初心を忘れないこと

昨日、「忘」という字についてのことを書きました。人が人生の目的を忘れてしまえば木偶の坊のようになってしまうと江戸しぐさの中でも紹介されていました。この木偶の坊とはあまり今の時代は使われませんが何かといえば、「木偶」は木彫りの人形、または操り人形のことを指し人に操られるだけで、自分では何もできないことから、ぼうっと立っているだけの役立たずの人をたとえていう言葉です。

初心を忘れて自分で考えなくなっている状態は、心が亡くしているという意味です。

ではなぜ初心をなくすかということです。

人は人生の目的というものを誰しも本来は持っています。遠くを慮れば今どうあるべきかということを思い出せるものです。諺に「遠慮なければ近憂あり」というものがあります。言い換えれば、近くのことを憂うばかりだから遠慮がなくなってくるとも言えます。

あまりにも不安を抱え、心配事ばかりに終始していたら本来何のためにやっているかなど考えなくなっていくものです。人は何かを判断するとき、損得で判断することがあります。自分にメリットがあるかどうかで考えていることがあります。しかし実際は、自分のメリットは誰かのデメリットになりますからいつも自分勝手に判断していたらその陰で辛い思いをしている人や迷惑をかけている人がいたりします。

だからこそ判断基準は、みんなが倖せになるかどうかであったり、周りがよろこんでくださるかどうか といった全体にとって自分が善い存在になろうと判断することで迷惑をかけていることを自覚し感謝を忘れないようにしているものです。

またそうやって決めたことや、自分がどう生きるのかを定めた初心や理念を決めた心のままに維持していくために実践があります。自分が決めたことを自分が忘れたらこれはもう救いようがありません。自分が決めたことだからそれを忘れないようにするのは自分にしかできません。

自分で決めたことを自分が忘れると心が泣いてしまいます。人はそんな時、心を亡くしたことを思い出して涙します。その涙を忘れないようにいつまでも心に決めたままでいることが実践でもあります。実践をするとき、頭では考えられなくても心は安心します。心が安心するのは実践を続けてくれているからです。実践を続けるということは、心が決めたままの自分を自分が維持し続けているということです。

忘れるというのは、単に暗記力が低いということを言うものもありますがあれは頭で終始行われるもののことです。本来の「忘れない」というのは、暗記ではなく心が決めた人生の目的や初心、理念を忘れることがないという意味です。

いくら忘れないでくださいねといったとしても、その人が実践を怠ればすぐに忘れてしまいます。一緒に心を寄り添っていくことの大切さは、「私は忘れていませんよ」といったその人が思い出せるように見守ることです。

自分を低く見て、理想を低くするというのは自分で初心を忘れてしまっているといっても過言ではありません。その人の理想を聴けば誰しも崇高な理念を持っています。その崇高な理念を周りからバカにされようがやり遂げることこそが理念を持つということだと思います。

理念を持ったなら忘れないために実践することだと思います。

吉田松陰に「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」があります。

自分の夢を忘れたり、自分の夢を卑下したり、自分の夢を亡くしていたらせっかくの一度きりの自分の人生を深く味わっていくことができません。一度きりの人生だからこそ、味わい深く悩んで愉しんでいくのが初心の有難さです。

初心を忘れないということは、全ての根本です。

引き続き、実践を増やし高めて継続していきたいと思います。

志実践

人間というものは、全てに「忘れる」という事実があります。この忘れるという状態がどういうことか、それは字に現れています。「忘」の字は、心を亡くすと書きます。「忙しい」という字と同じで、心を亡くしてしまっているということです。

この心が死んでいるという状態が、「忘れる」であり「忙しい」ということです。

昔から修身を実践する人は、如何に日々に自分が初心を忘れないでいられるか、忙しくしないでいられるかということを工夫してきました。どんな状況のときでも、心が死んでいるのでは意味がないとし、必死に自分の心を亡くさないで暮らしてきました。

