幸福の秘訣

毎回、旅を終えるときに思うことがあります。

それは旅の意味についてです。

人は何かを学ぼうとしているから学ぶのではないように思います、同時に何かを欲しているから欲するのではないように思います。つまりは、不学不欲というように学ばず欲さずときこそがもっとも学び欲したということになると思うのです。

例えば、自分では学んだ気になっていても実際は自分の考えの及ばないところでその学んだと思っている以上のことが発生しているとします。それを学ぼうとすれば余計に学べず、学ぶのをやめてみてその後の意味を味わっていると自然に学びに達します。

また同様に自分では欲している気になっていても欲している以上のことが発生しているとすれば、欲するのをやめてみれば自然に欲したものがその中に手に入っていることに気づきます。

このように意味が後で着いてくるものを旅と定義したとしたら、旅とはそのものをそのままに味わう中にこそ何とも得難い邂逅の記憶になると実感するのです。

そしてそのほとんどは日々の何気ない生活の中にこそ存在しているように思います。

この何気ない生活というものは、先ほどの不学不欲の中にあり、来たものを素直に受け取ることができるとき、過ぎたことを澄んだ心で意味づけができるときにこそ、無尽蔵の教えや学び、また人生の求道で得られる感謝の醍醐味も味わうことができるということです。

人生、そのものの意味をどのようにつけたのか、その意味をどのように味わったか、そこに幸福の秘訣があるように思います。どんな出来事があったにせよ、それに感謝していけるような人生、そしてあの件もこの件もまたそれは偉大な見守りの中であったといつも実感できた人生。

自分がいつも何か偉大なものに助けられてこの地上の旅ができることに感謝するのです。

その一つ一つ分かれていない太古からの旅の記憶、その意味を日々に紐ずけていけば、自ずから学ばなくても学べているのです。この人生という美しい秘境の楽園にいる自らの意味を感じることが旅そのものの本来の味わいなのかもしれません。

旅とはつながりなのです。

このつながりの中に歩んでいることは、目には観えないものを実感するときにこそ顕われてきます。自分の中に或る無邪気な子どもの心が旅を求めてはいつも遊びたがっています。日々の遊び場にすべてを投じていきたいと旅を思うほどに好奇心が働きます。

「ゆめうらら うみの小舟と 流れゆく はるかかなたの 星旅のなか」 藍杜静海

内省を味わい意味を楽しみ、この旅の記憶の醍醐味と人生の妙味を尽くしていきたいと思います。

有難うございます。

血を遺す

中国での変化を来て観ていると、文化や文明がどのように入れ替わっていくのかを実感することができます。これらは急速に変化する中で観えてくるものがほとんどで、必ず大なり小なりどこでも起きていることですが自分の体験から観えてくるものはニュースや本で得る知識よりも確実です。

私が中国に居た17年前と今と比べると、目に見えて著しく変化し定着したところは交通手段、通信、住居です。

圧倒的に、自家用車の数が増えタクシーの数が少なくなり、新しい住まいとしてのマンションや別荘が建ち、携帯電話やパソコンを使ってインターネットをしています。経済が発展していくと、今まで憧れていた生活を手に入れるために過去の考え方を若い人から順に捨てていきます。

現在の中国の若者は、先進国の文化や流行に敏感でかつての古い考え方を次々に否定して新しいものを吸収していくのです。その憧れとして、文明や文化の潮流を読み、そこに自分たちを移動させていくようにも思います。

特に不便な生活から便利な生活へと向かう力は凄まじく、どんなにかつての古き善きがあったとしても突然生活が変わった人たちを前にすると人はその生活に憧れるものです。

こうやって古いものが新しいものにとって代わるということは私達人類はかつて何度も起きたように思います。もちろん、ゆっくりと移動していく民族と、過激に吸収していく民族がありますが、本来は真似をし受け容れることで変化していくように思います。

かつての縄文時代から弥生時代に入る際にも同じようなことが起きたのではないかと私は実感しています。

昔から道徳と経済というものをどのように一致させていくのかというのは、この温故知新を和合させていく人物の課題でもあります。どちらかが良し悪しではなく、そのどちらの価値も正しく受け容れてそれを合致させていくところに人々の主体性が必要になるように思います。

