心身の健やかな成長

人は身体が発達していくように、心というものも発達していくものです。

人が発達するということは、自然の法理の中で発展していくということですから自然と同じように根から養分を吸収し成長し開花し実をつけ種になるという経過の中で何に気づくか、何を生きるか、どう生きたかということを学びつつ調和していくのです。

調和というのはバランスのことですが、様々なことの中でどこが一番バランスの善いところなのかのコツを掴んでいくことで自然体に近づいていくのです。自然体というのは、身体と心の発達が健やかであるということです。

心身が健やかでいるということは、そうやって今という時事の中で自分らしく生きていけること。つまりは自分の生命を全うしていけるような生き方ができることのように思うのです。

みんな生まれてきたからには、初心があるものです。初心とは動機のことで、その動機がどのようになっているのか、どのようになっていくのか、それをどう成長させていくのは自分次第です。

有名な言葉に、京セラの稲盛和夫さんの言葉に「動機善なりか、私心なかりしか」がありますがあれは私になりに解釈すると常に初心を忘れていないか、初心を善に向けて育成しているかという自戒の念のように思えるのです。

動機というものは、物事を行うときの心のことです。

その動機をいつも今に対して正しくしていこうとすること、心を正して素直に取り組んでいこうとする誠の姿勢、そういうものが心を育てていくのです。心を育てていけば、自ずから身体もまた育ちます。そして身体も澄ませていこう、正していこうと生活を改めていくことでまた自ずから心も育とうとするのです。

決心という言葉があります。

あれは、心がどうしたいのか、自分の動機はどうしたいのかを常に今に正対し向き合い、その向き合った気持ちをやり遂げてあげることのように思うのです。心の動機に対して、身体が動いてくれればそこに健やかな生き方、清々しい足跡が残るのです。

人は生きていることで出逢います。

出会いは、心を育ててくれる素晴らしいご縁です。
心が日々に成長していくのを、初心伝承を忘れないことで見守っていきたいと思います。

平常心鑑

人はすべてに何かを行うことには動機があるものです。
理由がなくてやっていることは何もないとも言えます。

本来、生きているということは常に何かしらの選択をしているものです。何もしないということでさえ、何もしないという選択をし、生きていることでさえ選んでいるのです。生まれてくるということでも、産まれてきたことに確かな動機があるのです。

しかし日々に流されてその動機が次第に分からなくなっていくのが人間とも言えます。知識や経験が増えてくるとともに、自分都合で考えるようになってから忙しくなっていきます。この忙しいというものは、心を亡くすと言う字でできているように、常に心がどうしたいのか、心は何を求めているのかを思うよりもその時の気分次第で頭で考えている方でほとんどを占めてしまうことに似ています。

もともと心というものは、とても複雑なものです。常に感謝していたかったり、感動していたかったり、感激していたかったりと、まるで子どものように心を動かして感じているものです。心は生きていて心が自分を突き動かしているのです。そこで人生の妙味を味わっているともいえます。それを常に忘れたくないというものが心の本体の求めることなのです。

愛や希望、勇気や感謝、全てを実感していたいといつも願っているのが心とも言えます。そしてそれを求める動機に何かしら心がやりたいことがあるのです。その心がやりたいことを優先してやらせてあげることも見守るとも言えます。自分のことを自分で見守るからこそ、他人のことも自分と同じように見守りたいと思うものです。

心がやりたいことを感じたままに日々を歩むことができれば、どんなことがあったとしても心の持ち方次第で竟には感謝にまで昇華し心があるということへの幸せを実感できるものです。だからこそはじめに何を心が求めたか、新しいことを行う時に心は何を動機にしたのか、それを絶えず確認することが「初心」というものです。

その初心を維持するのに平常心がありますが、これが心の持ち方の本質なのでしょう。

平常の心こそ初心であり、その初心をいつも平時に維持しているというのは、常に心は原点に定まっていて気分やその時の状況に関係なく出来事に対して心を動かしバランスを取り続けているという感覚のことです。

心は形がないものだからどんなことも受容でき寛容できるものです。地球にいるすべてはまるで自然のように、全てのことを心の赴くままに生きていきたいと願っているのです。

初心を忘れないだけで、自然と同じく心のままに生きていけるように思います。
様々な言い訳を使って心を蔑にせず、どんな状況でも平常心を研鑽していきたいと思います。

師を鑑にして、初心を忘れずに動じない心胆を目指していきたいと思います。

時に応じて気分か平常心か

昨日、GTセミナー終了後に皆で乗合したタクシーで貴重な学びとご縁がありました。

そのタクシーの運転手さんは、公益財団法人東京タクシーセンターが発行している「優良運転者表彰」を受賞している方で15年間、無事故無違反、また対人トラブルがなかったので表彰されたそうです。