江戸しぐさの中に、その工夫の一つがあります。

「江戸時代では、「心こそが人間として最も大事な宝ととらえ、忙しさは「心」を「亡」くすこと、心をなくしたら人間ではないただのでくの坊になってしまうと考えました。忙しいときは、「いま書き入れ時で」「ご多用なところをようこそ」など言い換えたようです。」(「暮らしうるおう江戸のしぐさ」朝日新聞社)

常に自分が忙しいと言わないように別の言葉で言い換えていたようです。

これは日常の中でのコミュニケーションの工夫ですが、能の大家、世阿弥の風姿花伝のように「初心忘れるべからず」というように、「初心を死なせてはならぬ」という言い方で自戒をし、常に自分の心を確かめる習慣を持つことを家訓にして芸道を遺すということもありました。

人は事があるたびに「忘れ」「忙しい」と心が死んでしまうのは、それだけ心は目的に生きているからです。何のために生まれてきたのかという理由を知っているからこそ、それだけしか観えていないのです。だからこそ日常の目先のことは頭が処理をしていきますが、そのうちに手段が目的にすげ換わったりしてまた忘れ忙しくなってしまうという悪循環です。

そうならないように工夫をしていくことで、この課題とは対峙していくしかりません。心が常に着いてくる実践を増やしていくことが、感謝でありおもてなしであり、御蔭様であり、もったいないであり、見守ることです。

人間は油断するとすぐに「忘れ」ます。忙しいは気を付けられても、忘れるは気を付けない人が多いように思います。忘れないために日々にどれだけ苦心して精進するかが、一生涯を通してみた時にどれだけ価値があることかが分かります。

一生涯というと、徳川家康の有名な遺訓を思い出します。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

そしてもう一つ、とても感銘を受けたものがありましたので紹介します。

「われ志を得ざるとき 忍耐この二字を守れり。われ志を得んとするとき 大胆不敵この四字を守れり。われ志を得てのち 油断大敵この四字を守れり。」

志を守ることが忙しさと忘れることに処する克己の工夫かもしれません。我を増長させ、油断し、分を弁えず、驕り高ぶり慢心するのは志が試されているとも言えます。試練や逆境の中で人は志を育て、志を果たす時、その人の人生の目的が叶います。

心に志の刃を突き刺すことを「忍」と書きます。

忘れないで忙しくしないためには忍耐力が必要なのかもしれません。子ども達のお手本になるように、日々に自戒して志実践を高めていきたいと思います。

全体最適~自然の理に適う生き方~

人は自分中心の視野と自然中心の視野では、全体の見え方が異なるものです。自分の視野でみて自分にとってメリットがあっても、それは全体から見たらデメリットであることがほとんどです。

例えば、自然農などは手作業で一つ一つ地味に取り組んでいく農法ですが現在の慣行農法と比べればとても時間も労力もかかっているように見えます。しかしよくみると、慣行農法は機械や道具で一気に簡単便利にスピーディに農作業は終わりますがその機械や道具、ガソリンやその他の運搬、エネルギーを考えると全体ではとても多大な労力と時間がかかっています。

自分にとっては機械や道具で簡単に済むことは、果たして全体にとっては善いとは限りません。先ほどの例では、その簡単便利にスピーディにできるもののために膨大なお金を使い、大変なゴミ屑を生み出し、環境にダメージを与えてしまうような状況を与えてしまいます。自然は浄化しますが、浄化の速度を超えてしまえば農地や環境にだけではなく人体にまで害が発生し病気になることで余計に時間と労力を使います。

自分にだけメリットがあると行動することができるのは、それをささえる周りがあるからだと言えます。どれだけ自分が行動するときに、「これは周りにどんな影響を与えるだろうか」と、全体をトータルに考えて行動することで視野は広がるものです。