単に時代に流されるのではなく、互いの善いところを吸収してそれを新しいものへと創造していくということができるとき、そこに持続可能な社会のテーマがあるのです。

不思議なことに、いくら外見を変えたとしてもその中身まではなかなか変わることはありません。これが民族の持つ血脈と血筋なのかもしれません。いくら表面を同じにしても、そこに流れる血がその血で在る以上、私たちはその血を活かして他の文化と混ざり合いつつ新しいものへと変えつづけていく宿命があるように思います。

風のように過ぎていく時代の中でも、どのような生き方、働き方をしたのかは、その文化文明の中で自らを生き切った私たちの血を如何に残していくのかが大切なことのように思います。

異国にいて同質を確かめればその血の彼方と行方の間に生きている私たちの存在を感じました。引き続き、由来の旅を続けてみようと思います。

学志一如~独りでになる~

昨日、不思議なことに自分の人生に大きな影響を与えるお寺に参拝することができました。このお寺は、赤山法華院といい円仁と非常に深い所縁があるお寺です。この円仁は日本人最後の遣唐使と言われていますが、世界でも有名なのはその旅行記です。

この円仁の記した「入唐求法巡礼行記」は、玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料となっています。

特に他の2つのものは誰かに口述したものを記入させたのに対し、円仁のものは自筆で記したものです。その内容は、9年半の中国での滞在記ですが全てのことが思うようにいかない中で、それでも真理を求めて已まず命を懸けて人々のために学ぼうとする姿勢が感じられ、少し読んだだけでも心が震え魂が揺さぶられる思いがします。

帰国後は、円仁は天台宗の指導者として、比叡山において教えを伝授するだけでなく、当時文化の遅れた東北の人々の苦しみ悲しみを救おうとして、寺院の建立、土地の開発、産業の振興に力を尽くしました。青森県にある恐山菩提寺なども円仁が開基したものです。

訪問した赤山法華院はこの円仁を大切にしてくださった新羅人たちの建立した寺院です。中国で仏教が弾圧され、旅券も発行されず、帰国できない、すべてないもの尽くしの中で円仁にインスピレーションを与え、具体的な方法までを与え、そしてその道を諦めさせないで見守りその求める道を陰ひなたから助けてくださった所縁の場所です。

天啓というものは、いつもピンチの時こそその周囲に必ず有難い見守りがあるものです。すべてのものは一人でなるものではなく、独りでになるものです。その独りでになるものは必ずそれを助け導く周囲の存在があるということです。

同じように円仁もここで仏様に出逢い、その道を示されたのではないかと現地で改めて直観しました。この時の助ける方も助けられる方も、その人間の間にある思いやりや真心が共に天に通じたことを忘れまいと今でもその赤山禅院では大切に語り継がれていました。

この新羅人とは、韓国人の先祖であり言語のルーツを辿ればそこに至ります。その当時からずっと私達日本人と韓国人、中国人が交易をし、共に助け合ってきた歴史に改めに感無量の思いがしました。1200年前のこの三国間の関係と、今回、韓国の友人とのご縁で中国の方に導かれて訪問したこの機縁に不思議な感謝と感動を覚えました。

時代が変わろうとも、私たちが大切にしているものは何かを見失っていけません。

真理を求めて旅をすることも、その旅の中で大切に受け継がれたことも、如何に世界が変わろうとも変わらないものがあるのです。その変わらないものを大切に暮らしていくことが、真理を体現することになり、その脈々と受け継がれた血縁と記憶をこの時代にも復興させていくことが私達子孫の使命の一つではないかと思うのです。

今回の仏縁は本当に意義深いものになりました。

東北の巡礼から、縁を辿り、気が付けば赤山での教えに至りました。帰国後もまた辿りたいところが大いに増えました。まだまだ所縁を楽しんで、直観の赴くままに学び続けていこうと思います。

学志一如、実践を貫いていきたいと思います。

戦略~我を省く~

先日、戦略というものを考え直す善い機会に恵まれました。
今年は我を省くが師と共有したテーマだったので、是に出逢えたことに改めて感謝します。

そもそも戦略がなぜ必要かと言えば、世間は同じようなことを目標にし似たようなことを目的にする人たちが沢山います。世界で実現したいことがあったとしても、それは皆同じように思うものですから力も均衡してきます。

すると同じようなところに大勢の人たちがいるのですがどうしてもそのエリアで競争をしてしまうことになるのです。そういうものをしないでも善い方法、つまりは戦いを省略するという意味で独自性を発揮していこうとするのが本質ではないかと思います。