物腰もやわらかく、人柄も滲み出ていたのでなぜこれを表彰されたのですかとお聴きすると「当たり前のことを普通にやっただけです」と答えられました。

その当たり前とはなんですかと私が聴くとこう答えてくださいました。

「当たり前とは気分で仕事しない、気分を仕事に持ち込まないことです。」

それではそのためにどのような工夫しているのかもしよければ教えてくださいませんか尋ねると、

「気分がよくないと思う時は、無理をせずに休みます。それは例えば、どこかに車を停めて深呼吸したり、自らを整えてからまた車に向かいます。」

と仰いました。お客様との人間関係や、交通状況で色々と気分が左右されてしまいそうなことがあるようです。そういう時は、無理をせずに一呼吸置いてから運転するようにしているそうです。

私がそれは「平常心」のことですかとお聴きすると、「そうです」と答えられました。これはつまりは、常に自らの状態を平常心を保つことで仕事を当たり前に積み上げていく実践を行っているということだと思います。

この自らの気分を常に見定めてということはとても大切なことであろうと思います。

人はその時その環境、相手や状況の気分次第でいくらでもムラっ気が出てしまうものです。それが様々な本質から外れ、取り組むことへの品質を下げてしまうのです。初心の維持とは、自らのモチベーションの維持に似ています。

大切な仕事や重要な仕事は使命に立脚しているものです。それは何年も何十年も同じことを続けてはじめて為されるものです。二宮尊徳の積小為大の言うように、大きいことは日々の小さい実践の集積の上にはじめて為るからです。

それをいちいち気分で為ったとか為らないとかで時々の自分次第の気分を持ち込んでいたら、決して目標を掲げた山は積み上がっていくこともありません。

日々というものは、毎日変化し万物も流転するのだから同じ日はないのです。そんな中でも自分の方を見定めて、変化する日々の中でも変化に応じつつ虚心坦懐に初心を忘れずに取り組んでいるとそこに結果が後からついてくるということなのです。

昨日のタクシーの運転手さんの実践から、その姿勢次第で結果が必ず着いてくることの証明を教わったように思います。

つい人が目先の派手なことに囚われるのはその時の気分がそこに入っているからです。気分を持ち込まないというのは、初心を忘れないことに似ています。常に自分が気分次第で最初に決めたものを変えたりしないように、平常心を保つ日々の精進こそが本質からブレないコツのように思います。

長年続いていくこと、本物は続くのは気分でやっていないからです。

タクシーという仕事は、人の命を載せて運ぶ仕事でもあります。だからこそ、その本質として平常心を維持し安心安全に実践を重ねるということを貫こうとされている方とご縁があったのは有難いことです。

身近な学びを大きく自分に置き換えて、学んだことは心に据え置きして新たな精進を積んでいきたいと思います。

自習自学の勘所

日々のことを繰り返していくというのは「習う」ということです。

この習うという言葉は、私の解釈では論語の「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」の習うが定義で、「学んでいることをひとつひとつ体験する中でその真理が自分のものになっていく、それはとても有難いことである」というように思っています。

学ぶということは単に知識を得る事ではなくそれを自らで体験して本質に気づき、内省して直観したものを掴み取るときにこそはじめて学んだという尊い習い事になるからです。

今年からミマモリングを深めていく中で気づくことも多いのですが、コーチングの世界には共通する教えがあります。その一つに、チームスポーツであるラグビーはとても参考になります。

平尾誠二氏と金井壽宏氏の対談で「型破りのコーチング」(PHP新書」がありますがこれは組織のマネージメントやコーチングのことを実践による言葉によって伝えていくということについて書かれています。

例えば、先ほどの私の認識の習うということについて金井氏からの解説ではこう書かれています。

「現実の世界でうまく物事を実践しながら、その経験から得た教訓を言語化できる人のことを、マサチューセッツ工科大学(MIT)のドナルド・ショーン教授は「内省的実践家」(reflective practitioner)と名付けました。実践していることの意味が勘どころを自分の頭で考え、それを言語化して次の実践に活かすことができる。」