これをメンターは「全体最適」を目指すと言います。

この全体最適とは、自分にとっては都合がわるいことであったにせよそれが全体を幸せにするのなら全体を優先できるということです。しかし実際は、全体が幸せになった後で自分が幸せになれば丸ごと幸せでみんなにも善くて自分も善い状況になったとも言えます。

すぐに人間は、「自分さえよければ」と考えますがこれが全体最適を破壊し部分最適にしてしまう原因になってしまいます。

運が善い人というのは、自然の理に叶っていますから常に全体最適に合わせて自分を活かしていきます。つまりは全体によって善い実践や行動ができているということです。自分が愉しく仕合わせにみんなが明るくなるように、また先延ばしなどせず、すぐに反省し行動する。教訓を活かし、周りのお手本になり、素直に謙虚に学び直しを続けつつ他人から沢山のことを頼まれる人になる。こういう人はいつも全体最適で生きているのが分かります。この逆を考えれば、部分最適がどうなるかは自明の理です。

そして運の善さというものも、自然の理ですから全体最適である人であればあるほど運は高まりその運に由って物事は自然の見守りと御力添えにより仕上がっていきます。これが運も実力のうちということです。

この自然農の田畑も同じく、全体最適で観ることができなければこの農法の真の善さを自覚することはありません。農薬を使わないから健康だとか、いのちと向き合え心が穏やかになるからだとか、もちろん理由はいくつもあります。

しかし最も大事なのは、自分の生き方や実践がどれだけ全体に善い影響を与えるかということを自覚することが何よりなのです。生き方が変わるというのは、それだけで全体最適に影響を与えます。なぜなら徳の実践も同じく、自然の理に適うことを行い続ければ自然の循環や浄化のサイクルにスパンとはまります。

実際に人間か自然かではないですが、人間都合はやはり部分最適であり自然都合にすることは全体最適です。無理に自分の思いどおりにならないからと、怒り焦りジタバタするよりも自然の流れに従い応じて任せつつ、その中で最善を盡して精進を続ける方が全体最適になっているものです。

そして常に全体を観ることができるというのは「余裕がある」ということです。

余裕とは、自分の生き方が決めます。

そして余裕を持つために理念や初心があるのであり、自分が目的と手段を自分さえよければという我欲で好き勝手に入れ替えたりしないように理念や初心を意識する実践が自分の我を抑え全体最適を優先する己自運転になっていきます。

常に子ども達のために何がもっとも全体最適かを見極めつつ、自然の理に適った実践を増やしていきたいと思います。

自然の和

自然農の畑に出ると猪があちらこちらと土を掘り返していました。柵を設けていたのですが、植物が巻き込み柵を押し倒してそこから侵入したようです。猪とも5年の付き合いですから、大事な場所だけは掘り起こさず手入れをしていない場所を中心に掘り起こしていました。

不思議ですが自然農の畑にあるものたちに敵意は一切感じず、最初に周りの農家さんから聞いていた鳥害も虫害も獣害も多い場所だと言われていたはずがほとんどその害を感じず、むしろ食べるものは足りているだろうか、こちらが遣り過ぎてはないだろうかと心配するばかりで一緒に暮らしている仲間という感じがしています。

生きているのは私たち人間だけではなく、すべての生き物たちは食べ物を食べなければ生きてはいけません。人間は自分たちのことばかりを心配しますが、山に食べ物がなくなってきて下山してきている動物たちの状況を少し慮る気持ちをもってあげたいと感じます。

山の食べ物がなくなってきたのは、動物たちの生息地域が人間により減らされているからです。それに酸性雨が降ることで、土壌が悪化し森の状態も貧しくなってきています。酸性雨が降れば、化学反応を起こし土中のアルミニウムが溶け出します。すると根が弱り樹勢も衰えるという悪循環です。

動物たちが山奥の自分たちの生息領域を超えて出てくるのはそれなりに理由があるからであり、その意味から自分たちの不自然な暮らしを見つめ直す機会にしていけばいいのでしょうが世界的に森林は伐採されこのままでは地球のほとんどが人間だけで埋め尽くされていくのでしょう。