この戦略ということの本質を考える前に、戦略を実行しようとすること自体が大いなる刷り込みの中にいることに気づくのです。やはりどんなことでもそうですが、その元が何かを掴むまではそのものを真に活かすことはできないということを学べました。

戦略を活かすには、大変な勇気が要ります。

今まで身に着けてきたもの、持っていたいものを捨てる必要があるからです。例えば常識というものもそうです。そういうものを持つと、どうしても戦略が理解できないのは戦略とは何かを捨てて何かを優先する、つまり選択と集中が必要になるからです。

選択しないで集中しないというのは、かつて身に着けた自分の力をいつまでも頼ることに似ています。例えば、今までの会社経営でもそうですが最初にはじめた事業から今は大きく発展しています。それは一つのことをやっていたからではなく、どんどん事業が変化してきて前の事業を手放していくのです。

これはいい加減にやっているのではなく、より本質へ、より面白い方へと変化させていく必要があるからです。

どうしてもかつての成功が手放せないと事業を転換することはできません。それにどうしてもかつて認められた自分や会社をいつまでも手放せないと戦略は実行することはできません。戦略とは、持っているものを捨てる勇気。全部持ったままという発想ではなく、今は何を選択し、何に集中することが価値であるかということを自分の常識を捨て去って取り組むことになるからです。

人は戦略的に生きようとしていても、どうしても柵や刷り込みに縛られてしまって身動きできなくなっているものです。そこでこれは戦略であるのだと自覚し、敢えて強みだったものを弱みだと定義し、思い切って弱みを強みに換えるような勇気を持つといいように思います。

戦略を理解するというのは、我を省くことがあってはじめて成り立つものです。その我とは自信のない自分を、そのままでいいと思う事であったり、励まされたりした言葉を実はそれは自分が励まされたのではなく「戦略」であったと気づく時に出会うものです。

常に人はあるがままの自然、自然を味方について克己するのなら常に省くものは何かということを考えていなければならないのかもしれません。

少し距離をとってみると、面白いようにまた本質に出会います。
やはり、今回も躊躇いはありましたが思い切った「戦略」に向かうところ敵なしです。

戦略を私自身が最も楽しむために、勇気を持って異常なことを増やしていこうと思います。

選ばない意味~人生の仕事~

選ばないということの考え方がどういうものなのかを書いてみます。

人はみんな自分勝手で自分が受け取りたいものとそうではないものを選り好みするものです。その時々の気分や状態で目の前にある出来事を裁いたり仕分けたりしてしまうものです。そうすると、本来、大切な意味があった出来事を自分の捉えた小さな範囲や自分の視ている世界にしてしまえば本質的に学ぶことが少なくなるのです。

カグヤでは理念ブックの最初の1ページ目に、こう書いています。

「浅き河も深く渡れ、低き山も高く登れ、本質を深め、独立自尊せよ」

これはカグヤの信条としてもっとも大切な徳目で、これがなければ学べないから何よりも尊ぶようにという戒めの意味を籠めて記されています。

学ぶということは、そもそも自分のレベルや自分の範囲で知ったことを言うのではなく、その学びとは何かということを実践の中に気づき自らをより高めて常に変化刷新していくことを言います。それは来ているものを選ばずにどれだけ謙虚に受け止めてその全てを感謝に転じたかという実践をすることになっているのです。

そもそも受け止めるというのは、来たものをあるがままの意味で捉えるということです。それは自分がどうかではなく、来たものは全部自分に必要なことが起きているとその全ての出来事や物事、そのご縁に深く感謝して自然のままに有難くお受けしていくことが本来の姿です。

例えば、病気になったとしてもそこに何かの意味がある。嫌な出来事が続いてもそこに何かの意味がある。そう思う人は、どんな出来事からも学びその教えが入ったことに感謝し、素直に成長し、正直に受け止めてその機縁を活かしていくことができるのです。一期一会の境地も同じく、人生の中で二度とない一度きり一瞬だけの掛け替えのない出会いだからこそ、自分の全てを出し切って清々しくしていこうというものも似たようなものです。

一昔前は実践が追い付いておらず、意味を感じきれずに色々と悩んでは選り好みしていたものです。しかし、選ばないという選択をしてからは日々に来たものを受け止めて自問自答し取捨選択して削り取っていくことで最期に残ったものが何かというものを待つ心境に入っています。