この内省的実践家というのは、もともとの「学」という定義を「習」ということにしているということです。学習という字は、そもそもその本質を顕しています。自学自習というのは、本来学んだことを体験しそれを自らで体得していきそれを活かしていくということです。

今の時代は、先に知識を得ては試そうともせずにその知識の周りを玩ぶかのように時間を浪費していることが増えているように思います。本来の仕事の遣り甲斐や楽しさというものは常に試行錯誤の中にあるものです。

試行錯誤するからこそ常に変化して已まないのです。真理は得ることに重きを置くのではなく、試行錯誤に重きが置かれるということです。それが温故知新になり、いつまでも本質を勘所に置いたままにして伝承していく方法になっているからです。

自分なりの学習したことが誰かの御役にたっていくということ。社会はそういうお役目を果たしあいたいと願う中で得難い邂逅を得ているのです。そうやって自分の御役目に没頭するとき、本来の「面白さ」というものを体験できるように思います。ただ真面目に反省することが内省ではないのです。それでは勘所が間違っているのです。

本来の仕事というものは、楽しみの中にありそれは没頭するときに得られるものだと定義しています。この没頭というものは、文字通り寝ても覚めても考えているということや、深めて辿り自明するのを味わっている境地とも言えます。

人がひとたび、その境地に達すれば自然に自ずから一流のいる処に棲まうことができるという意味であろうと私は思います。

話を戻せばコーチングをする際に、平尾氏がもっとも大切にしているのがセオリーを持ち実践し伝えるということです。これは他人からとってきた知識ではなく、自分なりに明確にした確信を伝えていくということです。このセオリーとは私には戦略であろうと思います。

型破りという本のタイトルにするのは、今の時代のコーチングのあり方へのアンチテーゼかもしれません。そういう意味で私の考えて行うコーチングのあり方も今の時代のコーチングの姿から観れば平尾氏と同じく「型破り」なのかもしれません。守も破も離も全部が本質を捉える時に行う実践の一つです。

分かりやすくまとめれば今の時代は習うということと、学ぶということを反対にすれば自習自学がコーチの実践かもしれません。まだまだミマモリングを深めてみたいと思います。

最後に、この著書で平尾氏の大切にしている恩師の印象深い言葉を紹介します。

「—好きでたまらないか、やりがいを感じているか、少なくともやっている意味がわかっている人間でないと一流にはなれない。そして、そういう人間だけが集まれば日本一になれる。」

そういう人材をどれだけ育成できるか。

新しいテーマは、新しい自分を開拓していけます。
明確な確信を得るまで、試行錯誤を味わっていきたいと思います。

 

「話せる」ということ

アニマルコミュニケーターという職業があります。有名なのが、アメリカのハイジさんという女性です。この方は、小さい頃から動物と対話ができる力が備わっていましたが警察官を経て体調を崩したことから退職し、田舎で静かに暮らしていましたが何か自分が御役に立てることはないかとはじめたのがこの仕事だったそうです。

私も幼い頃から犬と生活したり、様々な動物と暮らしていましたから動物のことが大好きです。幼い頃の夢は動物園の飼育係であったのも、動物と意志疎通をとることが楽しかったからのように思います。今も身のまわりには常に動物や虫たち、植物がいますからそれだけで幸せを感じます。

先日、GTセミナーで講師をしてくださった赤ちゃん学会の麦谷綾子先生のお話の中で言語発達も日本語を学んでいく過程で日本語の母音や子音を身に着けていくことで最適化していくということがありました。つまりこれは人はもともと持っている能力を、次第に今の社会に適応するために力をそぎ落として最適化するという考え方です。赤ちゃん学会の講師のお話をお聴きすると、いつも次第に大人になるということは赤ちゃんの時の能力が最高で後は、次第に必要な力だけに削られていくということを仰っています。

しかし本来、人には様々な特殊な能力が赤ちゃんのときあって、それをそのまま残している人がいるというのも事実です。

このハイジとさんいう女性もきっとそういう持って生まれた力を残したように思います。人は何でも特殊な力を持っていてもそれをどう社会に活かすか、世の中の役に立てていくかということが大切であろうと思います。

そのハイジさんの著書「動物とはなせる女性ハイジ」には私の日頃考えて居る事との共通点が多くとても共感しました。一部を紹介するとこうあります。

「人間でも動物でも、相手の声を真摯に”聴く”には、こちら側の心が少しでも閉じていてはなりません。そのことを、いま一度、自覚しました。科学者たちは、脳内に言語と理解を司る前頭葉がないため、虫たちは考えることも理解もしないといいますが、決してそうではないと、私は思います。」