地上には人間以外の生き物たちが棲んでいますから、本来の豊かな生活を取り戻していくことができればきっとそういう生き物たちと穏やかに暮らせる時代がまたくると思います。

そして今は人間が最強のようになっていますが、植物たちはとてもすごいチカラを持っています。今回の柵も植物たちが覆いかぶさり重さで押し倒しました。少しずつのチカラ、広がるチカラ、伸びるチカラ、繁るチカラ、引き出すチカラ、呼び起こすチカラ、縮むチカラ、他にもありますがそのチカラは膨大で無限です。

この生命力溢れる植物たちに私たちは敵うことはありません。

結局は、抑え込んで我が物顔で好き勝手なことをしたとしても永くは続かず必ず共生して折り合いをつける日が訪れます。そうなることを分かっているのなら、生き方と働き方を考え自然に沿った暮らしをしつつ、人間社會も豊かにしていく道を探っていった方がいいように思います。

聖徳太子が目指した政治のように、「和をもって貴しとなす」という穏かに一緒に暮らしていく世の中は普遍的な自然の摂理を語っているように思います。

自然に近づけば近づくほどに、自然の持つ共生の醍醐味を感じます。

今回のことからも、学び直し、尊敬の心を大切に「自然の和」を実践していきたいと思います。

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。

 

お気楽極楽

昨日、「お気楽極楽」について書きましたが少しこの意味を深めてみようと思います。

このお気楽極楽とは、天国というものではありません。よく極楽が天国だと言われますが、天国には地獄もあります。天国とは、自分の願望がなんでもかなっていくのを天国だと思われています。逆に地獄は、自分の思いどおりにならない状態、苦しく辛い状況のときに地獄だと使われます。

それに対してお気楽極楽というのは、心の状況のことを言います。よく西洋の考え方の基準に「正・反・合」という見方があります。正しいではなく反対でもなく、合わさった場所が中庸だという意味です。私はこれに対して「正・反・福」というように正しいでもなく反対でもなく福であることが本来の中庸だと思っています。禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬とも言いますが、お気楽極楽とはそういう何があっても「福」だと考える見方のことを言います。

人は自分の願望がかなったことを天国にし、思いどおりではないことを地獄にしてしまうと常に心は天国と地獄の狭間を行き来し、天国の時は幸せだといい、地獄の時は不幸だと言います。そういう心境はとてもお気楽でも極楽でもありません。

新潟の方言で「じょんのび」というのを聴いたことがあります。これはのんびりとゆったりとするという意味だそうです。漢字で書くと「寿命延」と書きます。心が穏やかで安らか、豊に伸びやかに落ち着いていると寿命も延びていくという意味でしょう。

心配事や不安なことは、自分の中にある天国と地獄という物の見方の方に問題があるように思います。TODOリストを出しては、それが叶ったら幸せで叶わないと不幸という捉え方をするのではなく、足るを知り、頂いている方をよく観ると本当に膨大な恩恵を与えてくださったことに感謝の心に包まれるものです。

物が増えて使い捨ての文化が蔓延することで、「ないものねだり」の刷り込みはますます分厚くなっていきます。今の時代の不幸の元凶は、感謝できなくなってくることのように思います。

人は思った通りにいかなくても、思った以上のことをいただいているものです。ないものをみては焦り、周りに矢印を向けるのではなく、いただいている御恩の大きさをみては自分に矢印を向けて内省することで心は落ち着いてくるものです。

お気楽極楽の境地というものは、安心している心境であるということです。きっと福になる、きっと善いことになると運を信じて今此処に集中することは福を呼び込みます。

福を呼び込むというのは、信じるということであり、私たちはそれを聴くという実践によってその福を広げていきます。日本の祖親には、「アメノウズメ」という先祖がいました。踊りの神様であり、和来の神様です。世の中が暗闇に沈むとき、踊り詠うことで福を呼び込みました。争い世の中が乱れるときもまた、踊り詠うことで福を呼び込みました。