それは全てをチャンスだと思えるか、ピンチをチャンスに換えているか、自分が丸ごと信じているかを優先しているかが問われるからです。実は選ばないというのは、傲慢なのではなく選ばないほどに全てのことを意味があるとして素直に受け取ったのかと自問自答をすることで自らを玉にしていこうという覚悟のことです。

これには実は大変な積極的な力が必要になります。

なぜなら全てを直視し、その全てに手を抜かない、自分を出し切ったかということがモノサシになるからです。できそうなことをやるのではなく、常に一歩先、届かないところまで高めようと精進したか、日々挑戦したかと自分に問い続ける、そして自分が答え続けた結果をチェックしていく必要があるからです。

しかしそうやって人は自分を自分で育てていかなければ、独立自尊していくことはありません。それは環境に左右されるのではなく、自らが環境に流されずに言い訳を断ち続けて自らを磨き続けるということに他なりません。それはどんな日々も流さないようにしていくこと、言い換えればどんな出来事も先生であるということ、つまりは自然の先生が教えてくださったご縁を活かそうとする積極的な姿勢が自らの道を切り開き常に本筋から離れまいと自らに打ち克ち続ける真剣勝負をすることなのです。

出来事全てを自然の大先生からの有難いご指導だと受け取るならば、それにいちいち歯向かったり無関心でいることはあまりにも勿体ないように思います。自分に必要な学びは必ず自分に必要なものを全部今、この瞬間に足元に用意されているというのが私の持論です。

人生は自分のことを信じる事から、そして自分を信じるとは選択した今までを疑わないことから、そして自分の覚悟とはかつて決心したことの集積であることを自覚し最期まで諦めないことを言うように思います。信念とは最期まで守り切ったか、失くさなかったかというものだからです。

まとめると今を遣り切る、今に生き切ることこそが、選ばないということの大切な意味でしょう。日々、学ぶことだらけであること、日々、有難い教えを沢山いただくこと、その来ているご縁に心から感謝して、全身全霊で真心で取り組むことが御蔭様を有難うに換える大和魂です。

須らく、善き人生とは仕合った質のことを言うように思います。生まれてきて今日で13642日目です。残された人生も手を合わせて姿勢を正して、真剣に自分との仕合をしていきたいと思います。

そういう毎日こそが人生の仕事そのものであり、子どもたちに譲り見せられるような背中なると信じています。せめてもの感謝の現れとしての「選ばない」を今後も持続できる自分を育てていこうと思います。

芯の強さ~ミマモリングの芯~

人は逆境をたくさん体験することで強くなっていきます。この強くなるというのは、優しくなるということです。真の優しさというのは強くなければ発揮されないからです。

男の生きざまとして、強い男に憧れるものです。その憧れは強さへの憧れですが、単に喧嘩に強いとか権力があるとかが決して強いと定義しているのではありません。ここでの強さとは、どんな時でも優しくいれる強さ、相手のことを思いやれる強さのことを言うのです。

ラグビーの伏見工業の教育者で有名な山口良治さんの「信は力なり~可能性の限界に挑む」(旬報社)にこういう一文があります。

「『もう嫌だ。好きなことして、好きなこと言って、何もかもどうでもいい』そんな風に思う時というのは、自分のことしか思っていない。人間というのは、自分ひとりだけのことしか見えず、自分の外への回路を閉ざしてしまうと小さな弱い存在になってしまう。他人のことを自分のことと同じように考えられる、そういう優しさが人間を成長させ、困難な局面に立ったときにそれを乗り越えられる強さになるのだ。」

自他一体にいるというのは、その人のことを自分のことと同じように考えられるかどうかによります。つい人は自他を分けて、自分のことばかりに囚われてしまいます。私も忙しくなる時こそ、大変な時こそ、自分の身の上のことばかりを心配して初心や大義を見失いそうになってしまうものです。

そういう心のブレを芯の強さに換えるには思いやりや優しさで抜けるしかありません。

また信じるということは、言葉で書くほどに簡単ではなく意味を感じる力に比例しますから内省し自らを高めていき日々の道場で鍛えていくのみです。どんなに高望みしても、その日一日の真剣勝負の中で強く優しくありたいと実践していくしかないからです。しかしその有難い日々の機会に感謝しながら自学自習することや、前進できることが生きている歓びにもつながっているように思います。