動物や虫たちにも複雑な感情があり、言葉は喋らなくても心はあります。八百万の神々という見方から物事を鑑みればすべてのカタチ在る無しに関わらず心はつながりの中で感じられるのです。

またこの一節も大変共感できます。

「動物と”会話”をするということは、人間をとても謙虚にしてくれます。動物たちは素晴らしい先生です。すべての動物~馬、鷹、犬、イルカ、アレチネズミからガチョウに至るまでの、ありとあらゆる動物たちが、考え、感じ、感情をもつ生き物だということを、すべての人間にわかってもらえること、それが私の希望であり夢です。人間たちが動物をより良く理解することを助けること、それが私の使命です。」

人は謙虚でなければ人間とも対話できません。自分の中に驕りが合ってどこか相手を分かった気になっていたり、何でも知った気でいたらそれが意固地になり傲慢な自分をつくりだしてしまうのです。

現代の社会で人間関係が世知辛く貧しくなったと言われたりするのは、このつながりの中にあるものに気づきにくくなってきているからです。謙虚さというものは、相手に心を開いていくこととです。

一円対話の中のオープンでいるというのも、平等でいるというのも、そこには自分がまず謙虚にならなければ相手を共感していくことはできないのです。きっと何かあると思えるかというのは、自分の中の謙虚さと向き合っているということです。

動物や植物などと対話するなどというと馬鹿にされることの方が多いのですが、何のために行うかということです。よりよく自然を理解していくことが、心を学び素直を研鑽し謙虚の実践になるということです。

発達障がいというのは、昔の力を遺しているということでしょう。

見守っていきたいと思います。

世界観の研鑽

何かを行うとき、その物事を自ら丸ごとで取り組むときと表面上で取り組むときがあります。

人は全ての問題を自分の問題だと捉えれらるときは丸ごとであり、それをどこか他人の問題だと思っているときは表面上になるのです。

なぜ表面上になるかというのは、どこまで責任を持つかという問いがあるからです。

例えば、お客様の問題であっても、子どもの問題であっても、世間の問題であっても、それを自分とはどこか関係がないと切り分けたり、仕分けたりしているうちはその問題は他人事の領域で責任はほとんど自分以外にしてしまうのです。

本来の責任とは、責任感のことです。

例えば、世界で起きる悲しい事件があるとします。今ではシリアの難民の問題や、日本での自殺の問題、社会で起きる様々な痛ましい事件のこともこれは自分の何かに問題があるのではないかと思える人と、どこか他所で起きているのだからと関心を持たないのでは責任感に大きな差があるのです。

世界の出来事や世間の事件に関心を持つ必要があるのは、それが自分がどうすればそれを解決できるだろうかと常に自問自答しつつ、それを自らの生き方の実践にまで昇華していかなければそもそも何のために自分が社会の中で自立しようとするのかが分からなくなるからです。

それに社会というものをどのようなものにしていくのかは、社会に参画している大人の責任でもあります。様々な問題の中で自分の役割を見出し、それをどのように自らが責任感をもって取り組んでいくかで自他が分かれない場所で様々な周囲とつながっていくように思います。

これは自分の問題ではないとか、あれは自分とか関係ないとか、そう思うのは目先の自分の立場に囚われているからです。本来は、それは何を繋がっている課題なのか、そして何を解決している事柄なのかと気づいていくものです。

また自分の身の上に起きることは、自分だけに起きる事ではありません。それは必ず社会のどこかで起きる問題とつながっていますし、そしてそれは未来の本当の問題を解決するための尊い体験になっているのです。そこから人は自分の本当の役割に出会っていくのです。

だからこそ一つ一つを自分のことだけにせずよく玩味して自らが課題と一体になっていくことが責任感を自覚することのように思います。みんな自分のことだけで精一杯と思ってしまうものですが、もう少し客観的にその体験は何の問題とつながっているのかを分けずに考えていくことが世界に視野を広げていくことになるように思います。

常に問題は自分のものとして、全ての出来事を自他一体に捉える世界観を研鑽していこうと思います。

丹誠の徳

二宮尊徳に報徳訓というものがある。この「訓」という字は、普遍的な教えのことでよく教訓という言い方で代々語り継がれているものです。言い換えれば、これもまた子孫を思いやる真心で創られた大切な生き方の智慧であろうとも思います。