私たちカグヤの理念の原点には、このアメノウズメの実践があります。

引き続き、お気楽極楽を広げて今の刷り込みの社會に真の豊かさと智慧を広げて子どもたちの未来が笑いに満ちるように生き方を精進していきたいと思います。

御気楽極楽~頑張らない~

頭で考えているように完璧にやることとベストを盡すということは異なります。頭で考えてここまでやればいいと思って目指す完璧は先に正解がありそれに近づけようとする努力のことです。そしてベストを盡すというのは、与えられている状況や環境の中でできることを精一杯やるということです。

しかしここに落とし穴があるように思います。

よく「手抜き」というのと「肩の力を抜け」という言葉があります。手抜きというのは手間を省いてしまうことを言います。本来の手間暇を怠りいい加減にやってしまうことを手抜きと言います。それに対して肩の力を抜けというのは、気楽に安心して物事を受け容れ取り組んでいくということです。言い換えれば頑張り過ぎないといも言えます。

これらのことが教えるのは、「頑張る」ということについての本質です。この頑張るという字は、我を張るとも言われます。自分の我を押し通すとき、頑張るというように使われることが多く、よく頑張りますというと無理をしてでも我慢してやりますという使われ方をしているように思います。

しかし本来、自分のやりたかったことをやっているはずが思い通りにいかないことで頑張ろうとし、そのことから無理をしてでもやるという意味になってしまっては頑張ると余計に物事は頑なになり苦しくなる一方です。では「頑張らない」というのは何か、それはありのままを受け容れるという意味ですが実際は目的が達成しなくてもやるだけやってみますという意味に使われています。

これは教育の刷り込みであり、小さい頃から勤勉を教え込まれ無理にやらされてきたり、考えさせずやらされることが沁みつくと「頑張る」という刷り込みにもっていかれてしまうのです。

今の自分をあるがままに受け容れることや、今の状況がもっとも自分に相応しいと受け止めること、そういうポジティブな心の持ち方ができるなら「今此処から学び直していこう」という心境を得ることが出来ます。そしてそうやって少しずつ我を手放すことをやっていくのが頑張らないことになり刷り込みも取り払われます。

頑張るという言葉の中には、もっと我を強くしてやれ、今のままではダメだといったネガティブな意味が潜んでいるように思います。本来、ありのままの自分を受け容れることは自分の長所と欠点を自覚する最上の道です。その上でどのように欠点を補い、どのように長所を伸ばすか、自分本来の持ち味に気づきそれを活かそうとすることではじめて人は本質的に人事を盡していくことができます。

単に勤勉に頑張れば人事を盡しているのではなく、今やっていることのすべては本来自分がやりたかったことだと初心を思い出し自分の天命を信じて今に集中して”お気楽極楽”に実践していくことができるならその人は本質的に人事を盡していると言えると思います。

もちろん大事な局面では「踏ん張る」必要があるときもありますが、決して「頑張る」必要はないように思います。老子に、「柔弱は剛強に克つ」という言葉があります。しなやかで嫋やかな生き方が、堅強で頑固な生き方を凌駕するという意味でしょう。

自然界も同じように、頑張らず受け容れてきたから悠久の年月変化を已まずに生き残り続けることができたように思います。今の自分を信じることは、今までの自分、これからの自分、そして世間様、自然界、全てを見守る存在として信じようとすることです。

今の自分が最も今に相応しいからこそ、今起きる出来事は訪れます。そしてその出来事を一つ一つ感謝でお受けして学び直していくことで人はその人らしく成長していくように思います。自分の決めた道だからこそ与えられた道を選ばないで歩んでいくことができるならその人は素直であり謙虚になっていると言えます。