山口良治さんの指導者としての姿勢は、本当に学ぶことばかりです。私達の掲げたミマモリングにも通じているもので、このようになりたいと思うばかりです。さらに本ではこう続きます。

「99%信じても、1%の不安があったらその通りになる。100%信じる事が大切」

丸ごと信じるということに生きざまを懸ける、そこに感動を共にする自他一体があるように思います。

通称「泣き虫先生」と呼ばれ、いつも感動しながら生徒と共に泣いて笑って感激していくことで強さも優しさもまた味わい深いものにしていくことが大切だと教えてくださっているようです。

「僕は涙というのは素晴らしいと思うんです。 みんな子供達に「負」をつける前に、涙が込み上げてくるぐらいの気持ちを出してやることによって、自分の思いが涙に変わっていくくらいの気持ちになってくれれば、もっと違ったものが生まれてくるんじゃないかな、伝わって来るんじゃないかと思うんです。  僕に涙がたくさんあって良かったなと思います。」

耐えて信じるものだけが持つ美しい涙を私も学び直したいと思います。自分の刷り込みに気づいたなら、迷わずに自分の方を変えるチャンスだと感謝を信に換えて心の芯を強くしていきたいと思います。

芯の強さこそが優しさであることを忘れないようにいたいと思います。
子どもたちを見守る信を育てていくのが私たちカグヤの強さの源にしていこうと思います。

ものづくりの精神

何かを創るというものには行為があります。人は思っても知っていても、それを実際に自分でやってみなければ創っているとはいいません。何かに取り組む際に、やってみたかどうかというのは大変な勇気が要りますがそれをしてはじめて自己形成といった本来の成長になるように思います。

本田宗一郎にこんな言葉があります。

「人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり聞いたりばかりで一番重要な“試したり”をほとんどしない。」

人は自分を省み、反省するのは見たり聞いたりしたことをよくよくふり返り自分を観て心に聴きます。しかしそれで反省した気になっては、いつまでたっても次を創ったわけではありません。

次を創るというものは、反省して次にどうするかのほうが大事なことだということを教えているのです。失敗は成功の母とも言われる所以は、本来の失敗とは悪いものではなく、その失敗を糧にそれを転じてモチベーションにし次へのトライのキッカケにするというものです。

何でもそうですが、失敗したら倍返し、失敗を恐れずに思い切って前に進むというのも、目標と目的をはき違えないようにするためです。何のためにから離れない人は、どんな時でも目的が何かということを忘れていません。だから、どんな失敗があってもそれが必然であったこと、その失敗は自分に次への改善を指示してくださったとすぐに気持ちは切り替わります。

しかしそれが与えられた目標になってしまい、自分で目的を深めていないとすぐに失敗しただけで納得してそこで考動を終わらせてしまうことがあるのです。何のためにかというのをモノにするというのは、自分の言葉でその志をものにしないといけません。

そしてそれは本質からずブレずにやってみることではじめてものになるのです。試すというのは、志を試すことであり試練というのは、日々に試しては訪れず失敗と成功にどれだけ真剣に向き合って自他一体に取り組んだかということです。

悔しい思いも悲しい思いも、複雑な思いもそのままに、必ず次こそはものにするという覚悟でその事物と一体になるほどに没頭すれば自ずから創ったことになるのです。真の変化とはそこまでしないと変化と一体にはなれません。

本田宗一郎の「試す人になれ!」と言うのも、この試すことが創ることだからです。創ることは失敗することだからです。

創れないと嘆く前に、今が常に変化の試練だと思ってその試練に思い切って飛び込まないからかもしれません。何のためにこれを与えてくださったのかと思えば、諦めて肚を括って何事も試しに遣り切った方が清々しいものです。

試練を沢山経験することで、創造力もアイデアもはじめて磨かれるように思います。試練を試練にしていけるように、ものづくりの根本精神を大切にしたいと思います。

自然の美意識

日本人が発展させてきた技術には常に座右に日本の美意識というものがあります。この美意識というのはものづくりには必要で、世界中どこでも生き方を含め「美」というものを追及したように思います。