人は一生の中でそういう教えに出会える人と、出会えない人がいます。伝承していくということは、そういう古来からの大切な日本の心を受け継いで守り次世代へと生き方そのものを譲っていくことであろうとも思います。

どんなこともそうですが、根源とか絶対とか普遍というものや自然は当たり前のことすぎて見向きもしないようなことばかりですがそこに忘れてはいけない離れてはならない叡智があります。

改めてそこに気づけるかどうかは、その教訓に触れて学び続けていくからのように思います。

報徳訓にはこうあります。

「 父母の根元は天地の令命に在り 身体の根元は父母の生育に在り
子孫の相続は夫婦の丹精に在り 父母の富貴は祖先の勤功に在り
吾身の富貴は父母の積善に在り 子孫の富貴は自己の勤労に在り
身命の長養は衣食住の三つに在り 衣食住の三つは田畑山林に在り
田畑山林は人民の勤耕に在り 今年の衣食は昨年の産業に在り
来年の衣食は今年の艱難に在り 年年歳歳報徳を忘るべからず」

今の自分があるのはなぜか、今の自分がいるのは何の御蔭であるか、そのためにその御恩に報いていこうとするのが最も大切であるということを説きます。「身体の根源は、父母の生育にある。父母の根源は、祖父母の丹精にある。祖父母の根源は、その又父母の丹精にある。こうして押しきわめてゆくと天地の大生命に帰する。そうすると天地は大父母だ。」と諭します。

これらの天地の丹精があるから、今があり、その自然の真心があって自分というものが生きているということが根源です。そういう大切なことを決して忘れてはならないからこそ報徳を実践するのだということを教えています。

日々に省みてみると、人は目先の損得や身近な利害ばかりに執着し、こういう当たり前のことを忘れてしまうことから私心に囚われ迷い苦しみを生み出していると思います。

天地開闢から今まで、私達日本人の古来の心、天地自然の神恩に如何に感謝するのかを実践で示した生き方がこの報徳訓には凝縮されています。

丹誠の徳というものをもう一度、正しく考えてみたいと思います。

 

信仰の研鑽

何かのご縁を実感するということは、人の話をどの場所で聴くかというものです。ご縁とは素直のことだからです。

素直になっていくと相手の話が自分が本来聞こうとしているよりもずっと高いところで聴けるものです。そういう自分の相手への信仰のようなものが、ご縁そのものを実感していくことなのかもしれません。

そもそも、ご縁を実感するというのはいつも何かを教えてくださっているのが出来事そのものであると実感したり、今日のあの言葉はきっと私も気づいていない大変なことを気づかせてくださっていると思うことからうまれるものであろうとも思うのです。

一つのことを流さないことも、一つのことを深めることも、それはご縁を大切に信仰しているかという自問自答そのものです。よりよく生きることは生きることへの真剣な道であり、その中で人と出会うご縁とは人間への信仰ともいえ、その人間への信仰は自分自身の中にある人間そのものとの一期一会を続け丸ごと自らの尊い命を遣り切るということであろうとも思うのです。

人の話を聞くのに、良いことを言っているなぁくらいの信仰なのか、それとも、またかけがえのない尊いことを教えていただきましたと感謝するのかはその人の信仰の度合いによるもののように思います。

どんなことからも学んでいこう、どんなことも気づいていこうとするのは積極的にご縁を活かそうとする姿勢のように思います。そうした姿勢そのものが自己研鑽であり、日々に身削ぎをして素直でいようとしていくことであろうとも思います。

最後に松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「お客様の苦情から商品の欠陥が判る。お客様の要望が新商品のヒントになる。お客様とは本当に有難いものです。」

お客様は神様ですと言ったその意味は、何でもサービスを高めればいいということではなく、お客様の仰っている本当の意味を自分の耳で素直に聴いていく、つまりは崇高で純粋無垢な真心で受け止めていくことだろうとも思うのです。

商品を創らせていただけるのは、お客様の声を常に素直に私心なく聴ける実践からです。お客様の御蔭でいただいたご縁と御恩を感謝でカタチにしていくのが商品の本質だからです。

このように日々に自己研鑽を怠らないことは、人の言うことを素直に聴けるほどの信仰へ高めていくことであろうと思います。

まだまだ私は何かあるとすぐに分かった気になってしまう自分があります。
師の存在があることに大変有難く思います。

善いか悪いかなどにも囚われず、感謝と御恩返しを決して忘れず信仰の研鑽という実践をしていきたいと思います。

自ら同体験

同体験をするということは、体験からお互いのことを理解するということです。

人は体験を通して気づくのは、感覚があるからです。この感覚とは、全体の意味を深く捉えることができる力とも言えます。そうやって体験というもの中には、五感や六感と言われる直観を用いて知らずしらずに本質を捉えているのです。

