聞くのではなく心で聴く、その上で少しでも近づこうと努力精進を怠らないことこそが根本になっていくようにも思うのです。

当たり前のことを忘れてしまうのは、口でばかり教え、耳でばかり聞いて、頭で分かったことばかりを繰り返しているだけで何もしていないからです。口は励まし導くために使い、相手のことを真摯に聴いて、心で共感していくことの方が育成していくには価値があるように思います。

口伝が家訓のことであり、その家訓を口伝するためには先師の達するために行った努力の全てを心して行うという意味です。伝える側も承る側もまさに必死の正対があってこそ、はじめて口伝は成り立つように思います。

基本とは何か、技術とは何か、まだまだ深めてみたいと思います。

円満両全~ご縁の真理~

人間は教えているようで教えられていて、助けているようで助けられているものです。

これはとても不思議な真理です。

一見、自分が相手のためにと動いているのですが、その実、深く内省してみたら自分のために動いていることになっているのは過ぎた後にじっくりとふり返ってみたら次第に理解できるものだと思います。例えば、ある人に大切なことを伝えていたら同時にそれは自分に伝えられたものではないかと鏡のように自分に返ってくるような体験をした人は多いのではないかと思います。

つまりは、自他というものはお互いに結び関係しあっているものだからこそその結ばれている関係において相手の存在を自分だとし、自分が相手だと深く洞察していさえいれば何かの教科書がなくても自ずから真理が明らかになっていくのです。

昨日の一日をふり返ってみても、自らが動き相手の立場を思いやり動いてみるとその時は自分が相手に何かを教え導くことをしていたとしても、実際はそうさせていただいたのは自分の方ではないかと感謝に帰るのです。

これらの気づきというものは、御蔭様といった日本の言霊にあるように自分がやってあげたのではなく、させていただけたという考え方のことです。また相手の御蔭、何か偉大な見守りの恩影を投影しているという意味になってもいるのです。

つまり人は相手がいることではじめて自分が活かされるということです。もしも自分にとって都合の善い世界に住まえたとしても、もしそれがたった一人であったなら大変な苦しみを味わうものです。

人は相手がいるから一生涯を学べ、人は相手の御蔭で本当の自分、その人生を知覚し味わっていくことができるのです。

これらを一方的に、教える側と教えられる側で分かれてしまうことほど虚しいものはありません。人間というものは、常にこの今、この瞬間にも何かの教えが入っているはずと繰り返し内省し、その内省して気づいたものに感謝し、御恩返しをしていくことではじめて尊い縁を活かしていけるように思います。

やってあげているようでやってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分、どちらかだけではなくて、常に円満両全であるのがこの世の人と人との間のつながりの真理であろうと思います。

それを気づかせなくなるのも、教えから遠ざかるのも自分だけの自分といった自我欲を優先してしまうからでしょう。相手を信じる真心に自分を信じる思いやりで接していくことや、もしもこの人が自分だったならと親愛の心で接するならばそこにだけ本物の教えがあることを知り、丸ごと感激感謝できるように思います。

人は一人では学べず、必ず相手があるから学べるのです。それが学問の道理、学び合いということの意味でしょう。だからこそ人との出会いがあることが何よりも有難いのです。

一日一日は色々な人たちと関わり、沢山のお話をしていくものですがその一つ一つが自分に教えられたものを見落としてはいないかとしっかりふり返っていきたいと思います。