この美とは自然を直観で感じて自然を愛でる時に美しいと感じる美のことであろうと思います。

自然の中には無駄が一切ない、完全にそぎ落とされた美があります。

例えば、雲があの様相なのも、霧がかかった靄がかかるのも、雨が降るのも、突風が吹くのも、そこによく観察すると自然の美があります。そこにはやはり一切の無駄がありません。有機的にあらゆるものがつながって何かの役にたっているところに私たちは美を感じているものです。

そしてその全ての役割が切り離されずに調和した状態を合理的であると私は定義します。この合理的であるというのは、その人が繋がっている中で物を観る感性があるということです。

これを私は一石二鳥を一石百鳥、一石万鳥と一石全鳥としていく中で自然美を実感できるように思います。私が無駄が嫌いなのは、この言葉に換えれば一石一鳥ではいけないと思っているからです。

この無駄があるというのは、そこに次第に知識が増えて我が入るから無駄が生まれます。ここでの無駄というものがないというのは、刷り込みがない幼い子どもの同じ状態のことで物事をあるがままに捉えられることをいいます。

知識を得て技術を真似たとしても、そこに我を消し合理的に自然に近づけていこうとすることがなければそれは単に表面だけをなぞったことになってしまいます。本物にしていくには、表面をなぞるのではなく自分のものにしていく必要があります。それは万人に等しく、自然を直に観てそこから自分を通したものになっていなければなりません。

言葉一つであろうとも、物一つであろうとも、人生一つであろうとも、全て自分を通過させていく中で自然の浄化のようなことを自らが削り取って削ぎ落として美しくしていかなければならないのです。

水という性質が、先ほどの例えのように様々な様相に姿を変えてもそれが全体とつながって偉大な合理性を持っていることが観えるのです。それを自分の感性を通してどれだけ今の時代に合ったものをアウトプットするか、それが日本の美意識ではないでしょうか。

子どもが没頭して夢中になるような砂遊びが楽しいのも、水遊びが楽しいのも、そういう合理的なものが観えるからです。大人になれば、自然農も自然養鶏も楽しくて仕方がないのは私もその中に合理性が観えるからです。

私は、日本人の美意識は全てにおいて自然の観察によって得られたものであろうと思います。西洋文明も同じく自然から観察した技術を独自の文化で発展させてきましたが、私達日本人はより一層この美しい島国、新鮮で幼児性を保たれている風土の中でまるで幼子のように自然を観察する力を駆使して西洋文化で築いた技術に新たな息吹を加味したように思います。

この幼児性というものは、魂のことでその魂を維持していくことは日本再生のカギであると私は信じているのです。

いつの時代も私達の観察力というものは、自然を観る事で引き出されていくものです。そのものがそのものの価値でいること、そのものの価値をそのものの価値で活かすことができれば自然になっていきます。この合理性、つまり自然の観察力を磨いていくことは、日々に無駄のないところで全身全霊で生き切ってその生死の美学や美意識を高めていくことと同じです。

常に美しくありたいと願う生き方は、自然でいたいと思うことと同じです。

自然の直観力を磨いて、世界に誇るかんながらの魂を今の時代に還元したいと思います。

烏骨鶏の育児~自然から学ぶ~

自然養鶏を実践しつつ、烏骨鶏の育児を観察して色々なことに気づきました。

もともと烏骨鶏は原種で改良をされていない鶏で、子育ての方法なども昔から変わらずにそのままです。誰が教えたわけでもなく、自然に子育てをしていく姿に本来の自然に沿って生きていくことの尊さを感じました。

観察したことを書くと、烏骨鶏は繁殖期に入る2月、3月の春先に卵を温めだします。夏の餌が豊富な時期にあわせて、また子どもは体温を維持できないので暖かい時期に成長するように季節に合わせて孵します。

卵は雌鳥たちが、数羽で身体を寄せ合って協力して温めます。うちでは5羽の雌がいるので数個の卵を絶妙に転がして交換しあったりして温めていきます。約21日前後の間は何も食べず、何も飲まずに少しも卵から離れずに抱卵し続けます。

外敵から襲われようと身動きせず、危険が自分の身に迫ろうとも命懸けて子どもを育てます。またその子どもを守るために、雄も雌も一致協力して守りつづけます。

そして卵から雛が孵り、小さな烏骨鶏が出てくればその子の世話をする雌鳥が担当します。子どももお母さんが誰かというのを認識していて、いつもぴったりお母さん鶏から離れません。