例えば、同じところで同じものを食べて同じものを観て同じ場を共有するとします。すると、そこで見えたものは個々で異なっていますが感覚は同じものを捉えているのです。美味しいものを食べれば、それぞれが何か美味しいと感じるか直観しますし、同じ場で感じた自然の雰囲気なども誰かがそれを発するとすぐに他の誰かも直観で理解できるからです。

つまりは感覚というものは直観とつながっていて、その感覚を同じく体験することで頭ではわからなかったことが丸ごとお互いの感性のところで通じ合っていくのです。

それに同体験には、思い出の共有というものもあるのです。

人は思い出を共有することでその人を自分の中でつながりを実感するものです。共に何かをした記憶そのものの中に、互いの芯が生まれそこを合わせることで互いの信頼関係の基が築けるともいえるからです。

そして共に体験した記憶は、思い出せなくても自らの感覚がいつまでも覚えているものです。

だからこそ、共にあることを実感できる同体験を大切にすることが共生するということになるのです。その体験一つ一つの尊さに気づき、その体験に如何に価値を与えるかはその体験を高め、その体験を学び、その体験を楽しみ味わうことが大切です。

二度とない同体験だからこそ、そこに確かな絆があり一期一会の邂逅があるということ。

つい同じところに居て同じことをしているだけのような日々に流されそうになることがありますが、些細な小さな出来事ひとつひとつがとても尊いことを改めて実感します。

面白いことや楽しいことだけではなく、辛いこと哀しいこと、そして寂しいことも全部丸ごと自らで同体験することが人とのつながりや信頼、そして豊かな社会を築いていくのです。

自ら体験を昇華し、同じ体験をできたことに感謝していきたいと思います。

夢の価値

本田宗一郎氏の遺した言葉に「理念なき行動は凶器であり、 行動なき理念は無価値である。」があります。これは本当に的を得ている言葉であろうと思います。

そもそも人が何かを行うのに目的というものがあります。それは何のために行うのかという理由です。そしてそれを達成するのに手段があります。これはどのようなことで行うのかという方法です。

そして目的とは言い方を換えれば、その人の夢とも言えるものです。もしも夢のリーダーがその夢を持っている人たちに対して理念を立てずに行動だけを指示するならばそれは周りの人の夢を壊す凶器にしかならないというように私は思います。

またその手段としての今の自分が夢を実践していかなければその行動は何ら価値を生み出しているものではないとも私には思えます。この時の手段というものは、その与えられた場所で最善を尽くして夢を遣り切るときにはじめてその行動に意味が吹き込まれるからです。

理念と行動そのものが夢であり、夢とは理念を立ててこそ実践してこその夢なのです。

例えば、ある人の人生の目的が「感謝を伝えたい」とするとします。その手段は、看護婦であってもスポーツ選手であっても、会社員であっても、お坊さんであっても、与えられた尊いご縁のある自分の場所でいいのです。その与えられた場所で、自分が何の目的を持ち、それをどのように具体的に実践していくかということが何よりも大切だということです。

以前もブログで書いたと思いますが、夢というものは単なる手段に辿りつくことではありません。よくサッカー選手とか芸能人とか、社長とか、何かになったら夢が叶ったといいますがそれはただの結果の一つにすぎず本来の夢とは「目的を達するそのプロセス」のことでありそれが何かの手段によって形になったということを夢の実現というのです。

そう定義すればあの夢を諦めないという言葉も、夢を信じるという言葉も、それは初心を忘れないという意味と等しいのです。

人が何のために生きるのかを思う時、そこには必ず理念というものがあります。その理念は、その人が生きていける生きている理由でもあります。それを今在るところで精一杯行動していけばそのものそれが夢の価値を生じていくのです。

日本の持つ精神的な美学は、この全てを懸ける本気の生き方。働き方と生き方の一致にこそあるようにも思います。夢というものと現実を重ねあわせて生じる価値にこそ次世代へ継承する価値があるものです。

夢そのものが価値なのは、理念を実践するときに感じられるものです。
夢を信じて、夢を実践し、夢を顕現する日々を味わっていきたいと思います。