無理をするのではなく、御気楽になることが何よりも信じるチカラを得て最終的な目的を果たす持続力になっていくと思います。まずは自分自身をお手本になるように日々のブログも、日々の実践もまた、御気楽に愉しんで味わい盡していきたいと思います。

孝行の徳

「孝は百行の本」という諺があります。これは日本の昔からある諺ですが、全ての善行の根本は全て親孝行にあるという意味です。

他にも似ている言葉に、「孝悌は仁を為すの本、孝は百行の人の恒徳となす、孝は万善の本、孝は道の美にして百行の本なり」があります。

どんなに正しいことを言おうが示そうが、親孝行の真心を自覚せずに真に善いことはできないということでしょう。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」があります。これも全ての根本に「孝」があり、その孝行を自らが目覚めることではじめて思いやりや真心の意味を知るということなのでしょう。

今の自分があるのは偉大な無償の愛によって存在できているとも言えます。

今の自分が生きてこの世に存在できているのは、まず両親が自分を産んでいただいたからです。その両親はその先の両親が産んでくださってと遡れば、いのちをつなぎつむいでくださった方々の愛を感じます。そして今の自分があることを思えば、様々な困難や艱難を乗り越えて周りの方々が偉大な恩徳を与えてくださった御蔭様で今の自分が在るのを知ります。

そしてそこに至る入口はこの親孝行のところに存在することに気づきます。

よく考えてみると、人間は生まれてからすぐには一人では何もできません。両親に育てて見守ってくださる時期があり大人になり社會に出ます。その後も、陰ひなたから見守り心配してくださっています。これはまるで先祖や祖神様の真心と同じで、子子孫孫の私たちのことをずっと見守り愛してくださっています。

私たちはその愛の中で、信じるということを学び、そして感謝と報恩を実践していくようになります。そして感謝報恩を実践するとき、それは孝を自覚するに至ります。

与えていただいているものに対する感謝の心に対し、自分もその真心と一体になることを孝行と言います。自分の存在が偉大な見守りによってあることを知り、偉大な見守りを自分も実践していこうとする心、その本は「孝」にあるということです。

吉田松陰の辞世の句に「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」があります。親の気持ちは親になってはじめて気づくものかもしれません。その何に気づくかは「孝」に気づくということです。「祖父母との思い出は家族の智慧である」という言葉も残っています。

どれだけ自分のことを大切に思ってくださっている周りがあるか深く反省し、自分勝手に我儘ばかりを言うのをやめ「孝行の実践」に精進していきたいと思います。子どもとの思い出は次世代の真心につながっています。感謝報恩、孝行していきたいと思います。

百福政治

全ての物事はバランスによって維持されます。これは天候も同じくバランスが崩れることによって嵐が起きたり干ばつが来ることがあります。常に微妙なバランスを維持しているからこそ、中庸であることを維持できます。

これは人の感情や心境なども同じです。感情に呑まれて心境が乱れる人は中庸ではなくなります。するとそこからバランスが崩れ、様々な偏った判断をしてしまいます。中庸にはこうあります。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発して皆節に中る、これを和という。中和を致して、天地位し、万物育つ」

意訳ですが人に喜怒哀楽があってもそれがじっくりと安心安定している、そして発しても常に節度と分を弁えておる。これが和である。その中和があれば天地はバランスを保ちすべての万物は育つといいます。

人は自分が偏ることでバランスを崩して本来の中和から遠ざかるものです。これは他人との関係だけに限らず、健康も含めて、あらゆるものの中にバランス感覚というものが求められます。安心した世の中を創ることも、安心できる人間関係を創ることもこの中庸の徳を学び実践していくことが何よりも理想としたのが孔子であり、政治の実践者です。

かつて中国の鄭の名政治家に「子産」がいました。孔子にして「剛ならず、柔ならず。至高の和の精神」の人物と讃えられた人です。政治を火と水に例え、法と徳のバランスをどのように維持していくのかといった実践の要諦が遺っています。