しかし雛には過酷で、生まれてすぐに死ぬのがほとんどで生き残れるものはそんなに多くありません。今年も5羽孵りましたが、結局は3か月で1羽しか生き残れませんでした。必死に生きているものだけを、本気で生きたものだけを遺そうとする自然の本筋には身を引き締める思いがしました。

そしてその1羽がだいぶ大きくなり、今では親鳥の半分くらいの大きさになりましたが親の後ろをついてまわって見て真似ている姿には微笑ましく感じます。先日も、止まり木に上っているお母さんを追って一生懸命に飛びますが高くて乗れず泣いていたらまたお母さんが降りてくるというように、子どもにあわせて自立できるように少しずつ子どもにあわせながらも自分たち大人の生活に合わせられるように見守っています。

自然界の子育てに、本来の子育てを学ぶことが多く、私達人間もきっとそうやって数々の動物から育児を習ったのではないかと思うのです。自然の中で生きていくということは、教えてもらわなくても活きる方法を知るということなのでしょう。

今の烏骨鶏の子どもの姿に、一生懸命に生き切ること、本気で真摯に試練に立ち向かうこと、そこに自然界の摂理を学べます。自然界の弱肉強食とは力が弱いから死に強いから生き残るのではなく、自然は常に本気でいのちを遣い切るものだけを長くこの世に遺そうとしているように私には観えます。

自然養鶏を実践しながら、観察して気づくのは自然の中の教えそのものでした。

烏骨鶏の育児の方法は、本当に現代の私たちに大切なことを教えてくれます。この体験を、世の中に還元していきたいと思います。

 

覚醒2

昨日は、瑞厳和尚の話を書きましたが日々の中で常にどれだけ誠実であったかということは全ての教えの本筋に中るように思います。

昔、論語の大学に「小人閑居にして不善を為す」とありましたがあの意味を暇になってしまうとつまらない人はすぐに良からぬことをするという意味かと思っていました。しかしよく実践を省みているとそうではないことに気づくのです。

あれは、暇になると全身全霊で真心を尽くすのを怠り、誠実であることをしなくなるという意味ではないかと自明したのです。つまりは、人は頭が良くなるとつい計算してこうだろうとかああだろうとか脳で考えるだけで、心、体、意を一体になるほど命を懸けて何かに取り組もうとはしなくなるものです。

常になるべく動かなくても善い方法、大変ではない方法ばかりを選択しはじめ、自分にとって不利にならないようにとか、自分の都合のことばかりを考えだし、自力を出し切らないのです。言う換えれば真心であることよりも、こんなものでいいだろうといった打算や妥協が入ってくるのです。

つまりやることがないことが続く時、もっとできるのに遣らないときにこそ人は不善になりやすいということなのです。大学にはそれをこう書かれています。

「所謂其の意の誠なるとは、自らを欺くこと無きなり。」

意訳ですがつまり感情が全身全霊であるというのは、自分を欺かないほどに実践しているということなのです。常に真心を尽くそうと、閑になって頭でっかちに計算したりしないよう、自分の心と感情と身体を一体にして考動を尽くしていけば次第に誠実になっていくものです。

誠実であれば、天道や人道の本筋に触れるので次第に善転をはじめて万事ことは運ばれていくものと思います。私の造語ですが「人事を尽くして天事を待つ」というのは、どれだけ今の自分があるがままの一体であったか、つまりは誠実で真心を使ったかということだと私は思うのです。

自分を優先せずに、常に相手のことを自分のことのように思いやる中ではじめて全身全霊は出てくるものです。それを出し切る実践を積み上げることによってのみ、はじめて己事究明も為されるように思います。

やはりどれだけ相手のために使ったかというのは誤魔化せません。常に戒めて、心配する人たちのためにも、自分が大切にしたいものを大切にするためにも、全力を出し切っていきたいと思います。

最後に大学にはこの言葉の後に二回同じ文章でこう続きます。

「故に君子は必ず其の獨を慎むなり。」

一人のときも、二人のときも、何人でいるときであろうとも、自我一にあろうと、素直で誠実であろうと努力するということだと思います。暇になるのは、暇をもてあそぶのは全力であることを忘れてしまうからです。

遣り切る先にこそ真の自我一の覚醒はあると信じます。すぐに人は自発でなければ流されるものですから主体を遣い切れるよう日々全身全霊であるかの自問自答を内省により大事にしていこうと思います。