人はみんな自分勝手ですし、それぞれに欲望も理想もありますから同じように他人が安心して暮らせる政治を行うことは至難の業です。その時、こうやればいいという方法があるのではなく常に中庸を執っていくしかありません。

「ちょうどよい」ところ「塩梅」を確かめることが出来るならその人は中庸の道に入っているとも言えます。まだまだ自分は実践がおぼつかず、偏ってしまった後始末に追われる日々でもあります。

中庸には「偏らざるをこれ中といい、かわらざるをこれ庸という。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり」とあります。時代の中で何が変わっていき、何が変わっていかないのかを維持できるものこそ中庸の実践者です。不易と流行を自覚するには、中庸を学び実践の中で謙虚さと素直さを磨いていくしかないようにも私は思います。

王道というものは、常に小手先の技術を喝破しますから直向きに正直に誠実に千里の道も一歩からと取り組んでいくしかありません。

最後に子産の遺訓です。

「厳ならず、緩ならず。剛ならず、柔ならず。政を布くこと適々、百福ここに集まる」

百福が集まるような生き方と働き方を精進していきたいと思います。

 

自由という場

自由の森の学園祭に参加し、子どもたちのイベントの様子を見ていると自由の入口にいてこれからどのような道を歩んでいくのだろうかと未来に思いを馳せます。見守る保育も同じように子どもの成長を見守り続ける保育ですから将来、あの子どもたちがどのように自らを磨き育ち充実した仕合わせの人生を送るのだろうかと見守っています。

子ども達はそこで一つ一つの大切な人生の智慧や哲学、そして生きるチカラを得ては卒業し自分の人生の道を歩み続けていきます。子どもを信じて見守ることで子どもはどの時代でも自分らしく生きていこうとする道に出会うように思います。そんな時、様々なことを考え、本当の仲間に出会い、美しい思い出を育んでいくのでしょう。

学問の素晴らしさとは、学習する面白さを体験することです。面白い方を選んでいき、愉しいと感じる方を選ぶのは決して楽をすることを覚えることではなく苦しい方を選んでも自分らしくいることを優先する生き方のことです。

今の時代は、競争する仕組みの中で無理やりに勉強をさせる時代ですから楽を選ぶこと良いことだとさえ思われています。しかしもしも競争する仕組みがないのなら、周りは敵やライバルではなく自分を磨き合う「仲間」ですから御互いから学び合い、「助け合う」ことの本義を学習していくことができます。今の時代の「自由」は誰かの教育の刷り込みを取り払う一つの智慧でもあります。

本来、人間は助け合いといった共生とそして貢献を学ぶために学場は有ります。そしてそれはどの学場を卒業してもスケールを拡げて別の学場でまた助け合いと生き切ることを学び続けます。今の自分があるのは、先祖代々の御蔭様であり、多くの人たちがその時代を生き抜いて仕合わせであれたのも人々の御蔭様に由ってです。それを自覚し自分をどうやりきっていくかが学場で学ぶテーマであり、そしてルールです。

本来の教育の価値は、確かに「自由という場」の中でこそ発揮されていくものです。なぜならその時その時をどうやりきって今を生き切るかは常に自分次第であり、正解がない中で人生を歩んでいくのが子ども達ですから安易な正解を教えるよりも、必死に自らの魂を高め磨き続ける周囲の大人の実践と歴史が何よりのお手本になっていきます。

自由に伴う責任は常に自分次第ですから言い訳も何もなく、与えられる御縁を信じて「唯今を遣り切る」ことのみです。遣りきるというのはなんだかちょっと硬い言い方ですが、よりよく言い換えれば「人生はお祭りだ」ということでしょう。人生は自分次第、真に苦楽を楽しんだ者価値だということです。

子ども第一義の理念がこれからどうなっていくのか、長いスパンでこれから先の時代の子ども達を引き続き見守っていきたいと思います。